エベレスト大量遭難は1996年の5月に起きた山岳事故で、8人の死者を出しました。この記事ではエベレスト大量遭難の原因や犠牲者の死因、メンバー、「山への冒涜」とされた参加者間での不適切な行為、事故を題材にした映画やその後への影響を紹介します。
この記事の目次
- エベレスト大量遭難の概要【1996年に起きた山岳遭難事故】
- エベレスト大量遭難にあった登山隊と参加メンバーの一覧
- エベレスト大量遭難の背景① 商業化されたエベレスト登山
- エベレスト大量遭難の背景② 不適切な性行為に大荷物…未熟な参加者たち
- エベレスト大量遭難の背景③ 14時のタイムリミット
- エベレスト大量遭難の時系列① 隊長の遭難
- エベレスト大量遭難の時系列② 吹雪の夜
- エベレスト大量遭難の時系列③ スコット・フィッシャーの遺体発見
- エベレスト大量遭難の時系列④ ロブ・ホールの死
- エベレスト大量遭難の時系列⑤ 下山
- エベレスト大量遭難の死者と死因
- エベレスト大量遭難の原因
- エベレスト大量遭難のその後① 生存者の現在
- エベレスト大量遭難のその後② 遺体の回収
- エベレスト大量遭難を題材にした映画
- エベレスト大量遭難についてのまとめ
エベレスト大量遭難の概要【1996年に起きた山岳遭難事故】
エベレスト大量遭難は1996年5月10日から11日にかけて発生した事故です。
遭難事故に遭ったのは登山家のロブ・ホールが率いるアドベンチャー・コンサルタンツ隊、スコット・フィッシャーが率いるマウンテン・マッドネス隊、高銘和が率いる台湾隊の3つの部隊で、それぞれ同じ南東稜のルートを辿ってエベレスト山頂を目指していました。
3つの部隊のうち、台湾隊以外の2つは「公募隊」と呼ばれる商業登山隊で、エベレストに挑戦したい個人が出資をして、ガイドの案内のもとツアー参加者として登山するという隊でした。
そのため登山に不慣れな参加者もおり、途中で離脱する者、登頂の最終ラインに間に合わない者が発生したのです。
アドベンチャー・コンサルタンツ隊もマウンテン・マッドネス隊も5月10日の14時を登頂の最終ラインとし、14時になったら下山をすると決めていました。
しかし、実際には遅れをとったメンバーの中には14時を過ぎても登頂を目指す者がいたうえ、ガイドも彼らを強く止めることはしませんでした。
公募隊の参加者は高額な参加費を払っていたために登頂を諦めきれず、またガイドも高額なガイド費を受け取っていたことや、登頂成功者が増えて参加者の満足度が上がるほど自分の評価につながることなどから、双方ともに「少しくら時間をオーバーしても…」という甘さが生じたと言われています。
ところが17時を過ぎると天候が悪化し、遅れて下山した参加者や彼らに付き添っていたロブ・ホールらガイドたちも吹雪に見舞われることに。
なんとかキャンプに集まって救助隊の力を借りて12日に下山してきた者もいましたが、遭難の末に5名が山中で命を落としました。
さらに同日に別のルートからアタックをしていた、インド・チベット国境警察隊の隊員3名も遭難して命を落としたことから、5月10日から11日にかけてエベレストで合計で8名が死亡したことになります。
2014年4月に16名が死亡する雪崩事故が起きるまで、この事故は「エベレスト登山史上最悪・最大の遭難事故」とされており、商業登山が問題視されるきっかけにもなりました。
エベレスト大量遭難にあった登山隊と参加メンバーの一覧
出典:https://www.highscoretoeicker.com/
エベレスト大量遭難にあった3つの登山隊と、参加メンバーは以下のとおりです。なお、同じく5月10日に南アフリカの登山隊もエベレスト登山に挑戦していましたが、彼らは死者を出さずに下山しています。
アドベンチャー・コンサルタンツ隊
・隊長…ロブ・ホール(登山家、冒険家)
・ガイド…マイク・グルーム
・ガイド…アンディ・ハリス
・シェルパ頭(現地のヒマラヤ案内人)…アン・ドルジェ
・クライアント…ダグ・ハンセン(郵便局員)
・クライアント…難波康子(Fedex社員)
・クライアント…ジョン・クラカワー (ジャーナリスト)
・クライアント…ベック・ウェザーズ (病理学医)
・クライアント…スチュアート・ハッチスン(心臓専門医)
・クライアント…ルー・カシシケ(弁護士)
・クライアント…ジョン・タースケ(麻酔科医)
・クライアント…フランク・フィッシュベック(出版業者)
アドベンチャー・コンサルタンツ隊はガイド4名、クライアント9名の合計13名の部隊でした。
この隊では隊長のロブ・ホール、ガイドのアンディ・ハリスを含む4名の死者が出ています。
クライアントの職業に弁護士や医師などが目立ちますが、アドベンチャー・コンサルタンツ隊に参加するには1人65,000ドル (約738万円)の出資が必要だったとのことです。
また、この部隊には日本人女性登山家の難波康子も参加していました。
難波康子は世界で初めてエベレスト登頂を果たした女性登山家の田部井淳子に続き、日本人女性で2人目となる七大陸最高峰登頂者でしたが、彼女もまたエベレスト大量遭難で命を落としています。
マウンテン・マッドネス隊
・隊長…スコット・フィッシャー(登山家)
・ガイド…ニール・ベイドルマン
・ガイド…アナトリ・ブクレーエフ
・シェルパ頭…ロブサン・ザンブー
・クライアント…マーティン・アダムス(パイロット)
・クライアント…レーネ・ギャメルガード(弁護士)
・クライアント…シャーロット・フォックス(スキー・パトロール)
・クライアント…ティム・マッドセン(スキー・パトロール)
・クライアント…サンディ・ヒル・ピットマン(ジャーナリスト)
・クライアント…ジェイン・ブロウメット(ジャーナリスト)
・クライアント…クレフ・ショーニング(スキー選手)
・クライアント…ピート・ショーニング(登山家)
・クライアント…デイル・クルーズ(歯科医)
マウンテン・マッドネス隊もガイド4名、クライアント9名の合計13名の部隊でした。
しかしピート・ショーニングとデイル・クルーズがそれぞれ不整脈と高所性脳水腫を理由に登山を途中で中止したため、最終的に登頂に挑戦したクライアントは7名です。
マウンテン・マッドネス隊では隊長のスコット・フィッシャーが亡くなっています。
台湾隊
・隊長…高銘和
・シェルパ…ミンマ・ツィリ
・シェルパ…ニマ・ゴンブ
台湾隊では隊長の高銘和が遭難し、酷い凍傷を負ったものの、死者はいませんでした。
エベレスト大量遭難の背景① 商業化されたエベレスト登山
1953年に初登頂の後、続々とプロの登山家や国家規模のプロジェクトでのエベレスト挑戦がおこなわれるようになり、次第にエベレストは難攻不落の山ではなく、登山初心者や中級者が踏破を目指す山になっていきました。
そして、1985年にディズニーの大株主として知られる実業家のリチャード・ダニエル・バスが、ガイドをつけてエベレスト登頂に成功。
その過程を綴った『セブン・サミット』という手記を出版されると、富裕層を中心にこれまで登山に興味がなかった人々からも、エベレストを含む七大陸最高峰が注目されるようになりました。
この流れを受け、1990年代に入ると「公募隊」と呼ばれる、お金さえ払えば誰でも参加できる部隊による登山が主流になっていきます。
公募隊による登山ではクレバスへのハシゴ掛けなどのルート工作や荷揚げ、テント設営や食事の用意までガイド側がおこなってくれるため、登山の知識や経験に乏しい者も気軽にエベレストに挑戦しはじめたのです。
とくに「エベレスト登頂」という栄光に惹かれ、大金を支払って公募隊に参加する富裕層は後を絶たなかったといいます。そのためルートが狭い場所では、登山者が渋滞を起こすことも目立つようになります。
エベレスト大量遭難の背景② 不適切な性行為に大荷物…未熟な参加者たち
1996年のエベレスト大量遭難も、公募隊による不慣れな登山が原因となって起きた事故でした。
参加者のなかには顧客同士で不倫関係にあり、登山ツアー中に不適切な性交渉をおこなう者、登山におおよそ関係がないと思われる私物を大量に持ち込もうとする者など、問題行動を起こす人物が複数いたといいます。
しかし、公募登山では登山費用を出資している参加者はツアーを主催するクライアントでもあり、娯楽のために700万円以上のお金をポンと払えるような富裕層のクライアントに対して、ガイド側も強く出ることはできませんでした。
そのためガイドやシェルパはなるべく参加者の機嫌を損なわないように、顔色を伺いながら問題行為を止める必要があったのです。
しかもマウンテン・マッドネス隊は荷揚げ業務を任されていたシェルパの1人、ナワン・トプチェが高所性肺水腫を発症するというトラブルに見舞われます。
穴を埋めるためにシェルパ頭のロブサン・ザンブーが荷揚げ業務を手伝うことになり、いっそうガイド側の負担は増しました。
サブガイドも未熟であった
出典:https://www.highscoretoeicker.com/
問題が目立ったのはクライアントだけではありません。隊長以外のサブガイドの中にも、ガイド業務に不慣れな者がいたのです。
マウンテン・マッドネス隊のサブガイドとして参加していたロシア人のアナトリ・ブクレーエフは、今回が初めてのガイド業務でした。
彼は十分な仕事をせず、本来ならばサブガイドが担当するはずの体調不良者をベースキャンプへ連れて行く業務なども、隊長のスコット・フィッシャーがおこなっていました。
そのため登頂前から、スコット・フィッシャーは疲れ切っていたとのことです。さらにクライアントの1人、女性弁護士のレーネ・ギャメルガードが「無酸素登頂をしたい」と命に関わるような申し出を何度もしてきたことから、これを断るうちにどんどん隊には険悪な雰囲気が漂い出していたといいます。
このように我儘なクライアントや未熟な部下の尻拭いに人手や時間が割かれたことで、予定していた山頂までのルート工作も終わらないまま、一行は登頂を開始することとなりました。
その影響で山頂までの過程で予定外の待機時間や作業が発生し、参加者の体力のみならず、酸素も大幅に消耗してしまいました。
エベレスト大量遭難の背景③ 14時のタイムリミット
前述のように七大陸最高峰ブームの最中にあったエベレストでは、登山者による渋滞が発生していました。
渋滞での下山が遅れは命取りにもなりかねないため、アドベンチャー・コンサルタンツ隊とマウンテン・マッドネス隊は、同じ南東稜ノーマルルートからエベレスト登頂予定であった南アフリカ隊と台湾隊に登頂日を分ける協議を持ちかけていました。
しかし南アフリカ隊は協議に参加せず、いったんは別日での登頂を承諾した台湾隊もなぜか5月10日に登頂を開始するなどしたため、細い道では登山者の渋滞が発生。
登山に不慣れなクライアントがいたことにくわえて、想定外の渋滞が起きたことから、それぞれの部隊があらかじめ決めていた「登頂の最終ライン」である14時を過ぎても、山頂に向かう者が多く現れました。
日本人で唯一の参加者・難波康子は、すでに六大陸最高峰を踏破する実力の持ち主であったために5月10日にエベレスト登頂に成功しました。しかし、彼女が頂上に着いたときには15時を過ぎていたといいます。
エベレストの頂上付近は安全なルートが限られ、とくに難所付近では他の部隊との混乱や渋滞が起きやすかったことから、14時に間に合わなかったのです。
エベレスト大量遭難の時系列① 隊長の遭難
マウンテン・マッドネス隊を率いるスコット・フィッシャーは、タイムリミットに対しては比較的寛容であり、「14時を過ぎても登頂を続ける場合は自己責任で」とクライアントに伝えていました。
一方でアドベンチャー・コンサルタンツ隊を率いるロブ・ホールは、クライアントたちに「14時のタイムリミットは厳守すること。たとえ目前に頂上が見えていても、14時になったら下山するように」と厳しく告げていたといいます。
実際にアドベンチャー・コンサルタンツ隊でロブ・ホールの言葉に従い、14時に登頂をやめて下山したスチュアート・ハッチスン、ジョン・タースケ、ルー・カシシケの4名は、遭難せずに無事にキャンプに戻れています。
しかし、当のロブ・ホールは参加者に時間を厳守するように言っていたにもかかわらず、16時半の時点でエベレストの頂上にいたのです。
ロブ・ホールは、隊から大幅に遅れてはぐれてしまったダグ・ハンセンを待つため、1人で頂上に待機していました。
そうして1時間以上待ったところでダグ・ハンセンが現れたのですが、彼は体調を崩しており、自力での下山が困難であったことから、ロブ・ホールはサブガイドのアンディ・ハリスと協力しながらダグ・ハンセンを連れて下山を試みます。
しかし3人で南峰付近を移動している途中にダグ・ハンセンが滑落してしまい、アンディ・ハリスも行方不明になってしまったのです。
そして頂上に1時間もとどまっていたためにロブ・ホールもまた、体調不良で動けなくなってしまいます。
また、マウンテン・マッドネス隊の隊長であるスコット・フィッシャーも、標高8,400mのバルコニー付近で体調を崩し、動けなくなっていました。
14時以降の登頂は自己責任と言っていたスコット・フィッシャーは、15時40分頃に登頂を果たした後、しばらく山頂にとどまっており、それが原因で体調不良を起こしたとされます。なお、同時刻には台湾隊の高銘和も2人のシェルパを伴って登頂していました。
スコット・フィッシャーは同行していたシェルパ頭のロブサン・ザンブーに、先に下山して助けを呼んでくるように頼み、その場で待機することにします。
エベレスト大量遭難の時系列② 吹雪の夜
アドベンチャー・コンサルツ隊のガイドであるマイク・グルームと、マウンテン・マッドネス隊のガイドであるニール・ベイドルマンは、それぞれの隊のシェルパとクライアント合計11名の混合チームを作り、一緒に下山していました。
しかし、移動中に夜を迎えて猛吹雪に晒されたために下山ルートを見失ってしまいます。そのため、標高7,800mの場所にある第4キャンプまであと200mという場所にいながら、立ち往生することに。
難波康子もこのグループにいましたが、この頃には意識が朦朧とした危険な状態にあり、空になった酸素ボンベを必死に吸いながら、ニール・ベイドルマンに引きずられるようにして移動していたといいます。
結局、混合チームの11名は深夜まで吹雪のなかでビバークしていましたが、一瞬、雲が切れた隙間から第4キャンプの方向が把握できたため、動ける余力のある者がキャンプに助けを求めにいくことになります。
一方、シェルパ頭のロブサンも深夜になって第4キャンプにたどり着き、頂上付近にいるスコット・フィッシャーの救助を求めました。
ところがキャンプにいた者もほぼ全員が動けない状態になっており、唯一、救助に向かったのはサブガイドのアナトリ・ブクレーエフだけでした。
クライアントとして登頂に参加していたスチュアート・ハッチスンも何度か救助に向かおうとテントの外に出ましたが、強風と吹雪で二次被害を生む可能性があったために断念。
またテントを出たアナトリ・ブクレーエフも近くでビバークしていた5名のなかから、助かる見込みのあったサンディ・ピットマン、シャーロット・フォックス、ティム・マッドセンの3名のクライアントをキャンプに連れ帰るだけで精一杯でした。
そのため、第4キャンプの近くにいた難波康子、ベック・ウェザーズ、バルコニーの下にいたスコット・フィッシャーは救助されず、取り残されることになったのです。
エベレスト大量遭難の時系列③ スコット・フィッシャーの遺体発見
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翌11日の朝、台湾隊のシェルパが遭難者の捜索に出かけ、高銘和とロープで繋がれたスコット・フィッシャーの2人を発見します。
高銘和は顔と指、かかとに凍傷を負っていましたが生存確認ができたために救助されましたが、スコット・フィッシャーは発見時に虫の息でした。
シェルパは高銘和のみをキャンプに連れ帰り、スコット・フィッシャーはその後、息を引き取ったと見られています。
夕方になり、マウンテン・マッドネス隊のガイドであり、昨晩も遭難者の救助に出ていたアナトリ・ブクレーエフがバルコニー下に向かったところ、すでにスコット・フィッシャーは凍死していたとのことです。
また、同じく昨晩救助に向かおうとしていたスチュアート・ハッチスンも、夜が明けてから捜索を開始し、ベック・ウェザーズと難波康子を発見しました。
しかし、呼吸はあったものの2人の意識はすでになく、心臓専門医のスチュアート・ハッチスンは2人とも助からないと判断します。
ところがその後、奇跡的に意識を取り戻したベック・ウェザーズは何度も転倒しながら自力で第4キャンプに到着。顔や指に酷い凍傷を負い、片腕が完全に凍りついた状態ではありましたが、無事に一命をとりとめたのです。
エベレスト大量遭難の時系列④ ロブ・ホールの死
11日の朝、頂上付近で行方不明になっていたロブ・ホールから第4キャンプに無線連絡が入りました。
ロブ・ホールはダグ・ハンセンが亡くなったこと、アンティ・ハリスの行方がわからないこと、圧力調整弁が凍ってしまってボンベから酸素が吸引できないこと、そして自分の手足が凍傷で動かず、下山は困難であることを伝えたといいます。
そして昼頃、第4キャンプを経由して当時妊娠中であった妻に国際電話で最期の別れを告げました。この時、ロブ・ホールは生まれてくる娘の名前の候補を妻に伝えたとされます。無線は11日の夕方までは繋がっていましたが、その後は切れてしまいました。
なお、実際に妻はロブ・ホールの死後に生まれてきた娘に、夫から遺言として託された名前をつけたそうです。
エベレスト大量遭難の時系列⑤ 下山
5月12日、第4キャンプにいたメンバーは下山の準備を開始します。
前日に奇跡的に自力でキャンプにたどり着いたベック・ウェザーズでしたが、その後は低体温症のために何度も意識を失っていました。そのためメンバーたちは下山は困難と判断し、彼をキャンプにおいて山を出ようと決めたといいます。
しかし12日の朝になってベック・ウェザーズのテントを覗くと、なんと意識を取り戻して下山の準備をしていたことから、救助隊の力を借りて一緒に下山すること変更。
ベースキャンプまでの移動は困難を極めましたが、仲間やIMAX撮影隊などの助けを得ながら、なんとかベック・ウェザーズも標高6,000m地点まで到着し、そこからはアメリカで帰りを待つ妻の陳情などにより、救助のヘリコプターが向かったことで無事に下山できました。
エベレスト大量遭難の死者と死因
エベレスト大量遭難の死者は以下の5名と、別ルートで同日に登頂していたインド・チベット国境警察隊の隊員3名の合計8名です。彼らの死因は凍死とされています。
・ロブ・ホール(アドベンチャー・コンサルタンツ隊隊長)
・スコット・フィッシャー(マウント・マッドネス隊隊長)
・アンディ・ハリス(アドベンチャー・コンサルタンツ隊ガイド)
・ダグ・ハンセン(アドベンチャー・コンサルタンツ隊クライアント)
・難波康子(アドベンチャー・コンサルタンツ隊クライアント)
エベレストの標高8000m以上の地点は、極端に酸素が薄くなることから「デス・ゾーン」と呼ばれています。
デス・ゾーンでは酸素濃度が地上の3分の1程度しかなく、登頂時に酸欠から意識混濁に陥るケースも多いとされているのです。
エベレスト大量遭難で亡くなった5名も長時間山頂付近にいた人が多く、キャンプに移動する前から意識が安定していなかったとの報告が見られます。
そのため5名の犠牲者は、酸欠から意識障害を起こし、動けなくなって凍死したと考えられています。
エベレスト大量遭難の原因
エベレスト大量遭難は登山の商業化が招いた事故とされており、ガイドやシェルパらが登山経験の乏しいクライアントの要望に添いながら登頂したことから、下山時刻が守られず、結果として吹雪に見舞われて死者が出る事態になりました。
たとえばロブ・ホールとアンディ・ハリスは、遅れを取っていたクライアントのダグ・ハンセンを頂上で待ったことが原因となって亡くなっています。
これについては1996年の前年にもダグ・ハンセンはエベレスト登頂に挑戦し、途中で断念したいたため「なんとか今年は登頂成功させてやりたい」という気持ちが、ガイド側にもあったのではないかと言われています。
700万円もの大金を支払っているクライアントの要望に答えたいという気持ちや、登頂成功率をあげて来年の参加者を増やし、同業他社より利益を上げたいという気持ちが経験豊富なガイド達の判断を鈍らせてしまったのではないか?と指摘されているのです。
エベレスト大量遭難以降、商業登山の問題点が批判されるようになりましたが、現在も多くの旅行会社が公募隊でのエベレスト登頂を企画しており、エベレスト登頂付近の渋滞が問題視されています。
なお、エベレスト大量遭難でスコット・フィッシャーを亡くしたマウンテン・マッドネスは、「山に出る覚悟や資格の伴っていない参加者が多すぎる」という理由から、現在はエベレスト登頂はおこなっていないそうです。
エベレスト大量遭難のその後① 生存者の現在
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奇跡的に生還できたベック・ウェザーズは凍傷で右肘の先と左手の指、鼻、両足の一部を失うという大きな被害を負いました。
しかし、ベック・ウェザーズは形成手術で失われた体の一部を再建し、病理医に復帰しています。また、エベレスト大量遭難の経験を綴った手記『死者として残されて―エヴェレスト零下51度からの生還』も出版しました。
ベック・ウェザーズとともにヘリコプターで救助された高銘和も、凍傷で両手の指すべてと鼻と両足のかかとを失ったといいます。
エベレスト大量遭難のその後② 遺体の回収
エベレスト大量遭難で命を落としたロブ・ホールの遺体は、発見後も長らく亡くなったとされる標高8,690m地点にありました。
エベレストから遺体を搬出するのは非常に困難であり、経験豊富な登山家が複数人集まったチームであっても、無事に遺体をベースキャンプまで持ち帰れるか保障できないといいます。
とくに高所で亡くなったロブ・ホールの遺体は、動かすのも難しい状態だったことから、家族のもとに戻れなかったのだそうです。
同じくスコット・フィッシャーの遺体もメインルートから外れた場所に移動されたものの、搬出はされずに残されたままとなっていました。
しかし、2010年になってエベレストで働くシェルパのグループ「エクストリーム・エベレスト・エクスペディション2010」のメンバーらが、ロブ・ホールとスコット・フィッシャーの遺体を収容したと報じられています。
このシェルパたちは、20人から成る「エクストリーム・エベレスト・エクスペディション2010」のメンバーだ。彼らは、世界最高峰のエベレストで遺体を収容し、登山者が残した廃棄物を回収している。今回彼らは、1996年にほかの登山家7人とともに遭難したアメリカ人登山家のスコット・フィッシャーと伝説のニュージーランド人登山ガイド、ロブ・ホールの遺体も収容した。
その後については詳しく報じられませんでしたが、同時期に収容されたほかの遺体と同様にベースキャンプで荼毘に付されたものと思われます。
また、難波康子の遺体も2007年にシェルパによって搬出され、遺族立ち会いのもとベースキャンプで荼毘に付されたとのことです。
なお、アナトリ・ブクレーエフは「もしかしたら助けられたかもしれない」と、第4キャンプから200mの地点に難波康子を放置してしまったことを後悔し続け、後に彼女の遺品を回収して日本の家族に届けたといいます。
エベレスト大量遭難を題材にした映画
[youtube https://www.youtube.com/watch?v=6H9hN1rlNH4]
エベレスト大量遭難は映画のモチーフにもなっており、1997年には『エベレスト 死の彷徨』、2015年には『エベレスト 3D』が公開されています。
『エベレスト 死の彷徨』は実際にエベレスト大量遭難でツアーに参加していた『アウトドア』誌の記者、ジョン・クラカワーの回想録を映像化したテレビ映画で、ドキュメンタリータッチの作品です。
また『エベレスト 3D』は映像の美しさと3Dの効果で没入感があり、自分も遭難者になったような恐ろしさが味わえる傑作です。
エベレスト大量遭難についてのまとめ
今回は1996年に起きたエベレスト大量遭難について、事故が起きた原因や参加メンバーのその後をふくめて紹介しました。
登山家にとって登山の醍醐味は「山頂に至るまでの過程」なのに対して、公募隊の参加者にとって登山の意味は「山頂に行けたという充足感にのみある」とも言われています。
この事故が起きた最大の原因は「お金を出せば誰でもエベレストに登れる」という制度を作ってしまったことや、登山に不慣れな富裕層に「エベレスト登頂はステータス」と思い込ませてしまった点にあるのでしょう。