フライデー襲撃事件とは、1986年12月にビートたけしさんとたけし軍団のメンバーが『FRIDAY』の編集部を襲撃した事件です。この記事ではフライデー襲撃事件がなぜ起きたのか、原因やその後、海外の反応、渦中にいた女性の現在について紹介します。
この記事の目次
- フライデー襲撃事件の概要
- フライデー襲撃事件に参加したたけし軍団のメンバー一覧
- フライデー襲撃事件に参加しなかったメンバーとその理由
- フライデー襲撃事件はなぜ起きた?事件の原因
- フライデー襲撃事件のその後① ビートたけしとたけし軍団の逮捕
- フライデー襲撃事件のその後② 裁判
- フライデー襲撃事件のその後③ マスコミに与えた影響
- フライデー襲撃事件のその後④ 芸能界の反応
- フライデー襲撃事件のその後⑤ 政界の反応
- フライデー襲撃事件のその後⑥ 謹慎中のたけし軍団
- フライデー襲撃事件のその後⑦ ビートたけしの会見がかっこいいと話題に
- フライデー襲撃事件のその後⑧ 海外の反応
- フライデー襲撃事件のその後⑨ 渦中にいた女性の現在
- フライデー襲撃事件についてのまとめ
フライデー襲撃事件の概要
1986年12月9日の午前3時過ぎ、講談社の写真週刊誌『FRIDAY』の編集部が、ビートたけしさんと彼の弟子であるたけし軍団のメンバー合計12名によって襲撃を受けるという事件が起こりました。
編集部に乗り込んだ原因は、当時たけしさんが親密にしていたとされる一般人の女性が『FRIDAY』の契約記者に付きまとわれた挙げ句、怪我を負わされたことでした。
当初、たけしさん側はこの件について謝罪と今後の取材方法の改善を求めて話し合うつもりでいたといいます。しかし、『FRIDAY』編集長らから挑発ともとれる態度をされて、乱闘にまで発展したのです。
この事件によって『FRIDAY』編集部側に5人の負傷者が発生し、たけしさんらは現行犯逮捕されておよそ8ヶ月間芸能活動を自粛することとなります。
事件発覚後はマスコミの過剰な取材の是非と報道の自由について議論がされ、社会からも「暴力はよくないが、週刊誌側も悪質ではないか」「芸能人にも報道されない自由があるはずだ」と同情的な声も多くあがりました。
フライデー襲撃事件に参加したたけし軍団のメンバー一覧
フライデー襲撃事件にはたけし軍団とたけし軍団セピアから11人のメンバーが参加していました。ここでは襲撃に参加したメンバーについて紹介していきます。
①ガダルカナル・タカ
映画やドラマに多数出演し、現在は俳優として活躍しているガダルカナル・タカさんは、29歳時にフライデー襲撃事件に参加しました。
タカさんは事件の詳細や、主要メンバーがたけしさんに弟子入りしたきっかけなどをまとめた『我愛と青春のたけし軍団』の監修を務めています。
②そのまんま東(東国原英夫)
現在は本名で政治評論家などをしている東国原英夫さんも、29歳時にフライデー襲撃事件に参加していました。
そのため宮崎県知事に立候補、当選した際には『FRIDAY』の誌上で「暴力知事」と非難され、本人も「フライデー襲撃事件から20年も経っているのに講談社から恨まれている」と語っていました。
また、たけしさんの一番弟子という立場から師匠に着いていったものの、本当は当時執筆していた推理小説で小説家デビューを目指していたこともあり、できれば暴力沙汰には関わりたくなかったことも明かしています。
しかし、重量オーバーを狙って一番最後に講談社のエレベーターに乗り込んだところ降りる時には先頭になってしまい、仕方なく降りたところを「先陣を切る東」「いの一番に乗り込む東」と報じられてしまったとのことです。
なお、東さんは暴力反対だったと主張していますが、事件について警察の資料をもとにまとめた書籍『たけし事件 怒りと響き』では「そのまんま東は机の上に乗って消化器を噴射し、椅子を振り回していた」といった記述が見られます。
そのため、いやいや着いて行ったものの最終的には師匠を侮辱されてキレたのでは?とも指摘されています。
③ダンカン
2005年には『七人の弔』で映画監督デビューを果たしたダンカンさん。フライデー襲撃事件当時は27歳で、「ふんころがし」という芸名で活動していました。
後にダンカンさんは日刊ゲンダイに連載していた「ダンカンの笑撃回顧録」で襲撃事件時のことを振り返り、「警察に連行されていったメンバーはピクニック気分だった」「逮捕された後にも警察相手にふざけていた」「この後自分がどうなるのかよりも、洗濯機に残してきた洗濯物のことばかり気にしている奴もいた」と綴っています。
④グレート義太夫
現在はミュージシャンとしても活動しているグレート義太夫さんも、27歳時にフライデー襲撃事件に参加していました。
長髪で恰幅が良かったことから、事件時に消化器を持って暴れたことを「たけし軍団の弁慶」と報じられ、揶揄されたといいます。
⑤大森うたえもん
お笑い芸人時代にコンビを組んでいた東国原英夫さんの活動を支援するかたちで宮崎県に移住し、現在も宮崎でローカルタレントとして活動している大森うたえもんさん。
フライデー襲撃事件当時は27歳でした。なお、大森さんは数年前に横峯さくらさんの父・横峯良郎さんのYou Tubeチャンネルに投稿された「フライデー襲撃事件の真相」という動画に出演しています。
しかしタイトルに反してほぼ全編に渡って横峯さんが話しているだけの動画で、大森さんを招いているにもかかわらず襲撃事件のインタビューはほとんどなかったことから、「大森さんの話が聞きたかったのに」等、残念がるコメントが寄せられました。
⑥柳憂怜
現在は俳優として活動している柳憂怜さんも、お笑い芸人・柳ユーレイ時代に23歳でフライデー襲撃事件に参加していました。
柳さんは北野武監督の『3-4X10月』で演技経験のない状態で主役に抜擢されて以降、『女優霊』『呪怨』『リング』など数々のヒット映画に出演し、一時期は俳優として活動するためにたけし軍団を離脱していました。
しかし、その間も『アキレスと亀』など北野作品には出演しており、2018年にオフィス北野からたけしさんが独立するというお家騒動があった際には「たけし軍団の一軍メンバー」として名前が挙げられていたことから、軍団との縁はまだ続いていると思われます。
⑦松尾伴内
柳憂怜さんよりも少し前から『ビートたけしのオールナイトニッポン』収録後のニッポン放送の前で出待ちを続け、たけしさんに弟子入りを願い出たという松尾伴内さん。
外部修行として引き受けた明石家さんまさんとTV出演をすることも多いため、たけし軍団のメンバーだと知らなかったという方も少なくないかもしれませんが、松尾さんも23歳の時にフライデー襲撃事件に参加していました。
たけし軍団セピアのメンバー
たけし軍団の2軍とされている「たけし軍団セピア」に所属していた、大阪百万円さん(当時23歳)、キドカラー大道さん(当時22歳)、サード長嶋さん(当時20歳)、水島新太郎さん(当時19歳)も、フライデー襲撃事件に参加していました。
なお、水島新太郎さんは事件当時19歳であったため報道では「少年A」とされていました。
フライデー襲撃事件に参加しなかったメンバーとその理由
たけし軍団の主要メンバーのなかで、フライデー襲撃事件に参加しなかったのはラッシャー板前さん、井手らっきょさん、つまみ枝豆さんの3人です。
ラッシャー板前さんは事件直前に痔の手術をしており、体調が万全ではなかったために参加ができなかったといい、井手らっきょさんは連絡がつかなかったために不参加だったことが明らかになっています。
つまみ枝豆さんについては若い頃に暴走族や右翼団体『防共挺身隊』に所属していたことや、右翼活動中に逮捕されたという前科もあることから「連れて行ったら何をするかわからない。襲撃の話はしないでおこう」とたけしさんが判断したために不参加だったとの噂がまことしやかに囁かれていました。
しかし、フライデー襲撃に参加したキドカラー大道さんが2021年に自身のTwitterアカウントで、噂の真相について以下のように語っています。
「水曜日のダウンタウン」のドッキリ企画でつまみ枝豆さんを引っ掛けたって?そりゃやばいよ。あの人ホンモノだから。俺も何度か襟首掴まれてどやされた事あるし。でも危ないからフライデーに呼ばれなかったってエピソードはウソです。単に電話がつながらなかっただけ。俺が電話した当事者なので。
— キドカラー大道 (@kdcl_ohmichi) July 21, 2021
ただ、この時に電話が繋がらなかったというのは結果的にたけしさん達にとっても、枝豆さんにとっても幸いだったようです。
井手らっきょさんから「殿が捕まったらしい!」という電話連絡を受け、たけしさんや仲間が逮捕されたことを知った枝豆さんは激怒し、1人で講談社に乗り込んで事件の原因となった記者を襲撃しようとしていました。
しかし、留置場にいたたけしさんが枝豆さんの性格から1人で事を起こすのでは、と心配して捜査官に頼んで彼に電話を入れ、「今は大人しくしておくように」と告げたためにこれを断念したといいます。
フライデー襲撃事件はなぜ起きた?事件の原因
たけしさんがフライデー襲撃事件を起こした原因は、愛人関係にあった21歳の専門学生の女性(当時の報道では大学生と紹介されていた)が、『FRIDAY』の契約記者が怪我を負わせたことでした。
かねてから『FRIDAY』以外の写真週刊誌もこの女性をつけ狙っていたといい、たけしさんは「相手は素人だから。向こうに行くのはやめてくれ」と、聞きたいことがあるのならば女性ではなく自分のところにくるよう、出版社に申し出ていたといいます。
しかし『FRIDAY』編集部はこの申し入れを無視して、女性が通う学校付近で待ち伏せをして写真を撮るなどしていました。
そして襲撃事件の前にも通学中の女性の前に立ちふさがり、たけしさんとの関係についてしつこく質問し、「何も話せない」という彼女の顔にテープレコーダーを突きつける、腕を引っ張るなどして、頚椎捻挫、腰部捻傷という全治2週間の怪我を負わせたのです。
しかも、この記者は『FRIDAY』の記者であることを明かさず、フリーライターとしてたけしさんに近づいていたとされます。
たけしは「フリーのライターが『全然お金がないんだけど、あなたの取材をさせてくれたら、それを出版社に売っていくらかになるので、悪口は書きませんから』って手紙をくれて、かわいそうだから会ったんだよ。で、『現場に行っていいですか?』って言うから来るようになって、楽屋にいつもいるの」と、親密な仲になったことを説明。
上のように直談判してたけしさんに近づいた記者は、当初は総合男性誌の『GORO』にたけしさん関連の記事を売っていたといいます。
しかし、それが買われて『FRIDAY』と契約することに。その時点でたけしさん側に「フリーではなく、『FRIDAY』の契約記者になりました」と話していればまだよかったのですが、記者は害のない記事しか書かない総合男性誌の記者を装おって、虎視眈々とたけしさんのスキャンダルを狙い続けたのです。
こうしてこの記者が書いた愛人の記事が『FRIDAY』に掲載され、さらにたけしさんに親しい芸能人のスキャンダルも同誌に発表されたことから、たけしさん側も「週刊誌に情報を流しているスパイがいるのではないか」と警戒するようになったといいます。
そこで容疑がかけられたのが、件の記者でした。たけしさんはまず、『FRIDAY』編集部に電話をして問題の記者が在籍していないか確認したそうです。
ところが、ここで編集部は正直に話すどころか、強引な取材に抗議をするたけしさんに対して記者が在籍しているか確かめに来るよう挑発。
これに腹を立てたたけしさんが11名の軍団メンバーを引き連れて、講談社に押しかけたのです。
押しかけたと言っても、たけしさん側は「来いと言われたから行っただけ」だといい、当初は話し合いで解決つもりでいました。まだ若く、血気盛んな軍団の面々に対しては「手を出すなよ」と注意していたそうです。
しかし、編集部について「あの記者を出せ」と訴えても「実はいない」「本当に来たのか」と笑われ、編集次長から「自分は空手が得意だ」と挑発されたことでカッとなってしまったといいます。
そして脅すつもりで消化器を手に取ったことがきっかけとなり、どちらからともなく手や足が出て乱闘に発展したのでした。
フライデー襲撃事件のその後① ビートたけしとたけし軍団の逮捕
一方的なリンチではなく、あくまでもケンカ、乱闘ではありましたが、たけしさんとたけし軍団は現場にいた『FRIDAY』関係者に肋骨骨折など全治1週間から1ヶ月程度の怪我を負わせたことなどから、住居侵入および器物損壊、暴行の罪状で駆けつけた大塚警察署の警官によって現行犯逮捕されました。
なお、住居侵入といってもたけしさん一行は講談社ビルには警備員に挨拶をしてから編集部に向かったとのことです。
逮捕と聞くと暗い留置場、厳しい取り調べというイメージがありますが、ダンカンさんによるとまったくそんなことはなく、対応した警察官は警察署内を案内してくれたといい、逮捕後は小学生の課外活動のような時間を過ごしたのだそうです。
さらに、大塚署内での取り調べの最中には以下のようなやり取りがあったといいます。
・人相写真を撮影する時に変な顔をしたら「東さんもその顔をしていました。取り直しです」と注意される。
・捜査官に「ドラマみたいにカツ丼が食べたいです」とねだってみたら、「自分でお金を出すなら頼んでやる。並でいいか?」と言われる。
・勝手に自動販売機にジュースを買いに行き、「頼むから座って大人しくしていろ」と怒られる。
・警察署の外にマスコミのヘリコプターが集まっているのを知り、見ようとしてカーテンを開けて注意される。
事件としての凶悪性も低く、被疑者全員に逃亡や証拠隠滅のおそれもなかったことから、大塚署での取り調べはふざける余裕があるほど和やかな雰囲気で終わったそうです。
こうして9日の朝までには事情聴取が終わり、その日のうちに主犯であるたけしさんを含めた12人全員が仮釈放されることになりました。
フライデー襲撃事件のその後② 裁判
フライデー襲撃事件では襲撃の主犯であるたけしさんと、女性に怪我を負わせた記者の2人が起訴され、それぞれが裁判を受けることになりました。たけし軍団のメンバーは全員不起訴でした。
まずたけしさんについては本人が起訴事実を認めており、事件が社会に与えた影響の強さを理解していること、再犯の可能性が低いことなどから、1987年6月10日に東京地裁で懲役6ヶ月執行猶予2年の判決を言い渡されます。
一方、記者については1月7日に大塚署から傷害容疑で起訴されたものの、1月29日にはたけしさん、愛人の女性、講談社の間でそれぞれ謝罪がなされ、示談が成立していました。
しかし、1987年12月22日に東京地裁で罰金10万円の有罪判決を言い渡されたため、出版社・記者側からは「示談が済んでいるのに、なんのための裁判なのか」と反論が出たといいます。
傷害は親告罪ではありませんから、加害者と被害者の間で示談が成立していても起訴され、有罪判決を受けることがあります。
ですが、被害が軽微であり、かつ初犯で再犯のおそれがない場合などには被害者と示談が成立していれば不起訴になったり、略式起訴になったりするケースも珍しくないため、記者側としては判決に納得行かなかったのでしょう。
記者側は一審の後に東京高等裁判所に控訴をしていました。ところが訴えを棄却され、結局罰金10万円を受け入れたとされています。
フライデー襲撃事件のその後③ マスコミに与えた影響
フライデー襲撃事件が起きる少し前の1981年、日本初の写真週刊誌『FOCUS』が新潮社から発行されたのを皮切りに、光文社の『FLASH』、小学館の『TOUCH』、文藝春秋の『Emma』、そして講談社の『FRIDAY』とさまざまな出版社から写真週刊誌が刊行されました。
これらの写真週刊誌は「3FET」と呼ばれ、5誌合計で全盛期には約460万部もの発行部数を誇ったとされます。
しかし、発行部数が伸びる一方で各誌がライバルを出し抜くためにいっそう過激な情報を載せるようになり、社会からは写真週刊誌の在り方を疑問視する声もあがっていました。
折りしも1986年は4月にアイドルの岡田有希子さんが飛び降り自殺で亡くなるというショッキングな事件があり、その際に一部写真週刊誌が彼女の遺体の写真を掲載するという信じがたい行動に出たことが、社会問題にまでなった年でした。
また、年末にかけてたけしさんが出演するバラエティ番組を複数予定していたTV局も、写真週刊誌の取材方法などについて否定的な報道をしました。
そのため事件直後には世論もたけしさんに対して同情的であり、『FRIDAY』が悪いという意見が多数を占めたとされます。
ところが12月14日に『天才・たけしの元気が出るテレビ』がテロップ付きとはいえ予定通りに放送されると、視聴者からは「逮捕から1週間も経っていないのに不謹慎ではないか」「週刊誌も酷いが、TV局も節操がない」と批判が殺到。
そしてこの後も15日、16日と冠番組の収録でたけしさんがTV局を訪れていることが報じられると、世論は一転してアンチ・ビートたけしに流れていきました。こうして12月17日から、たけしさんは謹慎期間に入っていきます。
写真週刊誌の売上は大幅にダウン
たけしさんが謹慎処分となったことで、批判の声は再び写真週刊誌に向かいます。こうして事件後から写真週刊誌5誌の売上は落ち続け、5ヶ月後には『Emma』が廃刊になりました。
しかし、『FRIDAY』は一貫して表現の自由と暴力反対を訴えて事件の被害者という主張を崩さず、事件直後からたけしさんの番組を放送していたTV局にも批判を展開しました。
ライバル誌の『FOCUS』はたけしさんの不倫を批判する一方で、『FRIDAY』が表現の自由を持ち出してきたことに対しては「事件の原因は取材の失敗であって、表現の自由は関係ない」として
『FRIDAY』にことも非難。
ほかの週刊誌や月刊誌は自社の写真週刊誌に論調をあわせ、女性誌は発端となった不倫問題を大きくピックアップするなどしてフライデー襲撃事件について報道合戦が行われました。
フライデー襲撃事件のその後④ 芸能界の反応
フライデー襲撃事件に対しては芸能界からもさまざまな声があがりました。ここでは当時、たけしさんとともにお笑い業界を席巻していた志村けんさん、明石家さんまさん、タモリさんの反応と、それぞれのエピソードを紹介していきます。
志村けんにお金を借りていた?
フライデー襲撃事件に対する有名芸能人の反応として、2013年になってネット上で話題になったのが「志村けんさんがたけしさんと家族に金銭的な援助をした」というものです。
この噂の元となったのはFacebook上にされた、以下のような書き込みでした。
「『ご迷惑おかけしました。軍団がお世話になりました。お金は必ず返します。』たけしがこう言うと『たけしさん、俺は口下手だから、うまく言えないけど、今回の事は気にしないでよ。俺が勝手にやった事だよ。それよりも、今まで通り、どっちがお客さんを笑わせるか、ライバルでいてくれよ。だから、今回の事は忘れてくれよ・・・。今まで通り、頼むよ。』と、志村は言ったそうだ。。。」
しかし、この話についてはグレート義太夫さんがTwitterで「こんな話、聞いたことがない」と否定しており、オフィス北野も「リアリティの欠片もない作り話」と切り捨てています。
FBで、エラい勢いで広まってる「志村さんと殿の美談」当事者として言わせてもらうと「初耳」そう言う事実は無かったと思うよ、誰が流行らせたんだか…。
— グレート義太夫(夏目亭透析) (@Gidayu) April 10, 2013
たけしさんにはドリフターズのようなコントをしたくて軍団を作ったというエピソードがあり、ライバルと囁かれていた志村さんとの間に確執があったわけでないことは確かです。
ただ「何をやってもお前らを食わせていく」と言い切ったたけしさんが、志村さんにお金の無心などしないでしょうし、志村さんもまだ打つ手がいくらでもあるたけしさんに、漫然とお金を渡すなんて野暮な真似はしないでしょう。
ネット上でもこの話が嘘だと判明したのに対して「やっぱり嘘か。たけしはそんな無様なことしないでしょ」「志村さんは出過ぎた真似をする人じゃないと思う。あと、本当だったらどっから漏れたんだよって話だよね」といった声が見られました。
明石家さんまと『オレたちひょうきん族』
出典:https://shop.lashinbang.com/
当時、一緒に人気番組『オレたちひょうきん族』に出演していた明石家さんまさんは、フライデー襲撃事件についてマスコミの取材を受けた際には普段と変わらないテンションで「あの人、そんなことやらかしたんかあ」程度の反応しか見せなかったといいます。
しかし、たけしさんが帰ってくる場所を守ろうと奮闘していたのは謹慎中の『オレたちひょうきん族』の内容を見れば一目瞭然でした。
1987年1月17日の『オレたちひょうきん族』ではあえてたけしさん不在の状態で人気コーナー「タケちゃんマン」を流し、「タケちゃんマンが消えた日」というタイトルで、アミダばばあ、ブラックデビル、パーデンネンとさんまさんが演じる悪役を次々に登場させています。
その後も宿敵であるタケちゃんマンがいなくなった後のパーデンネンの日常を描いたコントや、新キャラを投入するなどして「タケちゃんマン」と『オレたちひょうきん族』の人気を維持し続けたのです。
なんでもさんまさんは12月9日の夜に松尾伴内さんを家に呼び、なぜたけしさんが講談社に乗り込んだのか、かなり詳しく話を聞いたのだそうです。
そして、自分の仕事に迷惑がかかるといった恨み言や後ろ向きなことは一切言わずに「やっぱり、おもろい話はあったかいうちに聞いとかんとなあ」とだけ感想を残したと言います。
タモリ・さんまとビッグ3ゴルフ
一方、たけしさん、さんまさんと並んでビッグ3芸人とされていたタモリさんは、フライデー襲撃事件についての感想をマスコミから求められても「たけしのことは本人に直接聞きに行く。大事な友だちとの話を校内放送で話すやつはいないでしょ」と返し、その後もノーコメントを貫いていました。
そのため、タモリさんが公の場でフライデー襲撃事件について話したことは一度もありません。しかしたけしさん本人や、たけしさんの謹慎期間中に奮闘してたさんまさんのことをずっと気にかけていたことがわかるエピソードがあります。
たけしさんの謹慎期間中、『オレたちひょうきん族』を盛り上げようと必死だったさんまさんは徐々に体調を崩していき、頑張りすぎた結果「最近のさんまはでしゃばりすぎ」「1人で番組をやっている感じが偉そうで鼻につく」といった感想が視聴者や芸能雑誌から出るようになってしまったのです。
こうした批判の声はさんまさんを追い詰め、たけしさん復帰後も自分の立ち位置について悩んだそうです。
当時、心身ともに疲弊しきっていたさんまさんの唯一の楽しみとも言えたのが広大な自然の中でのゴルフだったといいます。マスコミが追ってこないような場所で気心のしれた仲間とゴルフをすることが、さんまさんにとっての安らぎだったのです。
この頃からたけしさん、さんまさん、タモリさんの3人はプライベートで一緒にゴルフをするようになったそうですが、実は以前のタモリさんはゴルフが大嫌いで、誰に誘われても興味を示しませんでした。
しかし、さんまさんの楽しみがゴルフだというのなら付き合いたい。そんな思いからか急にゴルフを始めてビック3でゴルフをするのが恒例行事となり、後にお正月の豪華特番『お笑いBIG3 世紀のゴルフマッチ』が誕生したといいます。
フライデー襲撃事件のその後⑤ 政界の反応
フライデー襲撃事件については、なんと政界からもコメントが出ており、当時の後藤田内閣官房長官が言った「ビート君の気持ちもよくわかる。しかし暴力はよくない」と感想を述べていました。
このコメントは大きな話題となり、当時は「ビート君」が流行語にまでなったそうです。
後藤田官房長官はマスコミ嫌いで有名な人物で、とくに当時は写真週刊誌『FOCUS』が政治家のスクープを狙っていたため、過激な報道を苦々しく思っていたのではないかと指摘されています。
また、官房長官から同情的なコメントがあったことから検察が動き、写真週刊誌を牽制する目的で『FRIDAY』の記者の告訴を取り下げない方向で裁判が進んだのではないかとも言われています。
フライデー襲撃事件のその後⑥ 謹慎中のたけし軍団
警察署内では明るく振る舞っていたたけし軍団のメンバーでしたが、現行犯逮捕されてしまった以上、もう芸能活動はできないという覚悟はしていたといいます。
それはたけしさんも同じで、大塚署を出る前に以下のように弟子たちに伝えたといいます。
「おまえら、悪かったな……。これでもう、この世界ではダメになっちまうかもしれないけど、土方やってでもおまえらの面倒は一生みるからよ! さっ、行くか」
この言葉を聞いたたけし軍団のメンバーは「何があっても一生この人についていこう」「殿のためなら何だってやる」と心の底から思ったそうです。
謹慎期間中、たけしさんが軍団のメンバーを集めてこれからどうするか話し合いをしたことがありました。
その際、たけしさんから「みんなでヤクザにでもなるか」と言われ、目の前に座っていたことから「お前、(拳銃を)撃てるだろう?」と聞かれたガダルカナル・タカさんは二つ返事で「はい、撃てます」と答えたのだとか。
そばに座っていたダンカンさんも「じゃあ、入墨を彫ってもらわないといけないな」と考えていたそうです。
結局、「ヤクザはすぐ殺されろうだから嫌だな」と思ったたけしさんが考え直し、翌日には「やっぱりみんなで建設会社でもやるか」と言い出したことから、「北野映画のような世界で生きるたけし軍団」は実現しませんでした。
フライデー襲撃事件のその後⑦ ビートたけしの会見がかっこいいと話題に
事件の2週間後、たけしさんは釈明会見を開きました。ここでのたけしさんの発言は、現在でもかっこいい、聡明な人なのがよくわかると評されています。
たとえば「お茶の間のアイドルなのに、こんな不祥事を起こしたことに対して責任を感じないのか」との質問に対して、たけしさんは「茶の間、家族への影響というのなら、親が子どもを、家族を守るのは当たり前で、俺にとっては愛人も家族だった。守るのは当たり前で後悔はしていない。暴力が悪影響なら、各家庭で『たけしのやったことは間違っている』と教材として使えばいいのではないか」と返していました。
また、「軍団を連れて行ったのはなぜですか?1人で行こうとは思わなかったんですか?」という質問には「1人で行くのはおっかないでしょ」と正直に答えて笑いを呼んでいました。
この会見と、たけしさんの実母である北野さきさんの「あんなどうしようもないの、死刑にしてください」という息子に対する断罪コメントがきっかけで、一時は盛り上がったたけしさんへの批判も沈静化していったといいます。
なお、さきさんのコメントを聞いたたけしさんは激怒して「ババア、いくらなんでも死刑はないだろ!」と食って掛かったそうです。
それに対してさきさんは飄々とした様子で「あんたは本当に馬鹿だね。あそこまで言わなきゃ、世間様は納得してくれないよ」と言ったのだとか。さきさんの豪胆さが窺えるエピソードは多数ありますが、本当に肝の座った女性だったんですね。
フライデー襲撃事件のその後⑧ 海外の反応
フライデー襲撃事件があった当時のたけしさんは、あくまでも日本国内で有名なコメディアンであり、まだインターネットも存在しない時期であったためリアルタイムで海外の反応が聞かれる、報道されるということはありませんでした。
しかし2021年9月4日に、たけしさんが『新・情報7days ニュースキャスター』の収録を終えてTBSを出ようとしたところ、敷地内でつるはしを持った男に襲われるという事件が起きた際、この件とフライデー襲撃事件についてアメリカの巨大掲示板redditやSNSで話題になりました。
よほど日本の文化が好きな人でない限り、たけしさんといえばヤクザ映画の監督で、本人の演じるヤクザ役も凶悪そのものという印象が強く、「出版社襲撃って、北野は本当のヤクザだったのか」「芸人って紹介されてるけど、たけしの仕事は映画監督ではなくコメディアンなの?」などのコメントが見られました。
また「フライデー襲撃事件の動画をネットで見たけど、たけし今と顔が違うよね?なぜ?」というように、事件の内容よりもたけしさんの顔立ちの変化に驚いている人も。
驚いたのは上のコメントに対して「たけしはバイク事故を起こして大怪我をしたことがあるんだよ。その時の後遺症で顔に麻痺が残っちゃったんだ」と若い頃と印象が違う理由を説明している書き込みがあったことです。
バイク事故でたけしさんが大怪我を負い、生死さえ危ぶまれたのは1994年のことです。ずいぶん前のことまで知っている熱心な人が海外にもいるのだな、と改めてたけしさんのファンの多さを確認させられました。
フライデー襲撃事件のその後⑨ 渦中にいた女性の現在
フライデー襲撃事件のきっかけとなった愛人の女性とは、事件後も随分と長く関係が続いていたようです。
「Bさんが、当時、四谷にあったたけしの別宅の合いかぎをもって出入りする姿がキャッチされています。相手は未成年、さすがにマズいと思ったのか、たけしは、“ピアノを習っているだけだって”と説明しましたが、その後、20年以上も彼女との関係は続いていきました」(ワイドショー関係者)
この女性との間には1990年頃に子どもが誕生していて、一時期は3人で一緒に暮らしていたとの話もありますが、認知をしたのかどうかは不明となっています。
また、たけしさんが2020年に再婚した女性はフライデー襲撃事件の時の愛人ではないかという噂がありますが、年齢が同じだけで別人だと報じられています。
フライデー襲撃事件についてのまとめ
今回は1986年12月9日に起きたフライデー襲撃事件について、原因や参加したたけし軍団のメンバー、その後の流れや反応をふくめて紹介しました。
この事件の後、写真週刊誌は売上が下がり、取材方法も見直されたとも言われています。
しかし一方で現在も同様の事件が起きる可能性は否定できませんし、「今の時代にフライデー襲撃事件が起きてたら、たけしが自分の考えを話す場所さえ設けられなかったと思う」「今だったら一方的にたけしが悪者扱いだったんじゃない?暴力や不倫のことで必要以上に叩かれそう」とも指摘されています。
さまざまなことに求められるモラルがゆるかった昭和の時代だったからこそ、半ば美談のような形でフライデー襲撃事件が残ったのかもしれません。