勝田清孝の事件と最期の言葉!生い立ち&息子と嫁など家族の現在・死刑判決・ドラマや映画も総まとめ

戦後最悪の連続殺人鬼とも言われる勝田清孝が話題です。

 

この記事では勝田清孝の生い立ちや嫁や息子などの家族やその現在、一連の事件の詳しい内容、2つの死刑判決と死刑執行時の最期の言葉、ドラマ化や映画化などについてまとめました。

この記事の目次

勝田清孝は少なくとも8人を殺害した連続殺人鬼

 

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勝田清孝(かつた・きよたか)は、1972年から1983年にかけて、少なくとも8人の男女を殺害した連続殺人鬼です。

 

本人は起訴された8件を含めて22人の殺害を自供しており、戦後史上最悪の連続殺人犯とも言われています。

 

また、勝田清孝の殺人は全て強盗殺人であり、この男は約10年間で合計300件にも及ぶ窃盗・強盗殺人、強盗殺人未遂、強盗致傷、強盗強姦などの凶悪事件を繰り返していました。

 

勝田清孝は1983年にようやく逮捕され、1994年に死刑判決が確定し、2000年に死刑が執行されています。

 

ここでは、勝田清孝の生い立ち、両親、嫁や息子など家族、死刑前の最期の言葉、映画化やドラマ化などを中心に紹介していきます。

 

 

 

勝田清孝の生い立ち① 農家に生まれるも両親が働きに出るカギっ子だった

 

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1948年8月29日に京都府相楽郡木津町の鹿背山地区(現在の木津川市鹿背山)の約150戸ほどの集落で、農家の長男として生まれました。

 

勝田清孝の実家は鹿背山地区のほぼ中心地点にあり、ごく普通の住宅だったようです。比較的裕福な家庭ではあったものの、勝田家は代々小作農家であり、田畑は二反(約2000平方メートル)程しか保有していませんでした。

 

勝田清孝が木津小学校5年生の頃、父親は乳牛を5〜6頭飼い始めたものの、飼料代が高くついて採算取れなくなり、1960年から奈良県のトラック車体工場「奈良車体」に勤め始めています。母親も木津町内の電器工場に働きに出るようになったため、勝田清孝はいわゆるカギっ子として成長しています。(祖父母は勝田清孝が生まれる前に死去していた)

 

勝田清孝は手記「冥晦に潜みし日々」の中で、幼い頃の思い出として、暗くなるまで帰らない両親が毎日おやつとお小遣いとして5円玉を1つ置いておいてくれた事を書いています。

 

ただし、この勝田清孝本人の手記「冥晦に潜みし日々」は、世間の同情を買って死刑を回避しようという思惑で書かれたものであまり信用できません。したがってこの記事では、ジャーナリストの大下英治さんが関係者の取材の上で書かれた勝田清孝事件についての著作「冷血 連続殺人鬼 勝田清孝事件」で明らかにされた内容を基準にしてまとめていきます。

 

勝田清孝は地元の木津小学校、木津中学、木津高校を卒業していますが、当時の同級生の証言によると「大人しく、目立たない生徒で成績も並」だったそうです。しかし、地元の幼馴染によると、地元では勝田清孝はガキ大将で下級生10人くらいを連れて隣町に喧嘩を仕掛けに行っていたようです。

 

また、勝田清孝は小学生時代から母親の財布から金銭を盗んだり、父親のものを勝手に売ったりしてお金を得ていました。他にも、拾った大金をネコババするなど不正に金銭を得ていたようです。

 

 

 

勝田清孝の生い立ち② 中学時代の成績はよくなく女性に対しても奥手

 

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勝田清孝は地元の木津中学校に通っていました。

 

中学時代の勝田清孝は、当時を知る教師によれば、中学2年までは成績が悪く、数学と理科は「1」で、平均しても「2」に近かったそうです。しかし、中学3年生に上がって受験が近づくと家庭教師をつけて勉強を頑張るようになり、「3」が並んで「4」が1つある程度の成績になったそうです。

 

勝田清孝本人も高校卒業後は「専門学校や大学など上に行きたい」と希望を語っていたとの事です。

 

一方、性格は学校では相変わらずおとなしい性格と見られており、女性に対してもかなり奥手で、フォークダンスの時に女子の手を握ろうとしないため、教師は手を棒で叩いた事があるとも話しています。

 

しかし、地元では逆にヤンチャなタイプだったようで、地元の後輩の証言によれば、当時の勝田清孝は親に内緒で空気銃を持っていて、どこからか手に入れてきた金銭でタクシーを使ったりもしていたのだそうです。

 

勝田清孝は中学時代にも親の金を盗むなどして金銭を得ていたようです。

 

 

 

勝田清孝の生い立ち③ 高校時代にひったくり事件を起こし少年院送りに

 

1964年4月に勝田清孝は「京都府立木津高校」の農業科へと進学しています。中学時代の担任教師によると、勝田清孝は本当はもっと上のレベルの高校を目指していたが、農業科に入る事になり挫折感を抱いていたのかも知れないとの事でした。

 

高校時代の勝田清孝の成績は極めて普通で、保健体育だけは「4」で、農業科の専門科目のうち2つが「2」で、あとは全て「3」だったそうです。

 

また、高校時代の勝田清孝はブラスバンド部に所属してトランペットを吹いていました。当時の印象については「目立たない、おとなしい子」だったようです。

 

しかし、当時の担任教師によると、勝田清孝には神経質で短気な一面もあったようで、掃除の時間に少し箒の先が触れただけで突然怒り出して同級生を殴りつけた事があったそうです。

 

そして、勝田清孝は高校2年生だった1965年11月に、近鉄京都線山田川駅から帰宅する女性の後をつけて背後から竹の棒で殴りつけて昏倒させ、金品を強奪する事件を起こしています。さらにその後、父親が友人に短期間だけ借りていたオートバイを使ってハンドバックをひったくる強盗事件も起こしました。

 

当時、近隣でひったくり事件が相次いでいたため、地元警察は警戒を強化しており、勝田清孝は、ナンバープレートを折り曲げて見えなくし無灯火の状態のオートバイにまたがって木津町役場の脇にいたところを不審尋問されています。

 

勝田清孝は近くの警察署に連行されて取り調べを受け、合計4件のひったくり事件を自供しました。勝田清孝は自宅の2階の自分の部屋の窓から屋根伝いに抜け出してひったくりを重ねており、自室の屋根裏から盗んだ10個以上のハンドバッグや学校の食堂の食券の束、女性ものの下着などが見つかりました。

 

悪質なひったくりを繰り返していた事が問題視され、1965年12月24日に勝田清孝は大阪の和泉少年院(現在の和泉学園)へ収容されています。高校は退学処分となりました。

 

 

 

勝田清孝の生い立ち④ 少年院の仮退院後は職を転々とするも続かず

 

勝田清孝は、1966年7月7日に和泉少年院を仮退院(20歳になるまで保護観察処分)し、木津町鹿背山の実家へと戻っています。

 

勝田清孝は、少年院で印刷のガリ版刷りを習得していたため、職業安定所で印刷工の仕事を探したものの仕事は見つからず、仕方なく大和小泉市内の光和電機製作所で工員として働き始めています。しかし、他の行員との折り合いが悪く、わずか1ヶ月で退職。

 

そこで、父親の勧めに従って、父親が勤務していた「奈良車体」で電気の配線工として働く事になります。しかしこの仕事もすぐに退職し、その後は大一車両、橋本自動車(父親の紹介)と職場を変えますが、全て長続きせずに辞めています。

 

勝田清孝は仕事が続かない事を父親に叱責されたため、実家を飛び出し、京都府城陽市の土砂採取会社で住み込みで働き始めています。

 

しかし、この会社は程なくして倒産。勝田清孝は次いで、近くの建材屋で働き始めますが、この会社が暴力団関係の経営だと知って怖くなりわずか1ヶ月ほどで辞めています。勝田清孝は無職になり、その後しばらくの間は京都府城陽市で遊んで暮らしています。

 

また、勝田清孝はこの頃に山城町にあった城南自動車学校で自動車運転免許を取得しています。

 

 

 

勝田清孝の生い立ち⑤ 後に結婚する女性と知り合い大阪へ駆け落ち

 

勝田清孝は、京都府城陽市の時代に1歳年下の佐知子という女性と知り合い交際しています。この佐知子とは後に結婚して子供も生まれていますが、この嫁や子供については後述します。

 

勝田清孝は当時からこの交際相手の佐知子との結婚を考えていましたが、自身の父親と佐知子の父親の双方に反対され、1968年9月に佐知子と2人で大阪へ駆け落ちしています。

 

勝田清孝は、大阪市生野区の六畳一間のアパートで同棲生活を始め、小・中学時代の友人の叔父が経営する小さな鉄工所で働き始めました。

 

この鉄工所で勝田清孝は社長に気に入られていましたが、1年くらい後に突然この工場を辞めています。これには、勝田清孝が1968年1月に業務上過失傷害で罰金1万円、1969年3月5日に業務上過失傷害と道路交通法違反で罰金3万円に処されていた事が関係していると言われていますが、真偽不明です。

 

 

 

勝田清孝の生い立ち⑥ 不正がバレて勤務先をクビになりトラック運転手に

 

勝田清孝は、鉄工所を辞めた後、城東区へと引っ越し、新聞の求人広告を見て、布施市(現在の東大阪市西部)内のレンタカー会社に1969年6月から勤めています。

 

しかし、勝田清孝は、ここでも客の延長で支払った料金を時間通りに返却に来たと偽って盗む、客が返しに来た車にこっそり近づいて釘で傷をつけて修理代を請求しその金を盗むなどの不正を繰り返していた事がバレ8ヶ月ほどで解雇されています。(勝田清孝の手記では上司の不正の片棒を担がされた事になっているが、同社関係者の証言によると勝田が単独で不正を働いていた)

 

レンタカー会社を解雇された勝田清孝は佐知子と共に大阪を離れ、実家に近い奈良県の運送会社に友人の紹介によって就職し、長距離トラックの運転手になっています。

 

仕事は、法隆寺付近の工場で作られた製品を、奈良県から三重県の伊賀上野を経由し名古屋へと4トントラックで運ぶという内容でした。勝田清孝は後に名古屋周辺で殺人を繰り返す事になりますが、このトラック運転手時代に培った土地勘を活かしての犯行でした。

 

 

 

勝田清孝の生い立ち⑦ 佐知子と結婚して子供も生まれ消防士に転職

 

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勝田清孝は、1970年3月23日に同棲していた佐知子と結婚。佐知子が子供を身籠った事もをきっかけに双方の両親も結婚を認めています。

 

1970年9月、勝田清孝は嫁の佐知子を連れて、数年ぶりに木津町鹿背山の実家へと戻っています。1971年6月には長男の宏明が誕生。

 

勝田清孝は、この当時は長距離トラックの運転手の仕事に満足しており、「将来は運送会社を開こう」とも考えていたようです。

 

ところが、1972年1月、木津町の隣町相楽郡加茂町に住む当時19歳の女性が何者かに強姦された上絞殺される事件が発生します。警察は目撃証言などから勝田清孝を容疑者の1人として挙げ、勤めていた運送会社にも刑事が訪れて関係者への聞き込み捜査を行いました。

 

この事件では勝田清孝のアリバイが確認され、早い段階で容疑者からは外されますが、勝田清孝はこれが原因で会社に居づらくなり運送会社を退職。

 

父親の勧めもあって木津町に新設される消防署の署員募集に応募し、試験を受け2倍弱の競争率を突破して合格し1972年4月に消防士になっています。

 

勝田清孝は消防士としては真面目に勤めており、レンジャー部隊に所属し、1974年と1975年の全国消防技術大会で2年連続入賞しています。

 

また、1974年9月10日には消防副士長に、1976年10月1日には消防士長に昇進しています。昇進には筆記試験と面接試験があり勝田清孝はそれに合格しています。この昇進スピードは同期の中でもトップクラスでした。

 

 

 

勝田清孝の生い立ち⑧ 消防士をしながら窃盗と強盗殺人を繰り返す

 

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消防士としては評価され、順調に出世していた勝田清孝でしたが、一方で、過去に少年院に入った事がある過去から、同僚や上司から色眼鏡で見られる事があり、勝田清孝はそれに不満を募らせ、そのストレスのために毎晩のように奈良県内のスナックを飲み歩いていました。

 

勝田清孝は、消防士になって3ヶ月目の1972年7月8日に、大阪市内で車を運転中に交通トラブルがきっかけとなった傷害事件を起こし、大阪府警に逮捕されています。(不起訴処分になったため、消防士を懲戒免職にはならなかった)

 

この事件が職場にも知れ渡り、余計に少年院上がりという目で見られるようになった勝田清孝は、酒に溺れるようになり、その飲み代を得るために窃盗事件を繰り返すようになりました。

 

1972年8月頃から、勝田清孝は京都市内を中心に空き巣をするようになり、三菱の「ギャランクーペFTO」をローン購入した事で金に困るようになり、非番の度に京都市山科方面へと車で出掛けて窃盗を繰り返しました。

 

そして、勝田清孝は消防士になってわずか5ヶ月目の1972年9月13日に最初の殺人を犯しています。その後も、勝田清孝は強盗殺人と窃盗を繰り返しています。勝田清孝は車を次々と乗り換え、ゴルフの会員券を購入し、愛人も作るなど派手に金を使うようになり、その金を得るためにまた窃盗や強盗殺人を繰り返すという日々を送るようになります。

 

つまり、勝田清孝は強盗殺人や窃盗などの凶悪な犯罪を繰り返しながら何食わぬ顔をして何年も消防士として働き続けていたのでした。

 

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勝田清孝の犯した一連の殺人事件については記事後半で改めて書いていきます。

 

 

 

勝田清孝の生い立ち⑨ 拳銃強盗で逮捕されて一連の犯行が発覚し死刑に

 

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勝田清孝は、殺人を含む凶悪犯罪を繰り返しながら消防士として働き続けましたが、1980年に車上荒らしで逮捕され懲役10ヶ月執行猶予3年の有罪判決を受けています。これによって勝田清孝はついに消防士を懲戒免職になります。

 

その後は、インスタント食品の容器を作る機械の製作工場、自動車会社、木材会社などに勤めていますが、いずれもトラブルを起こして長続きせずに職を転々としています。

 

1982年2月からは、不動産会社の営業や系列の住宅販売会社などに勤めるも6月には辞め、その後は自ら起業して不動産売買の仲介業を始めますがうまくいかずに10月末には無職になっています。

 

勝田清孝はその後、さらに犯罪行為をエスカレートさせ、1982年10月には盗んだ乗用車で偽の通報によって呼び出した警察官を撥ね飛ばした上、鉄棒で頭を殴るなどして重傷を負わせ、実弾5発入りの拳銃(ニューナンブ38口径)を奪って逃亡しています。

 

勝田清孝は奪った拳銃を使い、強盗殺人事件と傷害事件を含む、数件の強盗事件及び強盗未遂事件を起こしています。

 

そして、1983年1月31日、勝田清孝は強盗目的で銀行から出てきた男性を襲ったものの抵抗され、駆けつけた銀行員と被害者によって取り押さえられ、通報によって駆けつけた警察官によって逮捕されます。この時の取り調べにより、勝田清孝のこれまでの犯罪が次々と発覚しました。

 

勝田清孝は、7件の殺人を含む、合計33の罪状および計27の犯罪事実によって起訴され、最高裁まで争われた末、1994年2月5日に死刑判決が確定しました。

 

勝田清孝の死刑は2000年11月30日に執行されています。享年は52歳でした。

 

 

 

勝田清孝の家族① 父親・勝田和男

 

勝田清孝の家族についても見ていきます。

 

勝田清孝の実家の家族は両親と姉の4人家族でした。

 

勝田清孝の父親は勝田和男という人物で、普段はおとなしいが酒が入ると人が変わって気性が激しくなるタイプだったようです。

 

勝田清孝の生い立ちのところでも触れていますが、実家は農家だったものの、この父親が乳牛を購入した結果採算が取れなくなり、父親は1960年からは「奈良車体」というトラックの車体工場で溶接工として働き始めています。

 

この父親は結局、勝田清孝が1983年に拳銃強盗の現行犯で逮捕されるまで、23年間にわたってこの会社に勤務しています。

 

この父親について、奈良車体の上司は「小心なくらい真面目な人物、ただし自分本位な一面もあった」と証言しています。

 

勝田清孝の性格が歪んでいった原因はこの父親の間違った教育にあるという見方もあります。

 

勝田清孝が窃盗により少年院送りになった際、勝田の友人が「面会に行ってやってほしい」と土下座をして頼んでも、父親は世間体を気にして「なんで俺がそんな格好の悪いところへわざわざ行かねばならんのか」などと言て1度も面会に行かなかったようです。

 

また、勝田清孝が少年院から出た後に仕事が長続きせずに職を転々とした時にも、「俺の紹介した仕事を勝手に辞めて、俺の顔に泥を塗った」などと言って叱責する事を繰り返しました。

 

そして、勝田清孝が1980年に消防士を懲戒免職となった後、友人が次の仕事を世話した時には、その通勤路が消防署の前を通る道だったため「お前、クビになった消防署の前を通って仕事に通うんか!みっともない」などと言ってその話を潰してしまった事もあったようです。

 

勝田清孝は実家に暮らしていた頃にはこの父親からの叱責に追い詰められ、それから逃れるためにスナックに入り浸っていた面もあったようで、結果としてこの父親の存在が勝田清孝が凶悪犯罪を繰り返す事に繋がったとの意見もあります。

 

 

 

勝田清孝の家族② 母親・勝田常栄

 

勝田清孝の母親は勝田常栄という人物で、勝田が小学5年生の頃から、ソケットなどを製造していた木津町内の電器工場に働きに出るようになりました。

 

この母親は、勝田清孝が少年院から出てきた時には、近所に「うちの清孝は成績優秀だからこんなに早く出てきたんですよ」などと吹聴して回るなど、世間体を気にしたり、近所に見栄を張ったりするタイプだったようです。

 

また、勝田清孝の事をかなり甘やかしており、消防士として働き始めた後にも車を買う金などを無心されて渡したり、1976年4月に金に困っているなどと泣きついた勝田清孝に200万円を渡すなどしています。

 

また、1980年に勝田清孝が車上荒らしで逮捕された時にも、裁判所に減刑を求める嘆願書を提出していました。

 

 

 

勝田清孝の家族③ 姉・悦子

 

勝田清孝には姉が1人おり、名前は悦子である事がわかっています。

 

姉の年齢は不明ですが、勝田清孝の少年時代には奈良県内の洋裁学校に通っており、そのため勝田清孝は少年時代は日中はほとんど家では1人で過ごしていたようです。

 

この姉は結婚して苗字が変わっており、その苗字もネット上では特定されていますが、この姉については現在も存命中の可能性があるためここでの記載は差し控えます。

 

 

 

勝田清孝の家族④ 嫁・勝田佐知子

 

勝田清孝は、1970年3月23日に、駆け落ちして同棲していた佐知子と結婚しています。

 

勝田清孝の嫁の佐知子は、典型的な尽くすタイプの女性だったようで、勝田清孝がほとんど家に給料を入れず、DVなども働いていたにも関わらず、何時に帰ってきても毎日欠かさず食事を作ったり体をマッサージしたりとかなり甘やかしていたようです。

 

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また、勝田清孝は遊ぶ金が足りなくなると、この嫁の佐知子に命じて近所に借金を頼みにいかせたりもしています。

 

勝田清孝が家に金を入れなかったため、嫁の佐知子は生活費を稼ぐために運送会社でアルバイトもしていました。

 

勝田清孝は、嫁の佐知子と1977年8月20に放送の視聴者参加型バラエティ「夫婦でドンピシャ」に出演しています。

 

この時に嫁の佐知子は、身長161cmの当時としては高身長のスラリとしたスタイルの良い女性として紹介されています。

 

この放送時には勝田清孝と嫁の佐知子は仲の良い夫婦という雰囲気でしたが、勝田清孝はその後程なくして愛人を作るようになり、それを知った嫁の佐知子は1979年2月に手首を切って自殺未遂をしています。

 

 

 

勝田清孝の家族⑤ 息子・宏明(長男)

 

勝田清孝には、嫁の佐知子との間に息子が2人生まれています。

 

1人目の息子は、1971年6月に生まれた長男の宏明です。

 

 

 

勝田清孝の家族⑥ 息子・和也(次男)

 

勝田清孝の2人目の息子は、1972年12月に生まれた次男の和也です。

 

友人らの証言によれば、勝田清孝はこの2人の息子の事は可愛がっており、当時は高級だった機械仕掛けのおもちゃを与えるなどしていたようです。

 

 

 

勝田清孝の両親や姉・嫁・息子達の現在

 

勝田清孝の両親や姉、嫁や息子など家族達の現在やその後については情報が一切なく不明です。

 

勝田清孝の嫁の佐知子は勝田の1歳年下のため、2023年の現在は74歳前後で存命している可能性も高いと思われます。

 

また、息子のうち長男の宏明は2023年3月の現在は51歳、次男の和也は50歳のはずです。

 

息子2人も存命している可能性が高いと思われますが、現在何をしているのかなどはわかっておらず不明です。

 

 

 

勝田清孝事件① 1972年9月にホステスの中村博子さんを殺害

 

出典:https://matome.eternalcollegest.com/

 

続けて、勝田清孝が起こした殺人事件のうち起訴されてその内容がある程度判明している8件について時系列順にまとめていきます。

 

消防士になって約5ヶ月が経過した1972年9月13日、勝田清孝は(判明している限りにおいては)最初の殺人を起こしました。

 

被害者は当時24歳の中村博子さんで、京都市内のスナックでホステスとして働いていました。

 

9月12日の夜から奈良市内の店で酒を飲んでいた勝田清孝は、日付が変わる頃に酒に酔った状態で車(ギャランクーペFTO)に乗り込み、空き巣に入る家を探して京都市内へと向かいました。

 

午前5時頃まで数軒の家屋やアパートに侵入したものの金目のものを盗めなかった勝田清孝は、別所町にあるアパートの裏口のサッシ戸が10cmほど開いているのを見つけて侵入。

 

部屋で眠っていた中村博子さんが気がつき大声を上げたため、勝田清孝は博子さんに飛びかかり、博子さんを強姦した後に、脱ぎ捨てられていたパンティストッキングで首を絞めて殺害しています。その後、勝田清孝は現金1000円を盗んで逃亡。

 

部屋に侵入した形跡や激しく争った形跡がなかった事から、警察は顔見知りの犯行の可能性が高いと判断して捜査を進めたため、勝田清孝は捕まらず事件は迷宮入りしています。

 

 

 

勝田清孝事件② 1975年7月にクラブママの藤代鈴子さんを殺害

 

出典:https://stat.ameba.jp/

 

勝田清孝は中村博子さん殺害後も変わらず消防士として勤務を続けながら、夜は奈良県のスナックで飲酒し、あちこちで窃盗を繰り返す生活を送っています。

 

そして、消防副士長に昇進した10ヶ月後の1975年7月6日に勝田清孝は、藤代鈴子さんという当時35歳の大阪北新地のクラブママを殺害しています。

 

その日の午前1時頃、大阪府吹田市で窃盗に入れそうな家を物色していた勝田清孝は藤代鈴子さんが車でマンションに帰宅するのを見つけ、車から降りてきたところを背後から忍び寄ってハンドバックをひったくろうとしました。

 

この時に藤代鈴子さんに抵抗され顔を見られたため、勝田清孝は近くに落ちていた荷造り用の細紐で首を絞めて殺害。

 

勝田清孝は藤代鈴子さんの遺体を、藤代さんの車(フェアレディZ)の助手席に乗せると、車を運転してマンション東方の池へと運び遺棄しています。

 

勝田清孝は藤代さんのハンドバッグから現金10万円を奪い、フェアレディZはそのまま運転して大阪市内の駐車場へと運び、火をつけて逃亡しています。

 

藤代鈴子さんの遺体はその日の朝方に通行人によって発見されていますが、勝田清孝はまたしても捕まらず事件は迷宮入りしています。

 

 

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勝田清孝事件③ 1976年3月にホステスの伊藤照子さんを殺害

 

出典:https://matome.eternalcollegest.com/

 

勝田清孝は、1975年12月に「トヨタ・センチュリー」を購入したり、ゴルフ会員権を購入したり、相変わらずクラブに毎晩通うなど散財し、消防署の給料を前借りし銀行からも金を借りるなどして金に困り、1976年に入る頃には土地勘のある名古屋まで遠征して窃盗を繰り返すようになりました。

 

1976年3月5日の午前2時過ぎ、車に乗って名古屋市内で窃盗に入る家を探していた勝田清孝は、中区新栄の千早の交差点で信号待ち中に、左隣車線に停車していた高級外車「シボレー・カマロ」にホステス風の女性が乗っているのを見つけました。

 

出典:https://chikyu-jack.com/

 

勝田清孝はこの女性から金品を奪おうと車で後をつけました。この女性は名古屋市錦の高級クラブでホステスをしていた当時32歳の伊藤照子さんでした。

 

勝田清孝は駐車場で車を降りた伊藤照子さんの背後に忍び寄り、バッグを奪い取ろうとしましたが抵抗されて大声を出されたため、伊藤さんが首に巻いていたスカーフで首を絞めて殺害。現金2万円を奪いました。(伊藤さんの財布には別に10万円が入っていたが、勝田は気が付かずに財布を捨てている)

 

出典:https://stat.ameba.jp/

 

勝田清孝は、伊藤照子さんのカマロのトランクに伊藤さんの遺体を入れて愛知県長久手町まで運び、休耕田の中に遺棄しています。

 

遺体は翌朝にすぐ発見されていますが、またしても勝田清孝は捕まりませんでした。

 

 

 

勝田清孝事件④ 1977年6月に雀荘従業員の増田安紀子さんを殺害

 

出典:https://matome.eternalcollegest.com/

 

1977年6月30日、勝田清孝は、当時28歳の名古屋市内の雀荘店員だった増田安紀子さんを殺害しています。

 

その日の午前2時頃、勝田清孝は例のごとく名古屋市内で窃盗に入る家を物色していました。勝田清孝は名古屋市南区のマンションを物色中に、4階の一室から若い女性(増田安紀子さん)が出てきて、鍵もかけずに階下へと降りていくのを見つけました。

 

勝田清孝はすかさず中へと侵入して室内で現金4万円を見つけて引き上げようとしますが、そこへ増田安紀子さんが帰ってきて大声を上げて逃げ出そうとしたため、背後から飛びかかって細紐で首を絞めて殺害しています。

 

勝田清孝は、玄関下駄箱上に置かれていた鍵で施錠し逃亡しています。

 

部屋が施錠されていた事などから警察は合鍵を持つ親しい人物の犯行だと決めつけ、増田さんの交際相手を執拗に犯人扱いしたため、勝田清孝はまたしても逃げおおせています。

 

勝田清孝は、この事件から2ヶ月後の8月20に放送された「夫婦でドンピシャ」というバラエティ番組に嫁の佐知子と2人で出演しています。(収録は事件の前だった)

 

 

 

勝田清孝事件⑤ 1977年8月に美容指導員の識名ヨシ子さんを殺害

 

出典:https://matome.eternalcollegest.com/

 

勝田清孝は1977年8月12日には、名古屋市昭和区のマンションで当時33歳のポーラ化粧品美容指導員の識名ヨシ子さんを殺害しています。

 

その日も名古屋市内で窃盗に入る先を探していた勝田清孝は、名古屋市昭和区阿由知通のマンションに入りドアを一つ一つ触って鍵が開いている部屋はないかと探っていました。

 

すると勝田清孝の目の前で3階の1室のドアが開き、中から識名ヨシ子さんが顔を覗かせて、咎めるような口調で「あんた何をしているの?」と怪しまれたため、勝田清孝は識名さんを押すようにして一緒に部屋に侵入し、パンティストッキングで首を絞めて殺害しています。

 

勝田清孝は識名さんがはめていた45万円相当のダイヤの指輪を盗むと、識名さんの遺体をベッドと壁の隙間に落として隠し玄関にあった鍵でドアを施錠して逃亡しました。

 

識名さんの遺体が発見されたのは殺害から4日後の8月16日でした。

 

 

 

勝田清孝事件⑥ 1977年12月に労金職員の井上裕正さんを殺害

 

1977年12月13日、勝田清孝は、当時25歳の労金職員・井上裕正さんを殺害しています。

 

この時、勝田清孝は奈良県内で盗んだ猟銃で井上さんを射殺しています。これまでの犯行とはスタイルが全く違いますが、これは勝田清孝が女性を狙って殺害しても大金を奪うことは難しいため、労金職員の集金後を狙って射殺してでも金を強奪した方が手っ取り早いと考えたためでした。

 

勝田清孝は、井上さんが集金して持っていた現金410万円ほどと、小切手512万円相当を盗んで逃亡しています。勝田清孝は猟銃を現場近くに捨てていましたが、盗難されたものだったため、ここから足がつく事はありませんでした。

 

また、勝田清孝はこの犯行にトラックを使っており、これも現場近くに乗り捨てていますが、これも事件直前に名古屋中央卸売市場から盗まれたもので、こちらも逮捕にはつながりませんでした。

 

 

 

勝田清孝事件⑦ 1980年7月にスーパー従業員の本間一郎さんを殺害

 

銃を使った強盗に味を占めたのか、勝田清孝は1979年12月に銃砲店に張り込み、そこに立ち寄った客の後をつけて自宅に侵入し猟銃を盗み出しています。さらに、勝田清孝は銃砲店に張り込むという手口で別の人物から散弾(猟銃に使う実弾)を盗んでいます。

 

そして、勝田清孝は1980年7月30日に、直前に盗んだトヨタカローラで名古屋市名東区のスーパーマーケットに乗りつけ、23時頃に閉店作業を終えて店から出てきた当時35歳の従業員の本間一郎さんに猟銃を突きつけて「店内に戻って金庫を開けて売上金を出せ」と脅しました。

 

勝田清孝は本間さんに金庫を開けさせて中にあった現金576万円あまりを盗むと、本間さんに盗難者のカローラを運転させて現場から離れ、中区栄のガレージに車を乗り入れさせた上で、本間さんの心臓を撃って殺害しています。

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勝田清孝事件⑧ 1982年10月に溶接工の神山光春さんを殺害

 

1982年10月25日、勝田清孝は名古屋市中区で「トヨタ・セリカ」を盗みました。そして、27日に21時半頃に公衆電話から偽名を使って名古屋市千種区の田代北派出所宛に電話をかけて、盗難者らしき車が停まっているので調べて欲しいと嘘を言って警察官を誘き出しました。

 

現れた警察官を、勝田清孝は盗難したセリカで撥ね飛ばすと、倒れた警察官の頭部をさらに鉄棒で殴って昏倒させ、実包5発が装填された回転式拳銃を奪いました。

 

10月31日の午前2時頃、勝田清孝は奪った拳銃を持ち、静岡県浜松市内のスーパーマーケットに強盗に入りますが、従業員に逃げられて大声で助けを呼ばれ、何も盗まずに逃走しています。

 

勝田清孝は再び名古屋市内の深夜営業のスーパーマーケットを襲おうと考えるも、自分の車で再び名古屋市内に入るのは危険と考えて、名神高速に乗って大津サービスエリアに自分の車を駐車した後、ちょうどそこに現れた黄色いワゴン車に近づき強引に乗り込んで拳銃を突きつけて名古屋方面へと向かわせました。

 

この時に車を運転していたのは、当時27歳の溶接工・神山光春さんで、山口県徳山市での長期出張を終えて千葉県へと戻る途中でした。

 

その後、高速を降りて名古屋方面へと草津市内の国道1号線を走っていた21時30分頃に、神山光春さんは車を急停車させて、勝田清孝の握っていた拳銃を奪おうとしました。しかし失敗し、激昂した勝田清孝は神山光春さんの胸を撃って殺害しています。

 

 

 

勝田清孝事件⑨ 強盗に失敗してついに逮捕される

 

その後も勝田清孝は警察官から奪った拳銃を使った犯行を繰り返し、11月1日には逃走中に立ち寄った岐阜県養老のサービスエリアでガソリンスタンド店員に発砲して怪我を負わせています。

 

さらに、11月28日には、京都市山科区内のスーパーマーケットに拳銃強盗に入り、売上金約152万円を奪っています。

 

そして、1983年1月31日、勝田清孝は盗難したトヨタ・カローラを、名古屋市昭和区内の銀行(第一勧業銀行御器所支店)の駐車場に停車し、銀行から出てくる誰かから現金を奪おうと待ち伏せしました。

 

13時45分頃、現金102万3000円を下ろして出てきた当時31歳男性(運送会社社長で従業員の給与を引き出してきた)に、勝田清孝は拳銃を突きつけて脅し、金を奪おうとしました。

 

しかし、この男性に隙をつかれて拳銃を持つ手を押さえられて取っ組み合いになり、銀行内から騒ぎを聞きつけて飛び出してきた銀行員らも加わっての格闘になりました。

 

勝田清孝は銀行員ら3人を殴るなどして怪我を負わせた他、拳銃を2発発砲するなどしましたが銃弾は命中せず、通報を受けて駆けつけた警察官らによって、強盗致傷の現行犯で逮捕されました。

 

この時に所持していた拳銃が決め手となって、一連の拳銃事件の犯人が勝田清孝と断定され、さらにその後の取り調べによって、勝田清孝がこれまでに起こした数々の凶悪犯罪が次々と明るみに出ました。

 

こうして、勝田清孝の10年以上にもわたる犯行にようやく終止符が打たれる事になりました。

 

 

 

勝田清孝の判決は死刑

 

出典:https://stat.ameba.jp/

 

勝田清孝は、強盗殺人7件、殺人1件、強盗致傷3件、強盗2件、強盗殺人未遂1件、強盗未遂1件、窃盗12件など、合計33の罪について起訴されました。

 

勝田清孝は刑法の規定により、連続女性殺人などの一連の事件と、警察官の拳銃を奪って起こした一連の強盗事件はそれぞれに分けて扱われ、いずれも死刑が求刑されました。

 

そして、この2つの死刑求刑はいずれも死刑判決が確定しています。2つの死刑が求刑され、2つの死刑が確定したのは史上初めてのケースでした。

 

 

 

勝田清孝の最期の言葉

 

出典:https://chie-pctr.c.yimg.jp/

 

勝田清孝の死刑執行直前の最期の言葉は、別冊宝島編集部の「死刑囚200人最後の言葉」によれば、「目隠しを取ってもらえませんか。もう一度先生(教誨師)の顔を見たい」だったそうです。

 

また、勝田清孝は死刑執行の直前に自分が殺害した被害者一人一人の名前をあげて「ごめんなさい」と呟いたそうです。

 

また、勝田清孝は獄中で来栖宥子さんというクリスチャンの女性と数百通に及ぶ文通を続けていました。来栖宥子さんは勝田清孝を実母と養子縁組させて、義姉弟の関係となっており、死刑を待つ勝田清孝にとってこの来栖宥子さんが心の支えのようになっていたようです。

 

勝田清孝は義姉の来栖宥子さんに最期の言葉として「こんな悪い事をした人間が1日3度の食事をいただいている」と反省する気持ちを伝えていたようです。

 

また死刑執行が告げられた日には、勝田清孝は、僧侶に対して「自分が死刑になると、義理のお姉さんが自殺するかもしれない…」と心配を口にしていたとの事です。

 

 

 

勝田清孝事件はドラマ化や映画化もされた

 

出典:https://pbs.twimg.com/

 

勝田清孝の起こした一連の事件は、ドラマ化や映画化がされています。

 

原作とされたのは、この記事の参考にもした大下英治さんの事件ルポ「冷血 殺人鬼 勝田清孝事件」でした。

 

ドラマは1984年4月5日に「冷血」のタイトルで「木曜ゴールデン」の枠で放送されています。ドラマ版の勝田清孝役は俳優の鹿賀丈史さんが演じています。

 

また、映画は「連続殺人鬼 冷血」のタイトルで1984年に公開されています。映画版の主演は俳優の中山一也さんでした。

 

いずれもDVD化はされおらず、ネット配信もされていないためすぐに視聴するの事は若干難しいようです。映画「連続殺人鬼 冷血」に関してはVHS版が中古で購入可能です。

 

 

 

まとめ

 

今回は、1972年から1983年にかけて、少なくとも8人の男女を殺害した戦後最悪の連続殺人鬼の1人・勝田清孝についてまとめてみました。

 

勝田清孝は、京都府相楽郡木津町鹿背山地区で両親と姉の4人家族で育った生い立ちを持ち、少年時代は両親が共働きでカギっ子として成長しました。

 

高校時代に窃盗事件を繰り返して少年院に送られ、退院後は消防士になるなど立ち直ったかのように見えましたが、その裏では強盗殺人などの凶悪犯罪を繰り返していました。

 

勝田清孝は結婚していて息子が2人おり、嫁も息子2人も2023年の現在も存命していると思われますが、今どこで何をしているのかなどはわかりません。

 

勝田清孝は10年以上にわたって強盗殺人をはじめとし、窃盗や傷害、警察官を襲っての拳銃強盗など凶悪な犯罪を繰り返すも逮捕されず、1983年に銀行帰りの客を襲撃したところを反撃されて取り押さえられてようやく現行犯逮捕され、それをきっかけに数々の罪が発覚しました。

 

勝田清孝は一連の事件で2つの死刑を求刑されいずれも確定し、2000年に死刑が執行されています。享年は52歳でした。

 

勝田清孝の最期の言葉は「目隠しを取ってもらえませんか。もう一度先生(教誨師)の顔を見たい…ごめんなさい」だったそうです。

 

勝田清孝の事件はドラマ化、映画化されていますがDVD化されておらず、映画版をVHS版で視聴するしかありません。

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