克美しげるは1960年代に活躍した歌手で、芸能活動中に殺人事件を起こした人物として有名です。この記事では克美しげるについて愛人・岡田裕子さんを殺害した動機や結婚歴、嫁との間に息子、娘など子供はいるのか、本人の死因や現在を含めて紹介します。
この記事の目次
克美しげるのプロフィール
克美しげるは1961年から1976年にかけて活動したロカビリー・アニメソング歌手で、代表曲に『さすらい』やアニメ『エイトマン』の主題歌などがあります。
1960年に行われたNHKのオーディションに合格したことを機に出身地の宮崎から上京し、その後、ジャズ喫茶のステージを見た東芝レコードのディレクターからスカウトされてレコードデビュー。
デビュー曲の『霧の中のジョニー』はジョン・レイトンの同名曲の日本語カバーで、40万枚を超えるヒットとなり、以降は紅白歌合戦に出場するなど順調な歌手生活を送ります。
しかし1970年代に入ると人気が低迷しはじめ、借金を抱えることに。生活に窮した克美しげるは、当時交際していた愛人のホステス・岡田裕子(ひろこ)さんに貢いでもらったお金を返済にあてていました。
ところが芸能界で再起できるチャンスが巡ってくると、岡田裕子さんのことが邪魔になります。そして、献身的に尽くしてくれた岡田裕子さんを殺害してしまったのです。
再起をかけてリリースした曲が注目を集め始めていたところで殺人が発覚し、逮捕に至ったことから克美しげるは「殺人犯となった紅白歌手」として知られます。克美しげるのプロフィールは以下のとおりです。
・本名…津村 誠也(つむら せいや)
・生年月日…1937年12月25日
・没年月日…2013年2月27日(75歳没)
・出身地…日本宮崎県宮崎市
・活動期間…1961年〜1976年
克美しげるの生い立ち
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克美しげるは材木屋を経営する裕福な両親のもとに生まれました。歌の道に入ったきっかけは、クリスチャン系の中学で聖歌隊のメンバーの入った際に、顧問から評価されてソロパートを与えられたことだったといいます。
高校は宮崎県立宮崎大宮高等学校へ進学しますが、この頃から家業の材木屋の経営が傾き始めたそうです。そのため克美しげるも特技のギターで家計を支えようと考え、バンドを結成してクラブのステージに立つようになりました。
その結果、学業が疎かになって学校からもバンド活動を辞めるように注意されたといいます。しかし、周囲から反対をよそにますます音楽にのめり込んでいきました。
当時、ロカビリーブームが起きていたことから音楽で身を立てたいと思った克美しげるは、ブームに乗り遅れたくないとばかりに上京を決意。家出同然に宮崎を飛び出し、まずは汽車で大阪へ向かいました。
そして大阪で『黒い花びら』で第1回日本レコード大賞を受賞したロカビリー歌手の水原弘さんのステージを見て付き人に志願し、直談判して雇われたためにそのまま神戸に移り住んだとされます。
その後はバンド「マウンテン・ボーイズ」のボーカルを務めながら技術を磨き、1961年にデビューを果たしました。なお、この頃に克美しげるは高校時代から交際していた恋人と1度目の結婚をしています。
克美しげるの起こした愛人・岡田裕子さん殺害事件
デビュー後の克美しげるの芸能生活は、まさに順風満帆でした。1964年にリリースした『さすらい』は60万枚を売りあげるヒット曲となり、64年、65年と紅白歌合戦に出場することとなります。
さらに1965年にはNHKで放送された時代劇『人形佐七捕物帳』にもレギュラー出演。また、同年には渡米してにフランク・シナトラやサミー・ディビス・ジュニア、ディーン・マーチンらに会い、ビーチボーイズのアルバムにも片言の英語で歌った『霧の中のジョニー』が収録されるなどしました。
ところが1971年頃になると、フォークやニューミュージックの台頭もあってか人気に陰りが見え始めるようになります。
収入も激減したといい、この頃には2人目の妻と結婚をして子供も誕生していたうえ、10名ものバンドメンバーを雇っていた克美しげるは金策に行き詰まるように。
焦りからなんとか仕事をもらおうと芸能関係者を食事会に招くなどして接待しますが、そのせいで1000万円もの借金を負うことになってしまいます。
岡田裕子さんとの出会い
この借金を本人に代わって返済していたのが、愛人であった岡田裕子さんでした。
裕子さんとの出会いは1972年2月のことだったといい、知人のサパークラブ経営者から紹介されたことがきっかけだったそうです。なお、当時の裕子さんはこのサパークラブ経営者の男性と交際していたとのことで、克美しげると親密になったことから男性と別れたといいます。
裕子さんと不倫関係になってからは月曜日から金曜日は愛人宅、週末だけは妻子のもとへ戻る生活するようになった克美しげる。
こうして妻に家計を任せながら愛人に借金を返済させるという二重生活を送るなか、歌手として返り咲くチャンスが舞い込んできます。
当時、克美しげるを最初に見出してた東芝レコードでは人気が低迷した元スター歌手を再起させる「3000万円作戦」というキャンペーンを展開していました。
このキャンペーンの第1段歌手に選ばれたのが克美しげるの師匠であった水原弘で、克美本人も段3段歌手としてバックアップしてもらう流れになったのです。
こうして1975年には新曲『傷』をリリース。芸名も「克美茂」に改めました。
愛人の存在が邪魔に…
しかし、再起に向けて動き始めた克美しげるには悩みがありました。愛人の岡田裕子さんの存在です。
レコード会社から「大掛かりなキャンペーンだから、身辺整理をしておくように」と言われていたため、裕子さんと早く別れなければと焦るようになっていたのです。
この頃、裕子さんは克美しげるが出演する番組の客席などに現れるようになり、スタッフのなかでも彼女の存在が噂になっていたといいます。
「熱心なファンだ」と、なんとか誤魔化していましたが関係がバレるのも時間の問題だと考えた克美しげるは、自然消滅を狙ったのか六本木の裕子さんのマンションを出て、妻子のもとで生活するようになり、裕子さんとは距離を置くようになっていきました。
岡田裕子さん殺害
そんな折、起死回生をかけてリリースした新曲『おもいやり』が有線放送で話題になり始めていたことから、克美しげるは1976年5月6日から北海道にキャンペーンに出かけることになります。
裕子さんに北海道までついて来られたら困ると考えた克美しげるは、出発当日の未明に彼女のもとを訪れ、「北海道には1人で行く」と説明。
これに激昂した裕子さんから「今から奥さんのところに行って、私との関係を洗いざらい全部話してやる!」と言われ、逆上して彼女の首を絞めて殺害してしまったのです。
その後は出発まで時間が迫っていたため、遺体はとりあえず車のトランク(知人に借りていたトヨタセリカ。なお、克美しげるは無免許であった)に詰めて羽田空港に向かい、そのままキャンペーン先の旭川へと飛び立ちました。
しかし、5月8日には羽田空港の駐車場に停めていた車のトランクから裕子さんの遺体が発見され、車の所有者であった克美しげるが逮捕されるに至ったのでした。
克美しげるが岡田裕子さんを殺害した動機
銀座のクラブの人気ホステスであった裕子さんは、毎月30万円も克美しげるに貢いでいたといいます。
当時の30万円は、現在の貨幣価値に換算すると100万円に相当します。裕子さんは「妻とは別れる」という克美しげるの嘘を信じて、このような大金を渡していたのです。
しかも克美しげるはさらに貢がせるために、裕子さんをソープ嬢として働かせていました。愛人にここまでさせておきながら、克美しげるには離婚するつもりはまったくなかったといいます。
ただの不倫であれば再起後に露見しても、問題にはならなかったかもしれません。しかし、風俗で働かせてお金を搾り取っていたとなれば話は別です。世間からの誹りを免れないでしょう。
しかも克美しげるは裕子さんのみならず、裕子さんの両親のことまで騙していました。
1975年8月には岡山にある裕子さんの実家にまで行き、彼女の両親に「結婚を前提に交際している」と挨拶し、「元妻との離婚が成立しました。ご心配をお掛けしましたが裕子さんを幸せにしたいと思っています」と話していたといいます。
そのうえ9月には上野で結納式まで挙げ、写真撮影までしていました。
ここまでしていれば、裕子さんが「この人は自分と結婚するつもりでいるのだ」と信じ込んでしまっても当然といえます。彼女が一方的に愛人の立場を超えて熱を上げ、結婚を夢見ていたわけではなかったのです。
結婚詐欺と裕子さんから訴えられてもおかしくないような状況だったこと、それを裕子さん本人にバラすと脅されたことが原因で、克美しげるは衝動的に殺人に及んだものとされています。
なお、非道としか思えない克美しげるの所業ですが、同じ芸能人から見たら共感はできないけれど理解はできるといい、歌手の井上ひろしさんは以下のようなコメントをされていました。
「ボクも(克美と)同じですけど、スターの座からだんだん落ちていくと、アセリが生じるんですよね。そういうとき(再起の)チャンスが訪れれば、これはもう万難を排して死にもの狂いになる。なにか障害があれば、それを踏み倒してでもやる。そういう意味では、ボク、こういう事件が起こるのもわかるようなきがするんです」
克美しげるのその後① 裁判と判決
逮捕後、全国の店に並び始めていた『おもいやり』のレコードは自主回収となり、8月23日には東京地方裁判所で克美しげるに懲役10年の実刑判決がくだされました。裁判での克美しげるは起訴事実を認め、反省する様子を見せていたといいます。
ただ、この懲役10年という刑は「軽すぎたのではないか」とも指摘されています。
というのも克美しげるは衝動的に裕子さんを殺害したわけではなく、「北海道についてくると食い下がってくるようなら、殺してしまおう」と犯行を計画したうえで彼女のマンションを訪れていたからです。
犯行当日、裕子さんのマンションに向かう途中で克美しげるはロープや粘着テープといった凶器、遺体を埋めるのに使う予定であったスコップなどを購入していました。
結局は手で首を締めてからタオルを使ってさらに締め上げて殺害に及んだことが確認されていますが、このようなものを準備していたとあれば、犯行は突発的なものとは考えにくいでしょう。
また、克美しげるは裕子さんを殺害した後に彼女の部屋から貴金属やブランド品などを持ち出していたとされ、これらを質入れしたとの話もあります。
克美しげるが裕子さんから詐取した金は3500万円にものぼるとされていますが、それだけでは飽き足らずに亡くなった彼女の持ち物さえ盗んだのです。
このように犯行に計画性があったこと、裕子さん殺害後に窃盗までしていることを考えると、たしかに「懲役10年は温情判決」と言われても仕方ないのかもしれません。
実際に裕子さんの両親はこの判決に納得がいかないとして、1976年9月には民事裁判を起こし、克美しげるは500万円の賠償金の支払いを命じられています。
克美しげるのその後② 3度目の結婚と出所後の贅沢な暮らし
その後、大阪刑務所に収監された克美しげるは模範囚であったことから刑期満了を待たずに7年で仮出所。
出所後は埼玉県大宮市へ引っ越し、スナックのステージで細々と歌手活動をするとともにカラオケ教室を開業しました。
現在でもネット上では「殺人者がやっているカラオケ教室なんて、通いたい人が本当にいたのか?」と疑問視されていますが、不思議なことに克美しげるのカラオケ教室には「元芸能人の指導が受けられる」というミーハー客が多く通っていたそうです。
そして克美しげるは、このカラオケ教室の生徒の中でもっとも若かったシングルマザーの女性と結婚します。これは彼にとって3回目の結婚であり、出所後の生活を支えてくれていた前妻とは離婚していました。
さて、逮捕後の克美しげるには減刑嘆願や刑務所まで面会に来てくれた音楽仲間や芸能関係者がいたといいますが、この再婚によって彼は周囲から愛想を尽かされてしまいます。
出所後は真面目に生きると信じて支援してきたのに、生活も安定しないままに再婚をしたこと、さらに起こした事件の内容が内容だったにもかかわらず、仮出所中に再婚をするという無神経さに嫌気が差したのでしょう。
しかし、周囲から呆れられても態度を改めるどころか克美しげるは派手な生活をおくるようになります。
当時、克美しげるのカラオケ教室の月謝は5000円で生徒は30人程度だったそうで、単純計算で月謝の収入は15万円ほどでした。
にもかかわらず、カラオケ教室と自宅マンションの家賃だけで36万5000円もの支払いを毎月抱え、おまけに中古のベンツを乗り回し、集合住宅で飼うのは憚られるであろう大きさの犬(シベリアンハスキー)を飼育していたといいます。
こうした贅沢な暮らしをするために、克美しげるはスナックなどでディナーショーを開いては、刑務所での苦労話や裕子さん殺害に至るまでの裏話などを披露して、客からおひねりをもらっていたそうです。
自業自得の犯罪者の話にお金を払う人などいるのだろうか、と疑問に思う方もいるでしょう。当時の芸能関係者の話によると、克美しげるというのは表面上は非常に腰が低い人物だったようです。
そのため、ディナーショーで苦労話を聞かされると同情的になる高齢の客も少なくありませんでした。彼らは割り箸に1万円札を挟んだものをおひねりとして次々に手渡しては、克美しげるに「頑張れ」とエールを送っていたのだといいます。
このおひねりも含めて克美しげるは1度のディナーショーで10〜15万円を稼いでいました。つまり、自分が起こした殺人事件をネタに金を荒稼ぎして再婚相手と贅沢三昧な暮らしをしていたのです。
克美しげるのその後③ 覚醒剤使用で再び逮捕される
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そんななか、克美しげるはまたしても逮捕されることとなります。カラオケ教室に置いてあったバッグの中から覚醒剤約221グラムと注射器一本が発見され、覚醒剤取締法違反で現行犯逮捕されたのです。1989年5月11日のことでした。
1988年の11月にこのカラオケ教室に出入りしていた男性が覚醒剤所持および使用の容疑で逮捕されており、克美しげるも警察にマークされていたのです。
逮捕後、熊谷署で取り調べを受けた克美しげるの腕には覚醒剤を打ったとおぼしき注射跡がありました。言い逃れのできない証拠が揃ったのです。
こうして最終的に7月5日に裁判で懲役10ヶ月の有罪判決を受け、克美しげるは再び刑務所に戻ることになったのでした。そしてこの騒動のなか、3人目の妻とは離婚することになります。
なお、覚醒剤を使用した理由について本人は「身体がだるかった」「毎年5月になると過去の殺人事件を思い出してしまい、辛くて覚醒剤に手を出してしまった」と述べていました。
しかし、本当に裕子さんに悪いと思っていたらディナーショーで荒稼ぎなどするのでしょうか。この供述には疑問が残ります。
克美しげるのその後④ 4度目の結婚とテレビ出演
1990年に刑期満了を待たずに8ヶ月の服役で府中刑務所を出所した後、克美しげるは埼玉県の西川口で再度カラオケ教室を開業しました。
そこで出会ったのが4人目の妻です。彼女は歌手・克美しげるの大ファンだったといいます。再婚時の克美しげるが58歳だったのに対して4人目の妻は27歳、なんと32歳もの年の差婚でした。
しかし、結婚からしばらくすると脳梗塞を患い、後遺症の言語障害と顔面まひ、さらに大動脈瘤解離など病気に苦しむようになり、群馬県館林市にある妻の実家に引っ越しすことになります。
2000年代に入ると体調が安定したため、テレビ神奈川の「かっぱちゃんの歌謡スタジオ101」などTV番組にも出演しはじめます。
なかでも2003年1月30日に放送された『超豪華!!あの人は今!新春紅白夢の歌合戦』では「リトマン」の主題歌を歌い、40年ぶりにテレビで歌声を披露しました。
ただ、これに対しては視聴者からクレームが殺到したといい、司会を務めた安住紳一郎さんが普段の温厚な様子とは打って変わった険しい顔つきで進行をしていたことも話題になりました。
克美しげるの死因
2回めの出所後も歌手として活動することに意欲を見せていたという克美しげるですが、2013年2月27日には栃木県佐野市の病院で妻に看取られながら他界したことが報じられています。享年75歳。
死因は脳出血で、公の場に出たのは2008年12月に館林市内で行なったコンサートが最後でしたが、晩年も「車椅子になっても歌い続けたい」と語っていたそうです。
葬儀は近親者のみでひっそりと行われたといい、死亡が報じられたのも2013年の10月になってからでした。
克美しげるの子供は娘?息子?嫁や子供は現在はどうしている?
克美しげるには2人目の妻との間に娘が生まれていたことが判明しています。また、3人目の妻との間には妻の連れ子(性別不明)が2人いたそうです。
克美しげるは2人目の妻との離婚をしぶった理由について「娘が可愛かったから離婚は考えられなかった」と供述していたそうですが、結局、出所後も地に足をつけた生活をしなかったためか妻は娘を連れて出ていってしまい、以降は交流があるのかも不明です。
3人目の妻や連れ子についても同様で、離婚後にどのような関係でいるのか、面会交流などしているのかいっさい不明です。
4回も結婚をしているなんてさぞかしモテたのだろうと話題になることも多い克美しげるですが、なんと4回目の結婚の際には妻以外にも複数の女性と関係を持っていたといい、1人1人に「結婚をするから関係を精算したい」と頭を下げていたという話もあります。
このような行動に出たのは、過去に都合のいい不倫関係を続けて裕子さんを殺害してしまったことを悔やんだ結果だったのかもしれません。
克美しげるについてのまとめ
今回は「殺人犯となった紅白歌手」として知られる克美しげるについて、経歴や事件を起こした動機、被害者の岡田裕子さんとの関係、その後や死因をふくめて紹介しました。
芸能界では同情的な声もある様子の克美しげるですが、彼の罪に対して社会の声は厳しく、現在でもネット上では「曲に罪がないのはわかっているが、あんな身勝手な動機で人を殺した人間の歌声を聞きたいとは思えない」「遺族の気持ちを考えると克美しげるがメディアを出すのはどうなのか」といった意見が目立ちました。
2度目の逮捕前はとても反省しているとは見えない様子だった克美しげる。最後には自分の罪に向き合っていたのでしょうか。