1999年4月に起こった光市母子殺害事件を覚えていますか?この光市母子殺害事件の遺族であり、犯人の死刑判決のために10年以上闘いぬいたのが本村洋さんです。
光市母子殺害事件の概要や本村洋さんの生い立ちや大学などの学歴、妻の弥生さんとの出会いや結婚、経歴、再婚相手や子供、豪邸などのデマ、自殺企図と家族、犯人の死刑判決への尽力と現在をまとめました。
この記事の目次
本村洋は光市母子殺害事件の遺族
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本村洋さんは光市母子殺害事件の遺族です。
1999年4月14日起こった光市母子殺害事件で、犯人の福田孝行(現在の姓・大月)によって本村洋さんの妻の弥生さんと娘の夕夏ちゃんが殺害されました。
本村洋さんは、犯人の残忍な犯行や弁護士の「傷害致死事件。凶悪性は強くない」という死刑回避のための主張と10年以上にわたり闘い続け、「犯罪被害者の権利確立」を訴え続けたことで、マスコミに大きく取り上げられ世間の注目を集めました。
本村洋の妻と娘が殺害された光市母子殺害事件
事件の発生から逮捕まで
光市母子殺害事件とは、1999年4月14日に山口県光市にある新日鐵の新日本製鐵社宅で発生した殺人・強姦致死・窃盗事件です。
<光市母子殺害事件>
・発生日時:1999年4月14日
・犯行現場:本村洋さんの自宅(会社の社宅)
・被害者:本村弥生さん(23歳)と夕夏ちゃん(11ヶ月)※本村洋さんの妻子
・犯人:福田孝行(当時18歳1ヶ月)
・犯行:殺害後に弥生さんを屍姦し、夕夏ちゃんを殺害して、約25,000円相当を窃盗
犯人の福田孝行は強姦目的で新日本製鐵光製鐵所の社宅に赴き、排水検査を装って若い主婦がいる部屋を探して回りました。
そして、14時20分ごろに本村洋さん(犯行時間は勤務中で留守)の自宅を訪れて排水検査を装ったところ、弥生さんは疑うことなく部屋の中に招き入れたたため、弥生さんを強姦しようとします。
弥生さんは激しく抵抗したため、犯人は首を絞めて殺害し、その後に強姦します。現場では長女の夕夏ちゃん(生後11か月)が激しく泣き続けていたため、犯人は夕夏ちゃんも絞殺しました。
事件の発覚を恐れた犯人は夕夏ちゃんを押し入れの天袋に投げ入れ、弥生さんを押し入れの下段に隠し、証拠隠滅をしたのち、地域振興券などを盗んで逃走しました。
事件当日の22時ごろ、職場から帰宅した本村洋さんは弥生さんの遺体を発見し、警察に通報します。そして、駆けつけた警察官が夕夏ちゃんの遺体を発見しました。事件から4日後の1999年4月18日に、犯人の福田孝行が逮捕されています。
裁判と死刑判決
逮捕された犯人の年齢は18歳1ヶ月で未成年でした。そのため、最初は家庭裁判所での少年審判が行われましたが、事件の性質などを考慮して検察官送致が行われ、殺人・強姦致死・窃盗で犯人は起訴されることになりました。
裁判では2人殺害・強姦・窃盗という残忍・凶悪な犯行ををした未成年の犯人に、死刑判決が下るかどうかが焦点となりましたが、弁護側は死刑回避のために裁判で次のような主張を繰り返しました。
主張:「母恋しさ、寂しさからくる抱きつき行為が発展した傷害致死事件。凶悪性は強くない」
・強姦目的ではなく甘えの気持ちで抱きついた
・(夕夏ちゃん殺害は)泣き止ますために首に蝶々結びをしただけ
・夕夏ちゃんを押し入れに隠したのは、ドラえもんに助けてもらおうと思った
・屍姦したのは小説に「復活の儀式」と書いてあったから
これらの主張があり、第一審・第二審では無期懲役の判決でしたが、最高裁では死刑判決が出て、犯人の死刑が確定しています。
本村洋の生い立ち
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本村洋さんは、1979年に大阪府堺市で生まれました。
詳しい生い立ちはわかっていませんが、中学生の時にはテニスをしていたことが分かっています。
ただ、中学3年生の時にテニス大会の直前でネフローゼ症候群を発症します。このネフローゼ症候群が受験直前まで入院生活を送ることになりました。
本村洋の大学などの学歴
中学を卒業した本村洋さんは、実家がある大阪を離れて、福岡県の小倉市にある北九州工業高専に進学しました。
北九州工業高専は国立の高専で、偏差値は65ですので、本村さんは非常に優秀な学生だったことがわかります。特に、受験直前までネフローゼ症候群で入院していたことを考えるとすごいですよね。
北九州工業高専を卒業した本村さんは広島大学工学部に編入して、1998年3月に卒業しています。
高専から国立大学に編入したことを考えると、やはり本村洋さんは優秀な学生だったことは間違いありません。
本村洋と妻・弥生さんとの出会いや結婚
本村洋さんと妻の弥生さんが出会ったのは、本村さんが北九州工業高専の4年生だった時です。当時、福岡で短大生をしていた弥生さんとコンパで知り合い、交際するようになりました。
高専を卒業した本村洋さんは広島大学に編入したので、広島と福岡の遠距離恋愛になります。遠距離恋愛をしていた中、本村さんが大学4年生の11月に弥生さんが妊娠したことがわかりました。
本村さんのご両親は結婚・出産を反対しましたが、本村さんは自分がネフローゼ症候群で治療した時に医師から「子供が出来ない体になるかも知れない」と言われていたこともあり、親の反対を押し切って、学生結婚をすることになりました。
学生結婚をしたことで、本村さんは親から勘当されています。
遠距離恋愛をしてたんですけども、その最中に妻というか彼女のお腹に子が宿りまして、私は、どうしてもその子を下ろすことができずに親の反対を押し切って結婚したということで、この時1回家を勘当されてます。
そして、大学を卒業し、新日本製鐵に入社して1ヶ月後の1998年5月11日に夕夏ちゃんが生まれました。
夕夏ちゃんが生まれた11ヶ月後に、あの光市母子殺害事件が起こってしまうのです。
本村洋の経歴
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本村洋さんは1998年3月に広島大学を卒業し、鉄鋼メーカーの新日本製鐵に入社します。入社して1ヶ月後に夕夏ちゃんが生まれました。
入社早々、父親になった本村洋さんですが、その後すぐにネフローゼ症候群をが再発し、入院生活を送ることになりました。退院した後は、仕事の遅れを取り戻すかのように残業する日々が続きました。事件当日も、本村洋さんが自宅に戻ったのは22時ごろです。
事件が起こった後、本村さんは会社に辞表を提出しました。しかし、当時の上司は次のような言葉で本村さんを会社に引き留めたのです。
君はこの職場にいる限り私の部下だ。そのあいだ、私は君を守ることができる。裁判はいつかは終わる。一生かかるわけじゃない。その先をどうやって生きていくんだ。君が辞めた瞬間から私は君を守れなくなる。新日鐵という会社には君を置いておくだけのキャパシティはある。勤務地も色々ある。亡くなった奥さんも、ご両親も、君が仕事を続けながら裁判を見守ってゆくことを望んでおられるじゃないのか
とても素敵な上司、素晴らしい会社ですよね。
本村洋さんは新日本製鐵を辞めずに、裁判に関係する活動を行い、その後は新日鐵住金ステンレス株式会社に転籍して、会社員を続けています。
本村洋は光市母子殺害事件の犯人と近所に住んでいた
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本村洋さんは事件当時、山口県光市室積沖田にある新日本製鐵の社宅「新日鐵沖田アパート」に住んでいました。
そして、犯人の福田孝行も同じ社宅の別棟に住んでいたんです。実際、福田孝行の自宅と犯行現場になった本村洋さんの自宅は200mしか離れていませんでした。
福田孝行の父親は新日鉄の子会社の社員だったので、同じ社宅に住んでいたんです。
平成11年4月に社宅で、同じ社宅に住む、同じ会社の従業員の息子さんに家族を殺されるという事件に遭いました。
本村さんも妻の弥生さんも娘の夕夏さんも、まさか日本の一流企業の社宅で、同じ社宅に住む人にあんな残虐な事件を起こされるとは夢にも思わなかったでしょう。
犯人の家族状況・家庭環境が悲惨
この光市母子殺害事件において、犯人に同情すべき点は1つもありません。これが前提ですが、犯人の家族状況・家庭環境はお世辞にも良いとは言えない状態でした。
父親は新日本製鐵の子会社の社員でしたが、犯人と犯人の母親にDVを繰り返すような人物でした。そして、犯人が中学3年生の時に母親は首つり自殺をします。
父親はその3年後にフィリピン人の女性と再婚し、事件の3ヶ月前に弟(犯人にとっては異母弟)が誕生しました。
犯人は高校入学後に家出や不登校になり、3年生の時には同級生の家に侵入してゲーム機を盗み、自宅謹慎処分になっています。
高校卒業後は高校からの紹介で水道設備会社に就職しますが、勤務開始1週間後から仕事をさぼるようになりました。そして、就職2週間後の4月14日にあの事件を起こすのです。
事件当時の犯人の家族構成とその後をまとめました。
・継母(フィリピン人)
・弟(2歳下)
・弟(異母弟・事件当時生後3ヶ月)
・祖母
父親は事件後にマスコミの取材で次のように語っていました。
「息子がしたことだから、息子が責任取るのが当たり前。親は責任取ってやりようがない。僕はそういう主義ですから」そう話す父親に責任の放棄では?と聞き返すと「僕にどうせいちゅうんですか。できることは頭を下げることしかない。下げるチャンスがなかったです。
まぁ、こういう父親だったんだな・・・という感想しかありません。また、2歳下の弟は事件後に家出をして、祖母は急死しています・・・。
本村洋の再婚相手や子供は?
本村洋さんは1997年に学生結婚をしていますが、1999年4月に妻と娘を犯人に殺害されました。それからはずっと仕事をしながら裁判の傍聴や被害者の権利確立のための活動をしていましたが、再婚していたことを2012年に女性セブンが報じました。
再婚したのは2009年ごろのようです。
そんな本村さんは、2年ほど前に再婚して、光市から少し離れたところに新居を構えて新たな生活をスタートさせているという。
「奥さんは7才年上の同じ会社の同僚だそうです。趣味のテニスを通じて仲良くなったそうですよ」(本村さんの知人)
この記事が出ることを知った本村洋さんは自ら上告審判決の会見で再婚したことを明かしています。
会見の中で、本村さんが再婚していたことを語った。「2009年に籍を入れさせていただきました。1人で生活し、いろいろと精神的に参っていた私を、支えていただける方と出会うことができました」と報告した。
引用:【社会】光市母子殺害事件 本村さん(35)再婚していた 現在は2人で生活★6 – 2NN 2ちゃんねるニュース速報+ナビ
本村さんよりも7歳年上の会社の同僚の女性ということで、孤独な闘いを続けている本村さんを支えてきたのでしょう。
ネット上の噂ではこの報道が出た時点で「子供が2人いる」という情報もありましたが、「現在は2人で暮らしている」と報じられていますし、奥様の年齢を考えると、結婚時点で40歳になっているので、2人の子供が生まれたというのはデマっぽい気がします。
本村洋の再婚には賛否両論
本村洋さんは2009年に7歳年上の同僚の女性と再婚しましたが、この再婚の報道では祝福する声が挙がるだけでなく、がっかりしたという声があり、賛否両論別れることになりました。
本村さん、再婚してたんだ。良かったなぁ。あんなクソな事件で人生狂わされて、幸せになれないなんて嘘だもんね。いいニュース
— ぎょぎょんた (@gogonyanta) February 20, 2012
本村さんは再婚なさっていたのね。支えてくださる方がいて本当に良かった!!天国の奥様もお子さんも喜んでいると思うよ!!
— ヨーコ٩( ᐖ )۶ (@yoko_capella) February 20, 2012
おはようございます。光市母子殺害事件の本村さんは再婚してたんだね。それはそれで、いいんだろうけど、なんか少しがっかりしたな。うーん。
— まーまーまー (@mamamajohn) February 21, 2012
本村さんの再婚にガッカリしたと思った人は、本村さんにはいつまでも弥生さんと夕夏さん一筋というヒーロー像を勝手に作り上げていたのでしょう。ただ、再婚したからといって、弥生さんと夕夏さんを忘れるわけではありませんし、人生を歩んでいくうえで支えてくれる人は必要ですよね。
ガールズちゃんねるに素敵なコメントがありましたので、紹介します。
1506. 匿名 2018/04/10(火) 20:06:02
>>1451 亡くなった奥さん娘さんがほんとに好きでいい家族だったんじゃないかな。また家族を持ちたいって思ったんだから。
引用:「人を殺めたら自分の命を」死刑制度について、光市母子殺害事件のご遺族である本村洋さんのコメントに反響『死刑制度は残すべき』 | ガールズちゃんねる – Girls Channel –
確かにその通りかもしれませんね。
そして、再婚相手も度量が深い女性だと思います。本村洋さんは、弥生さんと夕夏ちゃんに強い思いを一生持ち続けることは間違いありません。そんな本村洋さんと結婚したのですから。再婚相手の女性は、本村洋さんだけでなく弥生さんと夕夏ちゃんも受け入れる覚悟があったのでしょう。
本村洋は豪邸に住んでいる?デマが多い
本村洋さんをインターネットで検索すると、「現在は豪邸に住んでいる」などの噂が出てきま
す。なぜこんな噂があるのか?それは、本村洋さんの活動を良く思わない人から誹謗中傷・デマを流されたからだと思います。
光市母子殺人事件の弁護団長安田好弘は、被害者遺族の本村洋さんを法廷で侮辱、罵倒、脅迫し、マスコミを通じて罵詈雑言を浴びせ、勤務先にまで押しかけるなどの恐喝行為を繰り返した。この安田を全面支援したのが当時の日弁連会長宇都宮健二。
— 太郎 (@6jC4hIPV5QDC2w7) June 28, 2020
本村洋さんは犯人の弁護士から「金が欲しいんだろ」などと罵倒されています。また、本村さんは本を何冊も出版したり、講演活動なども行っています。
そのことを知った「反・本村洋派」の人たちが、本村洋さんは豪邸に住んでいて、印税をもらってぜいたくな暮らしをしているというデマを流したのです。
確かに、裁判をしたり、被害者の権利確立の活動などで、いろいろとお金は必要だったとも思います。でも、豪邸に住むとか、印税で贅沢するなどの生活はしていないはずです。
本村さんほどの有名人が印税などで贅沢な生活をしていたら、絶対にマスコミが放っておかずに面白おかしく報道して炎上させるはずですから。そのような報道がないということは、本村さんは現在でも会社員として働き、地に足をつけた生活をしていると思われます。
本村洋は家族や上司に自殺を止められたことも
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本村洋さんは1999年4月14日に妻の弥生さんと娘の夕夏ちゃんを殺害されてから、自殺を考えなかった日はなかったとのことです。
《事件後1年間は毎日自殺を考えたという。家族を守ってやれなかったという深い自責の念に加え、自分が3人目の犠牲者となることで犯行時少年(18歳)だった加害者に無期懲役でなく死刑判決が下されるかもしれない、と考えたからだ》
引用:【被害者・遺族は問う】(2) 光市母子殺害事件、本村洋さん(42) 犯罪被害者等基本法成立は「2人が生きた証し」(1/2ページ) – 産経ニュース
そして、2000年3月22日に山口地方裁判所で第一審の判決が言い渡されることになりました。検察側は犯人に死刑を求刑しましたが、当時は被告が未成年の少年の場合、4人殺害しないと、または強盗殺人なら3人殺害しないと死刑にならないと言われていました。
つまり、光市母子殺害事件では、犯人は死刑ではなく無期懲役の判決が言い渡される可能性が高いということになります。
そのような状況を知った本村洋さんは、判決の前日に会社のパソコンに遺書を残し、判決が無期懲役だったら、抗議の自殺をしようと考えていたんです。しかし、本村さんの不自然な言動に気づいた家族や上司が本村さんの諫めて、本村さんは自殺を思いとどまることができました。
本村洋は犯人の死刑判決に尽力
出典:nikkei.com
第一審で無期懲役判決なら抗議の自殺を考えていた本村洋さんですが、判決はやはり無期懲役でした。
犯人が未成年の場合、4人を殺害(強盗殺人なら3人)しないと死刑にならないというのが過去の判例からの相場だったのです。しかも、少年法には少年が無期懲役の判決を受けたら、7年で仮出獄できると書かれています。
少年のとき懲役又は禁錮の言渡しを受けた場合の法定期間は,無期刑については7年,犯時18歳未満で10年以上15年以下の有期刑を科された者については3年,不定期刑についてはその刑の短期の3分の1とされる。
ということは、この光市母子殺害事件の犯人は、2人を殺害したのに7年で社会復帰できるということになってしまいます。
判決を受け同日開かれた記者会見で、夫の本村洋さん(同24歳)はこう叫んだ。「司法に絶望しました。控訴、上告は望みません。早く被告を社会に出して、私の手の届くところに置いてほしい。私がこの手で殺します」
ただ、本村洋さんは家族らに諫められ、ここから犯人に死刑判決を下すための活動にさらに力を入れていきます。
本村洋さんは、犯罪被害者遺族として、犯罪被害者の権利が何一つ守られていないことを痛感し、「犯罪被害者の会(あすの会)」を2000年に設立して、幹事に就任しましたが、この「犯罪被害者の会」の岡村勲弁護士に次のように言われたことで、前を向くことができるようになったそうです。
その方も「本村君はおかしくない。法律が間違ってるんだ。法律を変えるんだ」って言ってくれました。
この言葉で「法律を変えたい」と思い、執筆活動や講演活動に力を入れるようになります。そして、次のような法律・制度の整備に尽力します。
・犯罪被害者等基本法
・被害者参加制度
・損害賠償命令制度
・公訴時効を廃止する法律
・犯罪被害者週間の創設
・警察庁による公的懸賞金制度の実現
・犯罪被害者等給付金支給法の改正
・改正少年法
このような本村さんの活動もあり、第二審では無期懲役判決だったものの、2008年の差し戻し控訴審では死刑判決、さらに2012年の最高裁でも上告棄却の判決となり、死刑判決が確定しています。
死刑判決後、本村洋さんは次のように述べています。
「嬉しいとか喜びとかそういう感情は一切ありません。社会でやり直すチャンスを与えてあげることが社会正義なのか、命をもって罪の償いをさせることが社会正義なのか、どちらが正しいことなのかとても悩みました」
本村洋の現在
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本村洋さんは、光市母子殺害事件の犯人に対して死刑判決が言い渡された後も、全国犯罪被害者の会(あすの会)の幹事として講演活動などを行っていましたが、この全国犯罪被害者の会は2018年に解散しています。2022年に「新あすの会」が発足しましたが、本村さんは参加していないようです。
現在、本村洋さんは以前と変わらず、新日鐵住金ステンレス株式会社で会社員として働いていると思われます。
2017年には新日鐵住金ステンレスの光製造所の部長代理という役職に就いていて、第9回ものづくり日本大賞で「社会インフラを支える世界初の省資源型高性能二相ステンレス鋼の開発」で製品・技術開発部門の経済産業大臣賞に同僚たちと共に輝きました。
また、この時の開発裏話を「まてりあMateria Japan」第56巻 第10号(2017)に投稿しています。
本村さんにとって、会社員としての勤務や仕事は、つらい裁判が続く中でも日常に引き戻してくれる大切なことだったようです。
道を外さなかったのは会社が次々に責任や提出期限のある仕事を与えてくれたからです。裁判や記者会見は私にとってはやはり非現実の世界。仕事という現実、帰る場所があったことが大きかった。仕事もせず裁判一辺倒だったらダメになっていたかもしれません。
引用:【被害者・遺族は問う】(2) 光市母子殺害事件、本村洋さん(42) 犯罪被害者等基本法成立は「2人が生きた証し」(1/2ページ) – 産経ニュース
2017年時点で新日鐵住金ステンレスの「部長代理」ならば、現在でも同じ会社で働いているはずです。本村さんはもうすぐ50歳になります。おそらく定年退職まで、働くのではないでしょうか。
本村洋のまとめ
光市母子殺害事件の被害者遺族である本村洋さんの生い立ちや大学などの学歴、経歴、弥生さんとの出会いや結婚、再婚相手や子供の有無、豪邸住みなどの噂の真偽、犯人の死刑への尽力や現在をまとめました。
光市母子殺害事件の被害者の2人のご冥福をお祈りすると共に、本村洋さんが幸せに生活できることを願います。