弘前大教授夫人殺し事件の真犯人は滝谷福松!那須隆の冤罪・被害者の松永藤雄の妻・詳細とその後まとめ

1949年に発生した弘前大教授夫人殺し事件は松永藤雄氏の妻・すず子さんの殺害事件で、有罪判決を受けた那須隆さんの冤罪事件と真犯人・滝谷福松逮捕までの一連の流れを含みます。この記事では本件の詳細、冤罪被害者らの現在について紹介します。

弘前大教授夫人殺し事件の概要

 

引用:https://webronza.asahi.com/

 

1949年の8月6日の深夜、青森県弘前市在府町で弘前医科大学の松永藤雄教授の妻・すず子さん(当時30歳)が殺害される事件が起こりました。

 

すず子さんの遺体が発見されたのは在府町内の寄宿先で、侵入してきた何者かに首を刺されて死亡したとされます。

 

捜査にあたった弘前市警は、近隣に住んでいた25歳の青年・那須隆さん(当時25歳)を殺人容疑で逮捕。那須さんは無罪を主張していましたが、「犯行推定時刻は1人で家にいた」とのことでアリバイは証明できませんでした。

 

そのため事件が起きた時に唯一、現場から逃げていく犯人を見たすず子さんの母親の証言から、警察は那さんを犯人と断定。

 

さらに逮捕後の精神鑑定では「変態性欲者」と診断が下され、衣服からもすず子さんの血液が検出されたとして、那須さんは殺人罪で起訴されます。

 

そして1952年に仙台高等裁判所で那須さんは懲役15年の有罪判決を受けるのですが、この20年後の1971年に弘前大教授夫人殺し事件の真犯人だという男が自ら名乗り出てきたのです。

 

真犯人だという男の名は滝谷福松。当時、19歳という若さでヒロポン中毒になっていた滝谷福松は暴行目的ですず子さんを襲ったとのことですが、すでに那須さんは刑期を終えており、滝谷についても時効が成立したため、自白があっても処罰の対象にはなりませんでした。

 

真犯人が見つかったことから那須さんは再審請求をおこない、1977年になって無罪を勝ち取っています。

 

しかし、奪われた那須さんや家族の時間が戻るわけではありません。さらに再審では警察の強引な捜査や唯一の証拠とされた血痕の信憑性、関係者による虚偽の証言、精神鑑定の酷さなどが浮き彫りになったことから、弘前大教授夫人殺し事件は日本の犯罪史上もっとも悪質な冤罪事件の一つとして知られています。

 

 

 

弘前大教授夫人殺し事件の詳細① 松永藤雄氏の妻が殺害される

 

引用:https://ja.wikipedia.org/

 

弘前大学教授夫人殺し事件が起きる3日前、一家の主である松永藤雄教授は仕事のために息子を連れて青森へと向かいました。

 

松永教授は一週間ほど留守にする予定だったといい、寄宿先には妻のすず子さんと4歳の娘が残ったとされます。そこですずこさんは実家から母親を呼び、3人で松永教授の帰宅を待つことにしました。

 

事件当日の8月6日、22時頃に寝室にしている離れの8畳間に向かった3人は、北側からすず子さんの母親、娘、すず子さんの並びで川の字になって就寝します。

 

そしてその一時間後の23時頃、部屋の南側の縁側から侵入してきた男によって、すず子さんは殺害されたのです。

 

事件を目撃したすず子さんの母親によると、「娘の叫び声で目を覚ましたところ、蚊帳の中に見知らぬ若い男がいた」とのことで、驚いた母親が悲鳴をあげたところ男は逃げていったといいます。

 

警察の発表によるとすず子さんの死因は左頸動脈を鋭利な刃物で刺されたことであり、性的暴行を受けた痕跡はなかったとのことです。

 

 

 

弘前大教授夫人殺し事件の詳細② 那須隆さんが疑われる

 

引用:https://aucview.com/

 

医大の教授夫人であり、かつ評判の美人であったすず子さんが殺されたとのことで、事件は地元を中心に大きな注目を集めました。

 

しかし、すず子さんが恨みを買うような人物でもなかったことから、なかなか容疑者は見つかりませんでした。

 

また事件現場に居合わせたすず子さんの母親も「犯人の顔はほとんど見えなかった」と証言したため、有力な情報もありませんでした。

 

こうしたなか、弘前市警はすず子さんを殺した犯人は強盗や怨恨が動機ではなく、変態性欲者であったと仮定して捜査を続けました。

 

そこで弘前市警が目をつけたのが、現場から200m離れた場所に住む那須隆さんだったのです。

 

那須隆さんは弓の名手・那須与一で知られる戦国大名の那須家の末裔で、12人兄弟の次男でした。

 

東扇高等学校を卒業してからは青森県警が独自に設置した「青森県通信警察官」という警察電話の保守などをおこなう仕事に就いていましたが、1946年にこの制度が廃止されたために、事件当時、那須さんは定職に就いていなかったといいます。

 

しかし本人に働く意欲がなかったわけではなく、むしろ兄弟を養うためにも再び警察官になりたいと考えていたそうです。

 

そのため那須さんはなんとかすず子さん殺害の犯人逮捕に協力しようと現場に駆けつけ、独自に周辺住民への聞き込みをしていました。そして自分が犯人だと思った人物の情報を弘前市警に通報していたのですが、これが的はずれであったために捜査の邪魔になり、警察から疎ましがられていたのです。

 

さらにこの行動は「自分が犯人なのを誤魔化すために、関係のない人間に疑いがかかるように仕向けているのでは?」と、警察から那須さん自身が疑われる原因となってしまいました。

 

 

 

弘前大教授夫人殺し事件の詳細③ 証拠

 

引用:https://ja.wikipedia.org/

 

警察の捜査の結果、那須さんの家の近くからすず子さんと同じB型の血液の血痕が発見されます。(ただし、那須隆さんの血液型もB型で、血痕がすず子さんのものという鑑定結果はない)

 

さらに警察犬を使った捜査でも、現場に残された足跡のにおいをもとに犯人を追跡した警察犬が、那須さんの家の近くで立ち止まるという結果が出ました。

 

那須さんが犯人の可能性が高いと見た警察は、8月21日の夕方に那須さんが高校時代の後輩の家に置いてきたという白いリンネル製のズック靴を押収し、地元の名士であった血清学者の松木明氏に鑑定を依頼します。

 

鑑定の結果、ズック靴には人間の血がついていることがわかり、警察は8月22日に那須さんに任意同行を求めます。

 

この時、那須さんは着ていた作業用の白の開襟シャツから外出着に着替えたため、警察は脱いだ開襟シャツと家においてあった骨董品の拳銃(実弾なし)を証拠品として押収しました。

 

 

 

弘前大教授夫人殺し事件の詳細④ 警察による取り調べと精神鑑定

 

引用:https://pixabay.com/

 

8月22日に19時50分、警察署に連れて行かれた那須さんはすず子さん殺人容疑で逮捕されます。

 

起訴するために弘前市警は那須さんの自供を得ようとしますが、那須さんは一貫して無実を主張しました。取り調べの間、警察は弁護士との接見を許さず、トイレにも行かせず、殴る蹴るの暴行まで那須さんにくわえていたといいます。

 

そのせいか那須さん本人が主張する事件当時のアリバイも二転三転し、そのすべてが警察の捜査で否定されました。

 

 

すず子さんの母親による証言

 

そんななか、8月31日に唯一、犯人を目撃しているすず子さんの母親と那須さんの面通しがおこなわれました。

 

那須さんを見たすず子さんの母親は「私が見た犯人とそっくりです。髪型、横顔の輪郭、背格好すべてが犯人に似ていて、真犯人だと思います」と証言。

 

前述したように、すず子さんの母親は事件直後の事情聴取で「犯人の顔はほとんど見えなかった」と言っていました。

 

しかしなぜか、青森地検による面通しでは犯人の特徴を詳細に覚えているかのような話をしたうえで、那須さんに対して「犯人とそっくり過ぎて気分が悪くなった」「真犯人で間違いない」とまで言い切ったのです。

 

 

自白として扱われた那須隆さんの言葉

 

那須さんの逮捕から延長を含む20日間の勾留期限が過ぎ、精神鑑定による30日間の鑑定留置も過ぎましたが、警察は起訴するだけの証拠をつかめずにいました。

 

そうしたなか、苦肉の策として弘前市警は任意同行の後に那須さんの家から押収した骨董品の拳銃を証拠に銃砲等所持禁止令違の容疑で那須さんを再逮捕します。

 

この骨董品の拳銃は那須さんが幼い頃におもちゃにしていたもので、実用性はなかったことから9月7日の時点で警察に始末書を提出して処分は済んでいたはずでした。

 

さらに保釈を防ぐために、弘前市警は10月22日に那須さんを殺人罪で再逮捕という異例の行動に出ました。

 

10月24日に起訴されるまで那須さんは容疑を否認し続けましたが、警察の取り調べに疲れ果てていたのか「裁判で無期懲役になったとしても、控訴はしない」という旨の発言をしていたといいます。

 

不幸なことに諦めから出た那須さんのこの発言は、のちの裁判で「犯行を認める自白」として採用されてしまうのです。

 

 

精神鑑定

 

10月25日、那須さんの精神鑑定の結果が提出されましたが、この精神検定には以下のような問題点がありました。

 

・鑑定をおこなったのは被害者の夫・松永藤雄の上司にあたる弘前医大学長・丸井清泰氏であった

 

・鑑定は9月10日から10月25日までおこなわれたが、鑑定に費やされた時間は1日15分程度だった

 

・精神鑑定の際の質問も「馬の脚は何本?」「日本一高い山は」といった簡単なものばかりであった

 

上記の情報から被害者遺族と利害関係のある人物が、結論ありきで片手間におこなった精神鑑定であったことが窺えます。

 

案の定、丸井氏は那須さんについて「表面上は柔和に見えるが、サディズム傾向がある」「責任能力はあるが神経衰弱状態」「性的な興味を抑圧した結果、反動で残虐な行動に出るおそれがある」など、警察の意向に沿った鑑定結果をだし、検察もこれを裁判時の重要な証拠としました。

 

 

 

弘前大教授夫人殺し事件の詳細⑤ 疑惑の血液鑑定

 

引用:https://ja.wikipedia.org/

 

一方、那須さんが逮捕される決め手となったズック靴と開襟シャツから発見された血痕についても、不審な点が見られました。

 

最初に松木明氏がズック靴の鑑定をした際には「人間の血液がついている」という結果だったにもかかわらず、なぜか那須さんの逮捕状を請求するときには「被害者と同じB型の血液が付着」となっていたといいます。

 

しかも、このズック靴の押収は那須さんの逮捕と同じく8月22日にされたのですが、通常、人血鑑定には1日必要なのにもかかわらず、ズック靴の血痕の血液型判定はわずか2時間で結果が出ているのです。

 

さらに松木氏から鑑定を引き継いた旧制官立青森医学専門学校の引田一雄教授からは「鑑定の結果、ズック靴からは血痕は検出されなかった」との発表がありました。

 

弘前市警は引田一雄教授の鑑定結果を聞くとすぐにズック靴と開襟シャツを持ち去ってしまったといい、引田教授は開襟シャツについては鑑定ができなかったそうです。

 

しかし、「肉眼での検査したかぎり開襟シャツには血痕は見られず、灰暗色の汚れが見られたものの、あれが血痕ならば相当古いものだ」と証言しています。

 

引田教授から引き上げられたズック靴と開襟シャツは、科捜研のもとに送られました。

 

ところが科捜研もズック靴から血液反応はなく、血痕は見つからなかったという鑑定結果を出します。

 

また開襟シャツからはB型の血液が検出されたものの、那須さん本人の血液である可能性も否めないとの鑑定結果でした。

 

この結果を不服に思ったのか、青森地検は再びズック靴と開襟シャツの鑑定を松木氏に頼みます。そして、松木氏はこれまでの鑑定ではいっさい発見されなかった複数の血痕がズック靴と開襟シャツから発見されたと発表。

 

引用:https://ja.wikipedia.org/

 

さらに松木氏とは別に開襟シャツの鑑定を頼まれていた東北大学医学部法医学教室の三木敏行助教授も、開襟シャツから血液反応が出たと報告し、さらにこの血液はすず子さんのものである可能性が高いとしたのです。

 

那須さんとすず子さんは同じB型でしたが、「Q抗原」という抗体を血中に持っているのはすず子さんだけでした。

 

三木助教授は開襟シャツから検出された血痕にはQ抗原があったとの鑑定結果を出し、これによって那須さんがすず子さんを殺害、返り血が開襟シャツに付着したと結論付けられたのです。

 

こうして開襟シャツとズック靴は那須さん起訴の決め手となったのですが、2回めに松木氏が鑑定をおこなった際に協力した鑑識官は「那須はシロだ」と語っていたといいます。

 

この鑑識官によると開襟シャツとズック靴に残っていた血痕は、飛沫でついた時に見られる星型ではなく、事件器具などで故意に汚れをつけた時に見られるしずく型だったそうです。

 

また鑑定をおこなった松木氏が経営する小児科医院には人血鑑定に用いる遠心分離機などの設備がなく、試験管が数本あっただけだったされます。

 

 

 

弘前大教授夫人殺し事件の詳細⑥ 那須隆さんの裁判【第一審】

 

引用:https://ja.wikipedia.org/

 

那須隆さんの公判は1949年11月1日に青森地裁で開かれました。

 

検察側は一貫して「被告人は変態性欲者」「精神異常者」という主張を繰り返し、冒頭陳述でも那須さんが残虐な性的嗜好の持ち主であり、自分の欲を満たすために犯行に及んだと断定的に述べ、死刑を求刑します。

 

さらに多数の証人を呼び、証人の口からも以下のように被告人が「残酷な嗜好を持つ精神異常者」であることを証言させました。

 

高校時代の後輩の証言

足音を立てずに歩く方法や、人の殺し方について話をされたことがある

 

高校時代の後輩の義理の姉の証言

夫の留守に家にあがってきて、人の殺し方を聞かされた。強引に家に泊まられたが、夜中にうなされていた

 

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この証言を見ると、殺人の話ばかりしてくるおかしな人という印象を持ってしまいますが、弁護側は「被告人はミステリー小説を読むことが趣味であり、単にトリックの話をしていたに過ぎない」「友人の留守に人妻が留守番をする家にあがったからといって、変態性欲者にはならない」と反論します。

 

また、事件直後には目撃者がいなかったはずなのに裁判では「事件直後に現場近くで被告人らしき人物を見た」という住民が複数登場し、しかも「事件前に大型ナイフを持っている被告人を見た」という人物まで現れました。

 

 

東京大学医学部・古畑教授の再鑑定結果

 

弁護側は目撃証言、そして物証とされたズック靴と開襟シャツをの鑑定結果について不正確性を主張しました。

 

弁護側の証人として「靴から血痕は検出されなかった」と鑑定結果を出した引田一雄教授も出廷して「血液の経年劣化反応から考えても、最近ついたような血痕は靴、シャツともに見られなかった」と証言します。

 

しかし、検察側は「引田氏は共産党のシンパで証言に信憑性がない」などと、的はずれな反論を展開。

 

弁護側は負けじと、それまでには褪灰暗色の汚点しか認められなかったのに、三木敏行助教授が鑑定した際には鮮明な赤褐色の汚点が開襟シャツにあったとされていることから、「汚れが鮮明になるということはあり得ない。開襟シャツの血痕は捏造の可能性がある」と指摘しました。

 

この指摘を受けて裁判所は、東京大学医学部の古畑種基教授にズック靴と開襟シャツの再鑑定を依頼します。

 

そして古畑教授の鑑定でズック靴からは血液反応が見られないとの結果が出たのですが、開襟シャツについていた血液はすず子さんの血液型とQ型まで一致し、98.5%の確率ですず子さんのものであると結論づけたのです。

 

なお、この「98.5%」という数字は後に多くの数学者から批判を集めています。古畑教授の出した数値は「那須さんが犯人である確率が50%」という確率を前提に出されたものであり、「那須さんが犯人である」という結論を導き出すための循環論法に過ぎない、と指摘されています。

 

 

一審の判決は無罪に

 

1951年1月12日、青森地裁は那須隆被告に対して「銃刀法違反について罰金5,000円に処す。殺人については無罪」という判決を下しました。

 

しかし無罪判決についての理由を「有罪であることを証明できない」としか述べなかったため、傍聴人からは批判の声が上がり、すず子さんの母親が法廷で泣き崩れたことなどから社会の印象は著しく悪くなりました。

 

このように雑と言ってもよい判決理由を述べた理由は、裁判を担当した豊川博雅裁判長が多忙を極めていたためとされています。豊川裁判長は後に「自分がきちんと無罪判決を下した理由を説明していれば、控訴審で那須氏が逆転有罪にはならなかったかもしれない」と語っていました。

 

また、そのように簡潔な判決を下したことについて「那須氏が欲望のために人を殺すような異常者には見えなかった。さらに素人目に見ても証拠品についた血痕は相当古いものに見えたことから、無罪以外ないと思った」とも述べています。

 

 

 

弘前大教授夫人殺し事件の詳細⑥ 控訴審と有罪判決

 

引用:https://www.pakutaso.com/

 

1951年1月19日、検察は殺人と銃刀法違反の両方で控訴し、翌日に銃刀法違反を取り下げて殺人について焦点を絞る旨を発表しました。

 

また本来ならば仙台高裁秋田支部で二審が開かれるはずでしたが、一審を担当した豊川裁判長が仙台高裁秋田支部に移動になっていたことから、公正を期すために裁判は仙台高等裁判所の本庁で開かれることになりました。

 

二審でも検察側は「犯行は被告の変態性欲によるもの」と主張し、那須さんは再度精神鑑定にかけられます。

 

しかし裁判所から依頼を受けて精神鑑定をおこなった東北大学の石橋俊実教授は既往歴や遺伝歴、交際関係、家族関係なども詳細に調査したうえで「被告人は変態性欲者とは呼べない」という鑑定結果を出しました。

 

検察側はこの鑑定結果を受けて「被告人は変質者」と呼ぶに留めるようになり、求刑も死刑から無期懲役に改めます。

 

しかし、これまで「犯行は被告人の歪んだ性的嗜好によるもの」と散々非難してきたにもかかわらず、石橋教授の鑑定結果が出てからは「動機は構成要件ではない」として言動を省みることはありませんでした。

 

 

有罪判決

 

控訴審では新しい証拠は提示されず、むしろ精神鑑定の結果から検察の主張が間違っていたことまで示唆されました。

 

しかし、1952年5月31日に仙台高等裁判所が那須隆さんに下した判決は「殺人と銃砲等所持禁止令違反の双方で有罪、懲役15年に処す」というものでした。

 

一審の無罪判決を破棄して有罪判決を下した理由は、以下のとおりです。

 

・被告人にはアリバイがない

 

・被害者の母や周辺住民の証言から被告人が犯人と思われる

 

・開襟シャツについての松木鑑定、三木鑑定、古畑鑑定の結果を採用

 

・ズック靴についての松木鑑定の結果

 

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・最初に被告人の精神鑑定をおこない、変態性欲者という結論を出した丸井鑑定の採用

 

・被告人宅周辺から検出された血痕の存在

 

・「無期懲役になっても控訴しない」という被告人の発言は自白ととれる

 

 

なぜか第一審では証拠として不十分とされた鑑定結果や、石橋教授の再鑑定で覆された丸井鑑定が採用されているなど、不自然な点が見られました。

 

 

上告の棄却

 

弁護側は9月10日に最高裁判所に上告し、二審で有罪の証拠とされたものの根拠が薄いことや、公判まで弁護側に開示されなかった鑑定書があるなど、判決に対して不自然な点が多いと訴えました。

 

しかし最高裁判所は翌年2月19日に上告を棄却し、この日をもって懲役15年の有罪判決が確定します。

 

なお、那須さんは二審の判決後、まだ正式に有罪が確定していない(最高裁判所による第三審が残っている状態)にもかかわらず、逃亡の恐れがあるとして宮城刑務所仙台拘置支所に拘留されていました。

 

那須さんは無実を訴え、家族に向けて再審請求を起こしてくれないかと頼みましたが、もと元裁判所書記官であったという父親は再審請求で判決を覆す難しさを知っていました。そのため「真犯人が見つかるまでは再審請求は待ったほうがいい」とアドバイスしたそうです。

 

この時の父親のアドバイスがあったからこそ、後に那須さんは再審請求で無罪を勝ち取れたといえます。

 

 

 

弘前大教授夫人殺し事件の詳細⑦ 冤罪での服役

 

那須さんは5年間秋田刑務所に服役した後、宮城刑務所に移送されました。どちらの刑務所でも真面目な態度が評価され、仮釈放の機会も複数回あったものの、頑なに事件に対する反省や謝罪を拒否したことから審議会で仮釈放は却下され続けてきたそうです。

 

しかし、真面目に刑務に励んでいたために負ってしまった脊椎損傷の治療が獄中では受けられず、死の恐怖に直面したこと、そして1962年8月に弟が突然他界したことから考えを改め、「やってもいない人殺しを認めてでも、刑務所の外に出たい」と思うようになったといいます。

 

7回目の仮釈放面接を申請した那須さんは、すず子さん殺害を認める発言をして1963年1月18日に仮釈放されました。

 

この時、仮釈放面接を担当した面接官から「刑務所から出たくて、罪を認めるふりをしているのではないか?」と尋ねられて那須さんは、何も答えなかったそうです。

 

内心では罪を認めていないことを感じ取りつつ仮釈放を認めた面接官も、もしかしたら那須さんが無実の罪で投獄されたことに気づいていたのかもしれません。

 

 

 

弘前大教授夫人殺し事件の詳細⑧ 辛い日々

 

第二審では那須さんに懲役15年が言い渡されたほか、「訴訟にかかった費用はすべて被告人が負う」という判決も下されていました。

 

そのため10年に及ぶ服役中に刑務で得た賃金は、すべて訴訟費用の支払いに消えてしまいます。

 

さらに家族もこの費用の支払いのために、明治からあったという屋敷、那須家に伝わる甲冑や武具などの骨董品を手放し、息子のために少しでもお金を工面しようと奔走していました。

 

また「那須」という珍しい苗字が災いして、一家は引っ越した先でも頼んでもいない出前を大量に届けられる、家に投石されるなどの嫌がらせを受け続け、兄弟姉妹らもいじめや不当解雇の被害にあったといいます。

 

一方、那須さんはこの状況を変えるには真犯人発見しかないと考え、出所してから事件を担当した弁護士のもとを訪れ、裁判の資料を集めようと試みました。しかし、思うように資料は集まらず、また弁護人が高齢になっていたこともあって協力を仰ぐのも難しい状況でした。

 

それでも弘前を離れず、浴場管理人の職を見つけて真面目に働きながら真犯人に繋がる情報を集め続けていたとのことです。

 

 

 

弘前大教授夫人殺し事件の詳細⑨ 真犯人・瀧谷福松の登場

 

引用:https://www.amazon.co.jp/

 

1971年5月29日、当時読売新聞の記者であったジャーナリストの井上安正氏のもとに一本の電話が入りました。

 

電話の主は村山一夫と名乗る29歳の男性で、井上氏に「弘前大教授夫人殺し事件の真犯人と思われる人物がいる」という主旨の話をしてきました。

 

村山さんは「那須さんのために真犯人の情報を教えたいが、この件が明るみに出れば真犯人の生活が危うくなる。そこでうまく真犯人をかばいつつ、那須さんの再審請求を手助けできないか、事件を取材し続けてきた井上さんに協力してほしくて電話をした」と話してきたそうです。

 

なんでも村山さんは宮城刑務所に服役中、病舎で強盗傷害で収監されている受刑者と出会い、その受刑者から「以前に殺人罪も犯しているが、それは無実の人間が罪をかぶってくれた」との話を聞かされたのだといいます。

 

この話がどうしても気になった村山さんは出所後に弘前に足を運んで弘前大教授夫人殺し事件について調べ、自分が獄中で会った男こそ事件の真犯人なのではないかと考えるようになったそうです。

 

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村山さんが井上氏に「弘前大教授夫人殺し事件の真犯人」として伝えたのは、滝谷福松という男でした。

 

村山さんは井上氏に連絡を入れる前に、馴染みの弁護士であった南出一雄氏(那須さんの一審を担当した検事の後輩でもあった)に滝谷福松を引き合わせ、すでに弘前大教授夫人殺し事件が時効を迎えていて、これから自白をしても処罰されないことなどを確認したといいます。

 

村山さんの話に信憑性があると感じた井上氏は滝谷福松と会うことを決め、そこから井上氏、南出弁護士、村山さん、そして真犯人の滝谷福松の4人が那須さんの再審請求に向けて動き出しました。

 

なお、那須さんには井上氏から「真犯人が見つかった」という連絡はいっていたものの、裁判時に「口裏をあわせた」と疑われないために滝谷福松とは会わずにいました。

 

しかし那須さんは自分に罪を着せた滝谷福松に恨むような様子は見せず、「勇気をもって名乗り出てきてくれて感謝する」と言っていたそうです。

 

 

 

弘前大教授夫人殺し事件の詳細⑩ 再審請求の壁

 

引用:http://www.asahi.com/

 

1971年7月13日、南出弁護士は30人からなる弁護団を結成し、仙台高裁に那須さんの再審請求を申し立てます。

 

この申立の前に弁護団は瀧谷福松の知人から「事件のアリバイ工作に協力した」という証言を得ており、「後ろめたいことがあって、事件直後に警察に虚偽の証言をした。本当は那須さんのアリバイを証明できる」という住民の存在も確認していました。

 

また現場検証で瀧谷福松は、再審の時点で建て替えられて様子が変わっていた離れを訪れ、事件当時と異なる箇所を言い当てるなどして真犯人であることを窺わせたといいます。

 

しかし、再審で注目されたのは、またしても有罪の決め手となった開襟シャツについていたというすず子さんの血痕でした。

 

この血痕については弁護側は北里大学医学部の船尾忠孝教授に、検察側は千葉大学医学部の木村康教授にそれぞれ再鑑定を依頼。

 

ここでも弁護側と検察側の再鑑定の結果は食い違いを見せますが、かつての裁判での鑑定は覆されるものと思われました。

 

そもそも古畑鑑定では「Q型が一致しているので血液はすず子さんのもの」と結論付けられていましたが、この「Q型」という血液型自体の信憑性も低かったのです。

 

1934年に発見以降、Q型血液型は日本以外で認められておらず、1965年以降は日本国内でも「判定結果にブレが出て法医学にが使えない」と見なされていました。

 

そのため再審では少なくとも古畑鑑定はなかった扱いになると考えられましたが、仙台高裁刑事第一部は古畑鑑定を理由に再審請求を棄却します。

 

 

 

弘前大教授夫人殺し事件の詳細⑪ 無罪確定

 

引用:https://ja.wikipedia.org/

 

再審が棄却された後、12月19日に弁護団は棄却を不当とする異議申立てをおこないました。

 

そんな折、1975年5月に別件の裁判で那須さんと弁護団にとって朗報とも言える以下のような判例が、最高裁判所で示されたのです。

 

再審請求の段階でも、新証拠と他の全証拠を総合的に評価して「疑わしきは(合理的な疑いが生じれば)被告の利益に」という刑事裁判の原則が適用されるという判断枠組みを示した。

 

引用:西日本新聞 白鳥決定

 

再審では「那須隆が有罪であるとは言い切れないが、無罪であることも証明できない」ために、申立が棄却されていました。

 

しかし、新しく示された上記の「白鳥決定」に則れば、「証拠に確実性がない場合は、被告人に有利な解釈をする」ことになるため、古畑鑑定を覆す証拠を集められなくても冤罪が認められるかもしれないのです。

 

こうして弁護団の異議申し立ては受理されて、1976年9月28日から再審公判が開始。翌年の2月15日に再審を担当した仙台高裁刑事刑事第二部から、ついに那須隆さんは無罪を言い渡されたのです。

 

 

 

弘前大教授夫人殺し事件のその後① 国家賠償は認められず

 

無罪を勝ち取った那須さんと弁護団は、冤罪によって受けた損害賠償を訴えて国家賠償請求訴訟を起こしました。

 

しかし、この申立は「那須隆が無罪だと立証できなかった当時の弁護側に落ち度がある」として認められませんでした。

 

再審の判決では、検察側が証拠を捏造した可能性も示唆されていました。そのため、国家賠償を認めないということは「証拠の捏造は検察や警察による不法行為にあたらない」「捏造を証明できない弁護側が悪い」という意味にもとれます。

 

したがってこの判例は「冤罪被害者救済、冤罪防止の観点から見て、著しく不利益で厳しいもの」と指摘されました。

 

 

 

弘前大教授夫人殺し事件のその後② 冤罪の被害者・那須隆さんの現在

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引用:https://www.pref.tochigi.lg.jp/

 

冤罪の被害者として長らく苦しめられてきた那須隆さん。2009年1月24日に逝去したと報じられましたが、亡くなる直前にも「自分が死んだことがわかればマスコミが来る。自分の死は伏せておいてほしい」と、周囲への迷惑を気にかけていたそうです。

 

再審請求で無罪を勝ち取った後、那須さんは札幌市内の会社に就職し、転勤で青森県つがる市内に住んでいたといいます。

 

また再審請求の前に結婚もしており、国家賠償請求請求が棄却されてからは冤罪の撲滅や国家賠償法の改正を求めて講演活動もおこなっていました。

 

しかし親族によると晩年はあまり冤罪のことは思い出したくない様子で、静かに読書をしていることが多かったとのことです。

 

なお、那須さんは2007年に栃木県太田市に「那須与一伝承館」が建設された際、史料約700点を寄贈し、同館の初代名誉館長にも選ばれました。

 

 

 

弘前大教授夫人殺し事件のその後③ 被害者遺族・松永藤雄教授の現在

 

引用:https://ja.wikipedia.org/

 

最初の裁判時には那須さんが妻を殺害した犯人だと思い込み、マスコミの取材に対して「社会のために絶滅すべき存在」と厳しく那須さんを糾弾していた松永藤雄教授。

 

しかし、再審請求で那須さんの無罪が証明されてからは「本人もご家族も不幸なことだったと思う」と同情的なコメントを出しました。

 

検察と警察に言いくるめられて20年以上も無関係の人間を家族の敵と憎み、事件は解決したと思い込んでいた松永教授や遺族もまた、冤罪事件の被害者と言えます。

 

「犯人は被告で間違いない」と証言をしていたすず子さんの母親についても、「娘を殺害された悲しみと犯人憎しという気持ちが強すぎて、先入観に大きく左右されていた可能性がある」と再審公判で指摘されていました。

 

なお事件後、松永教授は弘前大学の医学部長の座につき、その後、都立駒込病院の院長などを歴任して1997年に亡くなっています。

 

 

 

弘前大教授夫人殺し事件のその後④ 真犯人・滝谷福松の現在

 

  • 弘前大教授夫人殺し事件の真犯人であった滝谷福松。那須さんの再審が終わった後は、仙台市内で廃品回収業を営みながら妻とともに真面目に暮らしていたそうです。

 

しかし1984年4月、3人の女子中学生を相手に対価を支払ってわいせつ行為に及んでいたことが明らかになって逮捕され、そこから弘前大教授夫人殺し事件の真犯人が再逮捕とマスコミで大々的に報じられてしまいました。それが原因となって会社も経営不振となったとされます。

 

 

 

弘前大教授夫人殺し事件についてのまとめ

 

今回は1949年に発生し、1977年にやっと那須隆さんの冤罪が証明された弘前大教授夫人殺し事件について紹介しました。

 

この事件の詳細を知って、ゾッとした方も多いのではないでしょうか。普通に暮らしていただけなのに、ある日突然「アリバイが証明できないなら、お前が殺人犯だ」と身に覚えのない罪を着せられ、何を言っても取り合ってもらえず、それどころか周囲の人々もこぞって自分に不利な証言をでっち上げてきたら、どうすることもできないですよね。

 

20年以上も理不尽な目に遭い続けながら、真面目に生き続けた那須隆さんに頭が下がる思いです。冤罪事件が一件でも減ることを願い、そして那須隆さんのご冥福をお祈りします。

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