中村遊廓の現在!歴史と地図・大門や遊び方・心霊現象や事件を総まとめ

戦前の日本には、全国各地に遊郭がありました。その中の1つが中村遊郭です。日本最大級で遊興代が高いと言われた中村遊郭の概要や歴史、地図や行き方、遊び方、大門の意味、中村遊郭関係の事件や心霊現象と現在をまとめました。

中村遊郭は名古屋最大の遊郭

出典:mainichi.jp

 

中村遊郭は愛知県名古屋市中村区にあった遊郭です。大正12年から開業して以降、中村遊郭は全国的にも有名になり、日本最大級の遊郭になりました。

しかし、終戦後はGHQの登楼禁止令や1958年の売春防止法のあおりを受けて、中村遊郭は衰退していき、現在は当時の面影すらない状態になっています。

 

 

日本最大級の遊郭

中村遊郭は全盛期と言われる1937年(昭和12年)は、日本最大級の遊郭でした。遊郭とは、簡単に言えば「公に認められた売春街」のことです。戦前は花街や色町、廓と呼ばれ、戦後は赤線と呼ばれていました。

 

中村遊郭は1937年には日本最大級の遊郭に成長していました。

 

・娼家:138軒(または147軒)
・娼妓:約2,000人
・一軒の抱え娼妓:13~30人

 

当時の厚生省の調査によると、昭和12年(1937年)当時、全国に娼妓は44,908人いました。

 

そのうち、2,000人が中村遊郭にいたということになります。当時、遊郭は全国にたくさんありましたし、吉原や島原など有名遊郭もある中、中村遊郭に全国の娼妓の約4.5%が集まっていたと考えると、中村遊郭がいかに大きな遊郭だったかがわかります。

 

名古屋新聞によると、1934年の正月3日間(松の内3日間)で訪れた客は2万7,624人とのことです。1日で9,000人以上の男性が娼妓を買いに訪れたと考えると、とんでもない規模の遊郭ですよね。

 

 

堀に囲まれた遊郭

出典:google.com

 

中村遊郭は四方を堀に囲まれていた遊郭でした。中村遊郭の外周を幅一間の堀でぐるっと取り囲み、四隅の道は斜めにして、不等辺八角形にすることで、遊郭を外から覗くことができないようにしていました。これは、東京の吉原遊郭をまねて作った造りになっています。

 

このように中村遊郭の周りを堀で囲むように作ったことで、客は必ず門を通らないと遊郭に出入りできないようになりますので、不審者や犯罪者などが遊郭に紛れ込むのを防ぐ意味があったのでしょう。

 

また、同時に遊女(娼妓)が簡単に逃げられないようにする意味があったものと思われます。

 

 

日本最高級の遊郭

中村遊郭は日本最大級の遊郭だっただけでなく、日本最高級の遊郭でもありました。

「中村は遊興代の高いことに於て日本一」と言われていて、昭和7年の時点で、一流楼あたりで1時間2円50銭くらいでした。

 

さて、昭和八年四月号の『郷土風景』によると、中村遊郭は全国一の代遊郭で規模の広大な点では他の追従を許さない。移転当時各戸が争って普請に金をかけたので東京や大阪に見るこせこせしたインチキ建築とは比べ物にならない。

 

引用:中村遊郭ぞめき 旭連 : 花街ぞめき Kagaizomeki

 

中村遊郭は建物や遊ぶ部屋が豪華で、しかも美人ぞろいだったため、遊興代が高かったようです。

 

 

中村遊郭の歴史

成立まで

出典:ameblo.jp

 

遊郭は安土桃山時代から全国各地にあったとされていますが、名古屋は例外でした。

 

名古屋の遊郭は1610年に徳川家康が飛田屋町廓を許可しましたが、間もなく廃止。1731年に藩主の徳川宗春が遊郭の許可を出して、西小路遊廓、富士見原遊廓、葛町遊廓などが作られましたが、西小路遊廓から出火して火事が起こったために再び禁止されました。

このような歴史があったため、名古屋には遊郭はなく、百花と呼ばれた私娼たちが遊郭の役割を担っていました。

 

明治時代に入り、1874年には名古屋で遊郭の開業が許可され、1875年には現在の大須観音駅近くに旭廓と称する遊郭が生まれました。

 

この旭廓は女紅場(習い事の施設)が新設され、どんどん発展し、1905年ごろには娼妓1,618人が在籍するほどの規模になりました。

 

すると、この旭廓では手狭になってきたこと、さらに名古屋市が発展してきて、街の中心部に遊郭があるのは風紀上良くないという意見が出てきて、旭廓の移転問題が論じられるようになりました。

 

1912年には当時の県知事が現営業地での営業は4年限りとして、別の場所に移転することが決まりました。

 

この移転候補地は最初は稲永新田(現在の港区錦町)でしたが、疑獄事件が起こったため、愛知郡中村(現在の中村遊郭)への移転が決まりました。

 

 

戦前の最盛期

出典:twitter.com

 

旭廓が移転して中村遊郭が開業したのは1923年(大正12年)4月1日でした。中村遊郭が開業して以降、徐々に発展していき、開業から2年後の1925年には遊客数は1日あたり2,000人を超えるようになりました。

 

この中村遊郭の建築物は建物の高さは高いけれど、すべて総二階建ての建物で、高さが揃っていました。また、一軒一軒入念に作られていて、質の高い建物が並び、高級感が溢れていました。

 

この中村遊郭は豪華絢爛な遊郭として知られていて、昭和3年と昭和8年には京都島原から専門家を招いて、花魁道中の催しを行っています。この花魁道中は愛知県内からだけでなく、他県からも見物客が押し寄せて、未曾有の盛況を見せています。

 

しかし、1937年に日中戦争が始まると、戦時体制が強化されて、中村遊郭への客足が少なくなっていきました。太平洋戦争が始まると、娼家は19軒・娼妓は220人に縮小され、休業することになった娼家は三菱航空・三菱発動機・大同製鋼などの軍需工場の寮として使われることになりました。

 

また、戦災で55軒が焼失しています。

 

 

戦後に衰退

出典:homes.co.jp

 

太平洋戦争で軍需工場の工員の寮として使われ、さらに戦災で55軒が焼失していた中村遊郭は終戦時点で19軒しか営業を続けていませんでした。全盛期は138軒(もしくは147軒)でしたから、中村遊郭が戦争によって一気に衰退してしまったことがわかります。

 

戦後は進駐軍軍人が遊びに来るようになり、一時的に大盛況になりましたが、終戦から4ヶ月後の1945年12月15日には進駐軍から登楼禁止令が発せられ、再び客足が落ちました。

 

日本政府は公娼制度の廃止を通達しましたが、実際は、「特殊飲食店」という名義に変更すれば、今までの遊郭と同じような営業内容を認めるというものでした。そのため、中村遊郭は「名楽園組合」と名前を変え、娼妓を芸妓と名前を変えました。

 

さらに1946年には特殊カフェーと改称して、芸妓を給仕婦と改めて、営業を続けています。このように中村遊郭は政府公認の赤線となり、1953年には営業しているのは81軒、給仕婦(娼妓)は約900人にまで回復しています。

 

 

売春防止法以降

中村遊郭は赤線として回復してきましたが、1958年に売春防止法が施行されることが決まりました。売春防止法が施行されれば、赤線としての営業もできなくなります。

 

そこで、名楽園(中村遊郭)は転業・廃業を余儀なくされました。トルコ風呂(ソープランド)に転業したのは約10件、飲食店に転業したのは約20軒、旅館に転業したのは約40軒でした。

 

しかし、旅館は供給過剰な状態であり、ソープランドも同じ東海地方の金津園(岐阜市)と比べると小規模で、劣勢な状況になっていました。さらに、中村遊郭のセールスポイントの1つだった豪華な建築物も老朽化が進んでいます。

 

中村遊郭は名古屋市唯一のソープランドが集中している地区であるものの、過去のような華やかさはまったくなく、金津園にも大きく後れを取った状態になっています。

 

 

中村遊郭の地図・行き方

出典:google.com

 

中村遊郭は名古屋市中村区の日吉町・寿町・大門町・羽衣町・賑町の5つの町にまたがるエリアにありました。5つの町からなっていたため、当時から五町街(ごちょうまち)または五丁町(ごちょうまち)と呼ばれることもありました。

 

名古屋駅西口からは徒歩15分、地下鉄東山線の中村日赤駅からは徒歩10分の場所にあります。交通の便が非常に良い場所と言えるでしょう。中村遊郭は現在、ピアゴ中村店が中心部にあります。

 

中村遊郭は計画的に作られた街並みで南北に3本、東西に5本のほぼ垂直に交わる通りの中にあります。旭廓が移転してくる前は、何もない草の生えた空き地・田畑でした。

 

そのため、中村遊郭を建設するための整地作業にはたくさんの土が必要で、その土を用意するために、中村遊郭の西隣のエリアから土砂を掘ることになりました。大量の土砂を掘ったため、そこは池になり「遊里ヶ池」が生まれています。この遊里ヶ池はボートや魚釣りで賑わう憩いの場所になり、夏には花火大会も行われるようになりました。

 

しかし、1937年に埋め立てられていて、名古屋第一赤十字病院が建設されました。つまり、名古屋第一赤十字病院のすぐ東隣りあたりが、中村遊郭の場所となります。

 

ちなみに、中村遊郭は北に行くほど高級店が多いと言われていました。

 

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中村遊郭では娼妓は大門から外に出られなかった・・・

出典:shotengaiopen.nagoya

 

中村遊郭では、娼妓は大門から自由に外に出ることはできませんでした。

 

日本では1872年に芸娼妓解放令が出されていて、娼妓たちの人権は法律上は守られていましたが、実際は外出を制限されていて、自由な外出は禁止されていたんです。

 

自由な外出を認めてしまうと、逃げられる可能性が高いからですね。逃げられないために、大門からの外出を制限し、さらに四方を堀で囲んでいました。中村遊郭の娼妓は籠の中の鳥だったのです。

 

 

中村遊郭の遊び方

 

出典:jouhou.nagoya

娼妓の選び方

中村遊郭の建物は、木造の二階建ての建物で高さも揃えていました。1階には玄関と帳場と張見世があり、この張見世は格子状になっていて、娼妓を直接見て選べるようになっています。中にはこの格子を外せるようになっていたこともあったのだとか。

 

しかし、この張見世で娼妓を直接選べるシステムは昭和初期で終わりになり、昭和5年ごろからは店の玄関に置かれた看板写真に変わるようになりました。現在のキャバクラや風俗のシステムに近いかもしれません。

 

 

娼妓の部屋でサービス

客が娼妓を選んだら、建物の2階に上がります。建物の中央には坪庭が設けられていて、2階はその坪庭を取り囲むように廊下があり、廊下に面して客室が配置されていました。

 

この客室は客に娼妓がサービスをする場であると同時に、娼妓の生活の場でもありました。つまり、娼妓は自分の部屋に客を招き入れるということになります。

 

これは男性客にとっては興奮要素の1つですよね。推しの嬢の部屋に招かれて、そこでプレイをするわけですから。

 

 

中村遊郭には美人の娼妓が多かった理由

出典:twitter.com

中村遊郭の娼妓は、美人が多かったと言われています。美人が多かったことが、ほかの遊郭に比べて遊興費が高かった理由の1つと言われています。

 

なぜ、中村遊郭には美人の娼妓が多かったのか?それは、待遇が良かったからかもしれません。中村遊郭は大門から自由に外出することができず、生活に制限がありましたが、白飯の食事が保証されていました。太平洋戦争の戦後一時期を除いて、白飯が出されていたんです。

 

これは、貧しい家庭育ちの女性にとっては裕福な暮らしだったと言えます。だから、中村遊郭は貧しい家庭出身の美人な娼妓を集めることができたのでしょう。

 

また、中村遊郭は長唄や西川流の舞踊ができるような芸妓出身の女性も多かったとのことです。

 

長唄や清元が盛んで土地の西川流の舞踊も心得て居り、下手な市中の芸者も近づけない気品をもっていたとのこと。
これは即ち他の一流芸妓が何らかの理由で芸妓を辞め、中村遊郭に来て娼妓をやっている事を示唆しています。

 

引用:中村遊郭ぞめき 旭連 : 花街ぞめき Kagaizomeki

 

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白米で美人を集めると、それが評判になり、訳アリの一流芸妓もどんどん集めることができたということなのかもしれません。

 

 

中村遊郭の事件①:稲永疑獄

出典:yonezawakoji.com

 

中村遊郭に関係する事件の1つ目は稲永疑獄です。

 

中村遊郭は1912年に旭廓からの移転が決まり、1923年4月に中村遊郭に移転しましたが、この移転問題の中で贈収賄があったのではないかと言われています。それが稲永疑獄です。

 

実は、移転問題が持ち上がった当初、旭廓は中村ではなく稲永新田への移転が計画されていました。そして、この稲永新田は十六銀行頭取・衆議院議員などを務めた渡辺甚吉が地主として土地を持っていた場所でした。

 

1911年に渡辺甚吉は前愛知県知事である深野一三に、「旭廓は稲永新田に移転するように」と依頼します。遊郭が移転してくれば、土地の値段が上がります。さらに遊郭の場所だけでなく、その周辺も栄えるのです。だから、地主としては稲永新田にぜひとも遊郭を移転させたかったんです。

 

そして、それを実現するために、愛知県知事や名古屋市長を巻き込みます。候補地を安いうちに購入しておいて、移転が決まって土地の値段が高騰してから高く売る計画を持ち掛けました。安く買って高く売る。そして、その差額は知事や市長に・・・。だから、稲永新田に遊郭を移転させてくれと依頼したんですね。

 

しかし、渡辺甚吉は詐欺容疑で逮捕され、さらに前愛知県知事の深野一三や前名古屋市長で名古屋電燈社長の加藤重三郎、名古屋商業会議所会頭奥田正香や、兼松熙、安東敏之らも逮捕されました。

 

渡辺甚吉、兼松熙、加藤重三郎、深野一三、安東敏之らは一審では懲役刑を受けたものの、控訴した結果証拠不十分で無罪となっています。

 

ただ、この稲永疑獄によって、稲永新田への移転は立ち消えになり、中村遊郭への移転が決まりました。

 

 

中村遊郭の事件②:首なし娘事件

出典:yattokame.jp

 

中村遊郭に関連する事件の2つ目は、首なし娘事件です。この首なし娘事件は、直接中村遊郭と関係しているのではなく、中村遊郭近くで発生した恐ろしい殺人事件です。

 

中村遊郭が全盛期を迎えようとしていた時期の1932年2月8日、中村遊郭の南大門からたった数百メートル離れた畑の中にある鶏糞納屋で恐ろしい女性の死体が発見されました。

 

この納屋を所有している男性が鶏糞処理のために1週間ぶりに納屋に入ると、いつもとは違う異臭がしました。うす暗い納屋の中を目を凝らしてみると、女性の死体が横たわっていました。しかも、その死体には首がなかったんです。

 

警察がその死体を調べると、もっと恐ろしいことが判明しました。

 

・頭部が切断されていた
・両乳房がえぐり取られていた
・陰部がえぐり取られていた
・へそがえぐり取られていた

 

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捜査の結果、この女性は19歳の女性であることがわかり、この女性と交際していた和菓子職人の男性(43歳)が行方不明になっていたため、この男性が女性を殺害したものとみて、指名手配をしています。

 

遺体が発見されてから3日後の2月11日、木曽川の河原で被害者の頭部と遺留品が発見されました。この頭部は頭髪と頭部がはぎとられていて、眼球がえぐられ、下顎が刃物で損壊されていました・・・。

 

そして、遺体発見から約1ヶ月後の3月5日、女性の頭部が発見された場所の近くの物置で、犯人の男性の首吊り遺体が発見されました。この男性の遺体も異様なものでした。

 

・頭髪がついたままの女性の頭皮をカツラのように被っていた
・被害者の女性の手袋と赤毛糸のシャツを着用していた
・右ポケットからは被害者の女性の眼球が出てきた
・左ポケットからは左耳とへそが出てきた

 

物置の冷蔵庫からは腐敗した2個の乳房と陰部が出てきました。しかし、大陰唇と小陰唇は亡くなっていたために、犯人の男性が食べたのではないかと見られています。

 

この男性は仕事がうまくいかない中、被害女性と関係を持つようになり、被害女性と添い遂げるためには死ぬしかないと思って犯行に及んだものと見られています。そして、最終的に愛する女性との一体化を望んで、遺体を解体し、遺体の一部を身につけて自殺をしたようです。

 

この事件は直接的には中村遊郭と関係はありませんが、事件の内容と中村遊郭近くで起こったことを考えると、「男と女の怨念」を感じずにはいられません。

 

 

中村遊郭は心霊現象が多く報告されている

出典:4travel.jp

 

中村遊郭では心霊現象が多く報告されています。前述で中村遊郭を建設するためにたくさんの土砂が必要で、それを掘った場所は遊里ヶ池になり、花火やボート、魚釣りなどをする憩いの場になったと説明しました。

 

しかし、この遊里ヶ池は地元民の憩いの池というだけではなく、娼妓の遺体がたくさん発見された場所でもありました。

 

遊郭で働くことを悲観したり、精神を病んでしまった娼妓はこの遊里ヶ池で投身自殺をしたと言われています。また、病気などで亡くなった身寄りがない娼妓の遺体や中村遊郭の内部で自殺をした娼妓の遺体は、きちんと埋葬されずに、この遊里ヶ池に遺棄されたことも多かったようです。

 

つまり、中村遊郭近くの遊里ヶ池は、娼妓たちの悲しみ・恨み・怨念を飲み込んできた池だったということですね。

 

娼妓の霊を慰めるため、さらに自殺防止のために女性の幸福を守る守護神として、琵琶湖の竹生島から七福神で唯一の女神である弁財天を迎えて弁天寺が建立されました。また、弁天寺には弁財天のほかに大日如来や不動明王、稲荷神、地蔵菩薩なども祀られていました。

 

しかし、1935年ごろにはこの遊里ヶ池は埋め立てられ、名古屋第一赤十字病院が建設されました。弁天寺は移転することになり、病院内に弁財天の分身を残すことになっています。

 

中村遊郭の近くの遊里ヶ池はこのような経緯を持った場所なので、中村遊郭やその近くでは女性のすすり泣く声や女性の霊、水子の霊などの目撃情報があるんだとか・・・。

 

病院も霊が多い場所と言われていますので、中村遊郭と遊里ヶ池跡に立つ名古屋第一赤十字病院周辺では、心霊現象がいろいろと起こっていそうですね。

 

 

中村遊郭の現在

出典:homes.co.jp

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中村遊郭は現在、ほとんど当時の面影を残していません。

 

戦後に「特殊カフェー」という名の赤線になり、1958年の売春防止法施行以降は、旅館や飲食店、ソープランド(トルコ風呂)などになりましたが、岐阜の金津園のようにうまく転換・転業することができず、どんどん廃れていくことになりました。

 

1973年1月1日の時点で、中村遊郭はトルコ風呂18軒、サウナ1軒、バー48軒となっていました。そして、2009年時点ではソープランドは10軒となっています。中村遊郭は名古屋市内で唯一のソープランド集中地区ですが、それでも10軒しかありません。

 

1937年の最盛期には娼家138軒(または147軒)だったことを考えると、「廃れた」と言っても良いでしょう。

 

しかも、現在は当時の建物も解体されつつあります。中村遊郭は建物も豪華で大正末期当時の建築技術を最大限に用いて建てられたものが多く、文化財としての価値もありました。戦災を免れて生き残った建物も平成に入ると老朽化が進んでいきます。

 

長寿庵・旧松岡旅館・料亭 稲本・料理旅館 大観荘の4つは名古屋市都市景観重要建築物に指定されましたが、2004年には大観荘が、2014年長寿庵が、2018年には料亭稲本が取り壊され解体されてしまいました。

 

現在、中村遊郭があった当時の建物は、旧松岡旅館だけです。旧松岡旅館は現在、デイサービスセンターとして使われています。

 

中村遊郭の現在をまとめてみると、以下のようになります。

 

・中村遊郭の流れをくむソープランドは10軒だけ
・堀の跡は小道として一部が残っている
・中村遊郭の中心部だったところはピアゴ中村店というスーパー
・遊郭の建物は取り壊され駐車場や新しい建物になっている
・当時の遊郭の建物は旧松岡旅館だ

 

地元では中村遊郭があった場所を「新大門商店街」として活性化を目指していますが、中村遊郭の面影はほとんどない状態です。

 

 

中村遊郭のまとめ

中村遊郭の概要や歴史、地図や行き方、遊び方、中村遊郭に関係している事件や心霊現象の噂、現在をまとめました。

 

遊郭というと、売春街というイメージが強いかもしれませんが、中村遊郭は日本の歴史を振り返る上で、さらに文化財として重要なものだったと言えるでしょう。最後の1つである旧松岡旅館の建物は、何とか残ってほしいですね。

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