皇族の方々は国民の尊敬を集めていますが、戦前には皇族の方がテロの標的になることもありました。皇太子時代の昭和天皇が襲われた事件が虎ノ門事件です。
虎ノ門事件の詳細、犯人の難波大助の生い立ち、虎の門事件はなぜ起こったのか?その背景や原因、家族のその後、難波大助の判決・死刑、事件の影響などをまとめました。
この記事の目次
虎ノ門事件は昭和天皇銃撃事件
虎ノ門事件とは、1923年12月27日東京都の虎ノ門外で当時の皇太子である摂政宮裕仁親王が狙撃された暗殺未遂事件です。摂政宮裕仁親王とは、後の昭和天皇です。つまり、昭和天皇が皇太子時代に銃撃を受けた事件ということになります。
難波大助が狙撃
1923年12月27日午前10時35分に、皇太子の裕仁親王(当時22歳)は摂政として貴族院で第48通常議会の開院式に出席するために、御料車で皇居を出発しました。
10時40分、裕仁親王が乗る御料車は虎ノ門外に差し掛かります。そこには群衆がいて、警察が警戒線を引いて警備していましたが、群衆に紛れていた難波大助が警戒線を突破して、車に接近し、ステッキ仕込み式の散弾銃で車に向かって狙撃しました。
裕仁親王はそのまま過ごす
難波大助は裕仁親王が乗った車に向かって散弾銃で狙撃しましたが、幸いにも裕仁親王には命中せずに無事でした。ただ、車の窓ガラスにあたって、その窓の破片で同乗していた東宮侍従長・入江為守が軽傷を負っています。
銃撃を受けた御料車はその場で停車することなく、そのまま貴族院に到着しました。そして、そこでようや入江がケガをしていて出血していることに気が付きました。裕仁親王は銃撃音があったことには気が付きましたが、「空砲だと思った」と語っています。
ケガがなかった裕仁親王は、そのまま予定通りに貴族院で開院式に出席し、終了後には東宮御所に戻りました。そこで、総理大臣の山本権兵衛や警視総監朝倉平、その他皇族や武官、見舞客引見しました。その後、秩父宮雍仁親王と高松宮宣仁親王とテニスを楽しまれています。
大正天皇と皇后は沼津御用邸にいましたので、事件の報告には東宮大夫が派遣されました。
難波はその場で逮捕
裕仁親王を銃撃した難波大助は、すぐにその場から逃走を図ります。しかし、すぐに警戒していた私服警官に取り押さえられました。すると、周囲の群衆も難波に取り掛かり、そのまま袋叩きにしたのです。取り押さえた警察官が私服だったために、自分たちも難波を取り押さえて良いと思い込んだようです。
警察官は難波大助を取り押さえるだけでなく、難波を群衆の殴打から守らなければなりませんでした。
難波大助はこの虎ノ門事件を起こすにあたり、事件後に狂人扱いされないように、あらかじめ新聞社などにテロ決行と自分が共産主義者であることを書き記した趣意書を送り、さらに友人が虎ノ門事件と関係があることを疑われないように、絶縁状を送っています。
ステッキは伊藤博文が持っていたもの
出典:ndl.go.jp
難波大助は、ステッキに仕込まれた散弾銃を使って虎ノ門事件を起こしました。このステッキの仕込み銃は、もともとは日本の初代総理大臣である伊藤博文のものだったと言われています。
伊藤博文がイギリスのロンドンに行った時に入手したしたもので、それから人に渡って、難波大助の父親である難波作之進が入手しました。そして、難波大助はそのステッキの仕込み銃を「気晴らしの狩猟のため」と言って実家から持ち出していました。
もともと伊藤博文のものだったステッキ銃が、最終的に皇太子・裕仁親王を銃撃するなんて、歴史の運命を感じずにはいられません。
虎ノ門事件で内閣総辞職
虎ノ門事件では、難波大助が皇太子・裕仁親王を銃撃しました。幸いにも裕仁親王は無傷でケガはありませんでした。ただ、皇族(皇太子)を暗殺しようとした罪は非常に重く、衝撃的なニュースでした。
天皇は現代でこそ「象徴」とされていますが、戦前は「現人神」でした。天皇=神だったのです。次の天皇(神)となる皇太子を銃撃するなどもってのほか。そのため、虎ノ門事件は発生後すぐに大きな責任問題に発展しました。
その日の夕刻には、当時の内閣総理大臣である山本権兵衛、そして内閣の閣僚は全員皇太子・裕仁親王(摂政宮)に辞表を提出しています。裕仁親王は内閣メンバー全員が辞表を提出したことに関し、内閣総理大臣経験者である松方正義公爵と西園寺公望公爵から意見を聞くため、入江為守(虎ノ門事件で負傷)を派遣しました。
皇太子・裕仁親王は山本権兵衛を慰留しましたが、辞職の意思は固く、事件から約10日後の1月7日に内閣総辞職が認められました。また、警備の責任を取って、警視総監の湯浅倉平と警視庁警務部長の正力松太郎が懲戒免官にになっています。
さらに、難波大助の出身地や卒業した小学校の教員なども責任を取らされました。
虎ノ門事件で責任を取ることになった人たちはこちらです。
・内閣総理大臣:辞職
・司法大臣以下内閣全閣僚:辞職
・警視総監:懲戒免官
・警視庁警務部長:懲戒免官
・出身地の山口県知事:2ヶ月間の2割の減俸
・事件前に立ち寄った京都府の知事:譴責処分
・難波大助が卒業した小学校校長:辞職
・難波大助が小学校の担任:辞職
また、難波大助の出身地は正月行事をすべて取りやめることになりました。
難波大助は虎ノ門事件で皇太子を銃撃したけれど、皇太子は無事でした。それでも、これだけの人々が責任を取ることになったのです。現代で、ここまでの人たちが責任を取るような事件はないと思います。そう考えると、この虎ノ門事件は当時、いかに大きな事件で衝撃的なニュースだったかがわかると思います。
虎ノ門事件の犯人の難波大助の生い立ち
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虎ノ門事件の犯人の難波大助は、いわゆる「名家」の出身でした。
1899年に山口県熊毛郡周防村立野宮河内に生まれました。難波家は戦国時代から長州藩寄組清水氏の家臣で、難波大助の父親の難波作之進は庚申倶楽部所属の衆議院議員でした。
父親は長州藩出身だったこともあり、強い尊王思想の持主でした。その影響で、子供の頃は難波大助は皇室中心主義者だったのです。
しかし、中学5年生の時に難波大助の考えを変える出来事がありました。山口県出身の田中義一陸軍大臣が帰省した時に、みぞれが降る寒い中、みんな沿道に整列させられます。すると、難波大助の親友が肺炎で倒れてしまいます。それを見た教師は「無礼だ!」と叱ったことで、難波は憤慨して、教師2~3人を殴ってしまいます。このことをきっかけに「皇室中心主義」の思想に変化が生じ、さらに中学を中退することになりました。
1919年、20歳の時に予備校に通うために、難波大助は東京の四谷に住むことになりました。この頃から東京での貧困の実情を目の当たりにする機会が増え、さらに社会問題に興味を持つようになり、社会主義・共産主義へと思想が変わっていきました。
1922年には早稲田第一高等学院に入学しましたが、1年で退学し、その後は日雇い労働者として生活することになりました。そして、1923年(24歳)に関東大震災を経験し、その3ヶ月後に虎ノ門事件を起こすのです。
虎ノ門事件はなぜ起こった?背景・原因①:共産主義が世界的に高まる
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虎ノ門事件はなぜ起こったのでしょうか?その背景や原因を探っていきましょう。虎ノ門事件の背景には共産主義の台頭があります。
1917年3月にロシア帝国は崩壊して、1917年11月に社会主義国家のソビエト連邦が誕生しました。これをきっかけに世界中で気社会主義・共産主義が台頭してきます。それは日本も例外ではありませんでした。1921年(1922年の説も)には非合法組織である第一次共産党が誕生しました。
また、それ以外でも日本国内では労働運動が活発化し、社会主義が広まっていき、さらには「政府という巨大な権力がある限り、世の中は平等にはならない」という無政府主義も台頭してきました。社会主義者・無政府主義者にとっては、天皇・皇室は自分たちの思想に相反するものになります。
虎ノ門事件の根本的な背景には、このような時代背景があったのです。
虎ノ門事件はなぜ起こった?背景・原因②:難波大助の環境&思想の変化
虎ノ門事件の原因・背景には難波大助の思想の変化もあります。前述のように、難波大助はもともとは皇室中心主義でした。しかし、中学5年生の時の経験により、その思想に疑問を持つようになります。
そして、上京後に四谷に住むことになりますが、四谷は鮫ヶ橋の貧民窟に近かったこともあり、日本における貧困の実情を目の当たりにしました。家柄が良く、裕福な家庭で育った難波大助には貧困の実情を知ったことは大きな衝撃だったはずです。
このことをきっかけに、共産主義者の河上肇の『断片』や大逆事件(幸徳事件)の裁判資料などを読み漁ります。これらの中で、どんどん難波大助は社会主義、さらには共産主義に思想が傾いていきました。
このような思想の変化もあり、せっかく入学した早稲田第一高等学院も1年で退学し、日雇い労働者として生活することになります。その生活の中で、さらに労働運動や社会主義運動にも触れ、労働運動にも参加するようになります。さらには、また、日本社会主義同盟の講演会に参加した時、警官の横暴も目にしたことで、テロ・暴力革命にも傾倒していきました。
もともと裕福な家庭で育ったバリバリの皇室中心主義だったからこそ、目にした実情の衝撃が大きすぎて、そこから真逆の共産主義、さらにテロ・暴力革命にも傾いていったのかもしれません。
難波大助は皇太子の車を狙撃した後、「革命万歳」と叫びながら車を追いかけて、取り押さえられたと言われています。
虎ノ門事件はなぜ起こった?背景・原因③:関東大震災での弾圧
難波大助は共産主義・社会主義・無政府主義に思想が傾いていきましたが、ちょうどその時、関東大震災が起こりました。
関東大震災は1923年9月1日に神奈川県・東京都を中心に大地震が襲いました。一説にはマグニチュードは7.9から8.3と推定されていて、この地震による死者・行方不明者は10万5000人で、この地震の犠牲者の死因は焼死が多かったことが特徴です。
この犠牲者の数からわかるように、関東大震災が起こった後、社会は大混乱になりました。この混乱に乗じた形で、甘粕事件や亀戸事件が起こります。
甘粕事件とは、関東大震災から約2週間後の9月16日に、無政府主義者の大杉栄が憲兵隊特高課に連行されて、憲兵大尉の甘粕正彦らによって扼殺された事件です。
亀戸事件は関東大震災から2日後の9月3日~4かにかけて、社会主義者10名が以前から敵対関係にあった亀戸警察署に逮捕され、習志野騎兵第13連隊によって刺殺された事件です。
これらの事件は難波大助に大きな衝撃を与えることになり、当時の社会権力に対して、大きな反発を持つようになりました。また、同時にこの甘粕事件や亀戸事件は理不尽な暴力よる事件だったこともあり、難波大助はテロ・暴力の正当化に傾いていったものと思われます。
虎ノ門事件は犯人の難波大助が起こした皇室へのテロ
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虎ノ門事件は犯人の難波大助が起こした皇室へのテロです。根本的な部分で言えば、なぜ難波大助が皇室を狙ったのかは不明となっています。
この後で詳しく説明しますが、難波大助は「皇室は共産主義者の真正面の敵ではない」と述べているからです。つまり、ストレートな形で皇室に敵対心を持っていたわけではないことがわかります。
では、なぜ虎ノ門事件では皇太子・裕仁親王が狙われたのでしょうか?
現在の問題を打破するためには、プロレタリアの皇室崇拝をぶち壊さなくてはいけない。そのためには、皇室へのテロを起こす必要がある。皇室へのテロを行うなら、当時はすでに脳病で執務能力を失っていた大正天皇よりも、摂政として実務を行っていた摂政宮皇太子裕仁親王が良いと考えたようです。
虎ノ門事件の犯人の難波大助の家族はどうなった?
虎ノ門事件の後、犯人の難波大助は逮捕されましたが、その家族も辛い状況に追い込まれました。
難波大助の家族構成
難波大助は、前述のように名家の出身です。まずは、家族構成を見ていきましょう。
・父親:難波作之進(衆議院議員)
・母親:ロク
・兄:正太郎(東大卒で久原鉱業)
・兄:義人(京大卒で三菱本社)
・弟:健亮(京大)
・妹:安喜子
・妹:弥代子
これらの家族構成を見ると、難波大助の家族はエリートぞろいであることがわかります。
家族全員で蟄居
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1923年12月27日、難波大助が虎ノ門事件を起こすと、難波大助の家族は悲惨なことになります。父親の作之進はすぐに辞表を提出して衆議院議員を辞職しました。そして、閉門蟄居しました。閉門蟄居とは青竹で自宅の門を結び、一室で謹慎するという刑罰です。兄の正太郎も会社を辞めて、家族みんなで蟄居生活を続けることになりました。
父親は難波大助が処刑された後は断食し、処刑から半年後の1925年に亡くなりました。
次兄の義人は当時、三菱本社に勤めていて、社長の岩崎小弥太に辞表を提出しましたが、岩崎から「その必要なし」と突き返され、それ以降はずっと岩崎に忠誠を誓っていたというエピソードがあります。
昭和天皇の言葉で救済される
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虎ノ門事件以降、難波大助の家族は蟄居を続け、社会的な制裁を受けなければいけませんでした。しかも、それをいつまで続ければ良いのか見当もつかない状態です。それだけ難波大助は大きな罪を犯したということになりますが、家族にとっては想像を絶する辛さだったと思います。
その家族を救ったのは、難波大助に暗殺されかけた皇太子・裕仁親王でした。裕仁親王は事件から2年半後に山口県に行啓します。その時に、東宮侍従長の入江に向かって「難波の家族は近頃どうしているだろうか」と尋ねました。東宮侍従長はすぐに山口県知事に伝え、知事は難波家の救済に力を尽くしました。
このことで、難波家は蟄居を辞めることができました。兄弟は親せきの養子となって苗字を変え、社会復帰します。
兄の正太郎は弁護士を開業し、様々な会社の取締役を歴任します。
次兄の義人はそのまま三菱に残り、戦後GHQの命令で財閥解体となった時、高官に取り入って、できるだけ三菱に有利な形での財閥解体に貢献しました。そして、新三菱重工社長に就任しています。
弟の健亮は蛇の目ミシン工業の取締役になっています。
これらを見ると、難波大助の家族はただの名家出身というだけではなく、本当に能力が高い人たちであることがわかります。兄2人と弟は東大(東京帝国大学)か京大(京都帝国大学)の出身ですし、社会復帰した後は、企業の取締役・社長になっていますから。
おそらく、難波大助も優秀な人物で高い能力を持った人物だったと思いますが、何かのボタンの掛け違いで、虎の門事件を起こすことになってしまったのでしょう。
虎ノ門事件の判決は死刑
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虎ノ門事件では、犯人の難波大助はその場で現行犯逮捕されました。
難波は大逆罪で起訴されました。大逆罪とは天皇や皇后、皇太子などに危害を加える罪のことを指します。日本国憲法が施行された昭和22年にこの大逆罪は失効しています。
大逆罪は実際に危害を加えなくても、未遂でも計画段階でも同じ処罰を下され、しかも必ず死刑が課せられました。さらに、裁判は一般的な犯罪に関しては当時でも三審制取られていましたが、大逆罪だけは大審院(最高裁)のみで刑が確定しました。
虎ノ門事件はこの大逆罪に当たりますし、現行犯逮捕されていて、冤罪の可能性もありませんので、事件から約1年後の1924年11月13日には死刑判決が下され、その2日後の11月15日には死刑が執行されました。
難波大助は死刑が執行される時、「日本無産労働者、日本共産党万歳、ロシア社会主義ソビエト共和国万歳、共産党インターナショナル万歳」と三唱したそうです。
政府は減刑を試みたが失敗
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大逆罪は死刑以外はあり得ない犯罪です。有罪ならば、絶対に死刑ということになります。
しかし、ここで難波大助を有罪にして死刑に処すれば、難波大助の犯罪を認めざるを得なくなり、天皇の権威が失墜する可能性がありました。そこで、政府は難波大助に死刑判決を下すものの、摂政宮皇太子裕仁親王の恩赦で無期懲役にするという方針を取ろうとしました。ここで、恩赦を与えることで、皇室の権威を保とうとしたのです。
しかし、難波大助は反省は一切しませんでした。それどころか、次のように陳述しました。
私の行為で、他の共産主義者が暴力主義を採用すると誤解しない事を希望する。皇室は共産主義者の真正面の敵ではない。皇室を敵とするのは、支配階級が無産者を圧迫する道具に皇室を使った場合に限る。皇室の安泰は支配階級の共産主義者に対する態度にかかっている。
この陳述をする者に対して、恩赦を与えてしまえば、皇室の権威は失墜し、それどころか皇族に身の危険が迫る可能性が高くなります。そのため、政府の計画は崩れ、難波大助は死刑となったのです。
虎ノ門事件の影響
反共などのきっかけに
出典:jprime.jp
この虎ノ門事件はその後の近代日本史に大きな影響を及ぼしました。この虎ノ門事件をきっかけに、日本は反共産主義・反社会主義の力が大きくなっていくのです。
実際に、事件後すぐに皇太子暗殺未遂に衝撃を受けた小川平吉を中心とした知識人・政治家・貴族院議員・軍人らが参加して、国粋主義思想団体「青天会」を結成し、反共主義が広がっていきました。
この事件で、世論は共産主義・社会主義への不安・反発の方向に広がっていきましたし、治安維持法が成立するきっかけになったとも言われています。治安維持法とは、1925年に天皇を否定するすべての結社や行動を禁止し、社会主義運動・労働運動を取り締まるために作られた法律です。
虎ノ門事件があったから、日本は国粋主義が強まっていき、軍国主義に突き進んでいったとも言えるでしょう。
昭和の戦後史に影響
さらに、虎ノ門事件は戦後の日本史にも大きな影響を与えました。虎ノ門事件が起こると、父親の衆議院議員の作之進は辞職し、蟄居の末に亡くなりました。そして、その地盤は松岡洋右が引き継ぐことになりました。
この松岡洋右の妹が岸信介・佐藤栄作の叔父に嫁いでいて、松岡洋右の地盤を岸信介が引き継ぐことになったのです。岸信介は内閣総理大臣になり、そこから日本のフィクサーになりました。佐藤栄作は総理大臣で国民栄誉賞を受賞しています。さらに、岸信介の孫が安倍晋三です。
それを考えると、難波大助が虎ノ門事件を起こしたことで、日本の戦後の政治は岸信介・佐藤栄作・安倍晋太郎・安倍晋三の一族が力を持つようになったと考えることができます。
もし、虎ノ門事件が起こらなかったら?日米安保は成立しなかったかもしれませんし、日本人がノーベル平和賞を受賞することもなかったかもしれません。そして、山口県の地盤は難波家が引き継いでいて、もしかしたら難波大助が共産党の衆議院議員になっていた可能性すらあるのです。
虎ノ門事件のまとめ
虎ノ門事件の詳細や犯人の難波大助の生い立ち、虎ノ門事件はなぜ起こったのか?その背景や原因、事件後の家族の処遇や裁判の判決・死刑と事件の影響をまとめました。
虎ノ門事件は皇太子の裕仁親王の暗殺未遂事件です。裕仁親王は無傷でしたが、その後の日本社会に大きな影響を与えました。事件の被害としては地味ですが、歴史の転換点となった事件と言えるでしょう。