練馬事件とは、1951年に発生した現役警察官の殺害および拳銃の窃盗事件です。この記事では練馬事件の概要や被害者となった巡査と犯人の共産党党員らの関係、共謀共同正犯の成立要件を示す代表的な判例とされる判決についてわかりやすく紹介していきます。
この記事の目次
練馬事件の概要をわかりやすく説明
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1951年12月27日、東京都練馬区で練馬警察署に勤務する現役の警察官の遺体が見つかりました。
警察はただちに捜査に乗りだし、事件に関与した共産党党員らを次々と逮捕。最終的には11人が起訴される事態になりました。
しかし逮捕後の事情聴取で、11人全員が一堂に会して警察官の暴行計画を立てたのではなく、数人ずつに分かれて別の場所で暴行の計画を立てていたこと(順次共謀)が明らかになります。
そして起訴された者のなかには、「犯行計画を立てる場にはいたけれど、犯行時には現場にいなかった」人物も含まれていました。
そのため裁判では、犯罪の計画を立てた場に同席していたものの、実際には手を出していない者にも共同正犯は適用されるか、順次共謀の場合も共謀罪は成立するのかといった複数の争点が生じました。
検察側は実行犯以外の被告人にも共謀共同正犯が成立すると訴えましたが、弁護側は順次共謀での共謀共同正犯の成立を否定。実行犯以外の無罪を求めました。
最終的に練馬事件の裁判で、最高裁判所は「順次共謀であっても共謀共同正犯は成立する」として、起訴された11人のうち10人に有罪判決を下し、この判決は共謀共同正犯の成立条件を示した代表的な例とされています。
練馬事件の詳細① 被害者・印藤勝郎巡査の遺体発見
1951年12月27日の朝7時頃、東京都練馬区旭町のあぜ道の脇で男性の遺体が発見されました。
遺体の主は、練馬警察署の旭町駐在所に勤務する印藤勝郎巡査(事件当時33歳)。印藤巡査は前日の26日22時20分頃に、「小田原製紙東京工場の横に人が倒れている!すぐに来てくれ」と駐在所に駆け込んできた若い男に連れられて出て行ったきり、戻っていませんでした。
この日、印藤巡査は公休をとっており、昼間に私用で池袋へ出かけて戻ってきたところに男が来たため、巡査の妻が最初に対応したといいます。
妻によると、駐在所に来たのはボサボサの長髪で学生風の男で、話を聞いた印藤巡査は私服姿のまま拳銃だけ装帯して工場を見に行ったそうです。
しかし、小田原製紙東京工場は近所なのにもかかわらず、駐在所を出た後3時間経っても印藤巡査は戻ってこず、連絡もありませんでした。
そのため心配した妻が最寄りの田柄駐在所に相談し、警察官2人と一緒に捜索に出かけたところ、何者かに撲殺された巡査の遺体を発見したとされます。
印藤巡査の遺体は鼻と口から血を流した状態で、顔や頭部を中心に十ヶ所をこえる傷がありました。致命傷となったのは、後頭部の長さ3cmの裂傷とのことです。
また駐在所を出る際に巡査が携帯していた、実包6発入りの拳銃もなくなっていました。
さらに現場周辺の麦畑には、凶器と思われる角棒や竹、スコップの柄、血液のようなものが付着した鉄パイプが散らばっており、犯人のものと思しきマフラーや帽子も見つかりました。
なお、遺体は駐在所から約290m離れたあぜ道に仰向けで放置されていたといいます。
練馬事件の詳細② 事件の背景
警視庁は27日のうちに特別捜査本部を設け、埼玉県警朝霞地区署とともに捜査を開始。遺体発見前夜に印藤巡査を連れ出した男の足取りを追います。
唯一、男と接触している巡査の妻によると男の特徴は以下のようなものでした。
・身長は約155cm程度
・顔の輪郭は角ばっていて、髪の毛がボサボサの長髪
・ジャンパーかジャケットを着ていた
・事情を聞いた時に印藤巡査が残したメモには「住所が板橋区赤塚○○、法政大学専門部に通う21歳の山本真治」という個人情報が書かれていた
しかし、メモに残されていた住所は存在しないもので、法政大学にも該当する学生はいませんでした。
この当時、若い男が巡査を誘い出すのに使った小田原製紙東京工場では、賃上げと労働協約締結を求める労働組合側と、会社側との間で対立が発生していました。
さらに労働組合そのものも強硬派の第一組合と、穏便派の第二組合という2派に分かれて対立をしており、製品の出荷阻止なども発生していたといいます。強硬派の第一組合には、当時、武力闘争方針に舵を切っていた日本共産党がついていました。
印藤巡査は労働組合の内部で起きている暴行傷害事件などの情報を集めるため、小田原製紙東京工場に頻繁に出入りしていました。そして殺害される直前に、第二組合のメンバーを暴行した容疑で、第一組合に所属する男を逮捕していたのです。
このことで印藤巡査は第一組合から逆恨みされており、旭町一帯では「印藤巡査に引導を!」「印藤を町から追放しろ!」などと書いたビラがばら撒かれ、駐在所にも組合員が抗議に行くなどしていました。
上記のような事情から、警察は労働組合関係者による怨恨、もしくは労働組合関係者と同じ思想を持つ者による犯行の可能性が高いと考えて捜査をしました。
そうして現場近くに住む工員らを別の傷害事件で逮捕。このなかに印藤巡査殺害の犯人がいると見て聞き取りをしましたが、疑わしい者がいなかったために釈放しています。
練馬事件の詳細③ 続々と逮捕される犯人
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1952年1月26日、警察は事件前に印藤巡査を脅迫するビラを作り、ばら撒いた人物を特定し、暴力行為等処罰令違反容疑で逮捕することを決定。ここから印藤巡査殺害の犯人をあぶり出そうと考えたのです。
そして2月13日に板橋区の保田(事件当時・20歳)、豊島(事件当時・17歳)、沖田(事件当時・18歳)、久下(事件当時・20歳)、練馬区の鈴木(事件当時・当時23歳)の5名を逮捕します。
5名は警察の取り調べに沈黙を貫いていましたが、容疑者の1人で逮捕当初からうなされるなどして様子がおかしかった保田から「事件の日に現場にいた。周辺が真っ暗闇だったため、自分も味方から角材で頭を殴られた」との供述を得たことで捜査は進展を見せます。
保田の自供から実行犯として、日本共産党党員の藤塚善男(事件当時・26歳)、青年行動隊員の菅谷(事件当時・24歳)、小島(事件当時・20歳)全日本進駐軍要員労働組合キャップの前野(事件当時・30歳)、板橋労働協同組合連合会の箕輪(事件当時・25歳)が浮上。2月18日にはこの5名を殺人容疑で逮捕しました。
練馬事件の詳細④ 事件の真相
実行犯として逮捕した5名の取り調べの結果、練馬事件の首謀者は他にいることが判明します。
事件の首謀者は共産党北部地区軍事委員長の矢島勇(事件当時・25歳)という男で、矢島は実行の10日前から小田原製紙工場の青年行動隊や共産党員、共産主義的な思想を持つ学生らを集めて、印藤巡査襲撃を計画していました。
この時、矢島は印藤巡査だけではなく第二組合の香川委員長も、労働組合の組員でありながら小田原製紙側と通じているとして襲撃対象にしていたそうです。
そうして12月26日に印藤巡査襲撃グループと香川委員長襲撃グループにわかれて、犯行に及ぶ予定を立てます。
印藤巡査襲撃グループは駐在所に駆け込む山本真治役、倒れている男の役などを含む5名で、豊島の家に集まってから現場に向かいました。
一方で香川委員長襲撃グループも小田原製紙の社員寮前で張り込みを開始しましたが、委員長は忘年会に行っていて帰宅が遅くなることを知り、途中から印藤巡査襲撃グループに合流。
山本真治役に連れられて倒れている男役の場所までやって来た印藤巡査が、腰をかがめて男の様子を見ようとしたところを、後ろから鉄パイプで小島が襲いかかり、他のメンバーもめった打ちにくわわったとのことです。
そしてすきを見て菅谷が拳銃を持って現場から逃げ、後ろから来た2人の仲間(暗かったため、誰かは不明)に渡したのだといいます。
練馬事件の詳細⑤ 首謀者と残りの共犯を逮捕
警察は矢島勇を指名手配し、まだ名前のわからない共犯者の行方を追いました。そして3月5日に板橋区内のマグネ工場で働いていた出浦(事件当時・25歳)を、印藤巡査襲撃グループのメンバーとして逮捕。
山本真治役をした男は共産党の外郭団体に所属する貞治という人物だと判明しましたが、行方がわかりませんでした。
囮の倒れた男役は教育大学理科学部動物学専攻の葛西(事件当時・22歳)という人物で、練馬事件の後に大学を出て高校教師になっていましたが、4月8日に勤務先の高校前で逮捕されました。
また葛西の友人の高村という男(事件当時・25歳)も、練馬事件の共犯として逮捕されます。
そして5月30日に板橋署岩ノ坂交番襲撃事件が発生し、この容疑者として逮捕された「高村」という男が、指紋照合の結果、練馬事件の首謀者である矢島勇と同一人物であることが6月7日に判明。
これをもって練馬事件の主な犯人は全員逮捕されましたが、奪われた拳銃は出てきませんでした。
練馬事件の判決
検察は、明確な殺意は認められないとして殺人ではなく、強盗致死、傷害致死および暴力行為処罰法違反で逮捕した11名を起訴しました。
そして1952年6月11日、東京地方裁判所で練馬事件の初公判が開かれました。初公判の日は共産党員の抗議活動がある可能性が高いと見て、警察は丸の内署の制服警官60人を裁判所周辺に配置していたとされます。
また傍聴席には共産主義的な思想を持つ学生や労働者などが早朝から押しかけて被告らにエールを送り、被告からも「朝早くからご苦労さま」「頑張るよ」などと応えていたそうです。
第一審の判決は1953年4月14日に下され、矢島勇に懲役5年が言い渡されたほか、10名が有罪判決を受けました。
これを不服とした検察、弁護側双方が東京高等裁判所に控訴しましたが、12月26日に棄却が決定。最高裁判所まで争う姿勢を見せたものの、1958年5月28日に訴えが棄却されたため、一審の判決が確定します。
練馬事件の裁判の論点【共謀共同正犯の代表判例】
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練馬事件の裁判で争われたのは、犯行時に手を出していない者も、教唆犯や幇助犯ではなく「共謀共同正犯」、つまり犯罪の主犯として扱われることはあるのか?という点です。
共謀共同正犯については法律上、明文化された定義がなく、練馬事件の判例の以下の部分が成立要件とされています。
共謀共同正犯が成立するには、二人以上の者が特定の犯罪を行うため、共同意思の下に一体となつて互いに他人の行為を利用し、各自の意思を実行に移すことを内容とする謀議をなし、よつて犯罪を実行した事実が存しなければならない
引用:最高裁判所判例集
練馬事件のケースで考えれば、謀議に参加した面々は巡査らに圧力をかけることを目的に暴行や脅しをくわえるつもりだったわけですから、上の要件は満たしていることになります。
続いて争点になったのが、直接犯行に手を出していない者を実行犯同等と見なすのは、憲法31条に定められている「適正手続の保障」に反するのではないか、という点です。
これについて、最高裁は「共謀に参加している以上、違法に刑罰を科されたとは言えない」との見解を示しました。
また、練馬事件では有罪判決を受けた10人が一堂に会して、細かく犯行計画を練ったわけではなく、数人ずつに分かれて、別々の場所で巡査殺害の謀議がおこなわれたとされます。
このようなAとB、BとCといったように「順次共謀」があった場合にも、共謀が認められ、共謀共同正犯が成立するのかも問題になりました。
同一の犯罪について、数人の間の順次共謀が行われた場合は、これらの者のすべての間に当該犯行の共謀が行われたものと解するを相当とし、数人の間に共謀共同正犯が成立するためには、その数人が同一場所に会し、その数人の間に一個の共謀の成立することを必要とするものではない
引用:最高裁判所判例集
上のように順次共謀であっても、最高裁判所は共謀共同正犯が認められるとしており、結果、練馬事件で起訴された11人のうち10人は実行犯であったか否かにかかわらず、有罪判決を受けました。
この判例は現在でも、共謀共同正犯が認められる要件を示した代表的な判例として扱われています。
練馬事件についてのまとめ
今回は1951年に発生した現役の警察官の暴行致傷事件、練馬事件について紹介しました。
共謀共同正犯の成立要件を示した事件として有名な練馬事件ですが、裏を返せば謀議に集まった面々のほぼ全員が、首謀者と同じ熱心さで「自分たちの思想の邪魔になる巡査には、暴行をくわえてよい」と考えていたことがわかります。
さらに裁判時に同じ思想を持つ若者が傍聴席に駆けつけ、殺人犯をヒーローのように称えていただなんて、とても恐ろしく、不気味な話です。