市川一家4人殺害事件は1992年に千葉県内で発生した強盗殺人事件です。犯人の名前は関光彦で、2017年に死刑執行されています。この記事では本件について動機や事件現場の場所、被害者一家の生き残りとなった長女の現在やその後をふくめて紹介します。
この記事の目次
- 市川一家4人殺害事件の概要・犯人の名前
- 市川一家4人殺害事件が起きた場所
- 市川一家4人殺害事件の詳細① 動機
- 市川一家4人殺害事件の詳細② 卑劣な犯行
- 市川一家4人殺害事件の詳細③ 暴力団からの追い込み
- 市川一家4人殺害事件の詳細④ 被害者宅を襲うことを決意
- 市川一家4人殺害事件の詳細⑤ 祖母を絞殺
- 市川一家4人殺害事件の詳細⑥ 両親を刺殺
- 市川一家4人殺害事件の詳細⑦ 妹を刺殺
- 市川一家4人殺害事件の詳細⑧ 事件の発覚と逮捕
- 市川一家4人殺害事件のその後① 長女に共犯の疑いがかけられる
- 市川一家4人殺害事件のその後② 関光彦は死刑になると思っていなかった
- 市川一家4人殺害事件のその後③ 死刑判決
- 市川一家4人殺害事件のその後④ 犯人・関光彦の死刑執行
- 市川一家4人殺害事件の生き残り・長女の現在
- 市川一家4人殺人事件についてのまとめ
市川一家4人殺害事件の概要・犯人の名前
1992年3月5日の夕方、千葉県市川市幸二丁目のマンションに男が押し入り、この家の住民であった柳沢功二さん(41歳)、照夜さん(36歳)、順子さん(83歳)、宇海ちゃん(4歳)の一家4人を殺害して現金を奪う強盗殺人事件が発生しました。犯人の男の名前は関光彦。当時19歳の未成年者でした。
関は殺人事件を起こすと同時に一家の長女(当時15歳)を連れ去り、強姦。殺害した父・功二さんの通帳を盗むために、長女を脅して経営している会社に電話をかけさせるなどしました。
関がこのような事件を起こした動機は、金でした。事件前に関はフィリピンパブで働くホステスの女性をめぐって暴力団とトラブルを起こしており、その落とし前として200万円を要求されていたとされます。
この200万円を工面するために、柳沢さん一家の暮らすマンションへ強盗に入ったのです。
実は一家殺人事件を起こす1ヶ月前にも関は、夜道で見かけた被害者一家の長女に目をつけて拉致し、強姦するという事件を起こしていました。
そして、その時に彼女から奪った生徒手帳で一家の情報を知り、強盗のターゲットに選んだといいます。
功二さんの会社のスタッフが深夜に父親の通帳を取りに来た長女の様子を怪しんで警察に相談したことが原因となり、3月6日には事件が明るみに出て、関も逮捕されました。
しかし、逮捕時にも卑劣なことに関光彦はしらを切り、家族を惨殺された被害者である長女に罪をなすりつけようとしたのです。
また、逮捕後も関は「自分は未成年者だから、死刑にならないだろう」とたかを括って、社会復帰の準備などをしていました。
ところが、裁判では一審から控訴審、上告審まで一貫して死刑判決が下されることとなります。
未成年者であっても事件の凶悪性が極めて高く、更生は見込めないと判断されたのです。
そのため市川一家4人殺害事件は未成年者への死刑適用について議論を呼ぶとともに、未成年の加害者や被害者の実名報道の是非についてもさまざまな意見が寄せられました。
市川一家4人殺害事件が起きた場所
市川一家4人殺人事件が起きた場所は、千葉県市川市幸2丁目5−1に位置する分譲マンション、行徳南スカイハイツC棟の806号室です。被害者一家はこのマンションに3世代5人で居住していました。
なお、事件後に部屋はリフォームされており、現在では別の入居者が居住しているとの情報もあります。
市川一家4人殺害事件の詳細① 動機
市川一家4人殺人事件を起こした関光彦には、18歳の時に知り合ったというフィリピン人の妻・エリザベスがいました。
しかし、1992年の1月22日に妻は「病気の姉に会いにいく」という理由で、単身フィリピンへ帰国。(里帰り出産のため帰国という説もあり)。
自分をおいて帰国してしまった妻に怒りと不安を抱えた関は、2月6日にレイシャーという名前の顔なじみのフィリピンパブのホステスを拉致し、自宅に監禁して強姦するという事件を起こします。
拉致から2日後の2月8日にレイシャーは関のすきを見て逃げ出し、勤務先の経営者に泣きついて関から受けた暴行について訴えました。
彼女の話を聞いたパブの経営者は激怒し、知り合いの暴力団に関への報復を依頼。こうして関は暴力団に脅され、慰謝料を用意するように命じられたのでした。
これが関光彦が市川一家4人殺人事件を起こすに至った動機です。
市川一家4人殺害事件の詳細② 卑劣な犯行
暴力団から追われるようになって2週間ほどが経過した2月11日の午前4時30分頃、高円寺に住む知り合いのアパートから帰宅する途中であった関は、中野区新井5丁目あたりで帰宅途中の女性(24歳)を見かけます。
憂さ晴らし目的でこの女性を殴ろうと思いついた関は、道を尋ねるふりをして彼女に近づいて顔面を激しく殴打。全治3週間の怪我を負わせます。さらに脅して彼女を車の後部座席に乗せ、自宅に連れ込んで強姦しました。
この時、関は「自分は暴力で他者を支配できる人間なのだ」という高揚感を覚えたといいます。
しかし、それも束の間のことでこの日の夜にレイシャーの件で暴力団組員7人が関の住むアパートに押し入り、車に駆け込んで逃げようとしたところを後部座席の窓ガラスを割られて引きずり降ろされそうになるというトラブルが発生しました。
それから数時間後の2月12日の午前2時頃、車を運転していた関は夜道を1人で自転車で走る女子高生を見つけ、またしても暴行を企てます。
この女子高生こそ、市川一家4人殺人事件の被害者遺族となった長女だったのです。彼女は当夜、遅くまで自宅で勉強をしていました。
そしてシャープペンシルの芯がきれたために替え芯を買いに近所のコンビニへ出掛け、帰宅途中だったところを関に目をつけられたのです。
背後から近づいた関は車を長女にぶつけて横転させ、わざと膝に軽傷を負わせました。そして心配するフリをして彼女に駆け寄り、「病院に行こう」と声をかけて病院まで送り届けました。
最初は警戒していた長女でしたが、きちんと病院で治療を受けたことで安心したのか帰宅時には「自宅まで送って行くよ」という関の申し出に応じてしまいます。
しかし、ここに来て関の態度が豹変。長女を乗せると彼女の家ではなく自分のアパートに車を走らせ、ナイフで左頬を切りつけるなどして脅し、無理やり自分の部屋に連れ込んで強姦したのです。
その後、関はビニール紐で長女の手足を縛り上げ、所持品を物色して財布から現金を抜き取り、生徒手帳から彼女の名前や住所、連絡先、親の情報などを紙に書き写しました。
市川一家4人殺害事件の詳細③ 暴力団からの追い込み
12日の朝、関が外出したすきを見て長女はビニール紐を解いてアパートから逃げ出すことに成功。
ゴミ箱に捨ててあった生徒手帳を回収して、なんとか家に戻ることができました。
翌日の朝には心配して家にやってきた友人に対して「知らない男にナイフかカミソリのようなもので切られた」と、左頬の傷について説明していたそうです。
話を聞いた友人は「警察に行ったほうがいいよ」と説得し、この日は「元気になったら、また一緒に登校したい」と告げて帰ったといいます。
それから暫く経った2月の下旬に長女は警察に被害届を出しましたが、接点がなかったことから捜査線上に関の存在が上がることはありませんでした。
一方その頃、レイシャーの件での関に対する暴力団の追い込みは激しさを増していました。
住吉会相良興業の組長から東京全日空ホテルに呼び出された関は、「レイシャーが働けなくなったせいで店の損害は200万円にもなった。全額支払え」と恫喝されます。
関には200万円を工面するあてがありませんでしたが、その場しのぎで承諾。以降は暴力団の取り立てを恐れてアパートに帰らなくなり、車中泊をするようになったといいます。
途方に暮れる日々を過ごすなかで、関は2度の傷害事件を起こしました。
1度目の事件は2月25日午前5時頃に市川市内の路上で会社員の男性と交通トラブルを起こして揉め、男性を鉄の棒で滅多打ちにし、免許証を奪ったうえで「次の金曜日までに現金を用意しておけ」と脅したという傷害・恐喝事件。
2度目の事件は2月27日の午前0時半頃に埼玉県岩槻市の道路を車で走行中に、前に割り込んできた大学生に激怒してナイフで襲いかかり、20ヶ所以上を切りつけて全治6週間の大怪我を追わせたうえで財布などを盗んだという傷害・窃盗事件でした。
市川一家4人殺害事件の詳細④ 被害者宅を襲うことを決意
前述のように路上で恐喝や窃盗をしていた関でしたが、200万円を用意しなければならない、という恐怖と焦りは常に頭にありました。
そこで思い出したのが、以前に強姦した女子高校生の自宅でした。彼女の住所を確認した関は、ここに強盗に入って200万円を工面しようと思い至ったのです。
こうして関は2月の下旬と3月の頭に2回の下見をした後、3月5日に強盗を決行します。
犯行当日、残り少ない所持金で朝からパチンコをしていた関は、遅い昼食にラーメンを食べながら「今日、強盗に入ろう」と決めたそうです。
柳沢さん一家が住んでいたマンションは関の母方の祖父母の家の近くだったといい、関にはある程度の土地勘がありました。
そのためラーメン店を出た関は車を運転して真っ直ぐに一家が暮らす行徳南スカイハイツに向かい、16時前に到着。マンション付近のタバコ屋横に車を停め、近くの公衆電話から柳沢さん宅に電話を入れました。
しかし、誰も出なかったことから留守と判断して近くの公園に移動。時間を潰した後に柳沢さん宅に侵入します。
なお、マンションに押し入る際は1階のエントランスに設置された防犯カメラを警戒して外階段で2階まで上がり、そこからエレベーターで8階まで移動したとのことです。
806号室に着いた関はまずインターホンを押しましたが、誰も対応しませんでした。ところがドアノブに触ってみると施錠されておらず、普通にドアが開いたことから家人がいることを恐れていったんエレベーター脇の階段に隠れて様子を窺います。
そうして20分ほど人の出入りがないか監視していたものの、誰も出てこないことから押し入ることを決意。在宅していた祖母の順子さんと鉢あわせることになるのです。
市川一家4人殺害事件の詳細⑤ 祖母を絞殺
関が柳沢さん宅に侵入した時、玄関や廊下に電気は点いておらず、家には祖母の順子さんしかいませんでした。しかも順子さんは洋間でうたた寝をしており、好都合だと思った関は当初はこっそり現金や通帳を盗んで逃げるつもりでいました。
しかし、玄関の突き当りにあるリビングで通帳や貴金属、現金などを探したものの金目のものはなかなか見つからなかったため、洋間で寝ていた順子さんの脚を蹴り上げて起こしたのです。
そして金を出すよう脅しつけましたが、順子さんは驚いたものの怯む様子はなく、自分の財布から現金8万円を出すと「これをやるから帰りなさい」と毅然と言い放ったとされます。
思いもよらない態度にバカにされたと激昂した関は順子さんの襟首を掴んで、なおも現金や通帳を出すように凄みましたが、彼女は頑として言うことを聞きませんでした。
ここで突然尿意を覚えた関は、順子さんに通帳を出しておくように言いつけてトイレに向かいます。
ところが1人になった順子さんは、通帳を出すどころか警察に通報を試みました。しかし、トイレから戻ってきた関に見つかってしまい、体当たりをされて骨折を負わされてしまいます。
さらにその後も通帳を出さないと殴るという脅しにも屈することなく、順子さんは関の顔に唾を吐きかけたといいます。
もともと潔癖症の性質があった関はこの態度に腹を立て、近くにあった電気コードで順子さんの首を絞めて殺害。
順子さんの遺体を布団に寝かせて上から毛布をかけ、帰ってきた家族に就寝中と思わせるように偽装しました。
その後、何度も手や顔を洗ってからいったん柳沢さん宅を後にし、外でタバコを吸うなどして30分後に戻ってきた関は、順子さんの財布から現金10万円盗み、キッチンから抜き取った包丁を手に隠れて他の家族の帰宅を待ちました。
市川一家4人殺害事件の詳細⑥ 両親を刺殺
午後19時頃、母親の照夜さんと女子高校生の長女が帰宅します。包丁を持った関が2人の前に現れて金を出すように脅しますが、照夜さんも順子さん同様に怯えることなく、なぜここにいるのか、出ていくように関を叱りつけました。
思いがけない迫力に関も動揺したといいますが、ここで逃してしまっては暴力団に殺されると思い至り、照夜さんと長女にうつ伏せになるように命じ、2人の所持品をすべて確認しました。
しかし通帳は見当たらなかったため、包丁で照夜さんを殺害。照夜さんはそのまま失血死し、潔癖症の関は長女に命じて床についた血液を掃除させたといいます。
この15分後の19時30分頃、保育士に連れられて4歳の妹・宇海ちゃんが帰宅。すると今度は長女に夕食の支度を命じ、関は姉妹とともに食事をしたとされます。
そして21時過ぎに宇海ちゃんを順子さんの遺体が置かれた洋間に連れて行って寝かせ、家長である父の功二さんが戻ってくる前に長女を強姦しようと思い付き、彼女を脅して寝室に連れ込みました。
ところが、その最中に功二さんが帰宅。関は慌てて包丁を手にして、背後から功二さんに襲いかかり、肩を刺しました。
そのまま蹲る功二さんに対して関は包丁をちらつかせ、「お前の記事のせいで大変な目にあっている人がいる。慰謝料として200万円よこせ」などと脅迫して、功二さんから「預金通帳と印鑑は会社にある」という情報を引き出します。
功二さんは照夜さんと夫婦で「株式会社ルック」という雑誌出版社を経営していました。長女の生徒手帳からこの情報を得ていた関は、それらしい文句で功二さんを脅したのです。
関は長女に命じて会社に電話をかけさせて「これからお父さんの通帳と印鑑を取りに行きます」と伝えるよう強要したうえで、日付が変わった6日の午前0時30分頃に長女を拉致して会社に向かおうとします。
しかし、マンションの1階に到着したところで負傷した功二さんをそのままにしておくと事件が発覚するかもしれないと思い至り、柳沢さん宅に引き返します。そして功二さんの背中を刺し、失血死させました。
市川一家4人殺害事件の詳細⑦ 妹を刺殺
行徳駅付近にある「株式会社ルック」に到着した関は、長女に功二さんの通帳と印鑑をとってくるように命じます。
会社についた長女は、事務所にいた社員に「お父さんが書いた記事のせいでお金が必要だと言われた」と説明。この時、対応した社員は長女の様子を不審に感じていました。
その後、長女から通帳を受け取った関は彼女をラブホテルに連れ込んで、30分ほどかけて残高や取引明細を確認した後に強姦。
朝になるとラブホテルを出て、午前6時30分頃に再度、長女を連れたまま柳沢さん宅に戻りました。
そして、祖母と両親の死を知って泣き叫んでいる4歳の宇海ちゃんを見つけ、彼女まで殺害したのです。
すると、これまで恐怖のあまり関の言うなりになっていた長女が態度を一変させ、なぜ幼い妹まで殺したのかと食ってかかってきました。
しかし男性で、かつ大柄なうえ凶器を持った関に力でかなうはずもなく、長女も背中など数カ所を刺されて全治2週間の怪我を負わされてしまいます。
市川一家4人殺害事件の詳細⑧ 事件の発覚と逮捕
7時30分頃、通帳を取りに来た長女の様子が気になっていた男性社員から、柳沢さん宅に電話が入ります。
この電話には長女が対応したのですが、その応答ぶりも怪しかったことから、心配した男性社員は警察に通報をします。
9時頃、男性社員が警察官とともにマンションに到着し、柳沢さん宅のインターホンを押したのですが、ドアは施錠されており先ほど電話に出たはずの長女も姿を見せません。
事件性を感じた警察官は隣の部屋からベランダを伝って家の中に侵入。そこで一家が刺殺され、血まみれになったリビングが目に入ったのです。
警察と目があった関はとっさに冷蔵庫の上に置いてあった文化包丁を長女の手に握らせ、自分は現場から逃走しようとしました。しかし、取り押さえられて逮捕されることとなります。
市川一家4人殺害事件のその後① 長女に共犯の疑いがかけられる
逮捕後も関は無実を訴え、それどころか長女とは以前から友人であったと虚偽の供述を繰り返しました。
「事件当日も長女が取り乱した様子で家に来てくれというから、行ってみたら家族を殺害していた」「驚いて動けなくなっていたら警察が来たので、思わずその場から逃げてしまった。自分は事件とは無関係だ」などと、それらしい話をでっち上げていたといいます。
一方で長女は家族4人が殺害されてしまったこと、自らも怪我を負って強姦されたことにショックを受けて話すことさえできない状態でした。
そのため事件発覚当初は関の言い分のみがクローズアップされ、「警察は被害者一家の長女と男友達から事情聴取をしている」等、長女の共犯が疑われているような報道がされました。
しかし、実際に警察が長女の友人らに話を聞くなどして関の証言の裏付けを取ろうとした結果、誰も関のことを知らず、また長女から名前も出ていなかったことが発覚。
これにより関の虚言が明らかになり、警察が問い詰めたところ関本人もやっと自分が柳沢さん一家を殺害したとを認めました。
こうして3月6日の夕方に「長女にも共犯の疑いがある」とにおわせる発表をした千葉県警は、夜には「事件は男の単独犯行で、被害者一家の長女とは友人関係になかった」と訂正することとなったのです。
市川一家4人殺害事件のその後② 関光彦は死刑になると思っていなかった
約5ヶ月という短い期間に市川一家4人殺人事件以外にも傷害事件や恐喝事件、強姦事件などを起こしていた関光彦。合計14の罪状で千葉地裁に起訴されることとなります。
裁判前に行われた精神鑑定では「反社会性人格障害の可能性はあるが、事理弁識能力はあり、充分な責任能力が認められる」との鑑定書が出されていました。
しかし、関はまったく焦っていませんでした。自分は未成年だから、死刑にならないと思い込んでいたのです。しかも自分は刑務所ではなく、少年院に送致されると考えていたといいます。
関は周囲の不良仲間から逮捕後の話を聞いて、このような勘違いをしていたそうですが、実際には少年法では20歳未満の犯罪者については以下のような括りがされており、未成年であれば少年院に送致されるという単純な話ではないのです。
犯罪少年
未成年であっても14歳以上で、精神鑑定で問題がなければ刑事責任能力があると認められる。
14歳以上の少年犯罪者は「犯罪少年」と呼ばれ、死刑や懲役・禁錮刑相当の重罪犯の場合は家庭裁判所の審判の結果、事件送致を経て成人の犯罪者同様に起訴される。そのため極めて残虐性の高い犯罪の場合は、死刑判決もあり得る。
触法少年
14歳未満の少年犯罪者は「触法少年」と呼ばれ、刑事責任を問うことができない。
上記は2022年4月から施行された改正少年法の定義なのですが、市川一家4人殺害事件の当時も18歳以上20歳未満の少年犯罪者は「犯罪少年」に近い扱いをされていました。
このことを知らなかった関は「19歳の自分も未成年者だから刑事責任は問われない。最悪の場合でも死刑には絶対にならない」と考えていたのです。
そのため拘置所から母親に連絡をして、出所した後のためにと高校の教科書などを差し入れてもらい、資格取得の勉強を計画していたといいます。
また市川一家4人殺人事件の3年前には日本の犯罪史上に残る未成年犯罪「女子高生コンクリート詰め殺人事件」が起きており、犯人の少年らは最高でも懲役20年という有期刑しか言い渡されていませんでした。
したがって関も「あの事件の犯人でも死刑にはならないんだから、自分も少し我慢すれば出所できるだろう」と甘く考えていたとも言われています。
市川一家4人殺害事件のその後③ 死刑判決
ところが目論見は外れ、1994年4月4日に千葉地裁で開かれた一審の論告求刑公判で、検察は関に対して死刑を求刑しました。
検察は一審の最中に行われた2度めの精神鑑定の結果を踏まえたうえで「責任能力があるうえ、これまでの粗暴かつ残虐な振る舞いから見て更生の余地はない」とし、「社会に与える影響の大きさを考えても、死刑相当」と判断したのです。
さらに検察は被害者一家のなかで唯一生き残った長女の手紙も紹介し、家族を亡くした彼女が関の死刑を望んでいることも公にしました。
この求刑は、関はもちろん弁護側にとっても衝撃でした。そのため最終弁論でも弁護士は一部犯行についての殺意を否定して、犯行時の関は心神耗弱状態にあり、責任能力はなかったと無罪を主張。
こうして双方の訴えた千葉地裁は、1994年8月8日の判決公判で求刑通りの死刑を関光彦に言い渡しました。
控訴審・上告審でも死刑判決
千葉地裁の判決を不服として弁護側は即日控訴をしますが、1996年7月2日に東京高裁は控訴棄却の決定をして一審の死刑判決を支持しました。
これに対しても弁護側は即日控訴。関は幼少期に父親から虐待を受けて育ったという新たな主張をし、一貫して犯行時は精神耗弱状態にあったと訴えます。
たしかに幼少期の関は父親の日常的な暴力にさらされ、その父親は関が小学4年生の時に愛人と遊ぶために1億円を超す借金をして妻子を置いて出ていっていました。
光彦は母親、五歳下の弟と共に下町の安アパートを転々とした。債鬼に追われ、夜逃げしたこともある。食べるものも満足にない極貧生活の中、小学校は転校を繰り返した。服は一着しかなく、ランドセルの代わりに風呂敷をぶら下げて通うと、クラスメートに「汚ない」「臭い」「貧乏人」と笑われ、イジメの標的となった。
その後、母子は極貧の生活を送った後、うなぎの加工・販売を行なう「関昇商店」を経営し、裕福だった母方の祖父の援助を受けて立ち直ったとされます。
それでも暴力的な父親の影響はあまりに大きく、中学生になった関は不良とつるんでは喧嘩や窃盗に明け暮れ、生活を助けてくれていた祖父にさえ暴力を振るって左目を失明させていました。
また、最終弁論では後に光市母子殺害事件で大月孝行(旧姓福田)の弁護を務め、議論を読んだ安田好弘弁護士が弁護団にくわわります。安田弁護士は「なんとしても生き残ろう」と関を鼓舞していたそうです。
しかし、2001年12月3日の上告審判決公判で最高裁が下した判決は上告棄却でした。関と弁護士はすぐに棄却の訂正を求めましたが、この訴えも12月20日付で棄却され、翌日には死刑が確定しました。
市川一家4人殺害事件のその後④ 犯人・関光彦の死刑執行
出典:https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/
死刑が確定すると、これまで関の名前を伏せていたメディアも本名を公開するようになり、2001年12月13日発売の『週刊新潮』には関光彦の中学生時代の顔写真も掲載されました。
また逮捕時の関の身長は178cm、体重80kgでしたが、収監中に120kgまで太ったといいます。
これを見た安田弁護士は「もっと太れば死刑執行の時に刑務官が身体を持ち上げられなくなり、絞首刑用の絞縄の強度では死刑ができなくなるはず」と考え、関に太るように言っていたそうです。
死刑執行までにどれくらい関が太ったのかは不明ですが、刑務所と違って拘置所では運動の時間が設けられていないため普通に過ごしていても太ると言いますから、150kg近くになっていたのでは?とも予想されています。
しかし安田弁護士の目論見は外れ、2017年12月19日、関光彦は収監中の東京拘置所で死刑執行となりました。
死刑執行時、関は第3次再審請求の即時抗告中だったといいます。体重を増やし、再審請求中だったにもかかわらず死刑が行われたことに安田弁護士は憤りを見せ、「国家による計画的な殺人だ」と訴えていました。
市川一家4人殺害事件の生き残り・長女の現在
市川一家4人殺人事件の唯一の生き残りとなった長女は、2004年に大学時代から交際していた男性と結婚し、現在はヨーロッパで生活をしているといいます。
事件後の1年間は両親の知人の家庭で過ごし、当初は血縁上の父親(長女は、照夜さんが弘二さんと再婚する前に誕生した元夫との間の子どもだった)のもとに行く予定でしたが、最終的には熊本に住む母方の祖父母の家に身を寄せたそうです。
高校卒業後は1人暮らしをしながら遠方の美術大学に通っていたとのことで、長女が事件後に明るさを取り戻して幸せな暮らしをしている点だけが、凄惨な事件の唯一の救いと言えます。
なお、市川一家4人殺人事件の直後の報道では中日新聞など一部新聞で長女の名前も報道されていました。
それら紙面の情報によると、長女の名前は柳沢未来さんというそうです。ただ、現在は結婚されていますから姓が変わっている可能性が高いでしょう。
市川一家4人殺人事件についてのまとめ
今回は1992年3月5日から6日にかけて発生した強盗殺人事件、市川一家4人殺人事件について紹介しました。
市川一家4人殺人事件の犯人の関光彦は、本件の直前に起こした事件でも「ムカついた」「制裁になると思った」「暇つぶし」等の信じがたい理由で強姦事件や傷害事件を起こしていました。
このことから考えても、未成年で逮捕歴がないからと更生の余地があったとはとても思えず、死刑判決もやむなしという印象を受けます。
亡くなった柳沢さん一家の方々のご冥福と、生存した未来さんや他の強姦・傷害事件の被害者の方々が現在も幸せに暮らしていらっしゃることを切に願います。