川俣軍司の現在は釈放?長野るみ子の祖父・親や家族・深川通り魔殺人事件の動機と判決まとめ

川俣軍司は1981年に東京都江東区で発生した深川通り魔殺人事件の犯人で、無期懲役の判決を受けました。この記事では川俣軍司の生い立ち、親や家族、被害者の長野るみ子さんの祖父との因縁、事件の動機や釈放されたとの噂や現在について紹介します。

川俣軍司と深川通り魔殺人事件の概要

 

 

出典:https://twitter.com/

 

1981年6月17日の白昼、東京都江東区森下の商店街で通行人を狙った通り魔事件が発生しました。

 

無差別に人々に襲い掛かった犯人は、川俣軍司という当時29歳の無職の男です。

 

事件当日、午前11時35分頃に商店街にやってきた川俣軍司は、まず自分の正面を歩いていた長野るみ子さん(27歳)と、長野さんの長女の統子ちゃん(3歳)、長男の博明くん(1歳)を包丁で切り付けて殺害し、続いてその光景を見て立ち尽くす二本松美代子さん(33歳)も刺殺しました。

 

さらに近くの停留所でバスから降りたばかりの加藤貞子さん(71歳)に切りかかって重傷を負わせ、化粧品店から出てきた吉野千鶴子さん(39歳)にも大怪我を負わせます。

 

こうしてわずか5分程度の時間で幼児をふくむ4人の命を奪い、2人に重傷を負わせた川俣軍司は、午前11時40分頃に付近にいた石塚真理さん(32歳)を人質に取って、商店街にあった中華料理店「萬来」に立てこもりました。

 

そして店内にいた「萬来」の店主夫婦を外に追い出して、そのまま7時間近く籠城。立てこもり中も包丁で切りつけるなどして人質の石原さんに怪我を負わせました。

 

駆け付けた警察に対して「うるさい、(人質を)殺すぞ。何人やっても同じだ」などと言って、カレーライスや牛乳などを差し入れさせ、店内で自分が起こした事件のニュースを見ながら飲食していたといいます。

 

この時、被害者のうち4人が亡くなったことをニュースで知った川俣軍司は後悔するどころかニヤニヤしていたとのことです。

 

最終的には事件当日の18時54分頃に隙を見て人質の女性が店の外に逃げ出し、入れ替わりに警官隊が「萬来」に突入。川俣軍司は逮捕されました。

 

抵抗しないように口にタオルを詰められ、上半身は半そでの丈の短いTシャツ、下半身は白ブリーフ一丁にハイソックスという異様な出で立ちで川俣軍司は連行されて行き、この姿は集まったマスコミによってTVや新聞で大々的に報じられました。

 

さらに逮捕後には「電波が引っ付いた」という川俣軍司の奇妙な発言や意味の分からない犯行動機も話題となり、裁判では軍司の責任能力の有無が争点となりました。

 

 

川俣軍司の生い立ちと経歴① 両親と家族

 

出典:https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/

 

川俣軍司は1952年2月21日に茨城県鹿島郡の波崎町太田(現在の神栖市太田新町)で誕生しました。家族は両親と姉と兄、弟の6人でしたが、姉は幼い頃に亡くなっています。

 

父親はもともと東京の下町で生まれ育ちましたが、戦後は波崎町に移り住んでシジミを採って生計を立てていたそうです。

 

しかし、シジミ漁は夏の産卵期に禁漁期間があるほか、漁場の操業期間自体も半年程度と短く、年間を通して安定して稼げる仕事ではありません。

 

多くの漁師が農業など、自分の土地を利用した仕事と並行して半農半漁で生計を立てていたのですが、軍司の父親は移住者であったことから農業ができず、仕事がない、収入のない時期があったといいます。

 

そのため家計は非常に貧しく、母親も栄養が十分にとれずに母乳が出なかったために軍司は乳児期から重湯で育てられました。

 

家も夫婦2人で暮らすのであれば何とか、といった広さの平屋の文化住宅で、1年の家賃が2万5000円ほどの借家だったとのこと。

 

それでも仲良く明るい家族であればよかったのですが、川俣家からは笑い声が聞こえてくることは少なく、父親の怒鳴り声が近隣にまで聞こえてくるような荒んだ家庭環境だったといいます。

 

 

川俣軍司の生い立ちと経歴② 小学校~中学卒業まで

 

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6歳の誕生日を迎えた後、軍司は町立太田小学校に進学しました。

 

おとなしい子どもで授業中に発言することはなく、成績は5段階評価でほとんどが2。同級生に話しかけられても気弱に笑うことしかなかったため、友人もできなかったそうです。

 

こうして目立つ児童ではなかったものの問題も起こさずに小学校を卒業した軍司は、そのまま学区内にある波崎第3中学校に進学します。

 

中学校に入って園芸部に所属したものの、やはり周囲とうまくコミュニケーションがとれず、いつも気弱に笑っていたことから「ニタリスト」というあだ名がつけられていたという軍司。

 

2年生の時には先生からニヤニヤ笑っていることを注意され、反論できずに黙って泣き続けていたとの話もあります。

 

 

川俣軍司の生い立ちと経歴③ 就職

 

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中学を卒業した軍司は高校には進学せずに就職の道を選びました。この頃、日本での高校進学率は90%を超えており、波崎第3中学校でも就職を希望した3年生は学年で10人程度しかいなかったといいます。

 

そのため父親も進学を勧めましたが、軍司本人は「家がこんなに大変なのだから働かないと」と考えを変えずに、東京への集団就職を選びました。

 

こうして1967年3月末に生まれ育った茨城を離れて上京した軍司は、築地6丁目にある寿司屋で下働きをすることになります。

 

仕事態度は良く、真面目で素直であったことから職人たちからも「軍ちゃん」「軍司」と呼ばれて可愛がられていたそうです。

 

1970年の夏に酔った勢いで築地大映のガラスを割って連行されるという事件も起こしましたが、仕事では順調にキャリアを重ねて花板(店一番の板前のこと)の助手になるまでに成長していました。

 

ところが1970年10月、軍司は真面目に働いていた築地の寿司屋を辞めてしまいます。

 

理由は半年ほど前から一緒に働くことになった少年院上がりの後輩と折り合いが悪かったから、とのことで、転職先は新聞広告で見つけた江戸川区小岩の寿司屋でした。

 

しかし、築地の店を辞めて小岩の寿司屋に就職したことで、軍司の人生の歯車は一気に狂い始めます。

 

小岩の寿司屋で軍司は先輩の職人の1人に憧れ、「兄貴」と慕ったのですが、この先輩職人は背中に刺青を入れていました。

 

あろうことか、これまで大人しく真面目に暮らしていた軍司はこの先輩の気風の良さだけではなく刺青にまで憧れ、「兄貴のような彫り物を入れたい」と考えるようになってしまったのです。

 

先輩は軍司に刺青を彫っても良いことはない、考え直せと止めたといいますが、若気の至りか制止も聞かずに軍司は腕に刺青を入れてしまいます。

 

そしてこの刺青が原因で、軍司はわずか3ヶ月で小岩の寿司屋をクビになってしまうのです。

 

なお、解雇理由は単に刺青を入れたからではなく、客に勧められて酒を飲んだ際などに刺青をちらつかせるなどして客を怖がらせたためだったといいます。

 

 

川俣軍司の生い立ちと経歴④ 犯罪を繰り返すようになる

 

出典:https://ja.wikipedia.org/

 

小岩の寿司屋を辞めた後も都内の寿司屋を転々としましたが、どこも長続きはせず、解雇続きとなってしまった軍司は、1971年の2月に実家に戻っていました。

 

そして銚子市内の寿司屋で働きながら教習所に通って4月に運転免許を取り、心機一転、トラックの運転手として運送会社に就職します。

 

しかし運送会社も長続きせず、再び上京して今度は台東区内にある土建会社で働くことに。これ以降、軍司は短い期間に犯罪を繰り返すようになっていきます。

 

・1971年6月…浅草で酒に酔った勢いで通行人を脅し、現金を奪って逮捕される。懲役2年執行猶予3年を言い渡される。

 

・1972年3月…足立区千住で通行人相手に暴行傷害事件を起こして逮捕される。罰金3万円。

 

・1972年9月…文京区冨坂でまたしても暴行傷害事件を起こす。懲役10か月を言い渡され、執行猶予も取り消される。2年10か月、川越少年刑務所に服役。1975年9月に出所する。

 

・1976年4月…少年刑務所出所後に秋葉原にある運送会社で働き始めたものの、勤務中に道路交通法違反で逮捕される。罰金4万円。

 

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・1976年5月…文京区の居酒屋で酒に酔って暴れて警察を呼ばれ、逮捕される。懲役10か月を言い渡されて水戸少年刑務所に収監される。

 

こうして1977年4月に水戸少年刑務所を出所した軍司は、再び実家に戻って今度はシジミ漁を手伝うことにします。

 

当初はとても熱心に仕事に取組み、父親の指導を受けながら初月はなんと200万円もの売り上げを出したそうです。

 

しかし、仕事に慣れてくると父親に「海に叩き落すぞ」などの暴言を浴びせるようになり、母親に対しても「飯がまずい」と言った理由で怒鳴り散らすようになりました。そのためDVを恐れた両親は、軍司を置いて長男の家に逃げて行ったといいます。

 

 

川俣軍司の生い立ちと経歴⑤ 人気ホステスとの結婚を夢見て傷害事件

 

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両親が出て行った後も、軍司は実家に残って弟に手伝わせながらシジミ漁の仕事を続けていました。

 

仕事は真面目にしていたため、漁に出られる時期には安定した収入を得ていたといい、シジミ漁で得たお金で外車を購入した軍司はクラブやナイトレストランで派手に遊ぶようになります。

 

そして1978年3月頃から地元や銚子市内の暴力団と関係を持ち、覚せい剤に手を出してしまうのです。

 

またこの頃、軍司は銚子新生町にあったクラブ「誘惑」のナンバーワンホステスに惚れ込み、結婚を夢見るようになっていました。

 

彼女に会いに行く回数を増やそうとしたのか、同年5月にはシジミ漁に使っていた漁船まで70万円で売り払い、仕事を辞めて新生町に引っ越しています。

 

実は、このホステスには夫がいました。しかし、客に気を持たせるために店では独身で通していたため、軍司は店に通ってお金を使えば結婚できるのではないかとのぼせ上がってしまったのです。

 

そして10月、ホステスに夫がいることを知った軍司は怒り狂ってクラブの閉店時間まで外で待ち伏せをして、彼女を包丁で刺して怪我を負わせてしまいます。

 

こうしてまたしても逮捕された軍司は懲役1年の判決を受けて府中刑務所に収監。出所してからは保護司の監視のもと、都内や銚子市内の寿司屋、水産加工会社で働くなどしましたが、どれも長続きせずに数日~数ヶ月で辞めています。

 

 

川俣軍司の生い立ちと経歴⑥ 挙動不審から覚せい剤の使用を疑われる

 

出典:https://photosku.com/

 

1980年8月17日、軍司の母親が死亡します。死因は子宮がんでした。

 

この時、軍司は道路交通法違反と暴行の罪で拘留されていたのですが、母親が亡くなったことから拘留停止の処分を受けて葬儀に出ています。

 

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そしてお坊さんに対して「俺の悪口を言った」「おっかあを侮辱した」などと難癖をつけて大声で喚き、葬儀の場を騒然とさせました。

 

兄と弟が力づくで軍司を止めて葬儀が行われたとのことですが、この時の異様さから親族間では「軍司は覚せい剤でもやっているのではないか?」と噂になったといいます。

 

実は軍司はホステスを包丁で刺して府中刑務所に服役した頃から幻覚や妄想に悩まされるようになっており、前述の道路交通法違反と暴行で、母親の葬儀後にまたしても府中刑務所に収監されてからはいっそう異常さが顕著になっていきました。

 

1981年4月に府中刑務所を出所した軍司は、兄の勤務先に電話をして「高級役人の黒幕が電波を飛ばしてきたせいでこんなことになった」「黒幕が家族や勤務先に圧力をかけて、自分を孤立させようとしている」「黒幕に注射で殺されそうになっている」などと意味不明な妄言を繰り返したそうです。

 

兄は意味不明な弟の電話に愕然としたものの、他の家族から軍司を遠ざけつつ、自分が援助して立ち直らせようと決意したといいます。

 

なお、12歳年が離れていたという軍司の兄もまた、若い頃に勤務先の会社の社長を刺殺して逮捕されていました。そのため、犯罪を繰り返す弟を見捨てられなかったのかもしれません。

 

兄は当面の生活費として3万8000円を用意し、軍司に手渡しに行きました。

 

そこで実家には帰ってこないように約束させたところ、軍司は「家族や世間が邪魔をしても、俺は結婚して家庭を作ってやる」と息巻いて去っていったといいます。

 

その後、軍司は錦糸町や野島、浦安、代々木などの寿司屋で働き始めましたが、いずれも挙動の不振さから覚せい剤の使用や禁断症状を疑われて早々に解雇。

 

深川通り魔殺人事件を起こす直前にも寿司のチェーン店で面接を受けていましたが、結果は不採用でした。そして、事件が起きたのです。

 

 

川俣軍司が深川通り魔殺人事件を起こした動機

 

出典:https://www.youtube.com/

 

逮捕後、川俣軍司は無差別殺人という凶行に至った動機について、以下のように語っていました。

 

「寿司職人になろうと、面接を受けたが断られ 腹が立った」

 

引用:深川奇譚

 

この発言に続いて軍司は「俺には電波が引っ付いている。黒幕を暴くために人質をとった」「俺はサムレエ(侍)だ」「子どもがいる人が羨ましかった。だから鬱憤をはらした」とも供述しています。

 

1979年頃から軍司には妄想や妄言が見られたといいますが、犯行に至った理由にも覚せい剤や妄想の影響があることは明らかです。逮捕後の尿検査でも、4回全部で覚せい剤の反応が出ていたといいます。

 

一方で無差別殺人といっても軍司が狙ったのは女性ばかりで、しかも最初に殺害したのは2人の幼児を連れた母親でした。

 

つまり、しっかりターゲットを見定めるだけの冷静さは持っていたわけです。

 

そのため裁判では、犯行時の軍司の精神状態や責任能力が争点となっていきました。

 

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川俣軍司の裁判と判決

 

出典:https://ja.wikipedia.org/

 

川俣軍司の初公判は、1981年11月24日に東京地裁で開かれました。公判でも自分を苦しめ続ける「高級役人の黒幕が自分に引っ付けた電波」について、異様な供述をしています。

 

また、中華料理店「萬来」に立てこもった際にも、人質の石塚真理さんに以下のような内容を伝えて要求書として筆記させていたといい、これも裁判で証拠として提出されました。

 

「電波でひつついている役人の家族をすぐ連れてこい。寿司屋の寿司田、梅岡と魚河岸、寿司長、花み寿司、寿司元、天狗寿司、松喜の夫婦全員つれてこい。……半日以内につれてこい。……おれがこういうことをしたのもみんなひつついている役人がわるいからだ。テープでひつついているからだ。……人が死んだのも役人とぐるになつておれをひつついた寿司屋と水産屋がわるいんだ。それの責任だ。」

 

引用:東京地方裁判所 昭和56年(合わ)305号 判決

 

幼児を含む4人もの命を奪ったことから、一般的に考えれば川俣軍司に言い渡される刑罰は死刑しかありえません。

 

しかし、精神鑑定の結果は2回とも「心神喪失状態ではないが、心神耗弱状態にはあった」というもので、責任能力はあったものの、正しい判断のできない精神状態だったと判断されました。

 

さらに逮捕前から様子がおかしかったことも周囲の証言や上の証拠などから明らかであったため、1982年12月23日には川俣軍司に無期懲役の判決が言い渡されます。

 

裁判官は判決理由について「精神に異常がなければ極刑相当としか言えない。しかし、被告人の心神耗弱の背景には生育環境や遺伝的要素も考えられることから、心神耗弱による軽減をしたうえでの最高刑として無期懲役を言い渡す」としていました。

 

 

川俣軍司の現在は?釈放されている?

 

日本では無期懲役を言い渡されても30~35年で出所する受刑者が多いことから、川俣軍司もすでに釈放されているのではないか?という意見もあります。

 

しかし、軍司は4人もの命を奪っており、日本では本来3人以上殺害した場合には死刑が適用されるという「永山基準」に反して、異例の減刑を受けたかたちになっています。

 

判決公判までには被害者への謝罪の言葉を口にする、反省する態度を見せるなどしていたことから、軍司は模範囚として真面目に服役しているかもしれません。

 

しかし、判決で異例の量刑を受けているため、軍司が仮釈放されることはまずないと考えられるでしょう。

 

 

川俣軍司の祖父と被害者・長野るみ子さんの祖父には因縁があった

 

深川通り魔殺人事件の加害者である川俣軍司と、被害者の長野るみ子さんには奇妙な因縁がありました。

 

なんと事件が起きる数十年前、まだ2人が誕生していない頃に、るみ子さんの祖父が軍司の祖父を殺害していたというのです。

 

しかも祖父同士の殺人事件が起きたのは、深川通り魔殺人事件の舞台と同じ江東区森下だったといいます。

 

さらに寝具は不明ですがるみ子さんの祖父も覚せい剤中毒で、その影響で軍司の祖父を殺害してしまったとの噂もあります。

 

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軍司はこのことを知らずにるみ子さんに凶刃を向けたとされていますが、祖父を殺害した人物の孫娘を同じ森下で手にかけるなど、偶然にしても不気味すぎると話題になりました。

 

そのため「川俣軍司の言っていた『電波』とは、実は祖父の怨霊なのではないか?」「非業の死を遂げた祖父に操られて犯行に及んだのではないか」との噂がまことしやかに囁かれています。

 

 

川俣軍司役を大地康夫さんが演じて話題に

 

出典:https://www.youtube.com/

 

深川通り魔殺人事件は1983年にドラマ化され、テレビ朝日系の『月曜ワイド劇場』で放送されました。

 

川俣軍司の役を演じた大地康夫さんは軍司の生い立ちや裁判記録などをすべて読み込み、頭に叩き込んでから撮影に臨んだといいます。

 

そのため、川俣軍司本人が憑りついたのではないかと言われるほどの迫真の演技を見せ、当時はテレビ朝日に「なんで刑務所にいるはずの犯罪者をドラマに出しているんだ!」といったクレームの電話が殺到したのだそうです。

 

この作品がきっかけになって大地さんは俳優としての地位を築き、『お父さんは心配症』などのドラマでコメディもこなせる高い演技力を見せつけるようになりました。

 

なお、深川通り魔殺人事件のドラマ撮影前、あまりにも熱心に役作りに取り組む大地さんを見た監督が「刑務所に行って本人に面会するか?」と提案してきたそうです。しかし、この申し出はさすがに怖かったために大地さんも断ったとのことです。

 

 

川俣軍司についてのまとめ

 

今回は1981年に深川通り魔殺人事件を起こした川俣軍司について、生い立ちや前科、家族関係、判決などを中心に紹介しました。

 

川俣軍司の生い立ちはたしかに幸せなものではなく、裁判でも指摘されたように生育歴も犯行に至る原因にはなったのでしょう。

 

しかし、このような無差別殺人では何の落ち度もない無関係の人々が被害者となっており、無期懲役は甘かったのではないかという声は今でもあります。

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