桜田門事件(昭和天皇暗殺未遂)と犯人/李奉昌の現在!死刑判決と死因・動機やその後を総まとめ

大日本帝国憲法では、皇族の暗殺を計画したり、危害を加えようとする罪がありました。その罪とは、大逆罪です。この大逆罪が適用された有名な事件は4つありますが、そのうちの1つが桜田門事件です。

 

桜田門事件の場所や詳細、犯人の李奉昌の生い立ち・経歴や動機、死刑判決と死因、その後と現在をまとめました。

桜田門事件とは昭和天皇暗殺未遂事件

出典:twitter.com

桜田門事件

発生日時:1932年1月8日
場所:東京市麹町区皇居桜田門
犯人:李奉昌
事件内容:昭和天皇暗殺未遂事件

 

桜田門事件は、1932年1月8日に東京・桜田門で起こった昭和天皇暗殺未遂事件です。

 

犯人は韓国人の李奉昌は酔っぱらった状態で犯行に及び、昭和天皇の御料馬車列に手りゅう弾を投げつけましたが、暗殺は失敗に終わり、李奉昌はその場で逮捕されました。

 

その後、李奉昌は死刑判決を受け、死刑が執行されています。

 

桜田門事件のことを、1860年3月24日に起こった有名な歴史上の事件である桜田門外の変と混同する人が多いですが、桜田門事件は桜田門外の変とは全く違う出来事(事件)です。どちらも桜田門で起こった「暗殺」に関する事件という共通点はありますが、桜田門事件は昭和天皇が暗殺の対象、桜田門外の変は井伊直弼が暗殺の対象になります。

 

ここでは昭和天皇の暗殺未遂事件である桜田門事件について詳しく説明していきます。

 

 

桜田門事件の場所

桜田門事件は、東京の皇居近くの桜田門で起こっています。

 

 

桜田門は皇居の南側に位置するところです。桜田門事件が起こった場所は当時の新聞では、「桜田門外の警視庁庁舎前に差し掛かかった時」とありますので、国道1号線と内堀通りが交差し、桜田門に続く場所あたりで事件が起こったと考えられます。

 

出典:google.com

 

また、当時の写真からも、桜田門事件が起こった場所がわかります。まずは、桜田門事件の現場写真です。

 

出典:ja.wikipedia.org

 

上記の写真の「×」がある場所は李奉昌は手りゅう弾を投げた(手りゅう弾が爆発した)場所です。現場写真のすぐ近くには円形の建物があるのがわかります。

 

次に、戦前(昭和前期)の警視庁の建物の写真を見てみましょう。これを見ると、桜田門事件の現場写真に写っている建物は、警視庁の庁舎であると推測できます。

 

出典:ja.wikipedia.org

 

桜田門事件は東京の治安を守る警視庁の本当に目の前で起こった昭和天皇暗殺事件であると言えるでしょう。

 

 

桜田門事件の詳細

出典:twitter.com

 

昭和7年(1923年)1月8日、陸軍始観兵式のために昭和天皇の行幸が行われていました。その日の午前11時44分、皇居への帰路、皇居の桜田門の外、麹町区桜田町警視庁庁舎前に還幸の馬車の列が差し掛かります。

 

その時、観衆(奉拝者)の線から沿道に韓国人の李奉昌が飛び出し、馬車の列に向かって、手りゅう弾を投げつけました

 

李奉昌が投げつけた手りゅう弾は御料馬車の第二両目の左後輪付近で爆発し、馬車の底部に親指大の2~3の穴を開けました。しかし、この2両目の御料馬車には李奉昌が狙っていた昭和天皇は乗っておらず、乗っていたのは宮内大臣一木喜徳郎でした。

 

昭和天皇が乗っていたのは第三両目の御料馬車で、手りゅう弾を投げつけられた第二両目の32m後ろにいて、昭和天皇に被害はありませんでした。

 

このテロがあっても、還幸の馬車の列は止まることなく、皇居に到着しました。到着後に騎乗随伴していた近衛騎兵1人と馬2頭が負傷し流血していたことが判明しましたが、負傷した近衛騎兵は軽傷でした。

 

 

犯人の李奉昌はその場で逮捕

桜田門事件は警視庁の目の前で起こった事件です。事件の犯人の李奉昌は、その場で取り押さえられました。犯人を取り押さえたのは、次の5名です。

 

・警視石森勳夫
・巡査本田恒義
・巡査山下宗平
・憲兵河合上等兵
・内田軍曹

 

李奉昌はその場ですぐに現行犯逮捕されたため、被害はこれ以上大きくなることもなく、テロは失敗に終わりました。

 

 

桜田門事件で昭和天皇は無傷

出典:bunshun.jp

 

桜田門事件では昭和天皇の命が狙われましたが、手りゅう弾を投げられたのは御料馬車の2両目、昭和天皇が乗っていたのは3両目です。そのため、昭和天皇は無事で、被害はありませんでした。

 

手りゅう弾の被害が遭った御料馬車は2両目、昭和天皇が乗った3両目はその32mも後ろにいたため、3両目の車内では爆発の音を聞いた程度でした。昭和天皇は爆発音を聞いても、極めて冷静沈着で、皇居に戻った後も事件について口にすることはなかったとのことです。

 

昭和天皇は皇太子時代に虎ノ門事件で散弾銃で撃たれた(命中せず無傷)こともありました。この時もそのまま予定を変更せずに議会の開院式に臨み、午後にはテニスを行っていました。天皇・後続の方々は、やはり胆力が違うのかもしれません。

 

 

桜田門事件の犯人は李奉昌

出典:ja.wikipedia.org

 

桜田門事件の犯人は李奉昌です。李奉昌は1990年8月10日に大韓帝国時代の朝鮮・漢城府龍山で生まれました。元々は土地を持っている中流農家の出身でしたが、鉄道開通にあたり、自分の土地を収用されて困窮することになりました。

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15歳で学校を卒業後は進学志望はありましたが、父親が病気になったり詐欺被害に遭ったりして家は経済的に苦しくなり、進学はあきらめざるを得ませんでした。そして、家計を助けるために働きだしました。

 

しかし、仕事は長続きせずに、職を転々とすることになります。

 

・1915年~1917年:日本人経営の菓子店(和田衛生堂)の店員
・1917年~1918年:日本人経営の村田薬局
・1918年~1924年:朝鮮総督府鉄道の鉄道庁の職員

鉄道長には人夫として就職しましたが、その後は転轍手、さらに操車係見習に昇進しています。しかし、外地人労働者と内地人労働者の労働条件・待遇の格差にやる気を失い、お酒や賭博に手を出して、借金を背負ってしまいます。そして、退職金で借金を返そうと思って、1924年4月に嘘をついて退職しました。

 

1925年11月、兄と一緒に日本に行きました。そこで、朝鮮人の派出婦(お手伝いさん)を必要としているということを聞いて、李奉昌は姪の李銀任を紹介しました。その後、李奉昌は大阪で職を探すことにして、「木下昌蔵」という通名を使って、職探しをします。

 

その後、1926年9月には脚気になって長期入院・静養することになり、その後は職を転々とすることになりました。

 

その後、1928年に昭和天皇の即位の礼を見物して昭和天皇のご尊顔を仰ぎたいと思い、京都に行きましたが、この時ハングル文字と漢文の混ざった手紙を持っていたために、拘置所に入れられるという理不尽な経験をしています。

 

その経験があったためか、ここから李奉昌の生活は一気に堕落していきます。

 

1929年2月末には就職した会社のお金を持って東京に逃げます。その後、東京で就職するも、寮に帰らず友人の家に寝泊まりしたり、吉原遊郭に入り浸ったりして、叱責されたために会社を辞めてしまいました。さらに、次の就職先では4ヶ月間働きましたが、売上金を使い込んで、そのまま仕事に来なくなってしまいました。

 

 

中国で昭和天皇暗殺の実行犯に指名

売上金を使い込んで職場を辞めた李奉昌はそのまま東京を離れ、心機一転中国の上海に行きました。そこでも職を転々としていました。そんな時、上海市内に大韓民国臨時政府の庁舎があると聞き、そこを訪れます。すると、その時はちょうど韓人愛国団の秘密会議が行われていました。日本語がペラペラだった李奉昌は日本からのスパイと疑われ追い出されてしまいます。

 

しかし、その後に韓国独立党の党首である金九に逆スカウトされ、韓人愛国団に加わります。
それでも、韓人愛国団の人たちは、いまいち素性がわからない李奉昌を調べるために、お酒を飲ませて本音を引き出そうとします。

 

お酒によった李奉昌は、「昭和天皇を処断すべきだ」、「自分は昭和天皇のそばまで行ったことがある。その時は武器を持っていなかったけれど、持っていたら容易にできた」と語ったたため、昭和天皇暗殺(桜田門事件)の計画が立ち上げられた時には、李奉昌が実行犯に指名されました

 

 

桜田門事件の犯人・李奉昌の動機

出典:s.japanese.joins.com

 

桜田門事件の犯人である李奉昌は、なぜ桜田門事件を起こそうとしたのでしょうか?李奉昌が桜田門事件を起こした動機は、朝鮮人扱いからの差別です。

 

1928年(昭和3年)11月に、李奉昌は昭和天皇のご尊顔を仰ぎたいと京都に行きました。しかし、その時ハングル文字と漢文の混ざった手紙を持っていたというだけの理由で、京都府警特高課に予防検束され、11日間も拘置所に入れられたのです。

 

この時、李奉昌は日本名を名乗り、日本人と同じように振舞っていても、朝鮮人扱いされる差別に憤慨して、この経験が桜田門事件を起こすきっかけになったと、逮捕後に供述しています。日本人から差別される怒りが、「天皇憎し」という方向に行ったのかもしれません。

 

また、朝鮮総督府鉄道の鉄道庁に就職した時も、朝鮮人労働者と日本人労働者の差別が顕著だったことがきっかけで、酒やギャンブルに溺れて借金を作っています。以前から、日本人による差別には悔しい思いをしてきて、恨みは募っていたと思われます。

 

ただ、李奉昌がギャンブルに溺れていたのは、ちょうど朝鮮半島で三・一運動が起こっていたころです。となると、李奉昌も三・一運動などの抗日運動に加わっていたのかと思うかもしれませんが、青年期の李奉昌は抗日運動には全く興味がなく、参加していなかったそうです。

 

となると、昔から朝鮮人が差別されていたことには憤る部分はあったけれど、それが日本人・天皇への恨みに変わっていったのは、1928年以降のことのようです。

 

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また、当時の新聞には「就職難の焦燥から扇動に動かされた」と書いてありました。確かに、当時の李奉昌は特高課に11日間拘留された後、健康上の理由もあって職を転々し、会社のお金を盗んでは辞めて、就職してまたすぐ辞めてを繰り返していました。

 

ということは、

 

1.朝鮮人だから差別されることに怒りを感じていた

2.ハングル+漢文の手紙を持っていただけで拘留された
3.仕事がうまくいかない

4.仕事がうまくいかないのは、差別されているからではないか?

5.日本人が憎い

6.日本人が憎いなら、天皇を暗殺するしかない

 

このような思考回路で、桜田門事件を起こしたのかもしれませんね。また、当時の新聞には、「今では愚挙を悔ゆ」と書いてあることから、事件後は反省していたのかもしれません。

 

事件後に反省していたことや事件前の動機・李奉昌の思考回路を考えてみると、差別を受けて天皇を憎むようになったけれど、実は暗殺するほど天皇を恨んでいたわけではなかった。

 

でも、仲間相手に大口を叩いて暗殺計画の実行犯に指名されたことで、後に引けなくなってしまったから、桜田門事件を実行したと考えることもできます。

 

 

桜田門事件は犯人の李奉昌が酔っぱらって失敗

出典:blog.goo.ne.jp

 

桜田門事件は失敗に終わりました。犯人の李奉昌は天皇の御料馬車に手りゅう弾を投げたけれども、天皇はその馬車に乗っておらず、天皇は無傷。1人の軽傷者を出しただけでした。

 

昭和天皇が無事で何よりですが、犯人側の視点からこの桜田門事件を見ると、あまりにも「お粗末な結果」としか言いようがありません。

 

手りゅう弾を投げつけたのに、狙った馬車は天皇が乗っていない馬車。天皇が乗っている馬車は32m後方でした。しかも、手りゅう弾を投げた御料馬車2両目に乗っていた人も無傷、近衛騎兵1名が軽傷というだけの被害。行幸の隊列に混乱を与えることもなく、そのまま昭和天皇は皇居に戻っていきました。

 

これじゃ、何のために桜田門事件を起こしたのか分かったものではありません。

 

実は、この日犯人の李奉昌は酔っぱらっていました。そして、焦って暗殺を実行に移したのです。

 

李奉昌は1931年12月12日に昭和天皇暗殺の実行犯として300ドルと手りゅう弾を金九から渡されて日本に渡ります。そして、12月22日に東京に入りました。しかし、東京で酒と風俗に溺れて資金を全額使い果たしてしまい、上海からお金を送ってもらう始末でした。昭和天皇暗殺の機会をうかがっていましたが、新聞で1月8日に陸軍始観兵式があるので、天皇の行幸があることを知り、李奉昌は1月8日に暗殺を決行することを決意します。

そして、1932年1月8日、李奉昌は偶然入手した憲兵曹長「大場全奎」の名刺を使って、観兵式の警戒網を2回突破して、赤坂付近で襲撃することにして、近くの食堂で日本酒を飲んで御料馬車が来るのを待っていました。

 

しかし、うっかりやり過ごしてしまい、急いで円タクを捕まえて三宅坂の陸軍参謀本部前で降りて、走って桜田門に急ぎました。そんな状態でしたし、予定していた場所とは違うところでの実行になり、「うっかりやり過ごすくらい日本酒を飲んでいて酔っぱらっている」という状態でした。

 

しかも、李奉昌はどの馬車に昭和天皇が乗っているかも知らなかったんです。御料馬車一両目が来て投げようと思ったけれど、投げ切れずに断念。そして、二両目が来て投げたら、命中もせずに、昭和天皇も乗っていなかったという結末になりました。

 

こんな杜撰な計画&適当な犯人だったから、昭和天皇は暗殺されずに無傷で済んだとも言えます。

 

 

桜田門事件の犯人・李奉昌は死刑!死因は絞首刑

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桜田門事件の犯人の李奉昌は死刑判決が言い渡されました。

 

 

大逆罪は死刑

出典:twitter.com

 

当時は、大日本帝国憲法でした。大日本帝国憲法には大逆罪という罪がありました。大逆罪とは、主要皇族への危害を加える・加えようとすることへの罪です。

 

旧刑法第七三条に規定された天皇・皇后・皇太子・皇太孫・皇太后・太皇太后に対して危害を加え、または加えようとすることによって成立した罪。死刑に処せられることになっていたが、昭和二二年(一九四七)の刑法改正により廃止。

 

引用:大逆罪とは – コトバンク

 

天皇・皇后・皇太子などに危害を加えた場合、加えようとした場合は死刑です。大逆罪は死刑以外の刑罰はありません。有罪なら死刑になります。

 

また、大逆罪の場合、実際に危害を加えた場合だけでなく、加えようとした場合も有罪になります。つまり、未遂でも死刑。暗殺計画を立てただけでも死刑になります。

 

さらに、一般的な裁判は三審制ですが、大逆罪は1回の裁判で刑が確定します。

 

 

李奉昌は死刑判決で絞首刑

出典:twitter.com

 

李奉昌は1932年1月8日に桜田門事件を起こし、現行犯で逮捕されました。そして、この桜田門事件は大逆罪ということで、地方裁判所での裁判は行われず、大審院に予審が請求されました。

 

そして、予審は約半年後の6月30日に終了し、大審院が9月16日に公判を開き、即日結審しています。その後、9月30日に死刑判決が言い渡され、10月10日に死刑が執行されました。

 

死刑の方法は絞首刑でしたので、具体的な死因は窒息や頸動脈の圧迫(脳への血流遮断)などが考えられます。

 

 

桜田門事件のその後

桜田門事件のその後の影響を見ていきましょう。桜田門事件は昭和天皇の暗殺未遂事件ですが、昭和天皇自身は無傷で被害はありませんでした。

 

当時の日本は天皇主権の国でした。つまり、日本は天皇の国であり、天皇は現人神という位置づけでした。桜田門事件は、そのような立ち位置の昭和天皇を暗殺しようとした事件でしたから、政治に与える影響は非常に大きいものでした。

 

さらに、前年には満州事変が勃発し、事件後すぐに満州国の設立が宣言されるなど、時代は太平洋戦争に向けて歩みだしている時でしたので、歴史にも大きな影響を与えています。

 

 

犬養内閣は辞表を提出するも留任

出典:ndl.go.jp

 

桜田門事件の後、責任問題が浮上しました。この大逆事件の責任をだれがとるのか?という問題です。ちなみに、1923年の虎ノ門事件では第二次山本内閣は、総理大臣の山本権兵衛以下閣僚全員が当時皇太子だった昭和天皇に辞表を提出し、慰留されたものの、内閣総辞職となりました。

 

桜田門事件が起こった時の内閣総理大臣は犬養毅でした。犬養内閣も、虎ノ門事件の前例に倣って、旅行中・病欠以外の閣僚全員で天皇に辞表を提出しました。しかし、時は1932年。1931年には満州事変が勃発し、戦争へのカウントダウンが始まっている状態でした。そのような時代背景を鑑みて、昭和天皇は事態の収拾に動き、西園寺公望を犬養毅のもとに派遣して、内閣を続行するように説得しました。

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事件翌日の1月9日には昭和天皇自ら「時局重大なるが故に留任せよ」と命じて、犬養内閣は続行することになりました。しかし、警視総監は罷免されて退官しています。

 

 

第1次上海事変の原因

出典:ja.wikipedia.org

 

桜田門事件は第1次上海事件の原因にもなりました。

 

第一次上海事変とは、1932年1月28日から3月3日にかけて起こった上海租界周辺で起こった日中両軍の衝突です。「事変」というとちょっとした小競り合いを思い浮かべるかもしれませんが、第一次上海事変は戦死者770名、負傷者2,300名という損害を出しました。

 

この第一次上海事変が起こる前から、上海租界では日本と中国の緊張が高まっていて、排日貨運動という抗日運動が展開されていました。そんな中で、桜田門事件が起こりました。

 

すると、事件翌日の1月9日には上海の国民党機関紙「民国日報」は「不幸にして僅かに副車を炸く」と報じたのです。この「不幸にして僅かに副車を炸く」とは、「不幸にも天皇に当たらなかった」と意味です。つまり、犯人である李奉昌に好意的な報道、昭和天皇が無事だったことを残念がる報道をしたのです。

 

この陽動を見た上海租界の日本人は憤慨して大激怒しました。また、上海総領事は、記事について上海市長に抗議しています。

 

この民国日報の報道をきっかけに、上海租界の日本人社会による糾弾運動につながり、中国側も日本人僧侶襲撃事件や三友實業社襲撃事件を起こし、日中関係の緊迫関係が高まり、桜田門事件から20日後の1月28日に第一次上海事変が勃発したのです。

 

この桜田門事件だけが第一次上海事変の原因というわけではありませんが、1人の韓国人の大逆事件(しかもうっかり系事件&天皇無傷)が、戦死者770名を出す軍事衝突の引き金になったというのは恐ろしいですね。

 

 

韓国では李奉昌が英雄に

出典:yosukenaito.blog40.fc2.com

 

犯人の李奉昌は、日本では暗殺者・テロリストという位置づけです。昭和天皇を暗殺しようとしたのですから、これは当然のことと言えます。

 

でも、李奉昌の故郷である韓国では、英雄として扱われています。

 

李奉昌は1932年に死刑が執行されていますが、戦後の1946年には在日韓国人が李奉昌の遺骨を発掘し、韓国のソウルに持って行って、ソウル市内で国民葬が行われ、独立三義士(李奉昌・白貞基・尹奉吉)の1人とされています。

 

また、1962年には李奉昌は建国勲章大統領章を追叙されています。さらには、1992年に没後60年を記念して、李奉昌の100ウォン切手が発行されていますし、韓国の小学校の歴史教科書では李奉昌を義士としてたたえる記述が1ページあるそうです。

 

日本ではテロリスト、韓国では英雄・独立の義士。扱われ方が全く違うのが2つの国の歴史観の違いを如実に表されていて、非常に興味深いです。

 

 

桜田門事件の現在

出典:news.nicovideo.jp

 

桜田門事件は、現在でも韓国では抗日・独立運動の象徴のように扱われています。

 

2019年には李奉昌が1931年に韓人愛国団に入る時に書いた宣誓文が、韓国で文化財に指定されています。

 

抗日独立文化遺産の李奉昌義士の宣誓文が文化財として登録される。文化財庁は李義士が天皇を処断するという決意を記録した国漢文混用の宣誓文、金九先生に送った「李奉昌義士親筆の手紙と封筒」「李奉昌義士義挙資金送金証書」の3件を文化財として登録すると12日、発表した。

 

引用:韓国、抗日独立文化遺産3件を文化財登録 | Joongang Ilbo | 中央日報

 

日本では日本史オタク・昭和初期に興味がある人以外では、李奉昌の名前は忘れ去られていて、知らない人も多いと思いますが、韓国では現在でも英雄扱いのままのようです。

 

 

桜田門事件のまとめ

桜田門事件の場所や詳細、事件後の昭和天皇、犯人の李奉昌の生い立ち・経歴や動機、死刑判決や死因、その後と現在をまとめました。

 

もし暗殺が成功してしまったら、日本はどうなっていたのか?と考えるとゾッとします。

 

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