ミュンヘンオリンピック事件は1972年に発生したテロ事件で、ヘリコプター爆発などにより11名の死者が出ました。ミュンヘンオリンピック事件がなぜ起きたのか、犯人の目的や犯行理由、目的やテロへの報復、被害者、その後や現在への影響を紹介します。
この記事の目次
- ミュンヘンオリンピック事件の概要
- ミュンヘンオリンピック事件の犯人・黒い九月とは
- ミュンヘンオリンピック事件の詳細① 事件発生まで
- ミュンヘンオリンピック事件の詳細② なぜ五輪が狙われたのか?
- ミュンヘンオリンピック事件の詳細③ 事件の発生
- ミュンヘンオリンピック事件の詳細④ 被害者が集められる
- ミュンヘンオリンピック事件の詳細⑤ 犯人の要求・目的
- ミュンヘンオリンピック事件の詳細⑥ 競技への影響
- ミュンヘンオリンピック事件の詳細⑦ 犯人との交渉
- ミュンヘンオリンピック事件の詳細⑧ 空軍基地への移動
- ミュンヘンオリンピック事件の詳細⑨ 人質の射殺とヘリコプター爆破
- ミュンヘンオリンピック事件での死者
- ミュンヘンオリンピック事件が最悪の結末を迎えた理由
- ミュンヘンオリンピック事件のその後・現在① イスラエルの報復
- ミュンヘンオリンピック事件のその後・現在② 首謀者と見られる男を殺害
- ミュンヘンオリンピック事件のその後・現在③ 対テロ部隊が整備される
- ミュンヘンオリンピック事件のその後・現在④ 東京五輪での追悼
- ミュンヘンオリンピック事件についてのまとめ
ミュンヘンオリンピック事件の概要
1972年9月5日、西ドイツのミュンヘンでミュンヘンオリンピックが開催されている最中に、五輪選手団宿舎がテロリストに襲われるという事件が発生しました。
宿舎を襲撃したのはパレスチナのテロ組織「黒い九月(ブラックセプテンバー)」で、彼らはイスラエルの選手2名を殺害した後に、9名もの人質をとってヘリコプターに立てこもりました。
衝撃的なテロのニュースは瞬く間に世界を駆け巡り、犯人たちはイスラエルに収監されているパレスチナ人および、投獄中の西ドイツのテロリストらの解放を要求。従わなければ人質を殺害すると発表します。
西ドイツで発生したテロ事件ではありますが、テロリストらの要求はイスラエルの協力を要するものでした。
しかし、イスラエルは「テロには屈しない」という態度を崩さず、西ドイツ側とズレが生じます。
そして2国間で対応の方針が決まらないまま時間が過ぎていくなか、オリンピックは中断されずに予定を調整しながら競技を行うという異常な事態に発展していったのです。
最終的に黒い九月のテロリストらが人質9名を殺害するという最悪の結果で、ミュンヘンオリンピック事件は幕を閉じます。
が、その後もイスラエル政府がPLO(パレスチナ解放機構)に対して報復と称して空爆を行うなど、事件はその後にも大きな影響を及ぼしました。
ミュンヘンオリンピック事件の犯人・黒い九月とは
出典:https://www.deutschlandfunk.de/
黒い九月はPLOのなかでも、もっとも過激で残忍な組織として知られます。設立は1971年。
1960年代後半、ヨルダンのフセイン国王は、イスラエルによるパレスチナ支配の開放を訴えるPLOの活動が激化していることを憂いていました。
そして、1970年9月にPLOの下部組織であるPFLPが旅客機同時ハイジャック事件を起こしたことを皮切りに、フセイン国王はPLOの武力制圧を決定。結果としてヨルダン内戦が勃発します。
ヨルダン内戦はフセイン国王がPLOをヨルダンから締め出すかたちで幕を閉じ、逃げ延びたPLOのメンバーは活動拠点をレバノンのベイルートに移動させました。
このことがきっかけとなってPLOはフセイン国王一族を深く恨むようになり、より過激な活動を行うべく、複数の秘密テロ組織を抱えるようになっていきます。
黒い九月もその1つで、ヨルダン軍への報復とフセイン国王暗殺を目的として組織されました。
組織された直後からヨルダン首相暗殺事件、ローマのヨルダン空港の事務所襲撃、ヨルダン市民殺害などの複数の事件を起こしており、ミュンヘンオリンピック事件の前からイスラエル情報局に調査されていたといいます。
ミュンヘンオリンピック事件の詳細① 事件発生まで
1972年5月、ベイルート国際空港(現在のベイルート・ラフィーク・ハリーリー国際空港)に、世界各国から偽装パスポートを使った犯罪者たちが続々と降り立ってきました。
彼らはIRA、イランの解放戦線、トルコの人民解放軍、そして日本赤軍などの過激派テロ組織の幹部らで、PLOの設けた会合に出席する目的でベイルートに集結。
この会合の目的は、2つの目的があったとされます。1つ目は国を超えて極左組織が同盟関係を結び、統一戦線を確立することです。
これは外国人の協力者を得ることで、警察や軍に警戒されずにテロの標的に近づきやすくする狙いや、物資や隠れ家の提供など、互いに支え合う関係性をつくるという目的がありました。
そして2つ目は、直前の5月8日に失敗に終わったサベナ航空572便ハイジャック事件の報復でした。
この報復活動への参加を表明したのは、PLOの過激派組織である黒い九月とPFLPを除くと日本赤軍だけだったとされます。
日本赤軍から会合に参加していた、奥平剛士、安田安之、岡本公三の3人のテロリストは、5月30日にテルアビブ空港で銃乱射事件を起こして26人もの死者を出します。
この事件で奥平剛士と安田安之の2人は死亡しましたが、生き残った岡本公三は逮捕されることに。このことから岡本は、ミュンヘンオリンピック事件で黒い九月が解放を要求した対象の1人となります。
テルアビブ空港銃乱射事件の被害者の葬儀が終わると、イスラエルの情報機関は全力を挙げて実行犯の裏にいるテロ組織を暴き出そうとしました。
しかし、黒い九月が関与していることまではわかっても、この組織の指導者についてはまったく情報が出てこなかったそうです。
ミュンヘンオリンピック事件の詳細② なぜ五輪が狙われたのか?
黒い九月がミュンヘンオリンピックをテロの標的にしたきっかけは、オリンピック委員会がパレスチナを1つの国家として認めなかったためとされています。
1974年にPLOはアラブ連盟首脳会議で、パレスチナ唯一の代表の座を獲得して国連にも認められることとなりました。
しかし、ミュンヘンオリンピック開催当時はPLOに対してテロ集団の印象が強く、国際社会からの扱いも低かったことから、PLOがオリンピック委員会に「パレスチナからも選手団を出場させたい」という意向を伝えても、無視されてしまったのです。
このことは国際的な地位獲得を目指していたPLOにとって、非常に屈辱的なことでした。
そのため自分たちの存在を示し、参加を認めなかったオリンピック委員会に報復するためにミュンヘンオリンピックをテロの標的に選んだと指摘されています。
また、選手団宿舎に侵入した黒い九月のテロリストは、迷うことなくイスラエル選手団の宿舎を襲撃し、最初の犠牲者を出しました。
これは、PLOにとってイスラエルが国土をめぐって長らく対立している宿敵であり、真っ先にテロの標的にする相手であったためです。
つまりオリンピック委員会憎しでテロを計画し、大勢集まった選手や観客のなかでも、絶対的な恨みを持っているイスラエル人を標的にしたのだと考えらえています。
ほかにもテロが成功すれば、世界中のメディアに自分たちの活動が報じられ、黒い九月の名前が知れ渡るであろうことも、PLOの幹部の狙いだったともされています。
ミュンヘンオリンピック事件の詳細③ 事件の発生
テロの標的となったミュンヘンオリンピックは、1972年8月26日から9月11日にかけて西ドイツのミュンヘンで開催されていました。
黒い九月のメンバー8人が選手村前のフェンスに集まったのは、9月5日の午前4時30分のことです。
テロリストらは全員、陸上選手と同じトラックスーツを着用し、大きなトートバッグを手にしていたといいます。
そしてフェンスをよじ登ると、選手村の敷地内に侵入。実はこの時、彼らの姿を目撃していた警備員がいたのですが、服装や持ち物から「夜遊びでも行っていた選手が、ようやく帰ってきたのだろう」と考えて、あえて見て見ぬふりをしてしまったそうです。
イスラエルの選手が滞在している三十一番地の建物についたテロリストは、目出し帽をかぶると、トートバッグから手榴弾やAK-47などの武器を取り出しました。
武装して忍び足で3階まで階段を駆け上がると、テロリストは手前にある部屋のドアをノックして「イスラエル選手団の部屋ですか?」と呼びかけたといいます。
この声を聞いて、部屋の中にいたイスラエルのレスリング・チームのコーチであるモシェ・ワインバーグ氏が目を覚ましました。
ワインバーグ氏は警戒しながらわずかにドアを開き、廊下を覗いたところ、ドアの前に武装した男がいるのが確認できたため、すぐさまドアを閉めて自分の巨体でドアを押さえつけたそうです。
そして、室内にいる選手たちに対して「起きて逃げろ!」と叫びました。
その声を合図にするかのようにテロリストはドアに向かって銃を乱射。弾丸はドアを貫通し、ワインバーグ氏の身体も撃ち抜きました。
ミュンヘンオリンピック事件の詳細④ 被害者が集められる
突然の襲撃に選手たちがパニックになるなか、テロリストたちは次々と他の部屋にも侵入し、銃を乱射したとされます。
そして2人目の被害者、ウェイトリフティングのチャンピオンのジョー・ロマーノ選手が凶弾に倒れることに。
騒動の最中に運よく窓から逃げ出した選手もいました。しかし、逃げ遅れた9人のイスラエル人選手はロマーノ選手の遺体が横たわる部屋に全員集められ、ナイロンのロープで縛りあげられて、テロリストから銃口を向けられたといいます。
他のテロリストらも部屋の出口の見張りや、窓辺で外の警戒にあたり、窓から「黒い九月」と署名した犯行声明を外に向かって投げました。
ミュンヘンオリンピック事件の詳細⑤ 犯人の要求・目的
銃声や悲鳴を聞いた選手たちは目を覚まし、集まった数百人の警官隊によってあっという間に人質がいる建物を取り囲みました。
じきに立ち入り禁止戦を挟んで選手たちがひしめき、TVカメラや新聞記者らも現場に殺到。
そんななか、午前9時になって2人のイスラエル人が死亡し、9人が人質に取られていること、人質解放の条件は、以下のようなものであることが公表されます。
・西ドイツのテロリストのアンドレアス・バーダーとウルリケ・マインホフを解放しろ
・連合赤軍の岡本公三を解放しろ
・イスラエルに捕らえられている234人のパレスチナ人を解放しろ
当初、黒い九月は上記の要求への回答期限を5日の午前9時としていました。しかし、ミュンヘン警察の最初の交渉により、リミットを午後0時まで延長させることに成功。
この延長された時間のなかで、西ドイツはイスラエルと協力して人質解放を目指す必要がありました。
しかし、実際にはイスラエルのメイア首相は「テロリストとの取引には応じない」と断言し、人質の救出には手を貸すが、事件の顛末については西ドイツが全責任を負うべきだという意見を出します。
5月にサベナ空港ハイジャック事件でPLOのテロを防いだ元国防大臣のモシェ・ダヤン氏は、メイア首相に対テロリスト部隊をイスラエルからミュンヘンに派遣し、人質解放に協力するべきだと提言したそうです。
ところが、当時、西ドイツは国内での外国軍の活動を法律で制限していたことから、メイア首相は「西ドイツ側に侮辱ととられかねない」と判断して、ダヤン氏の案を退けてしまいます。
こうして両国の間で具体的な対策が決まらないまま、現場では警察による時間の引き延ばしだけが行われていきました。
ミュンヘンオリンピック事件の詳細⑥ 競技への影響
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国とテロリストの膠着状態が続くなかでも、オリンピックの競技は予定を変更しながら行われました。
選手たちは現在もイスラエルの選手が人質にとられ、銃を突きつけられているのを知りながら、何事もなかったかのように協議に参加することを余儀なくされたのです。
これはオリンピック委員会の判断であり、イスラエルはオリンピックを中止するように訴えたといいますが、無視されたとのことです。
しかも、被害のあった三十一番棟に宿泊していたウルグアイの選手らは、テロリストらから朝食をとりに外へ行く許可をもらったとして、なぜかテロリストを「礼儀正しい」とほめる始末でした。
なお、5日の午後にはいったん中止となり、翌日の6日には被害者追悼のために丸一日、競技は行われませんでしたが、追悼式の後には再び競技が開催されてオリンピックは9月11日に閉幕しました。
この決断が正しかったのか否かについては、現在でも意見がわかれています。
ミュンヘンオリンピック事件の詳細⑦ 犯人との交渉
ドイツ政府は長時間にわたる交渉でテロリストたちの気力と体力を消耗させ、平和的な解決ができないかと目論んでいました。
一方でテロリスト側は、何度も回答期限の延長だけを求めてくる警察に対して苛立ちを見せるようになります。
アラブの有力者も交えて午後の間じゅう交渉が続き、イスラエルはパレスチナ人の釈放に向けて動いているなどの説明を続けましたが、ついに16時50分、テロリストたちの我慢が限界を超えます。
飛行機を用意してカイロまで人質とともに飛ぶように、と要求を変更したうえで、これが最期通牒で要求をのまないのなら人質を殺すと宣言したのです。
ドイツ側は、この要求の変化を事件解決のチャンスととらえて、応じる返答しました。
選手村を出て、カイロへ向かう旅客機が待機するフュルステンフェルトブルック空軍基地にテロリストが向かう途中で、人質解放作戦を実行しようと考えます。
そして、一級の狙撃手や対テロ専門の警察隊を空軍基地内外に配備させました。
ミュンヘンオリンピック事件の詳細⑧ 空軍基地への移動
9月5日20時6分、テロリストと人質を乗せたバスは選手村を出て、空軍基地へ向かう2機の連邦国境警察のヘリコプターが待機している草地に向かいました。
移動には地下通路が使われ、警察との接触もなく、テロリストらは人質をヘリコプターに乗せたとされます。実はここにも狙撃手が配備されていたのですが、バスが想定よりも離れた場所を走っていったため、狙いを定めることができなかったのだそうです。
20時30分、ヘリコプターは空軍基地に到着。周囲はすでに暗くなっており、滑走路の周辺だけが煌々とライトに照らし出されていました。
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管制塔のなかには狙撃手が待機していましたが、その数はたったの5人で、さらに装備は狙撃用のボルトアクション式のライフル銃のみ。
一方、テロリスト側は手榴弾や「小さな大量破壊兵器」の異名を持つAK-47で武装しており、こちら側に気づかれてしまえば作戦は失敗に終わる危険性が高い状況でした。
ミュンヘンオリンピック事件の詳細⑨ 人質の射殺とヘリコプター爆破
空軍基地の滑走路には、テロリストをおびき寄せるエサとしてルフトハンザドイツ航空の飛行機が停められていました。
この飛行機でカイロまで連れて行くと信じ込ませる必要があったのですが、停まっていた飛行機はエンジンもかかっておらず、乗務員も1人もいない状態でした。
そのため、ヘリコプターから降りて飛行機に向かったテロリスト2人は、これが罠だとすぐに判断します。
すぐに無人の飛行機を出て、人質と人質が逃げないように銃を構えて見張り役の仲間がいるヘリコプターに戻ろうとしました。
その時、1人の狙撃手が許可なく発砲。結果、テロリストのうち1人の太腿に弾があたって、こちらの存在に気づかれてしまったのです。
ヘリコプターまで逃げ戻った1人は、すぐに外にいる狙撃手に向けても銃が乱射し、そのうちの数発が滑走路を照らすフラッドライトに命中。同時に灯りが落ちて、周囲は闇に包まれます。
暗闇の中で激しい銃撃戦が行われ、狙撃手に撃たれた1人のテロリストが人質が乗っているヘリコプターで手榴弾を爆発させて自殺するという、最悪の展開を招いてしまいました。
身体を縛られて拘束されていた人質は逃げることさえできず、ヘリコプターとともに吹き飛ばされて死亡。
もう1機のヘリコプターもガソリンタンクに被弾して爆発し、ヘリコプターの中に捕らえられていた人質9名は全員亡くなりました。
さらに混戦のなか、狙撃手として空軍基地に潜入していた警察官が1人死亡。
こうして被害者が10名に及んだところで警察の援軍が装甲車とともに到着し、ようやくテロの制圧が完了します。
銃撃戦によってテロリスト側も8名のうち5名が死亡しており、残った3名のみがその場で逮捕されることとなりました。
ミュンヘンオリンピック事件での死者
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ミュンヘンオリンピック事件では最初の選手村襲撃で2名、空軍基地で9名のイスラエル人が犠牲になりました。
亡くなったイスラエル選手らの名前は以下のとおりです。
選手村襲撃での被害者
・モシェ・ワインバーグ(当時32歳)…元レスリング選手でコーチとしてオリンピックに参加
・ユセフ・ロマーノ(当時32歳)…ウェイトリフティング選手
空軍基地での被害者
・ゼエブ・フリードマン(当時28歳)…ウェイトリフティング選手
- ・ダヴィド・バーガー(当時28歳)…ウェイトリフティング選手
・エリゼル・ハルフェン(当時24歳)…レスリング選手
- ・マーク・スラヴィン(当時18歳)…レスリング選手
・ユセフ・グトフロント(当時40歳)…レスリングのレフェリー
- ・ヤコブ・シュプリンガー(当時51歳)…ウェイトリフティングの審判員
・ケハト・シュル(当時53歳)…射撃のコーチ
・アンドレ・シュピッツァー(当時27歳)… フェンシングのコーチ
・アミツール・シャピラ(当時40歳)…陸上のコーチ
くわえて警察官のアントン・フリーガーバウアー氏が銃撃戦で命を落とし、テロリスト側も5名の死者を出しました。
ミュンヘンオリンピック事件が最悪の結末を迎えた理由
人質全員が殺害されるという最悪の結果を迎えたミュンヘンオリンピック事件。
このような結末に至ってしまった原因としては、バイエルン州の首都の警察指導部の報告書の中で以下のような問題点があげられています。
・事件への対応にあたったのは一般の警察官であり、テロリストとの交渉や交戦に対する知識や経験が不足していた
・各国のメディアがこぞって事件の中継報道をしたため、こちらの動きがテロリスト側に筒抜けになってしまった
・一方で警察側に入ってくる情報は少なく、当初はテロリストの人数も5名だと思い込んでいた
・夜間の狙撃になるにもかかわらず、暗視スコープなどの装備は用意されなかった
人的にも、物質的にも圧倒的に不足した状態にあったため、これ以上のことはできなかったというのが西ドイツ側の見解でした。
しかし、ネオナチがパレスチナのテロ組織にパスポート偽造などの協力をしているという情報が、オリンピック開催前から西ドイツ警察に提供されていたという話もあるそうです。
そのため、大きな事件が起きるまでテロの危機にさらされる可能性を考えていなかった警察や当局にはやはり問題があったのではないか、という指摘もされています。
ミュンヘンオリンピック事件のその後・現在① イスラエルの報復
オリンピックという大舞台で自国の選手を殺害されたイスラエルのメイア首相は、PLOに対して報復を計画しました。
ここでは、ミュンヘンオリンピック以降にイスラエルによって行われた一連の報復について紹介していきます。
シリアとレバノンでの空爆
最初のイスラエルによる報復活動は、ミュンヘンオリンピック事件直後の1972年9月8日に行われます。
シリアとレバノンにある合計10ヶ所のPLOの基地を、イスラエル空軍が爆撃。
この爆撃による死者数は報道により異なっているため定かではありませんが、一説には武装勢力200名、レバノン民間人11名が命を落としたとされています。
続いて9月16日にも、イスラエル軍の装甲縦隊がPLOの基地を捜索する目的でレバノン南部に入り、 PLOの過激派テロリストが潜伏していると思われる民家130軒を破壊。
これにより、さらにテロリスト45名が死亡、16名が捕虜となりました。
モサドによるパレスチナ人暗殺
続いて1972年10月から、イスラエルはモサド(イスラエル諜報特務庁)によるPLO関係者の暗殺計画を開始します。
暗殺は「神の怒り作戦」という作戦名により実行され、この作戦で暗殺されたパレスチナ人の人数は具体的に明かされていないものの、25~30人程度と予想されています。
暗殺の対象はPLOおよび黒い九月の主要メンバーが中心で、情報はPLOのスパイから得ていたそうです。
最初に暗殺のターゲットとなったのは、黒い九月のメンバーだと自称していたアラファト議長のいとこのワエル・ズワイテルという人物で、1972年10月16日にローマで銃殺されました。
次いでモサド工作員は、12月8日にイスラエルが黒い九月の指導者だと睨んでいた、PLOの駐フランス代表のマフムード・ハムシャリを暗殺し、その後も標的の殺害を続けていきます。
黒い九月による報復
イスラエルの作戦を受けて、黒い九月もさらに報復を開始します。
1972年11月13日にはモサドに情報を提供していたシリア人の記者が殺害され、1973年1月26日にはマドリードでモサドの工作員であったバルーフ・コーヘン氏が殺害されました。
青春の春作戦
モサドの暗殺リストに載った標的のうち3名は、レバノンの首都・ベイルートに潜伏していました。
3名のなかには黒い九月の作戦指導者であり、PLOの政治部門の責任者とされるムハンマド・ユーセフ・アル・ナジャールも含まれていたとされます。
潜伏先の建物は厳重に警備されており、これまでの暗殺の手法では彼らを殺害できないと見たイスラエルは、ベイルートにあるPLOや黒い九月、PFFLPなどパレスチナの過激派組織の拠点や本部、兵器修理所に空爆を仕掛けることを決定。
対テロ特別部隊によるベイルート襲撃訓練を開始しました。
1973年4月9日夜に沖合のミサイル艇からボートでベイルートの海岸に近づいたイスラエル海軍の兵士は、上陸すると変装して用意されていたレンタカーに乗り換えてベイルート中心街に向かいます。
そして10日の朝にかけて標的の家やPFFLPの本部などを襲撃。標的3名を殺害したうえ、PFFLPの本部を全壊させ、幹部も殺害してイスラエルに戻りました。
ミュンヘンオリンピック事件のその後・現在② 首謀者と見られる男を殺害
神の怒り作戦と青春の春作戦により、黒い九月は中心メンバーの大半を欠くこととなりました。
そんななか、どうしてもイスラエル側が殺害したいと考える人物が1人だけ残っていました。
それはミュンヘンオリンピック事件の首謀者として1年近く行方を追っていた、黒い九月のテロリストのアリ・ハッサン・サラメという人物です。
サラメの暗殺は何度も失敗に終わっていました。
1973年7月21日にモサドの工作員は、サラメの居場所を特定したとしてノルウェーのリレハンメルに向かいましたが、情報提供者がサラメだと誤認していたモロッコ人のウェイターを殺害するというとんでもない失敗をしています。
この誤認殺害事件はリレハンメル事件として国際社会からも注目を集め、イスラエルには多くの批判が寄せられました。
そしてリレハンメル事件が原因で、メイア首相は神の怒り作戦の中止を決定。隠れ家、工作員、作戦方法をふくむヨーロッパ全土のモサドの資産が凍結の危機にさらされる事態にまで発展したとされます。
しかし、1978年11月、執念でサラメを追い続けていたモサドがレバノンにある潜伏先を特定。1979年1月22日にサラメの暗殺に成功しました。
ただ、この暗殺はサラメが乗る車に仕掛けた爆弾を、遠隔で起爆させて行うという手法だったため、たまたま近くにいたイギリス人の学生やドイツ人の修道女など無関係の4名も巻き込まれて死亡するという悲惨な結末を迎えています。
また、生き残った黒い九月のメンバーの証言から、サラメがミュンヘンオリンピック事件の首謀者ではなかった可能性も浮上したといい、結局、事件の首謀者が誰だったのかは現在も不明のままです。
ミュンヘンオリンピック事件のその後・現在③ 対テロ部隊が整備される
ミュンヘンオリンピック事件がきっかけとなって、ヨーロッパ諸国を中心に世界各国で対テロ部隊を整備する動きが加速しました。
事件の現場となった西ドイツは、1972年9月26日に連保国境警備隊の指揮下にテロ対策組織として第9国境警備群(現在の連邦警察GSG-9)を発足。
GSG-9は1977年にPFLPによるハイジャック事件・ルフトハンザ航空181便ハイジャック事件が起きた際に対応にあたり、乗客全員の安全を確保しつつ犯人を制圧して一躍有名になりました。
この影響で、日本にもSATの前身となる警視庁第六機動隊特科中隊や大阪府警察第二機動隊零中隊が発足したとされています。
ミュンヘンオリンピック事件のその後・現在④ 東京五輪での追悼
これまでミュンヘンオリンピック事件の被害者遺族らは、オリンピック委員会に対して「オリンピックの式典で犠牲者の追悼をしてほしい」と要望を出していたそうです。
長らくその要望は受け入れられずにいたのですが、2021年開催の東京オリンピックの開会式でようやく事件についてふれ、黙祷の事件をもうけたことが話題となりました。
この追悼には遺族だけではなく、イスラエルのナフタリ・ベネット首相も歓迎する意見を表明しました。
ミュンヘンオリンピック事件についてのまとめ
今回は1972年9月5日に発生したミュンヘンオリンピック事件について、なぜオリンピックが狙われたのかや事件の詳細、事件後の報復などを中心に紹介しました。
1993年のオスロ合意により、パレスチナとイスラエルは平和への道を模索し始めたように見えました。しかし、このことによって一部の過激派組織の動きが活発化し、現在も凄惨なテロが続いています。
テロへの対策部隊の整備は整っても、平和への道は遠いというのがまだ現在の時点では悲しい現実です。