藤村操はなぜ自殺?遺書の巌頭之感の内容・現場の華厳滝のその後もまとめ

藤村操とは明治36年に華厳滝に身を投げて自殺した青年です。夏目漱石の教え子で「巌頭之感」という遺書が社会に波紋を呼びました。

 

この記事では藤村操はなぜ自殺したのか、原因や遺書の内容、その後の影響、自殺の名所となった自殺場所についてまとめます。

藤村操とは

 

出典:https://ja.wikipedia.org/

 

藤村操とは明治36年5月22日に栃木県日光市の華厳滝に身を投げて自殺した、旧制一高(東京大学教養学部、千葉大学医学部および薬学部の前身)の青年です。

 

屯田銀行(現在の北海道銀行)の頭取を務めた藤村胖の長男として、明治19年7月20日に北海道で生まれました。

 

叔父は歴史学者の那珂通世、弟はのちに丸ビルや八重洲ビルなどの建設に携わることとなる建築家の藤村朗と、絵に書いたようなエリート一家の出身で、操本人も開成中学から飛び級で京北中学に編入するなど、若くして非凡な才をうかがわる人物でした。

 

 

藤村操の自殺と遺書「巌頭之感」

 

出典:https://ja.wikipedia.org/

 

五年制の旧制中学を一年飛び級して四年で旧制一高を受験、見事に合格した藤村操は、明治36年に旧制一高の一年生となりました。

 

旧制一高の生徒数は一学年200人強、同級生には二十歳をこえる者もいるなか、飛び級で入学した操は同級生のなかで最年少の1人でした。

 

華々しい将来を約束されたように見えた操でしたが、旧制一高に入学した年の5月21日にふらりと失踪したまま帰らぬ人となったとされます。

 

36年明治5月21日、操はいつもどおり学校に行くと言って家を出ていきました。制服と制帽を身に着けていたのですが、学校には登校せずに翌日の22日になっても帰宅しませんでした。

 

心配した母親が操の自室を探すと、机から杉の小箱に入った書き置きが出てきたといいます。書き置きには、自分の遺産の分配や遺贈についての指示が書き留められていたそうです。

 

自殺をうかがわせる書き置きを見た家族は必死に操を行方を探しましたが行方はわからず、22日のうちに栃木県上都賀郡日光町にある小西旅館から操直筆の手紙が届いたことで、華厳の滝にいることがわかったのです。

 

小西旅館から届いたとされる操の手紙は、「世界に益なき身の生きてかひなきを悟りたれば、華厳の滝に投じて身を果たす」と書かれていました。

 

手紙を読んだ家族らは翌23日の始発電車で日光に向かいましたが、すでに操は華厳滝から投身自殺をした後でした。

 

操が身を投げたと思われる華厳滝の落口には、黒いこうもり傘が突き立てられており、傍らにあったミズナラの大木の幹には「巌頭之感(げんとうのかん)」という操の遺書がナイフで彫りつけられていました。

 

なお、実際に操の遺体が発見されたのは滝に身を投げてから42日が過ぎた後だったといいます。

 

 

遺書「巌頭之感」の内容

 

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藤村操の遺書とされる「巌頭之感」の内容は以下のとおりです。

 

悠々たる哉天壌、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て此大をはからむとす。

 

ホレーシヨの哲学竟に何等のオーソリチーを価するものぞ、万有の真相は唯一言にして悉す。

 

曰く『不可解』。我この恨を懐いて煩悶終に死を決するに至る。既に巌頭に立つに及んで胸中何等の不安あるなし。始めて知る、大なる悲観は大なる楽観に一致するを

 

文中に出てくる「ホレーシヨ」というのは、シェイクスピアの『ハムレット』に登場するホレーショという架空の人物のことだと考えられています。ホレーショはハムレットの親友で、ウィッテンベルク大学で哲学を学ぶ学生です。

 

『ハムレット』の第一幕・第五場で、ハムレットがホレーショに向けて「ホレーショよ。天と地の間には君の哲学で夢想されるよりはるかに多くのものがあるのだ」と告げるシーンがあり、操の指す「ホレーショの哲学」とはこのセリフのことだと思われます。

 

原文では「ホレーショの哲学」は「your philosophy」となっており、正しくはホレーショ独自の哲学ではなく、世間一般の考え方という訳し方をするべきだと指摘されており、坪内逍遙はこの箇所を「いわゆる哲学」と訳していました。

 

「巌頭之感」の「ホレーショの哲学」については、操自身が原文で『ハムレット』を読んで誤訳したという見方と、誤訳された『ハムレット』を読んだので「ホレーショの哲学」という原作にはない言葉を遺書に使ったという見方があり、現在も意見が分かれています。

 

ただいずれにしても、操自身は「ホレーショの哲学」を哲学全般を指したものと理解して遺書に使った可能性が高いとも考えられており、続く「曰く『不可解』」という文言から考えても「考えても、学んでも何もわからないのだ(ゆえに死ぬことにした)」という意味合いで用いたと推察されています。

 

 

 

藤村操はなぜ自殺したのか?原因は失恋だった?

 

どこから見ても非の打ち所のないエリート青年の自殺は、世間を大きく騒がせました。とくに、なぜ彼が自死を選んだのかの理由については大衆の好奇心を煽っただけではなく、時代柄、国家の損失としても問題視されたのです。

 

藤村操の自殺原因については、以下の2つの説が主流となっています。

 

  • 哲学的な悩み、厭世からの自殺
  • 失恋

 

遺書「巌頭之感」を読む限りは、前者が自殺原因だったと思われます。しかし、1986年になって操はある年上女性に恋をして、失恋をしたために自殺したという説が浮上したのです。

 

しかも1986年7月1日刊行の朝日新聞で、操が片思いをしていた女性にあてた手紙と書籍という証拠まで取り上げられました。

 

片思いの相手は、のちに東京工大名誉教授の崎川範行さんの母親となる馬島千代さんという女性で、彼女は操の1つ年上でした。

 

当時の馬島千代さんは本郷に住んでおり、麹町の女子学院に人力車に乗って通学する彼女の姿を見て、操が恋をしたというのです。

 

自殺した当日の5月22日に操は馬島千代さんの元を訪れ、恋文と高山樗牛の著作『滝口入道』

を手渡し、本の中の傍線を引いた箇所を読んで欲しいと伝えて去ったといいます。

 

『滝口入道』は、平重盛の部下である斎藤時頼と建礼門院に仕えていた横笛の悲恋の物語で、どうやら操はこの2人の叶わぬ恋に自分を重ねていたようです。

 

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この頃、馬島千代さんには縁談があったため、年下の青年から受け取った恋文については他言無用とされていました。

 

そのため、操が送った恋文と『滝口入道』の存在が明らかになったのは、1982年に馬島千代さんが97歳で亡くなった後だったそうです。

 

このことから操が馬島千代さんに失恋をしたのは確かだと思われますが、このことのみが自殺の原因になったのかについては疑問視する声もあります。

 

なにしろ操が自殺をした明治36年は、翌年に開戦する日露戦争の前夜とも呼べる不安定な時代でした。そのため言いしれない恐怖感や閉塞感を感じて情緒不安定になっていたことも、自殺の一因なのではないか、とも指摘されています。

 

 

 

藤村操が自殺したその後・社会への影響

 

藤村操の自殺と遺書「巌頭之感」は、当時の青年、とりわけ知的レベルの高い文学青年や哲学青年たちにある種の感銘を与えました。

 

操に同調した青年が次々に華厳滝から身を投げ、華厳滝周辺では明治36年の6月18日から11月14日までの僅か5ヶ月の間に合計11名の自殺者と、合計15名の自殺未遂者が出たといいます。

 

このように多くの自殺者、自殺未遂者を出したことを当時の政府は重く受け止め、ほどなくして「巌頭之感」が彫られたミズナラの大木は伐採されました。

 

出典:https://ameblo.jp/

 

現在は藤村家の墓所である青山霊園に操の墓碑が建立され、ここに「巌頭之感」が碑文として彫られています。

 

 

藤村操と夏目漱石

 

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藤村操が自殺した時、旧制一高で教鞭をとっていたのがかの夏目漱石(夏目金之助)です。漱石は操のクラスの英語講師を受け持っており、操の授業態度に手を焼いていたといいます。

 

漱石が授業中、宿題として出していた訳読をするよう操に言ったところ、操は平然と「やって来ていません」「やりたくなかったから、やって来ませんでした」と答えたとの話もあります。漱石は憤慨して「やる気がないのなら、学校に来なくてよろしい」と操を叱りつけたそうです。

 

操が自殺する直前の授業でも漱石は彼を叱っていたそうで、教え子の自殺の報せを聞いてからはショックで鬱病になったも言われています。

 

もちろん操の自殺の原因が漱石にあるわけではなく、責任を感じるようなやり取りがあったわけでもありません。

 

しかし教え子が自死を選んだという事実は漱石に大きな影響を与えており、『草枕』『吾輩は猫である』などの著作にも、操の死を悼んでのものと思われる文章が見られます。

 

なお、このように漱石が操の死を引きずった理由について、文学評論家の江藤淳氏は著書の『漱石とその時代』のなかで、自殺した操が抱えていたものと同じ不安や恐怖を、漱石自身も抱えていたのではないかと指摘しています。

 

 

藤村操と学友

 

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岩波書店の創業者である岩波茂雄氏も、藤村操の死に影響を受けた1人です。岩波茂雄氏は明治36年当時、旧制一高の二学年に在籍しており操とも顔見知りであったといいます。

 

この頃、岩波氏はトルストイの『わが懺悔』を愛読していたそうで、哲学的な思索に没頭する青年でした。そのような哲学青年であった岩波氏にとって操の自死は羨望の対象ですらあったそうです。

 

当時の岩波氏の手記には「藤村君は先駆者である」「死以外に安寧の場がないのを知りながら生きているのは、真面目さが足りないと考えられる」といった文章が綴られていたといいます。

 

ほかにも同じく旧制一高の学生であったドイツ文学者の林久男氏も、操の死と「巌頭之感」に衝撃を受け、雑司ケ谷の小屋に引きこもって出てこなくなったという話があり、操の自殺がどれほど当時のエリート青年たちの共感を呼んだのかがうかがえます。

 

 

藤村操は生きているという偽書が出版される

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明治40年には華厳の滝に身を投げたと藤村操が実はパリで生きていた、という内容の偽書が出版されました。

 

 

偽書のタイトルは『煩悶記』で、作者は藤村操となっていますが実際には岩本無縫なる人物が作成したと見られています。

 

『煩悶記』は出版された直後に発売禁止処分を受けており、発売禁止本の収集家として知られる城市郎氏をして「東の横綱」と言わしめるほど希少価値の高いものとなっているようです。

 

2005年10月に開催された神田古本まつりに『煩悶記』が出展された際には、147万円もの高値がつきました。

 

 

 

藤村操が自殺した場所・華厳滝は自殺の名所になる

 

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藤村操が命を絶った場所である日光の華厳の滝は日本3大名瀑の一つで、高さ97メートルの岸壁を中禅寺湖から流れる水が一気に流れ落ちる豪快な様で知られます。

 

〒321-1661 栃木県日光市中宮祠

 

 

修学旅行で訪れる小中学生も多い観光地ですが、操の自殺がきっかけとなって現在でも華厳の滝は「自殺の名所」と呼ばれています。

 

前述のとおり、操が自殺をした年にすでに華厳の滝で多くの若者が命を絶とうとしたため社会問題となっていました。しかしその後も自殺を目的に滝を訪れる人は跡を絶たず、明治36年から4年の間になんと185名もの人が華厳の滝に身を投げたとされます。

 

このように多くの死者を出したことから、華厳の滝には自殺者の霊がいて、死にたくなくても滝に呼ばれて身を投げてしまう、華厳の滝は呪われた場所だという都市伝説まで囁かれるようになりました。

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現在は自殺や転落を防ぐために華厳の滝の滝口にはフェンスが張られており、簡単に進入することは難しくなっています。また滝口は立ち入り禁止区域に指定されており、監視カメラも設置されています。

 

 

そのため華厳の滝での自殺者は減少しているのですが、2019年に男子高校生がこの場所で自殺をしており、遺体の回収費用が高額になったことが話題となりました。

 

華厳の滝に身を投げた場合、遺体は滝つぼまで落下せず岸壁の途中にひっかかってしまうことがあるのだそうです。

 

この男子高校生の遺体も滝口から60m下の岸壁で発見され、遺体の捜索にはヘリコプターが、そして遺体の回収には大型クレーンが投入されました。

 

また、クレーンの操作のために警察以外に民間の土木作業会社の作業員も遺体の引き上げに参加したため、約300万円もの費用が発生したとされ、この費用は遺族が負担する可能性があると報じられました。

 

 

 

藤村操のまとめ

 

この記事では昭和36年に華厳の滝で自殺を遂げた青年、藤村操と彼の遺した遺書「厳頭之感」について紹介しました。

 

1人の青年が亡くなった後を追うようにして大勢の人が同じ場所から身を投げた、エリート青年らが「厳頭之感」を諳んじて号泣した、哲学を学ぶ学生たちが藤村操を羨望の眼差しで見たなど、藤村操の自死が世間に与えた影響は、現在の価値観から考えると不思議な印象も与えます。

 

操本人の自殺の原因が何だったのかは明らかではありませんが、明治維新を経て急に市井の人々が自由を手にし、そして日露戦争に進んでいく激動の時代のなかで、自分は何者なのか思い悩む若者が多かったのかもしれません。

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