福田和子は1982年に発生した松山ホステス殺害事件の犯人で、整形を繰り返して顔を変え、時効直前まで逃げた殺人犯として知られます。
この記事では福田和子の生い立ちや家族、結婚、判決と死因、旦那や息子の現在と事件をモデルにしたドラマを紹介します。
この記事の目次
- 福田和子とは【松山ホステス殺害事件の犯人】
- 福田和子の生い立ち① 家族との関係
- 福田和子の生い立ち② 松山刑務所事件
- 福田和子が起こした松山ホステス殺害事件の詳細① 結婚と事件発生まで
- 福田和子が起こした松山ホステス殺害事件の詳細② 捜査の手が伸びる
- 福田和子が起こした松山ホステス殺害事件の詳細⓷ 最初の整形
- 福田和子が起こした松山ホステス殺害事件の詳細④ 和菓子屋の若旦那
- 福田和子が起こした松山ホステス殺害事件の詳細⑤ 息子を呼び出す
- 福田和子が起こした松山ホステス殺害事件の詳細⑥ 石川からの逃亡
- 福田和子が起こした松山ホステス殺害事件の詳細⑦ 逮捕まで
- 福田和子の裁判と判決
- 福田和子の最期と死因
- 福田和子の家族の現在① 共犯者となった元夫
- 福田和子の家族の現在② 息子
- 福田和子が潜伏していた和菓子屋やおでん屋の現在
- 福田和子をモデルにしたドラマと映画『顔』
- 福田和子と松山ホステス殺害事件についてのまとめ
福田和子とは【松山ホステス殺害事件の犯人】
1982年8月19日、愛媛県松山市勝山町にある大西太ビルの703号室でこの部屋の住人の安岡厚子さん(当時31歳・職業ホステス)が殺害される事件が起こりました。
安岡さんを殺害した犯人は、元同僚でホステスの福田和子(犯行当時34歳)。福田は事件当日、金の無心で安岡さんの家を訪れていました。
しかし、借金の申し入れを断られたために彼女を絞殺して現金およそ13万円と通帳を奪って逃走します。
その後、自宅に電話をして「正当防衛で誤って人を殺してしまった」と噓をついて夫に助けを求め、2人で安岡さんの遺体を市内の山林に遺棄しました。
遺体遺棄後、夫は自首を勧めましたが福田は拒否をして安岡さんの部屋から家具を運び出し、当時交際していた不倫相手と会うために借りたマンションに家具を持ち込んだとされます。
この行動が警察の目に留まり安岡さん殺害の犯人として疑われるようになり、8月24日から逃亡を開始することとなったのです。
こうして各地を転々とし、職を変え、整形をして顔も変えながら約15年に渡って福田は警察から逃げ回り、警察も懸賞金をかけて彼女の足取りを追いました。
そして時効成立まで残り21日となった1997年7月29日、ついに福井市内で福田和子が逮捕されたのでした。
逃亡中に福田は7回も整形を繰り返して顔を変えており、何食わぬ顔で勤務先の和菓子店の若旦那と内縁関係にまでなっていました。
前例のないような逃亡劇を繰り広げた福田和子は世間からも大きな注目を集め、彼女の半生は何度もドラマ化され、映画や小説のモチーフにもなっています。
福田和子の生い立ち① 家族との関係
福田和子は1948年1月2日に愛媛県の松山市内で誕生しました。1歳の頃に両親が離婚しており、母親に引き取られた福田は同県川之江市内に引っ越したとのことです。
離婚後、母親は自宅を売春宿代わりにして生活費を稼いだとされ、そのような生活を続けるなかで客であった漁師と再婚。
一家は来島海峡の西側にある来島に移住することとなったのですが、新しい父親は女癖が悪く、福田の母親と再婚して早々に不倫を繰り返すような人間でした。まだ幼かった福田は、義理の父親が何度も母親を裏切る姿を見て暮らしていたといいます。
さらに家庭内の問題だけではなく、来島の排他的な環境も母子を追い詰めました。次第に島での生活に耐えきれなくなった福田親子は、母と子だけで今治市に戻ることを決めます。
福田和子の生い立ち② 松山刑務所事件
今治に戻ってからは大きな問題もなく学校生活を送り、高校生になる頃には福田にも恋人ができていました。
しかし1965年、高校3年生の時にこの恋人が事故死をするという悲劇が起こります。
ショックを受けた福田は、卒業を目前にして高校を中退。その後、新しくできた恋人と同棲生活を始めます。
ところがこの男は、まともな人物ではありませんでした。男は遊ぶ金欲しさに強盗の計画を立て、福田にも手を貸すように持ち掛けてきたといいます。
そうして1966年には高松市内にあった国税局長の家に強盗に入るのですが、大した計画も立てずに押し入ったのでしょう。2人そろってあっけなく逮捕されてしまいます。
逮捕後、福田は強盗罪で起訴されて実刑判決を受け、松山刑務所に服役することとなりました。
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この頃、松山刑務所には多くの暴力団関係者が服役していました。そして、この刑務所では福田が服役する2年前の1964年から暴力団関係者による刑務官の買収が横行しており、所内で暴力団が好き勝手しても許されるという環境が出来上がっていたのです。
暴力団関係者は刑務官から手に入れた鍵を使って女性囚人が収監されているエリアにまで押し入り、女性囚人を強姦。
福田和子も刑務所内での強姦での被害者となっていました。1966年中には刑務所内で行われた囚人や刑務官の犯罪行為が表沙汰となり、刑務官が自殺するなどの騒動も起きたために、強姦の被害者の福田は高松刑務所に移管されることとなります。
しかし、これで問題が解決したわけではなく、なんと高松刑務所内でも同様の事件の被害者になってしまったのです。
これは後に福田の手記『涙の谷―私の逃亡、十四年と十一カ月十日』などによって明らかになったことで、当時、福田たち被害者には強姦の被害届を出すことは認められていなかったといいます。
そのため福田も被害者となった刑務所内での強姦事件については、誰からも訴えがないまま時効が成立しています。
なお、福田和子が我が子を残し、顔を変えてまで逃走を続けた理由は、この時の経験から刑務所に対する強い不信感と恐怖心があったためだそうです。
福田和子が起こした松山ホステス殺害事件の詳細① 結婚と事件発生まで
高松刑務所を出所した福田は、ホステスとして働きながら生活をしていました。そして20歳の時に1人の男性と知り合い、結婚をします。
ところがこの男性とは結婚生活がうまくいかず、2人の子どもをもうけたものの5年後には離婚。
翌年の1974年に別の男性と出会って再婚し、新しい夫との間にも2人の子どもが誕生します。
再婚後は幸せな生活を手に入れて、福田の人生はやり直せたかのように見えました。
しかし歪んだ成育歴がそうさせるのか、実は福田は夫に隠れて不倫をし、愛人と密会するためのマンションまで借りていたのです。
夫に隠れて愛人との二重生活をするために、福田は借金を重ねてしまいます。不倫相手には「実家が裕福だ」と嘘をついていたといい、見栄を張るために必要以上にお金を使ってしまったのです。
そして借金返済のために、またしてもホステスとして働き始めることに。そこで出会ったのが、松山ホステス殺害事件の被害者となる安岡厚子さんでした。
安岡さんは当時、福田が働いていた店で一番人気のホステスだったそうです。働いても借金の利息を払うのにも窮していた福田は、売れっ子ホステスの安岡さんに借金を申し込もうと思い立ちました。
こうして1982年8月19日、安岡さんが住む大西太ビルの703号室を訪れた福田は、手土産の酒を飲みながら金の無心をしたといいます。
しかし、安岡さんの返事はノー。借金を断られた福田は、安岡さんを殺害して金や家具を奪うことにしました。
福田は酒に酔った頃合いを見計らって安岡さんを絞殺。遺体をタオルケットで包んでガムテープでぐるぐる巻きにした後、マンションの非常階段に出して家の中を物色しました。
そして現金約13万円と預金通帳2冊、銀行印を盗み、19時頃に自宅に電話をして夫を事件現場に呼び出します。
やってきた夫に対して、福田は正当防衛で安岡さんを殺害してしまったと嘘をつき、遺体を隠す協力をしてくれないかと泣きつきました。
最初はすぐに自首をするべきだと訴えていた夫ですが、最終的には安岡さんの遺体を乗ってきた車に積み、松山市から20㎞ほど離れた山林に向かいます。そうして妻に言われるまま、山林に遺体を遺棄してしまったのです。
福田和子が起こした松山ホステス殺害事件の詳細② 捜査の手が伸びる
現金や通帳のほかにも福田は安岡さんのマンションから高価な家具を多く持ち出しました。その数は341点、総額はなんと約950万円にも上ったといいます。
実は福田が安岡さんを殺害した動機には、彼女が使っている豪華な家具が欲しかったからというものもありました。
前述のように福田は不倫相手に「お嬢様育ちだ」と嘘をついていました。それを裏付けるために、不倫相手と密会するために借りた部屋には「実家から持ってきた」という設定の豪華な家具を持ち込みたかったのです。
しかし、実際の福田の実家は裕福とは程遠いものでした。そこで目を付けたのが、売れっ子ホステスで豪華な家具に囲まれて暮らしている安岡さんだったというわけです。
安岡さん殺害後、福田はレンタカーを借りて彼女の部屋から大小の家具を持ち出し、親せきの家などで一時預かってもらった後に、不倫相手との密会部屋に運び込んでいきました。
引っ越し業者でもない個人がこれだけ多くの家具家財を持ち出す姿は当然ながら人目に付きやすく、この行動から福田は安岡さん殺害の重要容疑者としてマークされることとなります。
当初、行方不明となった安岡さんの捜索をしていた警察は、もぬけの殻となった彼女の部屋を見て「夜逃げではないのか」と見ていたそうです。
しかし、周辺の住民から安岡さんの部屋から荷物を運び出す怪しい女の話を聞きつけ、すぐに強盗殺人の疑いが強いとして福田に目を付けたのです。
こうして8月24日には福田の家に警察から電話がかかってきました。電話に出たのは福田本人だったのですが、とっさに声色を変えて子供のふりをして対処。
その場は難を逃れたのですが、これ以上この家に留まったら捕まると思った福田は、家族にも何も告げずに家を出ていきました。ここから、福田和子の長い逃亡劇が始まったのです。
福田和子が起こした松山ホステス殺害事件の詳細⓷ 最初の整形
家を出た福田は松山駅に向かい、そこから青森に出発しました。ところが乗る電車を間違えたために金沢で下車することとなり、そのまま金沢市内のスナックでホステスとして働くことにします。
なお、面接時には名前を「小野寺華世」と偽り、源氏名は「シノブ」と名乗っていたそうです。
さらに住居もスナックのママから格安アパートを紹介してもらい、逃亡生活の基盤を作っていきます。
一方その頃、残された福田の夫は警察の取り調べに応じて遺体を遺棄したことを正直に話し、逮捕されていました。
そして夫の供述通りの場所から安岡さんの遺体も発見、福田和子は殺人、強盗、死体遺棄の容疑で全国に指名手配され、8月30日には顔写真も公開されることとなります。
ここまでされてしまったら国内にいる限り、逮捕は免れないのではないかと思いきや、福田はホステスの仕事を休んで東京新橋に向かい、十仁病院で整形手術を受けたのです。
目を二重瞼にして鼻にもシリコンを入れ、手配書の写真とは別人になった福田。新しい外見を手に入れたことで自信がついたのか、客あしらいも格段に上手くなり、その後もしばらく金沢市内のスナックで働き続けていました。
福田和子が起こした松山ホステス殺害事件の詳細④ 和菓子屋の若旦那
2018/11/16:石川県能美市根上町 ☺️
同年7月閉業の菓子屋【松村松栄堂】
▶︎ 福田和子が3年潜伏したお店‼️
昭和〜平成の元殺人逃亡犯です
元旦那様のお車と思われます
銘菓【氷室饅頭】食べたかった… pic.twitter.com/XJVJjE9VrO— kiyo71 (@ELXBiFd9RPZvmCq) November 15, 2022
金沢のスナックで働いていた頃、福田は「自分は料亭の跡取り娘で、親が決めた相手と無理やり結婚させられていた」「でも、夫のDVが酷く、耐えきれなくなって逃げてきた」と嘘の身の上話を語って、客の同情を買っていました。
そしてこの店の客であった老舗和菓子店の若旦那も、福田の身の上話を信じてしまったのです。
若旦那に目を付けた福田は彼に接近して交際を開始。1985年6月からは内縁の妻として彼の経営する和菓子店で働くことになります。
働き者で愛想もよかった福田は若旦那の親や家族からも歓迎され、店の売り上げにも貢献したそうです。
なお、福田と知り合った後に若旦那は当時の妻と離婚しています。福田との結婚を考えていたために、妻と離婚したのでしょう。
福田和子が起こした松山ホステス殺害事件の詳細⑤ 息子を呼び出す
内縁の妻として生活が落ち着いてくると、愛媛に置いてきた子どもの顔が福田の頭によぎるようになります。
そして1986年9月に今治市内に出向いて長男と再会を果たした福田は、せめてこの子とだけでも一緒に暮らしたいと思い、若旦那には甥だと嘘をついて長男を和菓子屋に呼び寄せて一緒に生活することにしました。
長男と接触をして一緒に暮らすなど、とても逃亡中の人間の生活とは思えません。ここまで自由にふるまっていたら、いくら整形をしていてもすぐに警察の目に留まるのではないかと思いますが、実は福田は警察に居場所を悟られないように工夫をしていました。
彼女は我が子や知人に連絡をする際には、わざわざ石川県から京都に移動して電話をかけていたのです。
こうすることで警察は、福田和子は関西圏に潜伏していると思い込んでしまい、石川にまで捜査の手が及ばなかったといいます。
福田和子が起こした松山ホステス殺害事件の詳細⑥ 石川からの逃亡
さて、若旦那の許しも得て4年ぶりに息子と暮らせることになった福田。幸せな日々を送っていましたが、若旦那が思いがけない行動に出ます。いい加減、正式に籍を入れようと福田に提案してきたのです。
当然ながら逃亡中の殺人犯である福田は、若旦那との結婚には応じられません。その場その場でごまかして結婚の話をはぐらかしてきたのですが、この行動は若旦那だけではなく若旦那の両親や家族にも不審がられることとなります。
そしてある日、偶然にも福田和子の指名手配書を目にした若旦那は、自分の家にいる「小野寺華世」とそっくりなことに気づいてしまいます。
怪しく思った若旦那や家族は福田を問い詰めますが、やはりはぐらかされて話になりませんでした。
そのため福田ではなく、彼女が連れてきた「甥っ子」の荷物を調べてみたところ、なんと愛媛県松山市が住所地となっている運転免許証が出てきたのです。
福田和子が殺人事件を起こしたのも松山市だ、とハッとした若旦那はすぐに警察に通報します。
一方その頃、福田は近所の公民館で葬儀の手伝いをしていました。そして警察が公民館に迫っていることを察知すると自転車に乗って逃走。間一髪で逃げ切ったのでした。
こうして約5年半にもおよぶ、福田和子の石川県内での逃亡生活は幕を閉じました。
福田和子が起こした松山ホステス殺害事件の詳細⑦ 逮捕まで
長男を潜伏先の和菓子屋に置いて石川県から逃げ出した福田は、整形を繰り返しながら3ヶ月ごとに各地を転々としていきました。
石川県で捕まりかけたことから、同じ場所に長くとどまって特定の人と親しくなれば、それだけ逮捕される危険性が増すと身をもって知ったためです。
そうして少しでも不審がられると姿をくらませて逃げまわり、1988年には死体遺棄罪の時効が成立。
その後も1988年から1996年までの間に、北海道から山口まで15箇所以上を渡り歩き、警察も足取りを追うだけでも翻弄されることとなります。
逃走資金は逃亡先のスナックで働いて得たり、スナックの客と内縁関係になって援助させるなどして稼いでいたそうです。
そうして時効まで1年が迫った1996年、福田は福井県にいました。この土地では化粧品のセールスレディのふりをして、複数の愛人からの生活費援助を受けて生活していました。
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一方で警察も公訴時効成立まで1年を切って、いっそう捜査に力を入れます。
福田和子の逮捕につながるような有力情報には100万円の懸賞金を支払うという異例の措置をとり、福田の顔写真をプリントしたテレホンカードを配布。
福田の整形を行った病院も「大変なことに協力してしまった」として、独自に事件解決につながる情報の提供を呼びかけ、400万円の報奨金を提示しました。
また、警察はこの時点で福田和子逮捕のきっかけとなる大きな決断をします。石川県潜伏時に福田がかけていた電話の通話音声を公開したのです。
名前も顔も変えて逃げていた福田ですが、声や話し方の特徴は隠せていませんでした。
そうして福井に来て半年が経とうとしていた1996年の7月、福田がよく訪れていた福井県内のおでん屋の女将が、指名手配犯・福田和子の声に聞き覚えがあることに気づいて警察に通報。これが逮捕に繋がったのです。
この頃、懸賞金をかけられたことから松山ホステス殺害事件と福田和子に関する報道は過熱しており、警察にも4000件を超える情報提供が寄せられるなどして、事件への関心は高まりを見せていました。
そのため福田にとって人前に姿を現し、他者とかかわりを持つことは命知らずな行為だったのです。
しかし福田は、「中村麗子」という偽名を使って長らく福井県内に留まり、滞在先のホテルからこのおでん屋をはじめとする行きつけの店に顔を出す暮らしをしていました。
この理由について、福田和子の息子は後に以下のように語っていました。
実は、ぼくとおふくろは、性格が一緒なんです。だから、おふくろの考えていることはようわかるんです。2人とも何が一番怖いかというと、孤独なんです。すごい寂しがり屋で、たえず人と一緒におらんとだめなんです。1か月ぐらい山の中に隠れてたらよかったのにという人もいましたが、それはおふくろにはできなかったと思います。
逮捕される前日の1996年7月28日にも福田は行きつけのおでん屋に立ち寄り、自ら「女将さんも、私がニュースに出てる人と似てるって思ってるんじゃないの?」と、福田和子の話題を振っていたそうです。
女将が驚くと「私は鼻にシリコンなんか入れてないわよ」と言って、鼻を触ってみるように勧めてきたとの話もあります。
実はこの日、女将は常連客と協力しておでん屋を訪れた福田の触ったコップやビール瓶を保管し、福田が帰った後に警察に提出していました。
そして28日のうちにおでん屋で押収されたコップなどから検出された指紋と福田和子の指紋が一致したことを確認した警察は、すぐにおでんや周辺での張り込みを強化。
裏でそのようなやり取りがあったとは知らず、翌日の29日も福田はおでん屋を訪れ、あっという間に警察に囲まれて逮捕となったのでした。
こうして14年と344日にも及ぶ福田和子の逃走劇は、松山ホステス殺害事件の時効成立21日前に幕を閉じました。
福田和子の裁判と判決
逮捕後、福田は安岡さん殺害を認めずに「自分と一緒に安岡さんのマンションを訪れた知人の男が彼女を殺した。自分は男に迷惑がかかると思って夫を呼び、死体遺棄にだけ協力した」と供述します。
前述のとおり死体遺棄罪については1988年に時効が成立していたため、これだけ認めて起訴を免れようとしたのでしょう。
警察の取り調べに対して福田は安岡さんを殺した男の名前も述べましたが、この男はすでに死亡しており、直接事件に関与したのか確認するのは不可能な状態でした。
しかし、共犯者が手を下したという供述が嘘だと暴けない限り、福田を殺人罪で起訴することはできません。
そのため警察は躍起になって男の特定と事件当日のアリバイを探しますが、何しろ15年近く前のことですから当日の男の行動を覚えている人はなかなか現れませんでした。
逮捕はできても時効までに起訴ができなければ、福田和子は罪に問われなくなります。もはやここまでかと思った矢先、親族の家に残された男の日記や勤務先の同僚の証言から、事件当日に男が東京で仕事をしていたことが明らかになったのです。
こうして「殺害は共犯者がやった」という供述は嘘であることが証明され、福田和子は8月19日、時効成立のなんと11時間前に強盗殺人罪で起訴されるに至りました。
裁判での様子と判決
松山地方裁判所で行われた公判のなかで、福田は安岡さん殺害の動機について「一緒に店をやる話を持ち掛けたところ、馬鹿にするような態度をとられてカッとなった」と供述し、強盗が目的ではなかったと訴えました。
しかし、この訴えも逮捕後に「自分がやったのは死体遺棄だけ」と主張した時と同様に罪を軽くするための嘘だと判断され、反省の様子が見られないとして1999年5月31日には福田和子に無期懲役が言い渡されます。
その後は減刑を求めて高松高等裁判所に控訴しますが棄却され、続いて東京最高裁判所への上告も棄却されたことから、2003年11月には無期懲役が確定します。
福田和子の最期と死因
無期懲役判決を受けた福田は和歌山刑務所に服役します。和歌山刑務所は女子刑務所ですから、以前のような恐怖にさらされずに生活できたのではないかと思われます。
しかし服役中の2005年2月、刑務所での作業中にくも膜下出血で倒れ、そのまま意識が回復せずに3月10日に福田は和歌山市内の病院で息を引き取りました。死因は脳梗塞、享年57歳でした。
福田和子の家族の現在① 共犯者となった元夫
安岡さんの死体遺棄を手伝った福田和子の元夫は、死体遺棄罪で起訴されて懲役1年6ヵ月(執行猶予3年)の有罪判決を言い渡されました。
その後はどのように暮らしているのかは不明ですが、妻が不倫相手と暮らすための金を工面するために強盗殺人を犯し、騙されてその片棒まで担がされた元夫も安岡さん同様に事件の被害者ではないかとの指摘もされています。
福田和子の家族の現在② 息子
逃亡中の母親に招かれて、石川県の和菓子店で暮らしていた時期もあるという福田和子の長男。事件発生時には14歳でした。
母親が家を逃げ出した後は学校に行くことも躊躇していたものの、友人たちは犯罪者の子どもと責めるどころか心配してへげ増してくれたそうです。
しかし、父方の祖母は事件の影響を考えて長男と長女を福田の実家に引っ越させたといいます。
その後、長男は実の父親の家に身を寄せて18歳になる頃には定時制高校に通っていました。
この頃に福田と再会を果たして一緒に暮らすようになったものの、その1年半には福田は長男を置いて和菓子店から逃亡。
息子から見れば2度も母親から捨てられたことになるわけですが、なんと福田を恨む気持ちはないそうです。
2018年にフジテレビ系列で放送された『直撃!シンソウ坂上』では息子の証言を基にしたドラマが流され、そのなかで最期まで福田を母と慕い続けた長男の様子も描かれました。
現在、長男は福田和子の息子だということを知ったうえで結婚に応じてくれたという女性と家庭を築き、現在は平穏に暮らしているとのことです。
同番組内では家族として過ごす時間が短かった母親について、以下のように語っていました。
「母を恨む気持ちは欠片もありません。あるのは感謝の思いと、自分の子どもにも同じように愛情を注いでいきたい、そんな望みだけ」
福田和子が潜伏していた和菓子屋やおでん屋の現在
福田が潜伏していた石川県の和菓子屋は能美市にある「松村松栄堂」だと言われています。
松村松栄堂は2018年7月に閉店していますが、若旦那は1年半だけ一緒に暮らした福田の息子を気にかけていたといい、福田が逃亡した後もしばらく面倒を見ていたそうです。
また、福田和子逮捕のきっかけを作ったおでん屋は福井駅近くにあった「園」という店ではないかと言われています。
このお店も1997年には閉店しており、女将は受け取った報奨金500万円をすべて寄付していたことも明らかになっています。
周辺住民によると、福田和子が逮捕された後に園や2軒隣にある女将夫婦の家にもマスコミが押しかけ、店には「常連客を売ったのか」という嫌がらせの電話までかかってきていたとのこと。
そのため店を続ける気力をなくしてしまい、閉業してしまったのではないか?とも考察されているようです。
福田和子をモデルにしたドラマと映画『顔』
これまで福田和子をモデルにしたドキュメンタリードラマは複数制作されており、2016年3月17日にもテレビ朝日系列で『福田和子 整形逃亡15年』というドラマが放送されました。
本作で福田役を務めたのは寺島しのぶさんで、寺島さんはドラマの制作が発表された際に「被害者や遺族の方々を思うと、オファーを受けるのに躊躇した」と語っていましたが、放送後の反響は大きく、寺島さんの熱演には高い評価が寄せられました。
また、2000年に公開された映画『顔』で藤山直美さんが演じる主人公の殺人犯のモデルとなったのも福田和子だと言われています。
福田和子と松山ホステス殺害事件についてのまとめ
今回は1982年に起きた松山ホステス殺害事件の犯人、福田和子について生い立ちや15年近くに及ぶ逃走劇、判決や死因をふくめて紹介しました。
ドラマ化されることも多く、逃走中に知り合った人々からの評判も良好なために福田和子の話は美化されがちだとの声もあります。
逃亡生活にばかり目が行ってしまいますが、福田が殺害した安岡さんはホステスとして稼いだお金を家族に仕送りしながら、兄弟と喫茶店を開く夢に向けて貯金をしていたとの話も裁判で明らかになっていました。
裁判の時点では反省が窺えなかった福田和子。亡くなる前には自分の子どもや家族のことばかりではなく、安岡さんや遺族、逃亡に巻き込んだ人々のことを考えて罪を悔やんでいたと信じたいです。