戦後の時代に国民的プロレスラーとして活躍した力道山が話題です。
この記事では力道山の身長サバ読みや家族の家系図、4人の嫁や息子や娘ら子供、北朝鮮にもいる孫、クズエピソードや与謝野晶子との関係、木村政彦との昭和の巌流島、犯人の村田勝志に刺される事件と死因、墓についてまとめました。
この記事の目次
- 力道山のプロフィール
- 力道山の身長は4cmサバよみで実際は176cm
- 力道山の家族と家系図
- 力道山の嫁① 元CAの田中敬子
- 力道山の嫁② 田中敬子との結婚前の嫁3人
- 力道山の子供① 息子(長男)百田義浩
- 力道山の子供② 息子(次男)百田光雄
- 力道山の子供③ 朴信峰との娘・金英淑は北朝鮮の政治家・朴明哲の嫁に
- 力道山の孫① 百田力(息子・百田光雄の子供)
- 力道山の孫② パク・へジョン(娘・金英淑の子供)は重量上げ監督
- 力道山のひ孫…柳日薫は柔道選手
- 力道山のクズエピソードも話題に
- 力道山と与謝野晶子のコラ画像や怪文書も話題に
- 力道山と与謝野晶子の元ネタ「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」
- 力道山の死因とされるナイトクラブで刺される事件と犯人・村田勝志
- 力道山の墓
- まとめ
力道山のプロフィール
力道山のプロフィール
出生名 :金信洛(김신락、キム・グァンホ)
本名 :百田光浩(ももた・みつひろ)
生年月日:1924年11月14日
没年月日:1963年12月15日(39歳没)
出身地 :朝鮮・咸鏡南道洪原郡新豊里(現在の北朝鮮)
身長 :176cm
血液型 :AB型
力道山(りきどうざん)は、戦後の時代に活躍したプロレスラーで、空手チョップで外国人選手を次々と倒し、敗戦で傷ついていた日本国民の間で熱狂的な人気を集めました。プロレス隆興の礎を築いた事から「日本プロレス界の父」の異名でも呼ばれています。
力道山の経歴
出典:https://upload.wikimedia.org/
力道山は日本統治時代の朝鮮半島の出身で両親は朝鮮の方でした。1940年に朝鮮相撲(シルム)の大会に出場していたところ、二所ノ関部屋の後援幹事であった百田已之助が素質を見抜いてスカウトし同部屋に入門。1949年に関脇に昇進しましたが、1950年の場所前に突然自ら髷を切って力士を廃業し1952年にプロレスラーに転向しました。
アメリカでの修行後、力道山は1953年に日本プロレスを設立し、テレビ放送開始に合わせて興行を打ち国民的ブームを起こしました。力道山は当時柔道界史上最強と言われていた木村政彦さんとタッグチームを組み、カナダのシャープ兄弟と熱戦を演じて国民的人気を獲得。
その後、木村政彦さんと袂を分っての「昭和の巌流島」などを経て、1955年にアジアヘビー級王座を獲得。1958年にはアメリカのルー・テーズを破ってインターナショナル・ヘビー級王座を獲得するや再度のプロレスブームを巻き起こし、1959年から1963年までワールド大リーグ戦にて連続優勝。1962年に初代WWA世界ヘビー級王者を戴冠。
1963年には人気絶頂となり、WWA世界ヘビー級選手権・ザ・デストロイヤー戦の平均視聴率が64パーセントを記録するなどまさに国民的人気を獲得するに至りました。
しかしその矢先の1963年12月、遊興に訪れていた赤坂のナイトクラブ「ニューラテンクォーター」で、暴力団組員の村田勝志(住吉一家大日本興業構成員)とトラブルになり、登山ナイフで腹部を刺され、その怪我が原因となって同月15日に39歳にて亡くなりました。(直接の死因については後述)
力道山の身長は4cmサバよみで実際は176cm
力道山は現役時代は身長を「180cm」と公称していましたが、大きいイメージを持たせるために4cm大きくサバ読みしており、実際の身長は「176cm」でした。
日本プロレス開祖である力道山が4cm身長を高く公称していたため、その後のプロレス界では身長を4cm高く公称する事が慣習となりました。(公称身長が力道山より低いのに見た目の身長が高くなってしまう事を避けるため)
力道山の家族と家系図
力道山の家族の家系図です。
力道山は日本統治時代の朝鮮半島の出身で両親は朝鮮の方でした。
力道山の最初の結婚相手は朴信峰という女性で、この方との間に生まれた娘の金英淑さんは北朝鮮の政治家の朴明哲という人物に嫁ぎ、その子供(力道山孫)のパク・へジョンという女性は北朝鮮のウエイトリフティングの監督です。さらに、その子供(力道山ひ孫)の柳日薫という方は北朝鮮の柔道選手です。
また、力道山は2度目の結婚の嫁(京都の芸妓とされる)との間に3人の子供がおり、上から長女、長男の百田義浩、次男の百田光雄で息子2人はともにプロレスラー(百田兄弟)として活躍しました。
ただ、力道山は2度目の嫁とは早くに離婚をし3人の子供を育てたのは3度目の結婚相手である日本橋の芸者・小沢ふみ子さん(上記家系図では省略)という女性でした。
力道山は3人目の嫁である小沢ふみ子さんとも離婚し、その後に田中敬子さんという女性と4度目の結婚をしており、田中敬子さんとの間には子供(娘)が1人生まれています。
力道山の家族については次の見出しから1人ずつ紹介していきます。
力道山の嫁① 元CAの田中敬子
力道山の嫁・田中敬子のプロフィール
生年月日:1941年6月6日
出身地 :神奈川県横浜市
身長 :160cm
力道山は1963年6月5日、38歳の時に当時21歳の日本航空の客室乗務員(当時はエアガールといった)であった田中敬子さんと結婚しています。
力道山の最後の嫁(力道山は生涯に4人の嫁がいた)である田中敬子さんは、父親が神奈川県警の警視で茅ケ崎警察署の署長も務めた田中勝五郎氏で、当時としては先進的な家庭に育ち神奈川県立横浜平沼高等学校卒業後は大学進学を目指して国際基督教大学を受験するも失敗。
当時は女性の大学受験すら珍しい時代でしたが、父親の勝五郎氏は「これからは女性も大学へ行く方が良い」と浪人を許し、田中敬子さんは勉強に打ち込んでいます。しかし、日本航空のエアガール募集の広告をみたのをきっかけに大学進学はやめ、1960年に日本航空に客室乗務員として入社されています。
それから3年後に田中敬子さんは力道山と結婚されていますが、馴れ初めはプロ野球選手の森徹の母親が仲を取り持った事でした。
森徹さん森家は以前から多くの大相撲力士の後援者で、力道山とも深い付き合いがありました。森家は田中敬子さんの家とも付き合いがあったため、森徹さんの母親が勝手に田中敬子さんの写真を力道山に見せたところ、力道山がその気になり、田中景子さんは当初は乗り気でなかったものの、力道山がかなり強引にアプローチとかけて交際に発展し結婚までこぎつけています。
しかし、田中敬子さんとの結婚からわずか半年後の1963年12月に力道山が村田勝志に刺される事件が発生しそれから数日後に亡くなった事で田中景子さんは未亡人となってしまいました。
力道山の死去後、田中敬子さんは力道山の事業を引き継ぎ、力道山に関連する著作なども発表し活躍されました。
力道山の嫁② 田中敬子との結婚前の嫁3人
家系図のところでも触れていますが、力道山は生涯で4度結婚しており最後の嫁である田中敬子さんとの前に3人の嫁がいました。
1人目の嫁は北朝鮮に残してきた朴信峰という女性で1961年に亡くなっています。
2人目の嫁は京都の芸妓でこの方との間に子供が3人おり、そのうちの息子2人は後にプロレス界で活躍し百田兄弟と呼ばれました。この百田兄弟の育ての親となったのが3人目の嫁である日本橋の芸者小沢ふみ子さんでした。
力道山はかつて小沢ふみ子という女性を妻にしていたが、彼女が正式の妻であったかどうかは、さだかではない。また、敬子と結婚当時、力道山には三人の子供があったが、三人ともふみ子の子供ではなく、力士時代に京都で知り合った女性との間にできた子供だった。
力道山の子供① 息子(長男)百田義浩
力道山の子供(息子・長男)百田義浩のプロフィール
生年月日:1946年3月15日
没年月日:2000年11月22日(54歳没)
出身地 :京都府京都市京都市伏見区
身長 :178cm
血液型 :A型
力道山の息子のうち長男の百田義浩さんは慶應義塾高校を経て慶應義塾大学法学部に進学し、大学ではアメフト選手として活躍していました。大学時代に力道山が村田勝志に刺される事件が起こり、大学卒業後に父親の遺志を継いで「リキ・ボクシングジム」の社長になり、日本プロレスの取締役にも就任。
1972年の全日本プロレス旗揚げにはリングアナウンサーとして参加し、1978年にプロレスラー転向を宣言し、プエルトリコでの海外修行を経て1980年に帰国してプロレスラーとしてデビューし、弟の百田光雄さんとの兄弟タッグチームで活躍しました。
その後、1987年にプロレスラーを引退し、全日本プロレスのフロントに入った後、2000年のプロレスリング・ノア立ち上げに弟の百田光雄さん共に加わりました。しかしその矢先の同年9月に体調を崩して入院し2000年11月22日に54歳の若さで亡くなりました。死因は「肝不全」と発表されています。
力道山の子供② 息子(次男)百田光雄
力道山の子供(息子・次男)百田光雄のプロフィール
生年月日:1948年9月21日
出身地 :東京都港区
身長 :173cm
血液型 :A型
力道山の息子のうち次男の百田光雄さんは森村学園を卒業後の1968年に日本プロレスに入門し1970年にデビュー。1972年に日本プロレスと百田家の関係が悪化した際に一時プロレスラーを引退しましたがトレーニングを続け、全日本プロレス旗揚げに加わって再デビューしました。
1974年にメキシコへ海外武者修行に出発し、リキドーザン・ジュニアのリングネームでデビル・ムラサキとのタッグチームで活躍しウェルター級のランキングに載る程成長。
1976年に帰国後はメキシコで習得したトペ・スイシーダを使って話題になりますが、しばらくの間は前座レスラーの地位に甘んじています。しかし、1987年になると実力を伸ばし40歳にして世界ジュニア・ヘビー級選手王座を獲得。
プロレスリング・ノア立ち上げにも加わって重鎮の1人として活躍しましたが、2009年に三沢光晴さんが亡くなった後に退団を発表。その後もフリーのプロレスラーとして生涯現役を宣言してトレーニングを続けられているという事です。
力道山の子供③ 朴信峰との娘・金英淑は北朝鮮の政治家・朴明哲の嫁に
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力道山は力士になるために日本へ来る前に朝鮮で朴信峰という女性と結婚しています。この朝鮮時代の嫁・朴信峰という女性ですが、力道山を日本に行かせなくなかった母親が急遽見つけてきて結婚させた女性だと伝わっています。ただ、力道山はこの朴信峰という女性に子供が生まれているので、結婚生活が全くなかったというわけでもないようです。
力道山と朴信峰という女性の間に生まれた子供は娘の金英淑という方で、後に北朝鮮の政治家となって農業大臣まで務めています。旦那さんの朴明哲さんは北朝鮮オリンピック委員会委員長、内閣体育指導委員会委員長を務めた有力政治家で、現在も最高人民会議代議員を務めているようです。
力道山の孫① 百田力(息子・百田光雄の子供)
力道山の孫・百田力のプロフィール
生年月日:1981年10月24日
出身地 :東京都
身長 :180cm
力道山の孫としては、息子の百田光雄さんの子供の百田力(ももた・ちから)さんがプロレスラーとして活躍されています。
力道山の孫である百田力さんは土浦日本大学高校でレスリング部に所属し、日本大学法学部を卒業した後、プロレスリング・ノアに練習生として加入するもデビューは叶いませんでした。
その後、スポーツインストラクターとして働かれていましたが2013年に天龍プロジェクトに入団して練習生になり、2013年12月の「力道山没50年追悼記念興行」にて、「力」のリングネームでデビューを果たしました。
2015年からはプロレスリングFREEDOMSにも参戦し「ダースバラモン」として活躍。2019年12月んはプロレスリング・ノアへの初参戦も果たし、2023年5月に「COMBO」に入団し現在も活躍を続けられています。
力道山の孫② パク・へジョン(娘・金英淑の子供)は重量上げ監督
出典:http://eigyou.korea-np.co.jp/
力道山の朝鮮時代の嫁・朴信峰との間に生まれ娘の金英淑さんは、北朝鮮の政治家・朴明哲さんと結婚されていますが、その間に生まれた力道山の孫・パク・ヘジョンさんがいます。
力道山の孫であるパク・ヘジョンさんは、北朝鮮の重量挙げ女子チームの監督を務めており、2002年の釜山アジア大会に姿を見せた事が話題になりました。
「リキ」の孫娘が釜山アジア大会に-。鮮やかな空手チョップが往年のプロレスファンの脳裏に焼き付いている「力道山」。その孫、パク・ヘジョンさん(29)が朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の重量挙げ女子の監督として30日、48キロ級決勝に出場したチェ・ウンシム選手(20)とともに会場に姿を見せた。
力道山の孫であるパク・ヘジョンさんは2008年の北京オリンピックで金メダルを獲得したパク・ヒョンスク選手や、シドニーとアテネオリンピックで銀メダルを獲得したリ・ソンフィ選手を指導した名監督としても注目されています。
北京オリンピックで朝鮮に一つ目の金メダルをもたらしたウエイトリフティングのパク・ヒョンスク選手を指導する。シドニー、アテネ大会で銀メダルを獲得した同競技のリ・ソンフィ選手(女子53キロ級スナッチ世界記録保持者)の監督を務めた名指導者だ。
力道山のひ孫…柳日薫は柔道選手
力道山の孫であるパク・へジョンさんの息子である柳日薫(リュ・イルフン)さんは北朝鮮で柔道選手として活躍している事がわかっています。
力道山のひ孫にあたる柳日薫さんは、2014年12月にアントニオ猪木さんが北朝鮮を訪問した際に面会し「力道山のように頑張りたい」と話した事が報じられています。
日本の複数のメディアは同日、「力道山の娘である金英淑(キム・ヨンスク)さんの孫、柳日薫(リュ・イルフン)さん(14)は北朝鮮軍直轄の『4・25体育団』に所属する柔道選手」「柳さんは8月に平壌を訪れた力道山の弟子、アントニオ猪木参議院議員と交流した。柳さんは『力道山のひ孫』と明言はしなかったが、『力道山のように頑張りたい』と話した」などと報じた。
力道山の孫であるパク・へジョンさんの自宅には力道山の肖像画が飾られている事なども明かされました。
力道山の孫娘で、柳さんの母である朴へジョン(パク・ヘジョン)さんは女子重量挙げの北朝鮮代表監督を務めた。朴へジョンさんの家には力道山の肖像画がかかっており、息子の柳さんについて「大きな期待をかけているが、柔道を始めて間もないので、もっと練習が必要だ」と語ったという。
力道山のひ孫である柳日薫さんの映像も共同通信が報じています。
力道山のクズエピソードも話題に
日本のプロレス界に大きな功績を残した力道山ですが、その一方で「クズエピソード」が多い事でもしばしば話題にされているようです。
力道山のクズエピソード① ジャイアント馬場に対する理不尽なシゴキ
日本のプロレス史を象徴する存在であるジャイアント馬場さんは、力道山が設立して日本プロレスに入門してプロレスラーになりました。
力道山は「これはわしを凌ぐスターになる」とジャイアント馬場さんを特別扱いし、すぐにアメリカ遠征に出されて給料まで支払われていましたが、それでもジャイアント馬場さんは後に力道山について「人間として、何一つ良い所のない人でしたね」と語っています。
というのも、力道山はジャイアント馬場さんにかなり理不尽な振る舞いをしており、空手チョップの手ほどきを受けた際に手の皮膚を強化するためだとして農機具を改造したもので何度も手を叩かれたり、巡業中の移動中に到着するまでずっとバーベルを持つように強要されたりしたそうです。
また、酒癖が非常に悪かった力道山は、ジャイアント馬場に何度も一気飲みを強要され、たまらずチェイサーで水を飲もうとしたところ、そのチェイサーにさらにビールを注がれて渡されたというエピソードなどが伝わっています。
さらに、ジャイアント馬場さんが活躍して国民的人気を得た後、力道山はそれに嫉妬してマスコミを通じてしつこく中傷するようになり、ジャイアント馬場さんはそれを恨みに思っていたようです。
力道山のクズエピソード② ジャイアント馬場の稼いだ金を搾取
力道山のクズエピソードとしてはジャイアント馬場さんが稼いだ金の大半を搾取していたというものがよく知られています。
ジャイアント馬場さんはアメリカに武者修行に出された際、その巨躯ですぐに人気を獲得し、かなりの金額の報酬を得ていました。力道山はジャイアント馬場さんが稼いだ金を借りるという名目で、アメリカからプロレスラーを招聘するためにほとんど使ってしまいました。力道山はこの借金を踏み倒し、ジャイアント馬場さんとの金銭トラブルに発展。しかし証文を作っていなかったため、ジャイアント馬場さんは泣き寝入りをするしかありませんでした。
ジャイアント馬場さんは当時アメリカで日本円にして3000万円以上を稼ぎましたが、そのギャラは全てピンハネされた挙句、残った500万円ほどを力道山が無理やり借りてしまい、さらに返済期限が迫ってくると再び力道山はジャイアント馬場さんをアメリカに遠征へ行かせる事で返済を逃れていたとも言われています。
力道山のクズエピソード③ アントニオ猪木に対するあまりにも酷い体罰
出典:https://www.sponichi.co.jp/
ジャイアント馬場さんと双璧をなす日本プロレス史の象徴であるアントニオ猪木さんも力道山に見出されてプロレスの世界に入りました。
しかし、力道山がアントニオ猪木さんにあまりにも酷すぎる体罰を繰り返していた事が、力道山のクズエピソードとしてしばしば語られています。
力道山は、ジャイアント馬場さんは「こいつは金になる」と思っていたため比較的大切に扱っていましたが、アントニオ猪木さんに対しては「体格も良くないからダメだろう」と思い、捨てるつもりで酷い扱いをしていたとされています。
力道山はアントニオ猪木さんに対して、走行中の車から突き落とす、船で海の真ん中に突き落とされるなど、現在であれば殺人未遂で逮捕されてもおかしくないような体罰を行なっています。
他にも、アントニオ猪木さんは力道山から火のついた葉巻を押し付ける、暴力団組員の前で一升瓶を一気飲みをさせられる、名前で呼ばれず「アゴ」と呼ばれ続けた、「死神酋長アントニオ猪木」というリングネームをつけられそうになるなどの酷い扱いを受けた事を告白しています。
力道山と与謝野晶子のコラ画像や怪文書も話題に
力道山に関しては、インターネット上では歌人の与謝野晶子とのコラ画像や怪文書がしばしば話題にされます。これは「与謝野晶子はなぜ力道山を殺さなかった」の名前でネットミーム化している現象です。
事の発端は2020年3月に、ネットの匿名掲示板である「ふたば☆ちゃんねる」に投稿された与謝野晶子のコラ画像と怪文書でした。
この与謝野晶子のコラ画像は、2011年に発表されベストセラーになった力道山と木村政彦に焦点を当てたノンフィクション「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」の単行本表紙の木村政彦の顔を与謝野晶子にすげかえたものでタイトルも「与謝野晶子はなぜ力道山を殺さなかったのか」に差し替えられていました。
そして怪文書は以下の内容でした。
☆☆☆☆☆ 一言で言うなら時代がそれを許さなかった
二人の邂逅は昭和15年、晶子61歳、力道山15歳のことであった。
老いたりともいえ血気盛んな晶子が力道山に後れを取るということはない。
若い力道山のバナナを揉んでやろうという気概は当然持っていた。本書は『なぜ』の部分にスポットを当て、関係者たちの証言によって進められるドキュメンタリーである。
平塚らいてう、山田わか、児玉誉士夫、田岡一雄、梶原一騎などへのインタビューによって、官能的とも言われた寝技を駆使し『やわ肌の晶子』と異名をとった柔道活動や、東スポ誌上で行われた論戦の顛末が詳細に浮かび上がる。
そこには若い力道山に対する親愛の情や、これから花開かんとするプロレス文化への期待が読み取れる。
『なぜ殺さなかったのか』ではなく『なぜこの二人が同じ時代を生きたのか』を書き起こした著者渾身の一冊である。このレビューは参考になりましたか? はい/いいえ
怪文書ではありますが、どことなく文才が滲み出ていた事から「文才の不法投棄」といった称賛?の声も出て、さらにこの怪文書に対するレスポンス「朝っぱらから怪文書貼りたまふことなかれ」が秀逸であった事から与謝野晶子のコラ画像と共にネット拡散されネットミーム化していきました。
現在ではこの「与謝野晶子はなぜ力道山を殺さなかった」から派生した創作物なども多数発表されており、ネットで以前から人気であった与謝野晶子コラシリーズの中でも屈指の知名度を誇るまでになっています。
なお、実際に力道山と与謝野晶子に面識があったという歴史的事実は存在しません。
力道山と与謝野晶子の元ネタ「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」
出典:https://m.media-amazon.com/
上で紹介した「与謝野晶子はなぜ力道山を殺さなかったのか」の元ネタが、増田俊也さんのノンフィクション「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」です。
「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」は、「ゴング格闘技」で2008年1月号から2011年7月号から連載されたもので、2011年に単行本化されると大ベストセラーとなり「第43回大宅壮一ノンフィクション賞」と「第11回新潮ドキュメント賞」を受賞しました。
この作品で焦点が当てられた木村政彦さんは戦前戦中に日本柔道史上最強といわれた柔道家でしたが、力道山とタッグを組んでシャープ兄弟と14連戦しましたが、いつも自分がシャープ兄弟にフォールを取られそれを力道山が空手チョップで救い出すという引き立て役にされた事に不満を持ちました。
力道山と袂をわかった木村政彦さんは朝日新聞に「力道山のプロレスはジェスチャーの多いショーだ。真剣勝負なら負けない」と宣戦布告。力道山はこれに激怒し、どちらが強いのかを決めるため試合が1954年12月に開催され、これは「昭和の巌流島」と呼ばれました。
ただ実際にはこれも当初はプロレス的演出として企画されたものだったとされ、勝敗を繰り返しながら全国を巡業する予定であったという事です。
ところが、初戦において木村政彦さんの金的蹴りヒットし、これに激怒した力道山が突如として木村政彦さんの顎に右ストレートを放ちました。力道山は状況が飲み込めないでいる木村政彦さんにさらに猛烈に張り手を放ちました。
木村政彦さんは1度はタックルによりこれを防ぐも、クリンチからのロープブレイクで分けられた後、間髪入れずにと襲いかかった力道山は木村政彦さんの顔面に掌底、張り手、右前蹴りを浴びせかけ、木村政彦さんがレフェリーに抗議するも、力道山はさらに蹴りと張り手を放ち、木村政彦さんがダウン。力道山はさらに木村政彦さんの顔面にサッカーボールキック2発、四つん這いになったところをリングの中央へ引きづりだすや後頭部を踏みつけて手刀2発をこめかみに見舞い、レフェリーが1度止めに入るも、力道山はさらに張り手を連打し、木村政彦さんは崩れるように倒れてKO負けとなりました。
マットは木村政彦さんの血で染まり、観客は騒然となった後、会場は一時静まり返りました。
後日、力道山は木村政彦さんが試合前に渡したとされる「1試合目は引き分け」と書かれた紙をマスコミに公開。この試合が八百長崩れであった事を暴露するも、なぜこのような事態となったのか多くの謎が残されました。
力道山の死因とされるナイトクラブで刺される事件と犯人・村田勝志
力道山刺される事件の犯人・村田勝志のプロフィール
生年月日:1939年4月1日
没年月日:2013年4月9日(74歳没)
出生地 :茨城県土浦市(一説には阿見町)
出身地 :東京都中央区築地
力道山は人気絶頂であった1963年12月15日に39歳で死亡しました。
この数日前の12月8日の夜、力道山が住吉一家大日本興業の暴力団構成員・村田勝志に刺される事件が発生しており死因にはこれが関連しています。
力道山は12月8日の夜、東京赤坂の高級ナイトクラブ「ニューラテンクォーター」に客として訪れていました。同じく客として訪れていた村田勝志はトイレに行こうとした際に、その前の通路で女性を口説いていた力道山を避けて通ろうとしたところ、力道山に「足を踏んだだろう」などと因縁をつけられます。
村田勝志は「踏んだ覚えはない」と反論し、「あんたみたいなデカいのがそんなところに立っていたらぶつかって当然だろう」と言い放ち、相手を威嚇する意味で懐に手を入れました。
力道山はこれを見て刃物を出すと考えて「わかった。仲直りをしよう」と持ちかけましたが、村田勝志はヤクザとしてのメンツを潰されたと考え「こんな事されて俺の立場がない、俺のメンツが立つようにしろ」と食い下がります。
力道山はこれに激怒して村田勝志の顎を拳で突き飛ばしました。あまりの衝撃に村田勝志は壁に激突して倒れ込み力道山はさらに馬乗りになって激しく殴打。このままでは殺されると感じた村田勝志は護身用に持ち歩いていた登山ナイフを咄嗟に引き抜いたところ、力道山がそのまま覆い被さるようになってその腹に根元までナイフが突き刺さりました。
その後、村田勝志は現場を去りましたが、力道山はなおも立ち上がってステージに上がって大声を出すなどしたため命に別状があるようには周りからも見えませんでした。
力道山は聖路加病院からよんだ外科医の上中省三氏の手術を受けて、手術は成功したかに見えました。
ところが、村田勝志に刺される事件発生から1週間後の1963年12月15日に力道山の容態は急変し、腹膜炎による腸閉塞を起こして再手術を受けています。この手術も成功したかに見えましたが、力道山は手術から1度も目を覚ます事なくそのまま39歳で死亡しました。
死因は「穿孔性化膿性腹膜炎」と発表されており、村田勝志に刺される事件が原因となったと考えられていますが、実際には何らかの医療ミスがありそれが直接的な死因となったのではないかとの説も存在しています。
力道山の墓
力道山の墓は東京都大田区の「池上本門寺」と、故郷(在所)の長崎県大村市の百田家の実家の菩提寺である「長安寺」にあります。
一般によく知られているのは池上本門寺の墓で、力道山の像や石碑も建立されており、現在もファンが訪れているようです。
児玉誉士夫と力道山の墓に墓参したので今回の目標達成 pic.twitter.com/rEx9MKVy8s
— 白川 (@Mengjiang1936) March 1, 2025
まとめ
今回は、「日本プロレス界の父」とも称される戦後の時代に活躍した日本統治時代の朝鮮半島出身のプロレスラーの力道山についてまとめてみました。
力道山は実際の身長は176cmでしたが、4cmサバ読みして180cmを公称身長としていたため、その後にデビューしたプロレスラーは皆4cm高く身長をサバ読みするのが慣習となりました。
力道山の家族や家系図については、生涯で4度結婚して4人の嫁がおり、朝鮮半島時代の1人目の嫁である朴信峰という女性の間に娘の金英淑が生まれ、その子供(力道山孫)である娘のパク・ヘジョンさんは北朝鮮の重量挙げチームの監督を務めました。
また、2度目の結婚相手である京都の芸者との間に3人の子供が生まれており、娘が1人と息子が2人で息子2人は百田義浩さんと百田光雄さんで共にプロレスラーとして活躍しました。百田光雄さんの子供である百田力さん(力道山の孫)もプロレスラーとして活躍されています。
力道山についてはクズエピソードも話題になっていますが、これはジャイアント馬場さんやアントニオ猪木さんへの理不尽な扱いや暴力が原因です。
ネット上では力道山に関連する与謝野晶子のコラシリーズ「与謝野晶子はなぜ力道山を殺さなかったのか」が話題でネットミーム化しています。これは力道山との「昭和の巌流島」で知られる木村政彦さんに焦点を当てたノンフィクション「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」が元ネタです。
力道山の死因は、暴力団組員・村田勝志に刺される事件の後に受けた手術が原因となった「穿孔性化膿性腹膜炎」とされており、医療ミスの噂も浮上しています。
力道山の墓は東京都大田区の「池上本門寺」と、長崎県大村市の「長安寺」にあります。