イトマン事件と犯人/許永中や伊藤寿永光の現在!山口組や三井住友銀行・事件の流れをわかりやすく解説

イトマン事件とは大阪にあった株式会社イトマンを通して、三井住友銀行から3000億円の大金が山口組などの裏社会に流出した事件です。イトマン事件について流れや判決、主な犯人とされる許永中や伊藤寿永光の判決や現在をふくめてわかりやすく説明します。

イトマン事件の概要

 

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バブル景気崩壊直後の1991年7月、株式会社イトマンの元社長・河村良彦、同社元常務・伊藤寿永光、在日コリアンの実業家・許永中ら6人が大阪地方検察庁特別捜査部によって逮捕されました。容疑は特別背任罪です。

 

当時、住友銀行(現在の三井住友銀行)の系列会社であったイトマンは、「闇のフィクサー」と呼ばれた許永中と、「地上げマン」と呼ばれた常務の伊藤寿永が持ち込んだゴルフ場開発や絵画販売などの案件で、住友銀行を含む銀行からの借入金を急膨張させていました。

 

というのも、伊藤氏がイトマンに持ち込んできた不動産関係の案件はとても住友銀行などの金融機関が引き受けられないような「汚れ仕事」が多く、同じく許氏が持ち込んできた絵画販売も同様に許氏の言い値でイトマンが絵画を買うという怪しいものだったのです。

 

こうしてイトマンの銀行への借入金は1兆円という金額まで膨れ上がり、そのうちの3000億円が伊藤氏や許氏の「黒い案件」を介して山口組につながる闇社会に流出したと見られています。

 

歴史のある株式上場企業を隠れ蓑に裏社会が銀行から多額の金を引き出したとされるイトマン事件は、「戦後最大の経済事件」とも呼ばれています。

 

 

 

イトマン事件の流れをわかりやすく解説① イトマンとは?

 

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イトマンの前身は「伊藤萬株式会社」という1883年に大阪の心斎橋に設立された繊維商店でした。

 

社名は創業者の伊藤萬助にちなんでつけられたもので、大正時代の末から昭和初期にかけて業績を伸ばし、「天下のイトマン」と呼ばれるほどに成長したといいます。

 

第二次世界大戦終了後には織物や繊維製品を中心に成長し、1949年には繊維商社として株式上場も果たしました。

 

しかし、1973年に石油ショックが起きると一転して経営が悪化。そこに救済に入ったのが、住友銀行だったのです。

 

これがきっかけとなって、伊藤萬株式会社は実質的に住友銀行の商社部門と言われるようになっていきました。

 

 

 

イトマン事件の流れをわかりやすく解説② 住友銀行の子会社になる

 

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1973年に伊藤萬株式会社の経営状態が悪化した際、住友銀行は伊藤萬株式会社の再建に河村良彦氏を送り込みました。

 

河村氏は高卒で住友銀行に入社し、イトマン再建を任される前には常務の役職に就いていました。当時のトップバンカーと謳われた住友銀行の磯田一郎会長の引き上げで、企業再建を任されたといわれています。

 

河村氏は1973年に伊藤萬株式会社の副社長の座に就くと、経営改革を行って在庫の適正化などにより77年には財務の黒字化を達成。さらに78年には株式の配当も復活させました。

 

この業績によって河村氏は一時期、名経営者と謳われていましたが、実は伊藤萬株式会社の再建手段には問題もありました。

 

通常、繊維商社は安い時に仕入れて、市場価格が高騰してから売るという手法で利益を上げます。

 

これが在庫を抱える原因になると考えた河村氏は、在庫を持たずに注文が来たら製品を買う・つくるというスタイルに変更しました。

 

しかし、すぐに希望の商品を卸せない問屋からはあっという間に顧客が離れてしまい、伊藤萬株式会社は営業が弱体化してしまったのです。そのため外からは順調に見えた再建も、内側からは疑問視する声が出ていたといいます。

 

 

 

イトマン事件の流れをわかりやすく解説③ 怪しくなる経営

 

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河村氏が副社長に就任すると、伊藤萬株式会社は繊維商社ではなく総合商社を目指して1982年に石油事業にも参入しました。

 

石油の業転という、石油の元売り会社で石油が不足した際にほかの会社が石油を融通する事業にも手を出したのですが、この業転という仕事自体トラブルも多く、グレーな方法で利益を上げている会社も多かったといいます。

 

伊藤萬株式会社は1984年に石油の業転に手を出したものの、4か月後には辞めようとしました。

 

しかし、取引先への支払いを拒否して業転を辞めようとしたことから、石油の元売り商社などから支払いの請求訴訟を起こされてしまいます。

 

結局、取引先への支払いはきちんとするということで和解したとのことですが、河村氏はこのほかにも居酒屋のつぼ八へ自社の役員を送り込み、「経営指導」の名目で1億円ものお金を吸い上げる「つぼ八乗っ取り事件」も1987年に起こしています。

 

 

南青山での地上げ失敗

 

ここまでの流れを見ても伊藤萬株式会社は本当に大丈夫なのか、健全に再建できたとは言えないのではないかと感じる方もいるでしょう。

 

伊藤萬株式会社は上記の事件を通して徐々に信頼を失っていったとされていますが、そんななか、車内では南青山での自社ビル建設の話が持ち上がっていました。

 

自社ビル建設のため、伊藤萬株式会社は名古屋の不動産会社の慶屋を介して南青山での地上げを開始。しかし、計画途中で慶屋と仲たがいをしてしまい、結局すべての区画の土地が買収できないまま地上げは失敗してしまいます。

 

この地上げに伊藤萬株式会社が費やした費用は850億円にも上るとされ、中途半端な状態の土地と慶屋の借金を引き受けることになりました。

 

しかも伊藤萬株式会社はこのほかにも慶屋に三重県志摩郡でのリゾート開発という名目で140億円の出資をしていたのですが、これも回収できずに頓挫。

 

 

イトマントータルハウジングと不良在庫

 

さらに住友銀行から依頼をされて、1988年7月には投資用のワンルームマンション経営を手掛けていた杉山商事の再建に乗り出すのですが、ここでもトラブルが起きてしまいます。

 

総合商社を目指していた伊藤萬株式会社は杉山商事を傘下に入れてイトマントータルハウジングという子会社を設立したのですが、杉山商事は当時1900億円相当の在庫マンションを所持しており、そのうち1500億円相当が買い手の目途が立たない不良在庫だったのです。

 

 

 

イトマン事件の流れをわかりやすく解説④ 雅叙園観光と許永中・伊藤寿永光

 

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伊藤萬株式会社は東京都目黒区にある目黒雅叙園で雅叙園観光ホテルを運営していた雅叙園観光にも、111億円の出資をしていました。

 

雅叙園観光は目黒雅叙園を開発する権利を持っているとの説明を受け、伊藤萬株式会社は雅叙園周辺の土地を地上げし、周辺に結婚式場などを建てて再開発をする目的で、雅叙園観光を傘下に収めたのです。

 

しかし、実際には雅叙園観光は目黒雅叙園開発の権利など持っておらず、権利者は合資会社雅叙園というまったく別の会社でした。

 

そのうえ合資会社雅叙園は違法に敷地内に雅叙園観光ホテルを建設した雅叙園観光に対して、引き渡しの訴訟を起こしている最中だったという始末。

 

このような違法行為を平然と行う雅叙園観光という会社、まともなはずがありません。

 

過去には社長の坂上氏と会長の松尾氏と間で主導権を巡って争いが起きており、そのお家騒動の最中に坂上社長が大阪の仕手集団、コスモポリタンと組んで自社株を買い占めようとしていました。

 

仕手集団とは投機目的の株の売買で株価を操作し、一攫千金を狙う投資家集団のことです。坂上社長は協力を得るためにコスモポリタンへ多額の使途不明金を流していたとされます。

 

これに対抗して松尾会長も大阪の仕手筋、豊光実業や警察OBに協力を依頼。最終的に松尾会長側は兄弟会社の日本ドリーム観光を、坂上社長側が雅叙園観光を手に入れるというかたちで話は終わったのですが、この後に雅叙園観光はコスモポリタンの池田会長に乗っ取られてしまうのです。

 

池田会長は雅叙園観光の実権を握ると手形を乱発して会社の経営を悪化させ、それによって大株主であるコスモポリタンの資金繰りが悪化したことから1988年8月に失踪。

 

そして、池田会長に代わって雅叙園観光の経営権を取得したのが、「闇のフィクサー」「闇の紳士」と呼ばれる在日コリアンの実業家・許永中だったのです。

 

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許氏は新聞会社やフェリー会社などいくつもの会社を所有する実業家で、政財界や裏社会とのつながりも強く、持ち込まれたトラブルは拒まずにずべて解決することからフィクサーとしても有名な人物でした。

 

さらに雅叙園観光の実際の経営を任されたのが、後に許氏とともにイトマン事件で逮捕される伊藤寿永光だったのです。

 

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伊藤氏は小規模な結婚式場を複数所持していた実業家で、協和総合開発研究所という不動産コンサルタントの会社を経営する地上げのプロでもありました。

 

伊藤氏は1990年1月に叙々苑観光の筆頭株主となり、前会長の池田氏が乱発した手形の回収を開始します。

 

この時、伊藤氏の回収の手腕や不動産の知識などを見た河村氏は伊藤氏を高く評価して伊藤萬株式会社にスカウト。伊藤氏に不動産関連業務を任せるべく、企画管理本部長に抜擢しました。

 

 

 

イトマン事件の流れをわかりやすく解説⑤ 許永中という人物

 

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ここで、イトマン事件でもっとも有名になった人物・許永中氏の人物像を見ておきましょう。

 

許氏は1947年に、大阪府大阪市北区の中津で在日コリアンの漢方医師の次男として誕生しました。

 

家族は両親と自分をふくむ5人兄弟の7人。生活は苦しく、母親がどぶろくを作って生計を支えていました。

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許氏はスポーツ万能で頭もよく、小学校、中学校と成績は常にトップクラスだったといいます。

 

しかし、当時は韓国人に向けられる目は非常に差別的で冷ややかなもので、同級生に「キムチ臭い」などとからかわれては喧嘩をする毎日で、トラブルを起こすことが多かったそうです。

 

ただ、フィクサーとしての才覚は子どもの頃からあったようで、当時の同級生からは「喧嘩をして倒された相手は、その後はだいたい永中の味方になっていた。人を惹きつける能力は持って生まれたものだと思う」との証言が出ています。

 

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24歳の時に結婚をした許氏は、妻の実家から援助を受けて土木会社を設立します。同和関係者や在日コリアンのネットワークの後ろ盾を得ながら、事業は急速に拡大。300のファミリー企業を抱え、総資産1兆円を超えるまでに成長しました。

 

1986年には「韓国と日本の架け橋を作りたい」という想いから大阪と釜山をフェリーで結ぶ大阪国際フェリーを設立。

 

ちょうどソウルオリンピックを目前に控えていたことから、大阪国際フェリーの航路は「ソウル88」と呼ばれるようになり、日韓両国から注目を集めました。

 

 

裏社会とのつながり

 

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志望校受験に失敗し、補欠で大阪工業大学に入学したという許氏は、ここで裏社会とのつながりを強めていきました。

 

大学に入ったものの学業ではなくアルバイトに精を出し、180㎝という大柄で威圧的な風貌を活かしてパチンコ店や雀荘で用心棒の仕事をするようになったのです。

 

この仕事で地元の暴力団と殴り合い、失明寸前の大怪我を負ったとされますが、次第に暴力団さえ若き許永中に一目置くようになっていきました。

 

許氏によると大学に入ってから高額なアルバイト代につられて興味本位で裏社会に足を踏み入れたのではなく、当時の在日コリアンはヤクザや暴力団と切っても切れない関係にあったのだといいます。

 

同じ中津で育った在日コリアンの同級生も、中学に入る頃から当たり前のようにヤクザの事務所に出入りするようになり、電話番をしていたそうです。

 

三代目山口組の二次団体で、山口組きっての武闘派・殺しの軍団と恐れられた柳川組の組長・柳川次郎も中津出身の在日コリアンで許氏の先輩にあたり、交流があった裏社会の大物の1人とされます。

 

 

日本レース株買い占め事件

 

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1988年、伊藤萬株式会社は日本レースという洋服や装飾品などのレースを製造する企業の株を手に入れ、新しい社長を送り込んで日本レースの再建に着手していました。

 

この会社はかつて社長が京都商工会議所の会頭を務めたこともある関西の名門だったのですが、家庭用ミシンの普及などで業績が悪化。株式買い占めの対象になっていました。

 

日本レースの株価が暴落すると、仕手筋のヤマノビューティメイトという会社が日本レースの株の買い占めを行い、経営権を取得。

 

その後、日本最大の仕手集団といわれた三洋興産が日本レースの乗っ取りを図って株の買い占めを始めました。

 

この対応に困ったヤマノビューティメイトは、許氏のもとに駆け込み、どうしたら三洋興産に手を引いてもらえるのか相談したといいます。

 

そこで許氏は「手形を大量に発行して借金を増やし、財務状況を悪化させれば三洋興産も乗っ取りに旨味がなくなって手を引くだろう」とアドバイスしたそうです。

 

ヤマノビューティメイトは許氏の助言に従って年商をはるかに上回る額の手形を発行。

 

日本レースの財務は悪化し、三洋興産もヤマノビューティメイトも赤字を出したところで痛み分けとして和解し、株式は太田生命が引き取ることになったといいます。

 

その後、なぜか1988年に伊藤萬株式会社へ日本レースの株式が大量に流れてきて、経営権を取得したとされます。

 

なお、この事件では手形の発行を指示した許氏のもとにも日本レースの株が流れていたそうです。

 

 

 

イトマン事件の流れをわかりやすく解説⑥ 絵画の高額取引

 

地上げ屋の伊藤氏や裏社会ともつながりのある許氏を伊藤萬株式会社に近づけることを、住友銀行会長の磯田氏は良く思っていなかったそうです。

 

しかし、磯田会長は許氏と伊藤氏に弱みがあったため、関係の断絶を河村社長に強く迫れなかったのではないか、とも言われています。

 

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1989年の秋ごろ宝飾品や高級美術品を販売するセゾングループ傘下のピサという会社の嘱託社員が、河村社長に絵画の取引話を持ち掛けました。

 

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河村社長は考えた結果、当時、雅叙園観光の件で知り合いになっていた伊藤氏に相談して「絵画を買ってくれそうな人を紹介してほしい」と対応を依頼したといいます。

 

すると伊藤氏は許氏にも相談して、絵画を担保にした共同事業を始めることにしたのです。2人が考えた事業は以下のようなものでした。

 

・許氏がピサから絵画を購入

 

・許氏が絵画を担保に伊藤萬株式会社から融資を受ける

 

許氏は当時、大阪府内で美術館建設を計画していたといい、伊藤氏は河村社長に「私の知人がピサから絵を買い、それを完成した美術館に飾りたいと話しています」と説明。

 

伊藤萬株式会社が絵画を担保に購入価格以上の金額の融資をして美術館完成に協力し、利益が出たところで融資に利子をつけて返すという話でまとまったとされます。

 

河村社長も何もしなくても懐に入ってくる利益に目がくらんだのか、伊藤氏の提案に応じて、許氏の言い値で絵画を担保に融資するようになってしまいました。

 

高額な融資をするほど入ってくる利子も多いわけですから、悪い話ではないと河村社長も考えたのでしょう。

 

こうして許氏はピサから総額120億円の絵画を購入し、絵画を担保に伊藤萬株式会社から総額670億円の融資を受けたのです。

 

それでも本当に当初の契約通りにお金を返すのなら良いのですが、もともと許氏と伊藤氏は「やはりお金は返せない」として、担保契約を売買契約に変更する予定だったのではないかと裁判で指摘されています。

 

ピサから購入した絵画を高額転売する形で、伊藤萬株式会社から多額のお金を引き出そうとしたのです。

 

本件ではもう1人事件の当事者がいます。許氏に絵を売ったピサの嘱託社員です。彼女が伊藤氏と許氏の計画を詳しく知っていたのかは不明ですが、絵画を許氏に販売していたのはたしかです。

 

この嘱託社員は、実は住友銀行の磯田会長の娘でした。磯田会長が直々に河村社長に連絡をして「娘の世話を頼めないか」と頼んでいたといいます。

 

磯田会長は娘を目に入れても痛くないほど可愛がっていたそうで、不審に思うことがあっても、娘の仕事に協力をしてくれている伊藤氏と許氏の存在を認めざるを得なかったのではないかとも言われています。

 

そのため、捜査関係者の間では「イトマン事件は磯田会長の親バカが招いた惨事」と囁かれることもあったそうです。

 

 

 

イトマン事件の流れをわかりやすく解説⑦ 不動産投資による負債増加

 

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伊藤氏は1990年2月の入社からわずか4ヶ月で、伊藤萬株式会社の筆頭常務に抜擢されました。

 

では、それだけの利益を会社にもたらしていたのかというとそうではなく、伊藤氏が入社した後の1990年4月から9月までの6ヶ月の間に、伊藤萬株式会社の有利子負債は3162億円、債務保証は776億円も増加したといいます。

 

しかも1990年3月には日銀が利上げを発表し、大蔵省(現在の財務省)が金融機関に対して不動産融資総量規制を通達しました。

 

総量規制はバブル景気によって土地の価格や株価が本当の価値とは乖離した状態で高騰してしまったことを理由に、実体経済に見合った価格に是正するためにとられた措置です。これにより、金融機関からの融資金額が制限されることとなりました。

 

公定歩合の引き上げと総量規制により、不動産や株式の投資環境は著しく悪化。本来ならば伊藤萬株式会社も不動産投資を控えるべきなのですが、伊藤氏は総量規制以降も不動産投資を増やし続けたのです。

 

さらに河村社長も1990年7月にアメリカ、カリフォルニア州に700万㎢もの土地を買って500以上の区画の住宅を1戸あたり1億円で売りだすというとんでもないプロジェクトを発表し、世間の動きと逆行するように負債を増やしていきました。

 

 

 

イトマン事件の流れをわかりやすく解説⑧ 大阪府民信用組合取り付け騒ぎ

 

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1990年11月、大阪にあった大阪府民信用組合の大口預金者が次々と預金の解約を迫り、わずか2ヶ月間で預金量が700億円も減るという取り付け騒ぎが起こりました。

 

大阪府民信用組合はこの騒ぎが起きる前月までは預金量3560億円で、日本国内にある信用組合の中でも6位の預金量を誇っていたといいます。

 

それがこのような事態に陥ってしまった理由は、組合の貸付金3050億円のうち、1200億円が特定の企業に貸し出されていることが発覚したことから、大阪府が行政指導には入るという情報が流れ始めたためでした。

 

その貸付先というのが伊藤氏や許氏の関連企業であり、取り付け騒ぎが原因となって大阪府民信用組合はオーバーローン状態となり、都市銀行に合併されることになりました。

 

なお、この騒ぎは当時の関西では大きかったようで関係のない信用組合や信用金庫でも預金の引き出しが多発したといいます。

 

 

 

イトマン事件の流れをわかりやすく解説⑨ 現・三井住友銀行が調査開始

 

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そんななか、1990年5月に「イトマン従業員一同」という差出人名で、大蔵省や日銀などに伊藤萬株式会社の経営状態をリークする手紙が届きました。

 

この手紙の本当の差出人は、伊藤萬株式会社の実態を調査していた住友銀行の國重惇史業務渉外部部長でした。

 

國重氏日本経済新聞の記者らと協力して伊藤萬株式会社について調べ上げ、会社の負債総額が急膨張していること、その背景に新しく入社した伊藤という人物がいること、不動産投機や絵画売買を通して資金が裏社会に流れていることを突き止めていました。

 

このことを銀行内部で問題にしてもどこで握りつぶされるかわからなかったため、世論を味方につけるべく大蔵省などに手紙を出したのです。

 

同時に日経新聞にも記者が書き上げた記事が掲載される予定でしたが、5月24日に同紙に載った記事は「伊藤萬、土地・債務圧縮急ぐ 住銀、融資規制受け協力」というごく短い文章のみ。

 

実はこの前日に住友銀行の巽頭取が日経新聞社を訪れ、「細かい数字が違うので、詳細が判明するまで記事にしないで欲しい」と直談判に来ていたのです。

 

こう聞くと巽頭取が日経に圧力をかけて揉み消しを図ったように見えますが、巽頭取はイトマン事件解決のために奔走していた人物の1人でした。ここで間違った情報を出せば不利になりかねないと考えての判断だと思われます。

 

8月になると日銀からも住友銀行に連絡が入り、伊藤萬株式会社の財務データを提出するように求められましたが、伊藤萬株式会社から送られてくるデータが毎回おかしく、指摘するたびに違いが出るためになかなか応じられなかったといいます。

 

正確なデータが届いたのは8月30日になってからで、住友銀行も日銀へデータを提出すると同時に自らも調査に乗り出し、日経新聞にも細かい数字を伝えました。

 

こうして日経新聞が伊藤萬株式会社の実態を報道。そして、伊藤萬株式会社の有利子負債は1兆4600億円、債務保証は1兆3500億円にもなっていたことが報じられたのです。

 

 

 

イトマン事件の流れをわかりやすく解説⑩ 河村社長の解任

 

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この騒ぎのなか、10月には住友銀行の磯田会長が辞任。この辞任はイトマン事件のほか、住友銀行青葉台店の支店長が200億円を超える不正融資をした「光進事件」の責任をとるものでした。

 

そして10月11日には河村社長が不動産関係の負債を1年間で完済し、財務を健全化すると発表。

 

しかし、表ではそう言いながらも河村社長はこの期に及んでも広島県庄原市にサーキット場などを備えたリゾート施設をつくるという協議に参加し、これに出資しようとしていました。

 

11月8日には、伊藤氏が辞職。表向きは「土地の買収に目処がついたため」という理由での退職でした。

 

実際には住友銀行側から河村社長を退職させるように迫られた伊藤萬株式会社の常務が、伊藤氏と組んで社長退任計画を立てていたのがバレてしまって会社を去ることになったとの話もあります。

 

その後、住友銀行は河村社長に「辞職しないのなら会社更生法を適用する」と通告しましたが、それでも辞める気配を見せないことから、銀行側は再建プロジェクトチームを派遣。

 

そして1991年1月の役員会で副社長が河村社長の退任を求め、その場で賛成多数により可決されてついに河村社長が会社を去ることになったのです。

 

 

 

イトマン事件の流れをわかりやすく解説⑪ イトマンとして再出発

 

伊藤氏と河村社長という会社の負債が急膨張する原因をつくった2人の幹部が会社を去り、1991年1月に伊藤萬株式会社は社名を「イトマン」に変更して再スタートをきりました。

 

このことを見越して、住友銀行も1990年12月にイトマンが抱える1590億円の短期無担保債権の肩代わりを発表。住友銀行が負うことになったイトマン関連の負債は3000億となりました。

 

そして91年3月には新体制となったイトマンが5000億円の資産を分離して、総合商社ではなく繊維商社に立ち返って経営再建を図ると発表します。

 

こうしてイトマンが伊藤萬株式会社時代に背負った負債は3500億円にまで圧縮、その後さらに500億円の圧縮に成功したのですが、3000億円からはなかなか減らすことができずに苦戦することとなります、

 

 

 

イトマン事件の流れをわかりやすく解説⑫ 犯人たちの逮捕

 

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そして1991年7月23日午前、ついに大阪府警特捜部によって河村良彦元社長(当時66歳)、伊藤寿永光氏(当時45歳)、許永中氏(当時44歳)をふくむイトマン事件の容疑者6人が逮捕されます。

 

容疑は河村元社長が自社株取得禁止違反、伊藤氏と許氏が背任罪、ほかの3名は私文書偽造および行使と報じられています。

 

伊藤氏と許氏は上で説明した絵画の取引が背任罪にあたるとされ、河村元社長はイトマンの子会社から親族の会社に融資をして、それを資金に自社株1350万株を取得していたことが商法に違反するとされました。

 

 

 

イトマン事件の流れをわかりやすく解説⑬ 判決

 

逮捕後、警察の取り調べに対して伊藤氏と許氏は「絵画の取引は本当に絵画を担保にした融資に過ぎなかった、会社に損害を与える意図はない」と主張。河村社長も「違法行為とは思わなかった」と供述したといいます。

 

一貫して「自分は嵌められただけだ」と訴え、無実を主張した河村社長、伊藤氏、許氏の3人。それぞれに言い渡された判決は以下の通りです。

 

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・河村良彦元社長…懲役7年のの実刑判決

 

・伊藤寿永光氏…懲役10年の実刑判決

 

・許永中氏…懲役7年6か月および罰金5億円の実刑判決

 

 

裁判中に許永中が逃亡

 

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裁判の最中に許氏は「妻の実家で法事があるので出席したい」として、6億円もの保釈金を支払って1997年9月27日から韓国に渡航しています。

 

しかし韓国に着くと宿泊先のソウル新羅ホテルで倒れて大学病院の心療内科に入院。そこから逃亡して行方不明となってしまったのです。

 

10月1日には帰国するという約束で裁判所に許可をとっていたものの、逃亡を続けたために保釈金の6億円は没収となりました。なお、この金額は2019年にカルロス・ゴーン氏が15億円を没収されるまでは最高金額でした。

 

その後も国内外を転々として逃亡生活を続けていましたが、1999年11月に港区内のホテルで身柄を拘束されて収監され、2001年には刑期が確定して黒羽刑務所に服役することとなりました。

 

 

イトマン事件の闇・山口組に資金が流れていた?

 

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イトマン事件で一番問題視されていながら、未だに真相が明らかになっていないのが「イトマンを通じて住友銀行から出ていった資金のうち3000億円が、山口組などの裏社会に流れていた」という疑惑です。

 

イトマンの抱えていた負債のうち、3000億円もの大金が何に使ったのか未だに判明しておらず、使途不明金として闇に消えているのです。

 

上述のように許氏は柳川組の組長と懇意にしており、自ら語っているように若い頃から山口組に近い場所で生活していました。

 

イトマン事件のもう1人の主役ともいえる伊藤氏も山口組と関係があったとされ、バブル期の伊藤氏を知る日本リスクコントロール社長の寺尾文孝氏も、『現代ビジネス』に寄せた手記で以下のように綴っています。

 

伊藤は宅見組の宅見勝組長(五代目山口組のナンバー2)と親しく、その関係をチラチラとほのめかした。経営していた名古屋の結婚式場で芸能人のイベントなどを仕掛けたところから、接点ができたようだ。伊藤が宅見組長を「お兄ちゃん」と呼ぶのを聞いたことがある。

 

引用:許永中と伊藤寿永光が口説いたオンナ

 

また、許氏も雅叙園観光の件で伊藤氏とはじめて知り合った際、伊藤氏は宅見組長を連れてきたと話しており、「イトマン事件でも背後で糸をひいていたのは宅見さん」とまで言っています。

 

この許氏の証言については嘘だ、という批判も出ており真偽は不明です。

 

しかし、1989年に山口組若頭となった宅見組長はちょうどイトマン事件の最中に地上げや株の売買で莫大な上納金を稼いで、山口組の金庫番とも呼ばれていましたから、イトマンから山口組にお金が流れていたのは間違いないのでしょう。

 

 

 

イトマン事件のその後① イトマンの現在

 

 

1991年1月以降、債務圧縮にはげんできたイトマンですが、1993年4月にはついに債務が資産を上回る債務超過の状態に陥ってしまいました。

 

そのため会社としての存続が厳しくなり、住金物産(現在の日鉄物産)に吸収合併されました。

 

こうしてイトマンは1883年から続いた110年の歴史に幕を下ろしたのです。なお、大阪市中央区本町にあったイトマン本社ビルの跡地には、本町ガーデンシティという複合施設が建設されています。

 

 

イトマン事件のその後② 許永中の現在

 

 

黒羽刑務所に収監された後、許氏は石橋産業事件という別の手形詐欺事件でも起訴されて、懲役6年の実刑判決を言い渡されます。そのため、懲役7年6ヶ月に6年がさらに加算されることになりました。

 

しかし、2012年には母国韓国での習慣を希望して12月に国際受刑者移送法に基づいて韓国の刑務所に移送され、刑期満了まで約1年を残して2013年9月30日にソウル南部拘置所から釈放されています。

 

釈放後は自叙伝『海峡に立つ 泥と血の我が半生』『悪漢(ワル)の流儀』を上梓し、2017年には『ガイアの夜明け』にも出演するなど積極的にメディアに姿を見せるようになりました。

 

韓国への移送によって日本の永住権をなくしていることから、現在は韓国で会社を興しソウルで生活しているといいます。

 

 

韓国逃亡の理由を告白

 

2020年7月放送の『激撮直撃!!スクープ』ではイトマン事件と許氏の特集が組まれ、本人もインタビューに応じていました。

 

番組内で1997年の裁判中に韓国で失踪した理由について聞かれた許氏は、以外にもイトマン事件の裁判から逃げたのではなく、同年8月に宅見勝組長が射殺されたためだと告白。

 

この射殺犯である中野会系組員の持っていたターゲットリストに許氏の名前も載っていたため、逃亡したと言うのです。

 

しかし、それならば早く拘置所に帰ったほうが安全だったのではないかと思いますし、やはり裁判から逃げるつもりで計画的に韓国に渡っただけなのかもしれません。

 

 

 

イトマン事件のその後③ 伊藤寿永光の現在

 

伊藤寿永光氏は現在、脳梗塞を患った後遺症で歩行機能を回復するリハビリに励んでいるそうです。

 

2023年で78歳を迎えて完全に仕事はリタイアしているといい、2人の子どもと2人の孫に囲まれてごく普通の生活を送っているとのこと。

 

山口組の元顧問弁護士で『悲しきヒットマン』などの著作でも知られる山之内幸夫氏によると、伊藤氏は今もなおイトマン事件は冤罪だったと訴え続けているといいます。

 

自分は名ばかり役員で何の権力もなく、すべては磯田会長の娘可愛さ、河村社長可愛さから始まった事件だといい、山之内氏も「イトマン事件で山口組にお金が流れたという事実はない」と語っていました。

 

 

 

イトマン事件についてのまとめ

 

今回は1991年に発覚した戦後最大の経済事件・イトマン事件について、わかりやすく流れを説明しつつ、許永中氏や伊藤寿永光氏がどのように事件に関わっていったのか、判決や犯人の現在なども紹介しました。

 

今回紹介したイトマン事件の詳細は、警察側、住友銀行側の視点からであり、許氏や伊藤氏などの当事者を中心に、これが事実ではない、黒幕は磯田会長だという指摘もあがっています。

 

その点もふくめてイトマン事件は闇の多い事件とされていますが、事件を知る住友銀行の國重惇史氏や巽外夫氏らがすでに亡くなっていることから考えても、今後事件の全貌が明かされることはないのではないのかもしれません。

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