廣田雅晴は1984年に発生した京都・大阪連続強盗殺人事件の犯人で、京都府警の元警察官でした。この記事では廣田雅晴の生い立ちや経歴、実家や結婚などの家族関係、死刑判決を言い渡された後の現在について紹介します。
この記事の目次
廣田雅晴と京都・大阪連続強盗殺人事件の概要
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1984年9月4日、京都府京都市北区と大阪府大阪市都島区で相次いで強盗殺人事件が発生しました。
2件の事件の犯人は廣田雅晴(ひろたまさはる・当時41歳)です。
最初に被害にあったのは京都府警の警察官・鹿野比呂詩(しかの ひろし・当時30歳)巡査で、京都市北区の船岡山公園で廣田雅晴に襲われ、包丁でめった刺しにされて殺害されたうえ、携帯していた拳銃を強奪されます。
続いて廣田雅晴は大阪市都島区の消費者金融に押し入り、奪った拳銃で対応した店員の鈴木隆さん(当時23歳)を射殺。現金60万円を奪って逃走しました。
この流れだけを見ると廣田雅晴は金欲しさに鹿野巡査を襲い、消費者金融に強盗に入ったように見えますが、実際には他の目的もあったと見られています。
実は廣田雅晴も京都府警察の元警察官であり、1978年に西陣警察署から拳銃を盗んで強盗傷害事件を起こして逮捕され、刑期を終えて出所したばかりだったのです。
服役中に廣田雅晴は「警察に嵌められた」「西陣署に復讐する」と周囲にこぼし、京都府警への復讐を画策していたとされます。
京都・大阪連続強盗殺人事件であっさり逮捕された廣田雅晴は、逮捕後には罪を認めて自供しましたが、裁判では一転して無罪を主張。
鹿野巡査から奪った拳銃も見つからず、犯人の指紋なども検出されていないために決定的な証拠がないまま裁判は進みました。
結果、拳銃は未回収、不明な点を残したまま廣田雅晴に死刑判決が下り、事件は幕を閉じました。
しかし、廣田雅晴は一貫して京都府警や西陣署に恨みがあることは窺わせつつも犯行動機について明かしておらず、なんのために無関係な人々まで殺害したのかは判明していません。
廣田雅晴の生い立ち・経歴① 実家・家族
廣田雅晴は1943年1月5日、大阪府大阪市に誕生しました。三男二女の5人兄弟の第3子で次男、父親は運送会社勤務だったとされます。
出生時の姓は「神宮」で、廣田というのは後に結婚する妻の姓です。事件後に従前の苗字に改姓する届け出をしているため、現在の本名も「神宮雅晴」といいます。
一家は雅晴が1歳の頃に母方の実家がある千葉県山武市に引っ越し、以降、両親は農業を営んで子どもを養いました。
しかし、神宮家は決して裕福ではなかったために5人の兄弟のなかで高校に進学したのは雅晴1人だったそうです。
千葉県立春野高等学校に進学した雅晴は学年でもトップクラスの成績を収め、1961年3月に卒業します。
廣田雅晴の生い立ち・経歴② 警察官になる
4月からは都内に出て造船会社に就職しましたが、高所恐怖症であったために約1年で退職し、しばらく司法書士事務所の事務員として働きました。
その後、関西に引っ越して製麺会社に就職。そんな折、1964年6月の深夜に京都市の五条通の路上で職務質問を受けたことがきっかけとなって、警察官を目指すこととなります。
この時、声をかけた警察官は嫌な顔一つせずに真面目に職務質問に応じる彼に好感を持ち、「君は警察官に向いている」と褒めたそうです。
警察官の言葉に心を動かされた廣田雅晴は勤務先に退職届を出して勉強に励み、この年の京都府警の採用試験に合格。
1964年10月1日付で巡査として採用され、警察学校を経て1965年9月からは九条警察署警ら課に配置され、下殿田派出所で勤務しました。
この頃の廣田雅晴の勤務態度は非常に優秀で、周辺住民からの信頼もあつく「ダッコちゃん」という愛称で親しまれていたうえ、検挙率の高さから本部長賞誉を受けており、刑事への登用の話も出ていたそうです。
廣田雅晴の生い立ち・経歴③ 結婚から転落
1967年4月、廣田雅晴は結婚して婿養子に入り神宮から廣田に改姓します。そして妻との間に3人の子どもも誕生しました。
1971年には巡査部長昇進試験を受けて合格。1972年には巡査部長に昇任して峰山警察署外勤課に配置。在勤主任を2年務めて、この間に署長褒章を4回受けたといいます。
そして1974年にはかねてから希望していた京都市内の中心署である西陣署への移動願が受け入れられ、西陣署の外勤課に配置が決まります。
しかし、その3年後の1977年には西陣署十二坊派出所への異動が決定。この異動通知は廣田雅晴にとって屈辱的なもので、周囲には「頑張って巡査部長になっても交番勤めか」と愚痴をこぼしていたそうです。
西陣署から十二坊派出所への異動を左遷と受け取った廣田雅晴は、当時の西陣署署長に強い恨みを抱くように。
私生活でも競馬や競艇などのギャンブルにハマって、消費者金融から借金を繰り返していきました。
こうして金に困った廣田雅晴は、警察官という立場を利用して拳銃を入手し、強盗をしようと画策したとされます。
廣田雅晴の生い立ち・経歴④ 拳銃を盗んで強盗傷害事件を起こす
1978年7月17日、廣田雅晴は勤務先の十二坊派出所の拳銃保管庫から同僚の拳銃を盗み出します。
19日には実弾入りの拳銃が紛失したことが明らかになって派出所内で騒ぎが起こりましたが、廣田雅晴は素知らぬ顔で勤務を続けていました。
そして4日後の21日11時45分頃、京都市下京区上珠数屋町通河原町西入ルの路上で、盗んだ拳銃を使って近畿相互銀行の都支店の店長代理を襲撃。
男性を撃って所持金を奪うつもりでしたが、銃弾はこの男性が乗っていたバイクの風防ガラスにあたっだけで済んだため、強盗は未遂に終わってしまいました。
しかし、廣田雅晴は諦めずに今度は京都市南区東九条石田町にある札ノ辻郵便局に強盗目的で押し入ります。
が、拳銃を出して脅そうとしたところで窓口の女性局員が大声をあげたことから、この女性の頭を銃身で殴打してすぐに自転車で逃走。結局、1円も盗めずに強盗計画は失敗に終わりました。
あっさり逮捕される
拳銃を盗んだ後、京都府警には「田中」なる人物から「自分が十二坊派出所から拳銃を盗んだ」という電話が入っていました。
この「田中」が廣田雅晴と同一人物なのかは不明ですが、廣田は犯行の2日後の7月23日にあっさり逮捕されます。
廣田雅晴は自ら「拳銃を盗んだ犯人から私の自宅に電話がありました」と名乗り出て、京都市南区八条通の六孫王神社の境内に拳銃があると言い出したのです。
その言葉に従ったところ盗まれた拳銃は六孫王神社の境内から発見されたうえ、犯人からの電話について詳しく聞くと廣田雅晴の話は二転三転して辻褄も合わなかったそうです。
くわえて十二坊派出所の拳銃保管庫に入れる人物だったということもあり、疑いの目は廣田雅晴に集中。確たる証拠はありませんでしたが、廣田雅晴が逮捕されたのです。
逮捕後は強盗傷害や強盗未遂など5つの罪で起訴。裁判では懲役7年の実刑判決が言い渡されました。
さらに当然ながら警察官の職も懲戒免職でおわれることとなり、事件の責任をとって京都府警本部長が引責辞任するなど周囲にも影響を及ぼしました。
なお、廣田雅晴は拳銃を盗んだことこそ認めたものの強盗は否認する、嘘のアリバイを話すなど逮捕後の供述内容にも怪しい点が見られたといいます。
服役中
1981年3月26日から加古川刑務所で服役することになった廣田雅晴。当時、同房になった囚人に「出所したら西陣署に仕返しをしてやる」と漏らしていたそうです。
服役中の態度は真面目で、ボイラーマンの2種免許や危険物取扱主任などの資格も取得。
当初は裁判時から西陣署への恨みつらみを『人民新聞』などに発表していたこともあり、満期出所以外ありえないと考えられていましたが、真面目に刑務に服していることや親族が身元引受人になってくれることなどから、1984年8月30日に仮釈放されました。
廣田雅晴が起こした京都・大阪連続強盗殺人事件の詳細
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加古川刑務所を出所した廣田雅晴は、妻子らとともに滋賀県大津市内のホテルで一泊した後、妻に持って来させた現金20万円を受け取って自分の母親とともに東京へ向かいました。
東京に着くと保護観察所に出頭し、その後は千葉県山武市の実家に向かい、そこに数日間滞在。
そして翌月の9月3日の早朝に「東京で仕事を探してくる」と言って実家を出て、そのまま京都へと行ったのです。
廣田雅晴はもともと仕事を探すつもりなどなく、京都で強盗をして金を稼ごうと考えていたとされます。
こうして3日の午前10時頃に京都駅に到着すると、千本堂里沿いにある金物店で包丁1本を購入し、銃砲火薬店でボウガンと矢を購入。この時購入した包丁が、鹿野巡査殺害の凶器となりました。
拳銃を奪うために巡査をおびき出す
9月4日、引き続き京都に滞在していた廣田雅晴は、9月4日12時40分頃に船岡山公園の公衆電話から十二坊派出所に電話をして、虚偽の通報をします。
そして12時50分頃、駆け付けた鹿野巡査の右肩や太ももなどを包丁でめった刺しにしました。
それからうつ伏せになって倒れ込んだ鹿野巡査から拳銃を奪い取り、巡査の背中に発砲して殺害。
その後、廣田雅晴は船岡山公園の近くにある「西陣大映」という映画館に入り、リアルゴールドを飲んで5分ほど過ごした後に出て行ったといいます。
この時に館内で11人ほどの人が廣田雅晴を目撃しており、返り血を浴びて異様な様子だった、小さな紙袋を抱えていたといった証言が出ています。
消費者金融に強盗に入る
船岡山公園で鹿野巡査を殺害した後、廣田雅晴は大阪市に向かいました。
そして15時30分頃に京阪本線の京橋駅北にある喫茶店「あんどれー」に入店してかき氷を食べ、10分ほどで店を出ています。
このかき氷のカップと「西陣大映」のゴミ箱から発見されたリアルゴールドの空き瓶から、廣田雅晴の指紋が検出されました。
そして喫茶店を出た後、16時頃に大阪市都島区東野田町二丁目2ー20の永井ビルにあった消費者金融「ローンズタカラ京橋店」に押し入ります。
当時、店には鈴木隆さん(当時23歳)と26歳の女性店員の2人がいました。
廣田雅晴はまず、カウンターで新聞を読んでいた鈴木さんに拳銃を向けて「金を出せ」と脅しましたが、玩具のピストルだろうと高をくくった鈴木さんは「冗談でしょう?」と笑って取り合わなかったそうです。
これに腹を立てた廣田雅晴は鈴木さんに向けて発砲。胸に銃弾を浴びた鈴木さんは、そのまま失血死してしまいました。
鈴木さんを殺害した後は、女性店員に銃口を向けて金を出すように脅して現金60万円を奪って逃走します。
逃走
ローンズタカラ京橋店の女性店員はすぐに警察に通報、京都府警の刑事らが駆け付けました。
先に殺害された鹿野巡査も絶命する前に無線機の緊急発信ボタンを押していたことから、すぐに遺体が発見されており、この時点ですでに西陣署の署員らが周囲に聞き込みにあたっていました。
そして女性店員やほかの目撃者の証言、使用された凶器、所持していた紙袋の絵柄などから2つの事件は同一犯によるものだと断定されます。
一方、現場から逃げた廣田雅晴は200mほど離れた大阪市北区曾根崎一丁目のソープランド「トルコルビー」を訪れた後、曾根崎二丁目のピンクサロン「サロンサファイヤ」に入店しました。
ピンクサロンではホステス全員を指名し、ホステスに金を渡して着替えを買って来させています。
そして店内で着替えたうえ、15万円ほどの支払いをして店を後にしました。なお、この時、廣田雅晴は接客したホステスに「自分は元警官だ」「京都府警に恨みがある」などと話していたそうです。
店を出た後は大阪駅からタクシーで京都駅八条口に向かい、そこから新幹線で東京駅に移動。
江戸川付近で犯行時に着ていた服と、逃走用にホステスに買って来させた鞄を捨てて、千葉県に戻りました。
逮捕
一方、警察は9月5日の時点で2件の事件の犯人は廣田雅晴ではないのかと考えていました。
目撃証言から、犯人には以下のような外見的特徴があったといいます。
・年齢は35~40歳程度
・身長は高くなく、160~165 cm
・色黒で小太り
・短髪(スポーツ刈り)
これらの特徴はすべて廣田雅晴と一致し、そのうえ「元警察官」「京都府警に恨みがある」と語っていたことから、捜査線上に浮上したのです。
さらに目撃者たちに廣田雅晴の写真を見せたところ、「現場付近でこの男を見た」という証言が相次ぎ、警察は彼が犯人だと断定します。
折しも9月6日には韓国の全大統領の来日が決まっていました。
過去には在日韓国人の文世光が、同じく警察から盗んだ拳銃を使って当時の韓国大統領・朴正煕大統領を暗殺しようとしたことがあったため、警視庁や警察庁は廣田雅晴の狙いが全大統領である可能性を考えて警戒態勢に入ります。
また、千葉県警も廣田の実家周辺に人員を配備して待ち伏せを行いました。
一方、東京を出て実家に向かった廣田雅晴は、あたりに警察が張っているのを察知して身を隠していました。
こうして犯行から一夜明けた9月5日、廣田雅晴はなぜか自ら警察に電話をして挑発行為を行います。
午前7時48分、潜伏していた千葉市内の公衆電話から西陣署に電話をかけて署長を出すように言い「お前らが捜している廣田や。京都にはおらん。千葉におる」と告げて切電。
さらに実家の母親にも電話をかけていたのですが、この電話を逆探知した結果、潜伏場所が千葉市内だと特定できたために、警察庁はこの事件を広域重要115号事件に指定。
新たな被害者が出る前に犯人を逮捕するべく廣田雅晴の顔写真を公開しました。
その後、15時過ぎに廣田雅晴は千葉市都町からタクシーに乗って実家に向かったところ、張り込んでいた警察官に見つかって任意同行を求められます。
これを拒まなかったために15時45分頃に廣田雅晴の身柄は確保され、その約2時間後の17時30分に令状が執行。逮捕されることとなりました。
廣田雅晴の取り調べでの態度
千葉で逮捕された廣田雅晴は、新幹線で護送されて京都まで移動しました。
この車両には新聞やTVなどの記者やカメラマンも同乗しており、報道陣から「どうしてあっさり捕まったのですか?」という質問が投げかけられました。
これに対して廣田雅晴は「京都府警にヘタうたせても、千葉県警にヘタうたすわけにはいかんのや」と答えています。
千葉県警に任意同行を求められたから応じたが、相手が京都府警の警官なら抵抗して逃げ、恥をかかせてやったと言いたいのでしょう。
9月6日の午前1時49分、西陣署に到着した廣田雅晴は強盗殺人や銃刀法違反などの罪状で起訴され、因縁のある西陣署内で本格的な取り調べが開始します。
しかし、これまで散々、警察を挑発するような言動をしてきたにもかかわらず取り調べになると容疑を完全否認し、何も語らなくなったのです。
その後、9月17日になって「事件現場にはいた」と話すようになったのですが、「刑務所で知り合った男から覚せい剤取引を求められて仲間と船岡山公園に行ったら、鹿野巡査に職務質問をされた。それで一緒にいた仲間が巡査を殺してしまった」などと虚偽の供述を繰り返しました。
そのため勾留期間中に京都府警は犯行に関する供述を引き出せずに、廣田雅晴は釈放されることとなります。
大阪府警が再逮捕
釈放された9月27日、廣田雅晴は直ちに大阪府警に再逮捕されます。消費者金融での強盗と店員殺害については大阪府警の管轄であったため、逃亡の隙を与えずに府警が動いたのです。
当初は、大阪府警の取り調べに対しても「自分は覚せい剤取引で京橋に行っただけだ」という主張を崩さず、「ピンクサロンで使った金も、覚せい剤取引で得たものだ」などと話して、真面目に応じる様子を見せませんでした。取り調べ中に窓ガラスを割って逃亡を図るなどしていたそうです。
しかし、「一緒にいた仲間」として名前のあがった3人の男が、裏付け捜査の結果、事件発生時に服役中であったり、すでに死んでいたりと犯行に関われない者ばかりだったことから、廣田雅晴の供述は崩されることとなります。
こうして観念したのか、10月10日に態度を変え、自ら「拳銃や包丁などの凶器は東京の江戸川競艇場付近に捨てた」と供述。
さらに11日には「京都の事件も大阪の事件も自分がやった。共犯はいない」と自供したため、10月19日に大阪地検は廣田雅晴を強盗殺人や銃刀法違反などの罪で京都事件と大阪事件を一括起訴しました。
廣田雅晴の裁判と判決
廣田雅晴の裁判は最高裁まで争われ、一審から一貫して死刑判決が言い渡されていました。ここでは裁判の流れと判決理由について見ていきましょう。
第一審
廣田雅晴の初公判は、1984年12月24日に大阪地裁で開かれました。
自供が得られたということで起訴したものの、まだ凶器は見つかっておらず、本人の供述に従って江戸川競艇場周辺をくまなく探しても発見できない状態でした。
こうして間接証拠のみを頼りに裁判が始まると、廣田雅晴は一転して容疑を否認。「大阪府警の取調官から暴行を受けて自白を強要された」と言い出したのです。
なお、廣田雅晴が主張した「大阪府警の暴行」というのは、以下のようなものだったといいます。
捜査官は新たに長さ約二〇センチメートル、幅約五ミリメートルの先の尖ったトタン板様の物をライターで熱した上、これを先にたばこの火で火傷を負わせた箇所に押しつけて更に火傷を負わせるという暴行を加え、また陰茎を蹴りつけ、睾丸にライターの火を近づけ、被告人が尿を床上に漏らすとその頭髪をつかんで尿に顔を押しつける暴行を加えたため、被告人はこれに耐えられずやむなく署名指印に応じた
実際、廣田雅晴の身体には逮捕時にはなかった火傷跡や創傷などがあり、取り調べ中に何らかの暴行を受けていた可能性はゼロとは言えません。
しかし、暴行を受けたとされる当日の接見などでは弁護士にそのことを伝えていないなど不自然な点も見られたことから、裁判官は「暴行があったとしても、自供には任意性がある」と判断。
さらに逮捕後に廣田雅晴が虚偽の供述を繰り返していたことをあげて、「被告人の供述を全面的に信じることはできない」としました。
そして本人の供述よりも、目撃者の証言や犯行現場近くから廣田雅晴の指紋が検出されていることなどの方が信用に値するとして、廣田雅晴は有罪と断定。
「被告人は犯行を自供したが、これは自分に有利になる情報を最小限認めただけで、捜査に協力したとは言えない。反省による自供とも言えない」「前回の事件を経てなお、被告人を支えようとした家族や保護司ら周囲にも恵まれ、経済的にも困窮していなかった」と、廣田雅晴に情状酌量の余地がないことも指摘しました。
そのうえで「自己本位な物欲の赴くまま犯行に及んでおり、更生の可能性はない」として、1988年10月25日の判決公判で死刑を言い渡しました。
控訴審
廣田雅晴は死刑判決を不服として即日控訴し、1991年1月25日には大阪高裁で控訴審の初公判が開かれました。
控訴審でも自白は強要されたもので、自分はやっていないと無罪を主張。さらに弁護人は「死刑制度そのものが違憲だ」として減刑を訴えだしました。
しかし、減刑を求めるだけの新しい証拠があったわけでもなく、結局は一審と同じ話しか出なかったため、1991年4月30日に大阪高裁は公訴棄却の判決を下します。
上告
控訴棄却の決定を受け、廣田雅晴は1991年5月10日までに最高裁に上告して減刑を求めました。
が、やはり無罪を裏付けるだけの新しい証拠や証人を出すことはできず、控訴審に続いて自白に任意性がないこと、死刑制度が違憲であることだけを上告理由としていたため、上告棄却となります。
こうして1998年1月26日に、廣田雅晴の死刑が確定しました。
なお、最高裁弁論後に廣田雅晴は改姓届を出しており、姓を従前の「神宮」に戻しています。
廣田雅晴の現在① まだ死刑執行されていない
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死刑判決を言い渡された後、廣田雅晴は大阪拘置所に収監されることとなりました。
上告棄却後も7回に渡って再審請求をしており、未だに自分の犯行を認めていません。
再審請求はいずれも棄却されており、費用の捻出が難しくなった廣田雅晴は2013年に手記を出版して弁護士費用等を稼ごうと思い立ちます。
しかし、書き終えた『極悪死刑囚の笑福転倒』という手記を信書として知人の送付しようとしたところ、大阪拘置所がこれを認めなかったために国家賠償請求を起こすことに。
この訴訟では、一審で廣田雅晴の主張が認められて大阪府は賠償金の支払いが命じられましたが、控訴審、上告審では「手記の内容に警察組織や内閣総理大臣などへの誹謗中傷が多分に含まれており、出版社に送ったところで刊行されたとは思えない」という理由で廣田側が敗訴。
結局、手記を出版して再審請求をするという目論見も失敗に終わりました。
2009年に自殺未遂を起こす
2009年11月16日の17時34分頃、廣田雅晴は大阪拘置所内でシーツを使って首吊り自殺を図りました。
房内には親族に宛てた遺書4通があり、すぐに発見されたために自殺は未遂に終わっています。
現在も死刑執行されていない
死刑確定から25年が過ぎましたが、2024年現在、まだ廣田雅晴の死刑は執行されていません。
法務省は死刑確定までの期間は平均で約7年9ヶ月と発表していますから、いくら再審請求を繰り返しているからといって25年というのは長すぎる気がします。
これに不満を持つ人は少なくないようで、ネット上でも「有罪を断定できる証拠がないから時間がかかっているのかもしれない」という声がある一方で、「廣田が元警察官だから、死刑執行を先延ばしにしてやっているのではないか」と批判する意見も見られました。
廣田雅晴の現在② 家族のその後
逮捕前に廣田雅晴は家族に電話をしており、その際にTVや新聞で事件を知った子どもから「お父さんは人殺しなんてしてないよね?」と言われたそうです。
また、母親も裁判にこそ出廷しなかったものの捜査員に「被害者にもご遺族にも謝罪の言葉さえありません。私が生きているうちに息子を死刑にしてください」と心境を吐露していたといいます。
最初の拳銃窃盗、強盗未遂事件の後も廣田雅晴のことを信じて出所を待っていた母親や妻、子供たちの気持ちを考えると、不憫としか言いようがありません。
なお、廣田雅晴は2008年に参議院議員の福島瑞穂氏が死刑確定者に向けて行ったアンケートに対し、「(自分の死刑が決まった後)娘は自殺したし、息子も拉致された」と回答していたそうです。
このアンケート回答では支離滅裂なことを書いているため、子どもが自殺したという話は廣田雅晴の妄言の可能性が高いと思われます。
廣田雅晴をモデルにした映画『十階のモスキート』
廣田雅晴は1983年7月公開の崔洋一監督の映画『十階のモスキート』のモデルにもなりました。
映画公開時はまだ京都・大阪事件は起きていなかったため、最初に起こした拳銃窃盗、強盗未遂事件がモチーフの作品で、廣田雅晴にあたる役を若い頃の内田裕也氏が演じてでいます。
廣田雅晴についてのまとめ
今回は1984年に連続強盗殺人事件を起こした元警察官・廣田雅晴について、生い立ちや経歴、起こした事件の詳細、裁判を中心に紹介しました。
真面目で同僚や住民から慕われていたという鹿野巡査を殺害したことも、たまたま出勤していただけの鈴木さんを殺害したことも到底許せません。
しかし、廣田雅晴は本当に自分を左遷したという恨みだけでここまでしつこく京都府警を恨んでいたのでしょうか。
死刑まで時間がかかるのならば、判決が確定している事件とはいえ被害者遺族のためにもう少し真相を明らかにすることはできないのか、何も新しいことは聞き出せないのかと歯がゆく感じてしまいます。