大月孝行(旧姓・福田)は光市母子殺害事件の加害者で、犯行時未成年でありながら死刑判決が下され、現在は収監中です。今回は大月孝行の生い立ちや父親や母親、兄弟ら家族関係、犯行動機、獄中結婚や韓国人との噂、一審の後に書いた手紙について紹介します。
この記事の目次
- 大月孝行が起こした光市母子殺害事件の概要
- 大月孝行の生い立ち① 父親の家庭内暴力と家族の関係
- 大月孝行の生い立ち② 母親の自殺
- 大月孝行の生い立ち③ 父親の再婚と異母兄弟の誕生
- 大月孝行の生い立ち④ 犯行動機にも父親が関わっていた
- 大月孝行の裁判① 第一審
- 大月孝行の裁判② 第二審と不謹慎な手紙
- 大月孝行の裁判③ 上告審
- 大月孝行の裁判④ 差し戻し控訴審と死刑判決
- 大月孝行の裁判④ 死刑確定
- 大月孝行のその後① 再審請求と現在
- 大月孝行のその後② 実名入りの本の出版と実名報道
- 大月孝行のその後③ 改姓と獄中結婚の噂
- 大月孝之の家族のその後① 父親の現在
- 大月孝之の家族のその後② 兄弟と祖母の現在
- 大月孝之の弁護団にも批判が集中
- 大月孝之は在日韓国人?韓国との関係が噂される理由
- 大月孝行と光市母子殺害事件についてのまとめ
大月孝行が起こした光市母子殺害事件の概要
1999年4月14日、山口県光市室積沖田にあった新日鐵の社宅「新日鐵沖田アパート」の7号棟4階の一室で、殺人および強姦致死・窃盗事件が発生しました。
被害者となったのはこの部屋に住んでいた主婦の本村弥生さん(事件当時23歳)と、まだ生後11か月だった娘の夕夏ちゃんで、加害者は当時18歳の大月孝行(旧姓・福田)です。
この日、「若くて可愛い人妻を強姦したい」と考えた大月孝行は自宅の近くにある新日鐵沖田アパートを訪れ、排水検査の作業員を装って各部屋を訪問。
最初こそ「作業着を着てアパートに来たものの、首尾よく他人の家に上がり込めるだろうか、強姦などできるだろうか」と考えていた大月孝行でしたが、疑うことなく対応する住民を目にして「本当に強姦できるかもしれない」と考えるようになったといいます。
そして、かねてから話したこともないにもかかわらず「可愛い」と一方的に興味を持っていた弥生さんが住む部屋を訪れたのです。
大月孝行は「トイレの排水管検査に来ました」と嘘をついて部屋に上がり込み、検査をするふりをして隙を窺い、無理やり弥生さんに抱きついて強姦を試みました。
しかし弥生さんの抵抗は激しく、大声を出されたら周囲にバレるとの考えから首を絞めて彼女を殺害してしまいます。
その後、大月孝行は弥生さんの遺体を強姦し、激しく泣いていた夕夏ちゃんを何度も地面に叩きつけてから、所持していたロープで首を絞めて殺害。
犯行の発覚を遅らせようと弥生さんの遺体を押入の下段に、夕夏ちゃんの遺体を天袋へとそれぞれ押し込み、自分の指紋がついた洗浄剤スプレーやペンチ、現金約300円と地域振興券約6000円が入った弥生さんの財布を本村さん宅から盗み出しました。
弥生さんと夕夏ちゃんの遺体は、この日のうちに仕事から帰宅した一家の主・本村洋さんによって発見され、警察に通報されます。
そして事件の4日後の4月18日には容疑者として大月孝行が逮捕されたのです。大月孝行は当時未成年でしたが、事件の悪質性から家庭裁判所の逆送致が決まり、殺人・強姦致死・窃盗の罪状で山口地方裁判所に起訴されることに。
一審、二審では無期懲役判決が下されましたが、検察と遺族の本村洋さんの必死の訴えが実って2012年には大月孝行に死刑判決が下されました。
この事件では身勝手な犯行動機や0歳の乳児まで殺害するという残虐さが社会の批判を集め、遺族の本村洋さんが被害者の権利確立と加害者への過剰な配慮への異議を訴えたことでも注目されました。
大月孝行の生い立ち① 父親の家庭内暴力と家族の関係
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大月孝行は1981年3月16日に、被害者遺族の本村洋さんと同じく新日鐵で働く父親と母親の間に誕生しました。
なお、後述しますが大月という姓は収監後に改姓したもので、出生時には「福田孝行」という名前でした。
両親はお見合いで知り合ったとされますが、結婚の話がまとまる前に父親は母親を強姦。この時に子ども(大月孝行)を身籠ってしまったため、2人は結婚せざるを得なくなったといいます。
結婚前に見合い相手を強姦というエピソードから窺えるように、父親は素行に問題が目立つ人物でした。
給料もほとんど家に入れずに飲酒やギャンブルなど自分の遊興費として使い果たし、足りなくなると母親の実家に押しかけて金の無心をしていたとのことです。
また家庭内暴力もあったといい、日常的に母親に暴行をくわえていたとされます。さらにそれを庇おうとした幼い大月孝行も、失神するほどの激しい暴行を受けていました。
大月孝行が小学生になると父親の家庭内暴力はいっそう酷くなり、海でボートから突き落とされる、足を持たれて逆さ吊りにされた状態で浴槽に頭を沈められるなど、命を落としても不思議ではないような凄惨な虐待が続いたといいます。
大月孝行の生い立ち② 母親の自殺
大月孝行が中学生の時、彼の人生を決定づける事件が起きてしまいます。1993年9月22日、父親からの暴力に耐えかねた母親が自宅のガレージで首を吊って自殺したのです。
しかも遺体を発見した父親は大月孝行を呼び寄せて母親の遺体を降ろすように言いつけ、信じがたいことに失禁した母親の遺体を拭かせるなど、自殺件場の掃除までさせたといいます。
これまで地獄のような悲惨な日々のなかにあっても、母親がいるからと耐えてきたという大月孝行。精神的な支えであった母親の自死によって、大きくバランスを崩したと考えられています。
光市母子殺害事件で逮捕された後に精神鑑定を受けたところ、大月孝行の精神年齢は12歳で止まっているという鑑定結果が出ました。これは母親が自殺した年齢と合致するため、母親に見捨てられたと感じたショックで情緒面の成長が止まってしまったのではないかとも指摘されています。
大月孝行の生い立ち③ 父親の再婚と異母兄弟の誕生
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母親が自殺した後、大月孝行が高校生の時に父親は愛人関係にあったフィリピン人女性と再婚します。
そのため逮捕時に大月孝行の家には父親と父の再婚相手、祖母、2歳年下の弟、腹違いの弟の6人暮らしでした。なお、腹違いの弟は光市母子殺害事件が起こる3ヶ月前に誕生しました。
ただでさえ劣悪な環境であった家庭に継母がやって来たことが重なり、高校時代の大月孝行は家出を繰り返すようになったといいます。
そして1999年に高校を卒業すると、地元の水道配管設備会社に就職して働き始めました。しかし4月1日から見習い社員として働き出したものの、4月9日と13日には欠勤。仕事をサボって友人と遊ぶなどしていました。
光市母子殺害事件を起こした4月14日も無断欠勤をして友人の家でゲームをしており、昼食を食べるために自宅に戻ってから犯行現場に向かったことが判明しています。
また事件を起こした後も盗んだ弥生さんの財布に入っていた地域振興券を使ってゲームや駄菓子などを買って、何事もなかったかのように遊び歩いていたとのことです。
大月孝行の生い立ち④ 犯行動機にも父親が関わっていた
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前述したように、大月孝行の父親は光市母子殺害事件の被害者遺族である本村洋さんと同じ新日鐵に勤務していました。
そのため事件前から父親は本村洋さんと弥生さん夫妻を知っていたといい、かねてから家で弥生さんについて「可愛い」「好みのタイプだ」「ヤりたい」などと話していたそうです。
同じ職場で働く人物の妻に対して性的な興味を持ち、あまつさえそれを家で子どもに話すというのは理解し難いことですが、家族に対する態度からもわかるように大月孝行の父親は狂った倫理観の持ち主だったのでしょう。
父親から弥生さんの話を聞かされたことで大月孝行も彼女に興味を持つようになり、隠れて見ているうちにレイプ願望を抱くようになったといいます。
自分が弥生さんに対して興味を持っていて、それを息子にも話していたためか父親は事件当日に報道を見て、「お前がやったんじゃないのか?」と大月孝行に聞いていたそうです。
大月孝行の裁判① 第一審
逮捕された後、5月8日に大月孝行は山口家庭裁判所に送致されます。
これは少年法に基づいて必要とされる措置です。18歳以上20歳未満の者が起こした犯罪が死刑や懲役、禁固刑に相当すると判断された場合には、家庭裁判所での少年審判の結果、担当の地方裁判所に逆送致されることになります。
当然ながら大月孝行が起こした事件は死刑や無期懲役が相当とされる悪質極まりないものでしたから、成人と同じく刑事裁判にかけるべきとの判断が下されて逆送致され、6月11日に山口地方裁判所に起訴されることとなりました。
そしてここから、大月孝之の死刑をめぐる長い裁判が始まったのです。
8月11日に開かれた第一審では大月孝行は殺人、強姦致死、窃盗という起訴内容を認め、遺族に謝罪を述べるなど反省するような態度を見せていました。
しかし当初から被害者遺族の本村洋さんは、「被告人は裁判のためのパフォーマンスとして反省しているふりをしているだけだ」「万死に値する凶悪犯罪」と厳しく批判。検察も論告求刑で死刑を求めました。
なお第一審で少年犯罪者が死刑を求刑されたケースは、1992年に発生した市川一家4人殺害事件(加害者は死刑執行済み)以来だったとされます。
一方で弁護側は犯行時に被告人に殺意はなかったこと、まだ若く、反省していることなどを理由に死刑反対を訴えました。
そして2000年3月22日、山口地方裁判所は大月孝行に無期懲役の判決を言い渡したのです。
当然ながら本村洋さんは判決に異論を唱え、マスコミの取材に対して「法が裁いてくれないのなら、自分の手で犯人を殺してやる」と怒りをあらわにしました。
この発言に対しては「そこまで言わなくても」といった声もあったものの、「子どもまで殺されたのだから、怒りはもっともだ」「自分が同じ立場だったら、犯人を殺してやりたいと思うはず」と大きく世論を動かしたとされます。
社会の意見も味方につけ、検察は死刑を求めて3月28日付で広島高等裁判所へ控訴。9月7日には広島高裁で大月孝行の第二審が開かれることとなりました。
大月孝行の裁判② 第二審と不謹慎な手紙
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第二審の最中、2001年4月26日の公判中には収監中の大月孝行が一審の無期懲役判決を受けて、友人に送ったとされる手紙が検察によって公開されました。問題となった手紙の内容は以下のようなものです。
・被害者の弥生さんを犬にたとえ「可愛い犬をやっちゃった。なにか問題ある?」と揶揄
・自分のような選ばれた人間には罪を犯す権利がある
・検察や警察、裁判官などを馬鹿の集まり呼ばわる
・被害者遺族に対して「調子に乗ってる」「出しゃばりすぎて嫌われる」などと侮辱
・「7年かそこらで出所する」「オレの夢は小説家」など軽口が目立ち、反省の様子が見られない
・二度目の犠牲者が出るかも、と出所後の再犯をにおわせる
手紙はやり取りをしていた友人が検察に渡したもので、この友人はTVで本村洋さんが亡き妻子の無念を語っているのを見て、なにか役に立てないかと考えて行動したといいます。
このような手紙を一審の判決後に友人に送っている以上、大月孝行が反省しているとは到底思えません。一審で述べた被害者遺族への謝罪も、本村洋さんが指摘したようにただの演技だったのでしょう。
しかし、大月孝行は「不謹慎なのは認めるが、心配する友人を笑わせるつもりで書いた手紙で、公開されるなんて思っていなかった」と弁解。
弁護士も内容には触れずに「検察の証拠提出は憲法44条が定める信書の秘密を侵害するもので、違憲」と主張しましたが、これは退けられました。
ともかく第一審で死刑を地裁が死刑を退けた理由である「反省していて、情状酌量の余地がある」という点については、この手紙が反論材料として使われることとなったのです。
検察は再び最終弁論で死刑を求め、その根拠として「被告はまったく反省しておらず、遺族の心情を考えれば極刑以外ありえない」と訴えました。
しかしながら、2002年3月14日の判決公判では一審を支持して無期懲役相当とするとして、控訴棄却が言い渡されたのです。
なぜ無期懲役相当と判断したのかについて事件を担当した重吉孝一郎裁判長は、まだ被告人の年齢が若く、「更生の可能性がないわけではない」という曖昧な見解を述べました。
この判決には社会からも疑問が投げかけられ、加害者の更生の余地と被害者の人権のどちらが重いのか、という議論が盛んにされるようになります。
大月孝行の裁判③ 上告審
広島高裁の控訴棄却を受けた検察は、3月27日付で最高裁判所へ上告。最高裁は2005年12月6日に上告審の公判を2006年3月14日に指定しました。
一方、弁護側は最高裁での弁論に備えて2006年3月6日付で新たに安田好弘弁護士と足立修一弁護士を迎え入れます。
しかし、この2名の弁護士は3月14日に開かれた弁論を欠席。刑事訴訟法289条により、「死刑および無期懲役、3年を超える懲役・禁固が見込まれる事件を審理する際には弁護人の出廷が必須」と定められているため、この日の公判は見送られることとなります。
これを受けて最高裁は「出頭在廷命令」を出して、弁論の期日を4月18日に再設定。出頭在廷命令とは裁判所が指定した日に弁護人、または検察は出廷しなければいけないという命令で、違反した場合には過料や懲役などの罰則があります。
こうして当初から「対応が不誠実である」と心象を悪くした大月孝行の新弁護団でしたが、最高裁が6月20日に下した判断も弁護側にとっては厳しいものでした。
最高裁は二審の判決を破棄し、広島高裁への審理差し戻しを決定したのです。
上告審を担当した濱田邦夫裁判長は、一審・二審の判決を否定し「強姦という目的のため、冷徹に被害者殺害に及んでおり、計画性の有無以前の問題」「被告人が自分の罪に向き合っているとは判断し難い」と指摘。
そのうえで「無期懲役の量刑を破棄しなければ、社会正義に反する」とまで言い切りました。
ここまで最高裁が厳しい言葉をつけて審理差し戻しを命じるケースは、非常に稀です。二審までは無期懲役決定とたかを括っていた大月孝行と弁護側ですが、新しく有利な証拠や証言を提示しない限り死刑判決が濃厚となってきました。
大月孝行の裁判④ 差し戻し控訴審と死刑判決
2007年5月24日、 広島高裁で差し戻し控訴審の初公判が開かれました。立場が悪くなったと見たのか、公判には21人もの弁護団が出廷。
当初とは打って変わって「被告人には殺意も強姦の意図もなかった」「殺人ではなく傷害致傷事件」と訴え始めたのです。
そして大月孝行も弁護団の主張にあわせて、以下のように主張を変更しました。
・強姦目的で新日鐵沖田アパートを訪れた→人恋しくて誰か話し相手になってくれないかと思って訪れた
・排水検査の作業員を装って各部屋を訪問した→ピンポンダッシュをして遊んでいただけ
・強姦目的で弥生さんに抱きついた→自分の母親を思い出し、甘えたくて抱きついた
・騒がれたら厄介だと思って弥生さんの首を絞めた→口を塞ぐつもりが間違って首を絞めてしまった
・弥生さんの遺体を強姦した→『魔界転生』に死姦は復活の儀式だと書いてあったから、弥生さんが生き返ると思って試した
・夕夏ちゃんを床に叩きつけた→おままごとで遊んであげているつもりだった
・夕夏ちゃんの首を紐で絞めた→首にリボンを結んであげようと思った
・事件の発覚を遅らせるために遺体を押入れに隠した→ドラえもんが助けてくれると思った
さらに弁護側は首にリボン、ドラえもんが助けてくれるといった荒唐無稽な考えに至った理由について、「被告人の精神年齢は12歳で止まっており、事件当時は幼児化していた可能性がある」と主張。
弥生さん殺害についても「殺意はなく、複雑な生い立ちから母性に飢えていた被告人が母体回帰を願った結果、起きてしまった悲劇」だと説明しました。
一方、大月孝行は第一審から認めていた起訴内容を否認した理由について「もともと起訴内容は認めていなかった。しかし、検察が『起訴内容を認めれば死刑は回避できる。行きて罪を償いなさい』と言ってきたので、署名した。それなのに検察は死刑を求刑してきたのでショックを受けた」と弁明しました。
争点となった殺害方法と殺意の有無
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検死の結果、弥生さんの首には絞められた痕があり、これが致命傷とされています。
しかし、弁護側は差し戻し控訴審になってから証人として日本医科大大学院の大野曜吉教授を招き、「被害者の首には痣も傷跡もなかった」と証言させたのです。
夕夏ちゃんの首にも締められた痕はないと主張し、床に叩きつけたという点についても「検死結果に間違いがある」と否定しました。
さらに弁護側は元東京都監察医務院長の上野正彦氏を証人として招致。上野氏も「被告人に殺意はなく、口を塞ごうとして揉み合っているうちに誤って逆手で首を圧迫してしまった」という弁護側の主張を認める発言をしました。
これに対して検察側は川崎医療福祉大学の石津日出雄教授に法医学鑑定を依頼。石津教授は「逆手で首を圧迫しても力が入らず、被害者に簡単に振り払われてしまう。弁護側の主張は現実的にありえない」と証言します。
そもそも仮に誤って首を押さえてしまったとしても、窒息死するほど長く圧迫し続けたとなると明確な殺意があったとしか考えられません。そのため、大月孝行に殺意がなかったとの主張には無理があります。
検察は10月18日の最終弁論でも弁護側の主張の数々を否定。「被告人は弁護団が用意した鑑定結果にあわせて、死刑回避できるようにでっちあげの話をしているだけ。ここに来てもまったく反省が見られず、極刑相当としか言いようがない」と厳しく糾弾しました。
弁護側が用意した証人申請が却下される
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また弁護側は差し戻し控訴審がはじまる直前に、大月孝行にとある人物と文通するように命じていました。
その人物とは1988年に起きた名古屋アベック殺人事件の主犯格で、無期懲役判決を受けて岡山刑務所に服役中であった小島茂夫受刑囚です。
弁護側は凶悪犯罪を起こした小島茂夫受刑囚が更生している様子を示すことで、大月孝之にも更生の余地があるとアピールできるのではないかと考えたのです。そして文通相手という関係を築いておき、大月孝行を知る証人として小島茂夫受刑囚を出廷させようと目論んでいました。
しかし小島茂夫受刑囚の承認申請は認められず、弁護側の計画はたち消えたのでした。
なお、証人として出廷が認められなかったばかりか、大月孝行と小島茂夫受刑囚の間でやり取りされた手紙は、2007年6月発売の『文藝春秋』に掲載され、その内容からも反省していないことが明らかになっています。
死刑判決
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2008年4月22日の 差し戻し控訴審の判決公判で、広島高裁の楢崎康英裁判長は大月孝行に死刑判決を言い渡しました。
判決を言い渡す際、楢崎裁判長は主文を後回しにして判決理由から説明。これは死刑判決の際に見られる形式です。
楢崎裁判長は「起訴から6年半も経ってから起訴内容を否認し、弁護側が新しい主張を始めるというのは不自然極まりない」として、被告人殺害方法や強姦目的の否定など弁護側の主張を退けました。
また一審と二審で量刑の理由となった更生の可能性についても、「虚偽の弁解を弄し、更生の可能性は大きく減少したと考えられる」と批判。暗に死刑反対を訴える弁護団の入れ知恵により、裁判での心象を著しく下げたことを指摘しました。
差し戻し控訴審での大月孝行と弁護団の様子については社会でも厳しい意見が飛び交い、「弁護団は誰のための裁判をしているのか」「本村さんはどんな気持ちで、こんな茶番を見せられていたのだろうか。死刑以外ありえない」との声が多くあがりました。
大月孝行の裁判④ 死刑確定
広島高裁で死刑判決が下されたその日のうちに弁護側は最高裁に即日上告をして、減刑を訴えました。
2012年1月23日に開かれた第二次上告審口頭弁論公判では、弁護側は差し戻し控訴審と同様の主張を繰り返して殺意も強姦の意思も否定。
「本件は傷害致死事件であり、被告人の生い立ちやそれに起因する精神的な未熟さも考慮すべき」「前科もなく、更生は可能」と説明しました。
また大月孝行も死刑判決を受けて焦ったのか、「死刑が怖くて殺意があったと認めただけ、本当に殺すつもりはなかった」「強姦するつもりもなかった」「部分的には冤罪だ」などと主張。
しかし、新しい証人や証拠もなく差し戻し控訴審と同じ訴えをしたところで判決が覆るはずもありません。
2月20日に裁判を担当した金築誠志裁判長は「何の落ち度もない母子を殺害した被告人の犯行は、社会に与えた影響があまりにも大きすぎた。更生の可能性を考慮しても、死刑相当と言わざるを得ない」と弁護側の上告を棄却し、大月孝行の死刑判決が確定しました。
大月孝行のその後① 再審請求と現在
大月孝行は2023年現在も死刑囚として広島拘置所に収監されています。逮捕時は少年凶悪犯として注目を集めた大月孝行も、現在は40歳過ぎです。
2012年時の弁護団の発表によると拘置所内で筋トレに励み、筋骨隆々になったとの話も出ていました。また同じく弁護団によると、もともとクリスチャンであったために拘置所では事件があれば聖書を読んでいたそうです。
このように聞くと自分の罪に向き合いながら死刑を待っているかのように感じられますが、上記の発表は最高裁で死刑が確定される前のもののため、「聖書を読んでいる」というくだりは裁判の心象を良くするための作り話なのではないかと穿った見方もしたくなります。
殺人と姦淫。十戒のうちの2つを破っておきながら熱心なクリスチャンだったと言われても、到底信じられません。
また、死刑が確定した後も大月孝行の弁護団は2回の再審請求をしています。
2012年10月29日に申し立てられた第1次再審請求では、新しい証拠として精神鑑定書や法医学鑑定書が提出されましたが、広島高裁は「新規の証拠としては認められない」として再審請求を棄却。
その後は2020年の年末にも第2次再審請求を申し立て、「父親から受けた虐待の影響で、大月孝行は脳に後遺障害を負っている。そのため事件当時は責任能力を有していなかった」と主張を変更しました。
しかし、広島高裁は「事件当時、死刑囚に責任能力があったのは明らか」として第2次再審請求も棄却します。この決定を不服とした弁護団は2022年4月5日付で異議申し立てをおこなっており、現在はこの申し立てについての広島高裁の判断を待っている状況です。
なお、再審請求や異議申し立ての最中は死刑執行ができません。そのため大月孝行と弁護団は再審請求が棄却されることは承知のうえで、単に死刑執行を先延ばしにする目的で申立を繰り返しているのではないか、とも見られています。
大月孝行のその後② 実名入りの本の出版と実名報道
まだ裁判が続いていた2009年10月、『福田君を殺して何になる― 光市母子殺害事件の陥穽 ― 』という書籍が発売されました。
福田君というのは当時は旧姓を名乗っていた大月孝行のことで、まだ係争中の少年犯罪の加害者の名前が実名で書かれた書籍が出版されるというのは異例です。
著者の増田美智子氏は本の出版に際して「福田君本人に承諾を得て実名を公開した」と語っていましたが、大月孝行の弁護団は「本人からそのような話は聞いていない。未成年の実名報道は違法だ」として出版差し止めと損害賠償を請求しました。
訴えを受けて広島地裁は損害賠償請求のみ一部認めたものの、書籍の出版差し止めについては「本の出版により、少年の肖像権やプライバシー権が侵害されたとは認められない」と否定。
弁護側は最高裁まで争いましたが、出版差し止めは認められませんでした。
実名報道
前述の書籍の出版により、福田(現在の大月)孝行の名前は世間に広く知られることとなりました。
しかし、死刑判決が確定するまでは未成年者である以上、福田(大月)孝行が新聞やTVで実名報道されることはありませんでした。
更生の可能性が高いとされる未成年加害者の利益を守る目的なのですが、2012年に死刑が確定すると「もう社会に出ることはない」との理由で多数のメディアが福田(大月)孝行の実名報道を開始。
TVはNHKやキー局で実名報道に切り替わり、新聞は毎日新聞や東京新聞などを除いて実名報道がされるようになりました。
大月孝行のその後③ 改姓と獄中結婚の噂
2009年時には『福田君を殺して何になる― 光市母子殺害事件の陥穽 ― 』で「福田孝行」という本名を公表されていたものの、死刑確定以降の報道では「大月孝行」と改姓していたことから、大月(福田)孝行は獄中結婚したのではないか?と噂されるようになりました。
しかし改姓の理由は結婚ではなく、大月純子氏という女性支援者との養子縁組です。
上の画像の女性が大月純子氏で、『福田君を殺して何になる― 光市母子殺害事件の陥穽 ― 』によると日本基督教団の牧師だといいます。
もともと死刑囚の支援活動をしていた人物で、大月孝行に社会復帰の機会が与えられた際に社会に知れ渡った苗字は改めておいたほうが良いという理由で養子縁組をしたそうです。
大月孝之の家族のその後① 父親の現在
大月孝行の父親は2006年に『報道ステーション』のインタビューに応じるなどしており、その時のひどい言葉の数々が話題となりました。
光市母子殺害事件の後、父親は被害者遺族の本村洋さんと同じ職場にはいられなくなり、退職を余儀なくされたといいます。
その後も職場を2回変えたものの上手くいかず、インタビューの冒頭ではまず息子のせいで生活が変わったことへの恨み言が語られました。
また、「息子のしたことは本人が責任をとるべき。自分はそういう主義」「被害者に対して悪いな、という気持ちはあったが謝罪はしていない。機会を作ってもらえれば謝ったかもしれないが、やっぱり下手に刺激したくない」と親としての責任を放棄した発言を連発。
インタビューは事件の7年後におこなわれたものでしたが、逮捕以降一度も息子に面会に行っていないことも平然と明かしていました。
さらに番組内では7年ぶりとなる拘置所での父と子の接見についても取材していたのですが、ここでも父親は「(息子は)すごい変わってた」「昔からあんなだったら、事件も起こさなかっただろうね」「まあ、家のことはお父ちゃんに任せとけって言っておきました」などと、他人事のような態度でした。
最高裁が差し戻し控訴審を決定した後にも、父親は『報道ステーション』や『ワイドスクランブル』の取材に応じたのですが、またしても以下のような耳を疑うような発言をしています。
「息子が死刑になるかもしれない時に、被害者のことなんて考えられるか」「(遺族や検察、裁判官には)罪を憎んで人を憎まずという気持ちはないのか」「罪を犯した息子だけが悪いのか、ほかの大人に責任があるのではないか」
悪いのは愛する妻子を突然奪われた本村洋さんや自分以外の大人であるかのような言い草に、『ワイドスクランブル』ではキャスターの大和田獏さんが激怒する一幕もあったほどです。
大月孝行が凄惨な事件を起こした最大の原因は生育歴にあり、もっとも悪影響を与えたのが父親だったのではないかと指摘されています。
児童相談所に保護されるなどしてこの父親と早期に引き離されていれば、大月孝行も別の人生を歩んでいたかもしれません。
大月孝之の家族のその後② 兄弟と祖母の現在
大月孝行の2歳年下の弟は光市母子殺害事件が起きた後に実家を出ており、そのまま家族とは音信不通となっているそうです。
また同居していたという祖母は孫の起こした事件の大きさにショックを受け、光市母子殺害事件の後に亡くなったといいます。
継母と異母兄弟が事件の後にどのように暮らしているのかは不明ですが、父親が職を追われて再就職も上手くいっていないという点から考えるに、苦労したのではないかと思われます。
大月孝之の弁護団にも批判が集中
光市母子殺害事件では遺族感情を無視し、嘘やでっち上げを並べて死刑回避だけを求めた大月孝行の弁護団にも社会から批判が集まりました。
2007年5月27日放送の『たかじんのそこまで言って委員会』に出演した橋下徹氏が、視聴者に対して「あの弁護団が許せない人は弁護士会に懲戒請求をもらいたい」と煽るようなコメントをしたことで、弁護士会に懲戒請求が殺到するという騒動も起きています。
東京を始め大阪、仙台、広島と弁護士団の面々が所属するいずれの弁護士会も、「職責を果たしただけで懲戒理由には該当しない」として懲戒請求を退けましたが、その後も弁護団に対する批判の声は残りました。
大月孝之は在日韓国人?韓国との関係が噂される理由
大月孝之は在日韓国人なのではないか、との噂がネット上では流れているようです。
これはどうやら養子縁組をした大月純子氏の活動から発生した噂の様子で、彼女が所属する日本基督教団が、在日大韓基督教会という在日韓国人によるキリスト教系の組織と協約締結をしていることが絡んでいると思われます。
この協約によって、日本基督教団は在日韓国・朝鮮人の人権問題に積極的に取り組むことを在日大韓基督教会と約束しているのですが、在日大韓基督教会は北朝鮮への訪問活動もおこなっていることから、反日的な活動をしているのではないか?と一部で疑惑の目を向けられているのです。
また、過去には日本基督教団の事務局住所地とされる「東京都新宿区西早稲田2-3-18」には、20を超える別団体が登録されていると話題になり、そのなかには韓国の組織も複数見られました。
そのため、韓国と関わりのある団体に所属する大月純子氏に支援され、養子縁組までした大月孝行は韓国人なのではないか?との憶測が飛び交ったようです。
ただ、大月孝行が在日韓国人だという話は噂に過ぎません。裁判資料などの明確な情報源はないため、凶悪犯罪が起こるとしばしば浮上する「こんな残酷なことをするのは日本人ではない」という類のデマの可能性も高いでしょう。
大月孝行と光市母子殺害事件についてのまとめ
今回は1999年に光市母子殺害事件を起こした大月孝之(旧姓・福田)の生い立ちや、裁判、死刑判決を受けたその後と現在について紹介しました。
大月孝行の犯した罪は決して許されるものではなく、死刑相当だと思われます。しかしその生い立ちはあまりに悲惨で、母親が自死を選ぶ前に子どもを連れて逃げていたら、福祉が介入して保護されていたら、このような事件は防げたのではないかと考えずにはいられません。
大月孝行が頼みの綱としていた弁護団も、結局は彼の人生を救おうとしたのではなく「死刑廃止」のプロパガンダに話題性のある裁判を利用していただけのようにも感じられます。
拘置所で死刑を待つ大月孝行が何を思って過ごしているのかは不明ですが、せめて最期を迎えるまでには自分の罪に向き合い、心から弥生さんと夕夏ちゃん、そして本村さんら遺族に謝罪をしてほしいです。