群馬と新潟の県境に位置する谷川岳は、日本の百名山の一つでありながら「世界一事故が多いやばい山」「魔の山」としても知られます。
この記事では谷川岳の地図や行き方、死者が多い理由や宙づり事件や二重遭難事故が起きた場所について紹介していきます。
この記事の目次
谷川岳の概要【世界一死者の多いやばい山】
谷川岳(たにがわだけ)は、群馬県利根郡みなかみ町と新潟県南魚沼郡湯沢町にまたがる標高1,977mの山で、日本百名山の一つとして知られます。
「薬師岳」と呼ばれるトマの耳と「谷川富士」と呼ばれるオキの耳の2つの峰があり、標高差によって生み出される美しい稜線が特徴です。
紅葉の名所として知られることから登山初心者にも人気が高く、周辺には温泉やキャンプ場などの施設もそろう観光地ですが、一方で危険個所の多さや急変する天候の影響で遭難事故が多発する「危険な山」でもあります。
とくに一般山道から外れた場所にある一ノ倉沢などの岩場は日本三大岩場にも数えられる難所で、周辺で遭難事故や死亡事故が多発することで有名です。
上越線が開通した1931年から2012年に至るまでの間に合計805名の死者が出たとされ、谷川岳は「世界一死亡事故が多い危険な山」としてギネス認定もされています。
この数はエベレストやK2など世界中にある8000m峰14座での合計死者数よりも多く、いかに谷川岳の持つ記録が恐ろしいものかが窺えます。
そのために谷川岳は「魔の山」「死の山」との呼び名も持ち、群馬県は山岳事故防止のために「群馬県谷川岳遭難防止条例」も設けています。
山岳信仰の聖地としても知られる
出典:http://chrono2016.blog.fc2.com/
谷川岳は富士(浅間)信仰の聖地で、山頂には江戸時代に建立されたという富士浅間神社があります。
ほかにも登拝する修験者が懺悔したという「ザンゲ岩」などの修行場跡が山中には数多く残されています。
谷川岳の行き方と地図
谷川岳へは谷川岳ロープウェイの天神平駅から向かうのが一般的です。ロープウェイ乗り場である土合口駅の最寄りは上越新幹線の上毛高原駅か、上越線の土合駅となっており、上毛高原駅や水上駅からはバスが出ています。
車で向かう場合には関越自動車道を水上インターチェンジで降り、国道291号線を谷川岳方面へ14㎞ほど走ると土合口駅に到着します。
谷川岳で死者が多い理由・事故が多い場所
死者が多く出るからと言って、谷川岳が世界の8000m峰よりも難度の高い山というわけではありません。谷川岳で死者が多く出る理由は複数あります。
ここでは谷川岳で遭難事故や死亡事故が多く発生する理由について説明していきます。
①登山者の準備不足
谷川岳山頂に向かうにはいくつかルートがあり、もっとも初心者向けとされているのが1960年に開業したロープウェイを使って麓の土合口駅から天神平に向かう方法です。
天神平からはリフトで天神峠へ移動し、そこから尾根づたいに登っていけば山頂に到着します。この「天神尾根ルート」であれば往復5時間程度で登頂が可能です。
ただ、初心者向けのこのルートでも急所が続く箇所があり、さらに気候が激変するおそれもあるため、きちんと山歩きの装備をしてから挑むことが必要です。
ところが「初心者でも日帰りで登頂できる」「ロープウェイがある」といった情報を鵜呑みにしたり、比較的アクセスが便利にあることから登山初心者が軽装で入山してしまうことがあり、これが谷川岳で事故が発生する原因になっていると指摘されています。
②日本三大急登
谷川岳山頂に向かうルートのなかには、日本三大急登に選ばれている「西黒尾根ルート」があります。
このルートには隙間を登るような急な岩場や鎖場が連続してあり、転倒やスリップ事故が起こりやすいとされています。
登山に慣れている人にとってはそれほど難度は高くないと言われていますが、初心者が天神尾根ルートと同じ感覚で挑むと事故が起こりやすく、2023年にも下記のような遭難事故が発生しました。
群馬県みなかみ町湯檜曽の谷川岳(標高1977メートル)の山頂から東に約700メートルの西黒尾根の山道で、登山中だった男性(26)から4人パーティーで遭難したとの119番があった。同9時10分ごろ、県警航空隊が4人を発見し、ヘリコプターで救助した。いずれもけがはなかった。
③天候の変化と雪渓の危険
谷川岳は日本海側と太平洋側を隔てる場所に位置しており、夏には熊谷や館林を通った熱く湿った風が上昇気流となる影響で、突発的な豪雨や雷雨に見舞われることがあります。
また、冬には日本海を渡ってきた冷たい風が空っ風として吹き下ろしてくる影響で、急な強風や吹雪に見舞われることがあります。
このように地理的に天候の急激な変化が起こりやすい場所にあることから、谷川岳では遭難はもちろんのこと凍傷や低体温症なども発症しやすいのです。
さらに雪渓が美しい時期には気温の変化によって雪崩が起きやすく、事故が発生する危険がいっそう増します。
群馬県も雪渓の時期の登山については注意勧告をしているのですが、入山する人が後を絶たず、頻繁に滑落事故や遭難事故が報じられています。
④一ノ倉岳と一ノ倉沢
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谷川岳のなかでもっとも多くの死者を出しているのが、一般的な登山ルートから外れた場所にある「一ノ倉岳」と「一ノ倉沢」です。
一ノ倉岳と一ノ倉沢周辺の岩場はロッククライミングの聖地と呼ばれる場所で、剱岳(富山県)、穂高岳(長野県および岐阜県)とともに、日本三大岩場の一つに数えられています。
1931年から1966年までの間にこの岩場に挑戦して事故死した人の数は、なんと455人にものぼり、ここでの多すぎる死亡事故が、群馬県谷川岳遭難防止条例が制定される原因にもなりました。
条例が施行されてからは一ノ倉岳と一ノ倉沢周辺を含む事故が多発するエリアに入るには、登山届や登山計画書の提出が義務付けられ、死者数や怪我人は減少傾向にあります。
谷川岳で発生した事件・事故① 谷川岳宙吊り遺体収容事件
1960年9月18日、谷川岳に入山した横浜の「蝸牛山岳会」というサークルに所属する20代の男性2人(20歳と23歳)が、一ノ倉沢で遭難するという事故が起こりました。
2人は一ノ倉沢にある、通称「衝立山」と呼ばれるほぼ垂直の絶壁に挑戦するために入山したとされます。
この衝立山は当時、登攀に成功した人が1人しかいなかったという難所で、ロッククライマーにとっては有名な場所でした。
遭難した男性たちも果敢に挑戦しましたが、登攀中に足を踏み外したのか、岩壁の上部から約200mの地点でそれぞれクライミングロープで宙釣りの状態になってしまいます。
宙吊りの状態で「助けてくれ!」と救助を求め、これに気づいた登山客が群馬県警察谷川岳警備隊に通報したことから、9月19日の時点で遭難が確認されましたが、いかんせん警備隊ですら登れないほどの絶壁であったことから救助する手立てがありません。
また、警備隊が駆けつけた時には2人ともすでに死亡していたため、二次被害を出さないように安全に遺体収容を行なうのが第一だという方針が取られます。
当初は2人が所属していた蝸牛山岳会のメンバー11名が現場に駆けつけ、長い鉄の棒に巻いた布にオイルを染み込ませ、それに点火したものを使ってロープを焼き切ったらどうか、という提案がされました。
しかし、岩壁上部からロープが離れていたこと、無理に挑戦しようとすると落下してしまう危険性があることから断念。
こうして対策会議が開かれた結果、自衛隊が出動して2人を宙吊りにしているロープを狙撃して、遺体を収容するという案が採用されることとなったのです。
遺体発見から3日が経過した9月22日、山岳会代表者と遺族代表は連名で群馬県沼田警察署長へ「自衛隊出動要請書」を提出し、同日中に群馬県警は自衛隊に出動を要請。自衛隊もこの日の夜には出動を決定します。
そして9月23日に自衛隊が現地に到着し、付近に立入禁止措置をしたうえで24日に遺体を吊っていたロープへの狙撃が行われました。
ところが銃撃可能な場所からロープまでは140mの距離があり、射撃特級の腕を持つ自衛隊員をもってしても、遺体を傷つけずにロープだけを狙うのは至難の業でした。
結局、2時間の間に15名の自衛官が1,000発以上の弾丸を撃ったにもかかわらずロープを切ることはできず、狙撃開始から4時間以上かかって、ようやくロープの切断に成功します。
山岳会のメンバーも協力して無事に遺体は収容できましたが、自衛隊が消費した銃弾の数はなんと1,300発以上にものぼり、この様子は現地にいたマスコミによって報じられ、2人の遺体が岩壁を滑り落ちていく写真は「史上稀に見る痛ましい遺体収容」として話題になりました。
同様の事件が起きる
前述の事故が発生した約6年後の1966年5月28日、またしても同じような宙釣り事故が谷川岳で起きてしまいます。
今度の遭難者はやはり20代の予備校生と大学生の2人で、彼らも救助される前に死亡。なお、予備校生の方の死因は、宙吊りにされたことでロープが胸部を強く締め上げたためと発表されていました。
その後、時間はかかったものの2人の遺体はなんとか回収されましたが、今度は1973年に登山客の男性が衝立岩付近で人骨を発見し、騒動になります。
白骨化した遺体が身に着けていた衣服からは十銭硬貨が発見され、鑑定の結果、遺体は1943年に谷川岳で遭難して行方不明になっていた男性のものと断定。
どのような事故に遭ったのかは不明ですが、遺体は険しい岩陰に隠れたまま発見されず、ひっそりと白骨化していったものと見られています。
谷川岳で発生した事件・事故② 二重遭難事故
1967年1月、群馬県警の入山禁止勧告を無視して谷川岳に向かった登山客3人が遭難し、彼らを助けに向かった救助隊5人が死亡するという痛ましい事故がおこりました。
この事故の被害者たちが入山を予定していた1966年の年末から1967年の年初にかけて、谷川岳周辺では猛吹雪が予想されていました。
そのため警察のみならず群馬県知事も谷川岳に近づかないように呼びかけていたのですが、強制力のない勧告であったためにこれを無視して入山した登山客の数は200名にものぼったとされます。
1月1日早々に一ノ倉沢にやってきた一行は、小雨が降るなか一ノ沢を登って東尾根に到着。東尾根のシンセンのコルにたどり着く頃には雨は雪に変わっていました。
天候の変化も気にせずに3人が山頂を目指して進んでいくと、上から引き返してきた2組のパーティとすれ違います。彼らは「上の方はガズが濃くて前が見えないほどだ。危なくていけない。引き返したほうがいいよ」と3人にアドバイスをしてきました。
ここで素直に言うことを聞いて下山すればよかったのですが、3人はなおも先に進み、1日の夜は東尾根でビバークすることに。翌日2日は朝から吹雪が発生していたのですが、3人はなおも前進します。
そしてしばらく進んだところで、新雪に足を取られるなどしたことからやっと「これ以上の登攀は無理だ。下山しよう」と決意したものの、視界が悪すぎて下山さえままならずに道に迷ってしまったのです。
そこで3人は、とりあえず現地でビバークして天候が回復してから下山することにします。しかし、その翌日の3日も、さらに翌日の4日も天候は回復せず、吹雪はいっそう激しくなっていきました。
仕方なく3人は、同じ場所でビバークし続けることにしました。
救助隊が入山
その頃、3人が所属していた山岳部のメンバーたちは1月3日には下山すると言っていたにもかかわらず、戻ってこない彼らのことが話題になっていました。
そして、遭難したのではないかという心配から救助隊を結成。4日の朝に谷川岳に入山しますが、あまりに吹雪がひどかったことから一ノ倉沢まで来たところで引き返すことにします。
救助隊は翌日の5日も3人を探して入山しますが、やはり視界が悪すぎて先に進めずに捜索を断念。一方その頃、東尾根でビバークしていた3人は凍傷や低体温症に苦しめられ、食糧もつきかけていました。
自分たちでは3人を探すのは不可能だと考えた山岳部のメンバーは、群馬県系の谷川岳警備隊や地元の登山家に助けを求めます。
そこで地元の登山家から「東尾根で遭難している可能性が高いのなら、一ノ倉沢からではなく天神平スキー場から山頂に向かって、そこから東尾根に下っていったほうがいい」というアドバイスをもらいました。
救助に向かった5人が死亡
1月6日、やっと吹雪がやんで晴れ間がのぞいたことから遭難していた3人はテントを出て下山を試みます。しかし、そのうちの1人がまったく動けなかったことから自力での下山は断念し、救助を待つことにしました。
救助隊もこの日のうちに山頂に到着し、7日から東尾根を下って3人を捜索する予定でいました。
そして1月7日、ついに救助隊が遭難していた3人のテントを発見。3人もテントの外に出て救助隊の到着を喜びました。が、これでめでたしめでたしとはいきませんでした。
テントから200mのところに雪によってナイフリッジができており、救助隊はこれを越すことができずに立ち往生してしまうのです。
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結局、救助隊は3人を目の前にしていったん引き返して対策を考えることにします。ところが、この翌日の8日には安定していた天気が再び崩れ始め、またしても谷川岳は吹雪に包まれてしまうのでした。
3人がいる場所はわかっていても手を出せないことから、救助の指揮は山岳部から谷川岳を知り尽くした地元の登山家たちに移ることになります。
そして東尾根周辺の複数の山小屋に人員が配置され、天候が回復次第、さまざまな方向から救助に向かえるように準備がされたのです。
しかし、9日になっても吹雪は激しさを増す一方で、山小屋に配備された登山家たちの安全も危ぶまれるような状況に。
7日にあと一歩というところまで3人に近づいていながら、救助できなかった山岳部の仲間は「自分があの時に助けてれば」と、罪悪感にさいなまれるようになってしまいます。
そして3人の救助に向かおうと独断で吹雪のなか谷川岳に入山してしまうのです。
ところが「朝になったら東尾根に向かおう」とマチガ沢でビバークしていた彼らに、悲劇が襲いかかります。
1月10日の深夜にマチガ沢付近で巨大な雪崩が発生し、テントごと救助に来ていた山岳部のメンバー5人を飲み込んでしまったのです。雪崩に襲われた5人は、そのまま亡くなってしまいました。
救助
その後も吹雪はやまず、10日のうちに遭難していた3人のうち1人はテントの中で死亡。残る2人も死を覚悟していました。
しかし11日の朝、ヘリコプターが近づいてくる音が聞こえたために1人が力を振り絞ってテントの外に出てみると、ヘリコプターに乗っていた朝日新聞の記者がそれに気づいてくれるという奇跡が起こります。
記者は対策本部に救助を申し出て、「可能ならばロープを使って生存者をヘリでピックアップする」という許可を群馬県警に取り付けました。
そして11日、生存していた2人が朝日新聞のヘリコプターに助けられて命を繋いだのです。
助かった彼らを待っていたのは、社会からの激しい非難でした。知事や警察の静止を無視して悪天候の谷川岳に入山し、救助に向かった5人もの人が亡くなったことは世間の怒りを買い、「無責任な登山者には刑事責任を問えるようにするべき」との議論までされました。
谷川岳で発生した事件・事故③ 警官2名遭難・死亡事故
2021年にも、谷川岳に入った当時43歳の警察官と、52歳の女性警官が遭難・死亡するという事故が起きています。
彼らは5月2日に日帰りの予定で谷川岳に入山していました。しかし、この日の14時頃には女性警官から群馬県警沼田署へ「天神尾根の天狗の留まり場から滑落して動けない。助けてほしい」という連絡が入ります。
この時にはすでに同行していた男性警官とははぐれていたそうで、これを最後に彼女と電話も繋がらなくなりました。
その後、自宅で帰りを待っていた女性警官の夫のもとに沼田署から「奥さんが谷川岳で事故にあって遭難した様子です」と連絡が入り、夫も谷川岳に向かいます。
さて、女性警官から救助要請があった2日以降、沼田署も彼女を探しに入山していましたが、2日の夕方には雪が降り始め、3日も悪天候が続いたために思うように捜索できずにいました。
4日になってようやく天候が回復したことから本格的な捜索活動が行われ、この日の午後に天狗の留まり場から約250m下の地点で男性警官の遺体が発見されます。彼もまた、天狗の留まり場から滑落して亡くなっていたのです。
こうなると女性警官の安否も危ぶまれます。しかし、5日、6日と捜索をしても彼女は見つかりません。
彼女の遺体は天狗の留まり場の下にある岩壁と雪渓の間にはまり込んでしまったのではないかと見られ、夏に雪が溶けるまでは見つからないのではないかと結論付けられ、雪解けまで持ち越されることとなります。しかし女性警官の遺体は夏の捜索でも発見されませんでした。
そうして遭難から半年が過ぎた11月7日、谷川岳に登山に訪れていた男性が偶然、一部白骨化した遺体を発見。警察が身元を確認したところ、遺体の主は遭難したきり行方がわからなかった女性警官のものと明らかになりました。
女性警官の遺体は天狗の保まり場から南に140mほどの場所にある、斜面で発見されたとのことです。
亡くなった2人は5年程度の登山歴があり、1〜2ヶ月に一度の頻度で登山をしていたといい、谷川岳に挑む際にもきちんと準備をしていました。それでも、このような悲劇が起きてしまったのです。
谷川岳【世界一死者の多い死の山】についてのまとめ
今回は世界一多くの死者を出す「魔の山」として知られる谷川岳について、死亡事故や遭難事故が多い理由や実際に起きた事件・事故をふくめて紹介しました。
谷川岳はとりわけて危険な山というわけではなく、都心からも近い場所にあり、初心者でも挑戦しやすい山とされいるために事故が多いことがわかりました。
谷川岳に限らず、登山をする際には事前に十分な情報収集を行い、登山計画を立てることが大切だといえます。