宮崎知子は1980年に発生した富山・長野連続女性誘拐殺人事件、通称「赤いフェアレディZ事件」の犯人で、死刑が確定しています。この記事では宮崎知子が事件を起こした背景や生い立ち・経歴、家族、死刑囚としての現在について紹介します。
この記事の目次
- 宮崎知子と富山・長野連続女性誘拐殺人事件の概要
- 宮崎知子の生い立ち・経歴① 家族との関係
- 宮崎知子の生い立ち・経歴② IQ138のギフテッドだった
- 宮崎知子の生い立ち・経歴③ 上京と結婚・離婚
- 宮崎知子の生い立ち・経歴④ 北野宏との出会い
- 宮崎知子の生い立ち・経歴⑤ 起業と失敗
- 宮崎知子の生い立ち・経歴⑥ 保険金殺人を計画
- 宮崎知子の生い立ち・経歴⑦ フェアレディZ購入と誘拐計画
- 宮崎知子が起こした富山・長野連続女性誘拐殺人事件の詳細① 富山事件
- 宮崎知子が起こした富山・長野連続女性誘拐殺人事件の詳細② 長野事件
- 宮崎知子の逮捕
- 宮崎知子の判決
- 宮崎知子の現在・死刑囚と養子縁組をして苗字が変わっている?
- 宮崎知子と富山・長野連続女性誘拐殺人事件についてのまとめ
宮崎知子と富山・長野連続女性誘拐殺人事件の概要
1980年の2月から3月にかけて、富山・長野の両県で若い女性2名が身代金目的で誘拐され、殺害されるという事件が発生しました。
犯人は当時34歳の宮崎知子という女で、宮崎は1980年2月23日に富山市で女子高校生を誘拐して殺害し、翌3月の5日には長野市内で会社員の女性を誘拐し、同様に殺害して遺体を山中に遺棄していました。
さらに道崎は会社員の女性を殺害した後に遺族のもとに電話をかけ、彼女が生きているように装って身代金を要求するという悪質極まりない行動に出ていたのです。
宮崎知子は、愛人の北野宏とともに会社経営をしていたものの事業が立ち行かずに数千万円もの借金を抱えており、これが犯行を計画した動機とされています。
身代金を要求する電話の声紋や目撃情報などがきっかけとなって3月中に宮崎知子は逮捕され、愛人の北野宏も共同正犯として逮捕されました。
しかし後に北野は事件に関与しておらず冤罪であり、事件は宮崎の単独で行ったことが判明。宮崎知子のみ、1998年に死刑が言い渡されています。
事件は被害者誘拐時に宮崎知子が乗っていた車が赤いフェアレディZであったことにちなみ、「赤いフェアレディZ事件」「赤いスポーツカー事件」と呼ばれることもあります。
宮崎知子の生い立ち・経歴① 家族との関係
宮崎知子は1946年2月14日に富山県月岡村で生まれました。
家庭環境は複雑で、父親と母親は籍を入れておらず、一緒に暮らしていたものの内縁関係であり、父親は宮崎を認知していませんでした。
父親には別居中の正妻がいたうえ、正妻との間にも子どもがいたため躊躇したのでしょう。
なお、父親は宮崎をとても可愛がっていたといい、中学生の時に母親に請われて宮崎を認知しています。
また、宮崎知子には2人の兄姉がいますが、彼らは母親と死別した元夫との間に生まれた子どもたちで、宮崎1人だけ父親が違いました。つまり、兄弟の中で宮崎だけが血のつながった両親とともに暮らしていたことになります。
実家は富山市立月岡小学校の前にあり、父親は自転車店を経営し、母親は店の一角で傘の修理を行っていました。
しかし、客商売をしていながら両親ともに近所づきあいをほとんどしていなかったため、店には客が寄り付かず、家計は楽ではなかったといいます。
宮崎知子の生い立ち・経歴② IQ138のギフテッドだった
宮崎知子は非常に賢い子どもだったといい、逮捕後の鑑定でIQが138あったことが判明しています。
近年、高い知的能力を持つ人々を指す「ギフテッド」という言葉が広く知られるようになりましたが、一般的にギフテッドはIQ130以上の人を指すことから、宮崎知子もギフテッドだったといえます。
そのため、宮崎は月岡小学校に入学すると抜きんでた賢さを見せるようになるのですが、内向的な性格のうえ、「父の実家は大金持ちだ」と周囲に話すなどの虚言癖があったことから、友人はできづらかったそうです。
学区内の公立小学校、中学校を卒業した宮崎は県立富山女子高校(現在の富山いずみ高校)の普通科に進学して水泳部に所属。
大学入学を目指して3年時には進学クラスに進み、東京経済大学に合格しますが親に東京での1人暮らしを反対され、また学費が払えないとの理由から進学を断念します。
もともと宮崎は実家を離れて1人で暮らしたいという考えもあって、関東の大学を受験したとのことですが、結局親に反対されて富山市内にある保険会社で事務員として勤務することになりました。
宮崎知子の生い立ち・経歴③ 上京と結婚・離婚
大学進学の夢は断たれたものの、東京への憧れを捨てきれなかった宮崎知子は、1965年秋に地元での仕事を辞めて埼玉県内で暮らす姉を頼って上京します。
上京してからは化粧品会社で美容部員として働くようになり、高校時代まで地味だった宮崎は派手な化粧をしてミニスカートを好むように一変しました。
そして1969年、23歳で自動車のディーラーをしていた男性と妊娠を機に結婚。同年の12月には長男が誕生しました。
結婚後は夫の仕事の都合で富山市や金沢市など住居を転々とする生活が続き、そのうちに宮崎が卵巣嚢腫に罹っていることが明らかになり、卵巣摘出の手術を受けることとなります。
さらに術後、緑膿菌感染から腹膜炎と横隔膜下膿瘍を発症し、宮崎はまだ2歳の長男を抱えて転院と再出術をすることに。
一方、宮崎の入院、手術のために別居していた夫は妻の闘病中に浮気を繰り返していたことが発覚。1974年8月にはこれが原因で離婚に至ります。
夫と離婚した宮崎知子は、月々養育費5万円を受け取る約束をして長男を引き取り、実家に戻りました。
離婚後は富山市内の電気店で働き始めましたが、腸癒着性腹壁ヘルニアで手術を受けることになるなど災難が続き、暮らしに不安を覚えたのか離婚した年の12月には結婚紹介所に登録して再婚相手を探し始めます。
宮崎は富山・長野連続女性誘拐殺人事件を起こした時に交際していた北野宏と1977年に知り合っているのですが、それまでに間に13人の男性と結婚紹介所を通してお見合いをしていました。
宮崎知子の生い立ち・経歴④ 北野宏との出会い
1975年に父親が他界。宮崎は母親の収入と元夫から支払われる養育費をたよりに、母親と息子の3人で暮らすこととなります。
この頃、宮崎は余暇に推理小説を多く読んでおり、その中から身代金の受け取り方法や誘拐の手口などの知識をつけていきました。
そして1977年9月15日、知人女性の紹介で富山・長野連続女性誘拐殺人事件を起こす原因ともなった北野宏と知り合うのです。
父が他界した直後は家族3人で細々と暮らしていた宮崎でしたが、じきに生活は苦しくなり、次第に売春で得た金と生活保護費で生計を立てるようになっていました。
当初は再婚を目的に結婚相談所で紹介された男性とのお見合いをしていたものの、相談所に登録している男性のうち、一定数が買春目的であると知ったことも原因となって、宮崎のなかで売春へのハードルが下がったとも言われています。
北野宏も、そうした売春の客として知人から紹介された1人でした。ところが、宮崎はすぐに北野に夢中になり、2人は交際を始めたといいます。
上でも触れましたが、北野は宮崎と知り合った時点ですでに結婚していたうえ、妻との間に男の子も誕生していました。しかし、北野は既婚者であることを隠して宮崎との関係を続けました。
また、宮崎知子は北野宏に対して以下のような「自由恋愛の4つの条件」というものを提示していたといい、これが既婚者にとっては好条件だったのではないかとも言われています。
宮崎知子が提示した「自由恋愛の4つの条件」
・お互いのことを詮索しない
・私生活に干渉しない
・それぞれの行動は自由
・お互いの立場を尊重する
宮崎は息子のことを溺愛していたといいますから、子どもとのことに干渉されないため、売春の仕事に口を出されないためにこのような条件を出したのかもしれません。
北野宏が妻帯者であることは間もなくして宮崎も知るところになるのですが、その後も2人は逢瀬を重ねていったといきました。
宮崎知子の生い立ち・経歴⑤ 起業と失敗
北野宏と深い関係になった宮崎知子は、「冷蔵庫販売の会社を一緒に立ち上げないか」と持ち掛けました。
美容部員時代に話術を培ったという宮崎は、生来の頭の良さも手伝ってか簡単に北野を言いくるめて一緒に仕事をはじめましたが、思い付きで始めたビジネスがうまくいくはずもなく、事業は失敗。
それでもめげずに、1978年2月には2人で100万円ずつ出資しあって「北陸企画」という贈答品販売の会社を立ち上げます。
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事務所として富山市清水町二丁目1番1号に事務所を借り、最初は会社の利益も出ていたそうです。
贈答品販売といっても大口の顧客に高価な商品を卸していたわけではなく、飲食店やスナックなどで配る店の名前が印字された100円ライターを販売していたといいます。
そのため、短期間に大幅な収益アップが望めるような派手さはなく、次第に宮崎の仕事への熱意が薄れていき、北陸企画の経営は傾いていきました。
北野宏も電気計装業を続けながら北陸企画の仕事に協力していましたが、もともと腎臓病を患っていたこともあり、1979年にはダブルワークが原因で身体を壊してしまいます。
すると宮崎は実在する議員の名刺を偽造して政治資金として金銭を騙し取るという犯罪行為に手を出すようになり、詐取した土地の転売を目論むようになりました。
結局、転売に協力してもらう予定であった男が逮捕されてしまい、この話は保留になります。
それでも宮崎は北野宏に「協力者が出所してくればあなたも大金が手に入るから」などと調子の良いことを言って、「土地が売れたらお金を返すから、車(フェアレディZ)の購入費用を立て替えてほしい」と頼み込んで、約250万円を借り入れました。
北野は友人や家族に借金をして、この金を用立てたといいます。しかし、宮崎知子が言ったような大金が手に入ることはなく、やがて起業の失敗などでできた借金は数千万規模に膨れ上がっていきました。
宮崎知子の生い立ち・経歴⑥ 保険金殺人を計画
こうして金に困った宮崎知子が思いついたのが、保険金殺人でした。
1978年10月、知人の保険外交員から加入希望者を紹介してほしいと懇願されていた宮崎は、結婚相談所を通じて知り合った男性に相談を持ち掛け、4000万円の生命保険に加入してもらっていました。
この保険金はなんと被保険者死亡時の受取人が、他人の宮崎知子となっていたそうです。
借金で首が回らなくなった宮崎はこの保険のことを思い出し、男性が死ねば自分に大金が転がり込むことに気づきました。
そして男性を殺害して保険金を手に入れようと考え、すでに保険を解約している場合に備えて、男性を言いくるめて1979年3月に別の保険(死亡時5000万円)に加入させました。
男性に保険金をかけた宮崎は、1979年5月に富山県中新川郡上市町の山中で男性を転落死させようと試みましたが、適当な場所が見つからずに断念。
次いで同年8月に「乱交パーティをする」と偽って男性を富山市岩瀬浜付近の海岸におびき出し、用意していたクロロホルムを嗅がせたうえで海に落とそうとしました。
しかし、クロロホルムが効かずにまたしても計画は失敗に終わり、宮崎は保険金殺人による一攫千金を諦めることとなりました。
宮崎知子の生い立ち・経歴⑦ フェアレディZ購入と誘拐計画
保険金殺人に失敗した宮崎知子が次に金を工面する手段として思いついたのが、身代金目的の誘拐でした。
誘拐を計画するにあたり、宮崎は以下の2点をあらかじめ決めたといいます。
・幼児はターゲットにしない
・誘拐した相手には絶対に顔を見られてしまうため、被害者を生きて帰さない
前者は自分にも子どもがいることからの情けなのでしょうが、計画時から被害者を殺害する予定だったという冷酷さには恐怖を感じます。
こうして1980年の年初には誘拐殺人の計画を立てた宮崎は、1979年の夏に購入した赤いフェアレディZ(名義人は北野宏だった)に乗って石川県金沢市や富山市内を徘徊しながら、下見を重ねました。
1980年2月の頭には、事情をまったく知らない北野宏にフェアレディZを運転させて、4日間にわたって金沢市内でターゲットを物色していたそうですが、この時はちょうどよい相手が見つからずに誘拐を断念しています。
また、2月11日と19日には自分でフェアレディZを運転して20歳代の男性を車に乗せることに成功したものの、決心がつかずに実行を諦めたとされます。
このまま誘拐殺人などという凶行を思いとどまればよかったのですが、借金の返済期限が迫っていたことから宮崎は「やはり誘拐以外に大金をつくる手段はない」と考え、ターゲットを若い女性にしようと画策し始めました。
宮崎知子が起こした富山・長野連続女性誘拐殺人事件の詳細① 富山事件
富山・長野連続女性誘拐殺人事件の最初の被害者になったのは、長岡陽子さんという県立八尾高校に通う18歳の女子高校生でした。
1980年2月23日の19時過ぎ、長岡陽子さんは帰りのバスを待ちながら富山駅構内にある駅ビル2階に入っていたアクセサリーショップで時間をつぶしていました。
その様子を誘拐のターゲットを探していた宮崎が目をつけ「いいアルバイトがあるんだけど、お茶でも飲みながら話を聞かない?」と声をかけたのです。
当時、陽子さんは金沢市内にある調理師専門学校への進学が決まっており、高校卒業後は友人とともに寮に入って新しい生活を始める予定でした。
そのような状況にあった陽子さんにとって、お小遣い稼ぎができるアルバイトというのは魅力的な話だったのでしょう。
相手が流行のファッションに身を包んだ女性であったことも相まって、警戒心の薄れた陽子さんは宮崎に着いて行き、そのまま宮崎の運転するフェアレディZに乗ってしまったのです。
宮崎はそのままレストランに向かい、食事をしながら家族構成や連絡先など陽子さんの個人情報を聞き出しました。
そして「働いてもらいたい会社に案内する」と言って、21時30分頃に北陸企画の事務所へ陽子さんを連れていき、「今日は遅いから一緒に事務所に泊ろう」と陽子さんを事務所に泊めました。
この時、宮崎は陽子さんに自分の家へ「北陸企画という会社でアルバイトをすることになって、今日は会社の女の人と会社に泊る」と連絡させていました。
同性の社長と会社に泊ると説明された陽子さんの両親は、宿泊に了承したそうです。
翌24日の午前中、宮崎は陽子さんに事務所に残るよう言ってから、授業参観のため息子の通う小学校へと向かいました。
しかし、到着した時には参観時間は終わっていたため買い物をして、16時頃に事務所に戻ります。
北陸企画に戻った宮崎は再び陽子さんを連れて食事に行き、その後も陽子さんとともに事務所に戻って来て、彼女だけを事務所に残して帰宅。
そして翌日も陽子さんを事務所に置いて、宮崎は母親と長男とともに富山市内に出かけ、昼過ぎに事務所に戻るという行動をしていました。
誘拐した相手を拘束するでもなく、解放するでもなく、身代金を要求するでもなく放置するというのは目的がわからない行為です。
時間が経つほど不審に思った陽子さんが家に帰ってしまう可能性が上がりますし、そうなれば親が警察に通報するおそれもあります。
実際に陽子さんは宮崎の留守中に家に電話をかけて「アルバイトの話をしてきた女の人が、家に送ると言っているから待っているのに、忙しそうにしていて送ってくれない。だから帰れない」と話していたそうです。
流石に心配になっていた陽子さんの母親は、「今日は帰してもらえるのよね?」と電話口で泣きながら尋ね、陽子さんも「今日は女の人が親御さんにきちんと話をしたいって言ってたし、必ず帰るから」と涙交じりに答えていたといいます。
長岡陽子さんを殺害
25日の夕方、宮崎は約束通りに家に送ると説明して陽子さんをフェアレディZに乗せました。
そしてレストランで夕食をとった後、北陸企画の近所の薬局で購入していた睡眠薬を飲ませて車中で陽子さんを眠らせ、そのまま浴衣の腰ひもで陽子さんの首を締めあげて殺害したのです。
陽子さん殺害後、遺体を岐阜県古川町の雑木林に遺棄した宮崎は、26日に車に残っていた陽子さんの遺品の靴やバッグを富山市内の公園に捨て、何食わぬ顔で家族のもとに戻りました。
一方、25日にも娘が帰ってこなかったことを心配した陽子さんの両親は、26日に北陸企画を訪れて宮崎を問い詰めました。なお、陽子さんが事務所にいた間、計画に関与していなかった北野宏は一度も顔を出していなかったといいます。
しかし、宮崎がしらを切って話にならなかったため、陽子さんの両親は宮崎を連れて警察に向かいました。
ところが、ここでも宮崎が口をはさんできて、警察は陽子さんの失踪はただの家出で事件性はないという判断をしてしまいます。
こうして翌月の3月6日に戸市川近くの山林で遺体が発見されるまで、警察が陽子さんの行方を追うことはなく、その間に2人目の被害者が出てしまったのです。
身代金要求の電話
宮崎は陽子さんを誘拐してから2回ににわたって、長岡さん宅に身代金目的で電話をかけていました。
1度目の電話は2月25日の16時頃にかけたのですが、この時は両親が不在であり、対応した陽子さんの祖父から母親の勤務先の電話番号を聞いたものの、聞き間違えてしまったために連絡がつかず、失敗。
2度目は2月27日の10時頃にかけ、対応した祖父から伝言を受けた陽子さんの父親は、指定された富山市内にあるレストラン「越州」へ向かったとされます。
しかし、宮崎は警察を警戒してレストランへ向かわず、以降は長岡さんへの接触も中止しました。
宮崎知子が起こした富山・長野連続女性誘拐殺人事件の詳細② 長野事件
富山・長野連続女性誘拐殺人事件の2人目の被害者になったのは、寺沢由美子さんという長野信用金庫で働く20歳の女性でした。
宮崎は第2のターゲットを探すため、3月3日から長野に滞在していました。今回は「松本にある土地を売るから、一緒に来てほしい」と北野宏に同行を頼み、宮崎が犯行に及んでいる間、北野は何も知らずにホテルにいたとされます。
長野滞在3日目にあたる3月5日の18時半頃、宮崎は長野駅周辺で帰りのバスを待っていた由美子さんに「この辺りで店を出そうと考えているのだけど、若い女性の助言を求めている」などと声をかけました。
そして陽子さん同様に食事に誘い出し、自宅の電話番号や家族構成、住所などの個人情報を聞き出したといいます。
由美子さんもまた、流行のファッションを着こなして高級車に乗り、華やかなビジネスの話をする宮崎の姿にあこがれの気持ちを抱くとともに、警戒心が薄れてしまったのでしょう。
食事後に宮崎から「すっかり遅くなってしまったから、今日は車に泊って明日の朝、家まで送るのはどうか」と言われ、車中泊を承諾してしまいます。
寺沢由美子さん殺害
その後、宮崎は睡眠薬と缶ジュースを由美子さんに手渡し、彼女が眠ったのを確認してから首を絞めて殺害。
陽子さん殺害の時に時間をかけすぎたことを悔やんでいたのか、今回は誘拐直後に由美子さんを殺し、遺体もすぐに長野県青木村の山中に遺棄したのです。
由美子さんの遺体が発見されたのは、誘拐から約1ヶ月が経った4月2日のことでした。たまたま山中で用を足そうとした人が、林道にうち捨てられていた遺体を発見したとのことです。
身代金の要求
翌日6日に何も知らずにホテルにいた北野宏と合流した宮崎は、19時16分頃に寺沢さん宅に電話をかけて「由美子さんを預かっている、明日の午前10時に3000万円持って長野駅の待合室に来い」と電話をかけます。
しかし、たった一晩でそのような大金は用意できず、由美子さんの姉は10万円だけを持って10時に長野駅に向かいました。
当然ながら宮崎は憤慨し、10時半ごろに長野駅の駅案内所に電話をかけてきて「10万円では話にならない。妹がどうなってもいいのか。12時まで待つからなんとかしろ」と、由美子さんの姉に伝えてきたそうです。
一方この時、すでに由美子さんの両親から通報を受けた長野県警も動き始めており、長野中央署内に捜査本部を設置して180人態勢で捜査を開始し、長野駅でも張り込みを行っていました。
警察は犯人に動きを知られないよう、記者クラブを集めて事件についての報道を行わないよう報道協定も結んでいたとされます。
12時までに身代金を用意できない様子を察した宮崎は、今度は12時23分頃に寺沢さん宅に電話をかけて「午後16時までに2000万円持って長野駅の待合室に来い。金は姉に運ばせろ。由美子さんには美味しいものを食べさせている」と連絡してきました。
そして、「今度きちんと金を持って来なければ、2度と連絡しない」と脅してきたといいます。
由美子さんの姉は再び長野駅の待合室に向かいましたが、警察を警戒した宮崎は群馬県の高崎駅へ向かうように指示し、さらに高崎駅から近くの喫茶店に向かうよう指示しました。
この間に宮崎は由美子さんの姉の後ろを警察が追尾していることに気づき、「明日、8日に同じ喫茶店に来い」と指示したまま、連絡を絶ってしまいます。
宮崎知子の逮捕
2人の女性を殺害したものの、身代金は1銭も受け取れなかった宮崎知子。3月8日には早くも警察が宮崎のもとを訪れ、北野宏とその妻とともに任意同行を要求されます。
陽子さんを誘拐した際、彼女が家族に電話で「『北陸企画』という会社にいる」と話していたことから、あっさり宮崎の存在が捜査線上に浮かびあがったのです。
さらに宮崎は、犯行に赤いフェアレディZという目立つ車を使用していました。このフェアレディZは陽子さんがいなくなった2月23日に富山駅付近で目撃されていたうえ、由美子さんが誘拐された時期にも長野で目撃されており、警察はこの情報もすでに掴んでいました。
事件に関与していない北野宏と妻は当然ながら取り調べに何も答えることができず、北野の妻はすぐに無関係であることが判明します。
当初は否認を続けていた宮崎でしたが、北陸企画の玄関ドアから陽子さんの指紋が検出され、宮崎のフェアレディZからも陽子さんの毛髪が発見されたことから、3月30日になってやっと犯行を認めて逮捕されました。
しかし、宮崎は同時に「実行犯は北野宏」と虚偽の供述をし、4月1日にち北野宏まで冤罪で逮捕されてしまったのです。
そして起訴されるまでの間の取り調べで、宮崎は「北野が陽子さん誘拐を指示した」「北野が腎臓病を治療する金欲しさに犯行を計画した」と嘘を繰り返し、主犯は北野宏だと訴え続けました。
宮崎知子の判決
富山・長野連続女性誘拐殺人事件の裁判は、初公判から結審まで192回もの公判が開かれ、約7年を要するという異例の長さとなりました。
当初、検察側も女の宮崎が1人で犯行に及ぶとは思えないという先入観や、犯行当時に長野で目撃されたことなどから北野宏と宮崎知子の共犯だと見ていたといいます。
北野宏は無罪を訴え、裁判中に「この法廷に、1人だけ場違いな悪魔の心を持った女がいる。宮崎知子だ。悪魔と気づかずに一緒にいたなんて、恥ずかしい」と、裁判長の静止が入るほど激しく宮崎を非難しました。
一方の宮崎も北野に対して「少しでも人の心があるのなら、被害者のために罪を認めてほしい」などと嘘泣きまでして世間や裁判官の同情を引こうとしました。
しかし、最終的にフェアレディZから発見された由美子さんの頭髪から宮崎の指紋のみが検出されたことなどから、殺害は宮崎知子単独の犯行であったことが判明。
さらに犯行時刻のアリバイが証明されたことから、北野宏には1988年2月9日の一審判決で無罪が言い渡されたのです。
一方、何の罪もない女性2人を殺害し、無関係の人間に罪を着せようとした宮崎知子には、同日の判決で死刑が言い渡されました。
その後も宮崎は「犯行時は心神耗弱状態だった」などとして控訴、上告をしましたが、いずれも認められず、1998年9月4日に死刑が確定しています。
宮崎知子の現在・死刑囚と養子縁組をして苗字が変わっている?
1998年に死刑が確定した宮崎知子ですが、2023年11月現在の時点では名古屋刑務所に収監されており、まだ死刑執行されていません。
宮崎は死刑確定後も4回に渡って再審請求を行っており、これは死刑を先延ばしにするためではないかと言われています。
また、宮崎は死刑確定前の1998年7月に東京拘置所に収監されている死刑囚と養子縁組をしており、苗字が「藤波」になったと報じられていました。
この情報から、宮崎と縁組をしたのは、1981年に今市4人殺傷事件を起こした藤波芳夫(2006年死刑執行済み)だと思われます。
宮崎は拘禁者支援の会「麦の会」を通じて、藤波 芳夫と知り合ったとされます。
さらに宮崎は2000年1月時の報道では苗字が「迫」になったことが明かされており、藤波と養子縁組をした後に、警察庁指定118号事件の犯人である迫康裕と縁組をしたのでは?とも囁かれています。しかし、縁組の相手が本当に迫康裕なのかについては不明です。
宮崎知子と富山・長野連続女性誘拐殺人事件についてのまとめ
今回は1980年の2月から3月にかけて発生した富山・長野連続女性誘拐殺人事件の犯人・宮崎知子について、生い立ちや事件を起こすに至った背景、判決、現在を中心に紹介しました。
警察に逮捕された後も、宮崎は「息子の授業参観に行きたい」などと言って警察を伴って小学校に行くなどしていたといいます。
息子のことは可愛がっていたとの話がありますが、それならばなぜ、自分の犯行が原因で我が子が「人殺しの子」になってしまうことまで考えが至らなかったのでしょうか。
また、自分が我が子を愛するのと同じように、陽子さんや由美子さんの両親も娘を愛していたことに思い至らないのでしょうか。死刑確定後も宮崎からは遺族へ謝罪の言葉ひとつないといいます。