2001年に大阪府池田市で起こった附属池田小事件は、8人の児童が犠牲になる衝撃的な事件でした。
附属池田小事件の詳細や犯人の宅間守の人物像や動機、犠牲者と生き残りのその後、逃げた教師とされる岩崎真季の責任や教師の行動ミス、事件のその後と現在をまとめました。
この記事の目次
- 附属池田小事件とは
- 附属池田小事件の詳細①:犯行への準備
- 附属池田小事件の詳細②:学校での凶行
- 附属池田小事件の詳細③:逮捕後と死刑判決
- 附属池田小事件の詳細④:2004年に死刑執行
- 附属池田小事件の犯人は宅間守①:虐待を受けて育つ
- 附属池田小事件の犯人の宅間守②:何度も犯罪を繰り返す
- 附属池田小事件の犯人の宅間守③:職を転々とする
- 附属池田小事件の犯人の宅間守④:結婚を繰り返す
- 附属池田小事件の犯人の宅間守⑤:精神病院への入院歴あり
- 附属池田小事件の犯人の宅間守の動機
- 附属池田小事件の犠牲者は8名
- 附属池田小事件の生き残りはPTSDに・・・
- 附属池田小事件では逃げた教師「岩崎真季」に批判が集まる
- 附属池田小事件は生き残りの教師の行動で被害が広がった?
- 附属池田小事件のその後と現在
- 附属池田小事件のまとめ
附属池田小事件とは
附属池田小事件とは、2001年6月8日に大阪府池田市にある大阪教育大学附属池田小学校で発生した無差別殺傷事件です。
この事件の犯人は宅間守はその場で逮捕されましたが、8人の児童が犠牲となりました。
犯人の宅間守は死刑判決を受け、2004年9月14日に死刑が執行されました。
附属池田小事件の詳細①:犯行への準備
出典:twitter.com
附属池田小事件の詳細、まずは犯行準備から見ていきましょう。犯人の宅間守が犯行を決意したのは、事件の前日の事でした。
元妻への恨みを募らせていた
宅間守は人生が何をやってもうまくいかないことにイライラしていました。
3人目の元妻と復縁したいのに、妻は離れていくばかり。妻と知り合ったから人生がうまくいかなくなった。消費者金融から300万円の借金があるけれど、返す当てもない・・・。
元妻に対して逆恨みをしていて、元妻を殺しておけば良かったと後悔します。そして、人生に絶望して、自殺をすることを考え出します。
しかし、大量殺人をする方向に考え方を変えていくのです。
・大量に人を殺害すれば、元妻は自分と知り合ったことを後悔するだろう
・世間の多くの人も絶望的な苦しみを味わうだろう
このようにヤバい方向に思考回路が動き出し、大量殺人を考え始めました。
前日に附属池田小を襲うことを決意
6月7日の夜、自宅アパートで大量殺人を考えていた宅間守は、ダンプカーで繁華街に突っ込もうと考えていましたが、小学生の子供相手のほうが簡単だと思い、自分が子供のころにあこがれていた大阪教育大学附属池田小学校をターゲットにすることを決めます。
宅間守は104に電話して、附属池田小の電話番号も聞き出していました。また、元妻の殺害を諦めきれず、出会い系パーティーで知り合った女性に6月8日の午前2時ごろに電話をし、興信所費用50万円を貸してほしいとお願いしますが、当然のごとく断られます。
そして、6月8日に附属池田小を襲うことを決意し、その日は眠りにつきました。
午前9時30分:火のついた煙草を放置して出発
6月8日の8時ごろに起床した宅間守は、午前9時30分ごろに附属池田小を襲うために、自宅アパートを出発します。
この時、日ごろから同じアパートの賃貸人にもムカついていたため、復讐してやろうという思いから、火が付いたままの煙草を布団の上に放置して出かけ、そのまま火事を起こそうとします。
しかし、この日のついた煙草は、自然に消火していて、アパートが火事になることはありませんでした。
午前10時前:包丁を購入
午前9時30分にアパートを出発して、午前9時40分ごろに宅間守とみられる男がアパートの駐車場から車をもうスピードで運転してしていく様子を近所の住人に目撃されています。
そして、午前10時前に刃物店を訪れて、店員に「丈夫なやつ」と告げ、ケース入りの出刃包丁(刃渡り15.8cm)を1本購入(7480円)し、車に戻りました。
車の中でケースから出刃包丁を取り出して、ビニール袋に入れ、カーナビに附属池田小の電話番号を入力して、附属池田小学校に向かいました。
附属池田小事件の詳細②:学校での凶行
出典:sankei.com
出刃包丁を購入した犯人の宅間守は、大阪教育大学附属池田小学校に侵入し、次々に児童を襲います。侵入から取り押さえられるまでの詳細を時系列で見ていきましょう。
午前10時過ぎ:車を止めて敷地内に侵入
宅間守は午前10時過ぎに附属池田小学校の南側正門前に到着しますが、正門は閉まっていたため、100m先にある自動車専用門まで移動し、門の前に車を停めて、自動車専用門から敷地内に侵入します。
宅間守が校舎に向かう途中、体育館横の通路で2年南組の教諭が宅間守とすれ違います。教諭は宅間守に会釈をしますが、不審人物とは思わなかったため、宅間守はそのまま校舎に向かうことができてしまいました。
午前10時10分:2年南組で5人の児童を刺殺
午前10時10分ごろ、宅間守はテラス側の入り口から担任不在の2年南組に侵入し、出刃包丁で5人の児童を次々に刺します。(5名死亡)
午前10時15分:2年西組に入る
その後、宅間守はテラス側から2年南組を出て、隣の教室の2年西組に侵入しました。侵入当時、2年西組の教諭は教卓に座って犯人の侵入方向に向いている状態、児童は全員教室の前を向いて座っている状態でした。
2年西組に侵入した宅間守は3人の児童を次々に刺します。(1名死亡、2名負傷)2年西組の担任は宅間守の存在に気づき、悲鳴を上げ、校内放送で校内に事態を知らせようとしますが失敗します。
そして、「早く逃げて!」と叫び、自分は警察に通報するために事務室に走りました。
午前10時18分:警察に通報&襲い続ける
2年西組の担任から警察に通報があったのが午前10時18分です。ただ、この通報では事態を警察に説明することに手間取り、警察が救急車を要請するまでに5分、電話を切るまでに8分もかかっています。
かなり手間取ったようで、警察が事態を把握できたのは、この学校からの110番通報ではなく、2年西組から逃げた児童が逃げ込んだ近所のスーパーからの通報でした。
この時、2年西組は教員が不在の状態で、宅間守が児童を追い回して襲い、教室・出入口付近・廊下で5名を刺しています。(1名死亡・4名負傷)
午前10時20分:1年南組に入る
2年東組に侵入した宅間守は児童2名を切りつけ&刺しましたが、(2名負傷)担任に椅子を持って追いかけられたため、テラス側から外に逃げますが、この時にも児童2名をナイフで襲っています。(2名負傷)
テラスから外に出た宅間守を見た1年南組の担任は、果敢にも宅間守にタックルして取り押さえようとしますが、宅間守に腹部を刺されてしまいます。(1名負傷)
2年西組の担任も椅子を投げて宅間守に応戦しようとしますが、宅間守は1年南組の教室に侵入して、3人の児童を切りつけたり、刺したりしました。(1名死亡、2名負傷)
午前10時20分:教員2人に取り押さえられる
1年南組の教室に2年南組の担任と副校長が駆けつけます。
2年南組の担任は宅間守の手を押さえようとした時に顔を切られてしまいます。そして、倒れている児童1名を刺しました。(2名負傷)
手を押さられた宅間守はおとなしくなり、2年南組担任と副校長によって取り押さえられ、現場に到着した警察に引き渡されました。
附属池田小事件の詳細③:逮捕後と死刑判決
附属池田小事件では、犯人の宅間守はその場で教員2名に取り押さえられ、現場に到着した警察に逮捕されました。
逮捕後から裁判の判決までの詳細を追っていきます。
逮捕後は精神障害者のふりをする
宅間守の当初の逮捕容疑は殺人未遂でしたが、児童の死亡が確認されると同時に殺人容疑に切り替えられました。宅間守も左手をケガしていたため、病院で治療を受けてからの取り調べとなりました。
宅間守は逮捕後に「薬を十回分飲んだ。しんどい」と供述していたため、通院歴を調べたところ、精神科で抗精神病薬「セロクエル」と抗うつ薬「パキシル」、睡眠剤「エバミール」の三種類を処方されていることがわかりました。
しかし、これらの薬は10回分飲んでも異常行動を起こすことはなく、眠くなるだけ。しかも、これらの処方薬は宅間守の詐病で処方されていたことが判明します。
さらに、逮捕直後の血液検査・尿検査の結果、宅間守の体内からは薬の成分は検出されず、それを追及された宅間守も「薬は飲んでません。作り話でした」と白状したのです。
精神鑑定を受ける
附属池田小事件は犯罪史に残るほどの残忍な事件だったこと、宅間守には精神科通院・入院歴があり、精神科の薬を飲んだと供述したことなどから、精神鑑定を受けることになりました。
精神鑑定は事件・逮捕翌日の2001年7月9日から大阪拘置所で行われました。通常は3ヶ月の期間が設けられますが、宅間守の場合は鑑定開始から2か月弱の9月6日に、「完全責任能力があった」と鑑定人が大阪地検に報告しています。
宅間守の精神鑑定は2回行われていますが、どちらも責任能力を認める結果であり、さらに統合失調症ではないとしています。
精神鑑定の結果は、情性欠如、妄想性人格障害などはあるが、統合失調症ではなく責任能力ありと判断され、死刑判決を受ける。
パーソナリティ障害はあるものの、統合失調症ではないし、事件の責任能力もしっかりある中で、宅間守はあの附属池田小事件を起こしたのです。
裁判では死刑判決
附属池田小事件の裁判は、2001年12月27日に大阪地裁で初公判が開かれました。宅間守は「池田小に入って殺傷したことに間違いはありません」と起訴事実を全面的に認めています。
2003年5月22日に死刑が求刑され、2003年8月28日に死刑判決が言い渡されました。
死刑判決の日、裁判長が「主文を言い渡します」と言おうとした時、それを遮るかのように宅間守は「最後にちょっと言わせてえな」と大声で叫びました。裁判長に「発言を認めません」と言われるも、叫び続けたため、退廷を命じられています。
しかも、刑務官に法廷から連れ出される時に、傍聴席にいた遺族の名前を呼んで罵る行為もしています。
そして、本人が法廷にいない状態で、死刑判決が読み上げられています。通常、死刑判決の場合は主文(判決内容)は後回しにされて、判決理由から述べられることが多いですが、附属池田小事件の宅間守の場合は、「被告人を死刑に処する」という主文から読み上げられました。
附属池田小事件の詳細④:2004年に死刑執行
出典:detail.chiebukuro.yahoo.co.jp
2003年8月28日に死刑判決が言い渡された宅間守は、2004年に死刑が執行されています。
早期の死刑執行を要求
死刑判決を受けても、実際に死刑が執行されるまでには5年以上かかることが通例です。しかも、この死刑判決は第一審のもので、控訴・上告する権利を宅間守は持っていました。
しかし、宅間守は控訴することはありませんでした。それどころか、早期に死刑を執行することを要求したのです。主任弁護士に「6ヶ月以内、できれば3ヶ月以内の死刑執行を望む」という手紙を出していました。
しかも、6ヶ月以内に死刑が執行されなかった場合、「精神的に苦痛を受けた」という理由で国家賠償請求訴訟を起こす準備もしていたとのことです。
宅間守はどこまで身勝手なのでしょうか。犠牲になった児童たちは、宅間守から未来ある人生を突然奪われたのに。『「精神的に苦痛を受けた」から国家賠償請求を起こすぞ!早く死刑にしろ』なんて、身勝手すぎます。
獄中結婚をする
宅間守は死刑判決後に、支援者の女性と獄中結婚をしています。結婚した女性は死刑囚の支援をしていた30代の女性で、刑が確定する前から弁護士を通じて、差し入れや手紙などを送っていたそうです。
女性は「(宅間死刑囚の)精神的な弱さに同情し、支えになりたい」などと、宅間死刑囚が控訴を取り下げた9月下旬、弁護団を通じて結婚の意思を伝えていた。その後、自身の写真とともに婚姻届を宅間死刑囚に渡してもらったという。
引用:(2ページ目)「あの世で子どもをしばいてやる」出刃包丁で児童8人を次々と殺害…死刑が確定した“夫”と30代女性が獄中結婚した理由 | 文春オンライン
宅間守と結婚することに両親から猛反対をされていたこの女性は、死刑廃止活動をしている仲間と養子縁組をして苗字を変えてから、宅間守と結婚しています。
結婚を望む女性がいると宅間さんに伝えると喜んでいました。宅間さん自身が苗字の変わることを承諾し、結婚の意思を示したため、A子さんが書いた婚姻届の用紙を、私が宅間さんに差し入れた。そこに彼が署名し、婚姻が成立したのです
引用:(4ページ目)「あの世で子どもをしばいてやる」出刃包丁で児童8人を次々と殺害…死刑が確定した“夫”と30代女性が獄中結婚した理由 | 文春オンライン
自分と結婚したい女性がいることを喜んでいる宅間守。しかも、この妻となった女性以外にも、宅間守との結婚を望む女性と文通していました。
もちろん、死刑囚にも結婚する権利はありますが、事件の大きさ・犠牲者・遺族・被害者を思うとやり切れないものを感じます。
2004年9月14日に死刑執行
宅間守は、2004年9月14日に死刑が執行されました。事件が起こったのが2001年6月8日、死刑判決が出たのが2003年8月28日でしたので、事件から3年、死刑判決から約1年でのスピード死刑執行となりました。
死刑執行当日は、最後に煙草とリンゴジュースをゆっくりと楽しんでから、死刑台に上り、午前8時16分に死亡が確認されました。
宅間守の最期の言葉は、「ありがとうって僕が言っていたと彼女に伝えてください」でした。刑務官にこの言葉を宅間守が言い、遺体を引き取りに来た妻に伝えられたそうです。
附属池田小事件の犯人は宅間守①:虐待を受けて育つ
附属池田小事件の犯人の宅間守は、どのような人物だったのかを生い立ちから事件前まで詳しく見ていきます。
幼少期から問題児
宅間守は幼いころから問題児でした。
・電車に石を投げる
・線路に石を置く
・乱暴者と呼ばれていた
・犬や猫などの動物を新聞紙に包んで火をつけて殺害
・好きな女子生徒の弁当に精液をかけた
あだ名は「ゴン太君」だったそうです。これらの問題行動を見ると、子供のころからヤバいやつだったことは間違いありません。
国道の真ん中を三輪車で走るとか、電車に石を投げるとかは、まだ「好奇心旺盛なやんちゃな子供」でギリギリ許されるかもしれません。
でも、犬や猫を殺害したり、女子生徒のお弁当に精液をかけるのは、完全にアウトです。
両親から虐待を受けていた
宅間守は両親から虐待を受けていました。
宅間守は兵庫県伊丹市の工場街で育ちます。父親は工員でしたが、生活費を家に入れず、家族の前で包丁を振り回したり、暴力をふるったりする人でした。宅間守も父親から暴力を振るわれて育っています。親子関係は最悪で、「寝ている間に包丁で刺殺してやろう」と思ったこともあるそうです。
宅間守が大人になってからは、取っ組み合いになり、父親が宅間を何度も石で殴ったこともありました。
母親は家事育児が苦手で、家事は全部父親まかせであり、宅間守はネグレクトをされていました。宅間守を妊娠した時には「あかんわ、これ、堕ろしたいねん私。あかんねん絶対」と言い放ったそうです。
母乳をあげることも嫌がり、宅間守の中学受験で揉めたときには「お前なんか生まれてこなければよかった」と宅間守に言い放っています。
父親からは暴力で虐待、母親からはネグレクトで虐待。あまりにも辛い家庭環境で育ってきました。
大阪教育大付属池田校にあこがれる
宅間守は事件を起こした大阪教育大学附属池田小学校に特別な思いを抱いていました。
小学校5年生の時に、同級生の話を聞いてパイロットになろうと思った宅間守は、パイロットになるために良い学校に入ろうと思い、勉強するようになります。そして、大阪教育大付属池田校に憧れるようになります。
両親に大阪教育大付属池田校を中学受験したいことを告げますが、父親からも母親からも「無理!」「そんなん通るはずがないのに受けるだけ無駄や」と突き放されてしまいました。受験を泣く泣く諦めることになります。
この経験から、宅間守は高学歴に嫉妬し、大阪教育大学附属池田小学校に対して、ねじれた感情を持つようになったのかもしれません。
両親からは勘当
宅間守は、両親から勘当されていました。宅間守は1986年から3年間刑務所に入っていますが、出所する時に全く反省していないということから、出所後の生活費を出すことを拒否し、宅間守の私物を売ったお金を本人に手渡し、勘当を伝えたとのことです。
もともと宅間守を虐待していた両親でしたし、宅間守もかなりひどい生活をしていましたので、勘当も「なるべくしてなった」と言えるかもしれません。
この勘当で、1989年以降は宅間守は天涯孤独の身になったと言えるでしょう。
附属池田小事件の犯人の宅間守②:何度も犯罪を繰り返す
宅間守は中学卒業後に工業高校に進学しますが、2年生の時に中退しました。その後、定時制高校に編入するもすぐにまた中退します。
ガソリンスタンドのアルバイトをした後、1981年末に18歳で航空自衛隊に入隊しました。自衛隊は小学生の時から強い憧れを持っていたので、憧れの職業に就けたことになります。しかし、1983年1月に入隊から1月に除隊になっています。除隊理由は「家出した少女を下宿させ、性交渉した」というものでした。
それから、宅間守はたくさんの犯罪を重ねていきます。
・1993年9月:強姦
・1998年10月:傷害容疑(別れた妻を殴る)
・1999年3月12日:小学校での薬物混入事件
・1999年11月:住居侵入容疑
・2001年2月:暴行・器物損壊
薬物混入事件とは、自分の精神安定剤数錠を急須のお湯に溶かして飲み、その後に同じ急須でポットのお湯を注いで入れたお茶を、自分の精神安定剤が入っていることを告げずに、教員たちに飲ませた事件です。
お茶を飲んだ教員たちは、目まいや口の痺れ、眠気を訴えて、3日間入院しています。宅間守は「教員たちに無視されていたし、むしゃくしゃしていた」と供述しました。
上記の犯罪のほかに、トータルで15回も逮捕されています。ただ、有罪となったのは最初の強姦事件だけで、それ以外は精神障がいを理由に不起訴処分になっています。
また、15回の逮捕以外にも、附属池田小事件で逮捕された時に、「自分のあおり運転で2人の運転手を殺している」という内容の供述もしています。
附属池田小事件の犯人の宅間守③:職を転々とする
宅間守は、仕事を転々としていました。
・航空自衛隊
・運送会社の運転手
・トラック運転手
・ダンプの運転手
・引っ越し業者
・非常勤の地方公務員(伊丹市営バスの運転手、ごみ収集、小学校用務員)
事件前の2000年からは建設資材販売会社でトラック運転手をしていました。
1年以上長く続いた仕事は航空自衛隊と非常勤の地方公務員だけで、それ以外は数か月単位で職を転々としていたようです。
附属池田小事件の犯人の宅間守④:結婚を繰り返す
出典:detail.chiebukuro.yahoo.co.jp
宅間守は5回の結婚歴があります。
1回目の結婚:1990年6月(19歳年上の国立大学研究員)
看護師と出会いたいために、看護師の合格者名簿で上から電話をかけていたら、電話をかけ間違ったこときっかけで出会いました。
医師と偽って出会ってから1ヶ月で強引に結婚し、彼女のマンションに転がり込むも、医師でないことがばれて、8日後には離婚。離婚するために相手の女性は慰謝料120万円を支払うことになりました。
2回目の結婚:1990年10月(20歳年上の教員)
2回目の結婚相手は、小学校時代の先生である20歳年上の女性です。
この女性は婚姻中でしたが、離婚話が持ち上がっていました。宅間守が強引に肉体関係を結び、離婚後に結婚しています。
結婚時は宅間守は日本航空の関連会社に勤めていると嘘をついていましたが、結婚後に嘘をついていたことを打ち明けます。そのことで、離婚話が持ち上がりましたが、宅間守が伊丹市の非常勤公務員に採用になったことで、いったん保留になりました。
しかし、1993年9月に宅間守がテレクラで知りあった女性に強姦して逮捕されたため離婚となりました。
3回目の結婚:1997年3月(2歳年上の女性)
1996年8月にお見合いパーティーで知り合い、交際が始まりました。女性は結婚には乗り気ではなかったものの、「結婚しなければ、お前を殺して私も死ぬ」と脅したため、仕方なく結婚しています。
宅間守はお金目的で1995年に44歳年上の女性と養子縁組しましたが、暴力をふるいお金を奪うなどの悪行をしていました。1997年10月ごろに3人目の妻の妊娠が発覚しましたが、同時期にこの養子縁組の女性から宅間守の悪行をばらされ、堕胎・離婚に至ります。
離婚するまでには宅間守が脅迫するなどがありましたが、妻側が200万円を支払うことで離婚が成立しました。しかし、離婚後の1998年8月に宅間守が元妻を待ち伏せして、暴行を加え、逮捕されています。
4回目の結婚:1998年10月(3歳年下の女性)
お見合いパーティーで知り合った女性と結婚した宅間守は、第一子をもうけますが、1993年3月に小学校での薬物混入事件を起こして逮捕され、離婚しています。
5回目の結婚:2003年12月(30代の支援者の女性)
5回目の結婚は獄中結婚です。2003年12月12日に入籍しています。
附属池田小事件の犯人の宅間守⑤:精神病院への入院歴あり
出典:detail.chiebukuro.yahoo.co.jp
附属池田小事件の犯人の宅間守は、精神科への入院歴があります。しかも、詐病で入院していました。
1回目の入院は、1984年に強姦事件を起こした後の事です。母親と一緒に精神科を受診し、次のような症状を訴えます。
・誰かに陥られる気がする
さらに母親に「宅間守に暴力を振るわれている」と噓を言わせて、精神分裂病(現在の統合失調症)の診断されます。ただ、これは嘘で、刑を軽くするためのものでした。この診断で、宅間守は精神科の閉鎖病棟に入院することになります。
ただ、閉鎖病棟での生活に不満を感じ、親への「いやがらせ目的」で、入院中に5階から飛び降りて、開放性下顎骨及び上顎骨骨折の重傷を負います。
このようにいろいろなことをして、強姦事件をごまかそうとしましたが、結局は実刑3年の判決となりました。しかし、それ以降の犯罪については、精神障がいという理由で不起訴となっています。
小学校での薬物混入事件後は精神疾患から「責任能力なし」と判断され不起訴になりましたが、精神保健福祉法に基づき、西宮市内の病院へ措置入院させられています。この薬物混入事件の1999年4月から、附属池田小事件を起こすまでの約2年の間に、4回も精神科への入退院を繰り返していました。
附属池田小事件の犯人の宅間守の動機
附属池田小事件という残忍な事件を起こした犯人の宅間守は、なぜ犯行に及んだのでしょうか?事件の動機は、何か大義があったわけではなく、呆れるような幼稚なものでした。
元妻と父親への恨み
宅間守は、3人目の妻に強い恨みを抱いています。もちろん、宅間守側の一方的な逆恨みです。
・自殺しても元妻らが喜ぶだけだ。あほらしい
・大量に人を殺すような事件を起こせば(前妻が)私と知り合ったことを後悔するだろう
また、逮捕後には父親への深い恨みも事件の動機として語っていました。
検察側は冒頭陳述で、被告が離婚した元妻や自分を勘当した父親への恨みを社会に向けて、「めちゃくちゃやってやろう」と不特定多数の人の殺害を考えた、と指摘。
宅間守は3人目の妻と父親への恨みを、何の罪もない子供たちへの殺戮という形に変えて犯行に及びました。
高学歴への恨み
宅間守は高学歴への恨みも持っていました。附属池田小学校は自分が子供のころに行きたかった学校です。その学校に行けなかったことで、高学歴・高収入のエリートたちに屈折した思いを抱いていました。
そのことは、宅間守の証言からも見て取れます。
・ブスブスとエリートの卵を刺し続けた
附属池田小事件の犠牲者は8名
出典:mainichi.jp
附属池田小事件の犠牲者は8名です。
・女子児童(2年南組)
・女子児童(2年南組)
・女子児童(2年南組)
・女子児童(2年南組)
・女子児童(2年西組)
・女子児童(2年西組)
・男子児童(1年南組)
この犠牲者の子供たちは、即死というわけではありませんでした。刺された後に放置されたため、出血多量で亡くなった子供もいます。
死亡した8名の児童は即死ではなく、救命活動の遅れが死因に直結する失血死である。児童に対する組織的な避難誘導、救命活動、搬送処置が行えず、被害を最小限にくい止めることができなかった。
この事実を考えると、遺族はやり切れないものを感じてしまいますね。
附属池田小事件の生き残りはPTSDに・・・
出典:ktv.jp
附属池田小事件では、負傷した生き残りが15名いました。
・女子児童:8名
・教員:2名
また、ケガはなかったものの、間近で宅間守の凶行を目撃し、自分が殺されるかもしれないという恐怖を感じた子供たちもたくさんいます。
附属池田小事件の生き残りの人たちは、命は助かったものの、PTSDに苦しみ続ける人たちも少なくありません。
目の前で起きた悲惨な出来事は、成人するまで何度もフラッシュバックした。あの日のにおいまで思い出し、冷や汗をかくこともあった。
引用:附属池田小・児童殺傷事件から21年 生き残った子どもたちの葛藤 「犯人とぶつかったのを覚えています」(関西テレビ) – Yahoo!ニュース
大阪府警では最大60人体制で「被害者支援班」を作り、生き残りの被害者たちを支援しています。
附属池田小事件では逃げた教師「岩崎真季」に批判が集まる
附属池田小事件では2年西組の担任である岩崎真季さんが、「逃げた教師」として批判を集めました。
岩崎真季さんは宅間守が教室に侵入してきた時、校内放送を使うことができず、「逃げて」と叫んで、自分は110番するために事務室に走りました。
・児童を置き去りにした
・児童が刺される瞬間を目撃しながらも、事務室に走った
・事務室に走る時、廊下で刺された児童を見つけたが、そのままにして事務室に急いだ
このような行動をとったため、2年西組の担任の岩崎真季さんは「逃げた教師」としてインターネットを中心に批判を集めることになりました。
逃げたのではない?咄嗟に正しい行動を取れるか?
確かに、児童を置き去りにしたのは良くありません。ただ、岩崎真季さんは逃げた教師というわけではないように思います。
岩崎真季さんはまず校内放送を使って、状況を校内に知らせようとしています。それから、「早く逃げて」と叫んで、事務室に110番するために走りました。
逃げたのではなく、110番通報しようとしただけなのではないでしょうか?そこに自分が留まっても、宅間守に敵うはずもない。それなら、早く警察を呼ぼう。この考えは間違ってはいません。
そもそも、血まみれで包丁を持ち襲ってくる宅間守を前に、誰が正しい判断をすることができるでしょうか。
校外に1人で逃げ出したなら「逃げた教師」と言われても仕方がありませんが、「逃げて」と指示してから、事務室に走ったなら、それは「逃げた」というわけではないと思います。
誰でも逃げたくなる状況
そもそも、誰でも逃げ出したくなる状況ですよね。想像してみてください。
・児童はパニック&刺されている子もいる
・身長182cmの大男が包丁を持って血まみれ
・宅間はしかも元自衛官で体格が良い
・宅間は完全に理性を失っている
こんな状態で逃げ出さない女性がいるでしょうか。この岩崎真季さんは校内放送を使おうと冷静な対応をしています。これだけで称賛されるべきことだと思います。
小学校教諭はスーパーマンでもガードマンでもSPでもありません。包丁を持ったヤバい大男を相手に「子供の命を守れ!自分の命を投げ出せ!」というのは、さすがに酷です。
逃げたことよりも説明できなかったことが問題?
逃げた教師と言われる岩崎真季さんですが、逃げた(事務室に走った)ことよりも、警察の電話に時間がかかりすぎたほうが問題かもしれません。
110番通報したものの、うまく状況を説明できず、警察が救急車を要請するまでに5分、事態を把握するまでに全部で8分かかっています。もっと早く的確に警察に通報して事態を簡潔に的確に説明できていたら、救急車ももっと早く到着して、被害ももっと少なかった可能性があります。
もちろん、あんな状況で、パニックを起こさずに、的確に警察に状況説明できる人なんてなかなかいませんが、それでももう少し早ければ・・・と思ってしまいます。
附属池田小事件は生き残りの教師の行動で被害が広がった?
出典:jocr.jp
附属池田小事件は教師はけがをした人が2人いましたが、犠牲者はいませんでした。先ほどの「逃げた教師」以外にも、生き残り教師の対応でミスがあったために被害が拡大した可能性が指摘されています。
教師のミス①:侵入時に不審に思うもスルー
1つ目のミスは、犯人の宅間守の侵入時です。宅間守が自動車専用門から校舎に向かう途中、体育館横で2年南組の担任教師とすれ違っています。
その時、担任は宅間守に会釈をしますが、宅間守はそれを無視しました。この時、担任は宅間を教員でも保護者でもなく、業者かな?と感じていましたが、それ以上何もせずに宅間守の侵入を許しました。
この時、何か声をかけていたり、せめて振り返って、どこに行くのかを確認しておけば、被害はもう少し小さくなったはずです。
教師のミス②:避難誘導せず
2つ目のミスは教員が避難誘導をしなかったことです。避難誘導をしなかったことで、岩崎真季さんは「逃げた教師」と言われてしまいましたが、避難誘導をしなかったのは岩崎真季さんだけではありません。
それまでの間、3名の教員が1年南組の横を通過したにもかかわらず、1年南組にいた児童に危険を知らせ、避難するように声かけできておらず、避難誘導が行われなかった。
3名も教員が通過したのに、誰1人として1年生の子供たちに危険を知らせ、避難させなかったというのはさすがに問題です。もちろん、当時はパニックで誰がどんな役割をすれば良いのかなんて、割り振りはなかったと思います。
それでも、教員の誰か1人は子供たちを避難させておけば、1年南組の子供たちの被害はなかったかもしれません。
教師のミス③:負傷児童を放置&状況把握できず
教師のミスの3つ目は、学校全体が状況を全く把握できていなかったことです。
宅間守が取り押さえられ、逮捕された後も、学校は負傷した児童の名前・人数・倒れている場所などを全く把握できていませんでした。そのために、救急搬送が遅れ、命を落とした子供もいます。
負傷児童の氏名、場所、人数、負傷の程度の確認など、学校全体としての状況把握ができず、救急車に付き添うよう申し出た教員もいたが、管理職や教務主任は、混乱の中で事件の全容をつかめず、20分前後も放置され既に致死的な状態になっている負傷児童の搬送に、ほとんどの教員が付き添うことができず、また、保護者への児童の搬送先病院の連絡が大きく遅れてしまった。
負傷児童の搬送に教員が付き添わなかったために、保護者への連絡も出来ず、保護者は自分の子供を探して学校内を走り回り、最終的に病院で亡くなった我が子と対面するということもありました。
これも、もっとしっかり学校全体が情報収集・点呼をして、状況把握に努めていれば、被害を小さくできた可能性があるミスです。
附属池田小事件のその後と現在
出典:asahi.com
附属池田小事件によって、その後は全国の学校の危機意識が高まりました。刺股の使い方を教員が訓練したり、監視カメラを設置したり、学校の門は全部閉じておくなどです。
附属池田小学校では、PTSD対策として、事件を思い起こさせないように仮校舎を作り、そこで授業を行ったり、制服を一時は私服にして、その後にデザインを一新するなどの取り組みを行っています。
また、安全対策にも力を入れていて、日本の小学校では初めて国際的な学校安全認証「インターナショナルセーフスクール(ISS)」を取得しました。
しかし、現在は事件から20年以上が経ち、少しずつ風化してきてしまい、学校の安全への意識は低くなってきているようです。
附属池田小事件のまとめ
附属池田小事件の詳細や犯人の宅間守の人物像と事件の動機、犠牲者と生き残りのPTSDや逃げた教師の岩崎真季さんの真相、教師のミスや事件のその後と現在をまとめました。
この痛ましい事件をもう二度と起こさないためにも、事件を風化させずに、子供たちを守るために、安全意識を高めていくことが重要だと思います。