鬼熊事件は1926年に発生した殺人事件で、「鬼熊」というのは犯人の岩淵熊次郎につけられた俗称です。鬼熊事件の詳細や事件が起きた場所、被害者との関係、岩淵熊次郎の生い立ち、家族、結婚や子供、子孫、鬼熊の自殺、現在について紹介します。
この記事の目次
鬼熊事件の概要
1926年8月20日、千葉県香取郡久賀村(現在の多古町)で男女2人が殺害され、周囲にいた人も重軽傷を負うという事件が発生しました。
この事件の犯人は岩淵熊次郎(当時35歳)という荷馬車引きの男で、被害者は熊次郎の愛人であった吉沢けい、かつて熊次郎を騙して金を巻き上げた松井長松の2人です。
くわえて熊次郎は後日、事件後の警戒にあたっていた警察官のことも殺害しています。
熊次郎はあれこれと世話をしている自分に隠れて、けいが別の男との交際を続けていたことを知って激高し、その怒りのままに次々と殺傷事件を起こしました。
そして久賀村の山中に姿を消したのですが、この逃亡劇が1ヶ月以上にも及んだことから、当時は新聞などで「鬼熊事件」として大々的に報じられたといいます。
発生から40日が経った9月30日に熊次郎が自殺を遂げたことで事件は解決扱いとなるのですが、彼がここまで巧みに警察から逃げきれたのには理由がありました。
久賀村の住民らが隠れて熊次郎に食糧を差し入れたり、警察の情報を教えたりと逃亡をほう助していたのです。
親分肌で面倒見が良かったという熊次郎は久賀村の住民から慕われており、また、被害者のけいに騙されていいように利用されていたという点に同情的な見方をする人も少なくありませんでした。
そのため熊次郎の逃亡に手を貸していたのですが、彼が自殺した後には住民らも犯人隠匿で罪に問われ、裁判にかけられています。
また、全国から大きな注目を集めた鬼熊事件は、川端康成の『「鬼熊」の死と踊子』や、吉村昭『下弦の月』などのモチーフにもなりました。
鬼熊事件が起きた場所
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鬼熊事件が発生したのは千葉県香取郡久賀村です。事件当時の人口は約3500名ほどで、1954年の市町村合併で現在は多古町になっています。
鬼熊事件の詳細① 犯人・岩淵熊次郎の生い立ち
出典:http://1pen1kyusho3.blog.fc2.com/
岩淵熊次郎は1892年に農家の次男として誕生しました。小学校を出た後は五木田太郎吉という男のもとに雇われて、農作業に従事したといいます。
その後も真面目に働き続けた熊次郎は、同じく五木田家で女中をしていたおよねという女性と親しくなり、20歳で結婚。
およねとの間には5人の子どもが誕生したことから、熊次郎はよりお金を稼ぐべく荷馬車引きに転職しました。
熊次郎は身長155㎝と小柄だったそうですが、米2俵(約120㎏)を担げるほどの力があったといい、快活で子どもや老人に優しい性格をしていたことから「熊さん」と呼ばれて周囲から慕われていたそうです。
鬼熊事件の詳細② 岩淵熊次郎は結婚後も女性トラブルが多かった
しかし、親分肌で人望があった熊次郎にも欠点がありました。なにしろ女癖が悪かったのです。
これについては熊次郎が困っている人を放っておけない性格だったため、最初は人助けとして貧しい女性の世話を焼いていたのが、深い関係になってしまったという擁護もあるようです。が、いずれにしても結婚後も熊次郎の女癖の悪さは直りませんでした。
たとえば熊次郎は鬼熊事件を起こす前にも、おはなという少女に入れあげて大事な商売道具の馬を売ってしまったといいます。
このことは美談のように1926年9月10日刊行の国民新聞でも紹介されたのですが、熊次郎は親の借金のかたとして小料理屋に身売りさせられたおはなのために馬を売り、得たお金で彼女の借金を返済したのです。
裕福なら人助けも結構ですが、5人も子どもがいるのに一家の収入減を勝手に売られてしまった妻は、どんな気持ちだったのでしょうか。
しかも熊次郎はおはなを自由にしてやったはいいものの、自分で世話をするだけの経済力はなかったため、土田忠治という男に彼女を預けたとされます。
宿屋を営んでいた忠治は快くおはなの世話を引き受けてくれましたが、毎晩のようにおはなに会いにやって来る熊次郎を鬱陶しく思うようになっていき、2人は仲たがいしてしまったそうです。
こうしておはなは忠治のもとにいられなくなったことから、熊次郎は隣村に住む松井長松という人物の家に彼女を預けました。
その後も熊次郎は隣村にいるおはなのもとに足しげく通っていたのですが、ある時、突然おはなが行方不明になるという事件が発生します。
焦った熊次郎は長松におはなの行方を聞きますが、長松ははぐらかすばかりで彼女を心配する様子さえありません。
実はおはなは借金などなかったうえに既婚者で、嘘の話で同情を引いて熊次郎から金をとっていたのです。
しかも、忠治と長松の2人はおはなの夫と通じており、熊次郎に知られぬように夫のもとにおはなを帰す手引きまでしていました。
このことにショックを受けた熊次郎は、うっぷん晴らしのために小料理屋「上州屋」に通って酒を飲むようになります。そしてこの店で、鬼熊事件の被害者となるけいと知り合ったのです。
鬼熊事件の詳細③ 被害者との関係
上州屋に通うようになった熊次郎は、すぐにけいに入れ込むようになり、米を送るなどして彼女に貢いだといいます。
しかも熊次郎はけいに貢ぐために、すでに売ってしまって手元にいない馬を担保に周囲からお金を借りるという詐欺行為にまで手を出していました。
一方、けいはすでに菅沢寅松と恋仲になっており、熊次郎のことを体のいい金づるとしか思っていませんでした。
けいの評判は決して良くなく、「あんな金にも男にもだらしない女」「熊次郎ときたら悪い女に引っかかって」と村の住民たちも噂していたそうです。
もともとけいは今でいう色恋営業のような手管に長けており、熊次郎以外にも騙された被害者がいたとのこと。そのため、周囲からも熊次郎もお金をむしり取られて捨てられるのではないか?と心配する声が多く出ていました。
そのような噂は熊次郎の耳にも入っていたのでしょう。次第にけいに不信感を募らせるようになり、毎晩彼女の家に行き、隠れて動向を見張るようになりました。
そして1926年6月25日、熊次郎本人もけいの本性を知ってしまいます。寅松とけいが密会しているところを目撃してしまったのです。
熊次郎は激怒し、けいの家に怒鳴り込みました。驚いた寅松はけいを置いて逃げ出し、残ったけいは熊次郎に捕まって滅多打ちにされてしまいます。
命からがら逃げたけいは助けを求めて交番に駆け込み、その晩は熊次郎も警察官から厳重注意を受けておとなしく帰宅。
しかし翌月の頭には傷害と脅迫で告訴され、警察に逮捕されてしまいます。さらに、いもしない馬を担保に借金を重ねていたことも明らかになって、熊次郎は執行猶予付きではあるものの懲役3ヶ月の有罪判決を受けたのでした。
けいに騙されていたとはいえ、熊次郎のやったことも立派な犯罪ですから、有罪判決を受けるのは当然です。
むしろ実刑判決でも良いくらいのことをやっているのですが、執行猶予付きで済んだ背景には、かつて熊次郎を雇っていた村の権力者・五木田太郎吉が温情判決を得られるように手をまわしたからだと言われています。
村の住民や太郎吉の言動から見て、女癖は悪かったもののそれ以外の点では熊次郎は実直で優しく、信頼されていたことが窺えます。
鬼熊事件の詳細④ 吉沢けいを殺害
8月18日、執行猶予付きの判決を言い渡された熊次郎は、拘置所を出て家に帰ることとなりました。
そして翌日、自分のために奔走してくれた太郎吉にお礼を言いに行きます。熊次郎が戻ってこれたことを喜んだ太郎吉は祝い酒を出してくれたそうです。
ここで帰ればよかったのですが、酔っぱらってしまったのか、はたまた詫びを入れたいと思ったのか、太郎吉の家を出た熊次郎はけいの家に向かってしまいます。
けいは驚いたものの熊次郎の謝罪を受け入れて彼を家にあげ、2人で酒を飲むなどして時間が過ぎていきました。この時の熊次郎には、けいを恨む気持ちはなくなっていたのでしょう。
しかし、タイミング悪くここに寅松がやって来てしまいます。熊次郎の姿を見た寅松はとっさに逃げ帰ろうとしましたが、呼び止められて酒を勧められ、仕方なく家にあがりました。
最初こそ当たり障りのない話をしていた3人でしたが、気が緩んだのか、けいと寅松は次第に熊次郎の前だというのにいちゃつくようになり、関係がまだ続いていることを知られてしまいます。
あまりに人を馬鹿にしたような振る舞いを見せるけいと寅松に対し、またもや頭に血が上った熊次郎は、けいを部屋から引きずり出して薪で頭をめ滅多打ちにして殺害しました。
この時、けいは頭蓋骨が見えるほど激しく頭を殴られていたといい、怒りで我を忘れた熊次郎は、止めに入ったけいの祖母まで薪で殴りつけて怪我を負わせてしまいます。
鬼熊事件の詳細⑤ 次々と殺傷事件を起こす
熊次郎がけいを襲っている間に逃げ出した寅松は、近所の農家に逃げ込んで身を隠しました。
一方、怒りが収まらない熊次郎は寅松の家に向かいます。しかし、家に寅松がいなかったため熊次郎は対応した父親にマッチを持って来させ、これを受け取って家を出ました。
マッチを手にした熊次郎が次に訪れたのは、菅沢種雄の家でした。種雄はけいに寅松を紹介した人物で、熊次郎を告訴するようけいに言ったのも彼でした。
そのため熊次郎は種雄のことも恨んでいたといい、なんと彼の家にマッチで火をつけたのです。
すぐに家から逃げたために種雄は無事でしたが、近隣の家は大騒ぎになり、住民や消防組員らが駆け付けて鎮火を図りました。
ところが燃え盛る種雄の家の前で熊次郎が鍬を振り回し、「火を消す奴は許さん!」と大暴れしたために消火にあたった2人が負傷。
その後、熊次郎は6月の傷害事件でけいを助けた警察官を襲いに駐在所に行きましたが、すでにけい殺害や種雄宅の放火の報せを受けて警察官は現場に向かっていました。
ターゲットがいないことを確認すると、熊次郎はもぬけの殻となっていた駐在所からサーベルを盗み、今度はおはなの件で自分を嵌めた長松の家に行きます。
午前3時頃に長松の家に着いた熊次郎は、玄関先に現れた長松の喉をサーベルで一突きして殺害しました。
鬼熊事件の詳細⑥ 家族に別れを告げて逃亡
2人を殺害、3人に重軽傷を負わせて放火までした熊次郎は、いったん自分の家に帰宅して、寝ていた妻を起こして自分がやってしまったことを正直に話しました。そして、引き留めようとする妻に別れを告げて家をでたとされます。
家を出た熊次郎は、まず実兄の家に行こうとしましたが、その道中で種雄の家の火事の件で集まっていた消防組員と警察官に遭遇。
焦った熊次郎はサーベルで襲い掛かって警察官を切りつけてしまいます。切り付けられた警察官はそれでも怯むことなく熊次郎と揉みあい、なんとか取り押さえることに成功しました。
が、一瞬の隙をついて熊次郎に嚙みつかれて逃がしてしまいます。そのまま熊次郎は山中に逃げ込み、逃走劇が始まったのです。
事件のことはあっという間に新聞などを通じて全国に広がり、熊次郎は「鬼熊」と呼ばれるようになっていきます。
熊次郎の逃亡は40日間にも及んだうえ、犯行動機が2人の女に騙されたことであったことなど、世間の興味をひいたのでしょう。
鬼熊事件は連日のように報道され、各地から熊次郎の目撃情報が寄せられたそうです。
鬼熊事件の詳細⑦ 警察官を殺害
8月25日の未明、寅松の家の庭に熊次郎が現れました。しかし、この時はすでに警察が寅松の家を見張っていたため、気が付いた熊次郎は逃走してしまいます。
翌日の26日には捜索に協力していた消防隊らが寅松の家から4㎞ほど離れた場所で熊次郎を目撃しますが、惜しくも取り逃すことに。
このことから熊次郎はまだ山中に身を隠して寅松を狙っていると見た警察は、27日に大規模な山狩りを敢行しました。
ところが手がかりさえ見つからなかったため、9月1日には警察官200人、消防隊員ら3000人を投入して再度山狩りを行いましたが、ここまでやっても熊次郎の足取りは掴めません。
というのも、実は熊次郎に同情した村の住民らが彼に食事を届け、警察の動きを知らせるなどして逃亡の手助けをしていたからです。
ただでさえ草木の生い茂った山中での捜索は困難なのにくわえて、住民が逃亡ほう助をしていたために熊次郎は捕まらなかったとされます。
こうして9月11日、またしても熊次郎が事件を起こします。20時頃に世話になった太郎吉の家の前に現れた熊次郎は、警戒にあたっていた河野昱太郎巡査に見つかって揉みあいになり、手にしていた鎌で河野巡査の頸動脈を切って殺害したのです。
切られた警察官は失血死。一緒に警備にあたっていた警察官は熊次郎の跡を追いましたが、圧倒間に姿をくらましてしまったといいます。
無関係な警察官を殺害したとなれば、世間も村の住民らも熊次郎に批判的になるのではないかと思われますが、この件でいっそう熊次郎人気は高まったそうです。
当時は高圧的な態度から警察を嫌煙する国民が多かったといい、偉そうな警官を殺した熊次郎は、あろうことか英雄視されるようになってしまいました。
国民からの人気が高まるとマスコミもいっそう鬼熊事件に力を入れるようになり、久賀村にも記者や野次馬が押し寄せるように。
やって来た人々は観光気分で久賀村の宿屋や飲食店でお金を使ったため、村の住民らのなかには思わぬ特需を起こしてくれた熊次郎に感謝する者もいたといいます。
一方で太郎吉や実兄など熊次郎に近しい人々は、彼にこれ以上罪を重ねてほしくないと願い、村や山中のそこかしこに自首を促す手紙を貼っていたそうです。
鬼熊事件の詳細⑧ 新聞記者との接触
11日の事件以降、警察はいっそう力を入れて山狩りを行いましたが、成果は上がらず27日にはいったん山狩りを打ち切ることとしました。
そして熊次郎が狙いに来る可能性が高い寅松や忠治らには、村から離れた親戚の家に隠れるよう指示をします。
一方、この決定がされる前日の26日に東京日日新聞に熊次郎の友人を名乗る多田幾四郎という人物から連絡が入っていました。
幾四郎は対応した馬場記者と坂田記者に「熊次郎が自殺しようとしている」という情報を伝えたとされます。
なんでも警察が寅松らを遠方に逃がしたせいでこれ以上の復讐はできないと悟り、自殺を計画しているというのです。
これはスクープだと色めきだった馬場記者と坂田記者は、さっそく久賀村に向かいました。
そして幾四郎の手引きされて、山中で熊次郎と面会。熊次郎の口から、「腹が減った時は村に降りて誰かの家の戸を叩けば食事をさせてもらえたし、泊めてもらえることもあった」と、村の住民が逃亡の手助けをしていたことを明かされたといいます。
記者たちは自殺を思いとどまるように言いましたが、熊次郎の決意は固く、「どうせ生きていても捕まって死刑だ」と言って聞く耳を持ちませんでした。
最期に熊次郎は記者から原稿用紙と鉛筆を借りて「ザンネン岩淵熊次郎」という遺書のようなものを書き残しました。
しかし、この日は差し入れられた焼酎を飲んで酔っぱらって寝てしまったそうです。
翌日、再び記者たちが熊次郎のもとを訪れると、今度は「世間の人たちに、騒がせてすまなかったと新聞に書いておいてくれ」と言い残して剃刀で喉を掻き切りました。
鬼熊事件の詳細⑨ 岩淵熊次郎の自殺
目の前で喉を切った熊次郎を見た馬場記者と坂田記者は、念仏を唱えて下山しようとしました。
しかし、途中で本当に絶命したのか気になって引き返したところ、なんと熊次郎は息を吹き返しており、今度は首を吊ろうとしていたといいます。
慌てて記者たちは止めに入り、なんとか自殺を思いとどまらせようと幾四郎を連れてきましたが、熊次郎の決意はやはり揺るがず、喉から血を吹き出しながら首を吊る手助けを幾四郎に頼んできました。
この様子をあまりに哀れに思った幾四郎は、村に降りて熊次郎の実兄のもとに走り、事情を説明したとされます。
話を聞いた実兄は、いずれにしても熊次郎は助からない、それならば早く楽にしてやるべきだと考えて殺鼠剤などに使うストリキニーネを最中に混ぜ、これを熊次郎に渡しに行きました。
兄から毒入りの最中を受け取った熊次郎は、ふらふらと先祖の墓の前まで歩いていき、そこで最中を食べて息を引き取ったといいます。
鬼熊事件のその後① 岩淵熊次郎を匿った住民や新聞記者の裁判
熊次郎が亡くなった後、東京日日新聞は「自殺直前の鬼熊と接触」という記事を掲載して話題を呼びました。
このことから馬場記者と坂田記者は、熊次郎の自殺を助けたのではないかとの疑いがかけられて起訴されてしまいます。
また、熊次郎を匿った久賀村の住民らも犯人隠避や自殺ほう助の疑いで起訴されてしまいました。
しかし、千葉地裁は彼らの行動は自殺ほう助にはあたらないと判断し、犯人蔵匿罪のみが問われたうえで、3人が執行猶予付きの有罪判決、他の住民らは無罪という温情判決が下されました。
鬼熊事件のその後② 残された子供・子孫の現在
熊次郎の妻子は事件の後も久賀村に住み続けたといいますが、村八分にあったり、嫌がらせを受けることはなかったそうです。
熊次郎には5人もの子供がいたといいますから、孫、玄孫と子孫がいても不思議ではありません。
子孫が現在どのように暮らしているのかは不明ですが、久賀村の人たちが残された妻子を事件後も受け入れてくれたという点については、よかったとしか言いようがありません。
鬼熊事件についてのまとめ
今回は1926年に社会的なブームにもなったという連続殺傷事件・鬼熊事件について紹介しました。
殺人犯ではあるものの、被害者の方が周囲から嫌われていて犯人は評判が良かったという理由で、同情を集め、英雄視までされたという岩淵熊次郎。
しかし、なんの恨みもないはずの河野巡査を衝動的に殺害していたり、頭に血がのぼると手が出ていたり、そもそも妻子がいるのに次々と女に貢いだりと、現代の価値観ではとても「でも良い人だから」で許される人物ではなかったことが窺えます。
このような犯人が持て囃されていたというのは、それだけ当時の庶民の暮らしが苦しく、鬱憤の溜まるものだったことの証左な気がします。