大西洋単独横断飛行に初めて成功した女性はアメリア・イアハートです。アメリア・イアハートは世界一周飛行中に太平洋で行方不明になり、いまだに行方不明の謎は解明されていません。
アメリア・イアハートの生涯や名言・家族や結婚、飛行機パイロットとしての記録、行方不明になった時の詳細や死因、真相や日本軍関与説、映画化やソアリンのモデルの噂などをまとめました。
この記事の目次
アメリア・イアハートは消えた女性パイロット
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アメリア・イアハート
生年月日:1897年7月24日
没年月日:1937年7月2日
出身:アメリカのカンザス州アッチソン
活動:パイロット
アメリア・イアハートはアメリカの女性飛行機パイロットです。
アメリア・イアハートは1932年に女性として初めて大西洋単独横断飛行を成功させたことで、一躍人気ものになりました。また、知的でチャーミングで自由でカッコいいイメージの女性だったため、夫の手腕もあってアメリア・イアハートの存在はブランド化され、絶大な人気となりました。
しかし、1937年に赤道上世界一周飛行に挑戦しましたが、太平洋上で行方不明となり、大規模な捜索が行われましたが、現在もその消息や真相・死因はわかっていません。このアメリア・イアハートの行方不明は20世紀最大の謎の1つとなっています。
アメリア・イアハートの生涯
生い立ち・幼少期
1897年にアメリカのカンザス州で生まれました。母方の祖父は元連邦判事で銀行の頭取だったため、裕福な家庭でした。幼少期は祖父母と一緒に暮らし、私立学校に通っていました。
その後、父親の転勤に合わせて、アイオワ州デモインに家族と一緒に引っ越します。そして、10歳の時にアイオワ州のフェアでアメリア・イアハートは初めて飛行機を見ました。しかし、この時はアメリアはあまり飛行機に興味を持ちませんでした。
父親が仕事を転々としたため、それに合わせてアメリアも高校を何度か転校することになります。アメリアが高校を卒業したころ、第一次世界大戦が激化していきました。
1917年にアメリアはクリスマス休暇を利用して、カナダのトロントにいる妹に会いに行った際、戦争で負傷した兵士を目の当たりにします。そのことに衝撃を受けたアメリアは赤十字の看護助手の訓練を受けて、カナダにあるアメリカ陸軍病院で看護助手として働きました。
その後1918年にはスペイン風邪にかかって約1年間の療養生活を送り、1919年には医学を学ぶためにコロンビア大学に進学しました。しかし、両親がカリフォルニアに引っ越すことになったため、アメリアも大学を中退して、カリフォルニアに引っ越しています。
空に魅せられる
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アメリア・イアハートと飛行機との運命の出会いは20歳の頃です。トロントで開催されたカナダ国立展示会の航空見本市で曲芸飛行を見に行ったアメリアは、急降下して自分の近くをかすめて飛んで行った飛行機に魅せられます。
その後、1920年12月28日にアメリア・イアハートは父親と一緒にカリフォルニア州のロングビーチで行われた航空イベントに行きます。そして、この時にアメリアはフライトと飛行レッスンの費用を聞き出し、10分間のフライト(10ドル)を予約します。
さらに、パイロットになるためのレッスンは1000ドルだったので、アメリアは電話会社・トラック運転手・速記・カメラマン・砂利の運搬などの仕事をして、レッスン費用を貯めます。そして、半年後にはアメリアは女性パイロットになることができました。
当時のアメリカには女性パイロットは100人未満しかいなかったと言います。
そして、飛行機熱が高まったアメリア・イアハートは1922年7月24日、自分の25歳の誕生日に2000ドルで飛行機を購入します。この時に購入したアメリアの飛行機は黄色の塗装だったため、「カナリア」と名付けられました。
アメリアは飛行機に乗るための資金を貯めるために、あらゆる仕事をしていていましたが、1922年には女性の世界高度記録(14,000フィート)を更新し、1923年にはグレンデール空港で開催されたエア ロデオのパイロットに選出されました。
しかし、1924年には家族の財政面の問題で、カナリアを売らなければならない状況に陥りました。さらに、両親は離婚し、アメリアは母親と妹と一緒に東海岸のマサチューセッツ州に引っ越すことになり、アメリアは飛行機から距離を置いて、ソーシャルワーカーとして働くことになったのです。
ひょんなことから大西洋横断
飛行機とは関係ない仕事をしていたアメリアでしたが、1928年に人生の大きな転機が訪れます。
鉄鋼王のフレデリック・ゲストの妻がフレンドシップ号という飛行機で大西洋横断を計画していました。本来は自分が乗客になって、「初めて大西洋横断をした女性」になるつもりでしたが、夫に反対されたため、自分が乗ることは諦め、誰か適当な女性乗客がいないかを探していたところでした。
そんな時に、アメリア・イアハートに白羽の矢が立ち、「大西洋を飛んでみたいですか?」と電話で尋ねられます。そして、そのプロジェクトが進行し、1928年6月17日にアメリア・イアハートは女性で初めて飛行機で太平洋を横断したのです。ただこの時はパイロットではなく乗客という扱いでした。
有名パイロット&人気セレブ
大西洋横断を成し遂げ、客船でアメリカに戻ったアメリア・イアハートは、有名セレブになっていました。
アメリア・イアハートの偉業を称えるために、ニューヨークのマンハッタンで紙吹雪が舞う中パレードが行われ、ワシントンDCのホワイトハウスでレセプションが行われました。
有名人になったアメリア・イアハートはスポンサーがたくさん集まったため、これ以降は飛行機のパイロットとして活動していくことになり、1932年には女性パイロット初の大西洋単独横断飛行を成功させました。
赤道上世界一周飛行中に遭難
アメリア・イアハートは1936年から赤道上世界一周飛行を計画し始め、フレッド・ヌーナンをナビゲーターとして、1937年5月21日にアメリカのカリフォルニア州オークランドを出発します。
東回りに飛行を続けましたが、1937年7月2日にニューギニアのラエを出発したアメリア・イアハートは目的地のハウランド島を目指していましたが、そこに到着することなく、消息を絶ちました。
アメリア・イアハートの名言
アメリア・イアハートは名言を多く残した女性としても知られています。アメリア・イアハートの名言の一部をご紹介しましょう。
・一番難しいのは行動する決意、後はただ執念深くやるだけ
・やると決めたら、思い切ってやることよ!ぐずぐずしてたら自分が損するだけじゃない。人生は短いの。さあ、勇気をだして!
・偉大な冒険が目の前に差し出されたら、受け取るしかありません。
・冒険にはそれ自体に価値があります。
・心の平和を与える代償として人生が要求するのは、勇気です。
・他の人ができることを決してしてはいけません。他の人ができないことや、しないことがあるならそれをしなさい。
・いつも考えているのは、たったひとつのこと……何もしないで老け込んでいってしまうことだ。些細なことにとらわれず、どうせ死ぬなら、チャレンジして失敗して死にたい
カッコいい名言ばかりです。アメリア・イアハートの場合、ただ名言を残しただけではなく、それを実行する行動力・強さが魅力ですよね。
アメリア・イアハートの家族
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アメリア・イアハートは祖父母を入れると6人家族で育ちました。
・母方の祖母
・父親
・母親
・アメリア・イアハート
・妹
アメリア・イアハートは母方の祖父が元連邦判事で銀行の頭取だったために、裕福な家庭で育ちます。しかし、問題は父親でした。
母方の祖父母は父親と母親の結婚を反対していましたが、それを押し切る形で結婚しました。しかし、1910年ごろには父親がアルコール依存症であることがわかり、治療とリハビリの日々を送りながら、仕事を転々とすることになりました。
そのために、アメリアは高校を何度も転校することになっています。
アメリア・イアハートはパットナムと結婚
アメリア・イアハートは、1931年にジョージ・パットナムと結婚しました。ジョージ・パットナムは1928年の大西洋横断の時のプロジェクトメンバーで、この準備を進めていく中で親しくなり、2人は結婚しています。
実は2人が出会った当時、アメリアにはサミュエル・チャップマンという婚約者がいました。しかし、アメリアは1928年11月23日に婚約を解消しています。この婚約解消にジョージ・パットナムが関わっていたかどうかは不明です。ただ、大西洋横断後、アメリア・イアハートは一気に有名人になったことが関係しているのかもしれません。
また、ジョージ・パットナムはアメリアと出会った時は既婚者でしたが、1929年に離婚しています。その後、パットナムはアメリアにプロポーズし続け、6回目にしてようやくOKをもらい、結婚することになりました。
ただアメリア・イアハートは結婚する朝に、ジョージ・パットナムに対して次のような手紙を送っています。
「あなたには、もう一度、私が“結婚”というものに肯定的ではないことをお伝えするべきでしょう。この結婚において、私は決してあなたを中世的な倫理感で縛りつけたりしません。ですからあなたも私の自由を奪ったりしないでください。どんなに魅力的な檻でも、閉じ込められることには耐えられない。私は行きたいところへ行き、やりたいことをやりたいのです」
引用:新しい女性像のシンボルアメリア・イアハート | THE RAKE JAPAN | The Modern Voice of Classic Elegance
とてもカッコいいですね。
ただ、ジョージ・パットナムがいて、彼女のブランディングに成功したから、アメリア・イアハートはセレブで有名人、国民的ヒロインになることができたとも言われています。
アメリア・イアハートの飛行機パイロットとしての記録
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アメリア・イアハートの飛行機パイロットとしての記録を見ていきましょう。
・1922年:女性の世界高度記録(14,000フィート)
・1928年:初めて大西洋を飛行した女性
・1931年:100kmの速度記録(500ポンドの貨物)
・1931年:オートジャイロを初めて操縦した女性
・1931年:オートジャイロの高度記録(18,415フィート)
・1931年:初めてオートジャイロでアメリカ横断に成功した女性
・1932年:初めて大西洋横断単独飛行をした女性
・1932年:大西洋を2回飛行した最初の人物
・1932年:初めて海岸から海岸へアメリカ横断飛行を行った女性
・1933年:女性の大陸横断最速記録
・1935年:ハワイのホノルルからカリフォルニアのオークランドまで単独初飛行
・1935年:ロサンゼルスからメキシコシティまで単独初飛行
・1935年:メキシコシティからニュージャージー州のニューアークまでノンストップ単独初飛行
・1937年:カリフォルニア州オークランドからハワイのホノルルまでのスピード記録
・1937年:紅海からカラチまで単独初飛行
アメリア・イアハートは「女性初」の記録だけでなく、人類初の記録も樹立しているんですね。
アメリア・イアハートは世界一周飛行中に行方不明に
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アメリア・イアハートは、1937年7月2日に太平洋上で行方不明になっています。アメリア・イアハートがどこでどのように行方不明になったのかは、いまだにわかっていないのです。
1937年に赤道上を東回りに世界一周
アメリア・イアハートは1936年に世界一周飛行の計画を立て始めました。彼女の計画はほぼ赤道上を飛ぶもので、29,000マイル(47,000km)と最長の計画でした。
この計画に使う飛行機はスポンサーからの資金提供を受け、ロッキード エレクトラ 10Eをより多くの燃料を積めるように改造されていた特注品でした。
また、ナビゲーター(航法士)選びはやや難航しましたが、フレッド・ヌーナンが務めることに決まりました。
1937年5月21日にカリフォルニア州のオークランドを出発して、マイアミに到着します。そこで世界一周飛行の計画を公表し、6月1日にマイアミを出発して、南米、アフリカ、インド、東南アジアと飛行して、6月29日にオーストラリアのダーウィンからニューギニアのラエに到着しました。
ニューギニアのラエを出発
1937年7月2日の午前10時(GMT0:00)にアメリア・イアハートはラエを出発して、ハワイのホノルルから1,900マイル離れたハウランド島に向けて出発しました。ハウランド島はアメリカ領の無人島でしたが、日本の委任統治領に隣接した位置にありました。
ラエからハウランド島までは距離は2,556マイル(4113km)で、予定飛行時間は約18.5時間でした。日付変更線をまたぐので、ハウランド島の時間で7月2日の朝に到着予定となっていました。ガソリンは1,100ガロン積んでいて、このガソリン量だと4,560kmを飛行できる計算でしたので、予定通りに飛行できれば、燃料不足には陥らないはずでした。
アメリア・イアハートたちが出発した時の天候は、時折雨が降って雲が厚かったため、ヌーナンは天測航法が使えず、さらにラジオ時報も受信できないため推測航法も使えない状況でした。
無線はあるが行方不明に
GMT0:00にラエを出発したアメリア・イアハートは、GMT8:00にラエに最後の無線報告を行います。
次に、アメリアが無線で連絡してきたのはGMT19:30です。この時の無線を傍受したのは、アメリカの沿岸警備隊の巡視船イタスカです。イタスカはアメリア達に飛行支援を行うために、ハウランド島周辺で待機していました。
イタスカが傍受した無線は、こちらです。
「イタスカへ。私達はあなたたちの上にいるに違いないが、あなたたちが見えません。燃料は不足しています。あなたたちからの無線通信も聞こえません。高度1,000フィート (300 m)を飛行中」
その1時間後(GMT20:30)に再びイタスカが無線を傍受しました。
「私達は今、157° – 337°線上にいます。6210キロサイクルでこのメッセージを繰り返します。聞き続けてください」
この後も、次のような無線の発信があったとされています。
・「疑問を感じる」
・「南北線上を飛行中」
・「残燃料ではあと30分程度の飛行しか出来ない」
イタスカが最後にアメリア・イアハートの無線を傍受したのがGMT20:30。出発してから20時間30分経過しています。飛行予定時間は18.5時間。すでに2時間もオーバーしています。その1時間前の無線でも燃料不足を訴えていました。
イタスカはハウランド島周辺でアメリア・イアハートからの無線傍受を試みましたが、GMT21:30の時点でアメリア達は不時着したと考え、捜索を開始しました。
大規模な捜索が行われるも発見できず
アメリア・イアハートが行方不明になってから、アメリカ政府は大掛かりな捜索を行っています。
捜索隊はアメリカ海軍、沿岸警備隊、隣接地域を統治している大日本帝国海軍によって組織され、考えうるすべての手段を用いて、アメリア・イアハートとフレッド・ヌーナンの捜索が行われました。
・アメリカ空母「レキシントン」
・レキシントンの艦戴機多数
・戦艦「コロラド」
・「イタスカ」
・日本海軍第十二戦隊(機雷敷設艦沖島、水上機母艦神威、第28駆逐隊)
行方不明になってから17日後の7月19日には日米ともに捜索を打ち切りました。
その後も山本五十六はできるだけ捜索に協力するように指示しましたが、結局アメリア・イアハートとヌーナン、機体等は見つかることはありませんでした。この捜索に、アメリカ政府は400万ドルの費用を使っています。
その後は日米間の緊張が高まり、太平洋戦争が始まったため、捜索や調査などは行われることはありませんでした。
アメリア・イアハートの遺体が発見?死因は不明
アメリア・イアハートの遺体と思われるものが1940年に発見されました。
アメリア・イアハートの目的地だったハウランド島から南南東に650km離れたキリバス領ニクマロロ島(当時はガードナー島という名称)で、1940年に西洋人女性と見られる遺骨が発見されたんです。
この遺骨はフィジーに送られて、イギリス人医師の鑑定を受けました。この場所でなぜか西洋人女性と思われる遺骨が見つかったということは、この遺骨がアメリア・イアハートではないか?と見られていました。
しかし、ここで悲劇が起こります。なぜかこの遺骨は紛失してしまったんです。
1940年の第二次世界大戦中だったことを考えると、仕方がないことなのかもしれません。
この遺骨が紛失していなかったら、現代の技術を用いれば、アメリア・イアハートの遺骨かどうかは分かったかもしれません。
紛失してしまったことで、アメリア・イアハートの行方不明事件は真相がわからないままになってしまったのです。
アメリア・イアハート行方不明の真相①:ニクマロロ島で死亡
アメリア・イアハートはキリバス領ニクマロロ島に漂着して亡くなったのではないか?という説が一番有力になっています。
発見・紛失した遺骨がアメリア・イアハートだったというものです。
この説がアメリア・イアハート行方不明の真相だったら、アメリアの死因は餓死の可能性が高いです。
遺体が発見された
キリバス領のニクマロロ島では、前述のように、1940年に西洋人女性と思われる遺骨が発見されています。
当時の検死では男性の骨と見られていましたが、残されていたデータから数値解析をしたところ、女性で背が高い人の骨と結論付けられたのです。
アメリア・イアハートの身長は170cmですから、この結論に当てはまります。
また、2018年3月に「フォレンジック・アンソロポロジー」誌で、ニクマロロ島で発見された遺骨は99%の確率でアメリア・イアハートのものであると発表されました。
さらに、遺骨のそばには女性ものの靴やヌーナンが使っていた六分儀を入れる箱、イアハートが飛行中に飲んでいたお酒のボトルがあったそうです。
その他証拠を発見
これ以外にも、アメリア・イアハートがニクマロロ島に行きついたという証拠があります。ニクマロロ島には、キャンプした跡がありましたし、女性用のコンパクトのミラーの破片も発見されています。
また、アメリア・イアハートが乗っていた飛行機は燃料を使い果たした状態なら、水面にしばらく浮き続ける計算でした。
さらに、水没状態では作動しないはずの救難信号が行方不明になってから3昼夜聞かれたことなどから、墜落・水没したのではなく、ニクマロロ島の近くに不時着して、アメリア達はニクマロロ島に避難したのではないかと推測されているんです。
近くで飛行機発見
2012年には海底調査を行ったところ、ニクマロロ島沖でアメリア・イアハートの飛行機と同種の部品が発見されていますし、ニクマロロ島でもアメリアの飛行機の残骸と思われる金属片などが発見されています。
これらのことから、アメリア・イアハートは不時着してニクマロロ島に避難していたと思われますが、遺骨になってしまったということは、死因は餓死の可能性が高いでしょう。もしくは水がなくなり、脱水で死亡した可能性もあります。
アメリア・イアハート行方不明の真相②:日本軍捕虜
アメリア・イアハートは日本軍の捕虜になった、もしくは日本軍に殺害されたという説もあります。
ハウランド島は当時アメリカ領でしたが、日本の委託統治エリアと隣接していました。そして、当時はアメリカと日本の緊張状態が徐々に高まってきている時期でした。
そのため、アメリア・イアハートがその海域を「世界一周」という名目で飛行することで、日本軍・日本の統治状況・防衛能力などの情報を得ようとしたのではないか?と噂されるようになりました。そして、日本軍がそれを許さずにアメリアを捕獲し、捕虜にしたというのです。
また、アメリア・イアハートはわざと行方不明になり、アメリカ軍はアメリア捜索の名目で、日本の統治領の情報収集を行ったとも噂されました。
日本軍がアメリアを捕獲して捕虜にしたという話は、あり得なくはありませんが、GMT20時30分までアメリアから「攻撃された」などの報告はなかったため、この説は基本的には否定されていて、いわゆる「陰謀説」の1つとされています。
日本軍の捕虜にされたアメリアは、次のような処遇だったと噂されています。
・サイパンから東京に移送され、皇居で拘留されて終戦前に処刑された
・終戦後にひそかに釈放されニュージャージー州でひっそりと主婦として暮らした
ただ、前述のように、これらの証拠はなく、あくまで日本軍の統治領が近かったという情報から導き出されたものです。
アメリカの国立公文書館で見つかった白黒の写真が、アメリア・イアハートとヌーナンが日本軍に捕まった時の写真ではないか?と言われることもありあs見たが、この写真はアメリアが遭難する以前に撮影されたもので、日本人らしき人も写っていないことから、このことは現在では完全に否定されています。
アメリア・イアハート行方不明の真相③:海に沈没
アメリア・イアハートの行方不明の真相の3つ目は、燃料不足で海に墜落・沈没したというものです。
アメリアからイタスカに送られた信号強度などから、アメリアの飛行機はニクマロロ島近辺ではなく、ハウランド島周辺・ハウランド島のすぐ近くの北のどこかで燃料がなくなり、墜落したと結論付けた調査もありました。
この海に墜落・沈没したという説が、一番自然なものではあります。
アメリア・イアハートの生涯は映画化された
出典:amazon.co.jp
アメリア・イアハートの生涯は映画化されています。
「アメリア 永遠の翼」は2009年に公開された映画で、アメリア・イアハートの生涯を描いた作品です。
・公開年:2009年
・アメリア役:ヒラリー・スワンク
・ジョージ・パットナム:リチャード・ギア
・フレッド・ヌーナン:クリストファー・エクルストン
・監督:ミーラー・ナーイル
日本でも公開されていて、DVDにもなっています。
アメリア・イアハートはソアリンのモデル?
出典:jalan.net
アメリア・イアハートはソアリンのカメリア・ファルコのモデルではないか?と言われています。
ソアリンとは、東京ディズニーシーに新しくできたアトラクションで、カメリア・ファルコが開発した「ドリームフライヤー」で世界中を巡るというものです。
カメリア・ファルコは探検家であり冒険家学会(S.E.A)の初の女性会員です。
メディテレーニアンハーバーの丘に建つ博物館、ファンタスティック・フライト・ミュージアム。さまざまな展示物を見ながら館内を巡り、最後に特別展のハイライトである空飛ぶ乗り物、ドリームフライヤーに乗り込むと・・・。
このアトラクションに出てくるカメリア・ファルコのモデルが、アメリア・イアハートとされています。
アメリア・イヤハート、ソアリンのカメリア・ファルコの元ネタの実在の方なのか〜!繋がった、勝手に! #舞いあがれ
— ぴーちゃん (@mm_ovo_mm) October 27, 2022
ディズニーのアトラクションのモデルにもなるほど、アメリア・イアハートの生涯にはロマンがあったんですね。
アメリア・イアハートのまとめ
アメリア・イアハートの生涯や名言、家族、飛行機パイロットの記録、行方不明の詳細や真相、遺骨の発見や死因、日本軍の関与、映画化やディズニーシーのソアリンのモデルなどをまとめました。
アメリア・イアハートはニクマロロ島に流れ着いたのか?それとも海に墜落したのか?どのような最期を遂げたのか、いつか真相が判明する日は来るのでしょうか?