北海道を中心に古くから分布する「アイヌ民族」への注目度が上昇しています。
この記事ではアイヌ民族の顔立ちなど身体的特徴や入れ墨などの文化的特徴、なぜ差別があるのかの歴史や背景、アイヌ民族の方の国籍、現在の人口、アイヌにルーツを持つ芸能人などについてまとめました。
この記事の目次
- アイヌ民族とは北海道を中心とした日本北部や千島列島に分布する先住民族
- アイヌ民族の身体的な特徴① 顔立ちは彫りが深く美人が多いとされる
- アイヌ民族の身体的な特徴② 日本大百科全書に掲載の身体的特徴の例
- アイヌ民族には女性が入れ墨を施す文化があった
- アイヌ民族に対する差別がなぜあるのか背景や原因
- アイヌ民族の歴史① アイヌ文化の興りと和人の進出とコシャマインの戦い
- アイヌ民族の歴史② シャクシャインの乱が鎮圧され松前藩の支配が強まる
- アイヌ民族の歴史③ 江戸幕府による直接支配(蝦夷地の幕領化)
- アイヌ民族の歴史④ 政府による強行な同化政策と太平洋戦争とその後
- アイヌ民族の文化的特徴① 独自言語であるアイヌ語と口承による文化伝承
- アイヌ民族の文化的特徴② アニミズムに分類される宗教観
- アイヌ民族の人々の国籍はほとんどが日本で一部にロシア国籍の方も
- アイヌ民族の現在の人口
- アイヌ民族にルーツを持つ芸能人
- まとめ
アイヌ民族とは北海道を中心とした日本北部や千島列島に分布する先住民族
「アイヌ民族」とは、北海道を中心とした日本列島北部や千島列島、樺太、カムチャッカ半島などに分布し、独自の言語や文化を持つ民族です。
アイヌ民族は、紀元前145世紀から紀元前10世紀まで日本列島で縄文文化による生活を続けた縄文人の中で、大陸から渡来した弥生人などの影響を受けずに残った系統だと考えられており、法律(アイヌ施策推進法)上でも「日本列島北部周辺、とりわけ北海道の先住民族である」と明記されています。
アイヌ民族は少数民族(日本におけるマイノリティ)という立場や独自の文化も影響し、長く差別や偏見に晒され、大和民族(和人)との不平等な関係性を強いられた歴史があり、現在でもそうした差別が残っているとされて社会問題として取り扱われています。
一方で近年は、アイヌ文化にも焦点を当てたヒット漫画でテレビアニメ化、実写映画化もされた「ゴールデンカムイ」の影響もあってアイヌ民族への好意的な関心が高まっています。
アイヌ民族の身体的な特徴① 顔立ちは彫りが深く美人が多いとされる
アイヌ人の音楽家・安東ウメ子さん(1932年生まれ)の若い頃とされる画像
アイヌ民族の身体的な特徴にも関心が集まっています。
アイヌ民族の顔立ちに築いては、彫りが深くはっきりした顔立ちで男女ともに美人が多いと言われています。
出典:https://shop.hokkaido-np.co.jp/
アイヌ民族の文化や歴史を伝える活動をされているアイヌの女性達にも顔立ちが美人な方が多いとネット上でも話題になっているようです。
アイヌ民族の身体的な特徴② 日本大百科全書に掲載の身体的特徴の例
アイヌ民族の顔立ちや身体的な特徴については、専門家も研究しています。
小学館の百科事典「日本大百科全書 ニッポニカ」の「アイヌ」の項目では、アイヌ研究で知られる人類学者の山口敏氏(2020年死去)の監修によるアイヌの身体的特徴や顔立ちについての詳しい記述が掲載されています。
日本大百科全書に記述されているアイヌ民族の身体的特徴の例を挙げると、「皮膚の色が、黄色みの乏しい明褐色である。」、「体毛が比較的太く、かつ長い。」、「眉稜、鼻骨の隆起が強く、目はくぼみ、上瞼は二重瞼が多く、内眼角ひだは少ない」などがあります。顔立ちについてはやはり、彫りが深い顔立ちとする研究結果が示されていました。
また、アイヌ民族の身長については、男性平均身長について「156.6cm」、「160.1cm」という調査結果が報告されているという事です。
現在の日本人の平均身長と比べると低いのですが、データを取った当時は日本人全体の平均身長も同水準で、アイヌ民族がとりわけ身長が低い特徴を持つという事ではありません。
身長は、1890年代の小金井良精 (よしきよ)による調査では男性平均156.6センチメートル、1950年代の小浜基次 (こはまもとつぐ)(1904―1970)らの調査では同じく160.1センチメートルと報告されており、同時代の和人の平均と大きな差はないが、体の比例についてみると上肢長、下肢長が相対的に長く、胴の長さが比較的短い。
アイヌ民族には女性が入れ墨を施す文化があった
アイヌ民族には成人女性が口の周りに入れ墨(アイヌの言葉で「シヌイェ」と言った)を施すという特徴的な文化があった事も知られています。
アイヌ民族とって入れ墨は精霊信仰に伴う神の象徴とされ大切にされてきたと伝わっています。
アイヌ民族の女性が口元に入れる入れ墨については、髭を模したものとも神聖な蛇の口を模したものとも言われていますがはっきりとした事はわかっていません。
また、アイヌ民族では男性も一部で入れ墨を施す習慣があり、一部地域では、手の水かきの部分に入れ墨を入れると弓の腕が上がり狩りが上手くなるという言い伝えがあったようです。
しかし、本土の和人(大和民族)の支配が強まると、アイヌ民族の入れ墨の文化は奇異なものとされて江戸幕府や明治政府から禁止令が出されました。1871年11月に明治政府(正確には開拓使)はアイヌ民族の女性に入れ墨を禁ずる通達を出していますが、アイヌ民族の女性は入れ墨を施さねば神の怒りを買い結婚もできないとの考えを持っていたため、これを無視して入れ墨を施す方が多かったという事です。
その後、1876年9月に開拓使札幌本府は入れ墨を施したものに懲罰を科すように通達したため、宗教的抑圧に対するアイヌ民族の反発を生みました。
アイヌ民族に対する差別がなぜあるのか背景や原因
アイヌ民族は長い間差別や偏見を受けてきた歴史を持ち、現在も一部でアイヌ民族への差別が存在すると言われており、学校でのいじめや就職や結婚をめぐっての差別、外見や名前を揶揄されたり奇異な目で見られたといった報告がされています。現在も差別される事を恐れて自分がアイヌ民族である事を隠している方もいるという事です。
アイヌ民族は歴史的に、日本列島本土から渡ってきた大和民族(和人)からの抑圧を受けてきました。(例えば、松前藩による支配や明治政府による同化政策など)人種的、文化的な差異による差別だけでなく、こうした歴史的な経緯も影響し、アイヌ民族に対する差別や偏見が長い時間をかけて形成されたとも考えられています。
続けて、アイヌ民族への差別や偏見がそもそもなぜ生まれたのか、背景や原因について見ていきます。
なぜアイヌ民族の差別が生まれたのかの背景と原因① 同化政策による文化の侵害
現在も残るとされるアイヌ民族に対する差別の背景や原因としては、明治政府による同化政策が直接的に関係しているとみられています。
明治政府はアイヌの言語や独自の文化(入れ墨文化やイオマンテと呼ばれる熊送りの祭事など)を野蛮なものであるとして否定し、近代的であるとする日本人としての生活を強要しました。これによりアイヌ民族の独自の文化は当時の日本人の文化より劣っているという考え方が植え付けられ、和人による差別や偏見を生み出したと考えられています。
なぜアイヌ民族の差別が生まれたのかの背景と原因② 支配と搾取による経済格差
明治政府の統治が始まる以前から、アイヌ民族は豊臣政権やその後の江戸幕府の権力を背景とした松前藩の支配により、不平等な交易を強いられたり、資源や労働力を搾取されてきた歴史がありました。
その後の明治政府(開拓使)による統治下においても、それまでアイヌが生活していた土地は一方的に「無主地(持ち主のない土地)」として国有化され、本土から多くの移住者が送り込まれて、彼らによる農業や鉱業、林業、漁業などの経営が開始されました。
道路や港湾、鉄道、その他施設などの設置も進行し、アイヌ民族の生活圏であった豊かな自然環境は瞬く間に破壊され、アイヌの人々は狩猟や漁労をする権利だけでなくその場所すらも奪われていきました。
アイヌの人々は自分達の伝統的な生活を捨てざるを得なくなり、政府主導による開拓に伴う低賃金での労働での生活を余儀なくされました。(労働力の搾取)
こうした一方的な支配と搾取により、和人(本土から渡ってきた大和民族)とアイヌ民族との経済格差が広がり、これも和人によるアイヌ民族への差別を生み出す大きな原因となったと考えられています。
なぜアイヌ民族の差別が生まれたのかの背景と原因③ 北海道旧土人保護法
近代国家を目指した明治政府はアイヌ民族の保護を名目とし、1899年に「北海道旧土人保護法」を施行しました。現在は「土人」は差別表現とされますが、当時は「その土地に根付いた人」、「先祖代々その土地に住む人」という意味合いで使用されていました。
この北海道旧土人保護法により、アイヌの人々は政府から耕作地を給付されましたが、アイヌ民族の伝統的な文化では自然に手を加える事になる耕作を忌避する考えがあり、多くのアイヌの人々は給付された土地を和人に貸し出してしまい、同法施行前よりもかえって困窮するという結果を生みました。
また、北海道旧土人保護法では、アイヌ学校が設立されるようになり、アイヌの子供達は和人の子供達とは別の「アイヌ学校」へ通う事になりました。アイヌ学校ではアイヌの子供達に対する日本語教育が推進され、アイヌ語やアイヌ文化について教えられる事はなく、むしろアイヌ文化が古い時代の否定的なものとして扱われる側面がありました。
この北海道旧土人保護法により、かえってアイヌ民族への差別が強まった側面がありました。
北海道旧土人保護法には、アイヌの人々に対する無償医療の提供や冬季生活物資や食料の給付、農地だけでなく農具も給付するなど実際の保護を目的とする施策が盛り込まれていた側面もありました。しかし、当時の北海道には元々耕作に適した土地が少なく、十分な農業指導も実施されなかったため、歴史的に狩猟や漁労、採取による自給自足を生業としたアイヌの人々の生活を困窮させる事につながりました。この法律は実質的にアイヌの財産を収奪し同化政策を進める根拠とされました。
そして時代が進むにつれて「土人」という言葉が差別表現と見做されるようになり、「北海道旧土人保護法」という名称自体が差別的であるとして問題視され、その内容もすでに死文化していた事もあり1997年に廃止されました。
アイヌ民族の歴史① アイヌ文化の興りと和人の進出とコシャマインの戦い
アイヌ地域に勢力を確立した和人の武士・武田信広(蠣崎信広)の肖像画
アイヌ民族の文化が成立した時期は諸説あり、10世紀〜15世紀頃の間とされています。
アイヌ民族は縄文時代を経て、北海道のオホーツク文化、擦文文化を基盤として独自のアイヌの文化を形成したと考えられています。
その後、北海道(当時は蝦夷が島などと呼ばれていた)が和人の罪人の流刑地とされるようになり、安東氏や南部氏といった東北北部の武家が進出して勢力を伸ばし、アイヌ民族との交易を盛んに行いましたが、一方でアイヌ側と和人側との間で紛争も起こるようになりました。
1457年、渡島半島東部のアイヌの首長・コシャマイン父子を中心とするアイヌが蜂起し、和人側の拠点の12の館(道南十二館)のうち10館を落とすなど緒戦はアイヌ軍側が和人の軍を圧倒しました。
しかし、安東氏の一族の蠣崎信広(武田信広)という武士が活躍し、七重浜(現在の北斗市)にてコシャマイン父子は揃って討ち取られ、アイヌ軍は崩壊し鎮圧されました。
コシャマインの戦いで功を上げた蠣崎信広は1462年に勝山館を築城して北海道(当時は蝦夷が島)における支配権を確立しました。
以後、1世紀近くにわたってアイヌ民族の蜂起がしばしば発生しましたが全て鎮圧され、1550年には蠣崎氏によってアイヌの有力首長らとの間に和平協定(蝦夷商船往還の制)が結ばれ、アイヌ民族と和人との協調の時代となりました。
この時期から後述するシャクシャインの乱までのおよそ120年間は、アイヌ民族と和人とは比較的対等な関係で交易を結んでいました。
アイヌ民族の歴史② シャクシャインの乱が鎮圧され松前藩の支配が強まる
静内町アイヌ民俗資料館のシャクシャイン像
戦国時代末期から江戸初期にかけて、アイヌの地の支配権を維持し続けていた蠣崎氏は豊臣政権と当時はその中枢であった徳川家康の承認を得て、支配地域のアイヌ語での地名「マトマエ」に因んで松前氏と名を改めて蝦夷地(当時の北海道の呼び名)の支配権を認められ松前藩が成立しました。
当時の北海道は米の収穫が期待できなかったため、松前藩は要所に商場という交易所を設けて、アイヌ民族との交易権を家臣達に知行(俸禄)として与えました。
松前藩が家臣に与えた商場は複数のコタン(アイヌの集落)を含んだり、従来のアイヌの勢力圏を無視して設置されたりし、交易での不正や不平等な取引が横行するようになっためアイヌ側の不満が高まり、ついに1669年に「シャクシャインの戦い」と呼ばれる大規模反乱が起こりました。
しかし、和人側はシャクシャインのアイヌ軍に和睦を持ちかけてシャクシャインらリーダー達を酒宴の席におびき寄せて騙し討ちにし、指導者を失ったシャクシャインの蜂起は鎮圧されました。
シャクシャインの反乱を鎮圧した松前藩は実質的に蝦夷地全域の支配権を確立し、アイヌ民族は和人による蝦夷地支配の枠組みの中に組み込まれて従属を余儀なくされました。
これに前後して、松前藩は「場所請負制」を定めて商場の運営を商人に委託し運上金を納めさせる方針に転換しました。商場の運営を任された商人らは利潤を上げるためにアイヌを酷使するようになり、陵辱のかぎりを尽くして梅毒などの伝染病を持ち込む者なども現れました。
和人の商人による強い締め付けと搾取によってアイヌ民族の不満が再び高まり、1789年に国後島のアイヌが蜂起し「クナシリ・メナシの戦い」が起こり、アイヌは和人の拠点を襲撃して和人の労働者を殺害しましたが、松前藩の降伏勧告に応じたため大規模な戦闘には至りませんでした。
この蜂起がアイヌによる和人に対する最後の反抗となり、以降、アイヌ民族は完全に和人の支配下に置かれる事になりました。
アイヌ民族の歴史③ 江戸幕府による直接支配(蝦夷地の幕領化)
出典:https://eainu21.wordpress.com/
18世紀になると、ロシアが南下政策を進めてアイヌ民族との関係を強化するようになりました。
それに危機感を抱いた江戸幕府は蝦夷地の幕領化を進め、アイヌ民族の同化政策を取って、イオマンテなどの祭事や入れ墨、男性の耳輪などアイヌの風俗文化を禁止とし、髪型も月代を剃る(当時の日本人男性の髪型)ように推奨しました。
同時期には、樺太(サハリン島)の領有権をめぐってロシアとの国境問題が勃発。江戸幕府はアイヌは全て日本領民だとし、樺太のアイヌが住む地域を日本の領土だと主張しました。このため、江戸幕府はアイヌ民族を和風化するための同化政策をさらに推し進めました。
この幕府の政策に対してはアイヌ側も反発する勢力と積極的に幕府に協力する勢力に分かれ、アイヌと和人との新たな関係構築が模索された時期に位置付けられます。
アイヌ民族の歴史④ 政府による強行な同化政策と太平洋戦争とその後
明治維新による江戸幕府が終焉し明治政府が成立すると、幕末に進められた同化政策がさらに推進されるようになりました。
それまで異民族が住む地域を指す言葉だった「蝦夷地」という地域名は「北海道」に改称され、日本国の行政地域に正式に組み入れられました。
それに伴い、この地に居住するアイヌ民族は戸籍法の施行に伴って平民籍に編入され日本式姓名で戸籍簿に登載されました。
明治政府は北海道に「開拓使」という官庁を設置し、アイヌ民族に対して一貫して内地の人民(和人)と文化的に同一になる事を要求し、同化政策を押し進めました。
具体的な例として、男性の耳輪や女性の入れ墨文化の禁止、アイヌ民族の伝統的な生業である狩猟や漁猟の禁止などがアイヌ側の反対を押し切る形で執行され、農業の推進や日本語・日本文字の使用が奨励されました。
1899年にアイヌ民族の保護を名目とした「北海道旧土人保護法」が制定され、アイヌ民族の農耕民化および日本式教育が推進され日本国民化(当時の表現では皇国臣民化)が意図されました。
北海道旧土人保護法の施行から17年目の1916年にはアイヌの農業従事者は52パーセントに達しましたが、年間の収入は和人の一般農家の25パーセント程度水準に過ぎず経済の格差は歴然としていました。
こうした状況は太平洋戦争で日本が負けるまでずっと続き、太平洋戦争ではアイヌの人々も「皇軍アイヌ兵」として中国や沖縄の戦場へと送られ多くの犠牲者を出しています。
太平洋戦争後の1946年、「社団法人北海道アイヌ協会」が設立され、アイヌの人々のよりより就労や進学を目指すとともに、アイヌの伝統文化の保存や継承、少数民族としての基本的な権利の確立を目的とした活動が行われています。
アイヌ民族の文化的特徴① 独自言語であるアイヌ語と口承による文化伝承
アイヌ民族は独自の文化を持ちます。
アイヌ民族の文化的特徴として代表的なものを紹介していきます。
アイヌ民族は、日本語とは全く異なる系統の「アイヌ語」を使用していました。アイヌ語は日本語だけでなく、他の隣接言語である「ウィルタ語(ロシアサハリン州などに分布)」、「ニヴフ語(極東ロシア南東部一帯に分布する2〜3の言語)」との系統も証明されておらず、他の言語とは相当古くに分岐したと考えられています。
現在も北海道にはアイヌ語が語源になった地名が数多く残されています。
また、アイヌ民族は文字を持たず、生活の知恵や歴史などは全て、ユーカラと呼ばれる叙事詩などの歌謡やウエペケレと呼ばれる昔話・民話に属する口承文芸によって伝承されました。
アイヌ民族の文化的特徴② アニミズムに分類される宗教観
出典:https://lh3.googleusercontent.com/
アイヌ民族はアニミズム(自然界のあらゆる物に霊魂や精霊が宿るとする考え方)に分類される宗教観を持ちました。
アイヌの人々は動植物はもちろん、山や川、天体などの無生物、火や風、病気などの現象、船や道具など人工物にもそれぞれ精霊(「ラマッ」と呼ぶ)が宿っているという考えました。
こうした精霊は創世神が地上と同時に創造したか神界から降りたとも言われ、人間界に降りる際に動植物の姿を衣としてまとって顕現すると考えていました。そして精霊は持ってきた衣(動物の皮や肉、植物の果実や樹皮など)を脱ぐと再び霊的な存在へと戻って神界へと帰ると考えました。
アイヌの人々は精霊が衣を脱ぐ事は人間の目には「死」として映るが、精霊そのものは滅びる事なく神界と人間界を循環しているとし、この儀礼に基づく儀礼として「神が肉と毛皮をまとって人間界に現れた姿」であるヒグマの子供を集落内で大切に育て、大人に育ったのちに屠殺して神界へと帰す「イオテマンテ」という儀式が行われました。
こうした儀式を行う事で、精霊は再び人間界を訪れ、アイヌは自然からの恵みを得る事ができるという考え方を持っていました。
アイヌ民族の人々の国籍はほとんどが日本で一部にロシア国籍の方も
アイヌ民族の人々の国籍は日本列島内に居住されている方は「日本国籍」です。
単一民族国家(定義は特定の民族のみで滞在人口の95%以上の国)である日本では理解しにくい事かも知れませんが、国籍と民族はそもそも別のもので、多民族国家では複数の民族が同一の国籍を有しているケースは珍しくありません。アイヌ民族の方々の国籍は「日本」で、民族としては「アイヌ」という事です。
また、アイヌ民族の方には一部、ロシア国籍の方もいます。ただし、ロシア政府はアイヌ民族を少数民族の公式リストから外しており、無国籍人、ロシア人、カムチャダール人のいずれかに定義していて、ロシア国籍のアイヌ民族というカテゴリーは公式的な意味では存在していません。
ただし、2010年のロシアの国勢調査では、ロシア国内に住む方で100人ほどが「自らがアイヌである」と回答しており、この人々はロシア国籍のアイヌ民族だと言えます。また、最新の研究では少なくともロシア国内に1000人以上のアイヌ民族にルーツを持つ人が居住していると推測されています。
アイヌ民族の現在の人口
出典:https://www.ainu-assn.or.jp/
アイヌ民族の現在の人口についてははっきりとした数字はわかっていません。
2013年の北海道庁の調査では、北海道内のアイヌ民族の人口は「1万6786人」としています。この調査でのアイヌ民族の定義は「アイヌの血を受け継いでいると思われる人」または「婚姻・養子縁組等によりそれらの方と同一の生計を営んでいる人」と定義している上に本人がアイヌ民族である事を否定している場合は調査の対象にしておらず正確な人口とは言い難いものがあります。
また、2017年の調査では北海道内のアイヌ民族の人口は「約1万3000人」とされていますが、2006年には人口は「2万4000人」とされて大幅に減少しており、この理由は北海道アイヌ協会の会員数の減少や個人情報保護の観点から調査に協力する方が減った事などが挙げられていて、こちらも正確な人口とはかけ離れた数字である可能性が高いです。
さらに、現在までに和人との結婚などにより純粋なアイヌ民族と言える人の人口は減っていると考えられるため、どこまでをアイヌ民族とするかの定義も曖昧なところがあって正確な人口を推定する事も難しい状況となっています。
アイヌ民族にルーツを持つ芸能人
アイヌ民族にルーツを持つ芸能人も活躍されています。
アイヌ民族にルーツを持つ芸能人① 宇梶剛士(俳優)
アイヌ民族にルーツを持つ芸能人として真っ先に名前が上がるのが、大人気俳優の宇梶剛士さんです。
宇梶剛士さんの母親がアイヌ集落出身のアイヌで、現在までアイヌ解放運動で活躍を続ける宇梶静江さんです。
宇梶剛士さんは東京出身で父親も和人ですが、母親の静江さんの方針で幼い頃からアイヌの文化に触れて育っています。
宇梶剛士さんはアイヌ民族にルーツを持つ事を公表していて、アイヌ民族に関わる活動にも積極的に関わっています。
2019年には自らの劇団「劇団PATHOS PACK」でアイヌをテーマにした舞台「永遠ノ矢=トワノアイ」を上演し、脚本や演出も担当されています。
また、2020年4月に北海道白老町に開設されたアイヌ文化振興拠点「ウポポイ 民族共生象徴空間」のPR大使に就任されています。
アイヌ民族にルーツを持つ芸能人② 深月ユリア(俳優、モデル、占い師など)
アイヌの血を引く芸能人としては、現在は主に「命を守るシェルター協会代表理事」としてフリージャーナリストの深月ユリアさんがいます。
深月ユリアさんは、アイヌの父親とポーランドの魔女の家系の母親のハーフです。女優やモデル、ベリーダンサー、スピリチュアルカウンセラー、動物愛護活動家など幅広く活躍されています。
アイヌ民族にルーツを持つ芸能人③ OKI(ミュージシャン)
アイヌ民族にルーツを持つ芸能人にはアイヌの伝統音楽を基調とした音楽活動で活躍されている方が大勢います。
その中でも第一人者といえるのがOKIの名義で活動するアイヌミュージシャンの加納沖さんです。
OKIさんは自身のバンド「OKI DUB AINU BAND」を中心として音楽活動を展開しつつ、アイヌ音楽家の安東ウメ子さんやアイヌの女性ボーカルグループ「MAREWREW(マレウレウ)など、多くのアイヌ系ミュージシャンのプロデュースを手掛けています。
まとめ
今回は、北海道を中心とした日本列島北部とその周辺地域に分布する少数民族(日本の先住民族)「アイヌ民族」についてまとめてみました。
アイヌ民族の特徴は彫りが深衣顔立ちの美人が多い事や毛髪や体毛が多く太い事などが挙げられます。また、成人女性が入れ墨を施す文化風習があった事でもよく知られています。
アイヌ民族は差別されてきた歴史があり、近年はアイヌをテーマの1つとした漫画「ゴールデンカムイ」のヒットもあって、なぜ魅力的な文化を持つアイヌ民族が差別を受けているのかとその背景や歴史に興味を抱く若い方も増えているようです。
アイヌ民族の国籍は主に「日本国籍」であり、少数は「ロシア国籍」の方もいると推測されます。
アイヌ民族の方の現在の人口ははっきりわかっておらず、最新のデータでは「約1万3000人」(北海道内のアイヌ人口)とされているものの、差別などを理由にアイヌである事を公表されていない方も多いとされ、実際の人口はもっと多いと推測されています。
アイヌ民族にルーツを持つ芸能人の方も多く活躍されていて、俳優の宇梶剛士さんがその代表格です。宇梶剛士さんはアイヌに関連する活動にも積極的に関わられています。