三里塚闘争と現在!犯人と殉職者・タブーの一軒家・漫画や映画などわかりやすく解説

三里塚闘争は成田国際空港周辺で現在も続いている空港建設・存続反対運動です。この記事では反対運動をわかりやすく説明し、闘争で起きた事件の犯人や死者(殉職者)、タブーとされる一軒家に直撃したTV番組、動画、漫画や映画を紹介していきます。

三里塚闘争の概要をわかりやすく解説

 

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三里塚闘争とは1966年から現在まで続く、成田国際空港の建設、存続反対運動です。成田空港がある千葉県成田市三里塚の地名から、このように呼ばれています。

 

反対運動の中心となったのは、空港建設によって生活が一変してしまう成田市および山武郡芝山町の住民と新左翼革命家です。

 

当時の日本では羽田空港のダイヤが限界に近づいており、東京近郊に新しい国際空港をつくることが急務となっていました。

 

しかし、候補地となった場所は地盤が不向きであったり住民の理解が得られなかったりで、新空港建設計画は暗礁に乗り上げていました。

 

そこに急浮上したのが、現在の成田空港がある成田市三里塚だったのです。政府は「早く空港建設をしなければ」という焦りから前のめりになり、三里塚の住民に対して説明をする前に三里塚での空港建設を発表してしまいます。

 

そのため住民から激しい抵抗にあい、そこに「一緒に闘おう」と共産党や社会党などの既存左翼政党、そして新左翼革命家が合流したことで事態は大きく変わることに。

 

「革命を通すためなら暴力もやむなし」という考えを持つ新左翼革命家が三里塚に多く集まり、これに対応するために警察も機動隊を投入して、両者は衝突を起こすようになったのです。

 

こうして三里塚では火炎瓶や石が飛び交い、「内戦」としか言いようがないほどの争いが繰り広げられるようになっていきます。

 

そして1971年、千葉県が行政代執行をおこなったことから空港反対派の新左翼活動家が警官3名を殺害する「東峰(とうほう)十字路事件」が発生。

 

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このことがきっかけで、反対派に対して同情的な態度を見せていた世論やメディアも一転して「罪のない警官を殺した人殺しだ!」と激しく反対派の活動家らを糾弾するようになります。

 

世論という追い風も得た政府は、その後も反対派の抵抗を受けながらも1978年5月20日に成田空港を開港しました。

 

しかし、開港したからと三里塚闘争は終わったわけではありません。地元の住民の間では未だに空港賛成派と反対派の間に深い溝が残り、また空港機能の強化工事が持ち上がるたびに反対派の活動が活性化するなど、現在も多くの問題を残しています。

 

空港建設のために大きな犠牲を生んだ三里塚闘争は、国内のみならず海外でも、公共事業のあり方について考え直すきっかけとなった事件とされています。

 

 

 

三里塚闘争の背景① 三里塚という土地の歴史

 

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1962年、当時の運輸省は羽田空港に続く国内第2の国際空港の建設を計画し、以下の候補地をピックアップしました。

 

・千葉県の浦安

 

・千葉県の富里、八街

 

・茨城県の霞ヶ浦

 

・神奈川県の金沢八景

 

この4ヶ所のなかから一度は富里、八街での空港建設が決まったのですが、地元住民からの猛反対に遭い、白紙撤回することに。

 

そして代替地として選ばれたのが、現在成田空港がある成田市三里塚だったのです。

 

三里塚はもともと農地に適していない土地で、明治以降は宮内庁が管理する下総御料牧場が置かれていました。

 

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三里塚は御料牧場とともに発展した地域で、牧場の出入り業者や日雇い労働者が集まることで賑やかさを増した土地でした。また皇族が訪れることもあったために、地元の人々にとって御料牧場は誇りであり、拠り所であったといいます。

 

その後、太平洋戦争が終戦すると御料牧場や県有林の一部が農地として開放され、敗戦の引揚者やアメリカの統治によって故郷を追われた沖縄県民らが、三里塚に入植。

 

「新窮民」と呼ばれる入植者の暮らしは極めて貧しく、鍬1本で荒れた土地を開墾する日々が続いたといいます。電気や水道も通っていなかったために食生活も原始的で、過酷な環境に耐えかねて三里塚を去る者も多く出ました。

 

そのようななかで、自力で農地開拓をした入植者にとって三里塚は特別な土地であったとされます。

 

 

 

三里塚闘争の背景② 突然の空港建設決定

 

政府としては宮内庁管轄の国有地である御料牧場を有効活用もできるため、三里塚に国際空港を設置するのは名案でした。さらに決して農地に適しているとは言い難い三里塚の土地であれば、十分な補償を約束すれば農民も土地を売り渡してくれると軽く考えていたのです。

 

しかしながら国の都合で故郷を追われ、死ぬ気で開墾した農地をまた国に取り上げられるというのは、三里塚の農民にとっては耐え難い屈辱でした。

 

しかも政府は千葉県には空港建設の話をしていたものの事前に住民には説明をしておらず、三里塚の住民は新聞などの報道で、自分たちが住んでいる場所が空港建設地になっていることを初めて知ったのです。

 

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前日までは中村運輸相が「空港建設地は富里、八街」と公言していたにもかかわらず、佐藤栄作首相は1966年6月22日に突然、千葉県の友納知事と首相官邸で協議をして三里塚での空港建設を発表。

 

これまでは富里に空港ができれば経済的な恩恵に預かれるかもしれない、程度に考えていた三里塚の住民にとって、この決定は寝耳に水でした。

 

「また戦争が起きたら、このあたりはどうなるのか」「騒音で家畜が病気になるかもしれない」等、住民はパニック状態になります。

 

 

 

三里塚闘争の背景③ 空港反対運動

 

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当然ながら三里塚の住民は空港建設に猛反対し、共産党や社会党からも応援が駆けつけ、空港反対派であった富里住民らも合流します。

 

彼らは「政府の言うことに釣られず、地元民がしっかり反対すれば必ず空港建設は防げる」「富里と同じように戦おう」と三里塚の住民を励まし、鼓舞しました。

 

そんななか、1966年6月25日に成田市が主催する「新空港説明会」が成田市立三里塚小学校で開かれます。

 

しかし、政府の発表の後に説明会を開いたところで「もう決まったことの報告をするだけか」「馬鹿にしている!」と住民は聞く耳を持たず、説明会の3日後の28日には「三里塚空港反対同盟」という空港建設反対組織が立ち上がりました。

 

空港予定地の話が持ち上がった頃、三里塚の住民は農地を購入した借金も返し終わり、「これから本格的に自分たちが開拓した土地を盛り上げていくぞ!」と、やっと明るい未来が見えてきた時期でした。

 

当時農林省と千葉県が中心となって計画した「シルクコンビナート事業」という養蚕事業に参加する予定だった農家も、約200戸あったといいます。しかし、成田空港建設の話が出るとシルクコンビナート事業も立ち消えてしまい、多くの農家の希望が切り捨てられてしまったのです。

 

それでも現在のように多くの人にとって空港や飛行機が身近で有用な存在であったなら、住民の理解も得られたのかもしれません。しかし、当時の日本国民にとって飛行機は一部の富裕層が使うものであり、庶民の生活には無関係のものでした。

 

自分たちの生活には何の恩恵も与えないもののために、いともたやすく農業が切り捨てられることは農民にとっては屈辱以外の何物でもありません。

 

そのため反対派がはどんどん増えていき、1996年の夏には「三里塚空港反対同盟」に「芝山空港反対同盟」が合流した「三里塚芝山連合空港反対同盟」が発足し、多くの世帯が一家総出で参加しました。

 

 

 

三里塚闘争の背景④ 住民同士の対立

 

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一方、政府は三里塚に国際空港を建設すると発表した一ヶ月後には「新東京国際空港公団」を設立し、千葉県も「国際空港相談所」という土地の収容や売買の相談に乗る役所を開設。

 

国際空港相談所は買い取り要請に応じない地権者に対しては強制代執行も有り得うる、と匂わせながらも、買い取りに応じる地権者には以下のような条件を提示しました。

 

・畑は相場の4〜5倍の価格で買い取る

 

・代替地が必要な農家に対しては、所有していた土地の1.5倍の広さの農地を提供する

 

・農業を辞めるという農家に対しては別途、補償を出す

 

・家屋などの立替費用については新築として計算し、保障する

 

・騒音地区の農家や酪農家に対しては、損害賠償として国費で用水路を設置する

 

これは相当思い切った条件であり、異例と言えるほど住民側に配慮した内容でした。

 

結果、発表の直後には大半の住民が「空港反対!」を叫んでいたものの、買収に応じる農家が増え、数カ月後には地権者の約80%が条件付きでの買収に応じるかたちになったのです。

 

また、市民の権利を守るという観点から政府や県に反発していた成田市議会と芝山町議会も、反対決議を白紙撤回しました。

 

こうして三里塚での空港建設が発表された2年後の1968年までの間に、空港公団と条件賛成派の間で「用地売り渡しに関する覚書」が取り交わされ、政府は買収予定地の89%の取得に成功します。

 

なお、この覚書を締結した時点で収容する土地の買取価格は説明会の時よりもさらに上がっており、農地の買取価格は相場の7倍にまでなっていたといいます。

 

また説明会の時にはなかった転職の斡旋なども盛り込まれており、買収に応じた地権者には非常に手厚い保障がされました。

 

逆に言えばこれだけの保障を提案されても、買収に応じなかった地権者が11%いたことになり、彼らは後に激しい闘争にくわわることになります。

 

三里塚闘争は規模が大きかったことや、闘争の原因が「空港建設反対」であったことから、地権者のほとんどが空港反対派だったという印象がありますが、実際には空港建設に反対していた当事者はごく僅かだったのです。

 

そして、買収に応じた世帯と頑なに反対を貫いた世帯との間には、以下のような大きな溝が生まれます。

 

・反対派の多い地域では賛成派は村八分に遭い、家族の葬儀でさえ満足にできなかった

 

・条件付き賛成派になったものの、反対派の目が怖くて家の外では話もできなかった

 

・賛成派になったことを反対派の人々に知られたら、殺されるのではないかと思うほど不安だった

 

ともに苦楽を乗り越えてきた農民同士がお互いの腹の中を探り合い、嫌がらせを受けるなどすることで、住民の間には険悪な雰囲気が漂うようになっていったそうです。

 

住民の1人はドキュメンタリー映画『三里塚シリーズ』で知られる小川プロダクションの取材に対して、「精神的にも非常に辛かった。その補償も要求したいぐらいだ」と語ったといいます。

 

 

 

三里塚闘争の背景⑤ 反対運動の激化

 

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政府と千葉県は1967年にA滑走路(4000m)、B滑走路(2500m)、C滑走路(3200m)の3本からなる空港の基本計画案を設立し、1971年4月開港予定で工事実施認可を取得しました。

 

しかし、反対派の説得は難航していました。運輸省や千葉県、成田市には連日抗議の電話が入り、反対派住民が陳情に訪れ、さらには工事認可取り消しを求めて東京地裁への提訴や、自分の敷地にやぐらを立てて「空港反対」の垂れ幕を掲げるなどの活動もおこなわれました。

 

また、この頃になって活発になったのが「一本木運動」や「一坪共有地運動」というものです。

 

これは所有者のいない狭い土地の地権者になったり、空港建設予定地に生えている樹木1本の所有権を主張するなどして、政府の用地取得を困難にするという方法でした。

 

一見悪質なようにも見えますが、まだ暴力による反対運動ではなく、法律の範囲内で抵抗を続けていたのです。

 

このあたりまではまだ、反対派住民に協力していたのが共産党と社会党という既存の左翼政党であったため、武力行使はありませんでした。しかし、1967年8月16日に反対派住民らが新左翼党派を味方に迎え入れたことで流れが変わっています。

 

10月10日、ついに政府が2,000人の機動隊を伴って空港建設予定地に入り、空港外郭の測量を開始。

 

これに反対した地元住民と共産党、社会党、新左翼団体らの反対派は進路上に座り込みをして測量の中止を訴えましたが、最終的に機動隊に排除されて、政府は予定通りに3本の基準杭を打ち込みました。

 

機動隊によって排除されたことから、一部の反対は地元住民は「自分たちも武力行使をするしかない」と決意し、武力行使反対を訴えてきた共産党や社会党などの既存左翼との相手に溝が生じます。

 

そして共産党、社会党は党の方針により反対運動から離れ、もともと既存の左翼政党と対立していた新左翼団体と反対派住民はより強固に結びつくようになったのです。

 

こうして三里塚闘争は、暴力と暴力のぶつかり合いに発展していったのでした。

 

 

 

三里塚闘争の背景⑥ ついに武力闘争開始

 

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警察と反対派による最初の大規模な衝突は、1968年の2月から3月の間に成田市営グラウンドで発生しました。

 

この時は空港公団分室に突入しようとするデモ隊と機動隊の間で3回にわたって衝突が起こり、延べ8,400名がデモに参加し、デモ隊を止めるために延べ6,200名の警官が投入。992名の負傷者が出て、272名が逮捕されたといいます。

 

強硬手段とはいえ、杭打ちを終えて安堵していた政府は反対派の暴動に焦り、工事に着手するべく、この騒動が起きた翌月には収容に応じた住民の土地の調査を4月から7月の間でおこない、8月には御料牧場の栃木県への移転に伴う閉場式をおこなうと発表しました。

 

しかし、賛成派住民の土地の調査時も反対派は暴動を起こし、測量に訪れた公団職員や機動隊に角材で襲いかかり、乱闘の舞台となった賛成派住民の家屋を破壊。賛成派住民も暴行を受けて怪我を負う騒ぎになりました。

 

さらに御料牧場の閉場式にも反対派が乱入するなどして、機動隊との衝突も激しさを増していきます。

 

 

 

三里塚闘争の背景⑦ 地獄となった第一次強制執行

 

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ここまでくると政府も黙ってみているわけには行かず、土地収用法で反対派住民の土地を合法かつ強制的に取り上げようと動き出しました。

 

しかし、反対派がこれで大人しくなるわけがなく、「天浪団結小屋」という砦を建て、空港開設までの500日間、立て籠もると発表します。

 

1970年には強制収容申請書を作るために公団職員が反対派住民の土地に調査に入りますが、反対派は有刺鉄線でバリケードを作って職員の進入を拒み、自家製の糞尿爆弾や竹槍、鍬などで抵抗。

 

激しい抵抗にあった公団職員は前歯6本を折るなど大怪我を負い、機動隊も前面に出て反対派の押さえつけにかかりました。

 

こうしている間に羽田空港では政府の予想よりも早く、1970年8月に発着回数と混雑が限界を迎えてしまいます。

 

政府は減便やダイヤの調整、臨時に厚木飛行場を使うなどして対応しますが、一刻も早い成田空港の開港が叫ばれるようになります。

 

政府は1日でも早く空港を完成させるべく急ピッチで工事を進めました。そして1970年12月26日、空港公団が申請した第一次の土地収用に関する採決が下りました。

 

この土地は成田空港のA滑走路建設予定地にある一坪共有地の場所で、反対派の地権者が補償費の受け取りを拒否し、話し合いに応じなかったことから強制的に収容されることとなったのです。

 

反対派はこの強制収容に反対するべく、自分たちが地権者である一坪共有地に地下トンネルや砦をつくり、巨大な地下要塞を建設して本格的に抵抗をはじめました。

 

なお、これらをつくる資材は御料牧場から盗んできており、費用にも賛成派住民の農作物を盗んで売ったお金や、空港建設地で勝手に育てた農作物を売って得たお金が含まれていたそうです。

 

当初はあくまでも法律に認められた範囲で活動していた反対派が、自分の要望を通すためには手段を選ばなくなってきているのがわかりますね。

 

一方で政府や空港公団も、反対派に臆するわけにはいきません。1971年2月22日から3月6日にかけて空港公団は第一次強制代執行を敢行。

 

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この時、反対派は自分たちの体を木やバリケード、やぐらに鎖で縛り付けるなどして抵抗し、さらに茨城県の農民活動家の協力を得てビラや宣伝カーで現地に野次馬を呼び込んで集団心理を武器に強制代執行の停止を目論みます。

 

そして機動隊との衝突で反対派を親に持つ小学生や中学生らが怪我をするのを目の当たりにした野次馬たちは、義憤にかられて空港公団を激しく糾弾し、機動隊の前に立ち塞がろうとする者まで現れました。

 

これにより強制代執行は一時中止にまでなりますが、対する政府側も新たに3,000人の機動隊を現地に投入し、道路を封鎖して集まった野次馬を敷地の外に押し出します。

 

さらに新たに屈強な男性を臨時の公団職員として日当2万円という高待遇で雇い、彼らを使って立て籠もっている反対派ごとやぐらや木、バリケードを引き倒すという強硬策に打って出ました。

 

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しかし、これで大人しくなる反対派ではありません。それならば、と今度は当時の新左翼活動家が好んで使っていた火炎瓶が登場し、建設作業員が載っている重機に火がつけられる大惨事になったのです。

 

結果、土地の収容は完了しましたが、この第一次強制代執行では43名の重傷者と798名の軽傷者、461名の逮捕者が出ました。骨折のほか、重度の火傷や失明などを負った者もいました。

 

 

 

三里塚闘争の背景⑧ ついに死者(殉職者)が出る

 

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現地では多数の被害者が出ているなか、強制代執行が完了した報せを受けた運輸大臣は、あろうことかマスコミの前で「反対派の農民も諦めがついただろう」「いくら抵抗しても無駄なのはわかったと思う」など、反対派を馬鹿にしたかのような発言をしてしまいます。

 

もちろん第一次代執行で反対する意志を失い、土地の収容に応じる農家もいたのですが、生半可な気持ちで反対活動に身を投じているわけではない住民らは、当然ながら大臣の発言に激しい憤りを覚え、反対運動はさらに過激化。

 

空港警備会社の建物を近隣の民家ごと時限爆弾で爆破、成田線の湖北駅に爆弾を仕掛ける、ゲリラ戦のように数百名単位で警官隊に襲いかかるなど、もはや戦後の日本で起きているとは信じがたいような武力行使を続けました。

 

こうしたなか、ついに三里塚闘争のなかで最大の悲劇とされる「東峰十字路事件」が起きてしまいます。

 

 

東峰十字路事件

 

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1971年9月16日、空港建設予定地での第二次行政代執行がおこなわれました。本来であれば1971年4月には開港予定であった成田空港の完成を急ぐべく、千葉県の収用委員会は緊急採決で第二次行政代執行を決定。

 

そして16日から20日にかけて、第一ターミナルの北側6箇所を対象に強制収容がおこなわれました。

 

第二次行政代執行は初回の行政代執行時を遥かに凌ぐ衝突が起こり、さらに双方が「殺し合いになってもいい」という壮絶な決意でぶつかり合いました。反対派も警察側も、双方これまでに重傷者を出していたために、互いが激しい憎悪と復讐心に駆られていたのです。

 

そのような大暴動のなか、警備にあたっていた臨時編成の機動隊の3名が新左翼活動家に火炎瓶を投げつけられ、火だるまになったところを竹槍や釘を打ち込んだ角材などで襲撃されて殺害されるという暴行事件が起こりました。

 

亡くなった3名の殉職者の遺体はとても正視できないような悲惨な状態で、ほかにも「いっそ死んでしまったほうが幸せだったのではないか?」と思わせるほど、悲惨な暴行を受けた警察官が何名もいたといいます。

 

反対派による警官殺害事件は暴行事件が起きた場所から「東峰十字路事件」として報道され、これまでは「反対派の人達は政府に住む場所を追われた被害者だ」「子どもにまで手を上げるなんて、政府や警察は間違っている!」という論調であったマスコミも、手のひらを返して反対派への批判一辺倒になりました。

 

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また、これまで反対派を支援してきた人々も東峰十字路事件以降は支援をやめるようになり、世論も反対派を糾弾するように変化していきました。

 

さらに、反対派にとってもこの事件は大きな影響を与えます。暴力行為を肯定する新左翼活動家らは、警官殺害について「よくやった!」と盛り上がりを見せたものの、反対派住民からは「こんなことを望んだわけではない」との声があがり、少なくない数の人々が反対活動から離脱していったのです。

 

第二次強制代執行の争いでは5日間で延べ17,500名の警察官が投入され、反対の人数は12,500名、そのうち地権者ではない新左翼活動家の数は11,500名にものぼったとされています。

 

そして逮捕者は472名、負傷者は224名でそのうち警察官が206名で入院した者が48名、新左翼活動家側は負傷者12名で入院した者が5名と発表されましたが、実際には負傷者の数はもっと多かったと言われています。

 

さらにこの後日、10月1日には反対派住民から自殺者が出ました。自殺したのは青年行動隊の中心メンバーで「これ以上、たたかう気力がなくなりました」という遺書が残されていたとのことです。

 

 

 

三里塚闘争の背景⑨ 妨害のなか成田空港が開港

 

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第二次強制代執行の後、これまで反対派であった住民の70%近くが土地の収容に応じることとなり、政府は空港予定地の93%の確保に成功します。

 

しかし、残った7%の地権者の反対の意思は固く、第二次強制代執行の最中にだまし討ちのようなかたちで高齢女性の住居を収用し、またこの女性を土地の外に無理やり排除したことが一因となり、残った反対住民の空港に対する憎しみはピークに達していました。

 

1977年に入ると福田赳夫内閣が「年内開港」という目標を掲げ、さらに工事のピッチは上がります。

 

そして5月12日に空港設置を阻むために建てられた岩山大鉄塔の仮処分申請を千葉地裁に出し、5月6日に鉄塔を根本から完全に撤去。5月には鉄塔撤去への報復とみられる芝山町長宅前臨時派出所襲撃事件が発生し、警察官1名が殉職しました。

 

こうして両者が一歩も引かないまま、なんとか空港建設は完了。1978年3月30日に成田空港は開港予定となりました。

 

しかしその直前の3月26日に新左翼活動家らがマンホールを使って空港中央部へと侵入し、管制塔内の設備を破壊するという成田空港管制塔占拠事件が発生します。

 

この影響で開港は2ヶ月近く遅れ、1978年5月20日に成田空港は運行妨害や関連施設への襲撃が続くなかでやっと開業に漕ぎ着けたのです。

 

 

 

三里塚闘争の現在

 

 

1978年に成田空港は開港しましたが、三里塚闘争はその後も続きました。しかし、空港反対者の考えには変化が出てきます。

 

もともと反対派であった住民は自分たちの生活を守ることが目的であったため、空港を攻撃し続けることで何万もの空港関係者での生活が危うくなることを考え、反対運動について思い悩む人が増えたのです。

 

政府も住民に理解を得る前に空港予定地を決めたことがそもそもの原因だったと認め、1990年になって初めて江藤運輸大臣が反対派住民に謝罪し、それを機に両者の間で話し合いの場が持たれるようになりました。

 

こうして、1991年から1993年にかけて成田空港問題円卓会議が開かれ、1995年には村山富市首相が日本に首相として初めて反対派住民に謝罪し、これまで「木の根地区」と呼ばれていた反対派の人々も移転に応じることとなります。

 

一方で新左翼活動家らは「空港廃港・二期工事阻止」を訴えて反対活動を起こそうとしましたが、そこまでする必要があるのか?という声も多く上がったために、仲間内で揉めるようになり、社会問題になるほどの暴力事件を繰り返しながら分裂。

 

1978年から2019年までの間に新左翼活動家らが成田空港関連で起こしたゲリラ事件は511件にも上り、多数の逮捕者が出たうえ、彼らには国から多額の損害賠償請求がされました。

 

出典:http://finesky1.jugem.jp/

 

こうして三里塚闘争は終結していくかのように見えましたが、現在も成田空港内には収容ができていない土地が点在し、2019年8月の時点で合計2.9ヘクタールの土地が未収容のままだと発表されています。

 

反対派に加勢していた新左翼活動家も時代ともに数を減らしたものの、未だに未収容地を盾に「成田空港廃港」を訴えている派閥も存在します。

 

また騒音地帯にある東峰部落では、根強く空港の廃止を訴える住民の活動が続いており、反対派は弱体化、孤立化していますが、まだ彼らにとって闘争は続いたままの状態なのです。

 

 

 

三里塚闘争で警察官を殺傷した犯人は?

 

東峰十字路事件をはじめとする三里塚闘争の最中に起きたテロ事件や暴動のなかで、それぞれ以下のような犠牲者が生じています。

 

・東峰十字路事件…警察官3名

 

・芝山町長宅前臨時派出所襲撃事件…警察官1名

 

・東鉄工業作業員宿舎放火殺人事件…作業員2名

 

・千葉県収用委員会会長襲撃事件…収用委員会会長1名

 

・日本飛行機専務宅放火殺人事件…航空機メーカー役員の家族1名

 

・東山事件…反対派活動家1名

 

・成田空港管制塔占拠事件…反対派活動家2名

 

・反対派住民から自殺者1名

 

上記のうち、もっとも凄惨な事件であった東峰十字路事件の具体的な犯人はわかっていません。

 

警察は容疑者として50名を超える新左翼活動家を逮捕したものの、物証や第三者の証言がなかったために犯人の特定ができなかったといいます。

 

最終的には1986年に異例とも言える温情判決が出され、東峰十字路事件の容疑者たちは公務執行妨害罪と凶器準備集合罪など軽微な罪状で裁かれ、ほぼ全員に執行猶予付きの懲役刑が言い渡されました。

 

また芝山町長宅前臨時派出所襲撃事件、東鉄工業作業員宿舎放火殺人事件、日本飛行機専務宅放火殺人事件も手口や犯行声明から新左翼活動家が起こした事件であることはわかっているものの、犯人逮捕には至っていません。

 

 

 

三里塚闘争のタブーである一軒家がバラエティ番組で取り上げられる

 

 

2021年6月29日、フジテレビ系列のバラエティ番組『パンドラTV』が、「成田空港のポツンと一軒家」というサブタイトルで、成田空港の滑走路内に不自然に佇む建物・木の根ペンションを取り上げました。

 

木の根ペンションは未だに収容ができていない土地の一つで、もともと三里塚闘争の最中に平屋建ての「木の根団結小屋」として建てられ、1989年に成田新法の適用を免れるために2階建てのプール付き宿泊施設に改装されたといいます。

 

プールパーティやレイブイベントも開催しているようですが、もとは三里塚闘争の反対派の拠点であり、現在でも警察や警備会社が周辺を見回っているため、物々しい雰囲気が漂う場所です。

 

出典:https://www.youtube.com/

 

番組内では「この一軒家は放送業界のタブーで、どの番組でも取り上げたことがない」「やばい物件」とナレーションで煽りながら、お笑い芸人のぺこぱを成田空港に向かわせています。

 

結局、さんざんナレーションとタイトルで煽ったにもかかわらず一軒家の近くまで行って「無事に帰れるかわからない」「監視カメラがあって怖い」という理由で引き返してきてロケは終了していましたが、この内容についてはネットでも物議を醸しました。

 

とくに多かったのが「殉職者も出てるほどの事件が起きた場所を、バラエティ番組でいじるのはどうなの?」「まだ終わっていない問題を面白半分に扱うのは流石に無神経」「TV局が迷惑系YouTuberみたいなノリなのはちょっと…」といった反対意見です。

 

番組中、頻繁にぺこぱの2人が「どっちにも肩入れできない、バラエティで扱っていい話じゃない」「部外者が首をつっこむべき話じゃない」と言っていましたが、同じように感じた視聴者が多かったようです。

 

 

 

三里塚闘争を取り扱った映画『三里塚に生きる』『三里塚のイカロス』

 

 

三里塚闘争を題材にした映画作品として有名なのが、2014年に公開された『三里塚に生きる』と、2017年に公開された『三里塚のイカロス』です。

 

 

両方とも代島治彦監督作品で、『三里塚に生きる』では三里塚芝山連合空港反対同盟の人々など農民側の立場で三里塚闘争を描き、『三里塚のイカロス』では反対運動を武力闘争に発展させた元凶者である、新左翼活動家やその支援者に焦点を当てています。

 

 

 

三里塚闘争を取り扱った漫画『ぼくの村の話』

 

出典:https://kc.kodansha.co.jp/

 

尾瀬あきらさんの漫画『ぼくの村の話』は、小学校5年生で空港反対運動の少年行動隊に参加し、その後も中学生、高校生と行政代執行で反対運動に参加した押坂哲平を主人公にした作品です。

 

ストーリーは大人になった主人公が空港反対運動とともにあった学童、学生時代を振り返るもので、反対運動に駆り立てられる住民の心情や、ごく普通の人が自分の土地のために見を投げ出す必死さがありありと描かれています。

 

真に迫る描写がされていることから著者も三里塚出身なのかと思いきや出身は京都で、綿密な取材に基づいて中立な話になるように細心の配慮を払ったというのが驚きです。

 

 

 

三里塚闘争を取り扱った動画

 

 

YouTubeには三里塚闘争を扱った動画が多数アップされています。

 

当時のニュース映像を流すものや、ゆっくり解説動画、なかには新左翼活動家団体のチャンネルがアップしている解説動画まで内容や視点も多岐にわたるのですが、三里塚闘争の背景がもっともわかりやすく説明されているのが、上にあげたテレビ東京の田中哲郎記者による解説動画です。

 

三里塚闘争について調べていくと、多くの人が感じるのが「新左翼活動家団体が介入してこなければ、もっと話は丸く収まったのでは?」「どこから活動家は来たの?」という点だと思います。

 

既存の左翼と新左翼は何が違うの?何が目的でどういう人達なの?現在も活動しているの?という新左翼活動家団体に関する疑問や問題点を三里塚闘争とともにしっかり解説しているので、知識を深堀りしたいという方にもおすすめの内容です。

 

 

 

三里塚闘争についてのまとめ

 

今回は1966年から続く成田空港の建設中止、廃港、存続反対を訴える運動、三里塚闘争について紹介しました。

 

三里塚闘争の責任についてはさまざまな議論がされていますが、反対派の地権者の人々に対しては「やり方はよくなかったけど、気持ちはわかる」「藁にもすがる思いで革命左派を頼ったんだろう」という同情的な意見が多いように見えます。

 

未だに収容されていない土地について政府は、粘り強く交渉を続けて地権者の合意を得る方針を得る方向で、強制代執行はしないと発表しています。関西国際空港を筆頭に各地に空港ができた現在、成田空港そのものに三里塚闘争時ほどの価値はないとの声もありますが、良い着地点が見つかることを願うばかりです。

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