通州事件は、日中戦争初期に発生した中国での日本人居留民虐殺事件です。被害者の数は200人以上とされます。この記事では通州事件についてわかりやすく解説し、目撃者の証言、犯人、残虐すぎる殺され方、真実、なぜ教えないのかをまとめていきます。
この記事の目次
通州事件の概要
1937年7月29日、中国の通州(現在の北京市通州区)で日本軍の通州守備隊、通州特務機関、そして日本人居留民が襲撃、虐殺される事件が起こりました。
虐殺を行ったのは、通州を治めていた冀東防共自治政府(きとうぼうきょうじちせいふ)の保安隊で、現地にいた日本人および朝鮮人のうち少なくとも223人が殺害されたといいます。
当時は日中戦争が開始したばかりで、中国は北京より東北部の「満州国」が日本の傀儡国家となっており、北京の南部、西部が「中華民国」つまり中国が支配する国土となっていました。
日本が日中戦争で敵対したのは中華民国であり、通州事件の起きた通州は、日中の軍事衝突を避けるために北京の東側に設けられた非武装地域でした。
そして、この通州を統治していた冀東防共自治政府は日本の影響を強く受けた政権であり、日本軍による軍事訓練を受けていたのですが、この政権の中国人部隊である保安隊が反乱を起こして日本軍や政府関係者のみならず、民間人までも惨殺したのです。
保安隊の残虐極まる行為は当時の日本でも大きく報じられ、「鬼畜にも劣る行為」と激しく糾弾されました。
しかしながら現在では日本史の授業などでも通州事件はまったく取り上げられておらず、戦時中に日中間で起きたとされる事件の中でも知名度は低くなっています。
そのため、「なぜ、学校で通州事件を教えないのか」「タブー視しているのか」といった声も多く上がっています。
通州事件についてわかりやすく解説① 中国に日本人が在留していた背景
通州事件について説明していく前に、どうして日本人、それも軍人ではない民間人が中国の国土で暮らしていたのかについて、当時の時代背景を見ていきましょう。
1985年に日清戦争が集結し、清国の降伏を受けて以降、日本はイギリス、フランス、ロシア、ドイツらの帝国主義諸国とともに中国の国土を分割支配していきました。
これによって中国は反植民地状態となり、国内では反キリスト教、排外主義の機運が高まります。
そして1900年には蜂起した民衆が日本とドイツの外交官を殺害。北京を占拠するという義和団事件が勃発したのです。
この義和団の反乱を治めるため、アメリカ、イギリス、日本、ロシア、フランス、ドイツ、オーストリア=ハンガリー、イタリアの8ヶ国連合が中国に兵を送り込みました。
8ヶ国連合によって反乱は鎮圧されるのですが、この戦後処理として、中国と連合の間で「北京議定書」が取り交わされることとなります。これが1901年のことです。
北京議定書では戦争の賠償金についてや、外国の軍隊の駐兵についてといった内容が盛り込まれていました。
この議定書に従って日本も中国に支那駐屯軍(清国駐屯軍)を派遣しており、それに伴って中国で商売をするために民間人が多く移住してきていたのです。
現在の感覚で考えると、よその国を武力支配していたというのは野蛮な印象を受けますが、第二次世界大戦が終結する前の世界は帝国主義でしたから、戦争を仕掛けて勝った国が政治的、経済的、軍事的に負けた国を支配するというのは当然の流れでした。
とくに国土が狭く、天然資源に乏しい日本が生き残るためには、アジアに植民地を広げていくほかなかったわけです。
したがって、日本だけが中国に無理やり攻め入って支配下に置こうとしていたわけではなく、自分の国を守るためにも仕方のない行為だったとされています。
通州事件についてわかりやすく解説② 冀東防共自治政府とは
通州事件を起こした部隊が所属していた冀東防共自治政府は、1935年に日本と中国の間で交わされた「塘沽(タンクー)協定」に基づいて設けられた非武装地帯を統治していた政権です。
塘沽協定では通州をふくむ中国河北省一帯を日中の衝突を避けるための非武装地帯とし、中国側の警察がここの治安維持にあたると決められました。
そのため、冀東防共自治政府は中国の組織であり、表向きは地元の人々が自発的に発足した政権とされていました。
しかし、実態は日本軍が訓練を行っていた傀儡政権だったと言われています。これは中国側のみの主張ではなく、日本やアメリカの研究でも一部認められていることです。
さて、表面上は冀東防共自治政府を設立したのは、殷汝耕(いんじょこう)という人物とされています。この人物は日本と縁があり、学生時代には早稲田大学に留学していたうえ、日本人女性と結婚していました。
中国人でありながら親日派で、日本の文化にも精通しているという点から殷汝耕が傀儡政権のトップに据えられたと見られます。
通州事件についてわかりやすく解説③ 事件発生までの流れ
通州事件は突然に発生したわけではありません。この惨劇が起きる前から在留日本軍と中国の間では火種がくすぶっていました。
通州事件が起きる3週間前の1937年7月7日の夜、北京市の西南方向で日本軍と中国国民革命軍第二十九軍が衝突する盧溝橋事件が発生しました。
事件は盧溝橋付近で演習を行っていた日本軍に対して何者かが銃弾を撃ち込み、日本軍は中国軍の仕業と見て応戦したもので、小規模な戦闘が繰り返された後に9日には停戦に至りました。
この時、争いの最中に身の危険を感じた北京在住の日本人たちは次々と北京からの脱出を図りました。
帰国する人、満州国に逃げ込む人などさまざまな人がいたとされますが、もっとも多かったのが馬車で向かえる通州に逃げ込む人々だったそうです。
この頃、中国の統治下にあって北京を追われた日本人が安全に暮らせたのは、日本軍が統治している天津か、親日の冀東防共自治政府が統治する通州かといった状況でした。
しかも通州には通州守備隊などの日本軍だけではなく、冀東防共自治政府の保安隊も配備されていました。
保安隊は在留邦人を守るために設置された中国人の部隊です。通州事件を起こしたのも保安隊ですから、実際には保安隊には強い反日感情を持つ者も多かったのですが、当時の日本人たちは保安隊に信頼を寄せていました。
そのため通州に逃げてきた日本人は「これで安心だ」と思い込んでいましたが、当時の通州では保安隊などによって日本人の住居の前にはそれとわかるような記号がチョークで書かれ、こっそり監視されていたといいます。
続く日本軍襲撃事件
盧溝橋事件は停戦協定が結ばれたものの、以降も中国側からの日本軍への攻撃は続いていました。
7月10日には斥候の日本軍将校への銃撃があり、13日には日本軍のトラックが爆破されて4人が死亡するという大紅門事件が起きています。
さらに7月18日から20日まで連続して日本軍への攻撃が発生し、日中間での緊張は高まっていました。
それでもここまで、日本は先に攻撃を仕掛けられるばかりで、自分たちから中国軍を攻撃することはなかったといいます。
当時の首相であった近衛文麿も北京周辺での情勢の不安定さを憂いてはいたものの、蒋介石との対話で平和的解決の道を探っていたのです。
郎坊事件
しかし、7月25日に事態は一変します。この日を境に駐屯軍に対して武力行使容認の指令が下されたのです。
1937年7月25日の深夜、北京郊外にある郎坊(廊坊とも書く)という小さな駅で、中国側によって切られたと思われる電線の修理をしていた日本軍の補修隊が、中国国民革命軍第二十九軍に銃撃されるという事件が起こりました。
この修理については日本軍の中将があらかじめ中国側に通達していたうえ、郎坊駅付近に配置された中国国民革命軍第二十九軍第三十八師の師長は親日家で知られる人物だったため、危険はないだろうと予想されていました。
ところが、その第三十八師が迫撃砲まで持ち出して日本軍を奇襲したのです。
もともと電線の修理にしに来ただけの補修隊はなすすべもなく銃撃にさらされ、たちまち負傷者を出してしまいます。
この報告は東京の陸軍省に伝わり、東京でも「もはや対話での解決は見込めない。事態を収束させるためには内地師団の派遣しかない」という結論に至りました。
最終的に郎坊へは天津の駐屯軍本部から歩兵第七十七連隊が応援に向かい、反撃したことから28日に中国軍は敗走します。
そのため郎坊事件は2日間で幕を閉じたのですが、26日には北京の広安門でも中国軍に日本軍が襲われる事件が起こり、通訳を含む3人の死者が出ていました。
通州事件についてわかりやすく解説④ 事件直前の通州の様子
盧溝橋事件以降、北京近郊でたびたび日本軍が襲撃されたことから、通州に逃げてくる日本人(朝鮮人をふくむ)の数はどんどん増えていきました。冀東防共自治政府が確認できただけでも380名程度は通州に逃げ込んできた人がいたといいます。
通州にいる保安隊は日本軍の指導のもと厳しい軍事訓練を受けており、国民革命軍第二十九軍よりも強力な武器を貸与されていた部隊もいたほどです。
さらに事態の急変を受けて通州には日本側から支那駐屯軍歩兵第二連隊が派遣され、通州新南門外の宝通寺に駐屯する国民革命軍第二十九軍の隷下にある七一七部隊と睨み合いをはじめました。
不測の事態を避けるため、日本の特務機関は7月27日の午前3時までに武装を解き、北京に戻るように七一七部隊に申し入れましたが、七一七部隊はこれを無視。
それどころか戦闘態勢に入ったことから、支那駐屯軍は27日の午前4時をもって七一七部隊への攻撃を開始。
狭い範囲ながら戦闘は激しく、日本軍側が優勢で翌28日を迎えました。ところが、この日の朝に大事件が起きてしまいます。
28日の朝、応援にやって来た関東軍の軽爆撃機が七一七部隊を攻撃するつもりで誤って、隣接する冀東防共自治政府の保安隊訓練所を爆発してしまったのです。
このため、本来は日本側の味方であるはずの保安隊に死傷者が出ることになり、特務機関長が直ちに殷汝耕を訪ねて陳謝し、賠償金を支払う約束をしました。
この件だけでも保安隊の内部には動揺が走ったことは窺えますが、くわえて同じ頃に蒋介石ラジオで「革命軍第二十九軍は完全に日本軍を制圧した。裏切り者の売国奴、殷汝耕は血祭りにあげられる」といったデマ放送を流したとされます。
実際には盧溝橋事件以降、すべての戦闘で日本軍が勝利を収めてきましたし、殷汝耕が危険な立場に置かれているわけでもありませんでした。
しかし、これを聞いた保安隊員のなかでは「日本側についていたら、自分たちも危険なのではないか」という空気が流れだします。
上述しましたが、保安隊の中には反日感情の強い者、かねてから日本に対して反乱を起こす機会をうかがっている者もいました。
そのため、これらの日本側に対する疑念を深めるような報道や出来事は、彼らにとって願ってもいないチャンスだったのです。
こうして発生した悲劇が、在留日本人の無差別殺傷事件である通州事件でした。
通州事件についてわかりやすく解説⑤ 事件のはじまり
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7月29日の深夜3時過ぎ、通州門外南方から2、3発の銃声が聞こえたのが事件のはじまりでした。
まもなく兵営付近は騒然とし、通州守備隊の歩兵小隊隊長・藤尾中尉は兵士らを舎外に配備し、屋上にも兵を置くように命令を出します。
この時、運の悪いことにすでに支那駐屯軍歩兵第二連隊は南苑に戻っており、通州には通州守備隊を中心に120名あまりの軍関係者しか残っておらず、そのうち24人は用務員などの非戦闘員となっていました。
しかも、銃声が聞こえた時点で電線や電話線はすべて切断されており、外部に応援も頼めない状態になっていたといいます。
孤立無援の状態で、藤尾中尉は発砲してきた相手は七一七部隊の敗残兵ではないかと目星をつかます。何も情報がないのですから、そう考えるのが一番自然でしょう。
しかし、そのような生易しい相手ではありませんでした。月明りでうっすらと見えた敵の顔は、どれも見知った、数時間前まで一緒に通州を守っていたはずの保安隊の隊員のものだったのです。
日本軍が手塩にかけて育てた保安隊の兵士の数は、決起してきた中国人の若者をふくめて3300人にも膨れ上がっており、対する日本側は非戦闘員を駆り出しても200人にも満たない数。そのうえ、持っている武器も小銃や軽機関銃、手りゅう弾などで重火器は一つもありませんでした。
兵の数か武器の威力、せめてどちらかでも勝っていれば勝機はあったかもしれません。
混乱のなか通州守備隊も決死の応戦をしましたが、30分も経たないうちに守備隊の本館と兵舎は完全に包囲されて陥落し、殷汝耕も別部隊によって身柄を拘束されてしまいました。
次いで午前4時には憲兵隊や領事館警察署や通州特務機関も相次いで襲撃されて全滅し、そこで働く人々の妻子まで惨たらしい殺され方をします。
通州事件についてわかりやすく解説⑥ 酷すぎる殺され方をした被害者たち
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軍人以上に悲惨な目に遭ったのが、通州に大勢いた日本の民間人たちでした。
下で個別に詳しく紹介していきますが、通州事件では中国語が堪能であったおかげで日本人だと知られずに災禍を免れた人や、死んだふりをしてなんとかやり過ごせた人、命からがら逃げきった人など、僅かながら生き残れた在留邦人もいました。
その人々の証言によると、通州の日本人商店や襲われた住居では金目のものは1つ残らず略奪され、道路には脚や腕が切り落とされた幼児の遺体が転がっていたといいます。
さらに女性の遺体は全裸、もしくは下半身のみ衣服が剥ぎ取られた状態で射殺されており、殺害される前に強姦されたことが窺えるような有様でした。
通州事件で在留日本人を襲った一団のなかには、保安隊以外に学生風の黒服を着た集団がいたとされます。
この集団は、中国国民党配下つまり蒋介石公認の殺人集団でした。中国で古くから自国民に対しても生きた状態で肉を削ぎ落す遅などの残虐な処刑が行われており、この流れでできたのが蒋介石公認の殺人集団だったと考えられています。
この集団による日本人虐殺は特に酷く、以下のような殺害方法がとられたとされます。
・施腸(シチャン)…生きた人間の腹を裂いて内臓を引き出す
・裁大蒜(サイターワン)…生きた人間を丸太に縛り付けて、逆さに立てる
・牽薁牛(ソーホワンニュー)…人間の鼻に針金を刺して引きずり回す
・食大麵条(シーターミエンテオ)…生きた人間の口に棒を突き刺す
・施地雷(シーテイライ)…人間の首に縄をかけて馬にひかせる
・梳肉(スーロー)…生きた人間の腕や脚の肉を削ぐ
・食大七八(シーターチバー)…女性の陰部に棒や銃剣を差し込む
通州事件の後、現場に派遣された警察によると上のような殺され方をしていた日本人の遺体が複数見られたうえ、顔面に毒薬を塗ってから射殺されたと思しき遺体も発見されたそうです。
なぜ、無抵抗な人間相手にこんな惨いことができるのか、国同士は敵対していたとしても何の恨みもない人間にどうして残酷な仕打ちができるのかと憤りを禁じえません。
中国には『好鐘不打針 好不当兵』という故事があるといいます。この意味は「よい鐘は針金にはしない、良い人は兵士にはならない」ということで、善良で普通の感覚を持つ人は兵士にはならない、つまり残虐で人殺しを好むような人間しか兵士にはならないという意味だそうです。
殺しを楽しめるような人間、言ってしまえば異常者を国が戦争のために兵士として育て上げたということなのでしょう。
それゆえに、通州事件では目を覆いたくなるような殺され方をした日本人が多かったとされています。
通州事件についてわかりやすく解説⑦ 事件翌日
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通州事件が起きた翌日、8月30日の午前4時から5時過ぎに、通州へ萱嶋高(かやしまたかし)率いる支那駐屯軍歩兵第二連隊が到着しました。
息を潜めて隠れていた生き残りの日本人たちは、日本軍の到着に気づいて棒切れに日の丸の旗を括り付けたものをかかげて助けを求め、次々に保護されていったとされます。やっと地獄の夜が明けたのです。
支那駐屯軍歩兵第二連隊は27日に七一七部隊との戦闘を終えた後に、すぐ南苑での戦闘の支援に向かって敵を追撃していたところで、再び「ただちに通州へ引き返せ」と命じられたといいます。
そのため歩兵第二連も連日の戦闘で疲弊している状態でしたが、通州に向かう途中で「日本人が大量虐殺されたらしい」「守備隊は全滅したと聞いた」との噂話を聞き、ほとんど休息せずに通州へ向かいました。
通州に着くやいなや、萱嶋隊長は生存している日本人の捜索と救助を開始。約150人程度の生存者を保護しました。
歩兵第二連隊は日本人を探すとともに憎き保安隊の姿も探しましたが、この頃には殺戮と略奪の限りを尽くした保安隊と黒服を着た集団は通州から姿を消していました。
卑怯なことに日本軍が通州に向かっていることを聞いて、いち早く逃げ出していたのです。
しかしその後、日本軍奈良部隊によって逃走中の保安隊約300人が北京の西北地区で捕捉され、攻撃を受けることになります。
そして30日のうちに日本軍による本格的な保安隊の捜索と掃討が開始され、この日の夕方までに600名、翌31日には400名の保安隊が投降しました。
さらに8月2日には、日本軍飛行隊が保安隊および国民革命軍第二十九軍の敗残兵あわせて約200人を爆撃したとされます。
通州事件で生き残った目撃者の証言
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生き残った人々や事件の一報を受けて現場に駆け付けた萱嶋隊長らから、通州事件に関する目撃証言が多く出ています。
ここでは事件の凄惨さを窺わせる、目撃者の証言をいくつか紹介していきます。
①植綿指導所職員の官舎
当時、通州の西門からほど近い場所にあった植綿指導所職員の官舎では、明け方に聞こえた銃声に驚いて寝泊まりしていた職員やその妻らが応接室に集まり、「ここも危ないかもしれない、襲われた際には無抵抗で降伏しよう」と相談していたといいます。
無抵抗な民間人が殺害されることはないだろうと思ったのでしょう。しかし、相手は日本の常識が通じるような連中ではなかったのです。
ほどなくして官舎に押し入って来た保安隊は、妊婦のお腹や降伏を宣言する民間人の頭を無慈悲に撃ち抜き、妻や夫の血を浴びて呆然とする人々に対して拳銃や小銃を乱射しました。
そして全員が動かなくなったことを確認すると、被害者の身体から血潮が噴き出るなか、室内を歩き回って財布や貴金属、時計など金目のものを物色しはじめたのです。
この様子は、お腹を撃たれた後に布団をかぶって死んだふりをしていた植綿指導所の所長夫人(臨月の妊婦)が見聞きしていたといいます。
所長夫人によると、保安隊は遺体の数をかぞえた後、便器や窓枠、ドアノブまで外して逃げていったそうです。
②中国人と結婚した女性が見た惨劇
大分出身の女性・佐々木テンさんは、大阪に住んでいた頃に知り合った中国人男性と結婚して、通州に移り住んでいました。
彼女が無事だったのは夫が中国人であったため、中国人のふりをすることができたからでした。
7月29日の朝、家の外から「日本人が虐殺されている!」という声が聞こえて夫の陰に隠れて往来を覗いたテンさんは、恐ろしい光景を目撃したといいます。
テンさんが家から顔をのぞかせた時、青白い顔をしてがたがた震えている10代の少女を黒服を着た男たちが道路に引きずり出し、服を脱がせようとしていたところだったそうです。
そこに少女の父親が縋り付いて許しを請っていたのですが、父親は頭を殴られて倒れこみ、娘の目の前で銃剣でめった刺しにされました。
そして父親が死んだ後、少女は強姦されてしまうのですが、黒服の男たちはうまく性器が入らないことにいら立ち、彼女の陰部に銃剣を突き刺し、抉ってから強姦に及んだというのです。
ほかにも、妊娠している女性が腹を裂かれて、胎児まで殺される様子など、往来で行われる恐ろしい殺戮の様子を目撃したといいます。
テンさんは通州事件の後、中国人の夫に対してどう接すればよいのかわからなくなり、離婚したとのことです。
日本に戻ってからも通州事件のことは誰にも話せなかったそうですが、ある時、佐賀にある因通寺の和尚の講話を聴きに行った際に和尚に通州事件の目撃談を打ち明けました。
その話を和尚が『天皇さまが泣いてこざった』という書籍に残したことで、現在までテンさんの目撃談は知られています。
③同盟通信・安藤記者の記録
通州事件で生き残った数少ない民間人男性の1人が、当時、通州に派遣されていた同盟通信の安藤利夫特派員でした。
安藤記者は事件発生時、通州内にある近水楼という日本人経営の旅館にいたそうです。29日の未明に外が騒がしくなり、何事かと思っていたところ、中国人のボーイから「特務機関の通りの日本商家、カフェーのあたりで日本人が大勢殺されているそうです!」という報せを受けたといいます。
そして近水楼はまだ離れた場所にあったため、少しは時間の猶予があるだろう、と思っていたところ、黒服を着た一団が建物になだれ込んできて略奪をはじめたそうです。
隠れていたところ、隊長らしき男が「保護をするから金を出せ!」と言ってきたため、素直に従って持っていた金目のものをすべて差し出したところ、ほかの日本人とともに麻縄で手首を括られ、歩くように銃剣で脅されたとのこと。
話が違う、と思ったところで建物内に転がる日本人の遺体を見つけ、安藤記者は「抵抗しても、言うことを聞いても殺されるのだ」と悟ったといいます。
通州の城壁の内側まで連れてこられた安藤記者は、そこにすでに溝が掘られているのを見て「銃殺場だ」と察知しました。
銃殺される寸前に、運よくずっとひっかいていた麻縄が切れたことから、安藤記者は一目散に逃げだして通州街道に沿った裏道を走り抜けました。
そして、親切な農家や漁師に匿ってもらいながら、なんとか無事に北京まで逃げ延びたといいます。
④河野青年の救援現場報告書
河野通浩さんは、中国山東省生まれの当時18歳の青年でした。通州事件発生時は北京の大東学舎に進学しており、国民革命軍第二十九軍を恐れながら研修に励んでいたといいます。
そんな折、通州で日本人が虐殺されているらしいという一報が大東学舎にも届きました。河野さんは、「通州のほうが安全だから」と言って北京を出ていった友人の顔を思い出し、いてもたってもいられなくなります。
そのため、7月31日に大使館から大東学舎に「通州にいる日本人の安否確認をしたいので、運転技能のある有志に協力を願いたい」という要請が入った際に、我こそは通州に向かいました。
河野さんらが通州に到着したのは8月1日の昼でした。西門から入ると、すぐに吐き気を催すような死臭と腐臭が鼻をついたといいます。
河野さんによると安藤記者がいた近水楼のあたりはとくに被害が大きかったといい、池には腐乱死体が浮き、性別も判別できないような姿の遺体が敷地内に転がっているような有様でした。
河野さんが心配していた友人は、冀東防共自治政府の庁舎で亡くなっていたといいます。
庁舎内はどの部屋も机の引き出しまで開けられて荒らされ、略奪の限りを尽くされていたにもかかわらず、なぜか殷汝耕の部屋だけはまったく手つかずの状態だったそうです。
⑤萱嶋隊長の見た通州
東京裁判で証言台に立った萱嶋隊長は、通州に入った時のことを以下のように証言していました。
・旭軒という飲食店には、17、8から40歳くらいまでの女性7、8人の遺体があった。全員、裸で射殺されており、うち4、5人は陰部を銃剣で刺されていた。
・商館や役所にいた男性はみな、射殺もしくは刺殺されていた。しかし、ほとんどすべての遺体が首に縄をつけて引き回した形跡があり、壁にも血がべったりと付着していた。
・危険を感じた日本人が多く集まっていたと思われる近水楼は、とくに悲惨だった。ここの女主人や女中たちは手足を縛られて数珠つなぎにされた後に強姦され、挙句に斬首されていた。
通州事件の真実① 犯人・指導者は誰だったのか
保安隊の隊員のなかで、通州事件の首謀者とされているのが張慶余(ちょう けいよ)です。
保安総隊の指揮官であった張慶余は、日本人を守る舞台に所属しておきながら、蒋介石率いる国民党と内通していました。
張は内通者であることを巧みに隠していたようで、これは事件後に発覚したことです。
そして、国内で冀東防共自治政府や日本軍への反発が強まってきたことを機に、国民革命軍の軍人・宋哲元(そう てつげん)と連絡を取り合って通州事件を計画。
保安隊のなかで反日感情が強まるように情報を操作しつつ、宋哲元と決行の時期を調整したのです。
通州事件後、歩兵第二連隊が通州に向かっていることを知った張慶余はすぐに逃げ出して、天津にいた宋哲元に合流しようとしました。
途中、日本軍に補足されて張慶余の部隊は大打撃を負いますが、張本人は逃げおおせたうえ、通州事件を遂行した功績を買われて後に国民党軍事委員会中将参議などを任されました。
通州事件の真実とは
当初、通州事件は関東軍の軽爆撃機が冀東防共自治政府の保安隊訓練所を誤爆したことの報復として、起きたのではないかと見られていました。
しかし、実際には事件が起きる2年前から張慶余は国民党と内通していたとされます。
なぜ日本側がこれに気づかなかったのかというと、ひとえに「お人よし」だったからではないかと指摘されています。
日中戦争がはじまった当初、日本は満州国の統治は続けたいと思っていたものの、それ以上に領土を拡大したい、中国と敵対したいとは考えていませんでした。
日本側は満州国で暮らす日本人の安全が守れればいい、という程度にしか考えていなかったのです。
くわえて上の目撃者の証言でも北京へ逃げる安藤記者を中国人が匿うなどしており、日本人に好意的な市井の中国人がいたこと窺えます。この頃は日本人と中国人は、決して民間人レベルで悪感情を持つような間柄ではなかったのです。
自分たちは中国を攻撃するつもりはないし、民間人同士はそれなりにうまくやれている。だから、中国軍も無意味に在留の民間人を襲うことはないだろうという甘さが、日本側にあったのではないかと言われています。
ところが、中国側の考えは違っていました。少なくとも通州事件が起きる2年前から、虎視眈々と日本軍と在留邦人を襲撃する機会を狙っていたのです。
本当は同時多発テロだった?
ノンフィクション作家の加藤康男氏は、著作『通州事件の真実: 昭和十二年夏の邦人虐殺』のなかで、「通州事件は同時多発テロだった」と指摘しています。
当時の新聞報道によると、国民革命軍は通州事件の起きた前後に、天津、大沽、塘沽など日本人が多く住んでいた場所や、軍関係機関が配備されていた場所などを一斉に攻撃する計画があったといいます。
実際に天津は通州事件が起きる約1時間前の7月29日午前2時頃に国民革命軍の攻撃を受けいたものの、すぐに日本軍が迎撃して事なきを得ていました。
当時の新聞では「天津が落とされていたら、通州以上の虐殺が起きていたに違いない。天津で日本軍が迎撃に成功し、通州から逃げた賊も追撃したことから、これ以上の被害を防げたのだ」といった旨が書かれていたといいます。
張慶余に通州襲撃の大義はあったのか?
張慶余は通州事件についての回顧録『冀東保安隊通県反正始末記』のなかで、通州事件を起こした理由について「偽冀東防共自治政府を糾弾し、正しく戻すことが目的」だったと書いています。
日本の傀儡政権を倒して、自分の国を守るための正義の行いだったというのです。
無抵抗の民間人を虐殺するという行為はどんな理由があっても許されないことですが、このような理由を聞くと反乱を起こしたこと自体に筋は通っているように思えます。
しかし実際、張慶余にそのような大義があったのかどうかは疑わしいです。『冀東保安隊通県反正始末記』のなかで張慶余はボロを出していました。
1935年、宋哲元の家に招かれて反乱に備えて保安隊を強化し、内通者として情報を流すように命じられた際に、一万元もらったと書いているのです。
この一万元を受け取った後に、張慶余は通州事件に向けて突き進んでいます。となれば、どのように取り繕っても、結局は一万元の賄賂と引き換えに在留邦人の命を奪ったとしか考えられません。
通州事件の残酷さを伝える写真は残っている?
通州事件の残酷さを伝える写真は複数残っています。下の画像は生きのこった負傷者の方々を撮影した痛々しい写真です。
ほかに通州事件後に撮影されて日本の新聞などで報じられた写真のなかには、保安隊らに殺害された人々の遺体を撮影したものもありました。
出典:https://commons.wikimedia.org/
白黒で画質は荒いもののあまりにも残酷なものがふくまれるため、ここで多くの紹介は避けます。
どうしても見たいという方はウィキメディア財団が運営するウィキメディア・コモンズの通州事件のページなどに被害者の遺体の写真などがあげられているので、ご自身で確認してください。
通州事件をなぜ教えないのか?
通州事件が近年の日本で知られるようになったきっかけは、1998年に出版された小林よしのり氏の漫画『新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論』で取り上げられたためと言われています。
この作品で通州事件を知った人からは、「やはり中国人は残酷で話が通じない奴らだ」「南京大虐殺は通州事件をもとに中国が作ったでっちあげだ」といった声も多く上がったそうです。
そして、なぜ学校でこのような大切な事件を教えないのか、そこまで中国におもねる必要があるのかといった批判もありました。
ただ、現在では中国の研究者の中でも、残っている資料から正しく通州事件を知るべきだという動きも出ているといいます。
『増補新版 通州事件』を上梓した愛知学院大学の広中一成准教授は、通州事件を知ることは日本人にとって大切なことだとしながらも、日中戦争時のように反中を煽るプロパガンダに使うべきではないと警鐘を鳴らしています。
「中国人は残虐」だと言い立てるがための議論、南京大虐殺に言及された時に言い返すためのカードが必要、そうした目的から通州事件を取り扱おうとすることは問題です。
通州事件のみならず、日本では近現代史を学校の授業で教えず、戦争についても駆け足で教えて終わりです。
ですから、一部のネット右翼の人々が主張するように「中国に圧力をかけられて通州事件を教えない」というわけではないのでしょう。
広中准教授は日本での近現代史の扱いについて以下のようにも述べていました。
一方で、戦後日本における近代中国史研究は、戦争での加害意識が強すぎたためか、中国共産党の主張をあまりに無批判に取り入れすぎたという課題もあります。
実際に起きた痛ましい事件をプロバガンダに使うのは間違っているし、中国の国土を荒らしてしまった敗戦国という意識から、自国民が受けた被害を黙認するというのも違う。しかし、蓋をしていた時間が長すぎて、正しい歴史を教えることが非常に難しい。
そのために、通州事件を学校の教科書に載せることも、授業で取り上げることもできないのかもしれません。
通州事件についてのまとめ
今回は1937年に、日中の非武装地域・通州で発生した通州事件について紹介しました。
通州事件は日本で起きたことではないうえ、現地にいた日本人の大多数が殺害されていることから、全容を把握するためには中国側の協力が不可欠とされています。
今回紹介した通州事件の詳細も、現在の時点で日本に伝わっていることなので、もしかしたら後の研究で修正される点もあるかもしれません。
無碍に殺害された被害者の方々のためにも、日本と中国が協力し合って正しい歴史を確認し、語り継いでいかなければいけません。