上尾事件は、1973年3月に国鉄高崎線の上尾駅で発生した利用客の暴動です。この記事では上尾事件の原因となった順法闘争や事件の背景、海外の反応、その後への影響についてわかりやすく説明するとともに、暴動の写真や動画を紹介します。
この記事の目次
上尾事件の概要をわかりやすく解説
上尾事件とは1973年3月13日に、埼玉県上尾市にある国鉄高崎線の上尾駅とその周辺で発生した鉄道利用客による大規模暴動事件です。
この日の朝のラッシュ時、通常であれば37分程度で到着するはずの上野・上尾間の運行に大幅な遅れが生じ、3時間もの所要時間が発生していました。
このことにより上尾駅は電車を待つ人で溢れかえり、駅構内のあちこちで客と国鉄職員の小競り合いが発生。やがて利用客の怒りが爆発して、駅構内や列車への放火などの破壊行為まで起きてしまったのです。
当時、国鉄職員は労働環境の改善や給料の引き上げを訴えていたものの、公共企業体等労働関係法でストライキを禁じられていました。そのため「順法闘争」という手段で国鉄に圧力をかけ、自分たちの要求を通そうとしていたとされます。
順法闘争とは業務に関する規則や法令を大げさに解釈することで、業務に大幅な遅れや損害を生じさせる行為で、ストの権利が認められていない公務員などが用いる戦術でした。
業務をサボっているのと同じ結果が出るためストライキの一種とも考えられますが、国鉄職員や公務員側は「規則を守って仕事をしているだけ」という主張で順法闘争を繰り返していました。
国鉄職員は1973年3月5日から全国で順法闘争を実施しており、散発的にダイヤの乱れが起きていたといいます。
そんななか、よりにもよって混雑する朝のラッシュ時にベッドタウンから都心への通勤に使われる高崎線でも順法闘争が実施されたことから、上尾事件が発生してしまったのです。
乗車率400%を超す列車にやっと乗れたものの、上野に着く前に車内アナウンスで「運行中止」を知らされた客、何時間もホームで待たされ続けている客、入場規制を受け、改札さえくぐれずに構内で身動きが取れなくなっている客などが暴徒化。上尾駅にとどまらず、大宮駅や熊谷駅でも暴動が起こりました。
最終的には死者こそ出なかったものの、上尾事件では入院が必要な負傷者が出たうえ、数億円もの被害総額が出たとされます。
上尾事件の原因① 順法闘争
上尾事件が発生した背景には、前述のように国鉄職員による順法闘争がありました。まずは順法闘争が起きるまでの流れを見ていきましょう。
終戦後、アメリカから日本に労働組合の整備が持ち込まれ、労働者は労使交渉をする権利などを獲得しました。
そして1947年に国鉄や全逓、官公職員らも多数参加表明したゼネラル・ストライキ「二・一ゼネスト」が計画されたのでした。
公務員たちがストライキをしてしまうと、全国の鉄道、郵便、電話、学校などさまざまな公共サービスが停止するため、社会への影響も計り知れません。当時の吉田茂内閣は二・一ゼネストを中止させるために奔走しました。
最終的にはGHQの命令によって二・一ゼネストは中止となりましたが、この一件で当時の政府は公務員にストライキの権利を認めるのは危険だということを思い知らされました。そのため公務員のストライキが法律で禁じられるようになったのです。
国鉄は1949年に純然たる国営事業ではなく政府が出資する特殊法人という位置づけになり、職員も公務員ではなくなりました。
しかし、社会に与える影響の大きさから依然として国鉄職員にはストライキが認められませんでした。
そのため国鉄職員らは、労働環境の改善やストをするための権利を求める「スト権スト」を実施し、順法闘争という手段を用いるようになったとされます。
経営合理化への反発
1960年代に入ると高速道路や航空機の整備が進み、鉄道と競合するようになりました。
ライバルの登場による国鉄の赤字化を懸念した日本国有鉄道諮問委員会は、採算の取れないローカル新線の見直しなどを提言する意見書を政府に出しましたが、政府はこれを無視。結果、1966年に国鉄の経営は完全に赤字化し、以降は苦しい経営が続きました。
このような状況で国鉄がとった手段が、ローカル線の整理や職員削減などの経営の合理化と、限られた人員でダイヤ通りに電車を運行するための生産性向上運動でした。
その結果、賃金は上がらないものの経営の合理化で1人あたりに任される業務量は増え、不満を募らせた職員の怒りが爆発。
「スト権奪還」「打倒内閣」といった煽動の文句(アジテーション)をペイントした通称「アジ電車」を走らせるなどして、待遇改善を訴えました。
国労と動労
上尾事件が起きた当時、国鉄の労働組合には主に「国労」と呼ばれる国鉄労働組合と、「動労」と呼ばれる国鉄動力車労働組合の2つがありました。
2つの労働組合の違いは以下のとおりです。
・国労…国鉄職員全般の労働組合
・動労…機関士など乗務員限定の労働組合
動労は国労から分離してできた労働組合で、専門性の高い職種でありながら運転士に比べて待遇が悪いことを不満に感じた機関士らが所属していました。
また国労は共産党など左翼政党との結び付きが強く、政治的な活動が目立った一方で、動労は労働闘争を盛んにおこなっていました。
順法闘争の多くはこの「国労」と「動労」の2つの労働組合が計画、実施しており、国鉄の職員であってもこれらの組合に所属していない人は順法に否定的だったといいます。
上尾事件当日の順法闘争も国労が計画したもので、自分たちの要求を押し通すためにわざわざ利用客の多いラッシュの時間帯を狙って、遅延を生じさせるように組合員に指示をしていたとされます。
順法闘争の詳細
当時の国鉄では「順法」と称し、ストの代替として具体的に以下のような運転がされていたといいます。
・風に煽られて飛んでいるビニール袋が視界の端に入ったため、緊急停止する
・線路上に鳥がいたため緊急停止し、鳥が飛び立つまで発車しない
・いつもよりもホームに利用客が多くいる気がするため、ホームに入らずに手前で停止
・ホームの白線よりも前に出ている利用客がいるため、一時停止
そのほか何かと「安全な運転のため」という理由をつけては一時停止、徐行などを繰り返していました。
国鉄職員側は「一番優先させなければいけない利用客の安全に配慮した結果、運行に遅れが出ただけ」という言い分でしたが、実際はサボタージュの一種だと指摘されています。
上尾事件の原因② 急激に発展したベッドタウン
出典:https://www.city.ageo.lg.jp/
上尾事件が起きた当時、東京のベッドタウンとして高崎線沿線の人口は増加の一途を辿っていました。
とくに上尾市の人口は事件発生前の10年間で約2倍にまで増えており、全国でも指折りの発展を見せた人口急増地域だったといいます。
しかし利用客が増えても高崎線のダイヤは増設されず、1968年時も朝の7時に上尾駅を出発する上野行きの普通列車は1時間に7本のみで、6時から8時の朝のラッシュの時間帯を通しても17本しか普通列車が運行していませんでした。
また利用客が増えても駅は増改築工事がされなかったため、上尾駅の階段やホームは狭いままでした。ラッシュの時間帯には列車と接触して乗客が負傷するという事故も毎日のように起きており、その影響で列車の遅れや運休も日常的に発生していました。
そのため高崎線は平時から非常に混雑しており、乗車率250%を超すこともザラにあったといいます。
さらに経費削減のため、ラッシュ時にも普通列車としてグリーン車や食堂車が連結された急行列車が使われていたことから、やっと電車が来たと思っても収容人数が少なく、次の列車を待たないといけないことさえあったそうです。
このような状況でしたから、上尾事件が起きる前から高崎線に対する利用客の不満は高まっていたと指摘されています。
しかも上尾事件が起きた3月13日は年度末であり、中学や高校では3学期の期末試験がおこなわれる時期でもありました。
日頃から混雑による遅れが生じている高崎線が、よりによって忙しい年度末のラッシュ時に職員らの故意で大幅な遅れを出している。これまで不満を持ちながらも我慢して高崎線を利用してきた客の、募りに募った怒りが爆発したのが上尾事件だったのです。
上尾事件の原因③ 国鉄職員への不満
もちろんすべての職員ではありませんが、事件当時の国鉄職員のなかには勤務態度に問題がある人が少なくなかったとされています。
たとえば初めて行く場所にはどのような経路で向かうのが最短なのか、いくらかかるのかなどを駅員に質問すると、舌打ちをされたり「自分で調べろ」と言われたりと、現在のJR職員の対応からは想像ができないほど冷たい職員が多かったそうです。
自分たちの勤務先は潰れないのだから客にサービスをする必要はない、客を乗せてやってるんだという考えが目立ち、このような勤務態度の悪さ、横柄さが原因となって生産性向上運動で「笑顔の接客」が目的にあげられたほどでした。
そのためダイヤの乱れや混雑以外の理由でも、日頃から国鉄職員を苦々しく思う人は少なくなかったといいます。このこともまた、上尾事件で乗客の怒りが爆発した一因だったと考えられます。
上尾事件の時系列① 前日の順法闘争の影響
上尾事件が起きた3月13日は、始発の時点から高崎線に25分の遅延が生じていました。これは前日におこなわれていた順法闘争の影響で、朝の5時41分に上尾駅を出るはずの始発が発車したのは6時6分でした。
さらに始発が出発した後、本来ならば6時台に4本の普通列車が運行されるはずだったのですが、これらもすべて順法闘争の影響で運休。始発の次に上り線の普通列車832Mがホームに入ったのは、7時10分だったといいます。
つまり人身事故などの事情がないにもかかわらず1時間4分もの間、上尾駅には上り列車が来なかったのです。
この間に上尾駅のホームと構内は電車を待つ人で溢れかえり、改札では入場規制もおこなわれました。
やっと到着した832Mには乗客が押し寄せ、乗車率はなんと360%にも及んだとされます。
しかし、ホームで待っていた約5,000人の利用客の大半がた832Mに乗ることができず、乗せろと訴える客と、諦めろという引きずり下ろす国鉄職員の間で小競り合いが勃発しました。そのため、さらなる遅れが発生したのです。
なお、現在の東京で朝のラッシュ時にもっとも混雑する列車の一つとされている総武線の乗車率が約200%とのことですから、この時の高崎線の混雑がいかに酷かったかが窺えます。
さて、当時も現在も上尾駅は上り列車専用の1番線ホームと、ラッシュの時間帯などに柔軟に対応する上り・下り兼用の2番線、下り専用の3番線が停車するホームがある典型的な2面3線の駅です。
832Mは1番線に到着し、その次にやって来た普通列車1830Mは隣のホームの2番線に入線。この1830Mは本来ならば832Mの前に上尾駅に到着するはずの列車でしたが、やはり前日の順法闘争の影響で大幅な遅れが出て、到着は7時40分でした。
1830Mにも客が詰め寄せ、乗車率は430%近くなったといいます。そしてここでも客と職員の小競り合いが発生し、なかなか列車は出発できませんでした。
1830Mが停車している2番線の向かいの3番線には、7時30分に上野発・新潟行きの「特急とき」が入線する予定でしたが、ホームがあまりにも混雑して危険な状態であったため、上尾駅の300m手前で停車を余儀なくされました。
上尾事件の時系列② 運転打ち切りと暴動の発生
832Mも1830Mも異常な混雑と、それでもまだ無理やり乗ろうとする乗客を取り押さえるなどしていたために発車することができず、後続の上り列車も、下り列車もホームに入れずにどんどん高崎線のダイヤが乱れていきました。
そこで上尾駅構内には「2番線に停車中の1830Mを先に発車させ、1番線に停車中の832Mはその後に発車させます」という内容のアナウンスが流されます。
これだけならばよかったのですが「混雑により正常な運転ができないため、本日は1830Mも832Mも上野まで行かず、2駅先の大宮で運転を打ち切ります」とアナウンスが続いたのです。
ここまで待たされて、電車が目的地まで行かないことを知った利用客の怒りが爆発。ついに暴動が発生しました。
上尾事件の時系列③ 暴動の様子と写真
運転打ち切りのアナウンスを聞いた乗客の怒りは、まず832Mの運転手に向かいました。乗客は運転席の窓を割って運転手を引きずり出そうとし、恐怖を感じた運転手が駅長室に逃走。
すると逃げた運転手を追いかけて乗客が駅長室になだれ込み、鉄道電話などを破壊したとされます。この時、駅長室にいた上尾駅の駅長と助役が負傷し、暴動のどさくさに紛れて駅長室から現金20万円や定期券が盗まれたとのことです。
さらに2番線に停まっていた1830Mでも運転手と車掌が逃げ出し、暴徒化した乗客らによって列車の運転設備が破壊されました。
また、ホームの混雑から駅に入れずにいた特急ときにも乗客の怒りが向かい、乗客の投げた石によって窓ガラスが割られ、ヘッドマークも剥ぎ取られました。
危険を感じた駅員らは7時31分頃に埼玉県警と熊谷鉄道公安室に連絡を入れ、出動要請をしたといいます。そして警官(70名ほどが出動したとの話もある)が上尾駅に到着し、8時30分には上尾駅を通過、発着する列車の切符が発売が停止されました。
さらに大宮鉄道病院の救護班が上尾駅に派遣され、8時35分には怪我をした駅長と助役が病院に運ばれることになり、ほかの駅員も退去したとされます。
8時50分には高崎線の上り列車は上越線水上駅で停止となり、その後は普通列車のみ高崎での折り返し運転の対応がとられました。
その後は出動した警官らが暴動を抑えようと試みましたが、手に負えなかったことから9時10分には機動隊や公安員が投入。最終的には700人もの人員が現場に入り、9時45分になってやっと暴動が沈静化したといいます。
なお暴動が起きた時、上尾駅には1万人を超す乗客が詰め寄せていたとの話もあります。また10時になる頃には暴動の影響で高崎線抑止列車数は約20本にも上り、5万人の乗客に影響が及んだとされます。
上尾事件の時系列④ 近隣の駅でも暴動が起きる
騒ぎが起きていたのは上尾駅構内だけではありませんでした。この日、高崎線沿線の駅では似たような暴動が同時多発的に起きており、上尾駅が沈静化した後も他の駅での破壊行動が続きました。
10時07分、上尾駅の隣の宮原駅では乗客によって駅長と助役が拉致され、乗客らに腕を掴まれて大宮駅まで歩かされることになります。(なお、宮原駅から大宮駅まではおよそ4km)。
10時10分には国鉄が熊谷通運上尾支店内に現地対策本部を設置。埼玉県警も上尾警察署内に対策本部を設置したうえ、群馬県警にも応援要請を出しました。
しかし警察が対応する前に暴動が発生して川越線にも石が投げつけられ、身の危険を感じた車掌が国鉄大宮工場に逃げ込むことに。これによって川越線まで不通となりました。
続いて10時9分には東北本線の下り急行「まつしま1号」にも石が投げ込まれ、事態を重く見た国鉄は国鉄本社公安本部長と旅客局戸川調査役を現地対策本部長として派遣します。
そして10時40分には高崎線、川越線、東北本線の運転がついに前面休止になりました。
さらに10時45分頃には線路を歩いてきた乗客たちが大宮駅に到着。ホームに停車していた列車に次々に石を投げ、大宮駅の8番線、9番線ホームにある運転事務室に暴徒化した乗客が押し入り、占拠されてしまいました。
同時刻頃、運輸省関東自動車局は代替輸送のバス(国鉄バス)を7台手配し、ほかにも上尾駅に残っている乗客を大宮まで運ぶ民間バスなどを33台手配して乗客の怒りを収めようと試みます。
その後は11時7分頃には大宮駅での騒動も収束。11時20分には東北本線、11時30分には川越線の運転が再開され、代替輸送のおかげで11時50分頃には上尾駅の乗客も6000人にまで減少しました。
こうして上尾駅で立ち往生していた乗客も代替輸送のバスを利用して減り続け、ようやく高崎線沿線での暴動は収束していったとされます。
なお、この暴動と関連してか12時35分頃に東京電務区(国鉄内の交換局のようなもの)に東京駅の爆破予告のいたずら電話も入っていました。
上尾事件での被害
上尾事件では乗客が起こした暴動で、以下のような被害が生じました。
・上尾駅や周辺駅の構内や線路上の設備が破壊される。
・高崎線をはじめ、複数の車両がガラスを割られる、椅子を破壊されるなどする。
・高崎線は事件当日は17時30分まで10時間20分に渡って全線不通となる。その後も終日、大幅な遅延が生じる。
・上尾駅の駅長が暴徒化した乗客に頭や顔を蹴られ、全治5日間の怪我を負い入院する。
被害総額は公表されていませんが、車両や信号などの修理や交換、駅の補修など、上尾事件での被害総額は数億円にものぼったと言われています。
しかし、ここまで大規模な被害が出たにもかかわらず、逮捕者は混乱に乗じて現金を盗んだ者や取材に来ていた朝日新聞記者に危害をくわえた者など7名のみでした。
車両や備品などの破壊は器物損壊罪にあたりますが、器物損壊罪は親告罪のため、暴動に参加した大多数の乗客は罪に問われなかったのです。
なお、暴動のさなかでマスコミの取材を受けた乗客は「悪いのは自分たちではない。こんなことになったのは、ノロノロ運転をする国鉄と労働組合のせいだ」と話していたといいます。
上尾事件のその後① 首都圏国電暴動
上尾事件を受けて労働組合側も、予定していた順法闘争を今後は中止するという発表しました。しかし国鉄側との労使交渉はまとまらず、動労は4月に順法闘争の再開を決断。
そうして4月24日に今度は通勤・通学客の帰宅時間を狙って順法闘争を起こしたことにより、帰宅難民となった利用客がまたしても暴徒化したのです。
この暴動は首都圏国電暴動と呼ばれ、赤羽駅を発端に上野や新宿、渋谷、有楽町など計38駅で破壊・放火などが同時多発的に発生しました。
現場で働く国鉄職員らは上尾事件と首都圏国電暴動を通して、乗客が自分たちの要求を通すための味方になってくれるどころか、怒り狂って暴動を起こすことに恐怖を感じました。そしてこれ以降、労働組合から命じられても首都圏での順法闘争に参加しない職員が増えていったのです。
また、これまでは「ストをする権利もないなんて」と国鉄職員に同情的であった人々も、「人の迷惑を考えろ」「国鉄職員は職業意識が低すぎる」と批判的になっていきました。
その後も国労と動労は1975年にもスト権ストを起こして1週間ほどストライキを実施しましたが、労働組合側の要求はとおらず、結果として乗客の国鉄離れを招いただけでした。
上尾事件のその後② 輸送力増強策
上尾事件、首都圏国電暴動という2大暴動を受け、国鉄首都圏本部は1974年11月に以下のような内容を盛り込んだ「首都圏通勤交通現状打開のための提言」を発表しました。
・異常時発生の対策の強化
・ラッシュ時の混雑の限界基準の見直し
・輸送力と都市開発計画のバランスの重要性
・運賃の見直し
・混雑回避のため、利用客の時差通勤・時差通学の検討を呼びかける
・企業への割引制廃止を検討
また、高崎線ではラッシュ時に乗客が乗れない食堂車両のある急行車両を走らせるのをやめ、普通車両を新しく導入するなどして、混雑の緩和に取り組みました。
さらに沿線住民の反対運動などにより建設が遅れていた埼京線も1985年に開通。これにより大宮以南から都内に通勤する客の多くが埼京線を利用するようになり、高崎線の混雑は解消されました。
上尾事件のその後③ 平成の上尾事件が話題になる
2014年10月には上尾駅でまたもや暴動が起こり、「平成の上尾事件」「第二の上尾事件」として話題となりました。
平成の上尾事件といっても、この時に暴動の理由となったのはJR職員の勤務態度やダイヤの乱れなどではありません。みなかみ駅と上尾駅の間を走っていた「EL&SLみなかみ物語」の撮影をしようとした鉄道マニアたちがホームに押し寄せ、線路への転落を防ごうとする駅員と衝突し、騒動に発展したのです。
安全のためにホームの先端部を封鎖しようとする駅員らに対し、一部の鉄道マニアが罵声を浴びせ、暴行をくわえ、最終的には警察が駆けつけて逮捕者まで出る始末となったのでした。
この日の騒動はたちまちネットで拡散され、鉄道マニアたちのモラルの低さに批判が集中。鉄道マニアからも「JRの職員さんやほかのお客さんに敬意が払えない人に電車を撮影する権利はないと思う」と厳しく非難されていました。
上尾事件に対する海外の反応
上尾事件が発生した当日、国鉄に挨拶をするためにザンビア共和国から公共事業大臣が来日していました。
この頃、ザンビアではカナダの資金援助を受けて鉄道近代化計画が進められており、公共事業大臣は貨車や客車をどこに発注するか各国を視察していたのです。
国鉄も日本の車両の素晴らしさをアピールする予定であったものの、折り悪く暴動が起きてしまったことから現在の状況を説明し、公共事業大臣一行に「予定どおりに旅行が進まない可能性があることを、お詫び申し上げます」と頭を下げることとなりました。
ザンビアではこのような市民の暴動が起きることはなかったため、公共事業大臣は上尾での暴動にひどく驚いていたといい、国鉄は赤恥をかいたといいます。
なお、2018年に岡山市内のバス労働組合が「業務を簡略化するため、利用客から運賃を受け取らない」というストをおこなった際には、海外のネットユーザーから「欧米ではストのためなら利用者に迷惑をかけて当たり前なのに、日本はすごい」「なんて思慮深いストライキだろう!」と称賛の声が集まっていました。
益野線、運行開始 利用者ら戸惑いと歓迎 両備バス「集改札スト」実施 /岡山 https://t.co/Ep85cu4QeE 八晃運輸(岡山市)が運営する循環バス「めぐりん」の新路線・益野(ますの)線の運行が27日始まった。一方、両備グループの労働組合は同日、益野線と重なり合う岡山西大寺線などで、乗客から… pic.twitter.com/JR8eGDrjKB
— Gnews (@Gnews__) April 28, 2018
事件当時は海外でどのように上尾事件が受け止められたのかは不明ですが、日本でも一般的なストがおこなわれており、かつ反発した市民が暴動を起こした過去があると知ったら、海外の人々は驚くのかもしれません。
上尾事件の様子がわかる動画
上の動画は上尾事件の様子を伝える当時のニュースのものです。新聞では「駅員を見つけたらぶっ殺してやる!」と叫んでいた人がいたとも報じられていたため、乗客は手のつけようがないほど怒っていたのかと思いきや、意外と冷静にインタビューに応じている人が多いのに驚かされます。
また、雨のなか延々と線路を歩いている人も「ちゃんと舗装されていればね、たまには線路を遊歩道的に歩いてもね。いいんだけど」などユーモアのある受け答えをしており、電車は遅延して当然、国鉄利用客にとって順法闘争に巻き込まれるのは日常茶飯事だったのだなと感じさせられます。
しかし駅構内の混雑は凄まじいものがあり、万が一ドミノ倒しでも起きた場合には多数の死者が出たのではないかとゾッとさせられる映像です。
上尾事件についてのまとめ
今回は1973年3月13日に発生した国鉄史上に残る暴動事件、上尾事件について紹介しました。
このような暴動事件が起きてしまった背景には当時の国鉄の体質はもちろんのこと、高度経済成長に伴うだけのインフラ整備が進まなかったという事情もあります。順法闘争で遅延が生じることがあっても、平時には許容できる範囲の混雑と遅れで電車が動いていれば、ここまで乗客が怒りを爆発させることもなかったでしょう。
地下鉄や私鉄などによる振替輸送が可能になった現在の首都圏では、仮にJRが停止しても同じような暴動は起きないと考えられています。そう思うと、上尾事件も急速な経済発展を遂げた昭和の日本で起こるべくして起きた事件たったのかもしれません。