東峰十字路事件の犯人!被害者遺族と慰霊碑・発生場所・映画や漫画作品まとめ

1971年に成田空港建設反対派と機動隊の衝突の中で発生した「東峰十字路事件」が話題です。

 

この記事では東峰十字路事件の詳細な経緯と内容、被害者の殉職した3名の警察官、犯人の極左暴力集団、被害者遺族と慰霊碑、発生場所、事件をテーマにした映画や漫画作品などについてまとめました。

東峰十字路事件は極左暴力集団に警官隊が襲撃され3名が殺害された事件

 

出典:https://www.chibanippo.co.jp/

 

「東峰十字路事件(とうほうじゅうじろじけん)」は、1971年9月16日に千葉県成田市東峰で発生した、極左暴力集団などによる警察官3名に対する傷害致死事件です。

 

成田空港(当時の名称は新東京国際空港)の建設をめぐって、行政側と反対派住民および新左翼極左暴力集団が激しく対立した「成田闘争」において、警備に派遣されていた神奈川県警所属の特別機動隊(一般職員で臨時編成された部隊)がゲリラ化した極左暴力集団らの襲撃を受け、警察官3名が死亡しました。

 

東峰十字路事件は、それまでは比較的新左翼や学生活動家による政治運動に対して寛容な雰囲気のあった世間の風向きが、批判的な雰囲気に180度変化するきっかけとなりました。

 

ここではこの「東峰十字路事件」の詳細な経緯や内容を紹介していきます。

 

 

 

東峰十字路事件の詳細① 事件発生までの経緯と背景

 

出典:https://img.buzzfeed.com/

 

1966年7月4日、「新東京国際空港(現在の成田国際空港)」の建設予定地を千葉県成田市三里塚地区の宮内庁下総御料牧場付近とする事が閣議決定されました。

 

国側は、当時の相場の5倍以上の価格で当該の土地を買収する事と移住先での民家建て替え費用の保証などの好条件を提示し予定地の90パーセントの土地買収に成功しました。

 

しかし、予定地の一部の住民と保証対象外とされた空港建設予定地周辺の農家が空港建設に強く反対して「三里塚芝山連合空港反対同盟」を結成。その後、反対派指導者らが新左翼の受け入れを表明した事により、中核派をはじめとする極左暴力集団(過激派)も反対運動に加わりました。

 

極左集団の介入によって反対同盟が過激化した事を受け、新東京国際空港公団は土地収用法に基づき強制代執行を決断しました。

 

 

 

東峰十字路事件の詳細② 第一次代執行時に大暴動に発展

 

出典:http://www.zenshin.org/

 

1971年2月22日、第一次土地収用強制代執行が実施されますが、反対同盟の農民らは木やバリケードに自身の体を縛り付ける、女子供を含む住民が座り込みをするなどして抵抗。

 

中核派や反帝学評など過激派新左翼の約2350人が反対同盟に加わって、代執行予定場所でのデモ行進、アジ演説、突撃訓練などの示威行為を繰り返したため空港公団はほとんど作業ができず、その日の代執行はわずか1時間半で中止に追い込まれました。

 

翌23日にも機動隊の投入が見送られたために空港公団は土地収用の作業を行えず、開始わずか4分で引き上げを余儀なくされています。

 

翌24日には、少年行動隊(農家の子供)が代執行班に体当たりをするなどし、これに警備の人員が警棒を用いて反撃したため、小学4年男児と中学3年女生徒が負傷し入院。また、他にも少年行動隊の子供が防衛のために自ら掘った溝に転落するなどして負傷しています。

 

代執行の様子を見ようと周辺に集まっていた野次馬が、子供が負傷する場面を目撃し、野次馬の中に紛れ込んでいた新左翼学生の扇動も受けた事によって、投石などで代執行妨害活動に加わり始め、代執行側はまたしても撤退に追い込まれました。

 

翌25日、ついに機動隊が投入されますが引き続き野次馬による投石などの妨害を受けて代執行は進まず、26日に友納武人千葉県知事が翌27日から3月1日までの代執行一時停止を表明。

 

3月2日から代執行は再開され、3日には機動隊が約3000人に増強された事でようやく形勢が逆転し、反対派農民を力で排除した事で反対派に骨折などの負傷者が続出します。

 

これを受けて、反対派はさらに過激化し火炎瓶の投擲などで反撃し、代執行の作業にあたっていた重機オペレーターが火だるまになって火傷を負うなど双方に負傷者が出ました。

 

その後、バリケードを突破した機動隊の突入により、反対派の立て篭もる「団結小屋」が陥落し、第一次代執行は3月6日に終結しました。

 

この第一次代執行では、機動隊員、空港公団職員、県職員、作業員のあわせて1071名もの負傷者が出ました。その中には重傷で退職を余儀なくされた者もいました。

 

一方の反対派の負傷者は606人で、逮捕者は461名にも上りました。

 

 

 

東峰十字路事件の詳細③ 第二次代執行では約5500人の警備部隊を動員

 

出典:https://www.npa.go.jp/

 

第一次代執行時の苦戦を受けた行政側は、機動隊総勢約5500名の警備部隊の動員を決定しました。

 

反対派農民や極左暴力集団が拠点として立て篭もる各所の「団結小屋」は、強固なバリケードで囲まれて砦化されており、その対処のために機動隊の精鋭部隊である警視庁機動隊約2500人と千葉・埼玉県警察機動隊の約500名が配置されました。

 

残りの約2500名はその他の関東管区警察所属の機動隊で、空港周辺地域警備、後方支援のために8個大隊に編成され各所に配備されました。この中には、正規の機動隊ではない一般職員で臨時編成された特別機動隊が含まれていました。この特別機動隊は普段は刑事、防犯や交番、パトカー勤務をしており、機動隊としての訓練は積んでいませんでした。

 

 

 

東峰十字路事件の詳細④ 東峰十字路周辺に堀田大隊261名が配置される

 

神奈川県警察の若手警察官を中心に261名で編成された特別機動隊「神奈川連隊第二大隊」は、堀田安夫警視が指揮していたため「堀田大隊」と呼称されていました。

 

この堀田大隊は、第二次代執行開始直前の1971年9月16日午前6時30分頃、パトカー、幌付き輸送車、大型警備車など車両14台に分乗して警備担当場所の「東峰十字路(千葉県道・茨城県道44号成田小見川鹿島港線上、駒井野団結小屋の東側)」に到着しました。

 

前日の9月15日、この東峰十字路付近の雑木林に反対派極左暴力集団が、火炎瓶やゲバルト棒(左翼活動派が使う角材などの棒状の武器)などの凶器を隠しているとの情報が入っていたため、堀田大隊はそれらの発見確保のために中隊に分かれて周辺の捜索任務にあたりました。

 

第1中隊は、交差点を中心に二手に分かれ、第1小隊が北の北林事務所方面へ、第2小隊が南の朝日台方面へ展開し捜索。

 

第2中隊は、西側の団結街道(反対派の拠点「団結小屋」へと続く市道)方面の検問設置および、団結街道左右の雑木林の捜索任務にあたりました。

 

残る第3中隊は、第1小隊が警備本部での車両警備に残され、第2小隊は空港公団事務所に向かいましたが、車両の不調によって到着が遅れていました。

 

 

 

東峰十字路事件の詳細⑤ 堀田大隊が極左暴力集団に急襲され混乱状態に

 

堀田大隊が東峰十字路に到着した頃、火炎瓶や竹竿などで武装した極左暴力集団のゲリラ部隊の約700人が、空港反対同盟の青年行動隊の案内を受けて東峰地区へと向かう途上にあり、東峰十字路南方の県有林で休憩をとっていました。

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この時に、東峰十字路に機動隊(堀田大隊)が展開し始めているとの情報を得た極左暴力集団は、機動隊の挟撃を狙って部隊を二手に分け、先発隊を東峰十字路を迂回させて北方へと回り込ませ、後発隊は東方から西に向けて東峰十字路へと向かわせる作戦を取りました。

 

午前6時45分頃、公団事務所へと向かっていた堀田大隊の第3中隊第2小隊の後方に配置されていた堀田大隊の輸送車両が突然火炎瓶攻撃を受けて炎上。その直後に側面の藪の中から、赤や白、黒色のヘルメットを被り、鉄パイプや竹槍で武装した極左暴力集団のゲリラ部隊(後発隊)が現れて投石した後第2小隊に襲いかかりました。

 

堀田大隊は小隊を分散させていた状態でゲリラ部隊の急襲を受ける形となり、瞬く間に混乱状態に陥りました。

 

 

 

東峰十字路事件の詳細⑥ 堀田大隊は各地で襲撃されて壊滅状態に

 

第3中隊第2小隊が襲撃を受けた15分後の午前7時頃、福島誠一警部補率いる第1中隊第1小隊(以下、福島小隊)30名は、東峰十字路から北方の北林事務所方面の捜索を終えて整列していました。

 

そこへ突然、北東の藪を抜けてきた白と赤のヘルメットを被り、火炎瓶や竹槍などで武装した200名以上の極左暴力集団のゲリラ部隊(北側へ回り込んでいた先発隊)が現れて福島小隊へと襲いかかりました。

 

これにより、福島小隊は本隊との連絡路を分断される形となり孤立。ただちに無線で大隊本部へ救援を要請しています。

 

救援要請を傍受した堀田大隊本部は、警備司令部に救援部隊を要請すると共に団結街道周辺を捜索していた第2中隊と遅れて合流した第3中隊を孤立した福島小隊の救援に向かわせようとしました。

 

ところが、その命令を発した直後に、第2中隊は白ヘルメットを被った極左暴力集団約100名の襲撃を受け、第3中隊と大隊本部も北から南下してきた先発隊と東から現れた後発隊の挟撃を受けます。

 

堀田大隊は東峰十字路で応戦したものの、多勢に無勢の上に挟撃での奇襲を受けたため戦いにならずに総崩れとなり、負傷者が相次いで主力は十字路南方へと撤退し、第3中隊第1小隊は分断される形で西側の団結街道入り口の丁字路まで後退しました。

 

この戦闘により、大隊指揮官の堀田安夫警視も腕を負傷したのをはじめ、大隊全体で80名が負傷しました。負傷者の中には火炎瓶を受けて全身火傷を負った者、殴打されて右目を失明した者、顎の骨を砕かれて歯を全て失った者、全身を100針縫う大怪我を負った者、頬を竹槍で差し貫かれた者もいました。

 

また、大隊所属の警察車両数台も火炎瓶の攻撃を受けて炎上し失われています。

 

 

 

東峰十字路事件の詳細⑦ 包囲された福島小隊が壊滅し警察官3名が死亡

 

出典:https://pbs.twimg.com/

 

一方、福島小隊の30名は、本隊と分断されて孤立しながらも、隊列を組み応戦を試みて当初は敵を押し返したものの、200名もの多勢に包囲されては衆寡敵せず次第に劣勢となって多くの負傷者を出し、本隊が退いたのとは反対方向の東峰十字路北方向への撤退を余儀なくされました。

 

当時の報道によれば、極左暴力集団と空港反対同盟の青年行動隊らは「殺せ!」、「生きて帰すな!」などと口々に叫びながら、撤退する福島小隊に向けて容赦無く火炎瓶の投擲や投石を行ったという事です。

 

ゲリラ集団は、火炎瓶を受け火傷を負って倒れた機動隊員を取り囲むと、隊員らの防御装備を剥ぎ取って手錠をかけて身動きの取れない状態にした上で、鉄パイプや釘が打ち込まれた角材、丸太などで執拗に激しく殴打しました。

 

火炎瓶から逃れた一部の隊員も、現場の土地勘がない上に周辺の農家は全て反対派の住民だったためにすぐに逃げ場を失い、ゲリラ集団に捕らえられて茂みや林に引きずり込まれて集団で暴行され、土下座を強要されたり、農業用フォークで胸を突かれた上に裸にされて手錠で木に束縛刺された状態でさらに暴行を受けたりしたという事です。

 

 

 

小隊長を含む3名の警察官が死亡

 

福島小隊指揮官の福島誠一警部補は、逃げ遅れたところに火炎瓶を投げつけられて火だるまになり、炎を消そうと転げ回っているところをゲリラ集団に取り囲まれ、他の機動隊員から奪われた手錠を両手にかけられ、ヘルメットを剥ぎ取られた上で暴行を受けました。

 

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福島誠一警部補は無抵抗のまま暴行を受け続けて危篤状態になり、病院に搬送される途中で死亡しました。

 

福島小隊長の他にも、福島小隊第1分隊隊長の柏村信治巡査部長と、同小隊員の森井信行巡査も同様に執拗かつ陰湿な暴行を受け、搬送先の病院と空港公団の救護室で亡くなっています。

 

福島誠一小隊長以下、隊員3名がゲリラ集団からの暴行を受けて倒れた場所は、東峰十字路から北方200メートルから270メートルにかけての道路上でした。

 

また、福島小隊では死亡した被害者3名の他にも20名以上の隊員が重傷を負っています。

 

死亡した3人の犠牲者の遺体は司法解剖され、その結果、福島誠一警部補には、頭蓋骨亀裂骨折と脳内出血、肋骨17本の骨折しそのうちの1本は肺に突き刺さり、頭部や胸部にも計28ヶ所の打撲傷が、柏村信治巡査部長は顔から左肩にかけて重い火傷を負い、頭蓋骨亀裂骨折、胸肋骨2本折損、頭頂部、左右腕、背中に多数の打撲傷が、森井信行警部補には頭蓋底骨折、頭部、左肩、左右の足に打撲傷、顔からアゴ、および胸から肩にかけて火傷痕がそれぞれ確認されました。

 

犠牲者3人の死因はいずれも脳挫傷と脳内出血でした。

 

 

 

極左暴力集団は逃走時に人質として機動隊員30名を拉致し装備の略奪も

 

一連の一方的な戦闘の後、極左暴力集団のゲリラ部隊は入り組んだ地形に身を隠しながら逃走しました。この逃走時にゲリラ達は、負傷して身動きの取れなくなった機動隊員30名を人質として拉致しています。

 

警視庁機動隊が救援のために東峰十字路に到着した時には、ゲリラ達はすでに逃亡しており、現場には、血まみれの状態で倒れて呻き声をあげる福島小隊の隊員数名が残されているだけでした。

 

その後、拉致された機動隊員らは、正午過ぎに手錠をかけられて隊員同士数珠繋ぎにされた状態で各地に置き去りにされているところを増援の警視庁第2機動隊によって全員無事に保護されていますが負傷していました。

 

過激派左翼や反対派農民青年活動隊が福島小隊に対して行ったこれらの凄惨な蛮行に対しては、反対派農民よりの立場にあった周辺住民からすらも「今回はやりすぎ。酷い」、「警官を殺してくれとは言っていない」、「遺族が可哀想」といった声が上がるほどでした。

 

また、ゲリラは逃走する際に、機動隊員の盾や手錠などの装備を略奪し持ち去る事もしています。

 

 

 

東峰十字路事件の被害者は警察官3名と負傷者は少なくとも数十名

 

「東峰十字路事件」の被害者は、神奈川県警から応援に派遣された警察官の死者が3名と負傷者は少なくとも数十名でした。

 

死亡した犠牲者は既に触れたように、第1中隊第1小隊長を務めた福島誠一警部補(神奈川警察署外勤第一課係長、当時47歳)、同小隊第1分隊長の柏村信治巡査部長(神奈川警察署外勤第一課主任、当時35歳)、同小隊員の森井信行巡査(神奈川警察署外勤第一課、当時23歳)の3人でした。

 

死亡した犠牲者3人は、福島誠一警部補が警視に、柏村信治巡査部長が警部に、森井信行巡査が警部補に二階級特進しています。

 

 

 

東峰十字路事件の犯人

 

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身内である警察官が犠牲者となった事もあり、警察は総力を上げて「東峰十字路事件」の犯人を特定しようとしました。

 

捜査本部は、「コンピューター捜査」と称し、全ての証言や物証を複合的に検証し、犯人を特定しようと試みましたが、ゲリラ達が犯行時に後の犯人特定を困難にする目的で被害者らの顔や口を集中的に攻撃していた事や、代執行の最中の事件だったため、殺害現場を見分するまでに発生から1週間以上を要した事、そもそもの物的証拠や目撃証言がほとんど得られなかった事、犯行に関わった人数が多すぎる事などが原因となって犯人の特定には至りませんでした。

 

捜査本部はその後、空港反対同盟青年行動隊員らを中心に新左翼の活動家学生を含めて合計153人を逮捕し、傷害および傷害致死、凶器準備集合罪、公務執行妨害などの容疑でそのうちの55人を起訴しました。

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裁判では、被告人らが直接福島小隊の暴行に加わった事を示す証拠がないなどの理由により、重刑は言い渡されず、3人に無罪が、残る52人に対しても3年から5年の執行猶予付きの懲役10ヶ月から3年までの刑罰が言い渡されただけで、1人として実刑判決を受けた者はいませんでした。

 

また、東峰十字路事件の直接的な犯人かは不明ですが、空港反対同盟の青年行動隊の1人で、東峰十字路事件に関与していた疑いが持たれていた当時22歳の三ノ宮文男という男が、数度の別件逮捕と取り調べを受けた末、1971年10月1日に自宅の裏山で首を吊って死亡しています。

 

 

 

東峰十字路事件の被害者遺族

 

「東峰十字路事件」の被害者3名の遺族についての情報は特にありません。

 

犯人らの裁判では、被害者遺族の心情について「その無念さ、悲嘆さは察するに余りある」と判決文で言及されていますが、その後被害者遺族が犯人らを相手取って訴えを起こしたと言った事もありません。これについては、被害者が警察官だった事もあり、行政側から遺族に対する手厚い補償が行われたためと考えられます。

 

なお、東峰十字路事件から36年後の2007年に、逮捕された犯人側の一部が殉職した警察官の慰霊碑に献花を行っている事から見て、被害者遺族と一部の犯人の間では和解が成立している可能性が高いようです。

 

この時に献花した犯人の1人は被害者や遺族について「婚約者がいた警察官や子持ちの人もいた。当時は相手の立場まで想像で出来なかったが今なら残された家族の気持ちにまで思いが及ぶ」と、事件を起こした事に対する後悔の気持ちを話しています。

 

 

 

東峰十字路事件の被害者の慰霊碑

 

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「東峰十字路事件」の被害者のうち亡くなった3名(福島誠一警部補、柏村信治巡査部長、森井信行巡査)が倒れた場所にはそれぞれ慰霊碑が建立されています。

 

出典:https://pbs.twimg.com/

 

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3人の被害者の慰霊碑は、新空港自動車道方面から、千葉県道44号線を香取方面へ辿り、滑走路下の天神峰トンネルを抜けてすぐ1個目の信号を左折して100メートルほど行った、成田空港のB滑走路近くの左側道路脇にあり、現在も献花や飲み物などを供えに訪れる方がいるようです。被害者の遺族も定期的に訪れていると思われます。

 

ただ、近くには警備のために警察官が常駐しており、近づくと職務質問を受ける場合があるという事です。

 

 

上の慰霊碑とは別に、成田国際空港警察署敷地内にに、空港警備殉職者の顕彰碑が設けられており、福島誠一警部補ら東峰十字路事件の被害者3名の名前も刻まれています。

 

 

 

東峰十字路事件の発生場所と地図

 

出典:https://upload.wikimedia.org/

 

「東峰十字路事件」の発生場所は、成田国際空港B滑走路南端34R付近にある東峰神社の周辺一帯です。事件の中心の場所となった東峰の十字路自体は現在は既に存在していません。現在の「東峰」の交差点の場所は事件のあった「東峰十字路」より若干東北に位置しています。

 

この場所一帯には現在も警察官や警備員が常駐しており、神社の境内やそこに至る小道に立ち入る事は可能ですが常に監視されているという事です。

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東峰十字路事件の映画

 

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「東峰十字路事件」をテーマにしたドキュメンタリー映画がこれまでに何度か制作されています。

 

1985年10月6日には東峰十字路事件の警察の取り調べと裁判を追った三里塚工房制作の30分のドキュメンタリー映画「追跡・自白調書 東峰十字路裁判」が公開されています。

 

同映画は1992年12月15日の第11回成田空港問題シンポジウムでも上映されました。

 

2014年11月22日には、成田空港建設反対派の農民を中心に描いた代島治彦監督と大津幸四郎監督のドキュメンタリー映画「三里塚に生きる」が、2017年9月9日にはその姉妹編として農民とに協力して戦った若者らを中心に描いた代島治彦監督のドキュメンタリー映画「三里塚のイカロス」がそれぞれ公開されています。

 

成田空港建設反対闘争で国家と闘った農民を中心に描いた『三里塚に生きる』の姉妹編。農民とともに闘った若者たちの人生を描く。三里塚闘争の責任者だった者、農民支援に入った農家の若者と恋をして結婚した女性らの他、農民運動家や元空港公団職員などがこれまで誰にも語らなかった“あの時代”と“その後の50年”の記憶を語っている。

 

引用:三里塚のイカロス

 

ただし、こちらは東峰十字路事件ではなく、成田闘争(三里塚闘争)全体をテーマに扱ったドキュメンタリー映画です。東峰十字路事件で極左暴力集団と空港反対同盟青年行動隊が機動隊に対して行った蛮行は許し難いものですが、成田騒動全体では地元住民の立場にも同情すべき点が多くあります。そうした面にスポットを当てたという意味で高く評価されています。

 

映画三里塚イカロス」は、2017年の毎日映画コンクールドキュメンタリー映画賞を受賞しています。

 

 

 

 

 

東峰十字路事件の漫画

 

出典:https://m.media-amazon.com/

 

「東峰十字路事件」に関連した漫画作品としては、東峰十字路事件を含む「成田闘争(三里塚闘争)」をテーマとした、尾瀬あきらさんによるフィクション漫画「ぼくの村の話」が知られています。

 

空港建設に反対する住民側の視点で描かれている漫画作品で、登場人物や地名、会社名、空港名などは全て架空の名称であくまでもフィクション作品として描かれていますが、内容はほぼ「成田闘争」を史実通りになぞったもので、「東峰十字路事件」に基づいた内容も描かれています。

 

また、商業化はされていませんが、イラスト投稿型のSNS「pixiv」で、「humi」というアカウント名の方が、「東峰十字路事件」を描いた漫画作品をプロ並みのクオリティで公開されています。

 

先に紹介した漫画「ぼくの村の話」は反対派住民側の視点で描かれた作品ですが、pixivで公開されている「humi」さんの作品は機動隊側の視点から描かれています。それぞれの作品で異なる立場での心情が伝わり興味深い内容です。

 

 

 

まとめ

 

今回は、1971年9月16日に千葉県成田市東峰で発生した、極左暴力集団による傷害致死事件「東峰十字路事件」についてまとめてみました。

 

東峰十字路事件は、「新東京国際空港(現在の成田国際空港)」の建設に対して、地域住民(農民が中心)の反対派に過激派の新左翼団体(通称・極左暴力集団)が加わって暴力による抵抗運動を展開し、土地の収用の強制代執行の警備任務にあたっていた機動隊と激しく衝突する中で起こりました。

 

東峰十字路に配置され周辺で後方支援任務についていた神奈川県警の特別機動隊が、極左暴力集団および空港反対同盟の青年行動隊で構成された約700名のゲリラ部隊の急襲を受けて壊滅状態となり、1個小隊が包囲を受けて孤立し所属する警察官3名が凄惨な暴行を受けて死亡しました。

 

被害者は、小隊長の福島誠一警部補、第1分隊長の柏村信治巡査部長、同小隊員の森井信行巡査の3名で、いずれも火炎瓶などの投擲を受けて火傷を負ったところに取り囲まれて鉄パイプや角材などで執拗な集団暴行を受けて、全身の骨折と脳挫傷、脳内出血などで亡くなりました。

 

事件後、警察は犯人の特定に向けて捜査し、55名を逮捕してそのうちの52名が起訴されましたが、裁判では被告らが直接福島小隊の暴行に加わった事を示す証拠がないとして、全員に執行猶予付きの判決が下され実刑判決を受けた者はいませんでした。

 

死亡した被害者3名の慰霊碑が、事件現場のそれぞれが倒れた場所に建立されており、現在も遺族や関係者が訪れているようです。

 

東峰十字路事件が発生した場所は、成田空港のB滑走路南端34R付近にある東峰神社の周辺一帯で、現在は成田空港の建設により十字路自体は残っていません。

 

その後、東峰十字路事件を含む成田騒動をテーマにしたドキュメンタリー映画「三里塚に生きる」、「三里塚イカロス」が公開されており高い評価を得ています。

 

また、東峰十字路事件を含む成田騒動をテーマにした漫画作品としては尾瀬あきらさんによるフィクション漫画「ぼくの村の話」が知られています。

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