相模原障害者施設殺傷事件は19人の知的障害者が殺害された事件です。
この記事では相模原障害者殺傷事件の発生場所の津久井やまゆり園、美帆さんら被害者、犯人の植松聖の生い立ちや実家の漫画家の母親や父親ら家族、経歴、獄中結婚、動機や裁判の判決その後や現在についてまとめました。
この記事の目次
- 相模原障害者施設殺傷事件は知的障害者施設で入所者19人が殺害された事件
- 相模原障害者施設殺傷事件の経緯
- 相模原障害者施設殺傷事件が発生した「津久井やまゆり園」の場所
- 相模原障害者施設殺傷事件の被害者は19人が死亡し職員含む26人が重軽傷
- 相模原障害者施設殺傷事件被害者の美帆さん母親が名前を公開した理由
- 相模原障害者施設殺傷事件の犯人・植松聖の生い立ち① 小学生時代
- 相模原障害者施設殺傷事件の犯人・植松聖の生い立ち② 中学時代
- 相模原障害者施設殺傷事件の犯人・植松聖の生い立ち③ 高校時代
- 相模原障害者施設殺傷事件の犯人・植松聖の実家は津久井やまゆり園から約600mの場所
- 相模原障害者施設殺傷事件の犯人・植松聖の家族① 父親は小学校図工教員
- 相模原障害者施設殺傷事件の犯人・植松聖の家族② 母親は漫画家
- 相模原障害者施設殺傷事件の犯人・植松聖の経歴① 帝京大学文学部教育学科
- 相模原障害者施設殺傷事件の犯人・植松聖の経歴② 運送業を経てやまゆり園へ
- 相模原障害者施設殺傷事件の犯人・植松聖の獄中結婚
- 相模原障害者施設殺傷事件の犯人・植松聖の犯行動機
- 相模原障害者施設殺傷事件の犯人・植松聖の裁判と判決
- 相模原障害者施設殺傷事件の犯人・植松聖のその後と現在
- まとめ
相模原障害者施設殺傷事件は知的障害者施設で入所者19人が殺害された事件
出典:https://www.oshikawatakeshi.com/
「相模原障害者施設殺傷事件」は、2016年7月26日未明(警察と消防に通報があったのが午前2時38分)に、神奈川県相模原市の知的障害者施設「津久井やまゆり園」で入所者や職員など46名が次々と刺され、入所者19名が亡くなり、職員を含む27名が重軽傷を負った戦後最悪級の大量殺傷事件です。
犯人は、事件発生場所となった知的障害者施設「津久井やまゆり園」の元職員の植松聖(うえまつ・さとし)という事件当時26歳の男で、「意思の疎通が取れない知的障害者は、社会に迷惑をかけるだけなのでいらない」という、歪んだ思想(優生思想)を持ち、当時の衆議院議長宛に「私の目標は重複障害者の方が家庭内での生活、及び社会的活動が極めて困難な場合、保護者の同意を得て安楽死させる世界です」などと綴った手紙を送っていた事や、「イルミナティ」という秘密結社が世界を裏側から操っているとする陰謀論を盲信している事などがわかり、社会に大きな衝撃を与えました。
ここではこの「相模原障害者施設殺傷事件」についてまとめていきます。
相模原障害者施設殺傷事件の経緯
出典:https://txbiz.tv-tokyo.co.jp/
「相模原障害者施設殺傷事件」の経緯についても見ていきます。
犯人・植松聖の犯行を実行するまでの動き
相模原障害者施設殺傷事件の犯人の植松聖は、2015年6月頃より、「意思の疎通ができないほどの重度の障害者はいらないので、死んだ方が良い、安楽死させた方が良い」などと親しい友人に漏らすようになり、一部の友人に対しては犯行計画まで明かし「最低でも50人は殺そうと思っている」などと話して今ました。
植松聖は、事件前日の2016年7月25日の午前0時20分頃、相模原市内の河川敷で友人らと3人で大麻をたばこ状に巻いたものを吸引しながら、ポケモンGOをして遊んでいました。
植松聖は「具合が悪い」などと言い、突然走って自分の車(ホンダ・シビック)に戻るとそのまま運転して走り去り、後で「今日は効きすぎた」などと友人に連絡しています。
植松聖はその後、マクドナルド城山店(神奈川県相模原市緑区久保沢)の駐車場に車を停めると鍵をつけたまま放置し、ヒッチハイクで三ヶ木のバス停留所まで移動し始発の時間まで待っています。
植松聖は25日の早朝、バスと電車で新宿へ向かいコンビニでノートを購入して漫画喫茶に入り、そこで「新日本秩序」なる自分の考えをノートにまとめています。
漫画喫茶で3時間ほど仮眠をとった植松聖は、母親からマクドナルドの駐車場に放置してたホンダ・シビックが通報されて警察署に移されたと連絡を受け、同日昼頃に津久井警察署に車を取りに行っています。
同日午後から夕方にかけて、植松聖は1度自宅(相模原市千木良の実家)に立ち寄って包丁などを持ち出し、再び車で都内へと向かう途中にホームセンターに立ち寄り、ハンマー、結束バンド、ガムテープ、手袋などを購入し、今度は車で新宿へと移動。
同日17時57分、植松聖は南青山一丁目コインパーキングに車を駐車した後、新宿歌舞伎町内のホテルの部屋を取り、そこで自分の頭髪を金色に染めています。
20時45分頃、植松聖は、大学時代にフットサルサークルで知り合った後輩で女性の友人と代々木駅で待ち合わせ、一緒にタクシーに乗って歌舞伎町の焼肉店へ移動して食事をしています。この女性とは元々27日に会う約束をしていましたが、植松聖は「時が来たんだよ」などと言って約束を前倒ししており、「法律を六つ作る。一つは、意思疎通できない人を殺す」、「今日で会うのは最後かもしれない。しばらく会えない」などとこの女性に語り、店を出た後に「4、5年たったら帰ってくる」と言って別れたという事です。
同日23時頃、植松聖は新宿歌舞伎町のホテルに戻りデリヘル嬢(派遣型ソープ嬢)を呼んでいます。植松聖はこのデリヘル嬢と自分の刺青について話し、サービスを受けて別れる際に「僕のことを忘れないで下さいね」とデリヘル嬢に伝えています。
日付が変わった7月26日の午前0時頃、植松聖はコンビニで封筒と切手を購入し、ホテルをチェックアウトした後、自分の考えをまとめたものを出版社に送付しています。
同日0時26分頃、植松聖は歌舞伎町からタクシーで南青山1丁目へと移動し、コインパーキングに停めてあった自分の車に乗り、中央道を使って「津久井やまゆり園」方面へ移動。同日午前1時33分に中央道相模湖東出口で高速を降り津久井やまゆり園へと向かいました。
犯人・植松聖が津久井やまゆり園へ侵入し入所者を次々と殺傷
7月26日の午前2時前、植松聖は障害者施設「津久井やまゆり園」の近くの民家前に車を停め、警備員のいる正門を避けて裏口へ回って敷地内に侵入し、午前2時頃に入居者東居住棟の「はなホーム」1階の110号室の窓ガラスをハンマーで割って中に侵入。
ちょうど巡回していた女性職員が、110号室の開いた扉の前で植松聖がかがみ込み何か作業をしているのに気がつき、「誰?」と声をかけています。女性職員は近づいていきた植松聖が手に刃物を持っているのに気がついて悲鳴を上げますが、「騒ぐな、騒いだら殺す」と脅され、上でを掴まれて110号室内に引っ張れ込まれそうになりました。
女性職員は隙をついて逃げ出そうとするも、106号室の前のあたりで植松聖に捕まり、「騒いだら本当に殺す」と言われ両手首を結束バンドで拘束されました。
そして、植松聖は110号室で寝ていた当時19歳の女性「美帆さん」(遺族が名前を公開)を指差して、女性職員に「こいつは喋れるのか」と尋ね、女性職員が「喋れません」と答えると、植松聖は布団を引き剥がすと寝ている美帆さんの腹部などに包丁を複数回振り下ろしました。美帆さんは「ウワ!」という苦しそうな声を上げたという事でした。
植松聖は、すぐに女性職員の腕を掴んで強引に廊下へ連れ出し隣の111号室へ、部屋には2人の女性が寝ており、植松聖は再び女性職員に「喋れるのか」と尋ね、女性職員が「喋れません」と答えるや、2人を次々と包丁で刺したという事です。
そして、植松聖はこの女性職員の腕を強引に引きながら112号室へと入り、再び「喋れるのか?」と尋ね、女性職員はその部屋は2人とも会話が成り立つことから「喋れます」と返答。すると、植松聖は何もせずに部屋を出ています。
その後も、植松聖は次々と部屋を回り、女性職員が「喋れない」と言った入所者を刺し、「喋れる」といった入所者は刺さずに素通りするという行為を繰り返しました。
植松聖は一通り部屋を回った後、女性職員の腕を引いて再び110号室へと戻ると、女性職員を廊下の手すりにくくりつけて拘束し口をガムテープで塞いだ後、隣接する「にじホーム」へと移動し、同様に職員を脅して結束バンドで拘束しつつ、入居者が喋れるのかどうかを確認し、喋れない入居者を包丁で刺すという蛮行を繰り返しました。
さらに、植松聖は、東居住棟(「はなホーム」および「にじホーム」)を出て男性入居者がいる西居住棟へと移動し、3人の男性職員を脅して拘束しつつ1階と2階を回って入所者を次々と刺し、侵入から約50分後の午前2時48分に管理棟を通って正門から「津久井やまゆり園」を立ち去りました。
被害者は職員5人を含めて45人で、19人の入所者が死亡し、入所者と職員合わせて26名が重軽傷を負いました。
犯人・植松聖が警察署に出頭し緊急逮捕
植松聖は犯行後、午前2時48分に「津久井やまゆり園」を出て、同54分に近くのコンビニに立ち寄って犯行の際に傷を負った小指をトイレで洗い、エクレアとコーラ、たばこを購入しています。
また、植松聖は犯行の直後の午前2時50分に、自身のTwitter(現在のX)アカウントに「世界が平和になりますように。beautiful Japan!!!!!!」と、自撮りした自身の画像を添付して投稿していました。
そして、午前3時5分に、植松聖は管轄の神奈川県警津久井警察署に出頭して「今、やまゆり園で起きた事件の犯人は私です。世界平和の為にやりました」などと自首し、取り調べを経て午前4時半前に、110号室の美帆さんに対する殺人未遂と住居侵入の容疑で緊急逮捕され、その後、同年9月までに、死亡した19人全員に対する殺人の容疑で逮捕立件されています。植松聖はいずれも容疑を認めているとも報じられました。
相模原障害者施設殺傷事件が発生した「津久井やまゆり園」の場所
「相模原障害者施設殺傷事件」が発生した障害者福祉施設「津久井やまゆり園」の場所は「神奈川県相模原市緑区千木良476番地」です。
相模原障害者施設殺傷事件の被害者は19人が死亡し職員含む26人が重軽傷
「相模原障害者施設殺傷事件」の被害者は入所者と職員を合わせて合計45名で、被害者のうち亡くなられたの入所者19名、重軽傷を負ったのが職員と入所者合わせて26名でした。
亡くなられた被害者19名は、10名が女性の方、9名が男性の方でした。
相模原障害者施設殺傷事件では、亡くなられた被害者の方が知的障害者だったという事情があって遺族の方の意向なども踏まえて、事件報道当初は氏名は公開されず、性別と大まかな年齢が発表されただけでした。
しかしその後、一部の被害者遺族の方が氏名や名前を公開されています。
亡くなった被害者のうち氏名や名前が公開されているのが、当時19歳であった美帆さん、当時40歳であった菊地原理枝さん、当時60歳であった宏美さん、当時55歳であった齊藤恵子さん、当時49歳であった山本利和さんです。
亡くなった被害者の方は他に、当時26歳の女性、当時70歳の女性、当時65歳の女性、当時46歳の女性、当時65歳の女性、当時35歳の女性、当時41歳の男性、当時43歳の男性、当時66歳の男性、当時66歳の男性、当時55歳の男性、当時65歳の男性、当時67歳の男性、当時43歳の男性でした。
相模原障害者施設殺傷事件被害者の美帆さん母親が名前を公開した理由
「相模原障害者施設殺傷事件」で亡くなった被害者のうち当時19歳の美帆さんの母親は、この事件の裁判で被害者の方々が「甲A」「乙B」といった匿名で扱われる事を知り、「記号じゃない、名前がちゃんとある」との想いから美帆さんの名前を公表されたという事です。
美帆さんの母親は、「(美帆さんは)一生懸命生きてたので、それを忘れないでほしい」、「美帆が誰かの心の中で生き続けていってくれたら」とも話されています。
また、美帆さんの母親は、相模原障害者施設殺傷事件で命を奪われた19人の被害者の事を覚えていて欲しい、忘れないで欲しい、差別が悲しい事件を生んだ事実を風化させたくないとの思いも明かされています。
相模原障害者施設殺傷事件の犯人・植松聖の生い立ち① 小学生時代
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「相模原障害者施設殺傷事件」の犯人・植松聖の生い立ちにも関心が集まっています。
植松聖は1990年1月20日に東京都日野市の生まれで、兄弟はおらず一人っ子で同市の多摩平団地で両親と家族3人の暮らしでした。
植松聖被告は神奈川県相模原市出身で平成2年1月20日生まれの29歳です。
植松容疑者は一人っ子として、東京・日野市の多摩平団地で生まれた。
植松聖がちょうど1歳になる1991年1月に両親は神奈川県相模原市千木良に一軒家を購入し、家族で移住しています。
植松聖はその後、相模湖町立千木良小学校(現在の相模原市立千木良小学校)へ進学。小学生時代までは素直で手のかからない子供で、明るく人懐っこい性格で目立ちたがり屋で、学業成績は中の下くらいであったという事です。
また、植松聖を幼少期から知る人物は、子供時代の植松聖がいじめられている猫を庇うような優しい少年だったと証言しています。
植松容疑者は子どもの頃、猫がいじめられているのを見ると、必死になって止める優しい少年だった。
小学生時代には同学年と1学年下に1人ずつ知的障害者がいたという事ですが、同級生は「障害者への偏見や差別を聞いたことはない」と証言しています。しかし、植松聖は小学校低学年の時に「障害者はいらない」と言う内容の作文を書いており、当時から心の中では知的障害者への差別心を持っていたと思われます。
殺害された美帆さん=当時(19)=の母親の代理人弁護士が植松被告に質問した。
弁護士「小学校の時に障害者はいらないとする作文を書いたか」
植松被告「低学年の時だと思う」
相模原障害者施設殺傷事件の犯人・植松聖の生い立ち② 中学時代
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植松聖は相模湖町立千木良小学校を卒業後、相模湖町立北相中学校(現在の相模原市立北相中学校)へと進学しています。
植松聖は中学時代はバスケットボール部に所属し、学力は中の下くらい、この頃から不良グループの1人となり、友人に誘われて飲酒や喫煙、万引きなどを時々していたという事でが、グループの中では比較的真面目な方だったようです。
また、学習塾の窓ガラスを割ったり、両親や教師に反抗して物を壊したりする時期もあったという事ですが、両親は思春期にありがちな事として受け止めらていたとの事です。
裁判では、植松聖は中学生時代に下の学年の知的障害のある生徒の腹を殴った事があったと供述しています。
中学生時代、年下の知的障害がある生徒が同級生を階段から突き落としたことがあったとして「(障害がある生徒の)腹を殴りました」と述べた。
その他、関係者証言によれば、植松聖は中学時代を通じて、2人の女生徒と交際していたという事です。
相模原障害者施設殺傷事件の犯人・植松聖の生い立ち③ 高校時代
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植松聖は相模湖町立北相中学校を卒業後、東京都八王子市の私立高校「八王子実践高等学校」の調理科へ進学しています。
調理科へ進んだ理由について、植松聖は「おしゃれで面白そうだから」と語っています。成績は変わらず中の下くらいで授業中は居眠りをしている事が多かったという事です。
そして、高校時代の植松聖は1年生の頃から教師に反抗して激しく暴れる事があり、教卓を投げたり、ゴミ箱を破壊したり、黒板消しを投げつけたりしたそうです。
また、バスケ部に所属したものの高校2年生の時に他のバスケ部員を殴って1ヶ月の停学処分となったとし、この頃に神奈川県立津久井高等学校定時制へ転校したとの情報もあります。(日刊ゲンダイが知人の証言として報じているものの、大手新聞などはそのようには報じていないし、裁判でも触れられていない)
地元の小中学校から東京・八王子の私立高の調理科に進学したものの、同級生を殴るなどのトラブルを起こし、相模原市の高校の福祉科に転校した。
植松聖は高校時代にも2人の女子生徒と交際しており、うち1人の証言が裁判で読み上げられています。この女性は植松聖の実家にも遊びに行っており、母親は女性を見て「かわいい子ね。聖、よかったじゃない」と嬉しそうにしていた事や、父親は寡黙な人物でこの女性にパスタを作ってくれた事もあったのだそうです。
植松聖もこの女性の実家へ遊びに行っており、女性の家族からは「ハキハキあいさつができる明るいよい子」という印象を持たれていたという事です。
相模原障害者施設殺傷事件の犯人・植松聖の実家は津久井やまゆり園から約600mの場所
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「相模原障害者施設殺傷事件」の犯人・植松聖の実家は「相模原市緑区千木良」という地区にある2階建の一軒家です。この実家は植松聖が1歳だった1991年に両親が購入したもので、事件のあった「津久井やまゆり園」から約600メートルほどの場所にありました。
事件当時、植松聖はこの実家に1人で住んでおり、植松の逮捕後は空き家になっていて現在は雑草が伸びたまま放置されているとの報道もされています。
東京都八王子市に接する相模原市緑区千木良(ちぎら)地区。緑豊かなのどかな集落で、植松聖(さとし)被告(30)は小学校教師の父と漫画家の母の三人家族で育った。後に入所者十九人を殺害した障害者施設「津久井やまゆり園」は実家から六百メートルしか離れていない。実家は事件後、空き家となり雑草が伸びたままだ。
植松聖の父親と母親は、相模原障害者施設殺傷事件から見て約4年〜5年前に八王子市内のマンションへ引っ越していて、その後は植松聖が1人この実家で暮らしていたという事です。
植松聖の父親と母親が実家を出て八王子市のマンションへ引っ越しをした理由ははっきりとはわかっていませんが、近隣住民が、夜中に母親と思われる女性の叫ぶ声が聞こえて、それから半年後に両親だけが引っ越して行ったと証言しており、この方は植松聖が刺青を入れているのがわかり、それが原因だったのではないかと推測しているという事でした。
「4~5年前、夜中に女の人の叫ぶ声が聞こえてね。その半年後ぐらいに両親だけが引っ越していったよ。息子が入れ墨を入れてるのがわかったらどう思うよ? やっぱ、それが原因じゃないかね」
他にも、母親が野良猫に餌付けをした事で近隣住民とトラブルになり、それが原因で両親が引っ越しをしたのではないかという情報も出ていますが、いずれも確証はないようです。
相模原障害者施設殺傷事件の犯人・植松聖の家族① 父親は小学校図工教員
「相模原障害者施設殺傷事件」の犯人・植松聖の家族構成は生い立ちのところでも触れたように父親と母親、本人の3人家族です。植松聖は兄弟はおらず一人っ子です。
植松聖の父親については、小学校の図工の教師だと明かされています。
植松聖の父親は寡黙ながら物腰が低く、優しい人物で、自治会活動にも積極的に参加する真面目な人物でもあったという事です。
父親は都内の小学校の図工の教師、母親はイラストレーターで、父親は自治会活動に積極的に参加していた。
「腰が低く、あたりのやさしい人でした。教師だから子どもの心をつかむのがうまいのよ。キャンプなんかでは、一生懸命みんなをまとめてね」
また、植松聖の家族を昔からある知人によると、植松聖の父親は道徳に厳しく、幼い頃の植松聖に対して命の大切さを説いていたそうです。
「サトシの父親は小学校の先生で、まじめな人。道徳に厳しく、命の大切さを説いていました」
植松聖の父親の名前は「植松竜司」ではないかと言われていますが不確定情報です。
相模原障害者施設殺傷事件の犯人・植松聖の家族② 母親は漫画家
植松聖の母親は漫画家である事が明らかになっています。
植松聖の母親はホラー漫画家の「植松麻里」さんではないかと言われています。
植松容疑者の父親は図工の教師で、母親は漫画家だった。
植松聖の父親と母親は大学の同級生で、大学卒業後間も無く結婚し、すぐに植松聖が生まれたという事でした。
小学校教師の父親と漫画家だった母親は大学の同級生。植松容疑者の両親の同級生はこう語る。
「2人は大学を出てまもなく結婚しました。
植松聖の母親が漫画家の植松麻里さんであるとする確定的な証拠は出ていませんが、一部の週刊誌系メディアの報道内容からほぼ間違いないのではないかと見られています。
仮に植松聖の母親が植松麻里さんだとすると、「ホラーM」などのホラー系漫画雑誌に短編作品を多数発表されていました。1995年を最後に漫画家としての活動は実質的に引退されているようです。
植松聖は、相模原障害者施設殺傷事件を起こす前に、両親にも犯行計画を打ち明けており、当然ながら反対されています。
被告は犯行前、両親に事件を起こす考えを伝えたが、「周りにたくさん迷惑を掛けてしまう」「悲しむ人がたくさんいる」と制止されたという。しかし「何度も考えて間違っていると思えなかった」として、考えを変えるつもりはなかったと明かした。打ち明けた時期が二〇一六年二~三月の措置入院の前か後か問われると「覚えていません」と答えた。 両親について「学習塾に行かせてもらい、部活動もさせてもらい、不自由なく生活させてもらったと思う」と述べ、「大切な人」との認識を示した。
植松聖は、事件の前に衆議院議長の公邸に津久井やまゆり園を襲撃を予告する内容が含まれた手紙を持参し津久井やまゆり園を自主退職させられた後、他人に危害を加える恐れがあるとして措置入院させられています。
半年後、植松聖が退院した時には両親は「(自分たちが住む八王子の)マンションの部屋が空いている」として同居を持ちかけていますが、植松聖はそれを拒否。
この頃、母親は植松聖を幼少期から知る知人のカウンセラーに植松聖の治療を依頼しています。医師から植松聖が大麻を常用している事を知らされた母親は、植松聖の幼馴染や交際女性に連絡を取り「薬物を止めるように見守ってほしい」と頼むなどしており、気にかけていたようです。この時に母親から連絡を受けた植松聖の幼馴染は「お母さんは疲れ果てた様子だった」と供述しています。
また、植松聖は、措置入院からの退院後に市に生活保護を申請した際に、母親からLINEで「それでは当たり屋と同じ」と反対され、自分で働いて生活するように促されています。植松聖は母親に「こんな時に受けなくて、いつ受けるんだよ」と反論しています。
相模原障害者施設殺傷事件の犯人・植松聖の経歴① 帝京大学文学部教育学科
植松聖は高校を卒業後は、父親に大学進学するように言われ、父親と同じ教師を目指す事を考えて2008年4月に「帝京大学文学部教育学科初等教育学専攻」(現在の教育学部初等教育学科)へAO入試で進学しています。
植松聖は大学時代も勉強には熱心に取り組まず、飲み会中心のサークルに所属、大学2年の時に脱法ハーブに手を出して週に数回吸引し、大学3年時には刺青を入れています。周囲からはクラブ通いやナンパも繰り返すような“陽キャ”という印象も持たれていたようです。
一方で、植松聖は大学時代に学童保育のアルバイトをしていますが、他の子を鉛筆を刺したり、家に石を投げ込む問題児を見て、「良い子たちを泣かしてしまう。この子がいない方がみんなが楽しいのではないか」との考えを持ったようです。
植松聖は大学4年の2011年5月〜6月にかけて小学校で教育実習をしており、それなりの高評価を得たものの、特別支援学級で教育実習をした際に、ネット上で「きょうは身体障害の人200人ぐらいに囲まれてきたぜ。想像以上に疲れるぜ。みんな頭悪いぜ」と差別に満ちた投稿をしています。
植松聖は大学で教員免許を取得しましたが、「教師には向いてない」などとして教師になるのをやめています。
相模原障害者施設殺傷事件の犯人・植松聖の経歴② 運送業を経てやまゆり園へ
植松聖は帝京大学を2012年3月に卒業後、「楽そう」との考えから運送会社に就職し、自動販売機に飲み物を補充する仕事に従事していますが、わずか8ヶ月後の2012年11月に退職。
2012年12月1日より「津久井やまゆり園」に職員として採用されていますが、当初は勤務態度は真面目で評価され、植松聖は友人にも「障害者は子供みたいでかわいい」、「この仕事は天職」などと話していました。
一方で、大学卒業後に植松聖の素行はさらに悪くなり、半グレ集団や右翼団体ともつるむようになって、車の運転で暴走して交通違反で捕まったり、大麻を使うようになったり、街で喧嘩をするなどし、出会い系サイトで知り合った女性をAVに出演させて金儲けをしようと画策した事もあったという事です。
「津久井やまゆり園」での勤務態度もしばらくすると悪化し、入居者への暴言や暴行が目立つようになり、遅刻や早退も増えて、会社側からの指導を受けるようになりました。
そして、2015年1月には刺青を入れている事がバレてこれが問題になるも、植松聖は悪びれる事もなくわざと袖の短いシャツを着て刺青を見せびらかし脅すようにして施設内を歩き回っていたという事です。
また、植松聖は2015年6月より、尊敬していた彫り師に弟子入りして本格的に彫り師の修行を始めていますが、「障害者は皆殺しにすべき」と発言するなど常軌を逸した言動が増えたため、彫り師は「ドラッグを使用している可能性が高い」とみなされて破門されています。
2016年2月に入ると、植松聖は津久井やまゆり園の職場でも「障害者は死んだほうがいい」、「重度障害者の大量殺人はいつでも実行できる」などと堂々と発言するようになり、危険と判断した施設側が警察に相談。津久井警察署は相模原市長に通報し、同市は措置診断を決定。医師より「入院の必要がある」との診断が出たため、2月19日、精神保健福祉法に基づいて、植松聖の北里大学東病院への緊急措置入院が決まりました。植松聖は同日付で津久井やまゆり園を自己都合により退職しています。
同年3月2日、植松聖は退院し、それから約5ヶ月後の7月26日に「相模原障害者施設殺傷事件」を引き起こしました。
相模原障害者施設殺傷事件の犯人・植松聖の獄中結婚
「相模原障害者施設殺傷事件」の犯人である植松聖ですが、獄中結婚するつもりである事が2024年10月に、月刊「創」の編集長である篠田博之さんによって明かされました。
植松死刑囚に驚愕の事態が訪れた。何と「獄中結婚」、しかも相手は障害を持つ女性なのだ。
本人が書いた自筆の結婚報告を掲げよう。いまだ苦しんでいる事件の被害者遺族にすれば彼の自筆の文書など見たくもないかもしれないが、こうして掲げるのは、結婚という事実を証明するためだ。
植松聖が獄中結婚をする事になった経緯ですが、ある女性「A子さん」(年齢も氏名も非公開)が、植松聖に興味を持ち面会をしたいと、2024年7月に篠田博之さんに連絡をしてきた事が発端だったそうです。篠田博之さんはA子さんに「死刑確定者は家族と弁護人以外は接見禁止だから、本当に面会したいのなら結婚するくらいの覚悟が必要」とアドバイスを送ったそうです。
後日、A子さんから篠田博之さんに「結婚を考えている」と連絡があり、9月初め頃にA子さんは獄中の植松聖に弁護人を通じて婚姻届を渡し、植松聖も結婚に同意したため、後は差し入れた必要書類に植松聖が自筆で記入して区役所に提出するだけとなっているようです。しかし、東京拘置所の方がどういう理由かは不明ながら必要書類を植松聖に渡さずに手続きを止めており、10月7日に弁護人が抗議申し入れを行ったとの事です。
植松聖との結婚を望んでいる女性A子さんですが、15歳の高校1年生の時に、入院していた病院で出会った知的障害者より性的暴行を受けて精神的ショックを受け、数日後に両親に打ち明けて警察が動いたものの、知的障害者の男は容疑を否認し、証拠不十分で立件できないという事があったそうです。
A子さんはこの事件で心に傷を負い、記憶障害を発症して普通の生活ができなくなり障害者認定を受けたそうです。A子さんは自身のPTSDに対処するために治療を続けていたが、そんな折に相模原障害者施設殺傷事件が発生し、心の中に複雑な思いが去来して植松聖に興味を抱くようになり、実際に会ってどのような人物なのか確かめたいというのが動機となったという事です。
相模原障害者施設殺傷事件の犯人・植松聖の犯行動機
植松聖は、津久井やまゆり園で知的障害者19人を殺害した動機について、「障害者は社会の負担であり、いらない」、「障害者を養い続けることは莫大なお金と時間を要する社会の負担」、「意思疎通の取れない重度障害者は人ではない“心失者”で、生産性のない者には生きる価値がない」などの持論を展開しています。
植松聖は自分の考え方が正しいと確信しているようで、「重度の障害者を安楽死させれば世界平和につながる」と本気で信じた事が今回の事件を起こす根本の動機になったと見られています。
なお、2020年3月16日に横浜地裁であった植松聖の第一審の判決後半で、裁判長は植松聖の動機を以下のように認定しています。
青沼裁判長は判決理由で、「重度障害者を殺害すれば不幸が減る。安楽死させる社会が実現し、障害者に使われていた金を他に使えるようになれば世界平和につながり、自分は先駆者になれる」との考えが犯行動機になったと認定した。
相模原障害者施設殺傷事件の犯人・植松聖の裁判と判決
「相模原障害者施設殺傷事件」の犯人・植松聖の裁判は2020年1月より横浜地方裁判所で始まり、弁護側は植松聖が大麻を長期間常用した結果、病的・異常な思考に陥った結果犯行に及んだとして、「心神喪失として無罪にすべきである」と主張しましたが、2020年3月16日の判決公判で、横浜地方裁判所は、求刑通りの「死刑」の判決を言い渡しました。
植松聖は、「死刑に値する罪とは思わないが控訴はしない。弁護人が控訴しても自分で取り下げる」と宣言していましたが、弁護人はは2020年3月27日付で判決を不服として東京高等裁判所に控訴しています。
しかし、植松聖は2020年3月30日付で自ら東京高等裁判所へ控訴を取り下げる手続きを行い、横浜地検も控訴しなかったため、2020年3月31日に死刑判決が確定しました。
相模原障害者施設殺傷事件の犯人・植松聖のその後と現在
「相模原障害者施設殺傷事件」の犯人・植松聖は裁判で死刑判決が確定したため、家族と弁護人以外は面会や手紙のやり取りができません。
そのため、植松聖の現在については詳しい情報はわかっていません。ただ、植松聖の死刑はまだ執行されていません。
植松聖の年齢は2024年11月時点で34歳で、東京拘置所に拘禁されている事がわかっています。
まとめ
今回は、2016年7月26日に神奈川県相模原市の知的障害者施設「津久井やまゆり園」で発生した「相模原障害者施設殺傷事件」についてまとめてみました。
相模原障害者施設殺傷事件は、知的障害者施設「津久井やまゆり園」の入所者19名が、犯人の植松聖に刃物で刺されて亡くなり、他に入所者と施設職員26名が重軽傷を負った大量殺傷事件です。
相模原障害者施設殺傷事件のあった津久井やまゆり園の場所は「神奈川県相模原市緑区千木良476番地」です。
相模原障害者施設殺傷事件の被害者は10代から70代までの男女19名の方で、当時19歳の美帆さんら数人の方だけが名前を公開していますが、ほとんどの方は氏名や顔写真などは公開されていません。これは遺族の意向もあるという事です。
相模原障害者施設殺傷事件の犯人は植松聖という男で、1歳の頃から相模原市で育った生い立ちを持ち、父親は小学校の図工教師、母親は漫画家という家族で一人っ子で育ちました。実家は事件のあった津久井やまゆり園から約600メートルほどの場所で、事件当時、犯人の植松聖はここで一人暮らしをしていました。
犯人の植松聖の経歴ですが、帝京大学を卒業後、運送会社に就職するも8ヶ月ほどで退職し、その後、2012年12月から津久井やまゆり園に就職しています。しかし、重度障害者は安楽死させた方がいい、重度障害者の大量殺人はいつでも実行できるなどと危険な発言を繰り返すようになったため、2015年2月に退職し、緊急措置入院しています。ところが、わずか10日余りで植松聖は退院となり、それから約5ヶ月後に相模原障害者施設殺傷事件を引き起こしました。
植松聖の犯行の動機は「意思の疎通のできない重度の障害者を養い続けることは莫大なお金と時間を要する社会の負担なのでいない方が良い」という危険な思想に基づくものでした。
植松聖の裁判は2020年1月に横浜地方裁判所ではじまり、同年3月に死刑判決が言い渡されています。弁護人は判決を不服として控訴しましたが、植松聖自身が控訴を取り下げ、死刑判決が確定しています。
植松聖のその後や現在ですが、死刑判決が確定後は弁護人と家族以外は面会も手紙のやり取りもできないため詳しい事はわかっていません。ただ現在はまだ死刑は執行されておらず東京拘置所に拘禁されているようです。また、2024年10月にはある女性と獄中結婚しようとしている事が明らかにされています。