明治に起きた熊害事件「札幌丘珠事件」をご存知ですか。
本記事では事件が起きた場所や詳細な経緯、ヒグマによる被害者や遺体の状況、その後の胃内容物のホルマリン漬け・剥製に纏わる逸話、そして著名人新渡戸稲造との意外な関わりについてお話しします。
この記事の目次
札幌丘珠事件が起こった場所や事件の詳細
出典:https://www.hokkaido-np.co.jp/
「札幌丘珠事件」は今から遡る事144年前、明治11年(1878年)の蝦夷地(現在の北海道)開拓事業の最中起こってしまった、エゾヒグマによる獣害事件です。
事件発生場所は、明治維新後の廃藩置県により『北海道』と名付けられた“石狩国札幌郡札幌村大字丘珠村(現:札幌市東区丘珠町)”であり、事件自体は1月11日から18日の一週間という短期間で収束しています。
21世紀の今でこそ札幌市は人口200万人を超える大都市ですが、当時は開拓地・開拓事業の真っただ中、現在の札幌市中心部でも3000人足らずの開拓民、周辺の農村地帯を加えてもわずか8000人ほどの総人口だったのです。
被害者は死者3名・重傷者2名に、終わり数字だけ見れば他の熊害事件と比較するに足りません。かの有名な「三毛別羆事件」と比べると一部界隈でしか、その事件の詳細は知られていません。犠牲者数も半分以下となります。
ただ札幌丘珠事件はその後の逸話や著名な人物との関わりが深く、熊害事件としても史上4本の指に数えられる事件なのです。
札幌丘珠事件 – 第一の事件 –
1878年1月11日。事件の発端はたった一人の猟師「蛭子勝太郎」が冬眠中のヒグマを不用意に狩ろうとしたことから始まってしまいます。
理不尽に冬眠から目覚めさせられたヒグマは極度の飢餓状態で、逆に漁師の蛭子勝太郎を返り討ちにし第一の犠牲者…そして獲物にしてしまいます。その結果飢えたヒグマが札幌市内全域を駆けずり回るという最悪の事態に陥ります。
冬眠からの中途覚醒、そして極度の飢えという極めて危険な状態のヒグマにいつ襲われるかもしれない開拓民たち。恐怖はピークに達し17日には当時の札幌警察署警察吏であり「森長保」の指揮の元、ヒグマ駆除のための大規模駆除隊が急遽編成される運びになります。
この森長保という人物も何かと著名人との関わりが深く、当時は後の第二代内閣総理大臣『黒田清隆』の部下として北海道開拓に従事していました。また彼の次男である『森勇熊』は遠武家の養子として『遠武勇熊』と名乗り、日本で初めての地下鉄事業である“東京地下鐵道”の初代技師長に就任し、地下鉄事業も礎を築く事になります。
しかしヒグマは平岸村(現材の札幌市豊平区平岸)月寒村(同豊平区月寒)白石村(札幌市白石区)と駆除隊の追撃をかわし市内を縦横無尽に逃走します。駆除隊の必死の追撃を次々と振り切ったヒグマは雁来(札幌市東区東雁来)で猛吹雪の中、遂に逃げ切りに成功します。
この時点では図らずしも本事件のきっかけを作ってしまった猟師・蛭子勝太郎、ただ一人が死者1名に留まります。
札幌丘珠事件 – 第二の事件 –
第二の事件は札幌区北東の「丘珠村」(現材の札幌市東区丘珠町)で起こります。丘珠村は木炭の製造を行う簡素な村で総人口は数百人足らずの小村でした。住民は“拝み小屋”という簡素な居を構えており、現在の様な強固なセキュリティーとは全く無縁です。
この頃、未開の地であった北海道は明治政府から募集された移民、正確には『募民』と呼ばれ【三年間の無償支援】【開拓した土地の無償贈与】そして【北海道への渡航費の無償援助】という高待遇を受けていました。ただ過酷な北の大地に耐え兼ね、本土に帰還する募民が大多数だったそうです。
この頃「丘珠村」の暮民たちは移住から5年経っており、食べるものにも事欠く有様でした。
そんな中、7日間逃げ回り疲労と飢餓がピークに達したヒグマは、丘珠村のとある一軒の家に狙いを付ける事となります。17日の深夜未明ヒグマは遂に行動を起こします。木と藁でできた簡素な“拝み小屋”はヒグマにとって破壊するのは容易いものでした。
第二の犠牲者は明治6年にこの地に入植した募民『堺倉吉』です。倉吉は妻『リツ』との間に待望の子宝である長男『留吉』が産まれたばかり。貧しい生活の中にも一筋の光明が灯りつつありました。
物音に気付いたのは倉吉でした。音の正体を確かめるために蓆でできた戸を開けた瞬間、ヒグマの一撃を受けた倉吉はその場で昏倒します。リツはすぐさま乳飲み子の留吉を抱き抱え逃げ出しますが、ヒグマはそれを見逃しません。リツの頭皮をはぎ取るほど強烈な一撃を加え、彼女は重傷を負い思わず留吉を雪の上に振り落としてしまいます。
何とか他の村民に助けを求めに行ったリツ。助けを得て自宅に戻った彼らが目にしたのは、変わり果てた2人の姿でした。ヒグマは倉吉・留吉を貪り食ったのです。
ヒグマが口にしたのは、その後の解剖から「倉吉の腕」と「留吉の足」「リツの頭皮と髪」と判明しています。
札幌丘珠事件 -解決-
事件の一報を聞いた駆除隊は13日正午、堺家近くに件のヒグマを発見し射殺に成功します。
一度大きな獲物を仕留めたヒグマは、その食料である倉吉と留吉を一度に食べ切る事はできません。その場に穴を掘り獲物を保存し、何日かに分けて食べるという習性を持ちます。駆除隊はその習性を逆手に取り、見事ヒグマを仕留めるのです。
合計三名の犠牲者を出したヒグマはオスの成獣で、その体長は約2mに達していました。これで札幌丘珠事件は一応の終結を見せるのです。
札幌丘珠事件を起こしたヒグマはなぜ人を襲ったのか?
ではなぜヒグマは次々に人間を襲ってしまったのでしょうか。
国内で北海道にしか生息しないヒグマは、北海道の厳冬期になると木の洞や岩陰などで冬眠します。哺乳類であるヒグマの冬眠は他の動物とは異なり“半覚醒状態”、つまり人間で言うとウトウトしている状態の様なものです。
氷点下にまで気温が下がり食料が全くなくなるこの時期は、ヒグマも余計な活動をせずジッとして余計なエネルギー消費を抑えなくてはいけません。体温も3~4℃下がり暖かくなる春に備えるのです。
そこを無理やり起こされたヒグマは再度冬眠に入れず、餌を探し求めるしかなくなります。
今回の事件では最初に猟のためにヒグマを起こしてしまった人間を口にしてしまったことが、惨事の始まりでした。一度人間を口にしたヒグマは人肉の味を覚え、人を食べる事に執着します。この熊害事件では冬眠を急に起こされたヒグマの焦りと怒りを、猟師である蛭子勝太郎が真っ先に受けてしまったことが不幸の始まりでした。
一週間もの間、人を襲わず人的被害が起こらなかったのはある意味奇跡的な出来事です。そもそも当時北海道に住んでいた募民が、札幌に3000人しかいなかった事も被害が最小限になった要因でしょう。
札幌丘珠事件の被害者はどうなったのか
札幌丘珠事件の被害者はヒグマの餌食になった死者3名、重傷者2名となります。
図らずも事件のきっかけを作った猟師「蛭子勝太郎」そして丘珠村在住の堺家当主「堺倉吉」とその愛息子「留吉」の3名が犠牲となり、その妻「トメ」と堺家の使用人であった女性の2名が重傷を負う結果となりました。
その中でも妻のトメは後頭部にヒグマの爪による襲撃を受け、頭皮の大部分をはぎ取られるという重傷を負い、更に夫と息子を失ったショックで長期間の入院生活を余儀なくされてしまいます。
その様子を見た当時の行政側は非常に不憫に思い、後にトメが再婚をするまで当時としてはかなり手厚い支援や扶養を行っています。
その後トメがどのような人生を送ったかは定かではありませんが、明治15年(1882年)当時の丘珠村の見取り図の一部に「坂井リツ」という表記を見つけました。堺の誤表記かは定かではありませんが、事件4年後の丘珠村に戻り日常生活を取り戻していたのかもしれません。
札幌丘珠事件の遺体のその後
事件後、射殺されたヒグマはしばらくの間警察署前でさらし者にされたのち、札幌農学校(現在の北海道大学)に持ち込まれ解剖されます。思わぬ研究材料の持ち込みに学生たちは歓喜し、調子に乗って指導教授の目を盗み熊肉を口にする学生もいたほどです。
しかし、その学生たちは解剖が進むにつれ思わぬ後悔をする羽目となってしまうのです。
以下はクラーク博士の「ボーイズ・ビー・アンビシャス」を後に広めた、札幌農学校一期生の宗教学者「大島正健」の回顧録からの引用です。
元気のよい学生の一人が、いやにふくらんでいる大きな胃袋を力まかせに切り開いたら、ドロドロと流れ出した内容物、赤子の頭巾がある手がある。女房の引きむしられた髪の毛がある。悪臭芬々目を覆う惨状に、学生はワーッと叫んで飛びのいらした。そして、土気色になった熊肉党は脱兎のごとく屋外に飛び出し、口に指を差し込み、目を白黒させてこわごわ味わった熊の肉を吐き出した。
引用:Wikipedia
人を喰らったヒグマの肉を口にした学生は大いに後悔したことでしょう。結果的に編場に残された遺体以外の堺倉吉・留吉の亡骸は全てヒグマの体内から発見されました。
その当時、札幌農学校の学生と言えどヒグマの遺体を直に見るのは珍しく、その肉はことさら興味を惹かれるものでした。蛭子勝太郎の遺体は既に消化され排泄されたようで、既にヒグマの腹の中には見つからなかったという記述もあります。
札幌丘珠事件のヒグマの胃の内容物のホルマリン漬けと剥製は展示されている?
今日では考えられないことですが、驚くことに胃の内容物は全てホルマリン漬けにされ、現在は北海道大学付属植物園に保存されています。また熊害事件を起こしたヒグマの剥製も同園に保管され続けています。この剥製は北海道の歴史上最古の剥製とされています。
ただし当然ですが、倫理的観点から来園者への公開は一切行われておらず、人目につかないように同園2階のバックヤード裏に収納されているそうです。勘違いされがちですが公開されているヒグマの剥製は全くの別個体となります。
胃の内容物、ホルマリン漬けされたものは被害者2名の腕と足、そして妻トメの毛髪部位となります。
札幌丘珠事件に関わった新渡戸稲造と著名人たち
当時、札幌農学校は開設当初で旧5000円札紙幣の肖像画にも使われた『新渡戸稲造』が二期生(当時の一年生)として在籍していました。もしかしたら、将来その名を全国にとどろかす新渡戸稲造も、ヒグマの肉を口にしていたのかもしれません。
新渡戸稲造については「解剖に同席していた」「札幌農学校に在籍していた」という以外に際立つ記録はありません。
もう一人の関わった著名人…というより国家の象徴である人物が『明治天皇』です。
昭和5年に発行された“明治天皇御巡幸記”の一説には「物産課長以下玄関前に奉迎、課長御先導、陳列品を天覧あらせらる。前年丘珠村にて民家に入り人を喰ひし熊の剝製は殊に共奉員等の注目を惹きしと云ふ」という記述があります。
この様に明治天皇が札幌丘珠事件の資料を天覧した事が時の話題となり、本事件の知名度は各方面に知れ渡ることとなります。そして各界の著名人が多数関わっていることも、札幌丘珠事件を一躍有名にした要因とされています。
まとめ
この様に死傷者5名を出した「札幌丘珠事件」は当時の北海道開拓民【募人】に大きなショックを与えました。
それから37年後の1915年(大正4年)には史上最悪の熊害事件「三毛別羆事件」が起こり、大正12年(1923年)には「石狩沼田幌新事件」…そして1970年(昭和45年)には「福岡大学ワンダーフォーゲル部ヒグマ事件」が起こります。
この3つの事件は日本を代表する「三大熊害事件」と呼ばれ、その次に本事件『札幌丘珠事件』が続くというのが世間の認識です。いかに北海道においてヒグマが人間に取り畏怖すべき存在なのか改めて再確認する四大事件でしょう。
ただ、その始まりに『札幌丘珠事件』が位置付けられることを忘れてはいけません。
奇しくも2021年(令和3年)に札幌市東区、札幌丘珠事件とほぼ同地区で男女4名がヒグマに襲われる事件が起こっています。ヒグマが射殺された場所は144年前の事件後に建設された『丘珠空港近郊』でした。
「災害は忘れたころにやってくる」という言葉があります。幸運にもこの事件では犠牲者は一人も出ていません。
しかし明治・大正・昭和・平成の時を超え、令和の時代に再び丘珠の地で熊害事件が発生した…熊害と災害を同一視するのは齟齬があるかも知れませんが、21世紀の現代において同じ場所で再びヒグマによる事件が起こってしまった。
何かしらの因縁を感じずにはいられません。