遠東航空(ファーイースタン航空)103便墜落事故は、台湾本土で起きた航空事故としては3番目に多い死者を出した事故で、向田邦子氏や志和池昭一郎氏の死因でもあります。この記事では遠東航空103便墜落事故の原因や機長の対応、生存者の有無、その後や現在について紹介します。
この記事の目次
遠東航空103便墜落事故の概要
遠東(ファーイースタン)航空103便墜落事故は1981年8月22日に発生した航空事故で、遠東航空は台湾の航空会社です。
事故当日、遠東航空103便は台北松山空港を出発し、台湾南部の高雄国際空港まで約301㎞のフライトを予定していました。
搭乗者数は乗員6名と乗客104名の合計110名。乗客のうち18名が日本人でした。
遠東航空103便に使用されていた機体は、ボーイング737-200という1969年に製造されたボーイング社の飛行機だったのですが、この飛行機は事故発生の17日前にあるトラブルを起こしていました。
8月5日、墜落事故を起こす1つ前のフライトに出た際に、与圧システムに異常が発生して出発した空港に引き返すということが起きていたのです。
そして出発地で修理を受け、問題ないと判断されてから最初のフライトが8月22日でした。
しかし、午前9:54に離陸して14分後、10時6分頃には苗栗(ミアオリー)県三義(サンイ―)郷の上空高度6,700mを巡航中に、管制塔の通信レーダーが103便の異常を感知。
レーダーが捉えていた103便のシンボルがなぜか2つに分裂し、10時7分にはレーダーから完全に姿を消したのです。
この時なんと103便は上空で空中分解し、バラバラになって山中に墜落していました。2つにシンボルがわかれて見えたのは、空中分解したためだったのです。
遠東航空103便墜落事故は、台湾本土で起きた航空事故としては1994年に発生したチャイナエアライン676便墜落事故、2002年に発生したチャイナエアライン611便空中分解事故に次ぐ大規模なものとなり、台湾および中国を騒然とさせました。
また搭乗客の中に、作家の向田邦子氏や出版プロデューサーの志和池昭一郎氏もいたことから、日本でも大きく取り上げられました。
遠東航空103便墜落事故の被害・死者数や生存者数
管制塔のレーダーから姿を消した後、午前11時頃には103便墜落の目撃情報が警察などに寄せられました。
機首部分は台北の南南西およそ150㎞の位置にある苗栗県三義郷周辺に墜落し、他の部位は破片となって広範囲に散乱したといいます。
103便には台湾人の乗客82名と台湾人の乗務員6名、日本人の乗客18名、そしてアメリカ人の乗客4名の合計110名が搭乗していました。
事故直後、この110名の中で1人だけ生存者が発見されましたが、残念ながら病院に搬送される途中に死亡。遠東航空103便の搭乗者は、110名全員死亡が確認されました。
当時のニューヨークタイムズによると、103便の空中分解、墜落の様子を見たという人々からは以下のような目撃情報が出ていたそうです。
・空に大きな赤い火の玉が見え、その後、2回の爆発が起きた。あっという間の出来事だった。
・最初は何が起きているのかわからなかったが、よく見ると飛行機がねじれたような奇妙な姿で地面に落ちていった。
・爆発音に驚いて空を見ると、墜落する飛行機から人々がまるで缶から物を投げ捨てるように無造作に落ちていった。
このような状況であったため、駆け付けた救助隊員も搭乗者の遺体を探すために墜落機の瓦礫を掘り、森の中までくまなく歩きまわったといいます。
遠東航空103便墜落事故の原因
出典:https://commons.wikimedia.org/
当初、空中分解という異常な出来事が起きたことから、中国当局の関係者らは「どこかの国の空爆によって103便は爆発四散したのではないか」との見解を示していました。
フライトデータレコーダーなども復元不可能であったため、事故調査は困難を極めると見られていたそうです。そのため中華民国民間航空委員会、遠東航空にくわえてシアトルのボーイング本社から専門家2名も参加して行われました。
ところが事故原因は意外な場所にありました。回収された103便の機体を調べた結果、機体の後方下部の圧力隔壁に広範囲の腐食が見られたのです。
上述のように事故機となったボーイング737-200は1969年5月に製造されたもので、当初はアメリカのユナイテッド航空が使用していました。
それを1976年4月に遠東航空が買い取ったとされ、主に短距離路線用に使用していたといいます。
短距離路線用に使用していたということは、短い路線を多くの回数運航していたということになり、103便の機体のフライトサイクル(離陸から着陸までのサイクル)は33,313回にまで達していました。
これは使用年数に比べてかなり多く、酷使した結果か103便の圧力隔壁には与圧の繰り返しの影響でできたと思われる亀裂も生じていたそうです。
事故発生の17日前、8月5日に発生した与圧のトラブルも耐久を超えた使用をしたために起きた結果だったのではないか?とも考えられており、墜落事故の予兆だったのではないかと見られました。
トラブルが起きた「与圧」とは
ここで8月5日にトラブルが生じた「与圧」とは何なのかについて、軽く見ておきましょう。
与圧とは、圧縮した空気を飛行機内に送り込み、機内の気圧を上げて地上に近い気圧に調節する機能のことです。
上空では気圧が低くなり、そのままでは飛行機の乗客や乗務員は気分が悪くなってしまいます。
そのためエンジンから取り込んだ空気を圧縮して機内に送り出し、快適な気圧を保っているのです。
過去には上空で与圧機能が正常に作動しなくなり、乗客全員が意識不明に陥るという航空事故が起きたこともありました。
それほど与圧と圧力隔壁は重要なものであるため、8月5日に103便は出発地に戻って整備を受けたのでした。
腐食が生じていた圧力隔壁とは与圧区域と非与圧区域を隔てる壁のことで、機体の内部と外部の間で生じる大きな圧力の差から、客室を守る役目を果たします。
フライト中は圧力隔壁に常に大きな力がかかっているため、小さな穴や亀裂などがあっただけでも圧力差に耐えきれなくなり、割れてしまうおそれがあるとされます。
103便が空中分解した理由
中華民国民間航空委員会の事故調査によると、103便が空中分解は機体の下部に生じていた腐食と、過度のフライトサイクルで限界を迎えていた与圧の相互作用によって起きたのではないかとされています。
機体が高度6,700mにまで上昇した時にうまく与圧機能が働かず、圧力差で急速な破壊が発生。
機内に急速な減圧が起きるとともに客室の床が突然壊れ始め、制御ケーブルと電気配線も切断され、電力を失い、制御のきかなくなった機体が空中分解したと推察されました。
航路の環境が腐食を進めた?
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事故直後のニューヨークタイムズの報道によると、もともと遠東航空103便に使われた機体は台北からフォルモサ海峡に浮かぶ澎湖諸島に向けての便に利用されていたそうです。
しかし、コックピット内に「異常な気圧」が発生したために高雄行に変更になったとのこと。
つまり通常は103便に使われた機体は海に近い場所で使用され、海上を往復していたのですが、このことが腐食を進めた原因ではないかともいわれています。
金属の腐食というのは簡単に言うと「錆」です。錆は金属が塩水にさらされると起こりやすく、事故機が飛んでいたのは潮風にさらされる海上でした。
そのため潮風にさらされ続けることで、想定されたスピードより速く腐食が進んだのではないかとも見られました。
さらに事故機は海産物を運ぶ輸送機としても利用されていた記録があり、この海産物から漏れ出た塩水が床を通じて圧力隔壁にまで広がり、腐食を生じさせてしまったのではないかとも推察されています。
どうして腐食に気づかなかった?
遠東航空103便墜落事故が起きた原因は、機体の前方下部の腐食部分から亀裂が生じ、損傷部分が広がっていって空中分解を引き起こしたことではないかとされています。
しかし、このような大規模な腐食があったのをどうして整備時に気づかなかったのでしょうか。
実は当時の遠東航空は適切な点検をしていなかったのではないか、という説も存在します。
事故後に103便の整備記録を調べたところ、以下の定期整備を行った旨の記録がされていたといいます。
実施されていた定期整備
・75時間ごとに行う決まりのA整備
・300時間ごとに行う決まりのB整備
・1,200時間ごとに行う決まりのC整備
・9,600時間ごとに行う決まりのD整備
さらに遠東航空が買い取る前の1974年には製造元のボーイング社から、機体の下部パネルの腐食状況の検査および防腐剤の塗布を求められていたとのことですが、記録によるとこれも墜落事故発生前3年の間に5回にわたって行われていたそうです。
整備記録だけを見ると、103便は適切な整備を受けていたにもかかわらず、事故を起こしてしまったように見えます。ところが実際には、この整備記録の内容は虚偽の疑いがあるのです。
事故後に遠東航空が所有している別のボーイング737-20機を検査したところ、なんと事故機と同じように機体の後方下部に腐食が確認されたといいます。
しかもこの機体もまた、整備記録を調べて見ると「9ヶ月前に機体の下部パネルの腐食状況の検査および防腐剤の塗布をした」と記されていました。
しかし防腐剤を塗布してからわずか9ヶ月で腐食が広がるとは考えづらく、遠東航空は適切な整備をしていなかったにもかかわらず、書面では整備の記録を残していたのではないか?との疑惑が浮上します。
この機体も事故機も整備記録では「大きな異常は見られない」と評価されていたのです。
もしも実際に整備をしていたとしても、事故機を含めて2機の飛行機が危険な腐食を有していたのを見逃して、杜撰な検査をしたということになります。
そのためいずれにしても、遠東航空の整備体制に問題があったことは間違いないでしょう。
機体の設計そのものの不備
そもそも事故機は設計の段階で不備があったのではないか?との指摘もあります。
ボーイング737-20機は、「フェイルセーフシステム」に基づいて設計されていました。
フェイルセーフシステムとは、機械は必ず不具合を起こすという前提で、故障時や異常発生時でも乗客の命を守れるようにシステムを構築することです。
事故機は機体に亀裂が入ったとしても、それが急激に広がることを抑え、破壊を防いで乗客の命を危険にさらさないように設計されていました。
具体的にはボーイング社では自社の飛行機に対して「ギロチンテスト」というものを行っており、これは大型の刃物でテスト機を貫き、亀裂が広がらないかチェックするというものだそうです。
事故機と同じ737型機もこのテストをクリアしており、最大1m程度の亀裂が生じても機体が破壊されないことが確認されていました。
ボーイング社の発表では、仮に機体に腐食が生じていたとしても、全長約80㎝程度の亀裂には耐えることができるとのことでした。
ところが回収した事故機を調べたところ、腐食はフェイルセーフシステムのバックアップになる部分や圧力隔壁の主要部分まで浸食が進んでいました。
ボーイング社の想定を超えた腐食が生じていたために、機体の破壊が起きてしまったのです。
遠東航空103便墜落事故は機長の機転で防ぐことができた?
遠東航空103便墜落事故と似たような原因で起きた事故として、1988年4月に発生したアロハ航空243便事故があげられます。
アロハ航空243便事故も機体に生じていた疲労亀裂がフライト中に拡大し、空中で胴体が分離するという事故でした。
この事故では機長の的確な判断と副操縦士の俊敏な対応が功を奏し、乗務員1名を除く搭乗者93名が無事に生存するという奇跡的な展開を見せています。
そのため、遠東航空103便墜落事故でも機長の判断次第では被害が食い止められたのではないか?と比較されることがありますが、この2つの事故を同列に語ることはできません。
アロハ航空243便事故はそもそも機体の天井部分がはがれただけですんでおり、機体が真っ二つに割れてしまった遠東航空103便墜落事故とは比べられないのです。
おそらくどれだけ優秀な機長や副操縦士が乗っていようと、遠東航空103便墜落事故は防ぐことができなかったでしょう。
遠東航空103便墜落事故は向田邦子氏・志和池昭一郎氏の死因となった
事故当日、遠東航空103便には『寺内貫太郎一家』『阿修羅のごとく』など数々の代表作を持つ脚本家、小説家、エッセイストの向田邦子氏も乗っていました。
向田氏は仕事の取材で知人とともに台湾に訪れており、事故の2日前の8月20日から現地入りをしていたそうです。22日は珍しい蝶を採取するために高雄に向かう予定だったといいます。
向田氏と仲が良く、共同で東京都港区赤坂で小料理屋を経営していた妹の和子さんはTVで遠東航空103便墜落事故の一報を見て、慌てて姉の自宅や宿泊する予定だった高雄のホテルに電話をしました。
しかし、ホテルのフロントもパニック状態でまったく話が通じず、何の情報を得られないまま焦りだけが募ったそうです。
その後、無情にも向田邦子氏の遺体が発見されたのは事故から4日が経った8月26日の午前でした。
1981年8月23日付のニューヨークタイムズでは、夕方までには102名の遺体を回収したと報道。その後、8月24日の報道では2名の遺体を発見したとして「発見されていない遺体は1体だけ」と報じていました。
事故直後で情報も錯綜していたため、ニューヨークタイムズのこの報道が100%正しいとは言い切れませんが、この時点での報道を信じるのならば、遺体が見つからなかった最後の1人が向田邦子氏だったということになります。
享年51歳。早すぎる人気作家の死に日本中が悲しみ、向田邦子氏の命日となった8月22日は「木槿(むくげ)忌」と呼ばれています。
志和池昭一郎氏も遠東航空103便墜落事故で亡くなっている
シルクロードブームの火付け役として知られる出版プロデューサーの志和池昭一郎(しわじ しょういちろう)氏も、事故当日に遠東航空103便に乗り、命を落としました。享年38歳でした。
志和池氏は向田氏とともに取材旅行で台湾を訪れており、ほかに秘書を務める義理の妹と通訳担当の女性社員が同行していました。
もともと、一行は中東諸国へのシルクロードへ取材に向かう予定でしたが、旅行会社のミスでキャンセルになってしまい、それならばと代わりに台湾に向かったそうです。
遠東航空103便墜落事故のその後①犠牲者たちの葬儀
回収された犠牲者の遺体は車で勝興駅まで運ばれ、そこからさらに列車で台北市内に運ばれました。
火葬は台北市内の葬儀場で行われたといい、白い大理石の壺に入った遺骨を遺族らが持ち帰ったとされます。機体が落下した苗栗県三義郷には犠牲者の名を刻んだ慰霊碑が建立されました。
遠東航空103便墜落事故のその後②特別点検プログラムの導入
遠東航空103便墜落事故を受けてボーイング社は、フライトサイクルの多い経年機に対して特別点検プログラムを提供することにしました。
しかし、機体の胴体部分の外板については亀裂が発生しても減圧が発生してすぐに適切な修理を行えばよいという考えのもと、特別点検の対象外とされたのです。
つまり、今回の事故の原因に対しては特別な措置が取られず、「異変を感じてから修理をする」という従前と同じ対応が取られました。
経年機の安全対策が本格的に進んだのは、上でも触れたアロハ航空243便事故や日本航空123便墜落事故のような類似の後発事故が起きてからでした。
遠東航空103便墜落事故のその後⓷遠東航空の現在
墜落事故が起きた直後も遠東航空は通常通りのフライトを行っていましたが、平均搭乗者数は137人から50人に激減したといいます。
これを受けて機体がの不具合で起きた事故であったことから安全性をアピールするため、現役のボーイング737型機をすべて引退させ、ボーイング757型機やマクドネル・ダグラス社のMDー82などに変更しました。
そして国内線のほかにパラオなどに向けた近・中距離の国際線にも参入し、一時は利用客を取り戻したとされます。
しかし、2008年に入ると世界的な原油価格高騰や台湾高速鉄道開業による陸路の充実などを受けて急速に業績が悪化。
ついに燃料費の支払いが滞り、2008年5月には運航停止にまで追い込まれてしまいました。
その後、所有していたマクドネル・ダグラス社の機体などは台北松山空港で1年以上放置されていましたが、2010年には運航再開計画書を提出して遠東航空は再起を図ります。
なお、運航再開計画書には台北から日本の秋田空港、新潟空港などの地方空港への就航計画が盛り込まれ、実際に日本国内にも遠東航空の機体が飛来するようになりました。
ところが順調に再起したと見られていた最中、2019年12月12日に突然遠東航空から「明日より全便を運航停止する」との発表がされ、再び台湾内を騒がせることに。
順調に立ち直っているように見えた遠東航空でしたが資金繰りは苦しい状態が続いたままで、経営者が個人資産を投じてギリギリで維持していたところに、経年機の買い替えが重なってしまい、経営が立ち行かなくなったといいます。
遠東航空としては運航を再開する予定でしたが、2020年1月に交通部が「事前予告なしの運航停止は民航法違反にあたる」として運航許可を取り消したため、2023年現在も全路線で運航停止が続いています。
遠東航空103便墜落事故についてのまとめ
今回は1981年8月に発生した遠東航空103便墜落事故について、事故原因や死者数、その後を中心に紹介しました。
向田邦子氏や志和池昭一郎氏ら著名人が犠牲になったことから、日本でも大々的に報じられた遠東航空103便墜落事故ですが、事故後の調査からきちんと整備を行っていたら防げた可能性が高いことが明かされました。
犠牲になった方々のご冥福をお祈りするとともに、今後はこのような事故が起こらないことを願います。