生坂ダム殺人事件の犯人と真相!場所や被害者・現在まで紹介

生坂ダム殺人事件は1980年に起きた殺人事件です。この記事では、長らく自殺と結論付けられていたものの2000年になって犯人が捕まるという急展開を見せた生坂ダム殺人事件が起きた場所や事件の真相、被害者と犯人、現在について紹介していきます。

生坂ダム殺人事件の概要

 

1980年(昭和55年)3月29日、長野県東筑摩郡にある生坂ダムの湖底から、ビニール製のロープで体を縛られた男性の遺体が発見されました。

 

遺体は長野県麻績(おみ)村に住む会社員、小山福来(よしき・当時21歳)さんのもので、小山さんは数日前に友人の女性と出かけてから女性を残して行方不明になっており、捜索願を出されていたとのことです。

 

行方不明になる前、小山さんは面識のない男に声をかけられ、友人の女性を残して男の車に乗っており、さらに遺体は縛られた状態で発見されたことから、殺人事件の可能性が高いと見られました。

 

ところが長野県警はなぜか小山さんの死因を「自殺」として片付けたのです。

 

しかし、2000年になって小山さんを車に乗せて連れ去っていた人物・太田健一(犯行当時31歳)が「自分たちが小山さんを殺害した」と供述。当時、別件で刑務所に収監されていた太田健一は長野県警豊科警察署(現在の安曇野警察署)の署長に手紙を出し、犯行を自白しました。

 

これにより事件は一応、本当の意味で解決を迎えましたが、自供を得られたのは事件から20年が経過した2000年のことでした。その後の捜査で警察は2003年に太田健一を殺人容疑で書類送検しましたが、すでに殺人の公訴時効が成立していたことから不起訴処分になっています。

 

 

 

生坂ダム殺人事件が起きた場所

 

出典:https://ja.wikipedia.org/

 

生坂ダム殺人事件の当日、小山さんは女性の友人と松本市内にある松本運動公園(現在の信州スカイパーク)に遊びに来ていたといいます。

 

松本運動公園は1978年の国体開催時に美しく整備されており、事件当時は周辺の若者の間で人気の高いデートスポットだったそうです。

 

この松本運動公園の駐車場に車を停め、友人女性と小山さんが話をしていたところ、太田健一が接触してきたといいます。

 

太田健一は一緒に来るように小山さんに言い、車に乗った小山さんが連れて行かれたのが殺害現場となる生坂ダムです。

 

 

生坂ダムは長野県東筑摩郡生坂村にあり、松本市内からは国道19号線を北上していくと到着します。

 

 

 

生坂ダム殺人事件の詳細① 被害者と犯人の関係

 

出典:https://www.chihayafuru.jp/

 

1980年3月1日、被害者の小山福来さんが友人女性とともに松本運動公園の駐車場にいたところ、1台の黒い大型車が近づいてきました。

 

大型車から降りてきた男・太田健一は、小山さんの車に近づき「話があるから、こっちの車に乗ってくれないか」と話しかけてきたといいます。

 

太田健一と小山さんは面識がありませんでしたが、友人女性の証言によるととくに争うような様子もなく、小山さんは車を降りて2人について行ったそうです。

 

のちに小山さん殺害を自供した際に太田健一は「人違いで小山さんに声をかけてしまった」ことを明らかにしています。

 

太田健一は知人から「最近、知らない奴から車で尾行されている気がする」と相談を受けており、この日はその知人と松本運動公園に来ていたといいます。

 

そして知人が、駐車場に停められた小山さんの車を見て「自分をつけているのはあの車だ!」と言ったために、太田健一が小山さんに接触したのです。

 

 

生坂ダム殺人事件の詳細② 犯行動機・事件の真相

 

出典:https://blog.goo.ne.jp/

 

太田健一と知人は車に乗り込んできた小山さんから話を聞きました。そこで「どうやら人違いだったらしい」ということに気がついたといいます。

 

慌てた太田らは松本運動公園に小山さんを送り返そうと引き返しましたが、なぜか駐車場から小山さんの車はなくなっていました。

 

これを見た太田らは、一緒にいた小山さんの友人女性が自分たちが彼を拉致したと警察に通報しに行ったのではないかと思ったそうです。

 

女性の行方を探すべく、彼女の家に電話をかけ帰宅しているか確認するように小山さんに迫りました。小山さんは言われたとおりに電話をしましたが、彼女は帰宅していません。

 

太田健一は「どうしても女性の行き先を突き止めないといけない。彼女の連絡先を教えろ」となおも小山さんに迫りましたが、「知らない人間に女性の連絡先は教えられない」と応じなかったといいます。

 

この時点で太田らは単に勘違いで小山さんを連れ出してしまい、間違いに気づいて謝って送り返しただけなのですから、万が一警察に事情を聞かれたとしても、事実を話せば大事にはならなかったはずです。

 

実は、太田健一にはどうしても警察に行きたくない事情がありました。違法薬物を使用しており、小山さん拉致ではお咎めがなくとも、薬物の所持・使用で逮捕されるおそれがあったのです。

 

太田健一は生坂ダムに小山さんを連れて行くと、途中で購入したビニール製の洗濯ロープで小山さんを縛り上げ、女性の連絡先を教えるように脅したといいます。

 

しかし、体を縛られてなお小山さんが口を割らなかったため、生きたまま生坂ダムに放り込んだとのことです。

 

 

生坂ダム殺人事件の詳細③ 捜索願が出される

 

事件が発生した3月1日の23時頃、小山さんの母親のはつ恵さんは麻績村の駐在所に向かい、「友人とともに松本運動公園にいた息子が、見知らぬ男の車に乗せられてどこかへ連れ去られた」と相談しました。

 

駐在所は松本警察に報告を入れ、2日後の3月3日には捜索願が出されたといいます。事件性が疑われるようなシチュエーションでありながら、なぜ相談から捜索願の提出まで2日も間が空いたのでしょうか。

 

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これについては殺人事件であったことが明らかになってからも取り沙汰されたのですが、実ははつ恵さんは「息子が行方不明になった3月1日に松本署で捜索願を出した」と証言しています。

 

しかし、長野県警は「捜索願を受理したのは3月3日」と記録しているのです。長野県警は「相談があった3月1日から小山さんの行方は捜査していた」と述べていますが、その後の対応を見る限り、本当に1日から捜査をしていたのかは疑問が残ります。

 

 

 

生坂ダム殺人事件の詳細④ 遺体発見時の状況

 

殺害から4週間が経った3月29日、放水作業で水位が下がった生坂ダムの湖底から、ロープで縛られた小山さんの遺体が発見されます。

 

遺体には頸部の索条痕以外に目立った外傷がなく、検死の結果、小山さんの死因は溺死であることもわかりました。

 

そして警察は以下の点を根拠に、「小山福来さんは自殺をした。小山さんの死に事件性はない」と結論づけたのです。

 

・縛られていたとはいえ、ロープも自分で縛ろうと思えばできなくもない縛り方だった

 

・行方不明になる前に知らない男性の車に乗ってどこかへ行ったとはいえ、争うような様子がなかったことから両者の間にトラブルはなかったと思われる

 

・小山さんは「死にたい」など、厭世的な言葉を周囲にこぼすことがあった

 

生坂ダム殺人事件が起きた当時、長野県警は約120人の捜査員を投入したと発表していますが、太田健一ら犯人が乗っていた黒い大型車の行方さえ掴めていませんでした。

 

この頃、長野県警は同時期に起きた「富山・長野連続女性誘拐殺人事件」に大幅に人員をとられており、生坂ダム殺人事件の捜査はおざなりになっていたのではないかと指摘されています。

 

富山・長野連続女性誘拐殺人事件は、1980年の2月から3月にかけて発生した身代金目的の誘拐・殺人事件です。富山県、長野県の2箇所でそれぞれ若い女性が誘拐され、遺体で発見されました。

 

犯行に使われた車から「赤いフェアレディ事件」とも呼ばれたこの事件は、当時社会からも大きな注目を集めていました。

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そのため、長野県警も次の被害者が発生する前に犯人を逮捕しようと躍起になっていたのです。

 

そしてその影響でほかの事件への対応が手薄になり、生坂ダム殺人事件もきちんと捜査されずに自殺で片付けられてしまったと見られています。

 

実際に遺体が発見された当日こそ生坂ダム殺人事件に投入された捜査員は118名でしたが、その日のうちに自殺の可能性が示唆されると、翌3月30日には79名、翌々日3月31日には67名と、事件にあたる捜査員の数も激減していったといいます。

 

 

 

生坂ダム殺人事件の詳細⑤ 犯人からの突然の自供

 

出典:https://www.nippon-times.net/

 

自殺ということにされてしまった小山さんの死ですが、2000年4月になって事件性があったことが明らかになります。

 

覚せい剤使用で高松刑務所に服役中であった太田健一が、長野県警豊科警察署(現在の安曇野警察署)の署長に宛てて「人を殺した。このことについて話をしたい」という旨の手紙を出したのです。

 

豊科警察署の署長は手紙について松本警察署に報告、長野県警の捜査一課も手紙の内容を確認して、再度、生坂ダム殺人事件について捜査することになったのでした。

 

ところが太田健一の自供を裏付けようとしても、事件から20年もの時間が過ぎていたために生坂ダム殺人事件の捜査資料の大半が保存期間切れで廃棄されており、捜査は難航しました。

 

そのため長野県警の捜査一課は事件当日に太田健一と一緒にいた知人の男を探し出し、2000年6月に事情聴取をおこないました。聴取の結果、2人の供述はほぼ一致していたといいます。

 

しかし、この聴取の後に知人の男は姿をくらましてしまい、この次に警察が彼に接触できたのは2001年7月、さらに3回目の接触は2002年10月と、事情を聞くのさえ困難な状況だったそうです。

 

そして事件現場の再検証などを経て、ついに4回目の接触となる2003年7月に知人の男の取り調べが終わり、翌8月に太田健一の再々取り調べをおこなった結果、手紙にあったとおり小山さんは殺害されていたことが明らかになったのです。

 

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こうして2003年10月6日にようやく太田健一を書類送検したのですが、事件が起きた当時の殺人事件の時効は15年でした。そのため太田健一は起訴されることなく、書類送検の数日後に刑期を終えて高松刑務所を出所しています。

 

 

 

生坂ダム殺人事件の現在① 遺族のその後

 

出典:https://www.kinokuniya.co.jp/

 

自殺でダムに身を投げたという結論に納得がいかなかった遺族は、独自に調査を続けていました。小山さんの母親のはつ恵さんと妹の順さんは、刑務所に収監されている太田健一に会いに行き、直接事件当日の話しも聞いたそうです。

 

この時、太田健一ははつ恵さんと順さんに「手紙で自白をしたことについて、警察からは『もう自殺で終わったことなのに、面倒なことを』と言われた」と語っていたそうです。

 

また、警察が太田健一の手紙について遺族に報告したのも2003年の書類送検直前であったといい、3年間も事件の真相を遺族に隠していたことも明らかになっています。

 

出所直前に慌てて高松刑務所に向かい、太田健一に面会したはつ恵さんは、「これから寒くなります、お体にお気をつけて」と伝えて帰宅したとの話もあります。

 

息子を失くし、警察からも見放されて家族だけで支え合ってきた20年の間に、はつ恵さんのなかで犯人が憎いという気持ちよりも真相を知りたいという気持ちが強くなったのかもしれません。

 

小山さんの妹の順さんも『犯人よ、話してくれてありがとう』というタイトルで、兄を失くしてからの23年間をまとめた手記を出版されています。

 

真相こそ明らかになりましたが、生坂ダム殺人事件については刑事訴訟の時効だけではなく、民事訴訟の時効も成立しており、損害賠償請求も叶いませんでした。

 

長野県警は2003年9月になってやっと捜査のミスを認めて遺族に謝罪をしましたが、それだけで片付けてよいのか、社会からも疑問の声が多くあがりました。

 

 

 

生坂ダム殺人事件の現在② 犯人のその後

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薬物使用で収監されていた太田健一は、2003年10月11日に高松刑務所を出所しました。しかし、その4日後の10月15日に再び覚せい剤取締法違反(使用)の疑いで愛知県警に逮捕されたと報じられています。

 

「怪しい車が停まっている」との通報で駆けつけた警察官に尿検査を受け、逮捕されたといいますが、逮捕時に太田健一が乗っていた車も盗難車だったそうです。

 

これに対してネット上では「 生坂ダム殺人事件の被害者が亡くなったのだって、結局はこいつが薬物依存だったせいなのに、まったく反省していない」と憤りの声があがっています。

 

一方で、「出所から1週間も経ってないのに、どこから覚せい剤を手に入れたんだろう?なんかおかしくない?」「話されたら困ることがあるから、警察が事件をでっちあげて刑務所に戻したのでは?」と再逮捕を疑問視する声も寄せられていました。

 

太田健一は面会に来たはつ恵さんに対して頭を下げ、「出所したら(小山さんの)お墓をお参りしてもいいですか?」と尋ねていたそうです。しかし出所後すぐに再逮捕ということは、おそらくお墓参りもできていないでしょう。

 

 

 

生坂ダム殺人事件についてのまとめ

 

今回は1980年に発生し、2003年になって真相が明らかになった生坂ダム殺人事件について紹介しました。

 

生坂ダム殺人事件は被害者の小山さんになんの落ち度もなく、人間違いで拉致をされたうえに友人をかばって殺されるという非常に後味が悪く、かつ誰もが被害者になり得る恐ろしさをはらんだ事件でした。

 

しかし、この事件でもっとも問題視されたのは警察の捜査態度です。亡くなった小山福来さんのご冥福をお祈りするとともに、このように長らく遺族を苦しめるような怠慢な捜査がおこなわれることがないよう願いたいです。

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