永山則夫は1968年に連続ピストル射殺事件を起こした連続殺人犯です。獄中で『無知の涙』等の手記や小説を上梓した作家としても知られます。この記事では永山則夫の生い立ちや父、母、兄弟、獄中結婚、死刑執行前の最後の言葉、家族の現在を紹介します。
この記事の目次
永山則夫が起こした連続ピストル射殺事件の概要
1968年10月から11月にかけて、東京、京都、北海道、愛知の4都道府県に渡って拳銃を使用した4件の殺人事件が発生しました。
犯人は当時19歳であった永山則夫で、在日アメリカ海軍・横須賀海軍施設から盗み出した拳銃を使って逮捕されるまでに以下のような時系列で事件を起こしたとされます。
第一の事件・東京事件
1968年10月11日未明、路上生活をしていた永山は寝る場所を探して東京都港区芝公園3号地に位置する赤坂プリンスホテルに侵入し、ホテル警備員の中村公紀さん(当時27歳)を警官と間違えて射殺。
後に相手が死んでも構わない、と思って顔を撃ったことを認めている。
第二の事件・京都事件
東京での事件で逮捕を恐れた永山則夫は、まだ一度も訪れたことのなかった京都へ逃走する。
そして1968年10月14日未明、京都府京都市東山区祇園町北側625番地に位置する八坂神社で神社の警備員・勝見留次郎さん(当時69歳)に不法侵入を怪しまれ、警察へ突き出されそうになったところで勝見さんを射殺。
その直後に警官2名が殺人現場を通りかかって事件が発覚するが、永山は逃げ切ることに成功する。
この事件は東京事件と同一犯の仕業と見られ、連続射殺事件は「広域重要指定108号事件」に指定されて大規模捜査が開始された。
第三の事件・函館事件
衝動的に2件の殺人事件を起こしてしまった永山則夫は、池袋に住む次兄のもとを訪ねて「人を殺した」と告白する。
自首を勧められるが、「どうせ死ぬのなら好きな場所で死にたい」と思い、次兄に金を借りて故郷の網走で自殺しようと北海道へと移動する。
しかし途中で気が変わり、自殺はやめて東京に戻ろうとしたところで旅費がつきてしまい、10月26日深夜に函館市近郊で乗車したタクシーの運転手(当時31歳)を射殺。売上金7,000円などを奪って逃走する。
第四の事件・名古屋事件
北海道を出た永山則夫はいったん横浜に落ち着き、1週間ほど港湾労働者として勤務したが、逮捕を恐れて資金が貯まったところで名古屋へ移動する。
名古屋でも港湾労働者の仕事を探そうとして11月5日の深夜に名古屋市中川区内の路上を名古屋港方面に向かって歩いていたところ、タクシー運転手の伊藤正明さん(当時22歳)に声をかけられる。
言葉を交わすうちに「こいつと話したことが原因で、警察に足取りをつかまれるかもしれない。こいつが警察に情報提供するかもしれない」と疑心暗鬼になって伊藤さんを射殺。売上金など約7,000円を奪って逃走する。
4人を殺害した永山則夫は拳銃を横浜に埋めた後に東京に移動して中野区内にアパートを借り、しばらくはボーイなどをして普通に暮らしていました。
出典:http://terran108.cocolog-nifty.com/
なお、この時に永山則夫が働いていたジャズ喫茶の「ヴィレッジ・ヴァンガード」では、同時期に北野武さんもボーイとして働いていたといいます。
その後、1969年の3月末頃に隠し場所を変えようと考えて拳銃を掘り起こしたところで気持ちが変わり、「もう一度、これを使って窃盗をしよう」と思いつきます。
そして4月7日の深夜に渋谷区千駄ヶ谷に位置する「一橋スクール・オブ・ビジネス」に盗みに入るのですが、警備員に見つかってしまって発砲。
現場からは逃走したものの、明治神宮の森から出てきたところを代々木警察署の署員に職務質問され、逮捕に至りました。
逮捕後は未成年の凶悪殺人犯に死刑を適用すべきか否かが争点になり、永山則夫の裁判で示された「永山基準」は現在でも死刑判決を下す際の参考とされています。
永山則夫の生い立ち① 父と母に捨てられた幼少期
永山則夫は1949年6月27日、北海道網走市呼人(よびと)番外地で、8人兄弟の第7子として誕生しました。
父親は腕の良いリンゴ栽培技師だったといいますが、次第に博打や飲酒に明け暮れるようになっていき、永山が物心つく頃には家にはあまり居着かなくなっていたそうです。
たまに帰宅しても母親が行商で稼いだ生活費や米などを盗んでいくだけで、父が家庭を顧みることはありませんでした。
それでも母親が朝から晩まで働きに出て、永山と19歳も年が離れていた長女のセツが家事を担い、弟妹の世話をすることで一時期はなんとか生活も回っていました。
逮捕後の供述によると幼い頃の記憶はセツが自分を可愛がってくれていたことばかりで、父の記憶も母の記憶も残っていないとのことです。
しかし永山が4歳になった頃、母親代わりだったセツも婚約破棄をされたことや堕胎をしたことが原因となって心を病み、精神病院に入院してしまいます。
さらに長男も交際相手の妊娠が発覚したことから行方不明になり、その後は交際相手との間に産まれた赤ん坊を連れて戻ってきたといいます。ただでさえ生活が苦しかったのにもかかわらず、長男が婚外子を連れてきたことで永山家の生活はより圧迫されました。
続いて家のことを任せていた長女がいなくなったことで生活に窮した母親も、セツが入院した1953年10月に実家のある青森県北津軽郡板柳町に帰るのですが、この時になんと永山を含む4人の子どもを網走に置き去りにしていったのです。
母親が青森に連れて行ったのは次女、四女、五女の女児3人だけで、14歳の三女、12歳の次男、9歳の三男、そして5歳の四男の永山は、真冬には氷点下30度にもなるという網走に無一文で放り出されたのです。
永山則夫の生い立ち② 兄弟や母親からの暴力といじめ
父親にも捨てられ、母親にも去られた永山は、残された兄弟たちとゴミ箱を漁ったり港に落ちた魚を拾い集めたり、クズ拾いで日銭を稼いだりしながら、極貧の日々を過ごしました。
いつ死んでもおかしくないような極限状態のなか、一番幼かった永山は他の兄弟から暴力を振るわれることもあったそうで、とくに次兄からはよく殴られたといいます。
また盗みを働いていると勘違いされて、港で漁師から棒で殴られることもあったそうです。
このような子どもたちだけの生活を見かねた周辺住民が福祉事務所に通報したことで、1954年の春になってやっと兄弟は保護されたのですが、網走の厳しい冬を食べるものもなく4人の子が生き延びたというのは奇跡的だと言えるでしょう。
保護された後の永山は、母親に引き取られて青森県北津軽郡板柳町に越していきました。
しかし、やはり行商で生活費を稼いでいた母親に子育てや家事をする時間はなく、永山はここでもネグレクト状態だったといいます。
一家が暮らす家は町内でも貧しい世帯が多い地区だったとのことで、6畳2間の狭い家に母親、次男、三男、永山、四女の5人で住んでいました。
他の長男、次女、三女はこの頃には逃げるようにして家を出ていき、どこで暮らしているのかもわからない状態だったそうです。
また、周囲の同級生のように津軽弁が話せなかったことから無口になり、それが原因で気味悪がられて小学校でもいじめに遭っていました。
青森に越しても次兄からの殴る蹴るの暴力は続き、時には気絶するまで鳩尾を殴られたといいます。
家庭内暴力は毎日のように行われ、あろうことか「逃げた夫に似ている」「顔も歩き方も、寝相も気に入らない」というとんでもない理由から、母親までもが永山に暴力を振るうようになっていきました。
家にも学校にも居場所がなく、友達もいない永山は小学校2年生の頃に家を飛び出して、唯一自分に優しくしてくれた姉に会いに入院先の網走の病院に行きました。
そして、その後も頻繁に家出を繰り返すようになった息子の対応に追われた母親は、永山が3年生の頃にやっと家出の原因は家庭内暴力にあると思い至ったのか、次兄を叱りつけて自分も虐待をやめたといいます。
永山則夫の生い立ち③ 慕っていた姉への絶望
永山が小学5年生になった頃、入院していた長女のセツが退院して青森にやってきました。セツを慕っていた永山はたいそう喜び、それからしばらくは真面目に学校に通います。
セツは家事だけではなく永山の宿題までしっかり見てくれたといい、この時だけは劣等感を感じずに学校に通えたのだそうです。
しかし、穏やかな日々は長く続きませんでした。ある日、学校から帰宅した永山は、セツが家に近所の男を連れ込んで寝ているところを目撃してショックを受け、大好きだった姉とどう接したら良いのかわからなくなってしまうのです。
セツはこの一回の性交が原因で近所の男の子どもを身籠ってしまい、周囲の反対を押し切って産もうとしました。
ところが妊娠7ヶ月の頃に母に諭されて堕胎を決意。またしても子どもを堕ろすこととなったのです。
これだけでも多感な時期を迎えていた永山にとっては処理しきれないような問題でしたが、なんと母親は小学生の永山に堕胎したセツの子どもを墓に埋めてくるように言いつけたとされます。
永山は墓石のない永山家の墓地に胎児の遺体を運び、埋葬した後に家にあった漬物石を墓石代わりに置いたそうです。
この一連の事柄がきっかけで、唯一心を開いていたセツに対しても永山は「汚い」「ヘドが出そうだ」と嫌悪感を覚えるようになったといいます。
なお、セツは2度目の堕胎の後も心を病んでしまい、奇妙な独り言や薄ら笑いを浮かべることが増えて、後に隣町の病院に入院しています。
永山則夫の生い立ち④ 父親の幻想
出典:https://akasakanoomoide.muragon.com/
同じ頃、長らく行方の知れなかった父親が、どうやって知ったのか青森で暮らす一家のもとを訪れてきました。
突然の訪問に怒り狂った兄が木刀を持ち出して玄関の前で父親を殴打したことから、この日、永山は父と接触しませんでした。
ところが数日後、繁華街で映画の看板を眺めていたところ、後ろから「則夫」と知らない男性に声を掛けられ、「100円やろうか」などと話しかけられるというちょっとした事件が起きます。
おそらく父親と思われるその男は、気味悪がって逃げていった永山を見送ると駅に向かって行き、そのまま立ち去ったそうです。
その後、中学1年生の冬に永山は父親と再開します。父親は岐阜県を走る列車のなかで死亡していたといい、親子の再会は葬儀の席でした。
亡くなった父親はポケットに入った10円玉が全財産だったといい、貧しかった永山が見てもみすぼらしい、汚らしい格好をしていたとのことです。死因は不明ですが、死に顔も口からよだれのようなものが垂れており、まだ少年だった永山にはそれがだらしなく、穢らわしく見えたといいます。
それまでの永山にとって父親は、「100円やろうか」と声をかけてきた気前の良い、親切な男性でした。幼い頃に生き別れていたため、繁華街で再会した時の記憶しかなかったのです。
あの時から抱いていた「父親は本当はお金持ちで優しい人なんだ」という永山のなかの幻想が、貧困の果てに死んだとしか思えない父親の遺体を見た時にガラガラと崩れていきました。
「夢を壊された」「現実はこんなものか」そう思った永山は、次第に「なんで自分は産まれてきたんだろう」「くだらない人生だ」と希死念慮を抱くようになります。そしてこの後、何度も自殺未遂を繰り返すようになったのでした。
永山則夫の生い立ち⑤ 暴力の連鎖
出典:https://premium.photo-ac.com/
地元の公立中学に入った永山は学校にあまり通わず、新聞配達のアルバイトを始めます。新聞配達の仕事は集団就職で家を出た次兄に代わって家計を支えるためでした。
たまに登校していたのを見かけたという当時の校長は「栄養が良くなかったのか背も150cmないくらいで、心配になるほど腕が細かった。大人しい子で、あんな事件を起こすような印象はまったくなかった」と証言しています。
しかし、外では大人しかったという永山も家の中では徐々に変化を見せ始めていました。次兄と三兄が就職で家を出たことで家内で最年長の男性となった永山は、自分がそうされていたように年下の四女と、長兄が預けていった姪に暴力を振るうようになったのです。
次第に暴力はエスカレートし、木刀を使って妹の背中を殴打するように。家のなかで木刀を手放さない息子に恐れをなしてか、母親も娘や孫を庇うことなく、それどころか永山が中学2年生の頃にはまたしても子どもだけを残して北海道に出稼ぎに出ました。
どこに、何をしに行くのか告げずに出ていった母親に対して永山は「また自分を捨てた」と憎しみを募らせたといいます。
永山則夫の生い立ち⑥ 非行
中学3年生の夏に母親が脳卒中で倒れて入院し、家に残れば暴力に晒されると恐れた四女や姪も病院に泊まり込んだことから永山は5ヶ月の間、板柳町の家で一人暮らしをするようになります。
一人暮らしの永山の家はあっという間に繁華街で知り合った不良たちのたまり場となり、大人しかった少年は彼らにそそのかされて窃盗や博打に手を出すようになっていきました。
中学3年生になると集団就職の準備を迫られましたが、お金がなかった永山は近所の呉服屋でワイシャツも盗んでいました。
そして母親が退院してしばらくした日、不良仲間と繁華街を歩いていた永山は、向こうからやってきた母親に見つかるようにわざと万引きをして、逮捕されるという事件を起こします。
母親は息子の犯罪に腹を立て、親子の関係は一層険悪なものになりました。
家で木刀をちらつかせる永山に対して聞こえよがしに「もうじき則夫は就職で出てくから。いなくなったら赤飯炊いて祝おう」などと言っていたそうです。
永山則夫の生い立ち⑦ 上京
1965年3月、集団就職で永山が青森を発つ時、家族は誰一人見送りに来なかったといいます。
就職先は渋谷駅前にあった西村フルーツパーラーで、ここでの勤務態度は真面目としか言いようのないものでした。
朝は誰よりも早く出勤して店の周りを清掃し、贈答品の包装もいち早く学び、接客も丁寧にこなしていたそうです。
また先輩の言いつけもよく聞いていたうえ、小柄で目が大きく可愛らしい外見をしていたことから、職場では非常に可愛がられていたといいます。
早々に勤勉さが評価された永山は、入社3ヶ月目にして先輩社員と2人で新店舗を任されることになります。
西村フルーツパーラーでは岩下志麻さんの接客についたこともあったそうで、著名人の応対を卒なくこなせたことで永山は次第に自信を取り戻していきました。姉と父親の件以降、ずっと頭にあった自殺願望も働くことで薄れていったといいます。
永山則夫の生い立ち⑧ 転落
就職先での人間関係にも助けられ、ようやく居場所を手に入れた永山でしたが、入社から半年後には西村フルーツパーラーを退職してしまいます。
退職の理由は板柳町に出張に出た上司が永山の窃盗の話を耳にしたことであり、過去の窃盗がバレたら解雇される、と恐れたために先走って退職届を提出してしまったのです。
その後の生活は散々でした。1966年9月までの間の永山の足取りは以下のようなものだったといいます。
・荻窪に住む三兄を頼るも追い出される。
・行き場をなくし、デンマークの貨物船に乗り込んで密航を図るが、見つかって日本に送還される。
・栃木に住む長兄に引き取られて板金工として働くが、長兄の態度に嫌気が差して肉屋で窃盗事件を起こし、鑑別所に収監される。
・単身大阪に渡って米屋で働き始めるが、雇い主に言われて戸籍を取り寄せた際、本籍に「網走」の文字があるのを見て「自分は網走刑務所で産まれたのだ、これがバレたらクビになる」と思い込んで逃げるように退職する。
・東京国際空港の喫茶店で働き始めるが、同僚に板柳町出身の人間がいると知り、過去の窃盗がバレることを恐れて退職する。
・アメリカ海軍横須賀基地に盗みに入り、捕まる。横浜少年鑑別所へ収監され、鑑別所内でリンチにあう。
永山則夫の生い立ち⑨ 報われない努力
海軍基地での窃盗から1ヶ月後、永山は横浜家庭裁判所の審判を受けて保護観察処分となりました。この審判には長兄の代わりに次兄が出席し、母親も同席したといいます。
暴力的だった次兄が「困ったことがあったら自分を頼れ」と言ってくれたこと、さらに自分を疎んじていた母親が青森から来てくれたことに心を動かされた永山は一念発起。
牛乳配達店で働いて学費を貯め、1967年4月に17歳で明治大学付属中野高等学校の夜間部へ入学しました。
しかし、入学してしばらくは昼間は真面目に働き夜は学校に励み、演劇部にも所属していたといいますが、保護観察官が牛乳配達店にやってきたことで「職場の人達に前科者だとバレる」と不安になった永山は、またしても仕事を辞めて逃げ出してしまいます。
こうして高校も除籍処分となり、港湾労働者などいくつかの仕事を転々としたものの長続きせず、二度目の密航が見つかって1968年2月には再び保護観察処分となりました。
その後は身元引き受けに来てくれた三兄の励ましを受けて、今度こそはと明治大学付属中野高等学校に再入学し、荻窪の牛乳配達店で働き始めます。
しかし、クラス委員長に選ばれたものの「これは罠だ、クラス委員になった後で誰かが窃盗の前科をバラして笑いものにされるに違いない」と疑心暗鬼になった永山は不登校になり、ついには働いていた牛乳店の売上を盗んで板柳町の実家に帰ってしまったのです。
しばらく実家に引きこもった後、母親に借金をして再度上京して1968年6月から横浜港で港湾労働者として働き出したといいます。
ところが今度は長兄に「入院費用を貸してくれ」という嘘をつかれ、給料を騙し取られるという事件が発生。この頃、詐欺師をしていたという永山の長兄は逃亡費用のために弟に金を要求したのです。
そうとも知らずに港湾労働者の給料の大半を兄に渡してしまった永山は、8月に体調不良で仕事を続けられなくなり、寝泊まりしていた次兄の家からも追い出されてしまいます。
こうしてなんとか這い上がろうとした努力も虚しく、連続射殺事件を起こすまでは路上生活者として暮らしていたとされます。
永山則夫の死刑をめぐる争い
殺人や強盗殺人など5つの罪で起訴された永山の裁判は、死刑判決が確定するまでに21年もの時間を要しました。
これは主に複雑な生育歴から人を信じられなくなっていた永山が、頻繁に弁護団の辞任や解任を行なったためです。
逮捕直後の永山は自暴自棄になっており、鑑別所内で自殺を図って鎮静剤を投与されるなど問題を起こしていたといいます。
第一審の公判でもほとんど口を聞かず、犯行を悔やむ様子や被害者への懺悔の言葉なども一切ありませんでした。
しかし、1971年に獄中で綴った手記『無知の涙』が刊行されてベストセラーになり、社会的な注目を集めると頑なであった永山も変化を見せます。
永山の悲惨な生い立ちと、中学相当の教育しか受けていないとは思えない知性に心を動かされた支援者が集まり、精神鑑定を受けるよう説得するなど永山に働きかけたのです。
そして一審と控訴審の間に函館事件の被害者の妻が妊娠中であったことを知った永山は、後悔の念にかられて被害者遺族に著書の印税を慰謝料として渡そうと試みます。
人が変わったように罪に向き合う永山の姿に、控訴審では一審の死刑判決が覆されて無期懲役が言い渡されました。
しかし、この量刑を検察や世論がよしとするはずもなく、上告を受けた最高裁判所は高等裁判所に控訴審のやり直しを命じます。そして差し戻し控訴審で死刑が確定しました。
永山は自分が得た印税を被害者に送るだけではなく、極貧生活のなかで教育を受けられないペルーの子どもたちのための基金にも使っていたといいます。
獄中で何冊も本を書き上げ、教育を受けられなかったことが原因で道を外す子どもがいないようにと基金に印税を送り続ける永山の姿を見ていた刑務官らは「死刑判決が出ても、永山の死刑は執行されないのではないか」と考えていたそうです。
永山則夫の死刑執行と最後の言葉
永山則夫の死刑は1997年8月1日、東京拘置所にて行われました。享年48歳。この時期に永山の死刑が執行された理由は、1997年2月に酒鬼薔薇事件が発生したからではないかと指摘されています。
酒鬼薔薇事件の犯人もまた、凶悪殺人犯ではありましたが未成年者でした。そこで検察は「未成年者であっても凶悪殺人犯は死刑にする」という見せしめのために、永山の死刑を決行したのではないかと考えられているのです。
事実、当時の東京拘置所には永山よりも長い期間収監されている死刑囚が30人はいたといいます。
しかし、酒鬼薔薇事件の犯人が未成年者だと発覚するやいなやその30人を追い抜いて唐突に永山の死刑執行が決まったのです。
しかも永山と交流のあった元刑務官で作家の坂本敏夫氏は、「本来であれば、身元引受人に死刑執行後の遺体を見せてから火葬をするものだが、永山則夫はいきなり遺骨の状態で引受人の遠藤弁護士に渡されている。遺体は見せられないような状態だったのではないか」と指摘。
死刑は以下のようにだまし討ちのような形で行われ、永山は自分が刑場にいることもわからないような状態で絶命したのではないか、と仮説を立てました。
永山は死刑場に連行されたときは既に意識を失っていたのではないか、連行時に暴れた永山は制圧という名の暴行によって死刑執行後の遺体を見せられないほど傷つけられ、クロロホルムといった麻酔薬を使用されたのではないかと私は想像しました。永山は独居舎房を出た渡り廊下から職員に担がれて死刑場に運ばれたのです。
その後、永山の死刑執行に異を唱え続けていたという刑務官らが匿名で送ってきた手紙により、坂本敏夫氏の仮説は概ね当たっていたことが明らかになったといいます。
このような最期でしたから、永山則夫は死刑執行に際して言葉を残すことさえできませんでした。
永山則夫は獄中結婚をしていた
永山則夫は獄中で新垣和美さんという当時25歳の女性と獄中結婚、そして獄中離婚をしています。
2人の馴れ初めは永山の手記『無知の涙』を読んだ和美さんが、「ミミ」というペンネームで1980年の4月に収監中の永山宛に手紙を送ったことでした。
この頃、和美さんは単身アメリカに渡って生活をしていたといい、永山の本を読んで以下のような感想を抱いたといいます。
自身のかつて「無国籍」だった事情などから、すさんでいた心が本を読み、いやされた。そして永山に手紙を書く。「この遠き国より、永山さんのことを識るひとりの女人が在ることを永山さんのこころのスミに置いて欲しいのです」。
この手紙がきっかけで2人は文通を開始。永山は和美さんの優しく温かい文章に触れて次第に心を開くようになり、54通の書簡のやり取りをしたところで和美さんが日本に戻って永山に面会に訪れました。
そして永山と和美さんは手をつなぐこともできない関係のまま、籍を入れて夫婦となります。
和美さんは「裁判は思想闘争」「死刑になっても構わない」という永山に、「あなたが死んだら、私も死ぬ」と毅然と言い放ち、連続射殺事件の4人の被害者の遺族を訪れて謝罪をしてまわったそうです。
これだけ自分のことを真摯に考えてくれる和美さんに心を動かされた永山は、「ミミは初めて愛を教えてくれた人」と手紙に書き残していました。
時には手紙のなかで喧嘩をし、人工授精で子孫を残す話までしていたという2人。しかし、1983年に最高裁判所が東京高裁の無期懲役の判決を破棄してから永山が荒れ、和美さんの言葉にも耳を貸さなくなったとされます。
面会に行くたびに「お前はCIAのスパイだ。俺を騙すために近づいてきたのだ」等の雑言を浴びせられ、疲れ切ってしまった和美さんは「心が通じなくなってしまった」という理由で、1987年に離婚の道を選びました。
和美さんがいたからこそ生きたい、やり直したいと思えた永山にとって、無期懲役判決の取り消しは絶望以外の何物でもなかったのでしょう。
なお離婚が成立した後でしたが、死刑後に火葬された永山の遺骨は、本人の希望どおりに和美さんの手によってオホーツク海に散骨されたといいます。
永山則夫の家族の現在
永山則夫の家族のその後については、あまり良い話がありません。裁判で永山は「同じ環境で育った兄弟は立派に成長しているのだから、生育歴を理由に死刑回避はできない」と断じられていますが、まったくそんなことはなかったのです。
まず、長兄は永山が逮捕される前に詐欺罪で逮捕されていました。刑務所を出てからは消息不明となっており、実家に預けた娘も引き取りに行っていません。
次兄は定職にも就かず、賭博に明け暮れて42歳で死亡。三番目の姉は未婚のまま子どもを産み、子を乳児院に預けた後に失踪。妹は一番目の姉同様に心を病んで入院し、一緒に育った長兄の娘(姪)も中学卒業後は家を出たきり行方不明となっていました。
このように行方不明者が多いことから、永山の兄弟が現在どこで何をしているのかは不明です。
永山則夫の縁故者のなかで唯一近況がわかっているのが、元妻の「ミミ」こと和美さんです。和美さんは2009年10月11日にNHKで放送された『死刑囚 永山則夫〜獄中28年間の対話〜』に出演されていました。
そして54歳になった今、元夫のことをどう思っているのかや、結婚していた頃の心境を淡々と語っていました。
永山則夫についてのまとめ
今回は1968年に連続射殺事件を起こし、未成年者ながら死刑となった永山則夫の生い立ちや家族関係、死刑執行についての疑惑、兄弟や獄中結婚した元妻のその後について紹介しました。
昨今、子どもの自己肯定感を養うことが大切と言われるようになってきましたが、永山則夫はまさに自己肯定感の低さから道を踏み外してしまった青年だと言えます。
永山のみならず、実は暴力を振るっていた次兄も学生時代は成績優秀で賢いと評判の子どもだったそうです。しかし家が貧しく集団就職以外の進路が選べなかったことから、鬱憤ばらしに弟を殴っていたのではないかと指摘されています。
永山則夫が現代に残した影響については永山基準ばかりが注目されがちですが、永山本人が望んだように『無知の涙』を流す子どもをなくすためにはどうすればよいのか、ということも今一度考える必要があるのではないでしょうか。