築地八宝亭一家事件は、1951年に東京都内の中華料理店「八宝亭」で起きた店の経営者一家4人の惨殺事件です。この記事では築地八宝亭一家事件について、事件の詳細や犯人・山口常雄と被害者の関係、八宝亭の場所や現在を紹介していきます。
この記事の目次
築地八宝亭一家事件の概要
1951年2月22日、東京都中央区築地2丁目にあった中華料理店「八宝亭」で殺人事件が発生しました。
被害者となったのは、この店の経営者の岩本一郎さん(当時48歳)、妻のキミさん(当時40歳)、長男の元くん(当時11歳)、長女の紀子さん(当時10歳)の4人。
4人の遺体はすべて割り用のナタで頭部を打ち割られており、駆け付けた捜査員ですら正視に耐えないほど悲惨な状況でした。
事件の発覚は八宝亭で働いていた山口常雄(当時25歳)の通報によるもので、山口は「起床して1階に降りたところ、一家が殺されていた」といった供述をしたとされます。
山口は住み込みで勤務しており、一家が殺害された夜も八宝亭の2階にいました。そのため駆け付けた築地署の捜査員らも「2階にいたのに叫び声や物音を聞かなかったのか」「これだけの事件が起きていたのに、異変に気づいて起きなかったのか」と山口を怪しむようになります。
すると山口は「昨日の夕方から『太田成子(なりこ)』という若い女が住み込みの女中で採用されたのだが、姿を見ない。昨晩は彼女の親戚だという男も来ていた」と言い出し、警察の捜査対象は太田成子と親戚の男にうつることに。
さらに山口はマスコミの取材に積極的に応じては、岩本さん一家への恩を語って涙ぐみ、「ご主人一家を殺した犯人が憎い、犯人逮捕のためならなんでも協力します」と訴えました。
この姿は大きく報道され、新聞記事などでは美談のように取り上げられたといいます。
そして事件の翌月、3月10日に太田成子が逮捕され、事件は解決したかに見えました。
しかし、この太田成子を名乗る女は、実は山口に騙されて八宝亭の周りで犯人と思わせるような動きをしていただけであり、岩本さん一家を殺害した真犯人は山口常雄だったのです。
逮捕後、山口は犯行を認めるような発言をしながらも動機や事件の詳細について語る前に自殺。
そのため、山口常雄がなぜ岩本さん一家を惨殺したのかは明かされておらず、築地八宝亭一家事件は昭和の代表的なアプレゲール犯罪の一つに数えられています。
築地八宝亭一家事件の詳細① 事件の発覚
出典:http://www.machida-zeikei.sakura.ne.jp/
1951年2月22日午前9時半頃、築地署の刑事課に築地八宝亭一家事件の真犯人である山口常雄がやってきました。
事件の前年、12月頃から見習いのコックとして住み込みで八宝亭で働いていた山口は、出前で頻繁に築地署に出入りしており、署の警察官にも顔を知られていたそうです。
刑事課に来た山口は、顔なじみの刑事に八宝亭の主人一家の様子がおかしい、呼びかけても返事がないし、起きてくる様子もないと訴えました。
この時、山口は特段焦った様子もなく、警察まで主人一家の異変を訴えに来たわりには妙に落ち着き払っていたといいます。
しかし、山口の話に異様さを感じた築地署刑事課の捜査主任は、数人の部下を連れて八宝亭へ向かいました。
築地八宝亭一家事件の詳細② 被害者一家と現場の様子
八宝亭に到着した捜査員たちが目にしたのは、1階の4畳半で惨殺されていた主人一家の遺体でした。
現場となった部屋は一家4人が寝室として使用していた部屋で、4畳半に布団が敷き詰められていたとされます。
この布団の上に、八宝亭主人の岩本一郎さんの遺体が仰向けに転がっており、その右側に妻のキミさん、長男の元くんの遺体がうつ伏せの状態で放置されていました。
そして長女の紀子さんは逃げようとしたところを背後から殺害されたのか、膝立ちでふすまに手を突っ込んだ姿勢で絶命していたといいます。
4人の遺体はすべて、鈍器で滅多打ちにされており、頭部を割られた状態でした。
そのため遺体の下にあった布団も、紀子さんが手をかけていたふすまも血がべっとりと付着して、4畳半は血の海になっていました。
その後の調べで八宝亭の調理場の冷蔵庫から血痕のついた薪割り用のナタが発見され、これが凶器と特定されます。
そして現場からは現金、永楽信用組合の預金通帳、千代田銀行(現在の三菱UFJ銀行)の預金通帳、勧業銀行(現在のみずほ銀行)の通帳など、現在の価値にして800万円相当が持ち去られていました。
築地八宝亭一家事件の詳細③ 山口常雄の証言と太田成子
現場を見た捜査官は、通報者である山口常雄が犯人ではないかと疑います。その根拠として挙げられたのが以下の点です。
・胃の中の消化物を検査した結果、死亡推定時刻は2月22日午前4時頃と思われる。その時間帯に2階の6畳間で寝ていた山口が、これだけの事件に気づかないのはおかしい。
・子どもまで惨殺されているのに、山口1人無傷なのはおかしい。
・凶器となったナタは、峰の部分に血痕が付着していた。面識のない強盗犯なら刃の部分で殴打するのが通例のため、犯行は主人一家と面識のある者の可能性が高い。
・遺体に毛布がかぶせてあった。こうしたことも、顔見知りの犯行でよく見られる。
・台所の洗面所やコップから山口の指紋が検出された。こうした指紋は、犯行後に犯人が返り血を洗い、気持ちを落ち着かせるために水を飲むことが多いことから、犯人のものの可能性が高い。
山口に対して、事件当日に13時間にもわたって事情聴取が行われました。この時は山口常雄が容疑者の最有力候補だったのでしょう。
しかし、聴取の間に山口は不審な女の存在を告白し、状況は一変するのです。
山口は事件前日の2月21日の夕方に、「求人の張り紙を見た」と言って太田成子という女が店に来たと話し出しました。山口が話した太田成子の特徴は以下の通りです。
・年齢は25、6歳
・小太り
・パーマをかけて洋装
彼女は荷物も持たずにふらっと八宝亭にやって来たといい、山口は「パンパン(売春婦)のような女だった」と印象を証言しました。
そして21日の夜には彼女の親戚だという27、8歳の男が訪ねてきて、太田成子の部屋にそのまま泊った、男のは日本人ではなく、中国や朝鮮、韓国出身のように見えた、朝になったら2人とも消えていたなどと言い始めたそうです。
山口は、「ご主人も奥さんも太田成子という女に好意的だったけれど、あの女と親戚の男を家にあげなければ事件は起こらなかったのに」と、太田成子と親戚の男が怪しいと訴えました。
この荒唐無稽にもとれる山口の供述について、築地署内でも「山口以外に、前日の夕方に雇われた女中を見た従業員はいるのか」「素性の分からない女とその親せきを夜分に家にあげるものか」と訝しむ声があがったといいます。
しかし当時、八宝亭で働いていた中国人のコックが「たしかに21日から、派手な女中が働いていた」と証言。この証言から太田成子は実在の人物で、山口の話も本当だと確定します。
築地八宝亭一家事件の詳細④ 山口常雄とマスコミ
そうして事件から数日が経った日、山口の証言そっくりの女が盗まれた岩本さん名義の通帳を使って現金14万円を引き出そうとする姿が目撃されました。
結局、この時は女は銀行窓口で「印鑑が違う」という理由で追い返されており、預金の引き出しには失敗していました。
この件がきっかけとなって、警察の捜査の矛先は太田成子に向けられ、彼女のモンタージュ写真が作成され、新聞にも掲載されることとなります。
しかし、太田成子が捜査対象になったとはいえ、山口常雄に対する疑惑がなくなったわけではありません。捜査員らは主に以下の3つの理由から、山口に対する疑念を捨てていませんでした。
・太田成子の存在は確認できたが、事件前夜に訪ねてきた彼女の親戚の男を見たという人物はいない。
・「成子」という名前は通常「シゲコ」と読むが、山口は「ナリコ」と呼んでいた。
・事件があった朝、主人一家が起きてこなくて応答もなかったのなら、警察に来る前に病気を疑って119番通報をするのが一般的なのではないか。
とくに2番目の「成子の読み方」については、「なぜ、そのような呼び方をしているのか」と言及された際に焦って取り繕ったことがあったといいます。
そしてこれらの点を捜査員に尋ねられた山口は、自分が疑われていることに気づき、マスコミの前で「お世話になったご主人一家の恨みを晴らしたくて、捜査に協力しているのに」「それなのに疑われるなんて、辛い。こんなことなら生きていたくない」と大泣き。
それを見た捜査員は、「疑って悪かった」と山口に謝罪し、マスコミも「こんな好青年が、雇い主を殺すはずがない」と山口に好意的な論調になっていきました。
当初から山口は捜査に協力的で、築地八宝亭一家事件唯一の生き残り、真相を知る人物としてマスコミの取材にも積極的に応じていたため、一部の捜査員や記者と親しくなっていたのです。
こうして、岩本さん一家を殺害したのは太田成子であり、山口常雄は犯人扱いされたにもかかわらず、主人のために捜査に協力する健気な青年としてマスコミに取り上げられるように。
3月6日には新聞に『私の推理』という、山口が書いた築地八宝亭一家事件についてのコラムが掲載され、山口常雄は一躍時の人となりました。
築地八宝亭一家事件の詳細⑤ 犯人の逮捕
築地八宝亭一家事件発生から2週間が経過した1951年3月10日、永田町の飯場で太田成子が逮捕されます。
逮捕のきっかけは山口の証言で作成されたモンタージュ写真で、太田成子は偽名。本名は西野つや子という当時24歳の女でした。
つや子は大人しく逮捕されました。しかし、捜査員に「盗んだ通帳でお金を引き出そうとしたのはたしかですが、中華料理店のコックさんに騙されたんです」と泣きながら訴えたのです。
つや子は、事件前々日の夜に新宿のガード下で客引きをしていたところ山口に会い、「こんなことをしていては駄目だ、働く場所を紹介しよう」と言われて、八宝亭を紹介されたといいます。
そして住み込みで働くことが決まった夜に事件が起こり、物音に気付いて何事かと1階に降りたところ、山口常雄に通帳を渡され、「金をおろしてこい、言う通りにしないと殺すぞ」と脅されたというのです。
預金をおろせなかったため、山口に殺されると思ったつや子は25日に実家に帰って隠れていたところ、自分そっくりのモンタージュ写真が築地八宝亭一家事件の犯人として報じられているのを知り、自首を考えていたとのこと。
この供述を受けて10日の17時50分頃には、真犯人として山口常雄が逮捕されます。
築地八宝亭一家事件の詳細⑥ 山口常雄の自殺
逮捕後、山口常雄は22時頃まで黙秘を続けていましたが、「全部、正直に申し上げます。ただ、今日はとても疲れているため休みたい」と、ついに犯行を認めたといいます。
主犯は逮捕して犯行を認める発言も得ているうえ、証人のつや子も身柄を確保している。このような状況から、詳しい取り調べは明日で良いだろうと判断した警察は、3月10日の22時半には聴取を打ち切って山口を留置所に送りました。
しかしその翌日、11日の午前4時5分に築地署第4房で山口常雄が口から血を流した状態で意識を失っていたのです。
看守はすぐに山口を留置場の外に運び出して警察医に診せましたが、ほどなくして死亡。山口の死因は自殺で、隠し持っていた青酸カリを飲んだうえで下をかみ切っていたといいます。
こうして山口常雄は築地八宝亭一家事件について、何も語らないままこの世を去ったのです。
築地八宝亭一家事件のその後
山口常雄が自殺した後、八宝亭の山口の自室の押し入れから、岩本さん一家の血液が付着した洋服が発見されました。
犯行時に着ていたと思われるこの衣服が見つかったことから、築地八宝亭一家事件の犯人は山口常雄だと断定されます。
また、好青年としてマスコミで好意的に取り上げられていた山口ですが、、築地八宝亭一家事件の2年前にも横領罪で逮捕されており、執行猶予付きの有罪判決を受けていました。
一方、太田成子に仕立て上げられていた西野つや子は、殺人事件の共犯とはいえないとして、盗品等関与罪で執行猶予付きの懲役1年の刑を言い渡されています。
築地八宝亭一家事件が起きた場所と現在
事件現場となった八宝亭は、東京都中央区築地2-8にありました。兜町から築地まで続く平成通りに面した一角にあったと思われます。
現在、八宝亭はすでに壊されてなくなっており、2-8の区画には事件当時とはまったく異なる店が立ち並んでいます。
築地八宝亭一家事件についてのまとめ
今回は1951年に起きた築地八宝亭一家事件について、事件の詳細や犯人・山口常雄の言動、事件現場の現在などを中心に紹介しました。
住み込みで働き、家族同然で暮らしていた雇い主一家を惨殺しておきながら、事件の推理コラムを新聞に寄稿するなどしていた山口常雄。
この事件では山口の異質さとともに、なぜあっさり山口を信じたのか、みすみす留置場での自殺を許してしまったのかなど警察の不手際も目立ちました。
被害者一家のご冥福をお祈りするとともに、同様のミスが起きないことを願います。