坂口弘は極左テロリスト組織・連合赤軍のナンバー3とされる人物で、あさま山荘事件の総大将格でもありました。この記事では坂口弘の生い立ちや経歴、実家、家族、結婚、連合赤軍での活動、逮捕・死刑判決が出た後の現在について紹介していきます。
この記事の目次
坂口弘が所属した連合赤軍の概要
連合赤軍は、1971年に組織された新左翼団体です。新左翼団体とは共産党などの既存の左翼政党に対する「戦わない左翼」「権力にしがみつき、命を売った団体」などの批判から生まれた団体で、急進的な革命を目指して過激な暴力行為やテロ行為を厭わないという特徴を持ちます。
第二次世界大戦後、アメリカやヨーローッパ諸国、日本などで活動が盛んになり、団体の構成員は大学生や青年労働者など、若年層が主です。
連合赤軍の母体となった「共産主義者同盟」も、60年安保闘争をけん引した新左翼党派でした。
内ゲバによる死者の発生、幹部の検挙や除名などが続いたことから、共産主義者同盟が1970年に完全に解体。多数の党派が分裂、誕生しており、そのなかに「共産主義者同盟赤軍派(赤軍派)」という団体がありました。
この赤軍派と「日本共産党革命左派神奈川県委員会」が合流して成立したのが、坂口弘の所属した連合赤軍です。
「連合」と聞くと大規模な団体をイメージしますが、当時の赤軍派はよど号ハイジャック事件などで多数の逮捕者を出して弱体化しており、革命左派はもともと小規模な団体でした。
なお、革命左派は「日本共産党」を名乗っていますが、実態は過激な思想から日本共産党を除名された者や離党した者が集まって結成された団体です。革命左派は毛沢東を信奉し、銃社会を目指していました。
当時の赤軍派は「M作戦」と呼ばれる金融機関強盗事件で資金は潤沢にあったものの、テロ活動のための武器がなく、反対に革命左派は銃砲店強盗事件などを起こして猟銃を手に入れていたものの、資金がありませんでした。
利害が一致した赤軍派と革命左派は統合し、新団体・連合赤軍のトップである委員長には赤軍派幹部・森恒夫(事件当時28歳)が、ナンバー2である副委員長には革命左派の委員長・永田洋子(事件当時27歳)が、そしてナンバー3である書記長に坂口弘(事件当時25歳)が就任しました。
坂口弘が起こした「あさま山荘事件」発生までの流れ
1971年7月15日に結成された連合赤軍は、翌8月には殺人事件を起こしていました。
合流前からそれぞれ強盗事件などを起こしてマークされていたことから、警察は連合赤軍のメンバーを検挙するべく動き始めていました。そのため、都市部での潜伏は不可能だと考えた連合赤軍は山中に「山岳ベース」という隠れ家を作って共同生活を始めます。
連合赤軍のメンバーはこの山岳ベースから逃走した男女2名を森恒夫の命令で殺害し、千葉県印旛沼に遺体を遺棄したのです。(印旛沼事件)
その後も森恒夫は「総括」という名のリンチで次々にメンバーを殺害していきました。そうして、最終的に群馬県の榛名山の山岳ベースに集まった29名のメンバーのうち、12名がリンチで殺害されるという惨事に至ったのです。(山岳ベース事件)
さらに生き残った17名のうち、男女あわせて4名が脱走。1972年2月17日には、森恒夫、永田洋子を含む男女4名が群馬県の妙義山湖近くで警察に逮捕されることになります。
こうして坂口弘ら9名のみが当時、潜伏していた妙義山ベースに残ることとなり、9名は警察から逃げるために軽井沢へと移動しました。
しかし、軽井沢へ逃げた後も買い出しに出た男女4名が軽井沢駅で警察に見つかって逮捕され、最終的に坂口弘、坂東國男、吉野雅邦、加藤倫教、加藤倫教の弟(当時16歳であったため、実名は非公開)の5名のみが残ったのです。
坂口弘が起こした「あさま山荘事件」
1972年2月19日午前、軽井沢のレイクニュータウン別荘地付近の雪洞に隠れていた坂口弘ら5名は、ラジオで買い出しに出た4名が逮捕されたことを知ります。
捜査の手が迫っていることを恐れた坂口弘らは、レイクニュータウンにあった無人の別荘「さつき山荘」に逃げ込み、そこで食べ物を漁るなどして休憩を取っていました。しかし、通りかかった長野県警察機動隊が、別荘内に人の気配を察知。建物の外から、外に出てくるよう声をかけます。
坂口弘は警察の問いかけに答えずにいきなり発砲し、機動隊側も応じたことから銃撃戦が繰り広げられました。
軽井沢署にも連合赤軍の残党が発見されたとの連絡が入り、警察の応援が向かうなか、15時20分頃に坂口弘らはさつき荘を出て、近くにある「浅間山荘」に侵入します。なおこの時、銃撃戦で機動隊側には2名の負傷者が出ていたとされます。
当時、浅間山荘の管理人と宿泊客は外出しており、建物内にいたのは管理人の妻1人でした。坂口弘は、管理人の妻を人質に浅間山荘に立てこもることを決意。
警察もすぐに浅間山荘にたどり着きましたが、人質をとられているうえに突入のための十分な人員も集まっていないことから、山荘前での待機を余儀なくされます。そうこうしているうちに坂口弘らは山荘にバリケードを築き、籠城の準備を続けました。
籠城開始
籠城2日目の2月20日、坂口弘、坂東國男、吉野雅邦の3人は今後について話し合い、警察官に降伏せずに浅間山荘で徹底抗戦する決意を固めます。
この時、警察の包囲網を強行突破する案や、警察に対して何も要求がないのであれば人質を解放するべきでは、という案も出たといいますが、坂口弘はこれらの案に反対したといいます。
食料については浅間山荘内に6人分×20日分の備蓄があったことから、坂口弘らは1ヶ月は立てこもれると考えていました。
なお、人質を盾にせずに坂口弘が徹底抗戦を選んだのは「総括で死んだ仲間に顔向けができない」という理由だったそうです。
当初は人質の口にハンカチを詰め、後ろ手に縛り上げて椅子に拘束していたといいますが、坂口弘は20日に人質の拘束を解いていました。これについても逮捕後に「女性の姿が総括で死んだ仲間に姿が重なって、つらい気持ちになったため」と供述しています。
人質の拘束は坂口弘の独断で解いたそうですが、他のメンバーも同じ気持ちだったのか誰も異を唱えなかったそうです。また人質の女性とは雑談することもあり、危害を加えることはなかったといいます。
籠城3日目となる2月22日。坂口弘らは山荘に立てこもって発砲を繰り返すのみで、依然として何も要求を口にせず、警察の呼びかけにも応答せずにいました。
立てこもっていた5名は身元が明かされるのを恐れて、コードネームで互いを呼び合うように決めました。しかし、先に侵入したさつき荘に残った指紋から吉野雅邦の身元が割れ、行動を共にしていると思われる坂口弘も浅間山荘にいると考えた警察は、坂口と吉野の母親を山荘前に呼んで説得をさせようと試みます。
この時、坂口弘は「うちの実家は田舎だから、自分がこんなことをしているのがわかったら家族まで村八分にされるかも知れない」と弱気な発言をしていたといいます。
死傷者の発生
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2月22日の正午頃、画家を名乗る男性と信越放送の記者が包囲網の中に立ち入り、男性を私服警官だと勘違いした坂口弘が発砲した弾に撃たれるという事件が起こりました。
銃撃された直後は意識があった男性ですが、その後、脳内に弾が留まっていたことにより死亡。あさま山荘事件で初の死者が出ました。
さらにこの日の14時40分頃、坂東國男と吉野雅邦の発砲で警察官2名が負傷。うち1名は、話ができなくなるほどの重症を負いました。
23日になると警察も事態の早期収束を図り、照明弾や催涙ガス弾を使うようになり、放水でのバリケードの破壊を試みます。
219時間に及ぶ籠城の結末
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2月28日、9時55分の最後通告にも応じなかったことから、警察はついに浅間山荘への突入を開始しました。突入時の様子はTVで中継され、90%近い視聴率を叩き出したことで知られます。
事件が解決したこの日は、警察側に多数の死傷者が発生しました。まず午前11時27分頃、警視庁特科車両隊中隊長の警部が流れ弾に当たって死亡。
その後も11時47分頃、第二機動隊伝令の巡査が狙撃されて左目失明。11時54分頃、第二機動隊隊長の警視が狙撃されて死亡。11時56分頃、第二機動隊4中隊長の警部が頭部に被弾して重症を負うなど、銃撃戦は激しさを増していきました。
そして18時10分、ついに坂口弘ら5名全員逮捕、人質の解放で219時間にも及ぶあさま山荘事件は幕を閉じました。
なお、TVで息子の逮捕を知った坂東國男の父親は、2月28日のうちに首を吊って亡くなったといいます。
坂口弘の生い立ち・経歴
坂口弘は、1946年11月12日に千葉県富津市内で生まれました。
中学時代に両親が離婚しており、その後は母親に女手一つで育てられたといいます。千葉県立木更津高等学校卒業を卒業した後は、東京水産大学の水産学部増殖学科(現在の東京海洋大学・海洋科学部)に進学し、水泳部に入部します。
水泳部に入部したのは、当時、東京水産大学の自治会会長で60年安保闘争に参加していた新左翼の活動家・川島豪が同部に在籍していたからでした。
60年安保闘争の頃、坂口弘はまだ中学生でしたが、この頃から学生運動に興味を持っており、民社党を支持していたそうです。
川島豪と接触したことで日韓条約反対闘争に参加し、また大学の課外授業で水産労働者の労働環境の過酷さを知った坂口弘は、労働運動に卒業後の人生を捧げようと決意。
その後、慕っていた川島豪が大学を卒業して「警鐘」という団体を立ち上げることを知り、大学を中退して同団体に参加しようとしますが、川島本人から「大学の自治会活動を任せる」と言われて渋々断念します。
しかし、労働運動のことで頭が一杯になってしまい、川島豪から継いだ自治会活動も学業もおろそかになり、結局1967年6月に坂口弘は大学を中退しています。
大学を中退した後は大田区にある印刷会社に就職し、仕事をしながら「警鐘」で労働運動におこなっていました。
坂口弘の結婚相手・永田洋子
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大学を中退した後、坂口弘は川島豪からお見合いを勧められます。お見合いの相手は、後に連合赤軍のナンバー2となる永田洋子でした。しかし、このお見合いは双方が断ったため破談になりました。
1968年、警鐘が日本共産党左派神奈川県委員会に合流することが決まり、坂口弘もこれに加わり、そのまま革命左派の立ち上げメンバーとなります。
その後、1969年に愛知揆一外務大臣の訪米、訪ソを阻止するため羽田空港突入闘争に参加し、滑走路に火炎瓶を投げるなどしたことから坂口弘は初めて警察に逮捕されます。
最終的に保釈されたのですが、まだ22歳であった坂口弘は検察から懲役7年の求刑があったことに驚き、「出所する頃には30歳近い」と絶望したうえで、逮捕後に一度はお見合いを断った永田洋子に求婚するという行動に出ていました。
この理由については「同じ革命左派のメンバーの永田洋子なら、7年後も待っていてくれるかも知れないと思ったから」と、坂口弘本人が明かしています。
当時の坂口弘は法律に疎かったのか、仮釈放の制度を知らず、また仮に懲役刑が言い渡されても、もっと早く出所できることがあるということも知らなかったそうです。
経緯はどうであれこの求婚に永田洋子が応えたことから、坂口弘と永田洋子は事実婚の関係になりました。
永田洋子という人物
坂口弘の早とちりから彼の内縁の妻となった永田洋子。求婚してきた相手に片思いをしていたなどの事情があればともかく、交際すらしていない相手から「7年後に出所したら結婚してくれ」と言われて、応じるものなのか不思議に感じられます。
逮捕後の元・連合赤軍のメンバーの証言によると、ナンバー2という立場にはいたものの、永田洋子には自我や自分の考え、主張というものがまったく見られず、その時その時で権力を持つ男性の主張に容易に染まる人物であったそうです。
坂口弘と事実婚関係にあったものの、連合赤軍が結成されてからは森恒夫に近づき、この2人が中心となって山岳ベース事件が起きたと指摘されています。
裁判では、執念深く、粘着質な性格を持つ永田洋子が事件を主導したとまで言われました。
永田洋子は坂口弘を殺害しようとしていた?
連合赤軍のナンバー3の立場にいながら、坂口弘は森恒夫と永田洋子がおこなう仲間への残虐なリンチ「総括」を受け入れられずにいました。
しかし、暴力的な総括に対して疑問を呈するメンバーは坂口弘や加藤倫教らごくわずかで、他の面々は積極的に仲間の暴行にくわわっていたために坂口も消極的ながらも総括に加担していました。
そんな折、決定的な出来事が起こります。1972年2月はじめから過酷な総括をされていたメンバーの1人・山田孝(当時27歳)に坂口弘が肩入れをしてしまい、森恒夫と永田洋子らが外出している間に山田孝を拘束していた縄をほどいてしまったのです。
山田孝は京都大学卒業の学歴を持つインテリで、もともと所属していた赤軍派では森恒夫よりも立場が上でした。連合赤軍結成前に逮捕されたことから合流が遅れ、役職には就けなかったものの森恒夫に意見ができる数少ない人物だったといいます。
しかも当初から暴力による総括に疑問を抱いており、森恒夫を説得しようとしたことや連合赤軍に入ろうとする過去の仲間に「今は辞めておけ」と助言をしたこともありました。
そのような山田孝にシンパシーを感じたのかもしれません。坂口弘は山田孝に「必ず君を助ける」と約束し、仲間へのリンチを辞めると誓わなければ森恒夫を殺すつもりで銃を用意していたといいます。
しかし、山田孝の処遇について電話で交渉していた際に、受話器を坂東國男に奪われ「山田くんは警察が来たら『手榴弾で自害する』と答えた。まだ革命戦士の覚悟が足りていないので、総括が必要だ」と告げ口されてしまいます。
これによって坂口弘が山田孝を庇っていたことがバレてしまい、森恒夫は自分に反抗的な態度をとる坂口を次の総括のターゲットにしようと決めるのです。
そして森恒夫は永田洋子を呼び出して坂口弘の総括をすることを伝え、離婚を勧めました。永田洋子はあっさりとこれに応じ、坂口弘の総括にも異を唱えなかったといいます。
この直後に坂口弘と永田洋子が警察に逮捕されたことから、坂口弘は総括という名のリンチを受けずに済みました。彼らの逮捕が遅ければ、坂口弘が山岳ベース事件の13人目の犠牲者になっていたかもしれません。
なお、永田洋子は坂口弘と別れた後に森恒夫と結婚する約束をしていたといいます。逮捕後に森恒夫が獄中自殺をしたため入籍などはしていませんが、この件は連合赤軍という団体の歪さを感じさせる不気味なエピソードとして知られています。
坂口弘の逮捕後
坂口弘らがあさま山荘事件を起こした3年後の1975年、連合赤軍と同じ新左翼団体・連合赤軍がマレーシアのクアラルンプールでアメリカとスウェーデンの大使館を襲撃し、総領事ら52名を人質に立てこもる事件が起こります。(クアラルンプール事件)
日本赤軍はこの事件の人質を開放してほしければ、現在日本で勾留されている新左翼活動家7名を開放しろとの声明を出し、そのなかには坂口弘や同じくあさま山荘事件の犯人・坂東國男の名前もありました。
この要求に対して、日本政府は連合赤軍の要求に応じて指名された7人の囚人を開放するという超法規的措置を決定します。
しかし、思いがけず釈放の権利を得た7人のうち、坂口弘ともう1人、保釈中の松浦順一だけが「自分は闘争には参加しない」として日本政府の持ちかけた解放を拒んだのです。
銀行強盗事件1件にのみ関与が認められ、保釈中であった松浦順一が「罪を重ねたくない」と釈放を拒むのはわかります。
しかし、坂口弘は逮捕後に殺人16件、傷害致死1件、殺人未遂17件の罪状で起訴されており、裁判では死刑判決が下ることが明らかでした。
逮捕後の坂口弘は自分のやってきたこと、とくに仲間をリンチで殺害したことについては深い後悔を見せていたとのことですから、死んだ仲間に対して思うことがあって釈放を拒否したのでしょう。
日本政府から出所をもしかけられた時、坂口弘は「私の闘争の場は法定にある」「武装闘争は間違っている」と答えたといいます。
坂口弘の裁判
前述したように坂口弘は殺人16件、傷害致死1件、殺人未遂17件の罪状で起訴されました。殺人16件というのは、オウム真理教事件の松本智津夫が殺人27件で起訴されるまで、日本の戦後最悪、最多の件数でした。
したがって1982年6月18日に下された東京地方裁判所の第一審判決でも死刑を言い渡され、控訴したものの1986年9月26日には東京高等裁判所で棄却されています。
その後も最高裁判所まで争うとしますが、1993年2月19日に最高裁判所が上告を棄却したことで、この日をもって死刑が確定。その後は死刑囚として東京拘置所に収監されることとなります。
坂口弘の現在
2022年現在、坂口弘の死刑は執行されておらず、存命のまま東京拘置所に収監されています。死刑判決が出てから30年近くが経っているのに、坂口弘の死刑はおこなわれていないのです。
これは、同じく山岳ベース事件、あさま山荘事件に関与していた坂東國男がクアラルンプール事件で釈放され、現在も再逮捕されていないためです。
坂東國男が逮捕された後、裁判では坂口弘の証言が必要となります。そのため死刑にできないのです。
2002年から2003年にかけて、背任罪や偽計業務妨害で512日にわたって東京拘置所に収監されていた作家の佐藤優氏は、「隣の独房に坂口弘がいた」と保釈後に語っていました。
刑務所と違って拘置所では収監されている者同士での交流が少なく、とくに佐藤優氏には「接見等禁止」が命じられていました。そのため隣の房に誰が何の罪で収監されているのかさえ、当初はわからなかったそうです。
しかし元外交官である佐藤優氏は持ち前の洞察力を活かして、隣に収監されている人物がただ保釈を待つ身ではなく、相当長くここにいる死刑囚であることを察知したといいます。
そしてある日、看守のミスで隣の31房に届けられるはずだった電池式シェーバーが佐藤優氏のもとに間違って届くというトラブルが起こり、そこに「31房 坂口弘」という名前があったことから、隣人が坂口であることを知ったのです。
坂口弘の独房内の様子について、佐藤優氏は以下のように語っています。
独房は畳が3畳、便所と洗面台があるフローリングが1畳。隣人の房の壁面は公判の関連書類でいっぱいだった。その上に絵があった。B4ほどの紙にボールペンで描いた、山だった。
「妙義山。後で思いました」。それは隣人が事件を起こした現場だったと。
引用:序章 独房の隣人
また、佐藤優氏は坂口弘が看守から一目置かれる存在に見えたとも話しています。
佐藤優氏によると拘置所の看守は逮捕前の経歴や社会的地位、何の罪でどのような刑罰を受ける予定であるのかよりも、収監中の態度や逮捕後の様子で囚人を判断する傾向があるそうです。
逮捕後に反省を重ね、クアラルンプール事件でも釈放を拒んだ坂口弘の印象は看守の間では相当に良かったのでしょう。
坂口弘の短歌
坂口弘は逮捕後から、朝日新聞に連載されている「朝日歌壇」に自作の短歌を投稿しています。最初に紙上に坂口弘の短歌が掲載されたのは1989年5月で、それから年に一度、300〜400首の短歌が原稿用紙にしたためられて朝日新聞に届くようになったそうです。
その後、作品がまとまった数になったところで「朝日歌壇」の選者をしていた国文学者の佐佐木幸綱氏が、坂口弘の短歌に対する真摯な姿勢を評価し、「歌集を出してみてはどうですか?」と持ちかけたといいます。
こうして1993年には坂口弘が拘置所で詠んだ短歌をまとめた『坂口弘歌稿』という歌集が出版
されました。
なお、高橋檀氏が寄稿している本書のあとがきには、山岳ベース事件やあさま山荘事件での犠牲者に対する謝罪が、坂口弘本人の言葉を引用して繰り返し綴られています。
坂口弘の家族の現在
坂口弘の母親・菊枝さんは2008年に93歳で亡くなっています。生前の菊枝さんは36年に渡って毎月の息子の面会を欠かさず、同時に被害者遺族のもとを謝罪してまわっていたといいます。
佐藤優氏によると、母親が面会にやってきた時の坂口弘はとても嬉しそうで、小走りで面会室に向かっていく姿が印象的だったとのことです。
後に佐藤優氏が菊枝さんに連絡をとったところ、「息子の話を聞きたくて会いに行っているのに、あの子は私や親族の話ばかり聞きたがって自分のことを話してくれないんです。ご存知のことがあったら聞かせてもらえませんか?」と頼まれそうです。
そこから佐藤優氏は電話や手紙で坂口弘の様子を伝えるようになり、菊枝さんも「あなたのおかげで息子の生活が知れて嬉しい」と感謝していたといいます。
坂口弘の実家はどこ?
坂口弘の実家は千葉県富津市内の花屋だったといいます。場所は公開されていませんが、母親の菊枝さんは晩年まで富津市内の自宅に住んでいた様子です。
『坂口弘歌稿』の出版に取り組んでいた佐佐木幸綱氏は「菊枝さんは若々しい方だが、実際の年齢を考えると富津と小菅(坂口弘が収監されている東京拘置所)を往復するのは大変なご苦労だったはず」と語っていました。
しかし晩年まで同じ場所で暮らしていたとのことであれば、あさま山荘事件の最中、坂口弘が「自分のせいで母親が村八分になる」と心配していた点については杞憂で済んだのでしょう。
坂口弘以外の連合赤軍メンバーの現在
坂口弘以外の主な連合赤軍メンバーの現在は、以下のとおりです。
森恒夫
逮捕後、初公判を待つまでの間に自殺。1973年1月1日に、東京拘置所の独房内で首を吊って死んでいるのを発見されました。
逮捕後は自分の行動を悔いていたといい「私がしたことは、日本の革命史上もっとも残酷であった」などと反省を綴った「自己批判書」を書き溜めていました。これは『銃撃戦と粛清』という題名で1984年に書籍化されています。
永田洋子
1993年2月に最高裁判所で死刑判決が確定。死刑を恐れるあまり収監中に発狂し、全裸になって法廷に向かうことを拒む、糞尿を体になすりつけるなどの奇行を繰り返していたといいます。
2006年11月に再審請求が棄却された後、永田洋子は脳腫瘍で倒れて寝たきりの状態になり、その後は回復せずに2011年2月5日に脳萎縮、誤嚥性肺炎で東京拘置所に勾留されたまま死亡しました。(享年・65歳)
坂東國男
出典:https://www.keishicho.metro.tokyo.lg.jp/
山岳ベース事件では森恒夫の右腕としてリンチに参加し、あさま山荘事件でも多数の警察官を死傷させたとみられる坂東國男。
父親が自殺をしたことを聞いた際には「申し訳ないことをした」と反省する様子を見せたものの、クアラルンプール事件で釈放されてからはパスポートを偽造して中東を拠点にしていたことがわかっています。
現在も国際指名手配犯となっていますが、行方は掴めていません。なお、警視庁の発表によると、現在の坂東國男の姿は上の画像右のようになっている可能性が高いとのことです。
吉野雅邦
出典:http://home.r07.itscom.net/
あさま山荘事件だけではなく山岳ベース事件に積極的に参加していたとされますが、主犯格ではなかったために無期懲役の判決が下されました。
現在は地下鉄サリン事件を起こした林郁夫らが服役している千葉刑務所に収監されています。
加藤倫教
逮捕時まだ19歳であり、山岳ベース事件には積極的に加担していなかったうえ、あさま山荘事件でも主犯格ではなかった加藤倫教。懲役13年の服役を終えて、現在は実家の農家を継いでいるとのことです。
2021年には同じく元・連合赤軍の植垣康博ともにabema TVの番組に出演し、当時から「これで本当に革命になるのだろうか」「暴力が貧しい人を助けになるのか」と、連合赤軍の活動に疑問を持っていたことを明かしていました。
また、同番組の中で「自分たちがやったことのせいで、若者の間に『政治に対して意見したり、批判したりするのはよくないことだ』という意識が根付いてしまったと感じている。罪深いことをした」と語っています。
なお、逮捕時に16歳であった加藤兄弟の弟については保護処分のみが下されました。
坂口弘についてのまとめ
今回は連合赤軍に所属し、山岳ベース事件、あさま山荘事件に関与した坂口弘について紹介しました。
あさま山荘事件で死傷者が出てしまっている以上、坂口弘のやったことは決して許されることではありません。
しかし学生時代に別の人に出会い、影響を受けていたなら、少なくとも暴力を使わないで自分の主義主張を訴えることができたのではないかと思われます。それがただただ残念です。