島田事件は、1954年に発生した幼女誘拐殺人事件で、紅林麻雄が生んだ冤罪事件として知られます。真犯人は不明のままです。島田事件の場所や詳細をわかりやすく説明し、冤罪被害者の赤堀政夫さんに払われた賠償金、無罪確定後のその後、現在を紹介します。
この記事の目次
- 島田事件の概要
- 島田事件が起きた場所
- 島田事件の詳細をわかりやすく説明① 事件発生
- 島田事件の詳細をわかりやすく説明② 被害者・久子さんの遺体発見
- 島田事件の詳細をわかりやすく説明③ 窃盗で赤堀政夫さんが逮捕
- 島田事件の詳細をわかりやすく説明④ 赤堀政夫さんが犯人にされる
- 島田事件の詳細をわかりやすく説明⑤ 死刑判決
- 島田事件の詳細をわかりやすく説明⑥ 再審に向けて
- 島田事件の詳細をわかりやすく説明⑦ 冤罪の証明
- 島田事件の詳細をわかりやすく説明⑧ 再審
- 島田事件の詳細をわかりやすく説明⑨ ついに無罪判決を勝ち取る
- 島田事件の真犯人は?
- 島田事件には昭和の拷問王・紅林麻雄が関わっていた
- 島田事件のその後① 赤堀政夫さんに賠償金が支払われる
- 島田事件のその後② 赤堀政夫さんの現在
- 島田事件についてのまとめ
島田事件の概要
1954年3月10日、静岡県島田市で当時6歳の佐野久子さんが行方不明となる事件が発生します。
久子さんはこの日、市内の「快林寺」境内にあった島田中央幼稚園の卒園記念行事に参加していました。
そして正午過ぎに午後の遊戯の出番を待っていた久子さんは、若い男に声をかけられてそのまま園の外についていってしまったといいます。
目撃者の証言によると、久子さんを誘い出したのは三十代前後のネズミ色の上着を着た勤め人風の男とのこと。周辺でもこの男と一緒に久子さんが歩いている様子が見られていたそうです。
目撃情報が多く、行方不明になった当日から警察が誘拐事件として捜査を開始していたため、久子さんと犯人はすぐに見つかるのではないかと思われていました。
しかし、事件は悲しい展開を迎えます。行方不明から3日が経った3月13日、久子さんは島田市のと隣接する榛原郡初倉村の権現原山林で遺体となって発見されたのです。
すぐに警察は目撃証言から色白で七三分け、痩せ型という犯人の男の似顔絵を作成し、情報提供を呼びかけます。
が、有力な情報は得られずに捜査は難航。ちょうどこの頃、静岡県内では少女を狙った暴行事件が多発しており、警察も前科持ちの小児性愛者やヒロポン中毒者、などを中心に怪しい人物を炙り出そうとしましたが、うまくいきませんでした。
そんななか、5月24日に1人の男性が久子さん誘拐・殺害の重要容疑者として逮捕されます。
男性の名前は、赤堀政夫さん。当時、赤堀さんは25歳で住所不定の放浪生活をしていました。
とくに目撃情報や物的証拠があったわけではなく、職務質問をしたところ前科持ちで、かつ警察がピックアップしていた不審者リストにも名前があったために逮捕されたといいます。
前科といっても赤堀政夫さんが犯した罪は野菜の窃盗で、それも食べるものに困ってやむなく盗んでしまっただけであり、当初はマスコミも「誤認逮捕ではないのか」と懐疑的だったそうです。
しかし、警察は赤堀政夫さんを犯人に仕立て上げるために拷問のような取り調べを行いました。
結果、耐えきれなくなった赤堀政夫さんはやってもいない久子さんの殺害を認めてしまい、5月30日に逮捕されてしまうのです。
その後、裁判で無実を訴えたものの認められず、赤堀政夫さんには死刑が言い渡されます。
5度にもおよぶ再審請求の結果、ようやく1989年に再審公判が開かれ、自白の矛盾点などから無罪が言い渡されますが、赤堀政夫さんは34年以上の時間を奪われてしまいました。
この冤罪と、久子さん誘拐・殺害をあわせて「島田事件」と呼び、島田事件は免田事件、財田川事件、松山事件とともに、四大死刑冤罪事件に数えられます。
島田事件が起きた場所
島田事件で被害者の佐野久子さんが姿を消した快林寺は、静岡県島田市幸町15-8に位置します。立地はJR鶴見駅から徒歩10分ほどです。
当日は屋台なども出て賑わいを見せていたといい、保護者や園関係者以外が出入りしても目立たない状況だったといいます。
そして下の地図で示されている場所が、久子さんの遺体が発見された場所です。事件当時は静岡県榛原郡という地名でしたが、現在は合併で島田市に併合されています。
連れ去られた場所から遺体発見現場までは、車で6〜7分ほど、徒歩20分程度で向かえる距離です。
島田事件の詳細をわかりやすく説明① 事件発生
1954年3月10日、島田中央幼稚園で行われていた行事の最中に当時6歳の佐野久子さんが姿を消します。
久子さんの友人の話では、正午頃に久子さんと園庭で遊んでいたところ、ねずみ色の上着を着た若い男が近づいてきて「一緒に遊びに行かないか」と声をかけてきたそうです。
友人は「行かない」と断ったものの、久子さんはついて行ってしまったとのことで、その後は自分の出演する遊戯の時間になっても戻らず、誘拐された疑いが浮上します。
当初は母親と幼稚園関係者で周辺を探して回りましたが、「若い男と一緒に歩いているのを見かけた」という近隣住民の証言を聞いた母親が、同日17時30分頃に警察に相談に向かいました。
警察もすぐに誘拐のおそれがあると判断して、市内や沿線に捜査網を張ります。新聞各社も久子さんと男の外見を報じて情報提供を呼び掛け、ボランティアの市民約100名も山狩りなどに参加。
そんななか、11日に市内に住む男性が警察に「昨日の昼、榛原郡初倉村に向かう大井川蓬莱橋を、女児を背負った若い男が通っていくのを見た」という情報を提供します。
当時、蓬莱橋を渡るのには5円の橋銭が必要だったといい、男はこの5円を支払えずに「後日、持ってくるから」と言って初倉村方面に行ったそうです。
このことを知った警察は、5円も持っていない男が誘拐犯ならば、そう遠くには行かれず初倉村内に潜伏している可能性が高いとして捜査の範囲を広げます。
しかし、この男性の後に久子さんと犯人の目撃情報はなく、遺留品さえ見つかりませんでした。
島田事件の詳細をわかりやすく説明② 被害者・久子さんの遺体発見
行方不明になってから3日が経過した3月13日午前9時40分頃、久子さんの遺体が蓬莱橋を渡った右手にある権現原の山林内で発見されます。
久子さんの遺体は半ば裸の状態で陰部に裂傷があり、強姦された可能性が見られました。
また、遺体の胸部には数回殴打された痕と、首を絞められた痕が残っていました。
このことから警察は犯人は強姦目的で久子さんを連れ出し、姦淫した後に殺害して遺体を放置したものとして捜査を開始。
現場検証の結果、遺体の近くに久子さんが履いていた下駄のほかに長靴の足跡痕があったことから、この長靴の持ち主が犯人と見て、販売店をリストアップし始めます。
同時に警察は、容疑者として静岡県内に住む前科者、変質者、被差別部落民、ヒロポン中毒、浮浪者、精神障碍者、知的障碍者など約230名をリストアップして、アリバイなどを調査しました。
しかし、警察が目をつけた容疑者候補にはアリバイがあり、捜査は難航します。
島田事件の詳細をわかりやすく説明③ 窃盗で赤堀政夫さんが逮捕
5月25日、岐阜県鵜沼市内の検問で2人連れの浮浪者が職務質問を受けます。
そして警察は、このうちの1人、赤堀政夫さんを28日に逮捕します。といっても、逮捕容疑は誘拐や殺人ではなく窃盗です。
警察は25日に赤堀政夫さんを任意同行で連行。その後、リストアップしていた不審者の1人で前科があったために別件で逮捕して身柄を拘束し、島田事件の取り調べを行ったとされます。
前科持ちといっても、赤堀さんに誘拐や女児暴行などの前科があったわけではありません。
実は赤堀さんは3歳の頃に脳症にかかったことが原因で軽度の知的障碍があったといい、学校での勉強も苦労していたそうです。
小学校を出た後は川崎市内の工場に就職して斡旋工の見習いをしていましたが、戦後のあおりを受けて解雇されてしまい、以降は再就職先も決まらずに放浪生活を送っていました。
そんな生活のなか、食べるものに困った赤堀さんは友人とともに農家から野菜などを盗んで逮捕され、1946年に懲役1年以上3年以内の不定期刑を言い渡されて松本少年刑務所に服役することとなります。
しかし、刑務所内で精神を病んでしまった赤堀さんは自殺未遂を起こして刑の執行停止を受け、静岡県内の実家に戻りました。
実家に戻ってからは土木会社や土建会社などで働くもののうまくいかず、またしても窃盗事件を起こして逮捕され、今度は懲役8ヶ月を言い渡されて静岡刑務所に服役します。
が、静岡刑務所内でも自殺未遂を起こしてしまい、今度は精神分裂症の診断を受けて精神病院へ入院することに。
1年間の入院を経て釈放されたものの、前科者のうえに精神疾患があるという理由で仕事が見つからなかった赤堀さんは、実家を出て放浪生活を始めます。
そして鵜沼市内を放浪していた時に職務質問を受け、そのまま逮捕されるに至ったのです。
島田事件の詳細をわかりやすく説明④ 赤堀政夫さんが犯人にされる
窃盗で逮捕された翌日の5月26日、赤堀さんは島田事件の犯人ではないかと疑われたものの、いったん釈放されています。
久子さんを連れ去った男については目撃情報が多かったため、警察もかなり完成度が高いと思われるモンタージュ写真を作っていたのですが、このモンタージュの男と赤堀さんがまったく似ていなかったのです。
しかし、釈放しながらも警察はなんとか赤堀さんを犯人にしたいと思っていたのでしょう。
赤堀さんに「仕事を世話してやる」と言い、金谷民生寮というホームレスや傷痍軍人の支援の一環として建てられた施設に、彼の身柄を送ったのです。
なお、この時に赤堀さんの実兄である一雄さんが身元引受人になろうと警察を訪れたといいますが、なぜか警察は赤堀さんがどこにいるのかも話さず、兄弟を会わせようとしませんでした。
金谷民生寮で赤堀さんは、掃除や農家の手伝いなどの雑務をして安定した暮らしを手に入れようと励みました。
ところが、釈放された2日後の5月28日になって、今度は「お寺の賽銭箱から小銭を盗んだ」として、またしても逮捕されてしまうのです。
そしてまたしても身柄を拘束された赤堀さんは、警察で以下のような拷問を受けてやってもいない久子さん誘拐・殺害を自供してしまいます。
・「お前は人殺しだ」「白状しなければ2年でも3年でも留置場にぶちこむぞ」と脅された
・長時間の正座を強要された
・握りこぶしや平手で顔や頭を殴られる、身体を蹴られるなどした
・両手で力いっぱい首を締めあげられた
・両腕を掴んで逆方向に捻じ曲げられた
・トイレに行かせてほしいと頼んでも無視され、小便を漏らしてしまった
これらの拷問は通常の取調室ではなく、人目につかない島田署内の代用監獄(拘置所の代わりに使われる警察署内の留置場)で行われたそうです。
閉鎖された空間で連日連夜暴行を続け、無理やり「自分がやりました」の言葉を引き出した警察は、6月1日に赤堀さんを島田事件の容疑者として再逮捕しました。
島田事件の詳細をわかりやすく説明⑤ 死刑判決
逮捕後、6月17日に赤堀さんは強姦・殺人の罪で起訴されます。
そして静岡地裁で第一審が開かれるのですが、1958年5月23日に下された一審の判決はなんと死刑でした。
この時点で物的証拠はなく、赤堀さんも事件当時のアリバイがあるとして無実を訴えたのですが、裁判所は「被告人の自白の信用性は高い」と断じたのです。
なお、後の再審でも焦点があたることになりますが、事件当時の赤堀さんには以下のようなアリバイがありました。
島田事件の詳細をわかりやすく説明⑥ 再審に向けて
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赤堀政夫さんの冤罪を最初に確信した人物は、兄の一雄さんでした。
刑務所で赤堀さんと面会した一雄さんは「やってない」という弟の言葉を信じ、支援者を募って再審請求をしようと考えます。
当時の日本では、どんな些細な罪であろうと警察に逮捕されるということはこのうえのない恥であり、家族からも縁を切られるのが普通、という風潮があったそうです。
赤堀さんによると、同じく島田事件の容疑者として連行された無実の人のなかには、絶望から自殺してしまった人までいたといいます。
そんななか、一雄さんは「弟が自分に嘘をつくはずがない」という一念で、仕事の合間をぬってアリバイの証拠を探し、支援者を集めたのです。
一雄さんの言動に心を動かされる人は徐々に増えていき、事件発生から10年後の1964年には有志による「島田事件対策協議会」が結成されるまでに支援の輪は広がっていきました。
赤堀さんが犯人に仕立て上げられた背景には、「放浪生活を送っていたため社会的な繋がりが薄く、アリバイを証明してくれる人が極めて少ない」「過去に精神病院に入院しており、冤罪被害者にしても社会から反発を受けにくい」という差別的な思想があったとされます。
現在となっては信じがたく、許しがたい思想ですが、「前科のある精神障碍者は社会不適合者なのだから隔離され、処罰を受けるべき」という考えがまかり通っていたそうです。
このような考えに異議を訴える人々も、「島田事件を嚆矢に差別をなくそう」と支援にくわわっていきました。
島田事件の詳細をわかりやすく説明⑦ 冤罪の証明
赤堀さんに有罪判決が下された理由は「自白しか証拠がないが、自白内容に信憑性がある」という一点です。
そのため、自白に信憑性がない、強要されたものだということが証明できれば、それだけで無罪を勝ち取れる可能性がありました。
久子さんの遺体を鑑定したのは、法医学の権威とされた東京大学の古畑種基教授でした。
現在となっては財田川事件、弘前大学教授夫人殺人事件、松山事件などで警察や検察の主張に沿った鑑定を行い、「冤罪を生み出してきた御用学者」と批判される人物です。
裁判前の鑑定で古畑教授は、犯行は「姦淫→胸部殴打→絞殺」の順だったという鑑定結果を出しており、赤堀さんの自供でも、この順番で久子さんを殺害したとありました。
さらに、久子さんの胸部を殴打した時に付近にあった拳大の三角形の石を凶器として使用した、とも自供していました。
この供述は警察によって誘導されたものであり、赤堀さんはあらかじめ提出されていた古畑教授の鑑定結果に沿う供述を強要されただけです。
しかし、このことが「犯人でなければ知りえないことを知っている」と裁判で判断されてしまったのです。
ところが古畑教授の鑑定結果については、高裁で控訴棄却の決定が出た時から、間違っているのではないか?という疑いが浮上していたといいます。
控訴審の段階で、久子さんは首を絞められて殺害された後に胸を強打された可能性があり、さらに石が凶器だという合理的な証拠もないと指摘されていたのです。
それでも東京高裁は一審の死刑判決を支持したわけですが、再審請求で一雄さんや弁護士、支援団体は遺体の鑑定結果の間違いから無実を訴えようとしました。
島田事件の詳細をわかりやすく説明⑧ 再審
赤堀さんは獄中から4度にわたって再審請求をしましたが、どれも棄却されてしまいます。
・1961年8月17日に第一次再審請求→1962年2月28日付で棄却
・1964年6月6日に第二次再審請求→1966年2月8日付で棄却
・1966年4月14日に第三次再審請求→1969年5月9日付で棄却
・1969年5月9日に第四次再審請求→1977年3月11日付で棄却
第四次再審請求が棄却された後、支援団体は即時抗告を申し立て、結果、東京高裁が静岡地裁への審理差し戻しを決定したため、ようやく1986年5月30日になって再審が認められました。
逮捕から30年以上の時間を経てようやく、再審が認められたのです。
ここでは島田事件の再審での争点と流れを見ていきましょう。
争点①自白調書の証拠能力
第一の争点となったのは、赤堀さんの自白調書が本当に証拠になるのか?という点です。
弁護側は赤堀さんが一貫して、取り調べで自白を誘導・強要されたと訴えているうえ、国警所属の鈴木完夫医師が提出した鑑定書と自白調書の死因が食い違っていることを指摘しました。
鈴木医師の鑑定書とは、前述した「久子さんは首を絞められて殺害された後に胸を強打された」という内容のものです。
鈴木医師によると久子さんの胸部の傷には生活反応がなく、生きている時につけられたものではないと書かれていました。
再審開始前には古畑教授の鑑定ではなく鈴木医師の鑑定が正しいと断じられていました。そのため弁護側は、鈴木医師の鑑定と異なる赤堀さんの自白には、証拠能力はないと指摘します。
さらに28日に身柄を拘束され、間を置かずに自白していることから、赤堀さんに軽度の精神障碍があり、暗示にかかりやすい資質を利用して供述を誘導したのではないかと指摘しました。
争点②自白調査の信用性
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第二の争点となったのは、赤堀さんの自白に信憑性があるか否かです。ここでは主に、赤堀さんが「久子さんの胸を殴打した」と供述した三角形の石が、本当に凶器だったのかが争われました。
久子さんの左胸には強打された痕があったものの、鑑定の結果、肋骨にも骨膜にも損傷がなく、石ではなくもっと柔らかいもので殴打された疑いがありました。
また、殴打痕から見ると石よりももっと複雑な形状のもので殴られた可能性が高いとも指摘されました。
そのため。犯行の証拠、犯人しか知り得ない凶器として裁判で扱われた三角形の石についても、証拠能力が乏しく、自白の信用性を裏付けるほどのものではない、と弁護側は主張したのです。
争点③アリバイ
第二の争点となったのは、赤堀さんのアリバイです。
赤堀さんは事件当時、島田市内にいなかったと主張しましたが、この点については当時どこで寝泊まりしていたのか、天気はどうだったのかという質問に対し、赤堀さんの答えが二転三転したために、原審ではアリバイは成立しないと判断されました。
しかし、再審では一雄さんらの協力もあり、事件前後の赤堀さんの行動がしっかり裏付けられたのです。
島田事件前後の赤堀政夫さんの行動
・3月3日…同居していた一雄さんから「仕事を探せ」と言われて島田市内の家を出て、東海道線で静岡駅に行き、そこから由比方面に向かった
・3月5日…物乞いをしながら熱海を経由。小田原で焚火にあたっていたところ、通りかかった女性に「今夜は風が強いから気を付けるように」と話しかけられる
・3月6日…平塚まで歩き、湘南電車に乗車して東京へ。当日中に上野まで移動する
・3月7日…上野駅周辺でバタ屋の男と親しくなる。9日まで上野から神田の間で鉄くず拾いをし、神田駅の国鉄ガード付近で資源回収をしていた藤田正男なる人物に売却した
・3月10日…日本橋から徒歩で東京に向かい、深夜に横浜市保土ヶ谷区内の外川神社に到着。境内で一夜を明かす
・3月11日…藤沢まで物乞いをしながら移動し、妙善寺内正宗稲荷に泊まる
・3月12日…茅ヶ崎付近で浮浪者の岡本佐太郎なる人物と知り合う。夜に大磯町高麗の稲荷神社で焚火をしていたところを警察官に目撃されて、事情聴取を受ける
原審で赤堀さんは「事件当日頃、平塚署に事情聴取を受けた」と、主張していました。しかし、実際には隣の大磯町でボヤ騒ぎを起こして、事情聴取を受けていたのです。
一雄さんらは実際に赤堀さんに事情聴取をした警察官も特定して証言を得ており、くわえて3月20日に赤堀さんが自ら掛川市の西小笠地区所を訪れ、「行き場がなく、困っているから刑務所に入れてくれ」と相談していたことまで突き止めました。
本当に島田事件の犯人ならば、あまりにも矛盾した行動です。
再審で提示されたアリバイは具体的な地名や実在する個人名が多く含めれており、信憑性の高いものでした。この点については裁判所も認めています。
ただ、肝心の事件が発生した3月10日のアリバイは「神社で寝ていた」というものであったため、再審でも無実を裏付ける証拠とは言えないと判断されてしまいました。
争点④目撃証言
上でも触れましたが、赤堀さんは「島田事件のモンタージュの男と似ていない」という理由で、一度釈放されています。
実は久子さんが連れ去られた時に一緒に遊んでいたという少女も、警察から赤堀さんの写真を見せられた際に「この人は犯人じゃない」と証言していたといい、他の目撃者たちからも「自分が見たのは違う人だ」という証言が出ていたそうです。
目撃証言では久子さんを連れ去った男は「ねずみ色の上着を着た、色白で短髪の勤め人風」でした。
しかし、3月12日に赤堀さんの事情聴取をした大磯地区の警察官は「赤堀さんは茶色のジャンバーを着て髪はボサボサと一見して浮浪者とわかる外見だった。持ち物も鉄屑が少しと60円程度で、身なりを変える余裕があるとは思えない」と証言したそうです。
島田事件の詳細をわかりやすく説明⑨ ついに無罪判決を勝ち取る
1989年1月31日、島田事件の再審判決公判が開かれました。判決は、無罪。
35年近くの拘留を経て、ようやく赤堀さんの無実が認められたのです。
冤罪が認められた理由は、「自白の信用性を裏付ける確実な事情がなく、自白は虚偽ではないかという疑いが残る」というものでした。
死刑判決から再審で無罪になった例は赤堀さんが4件目で、その後は現在に至るまで同様のケースはありません。
島田事件の真犯人は?
警察は赤堀さんを逮捕した後に島田事件の捜査を打ち切っていました。そのため、真犯人は見つからず、誰が久子さんを殺害したのかは不明なまま現在に至ります。
事件発生時にあれだけ多くの目撃者がいたのに、警察は真犯人をとり逃したのです。
久子さんの両親や遺族にしてみれば、無関係の人物を娘の敵と恨み続けた挙句、再審で真犯人は別にいることを突き付けられたわけですから、あまりにも救いがありません。
島田事件には昭和の拷問王・紅林麻雄が関わっていた
島田事件には、昭和の拷問王、冤罪製造機と謳われた静岡県警の紅林麻雄(くればやしあさお)が関わっていました。
紅林は、島田事件以前にも幸浦事件、二俣事件、小島事件という冤罪事件を生み出していました。
これらの事件では共通して無関係の人が不当に逮捕された挙句、警察署内で拷問や暴行による自白の強要で犯人に仕立て上げられており、後の裁判で容疑者らが無罪判決を受けています。
1953年11月に静岡県警刑事課の警部に昇進した紅林は、地位を守るため、さらなる出世のために赤堀さんを利用しようとしました。
部下に指示をして赤堀さんを拷問し、犯人でなければ知り得ない情報を混ぜ込んだ調書を作成するという「秘密の暴露の捏造」をしていたのです。
なお、島田事件では紅林の拷問捜査を告発し、偽証罪の疑いをかけられたうえに警察官の職を追われた元静岡県警の山崎兵八氏も、赤堀さんの支援に奔走していました。
山崎氏は二俣事件、島田事件の2件の冤罪事件で紅林と真正面から対立し、被害者のために闘いぬいたのです。
出世のために悪事に手を染める警察官がいる一方で、山崎氏のような正義の人がいることも忘れてはいけません。
島田事件のその後① 赤堀政夫さんに賠償金が支払われる
無罪確定後、赤堀さんの弁護団は静岡地裁に1億1,907万9,200円の刑事補償を請求する訴訟を申し立てました。
静岡地裁は1989年2月28日付で、請求された賠償金全額を交付することを決定。これは、死刑囚が再審で無罪になったケースで支払われた刑事補償額のうち、最高金額です。
さらに赤堀さんは一審から再審までの間に要した裁判費用についても、国に支払いを求めました。
この申し立てについても一部認められ、1990年1月25日付で約1,073万円が支払われることとなりました。
島田事件のその後② 赤堀政夫さんの現在
無罪が確定した後、赤堀さんは自分と同じく冤罪の疑いが強い袴田事件や名張毒ぶどう酒事件なに強い関心を示し、積極的に支援活動を行っていました。
また、冤罪でも死刑判決が言い渡されることから死刑制度についても異論を唱えており、一般人が被告人の人生を左右する裁判員制度にも疑問を抱いていたそうです。
奇しくも2012年に赤堀さん自身が裁判員に選ばれたといいますが、「裁判所は信用できない」という理由で、これを辞退しています。
私生活では名古屋に居を定め、高齢であったことから施設に入居していましたが、2024年2月22日に施設内で死去。享年94歳でした。
袴田巌さんの実姉のひで子さんは赤堀さんの訃報を受けて「一緒に闘ったことを思い出します」と追悼の意を示していました。
島田事件についてのまとめ
今回は、1954年に発生した幼女誘拐・殺害事件とそれに伴う冤罪事件である島田事件について紹介しました。
証拠がないどころか目撃証言と外見も一致せず、鑑定結果と供述内容が異なるにも関わらず、濡れ衣を着せられて、いつ死刑執行になるかわからない不安な日々を過ごした赤堀政夫さん。
無罪確定後は支援者にささえられて徐々に普通の生活に戻っていったとされますが、晩年が穏やかなものであったことを願わずにはいられません。