日本を代表する冒険家・登山家である植村直己さん。植村直己さんは数々の偉業を成し遂げてきましたが、1984年にマッキンリーで行方不明になっています。
植村直己さんの経歴や生い立ち、家族情報、嫁や子供について、マッキンリー登頂と死亡状況、遺体の発見の有無、最後の日記と遭難の真相、現在をまとめました。
この記事の目次
植村直己はマッキンリーで消えた冒険家・登山家
植村直己
生年月日:1941年2月12日
没年月日:1984年2月13日
出身:兵庫県城崎郡日高町
身長:162cm
体重:60kg
出身大学:明治大学農学部
活動:冒険家・登山家
植村直己さんは、初めてエベレストに登頂成功した登山家です。また、世界初の5大陸最高峰登頂者でもあります。また、登山家だけでなく冒険家としての一面も持ち、犬ぞり単独行で初めて北極点到達に成功しています。
植村直己さんは数々の偉業を成し遂げていましたが、長年目標にしていた南極大陸横断を成し遂げる前に、冬のマッキンリーで登頂後の下山時に行方不明となり、そのまま消息は不明となっています。
植村直己の経歴・登山歴・冒険歴
植村直己さんの登山歴・冒険歴の一覧はこちらです。
・1965年4月23日 :ゴジュンバ・カン(チョ・オユーII峰)登頂(世界初)
・1966年7月:モンブラン単独登頂(ヨーロッパ大陸最高峰)
・1966年10月24日:キリマンジャロ単独登頂(アフリカ大陸最高峰)
・1968年2月5日:アコンカグア単独登頂(南アメリカ大陸最高峰)
・1968年4月20日~6月20日:アマゾン川6,000km単独筏下り
・1970年5月11日:エベレスト登頂(日本人初・世界最高峰)
・1970年8月26日:マッキンリー(現・デナリ)単独初登頂(北アメリカ大陸最高峰)
・1971年1月1日:グランド・ジョラス冬期北壁完登
・1971年8月30日~10月20日:日本列島3,000kmを徒歩で縦断
・1972年9月11日~1973年6月26日:グリーンランド北端でエスキモーと共同生活
・1973年2月4日~4月30日:グリーンランド3,000km犬ぞり単独行
・1974年12月29日~1976年5月8日:北極圏12,000km犬ぞり単独行
・1976年7月:エルブルス登頂 (ヨーロッパ大陸最高峰)
・1978年4月29日:犬ぞり単独行で北極点到達(世界初)
・1978年8月22日:犬ぞり単独行でグリーンランド縦断
・1980年8月13日:アコンカグア冬期第2登
・1984年2月12日:マッキンリー冬期単独登頂(世界初)
1970年にマッキンリーに単独登頂したことで、世界で初めて五大陸最高峰登頂を成功させています。現在のヨーロッパ大陸最高峰はエルブルス(ロシア・5642m)ですが、東西冷戦時はモンブラン(フランスとイタリアの国境・4807.81m)が最高峰とされていました。
世界を放浪
植村直己さんの登山歴・冒険歴を見ていきましょう。植村直己さんは、子供のころから登山・冒険が好きだったわけではありません。明治大学に入学してから登山を始めています。そして、登山・冒険にのめり込んでいくのです。
ヨーロッパの氷河を見たいと思った植村直己さんは、旅費が足りなかったため、まずは生活水準が高いアメリカでヨーロッパの旅費・滞在費を稼ごうと、1964年にロサンゼルスに船で渡ります。
カリフォルニア州のブドウ農園で働きますが、観光ビザで働いていたため移民局に見つかり、国外退去処分となりました。その後はフランスに渡り、スイスとの国境近くのモルジヌで働き、そこを登山の拠点とします。
そして、次のような山に挑戦し、登頂に成功しています。
・1966年:モンブラン登頂(フランス・イタリア国境)
・1966年:マッターホルン登頂(スイス・イタリア国境)
・1966年:レナナ峰登頂(ケニア)
・1966年:キリマンジャロ登頂(タンザニア)
・1967年:グリーンランド滞在
・1968年:エル・プラタ、アコンカグア、無名峰登頂(アンデス山脈・南アメリカ)
・1968年:マッキンリー挑戦(※断念)、サンフォード登頂(アラスカ)
アジア、ヨーロッパ、アフリカ、南アメリカ、グリーンランド、北アメリカ、アラスカと文字通り、世界を飛び回りながら、登山をしていたのです。
世界初の5大陸最高峰登頂者
一度日本に帰国した植村直己さんは、日本山岳会が創立65周年事業として計画していた世界最高峰のエベレスト登山隊に参加することになり、1970年5月11日に松浦輝夫と共に日本人初のエベレスト登頂成功者となりました。
その年の8月26日に、マッキンリーの単独登頂に成功し、アジア・ヨーロッパ、北アメリカ、南アメリカ、アフリカ大陸の最高峰に登頂成功した世界初の5大陸最高峰登頂者となります。
犬ぞり単独行北極圏到達
この頃から、植村直己さんは南極大陸の単独犬ぞり横断と南極大陸最高峰ビンソン・マシフ単独登頂を目指し始めます。
1971年9月からは犬ぞりの操縦技術を学び、極寒の地に体を慣れさせるために、グリーンランド最北端の村のシオラパルクでエスキモーと共同生活を送り始めます。
そして、次のような犬ぞり単独行を成功させました。
・1974~1975年:北極圏12,000km
・1978年:北極点到達
・1978年:グリーンランド縦断
1979年には偉業をたたえられ、イギリスのビクトリア・スポーツ・クラブから「バラー・イン・スポーツ賞」を受賞しています。
冬期エベレストと南極大陸への挑戦
犬ぞりの単独行で北極点到達を成功させた植村直己さんは、次は冬期のエベレスト登頂を計画します。単独登頂は不可能と判断した植村さんは、明治大学登山部OB達と「日本冬期エベレスト隊」を結成します。
1980年12月にエベレスト登攀を開始しましたが、1981年1月に登攀隊員が標高7,100m地点で死亡し、悪天候も伴い、冬期エベレスト登攀は断念しました。
また、南極大陸犬ぞり単独行と南極大陸最高峰の登頂計画も進んでいて、南極大陸にも上陸していましたが、諸事情で断念せざるを得なくなりました。
マッキンリー冬期登頂成功
植村直己さんはまだ南極大陸の横断を諦めていませんでした。また、同時にこの頃から南極大陸横断を達成した後に、野外学校を作る構想を立てていて、候補地の視察をしています。
1984年にはアメリカで南極大陸横断のための支援要請や野外学校の視察を終えた後、アラスカでマッキンリーの冬期単独登頂のために、アラスカに立ち寄ります。
そして、1984年2月12日に世界初のマッキンリー冬期単独登頂に成功します。しかし、下山中に無線交信が途絶え、消息不明となってしまいました。
植村直己の生い立ち
植村直己さんは兵庫県城崎郡国府村(現在の豊岡市)で生まれます。戸籍名は「植村直已」ですが、大学の頃から「已(すでに)」よりも「己(おのれ)」が良いという理由で「直己」を名乗り始めました。
小学校から高校までは地元の学校に通っています。
・国府村立府中中学校
・兵庫県立豊岡高校
高校までは遠足で1074mの蘇武岳に登ったくらいで、特に登山には興味を持っていませんでした。
高校卒業後の1959年4月には、親戚の紹介で豊岡市内の新日本運輸に就職します。入社から1ヶ月後に自分で希望して東京の両国支店に転職し、入社から10ヶ月後の1960年2月には退職して、同年4月には明治大学農学部農産製造学科に入学しました。東京で勝負するなら、学歴は必要であると感じたため、大学に入学したようです。
そして、大学入学後には「都会の喧騒から逃れられるし、友達も作れる」という理由で、山岳部に入部しました。しかし、植村直己さんは当時は登山経験がなかったため、新人歓迎合宿では一番先に動けなくなるという屈辱的な経験をします。
その屈辱から、植村直己さんは独自のトレーニングを積んでいき、山に没頭していくことになります。そして、3年次には4年生の時にはサブリーダーになりました。
植村さんは中学時代から外国に憧れを持っていましたが、友人からマッキンリーの話を聞くなどをしたことで、さらにその思いは強くなります。
卒業前には台湾の新高山(現・玉山)に登るためにビザを申請しますが、ビザは下りずに断念しています。また、学生の方が海外旅行に行くには便利と考え、1964年3月に明治大学農学部卒業して、翌月の4月には明治大学法学部に入学しました。
そして、ヨーロッパで氷河を見るために、大学再入学した翌月の1964年5月にロサンゼルスに旅立つのです。
植村直己の家族
植村直己さんは7人兄弟の末っ子として生まれました。
・母親(植村梅)
・兄4人(すぐ上の兄は植村直己が2歳の時に死去)
・姉2人
・植村直己
父親は農業とわら縄製造業を営んでいて、結構なやり手だったようです。
そのときに周辺の関係者に聞いた話では、「130戸の上郷集落のなかで、植村家は経済的には上の部」ということで一致していた。父の藤治郎さんは働き者であるうえに才覚のある人で、農業をやるかたわら縄の製造を手がけた。
植村直己さんは自分のことを「貧農の四男」と卑下していましたが、裕福な部類でした。そうでないと、当時の7人兄弟で私立大学に入学はできませんよね。
また、植村直己さんのロサンゼルスに行くための船賃や4年5か月ぶりに日本に戻るための航空運賃は、一番上の兄である植村修さんが負担していました。兄弟仲・家族仲は良かったようです。
植村直己の嫁は植村公子
植村直己さんの嫁は公子さんです。公子さんの旧姓は「野崎」になります。2人は1973年に出会い、1974年に結婚しました。
植村直己と公子さんとの馴れ初め・出会い
出典:twitter.com
植村直己さんと公子さんは、1973年7月にとんかつ屋さんで出会いました。植村直己さんはグリーンランドの最北の村でエスキモーと共同生活し、グリーンランド犬ぞり単独行3000kmを達成して帰国した後のことです。
野崎公子さんは板橋で江戸時代から続く豆腐屋の娘でした。そして、2人が出会ったとんかつ屋「奴」は公子さんの友人が経営しているお店で、出会ったとんかつ屋「奴」は、植村直己さんの行きつけのお店だったんです。
そして、そこで公子さんは「グリーンランドから帰ってきた人がいる」と植村さんを紹介されて知り合いました。
植村さんの一目惚れだったようですが、公子さんはあまり良いイメージは持たなかったそうです。
夏の夕暮れだったんですね。えーと、一九七三年の七月です。トンカツ屋さんが始まった時刻に、「公ちゃん、この人さ、このあいだグリーンランドから帰ってきたんだってよ」と紹介してくれた。へえ、と思って見たら、お風呂帰りだったんです。お風呂帰りの艶やかな顔にしては汚かったんですよ。なんだかちびたものを身につけていて。へえ、とか思ってそれだけでした。
植村さんは一目ぼれ。それに対して公子さんは「汚い。ちびたもの着てる。へえ」。かなり温度差があります。
しかし、それから8月に1回、9月に1回と会って距離を縮め、植村さんがとんかつ屋さんに「公ちゃん呼んで」とお願いするようになって、交際がスタートしました。
1974年に結婚
そして、1974年2月に植村直己さんと公子さんは結納を交わします。ここからが植村直己さんらしい展開になります。
結納の翌日にはなんとネパールに旅立ち、結婚式の計画などは全部公子さん任せにしていました。しかも、帰国したのは予定よりも1週間遅れた5月12日。そこからバタバタと日取りを決めて、5月18日に氷川神社で式を挙げました。
仲人は山岳部の先輩である大塚博美さんで、披露宴は赤坂プリンスホテルで行い、新婚旅行は水上温泉に行きました。植村直己さんは最初は結婚式や披露宴は拒否していましたが、山岳部の仲間が説得し、手配したために実現しています。
10年の中で同居は5~6年
2人は1974年に結婚し、植村直己さんが亡くなる1984年まで夫婦でした。結婚生活は10年間ありましたが、植村さんは海外に行っていることが多かったので、一緒に住んでいたのは5~6年しかなかったそうです。
海外にいる間は、植村直己さんは公子さんにたくさんの手紙を送っていて、その手紙は「植村直己妻への手紙」という本にまとめられてます。
植村直己さんは温厚で穏やかな人だったと評されることが多いですが、公子さんには違う一面を見せていたようです。
しかし、公子さんによると、家にいると月に一度ほど、生理みたいに怒りが爆発して、公子さんがその怒りの受けとめ役になってしまうのだった。
植村さんは公子さんを信頼していて、公子さんも植村さんの最大の理解者であったからこそ、怒りをぶつけることができたのでしょう。
植村直己に子供はいない
出典:jiji.com
植村直己さんの妻の公子さんは、植村直己さんの死後に国民栄誉賞を受賞した時に植村さんの代理として公の場に出てきていますし、徹子の部屋に出演したりしています。
そのため、植村公子さんに関する情報は色々出てきます。しかし、植村直己さんの子供に関する情報は一切ありません。
植村直己さんは常に危険な冒険をしている人でしたし、日本にいる時間も短かったので、子供は作らなかったのかもしれません。
植村直己はマッキンリーで死亡
植村直己さんは1984年2月13日に、アラスカのマッキンリーで消息不明になりました。12月にアラスカ州の裁判所で、植村さんの死亡が公式に認定されています。
冬期マッキンリー単独登頂に成功
1984年に1月に、植村直己さんはアメリカに行った帰りにアラスカに立ち寄り、マッキンリーの冬期単独登頂に挑戦しました。
2月1日にベースキャンプを出発し、2月12日午後6時50分にマッキンリーの冬期単独登頂に成功します。これは、世界初の偉業であり、この日は植村直己さんの43歳の誕生日でした。
植村直己さんは登頂の記念にマッキンリーの山頂に、日本国旗を立てて、頂上に3時間滞在してから、午後10時ごろに下山を開始しました。
なぜ、3時間も極寒のマッキンリー山頂に滞在していたのかも、植村直己さんの謎の1つとなっています。
下山中に遭難
2月12日午後6時50分にマッキンリーの冬期単独登頂を成功させた植村直己さんは、下山を開始しました。翌日の2月13日午前11時には、植村さんを取材していたテレビ朝日のチャーター機の軽飛行機と無線交信を行い、「登頂成功・現在地20,000フィート(6096m)」と伝えましたが、通信が途絶えてしまいました。
この時、マッキンリーは標高6190mです。時間的なことを考えると、登頂成功から12時間以上経った時点で100mしか下山できていないのは不自然なので、本当は19,000フィート(5,791m)と伝えたかったけれど、交信がうまくいかずに20,000フィートと言い換えたとも言われています。
その後、植村直己さんは下山しなかったため、捜索が始まりました。デナリ国立公園管理事務所は軽飛行機とヘリコプターで広範囲の捜索を行っています。さらに、日本でも明治大学OBの「炉辺会」が捜索隊を結成して、現地に飛び、捜索を行っています。
・2月16日:標高4900mの雪洞から上半身を出した植村さんらしき人が手を振っているのをパイロットが確認
・2月20日:4200mの雪洞で日記やカメラ、フィルムを発見
・2月25日:4900m地点で植村さんの所持品を発見
・3月6日:5200mの雪洞で植村さんの装備を発見
標高4,900m地点でダークグレーの小さな点を見つけた。この小さな点は人間が手を振っているように見えた。この場所でダークグレーの点を見たのはこの時だけである
ということは、「手を振っていたのは植村さんかどうかはわからない」ですし、「人間かどうかも分からない」ということになります。
しかし、植村さんの姿を発見することはできず、デナリ国立公園管理事務所は2月26日に「生存の可能性は100%ない」として捜索を打ち切り、炉端会も3月8日に捜索を打ち切っています。
4月下旬から5月にかけて、炉辺会が再び捜索を行い、山頂のに植村さんが立てた国旗を回収しましたが、やはり植村さんの姿を発見できませんでした。
植村直己の遺体は発見されず・・・
出典:nippon.com
植村直己さんが消息不明になってから、現地の捜索隊・日本からの捜索隊が植村さんの姿を探しましたが、植村さんの遺体は発見されることはありませんでした。
消息不明になってから27年経った2011年になって、デナリ国立公園のパークレンジャーにアメリカ人の登山家コンラッド・アンカー氏がマッキンリーで遺体を発見したという通報しました。
遺体は雪に埋もれていて、アジアンフェイス。バンブーポール(竹の棒)が傍らにあったという証言から、この遺体は植村直己さんではないか?と現地では噂になりました。植村直己さんはクレバスに落ちないように、竹の棒を横向きで腰に括り付けていて、竹の棒は植村さんのシンボルのようなものだったんです。
この通報を受けて、付近一帯を捜索しましたが、植村直己さんの遺体は発見されませんでした。
植村直己は生きている説も
大規模な捜索にも関わらず、植村直己さんの遺体は発見されなかったことから、「実は植村直己は生きているのでは?」という説があります。
ただ、これはあくまで都市伝説で、植村さんに「生きていて欲しい」という希望から出てきた噂でしょう。遺体が見つかっていない以上、現在も生きている可能性はゼロではありませんが、状況から見て可能性は限りなくゼロに近いと言えます。
植村直己の最後の日記と遭難の真相は?
最後の日記には「何が何でもマッキンレー登るぞ」
出典:mainichi.jp
植村直己さんは捜索隊によって、雪洞から日記が発見されました。その日記の最後は登頂アタックの前日の2月6日で、「何が何でもマッキンレー登るぞ」と書かれていました。
この日記から、マッキンリー冬期単独登頂への強い意志が感じられます。
野口健は疑問を呈する
出典:sankei.com
この植村さんの最後の日記に書かれていた一言、「何が何でもマッキンレー登るぞ」に対して、登山家の野口健さんは疑問を呈しています。
この「何が何でもマッキンレー登るぞ」は、どんな状況でも絶対にマッキンリーに登るという意味になります。これについて、野口健さんは自然を相手にする登山家である植村直己さんが、そんなことを言うのは不自然であると語っています。
自然を相手に、植村さんなら、そんなことするべきではないってよくわかってるはずですよね。だから、その彼がどうしてなのか、と。
「山と渓谷」の編集長も、植村さんについて次にように書いています。
彼は自然を畏怖しながらも、その厳しさと常に対峙(たいじ)していった。
確かに、自然の厳しさを知り、しっかり向きあっていないと、北極点到達やその他の偉業を達成できなかったことでしょう。
そんな植村直己さんがなぜ、「何が何でもマッキンレー」と言っていたのでしょうか?
失敗続きで焦りが生じたか?
出典:mainichi.jp
「何が何でもマッキンレー」と言っていたのは、当時の植村さんに焦りがあったからではないかと言われています。
植村直己さんは1981年に冬期エベレスト登頂を悪天候と隊員の死亡で断念しています。また、1982年には、南極大陸の最高峰登頂と犬ぞり単独3000kmが決まっていて、南極大陸のサンマルチン基地に待機していました。
しかし、フォークランド紛争が起こってしまい、協力を確約していたアルゼンチン軍が協力を撤回し、南極大陸の冒険は断念せざるを得なくなりました。
大きな挑戦を2つも断念せざるを得なくなり、しかもその原因は自分ではどうにもできないものでした。特に、南極大陸の犬ぞりと最高峰登頂は10年以上も目指してきた目標でした。それを戦争で中止しなくてはいけなくなったとなれば、その時の失望は大きなものだったはずです。
ここ数年は断念続きで、大きな偉業を達成できておらず、その原因も「戦争」という納得できないものでした。さらに、失踪時43歳になっていて、体力的な面でのタイムリミットも迫っていたと思われます。
これらの理由から、植村さんは焦っていて「何が何でもマッキンレー」となり、無理をしてでもマッキンリーに登頂しようとしたのかもしれません。
奥様の公子さんは次のように語っています。
……厳冬期のエベレスト、南極のビンソンマシフと失敗が二度続いて彼の中に穴があいたように感じました。その穴の大きさや深さを窺い知ることはできませんでしたが、時折その穴に入り込んでいる彼を見るのは辛いものがあり、失敗は自分自身どうしても許せなかったのでしょう。その果てが厳冬のマッキンリーになり自爆してしまったと哀しく思うのです。
これが植村直己さんの遭難・失踪の真相かもしれません。
植村直己の現在
国民栄誉賞を受賞
出典:jiji.com
植村直己さんは最後に無線通信をした1984年2月13日が命日となっています。そして、植村さんの死後、1984年4月19日には国民栄誉賞を受賞しました。
授賞式には、妻の公子さんと兄の修さんが出席しました。
植村直己冒険館・財団ができる
1985年には植村直己さんが構想していた野外学校『植村直己・帯広野外学校』が北海道帯広市に作られ、妻の公子さんが名誉校長に就任しています。
そのほか、植村記念財団・植村冒険館や植村直己冒険館が作られています。植村直己さんが消息不明になってから40年近く経ちますが、植村直己さんの冒険・生き方は登山家はもちろん日本人、そして世界中の人を惹きつけ続けています。
植村直己のまとめ
植村直己さんのプロフィールや経歴・登山歴・冒険歴、生い立ちや家族、嫁の公子さんとの馴れ初めや結婚、子供について、マッキンリーでの消息不明・死亡と遺体の発見状況、最後の日記と真相、現在をまとめました。
植村直己さんは世界を代表する登山家・冒険家です。マッキンリーの下山中に何があったのか?どこでどのように遭難したのか?いつかわかる日は来るのでしょうか?