西口彰は5人を殺害しながら日本を移動した連続殺人犯です。事件はアンビリバボーで再現ドラマ化、映画化もされました。
今回は西口彰の生い立ち、家族や子供、子孫、逮捕のきっかけとなった古川るり子さん、死刑、最後の言葉、被害者についてまとめます。
この記事の目次
- 西口彰と西口彰事件の概要
- 西口彰の生い立ち
- 西口彰事件の時系列① 最初の殺人と被害者
- 西口彰事件の時系列② 自殺を偽装
- 西口彰事件の時系列③ 第二の殺人事件と被害者
- 西口彰事件の時系列④ 特別手配
- 西口彰事件の時系列⑤ 第三の殺人事件
- 西口彰事件の時系列⑥ 古川泰龍氏のもとに現れる
- 西口彰事件の時系列⑦ 10歳の少女・古川るり子さんに正体を見破られる
- 西口彰事件の時系列⑧ 逃亡から78日目で逮捕される
- 西口彰の裁判と死刑判決
- 西口彰の死刑と最後の言葉
- 西口彰の異常な結婚生活
- 西口彰の家族・子供や子孫のその後
- 西口彰はるり子さんにも手紙を出していた
- 西口彰事件の影響で「広域重要事件特別捜査要綱」が策定される
- 西口彰事件をモデルにした作品① 映画・小説『復讐するは我にあり』
- 西口彰事件をモデルにした作品② 恐怖の24時間
- 西口彰事件は「奇跡体験!アンビリバボー」でも話題に
- 西口彰と西口彰事件についてのまとめ
西口彰と西口彰事件の概要
西口彰とは1963年10月から1964年1月までの間に、福岡県で2人殺害、静岡県で2人殺害、東京都で1人殺害と殺人を繰り返しながら日本列島を移動し続けた連続殺人犯です。
また殺人容疑で警察に追われている間に、弁護士と身分を偽って金を詐取するなど複数の詐欺事件も起こしています。
「戦後日本最悪の連続殺人」とも呼ばれる西口彰ですが、彼が逮捕されるきかけとなったのは当時10歳の少女でした。
逮捕される直前に西口彰は熊本県にある立願寺という寺の住職の自宅を訪れ、弁護士を騙り家に上がり込んでいました。しかし、当時10歳であったこの家の娘が指名手配犯の手配書と同一人物だと西口彰の正体を見抜き、住職が警察に通報したことから逮捕されることとなったのです。
西口彰の生い立ち
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西口彰は1925年12月14日に大阪で生まれました。彼が誕生した当時、両親は故郷の長崎県五島列島から大阪に出稼ぎに出ていました。
そして西口彰が3歳になる頃には資金を貯めて五島列島に戻り、親類からの援助も受けてアジやサバの船2隻を購入。網元として成功し、島の有力者にまでなったといいます。
さらに父親は西口彰が12歳になる頃には福岡県内に果樹園、大分県別府市の温泉旅館を購入して旅館経営をはじめるなどしており、暮らしぶりは裕福だったとされます。
一方、江戸時代から隠れキリシタンという習俗があった五島列島で育ったという西口彰の両親は熱心なカトリック教徒であり、西口も生後まもない頃に洗礼を受けていました。
とくに父親は息子をカトリック教会の神父や司教にしたいと考えており、中学から西口を福岡にある全寮制のミッションスクールに通わせていたそうです。
しかしミッションスクールの戒律は厳しく、校風に馴染めなかった西口は3年生の2学期で逃げるように退学。そのまま家にも戻らず詐欺や窃盗を重ね、繰り返し少年院へ収監されていました。
西口彰事件の時系列① 最初の殺人と被害者
1963年10月18日、福岡県京都郡苅田町大字提にある苅田駅の西側の山道で日本専売公社(現在の日本たばこ産業株式会社)の職員、村田幾男さん(事件当時58歳)の遺体が発見されました。
そして同日、村田さんの遺体があった場所から2kmほど離れた京都郡みやこ町の仲哀峠にて、運送会社の運転手、森五郎さん(事件当時38歳)が次いで発見されました。
事件当時、村田さんはたばこの配給と集金の業務に出ており、村田さんが乗る現金集金車の運転をしていたのが森さんでした。現場からは村田さんが集金した現金およそ27万円がなくなっていたことから、福岡県警は金目当ての強盗殺人であると判断して捜査を開始。
目撃証言から現場付近に住んでいた西口彰が容疑者として浮上し、福岡県警は西口を全国指名手配にかけました。なお、この事件発生時に西口はすでに詐欺や窃盗で前科四犯であったとされます。
西口彰事件の時系列② 自殺を偽装
事件翌日の10月19日、新聞の朝刊でラジオで自分が指名手配されていることを知った西口は、「警察は(西口が)関西方面に逃げたと見ている」という情報を得て、宿を取っていた福岡市新柳町から佐賀県唐津市に移動しました。
そして唐津競艇で21万円を荒稼ぎした後、10月23日には佐賀県内から福岡県警行橋署に偽の情報を記した手紙を送り、自殺を偽装します。
西口が行橋署に送った手紙には自分が村田さんと森さんの2名を殺害したこと、償いとして自殺すること、そして現在は東京にいることなどが綴られていました。
そして10月25日に瀬戸内海を渡る連絡船・瀬戸丸に遺書をしのばせた上着と靴を置いて立ち去り、瀬戸丸から身を投げたかのように偽装したのです。
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香川県警から連絡を受けた福岡県警は、海上保安庁と協力して西口の遺体の捜索にあたりました。しかし、いくら探しても上着と靴以外の遺留品が出なかったことから、福岡県警は逮捕を免れるため偽装自殺をしたものと判断。西口は生きているものと見て捜査は続けられました。
西口彰事件の時系列③ 第二の殺人事件と被害者
九州を後にした西口は、神戸、大阪、京都、名古屋と移動を続けながら静岡県浜松市にたどり着きました。
そして10月28日に京都大学の教授と身分を偽って、浜松市内にある貸席「ふじみ」に宿泊。ここに逗留した際、西口は黒縁メガネにコートを着込み、「正岡」という偽名を使っていました。
さらに貸席の電話からたびたび静岡大学工学部に電話をかけるなどの演技をしており、「ふじみ」の女将の藤見ゆきさん(事件当時41歳)と母親のはる江さん(事件当時61歳)は、3日も経つと西口が大学教授であると信じ込んでしまったそうです。
また西口彰という人物は、非常に女性にもてました。獄中で西口が書いたとされる手記『罪は海よりも深し』によると、女将のゆきさんは西口が「ふじみ」に来た初日から4日めまでは部屋に呼ぶ芸妓や娼妓をどうするかと尋ねてきたものの、5日めには「女の子を部屋にあげないで自分と過ごして欲しい」と懇願してきたといいます。
女将のゆきさんはすっかり西口に惚れ込んでしまったようで、「先生、まだ泊まっていって」と頼んだそうです。しかし、女将親子に疑われないためにも西口は予定通りに「ふじみ」を後にします。
そして広島、徳島、沼津と居場所を転々とし、広島では「養護施設に寄付する」という名目で電気店からテレビ4台をだまし取って質に入れ、8万円を詐取しました。
その後、11月14日に西口が「ふじみ」に戻ると、女将のゆきさんは客室ではなく自分の部屋に西口を通し、そこに布団も用意したといいます。
女将親子は彼のための新しい着物まで仕立てていましたが、西口の狙いはあくまで金品でした。
11月18日、西口はゆきさんとはる江さんを絞殺して貴金属や宝石を盗み出し、これらを質に入れて4万8000円を入手。さらに委任状を偽造して「ふじみ」の電話加入権を10万円で質入れしました。
西口彰事件の時系列④ 特別手配
11月22日、警察庁は西口彰を「重要指名被疑者」に指定し、特別手配を開始しました。この特別手配は再犯の危険性がある凶悪犯に適用されるもので、西口は制度が始まってから5例目の適用でした。
しかし特別手配された後も、西口は以下のような詐欺や窃盗を繰り返しています。
・12月3日…千葉地裁に現れる。会計課職員を騙り、息子の罰金を払いにきたという女性から6000円を詐取する
・12月3日…千葉刑務所に移動。弁護士になりすまし、勾留中の男の母親から保釈金5万円を詐取する
・12月5日…福島県いわき市の弁護士事務所内で、弁護士バッジを盗む。以降は盗んだバッジを上着の襟につけ、弁護士になりすます
・12月7日…北海道沙流郡門別町の洋品呉服店に現れる。弁護士を騙って1万5000円を詐取する
・12月9日…東京都中央区日本橋兜町に現れる。そこから情報を仕入れたのか証券詐欺で捕まった男性の兄を訪ね、弁護士を騙って保釈手続き費用4万円を騙し取る
警察は西口の逃走の様子から、毎日1万円前後の消費をして手持ちの金がなくなると詐欺や窃盗をしていると予想し、以下のような顔写真の入ったポスターを50万部刷り、日本中に配布しました。
なお、手配書には西口彰の身長は165cmほどで痩せ型とあります。
西口彰事件の時系列⑤ 第三の殺人事件
再び東京に戻ってきた西口彰は、東京地裁の控室で見かけた弁護士・神吉梅松さん(事件当時82歳)に声をかけ、「民事事件を依頼したい」などと言葉巧みに騙して接触。
12月29日には豊島区内にある神吉さんの自宅アパートに上がり込み、ネクタイで首を絞めて神吉さんを殺害し、部屋にあった現金や弁護士バッジなど14万円相当を盗みました。
さらに西口は神吉さんの遺体をタンスに隠し、4日間、遺体のある部屋に潜伏していたとされます。
西口彰事件の時系列⑥ 古川泰龍氏のもとに現れる
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年が明けて1962年の1月2日、西口は熊本県玉名市にある立願寺に姿を見せました。当時、この寺で住職を務めていたのは、今なお冤罪が疑われる福岡事件の被疑者の支援活動をおこなっていた古川泰龍さん(事件当時43歳)でした。古川さんは福岡刑務所の教誨師もしていた人物です。
かつて西口が服役していた時、古川さんは講話で福岡刑務所を訪れたことがあったといいます。そのため西口さんは古川さんの顔や活動、住職をしている寺などを覚えていたのです。
古川さんを訪ねた西口は「自分は弁護士の川村といい、あなたの活動に感銘を受けて支援を申し出たくやってきました」などと、言葉巧みに取り入ろうとしました。
前日、1月1日のうちに古川さんに宛てて届けられた年賀状を盗んで支援者や冤罪被害者の名前などを調べておいた西口は、冤罪被害に興味がなければ知り得ないような情報を織り交ぜて話を進め、古川さんの信用を得ることに成功。
西口は次のターゲットとして古川さん一家を狙い始めました。
西口彰事件の時系列⑦ 10歳の少女・古川るり子さんに正体を見破られる
当時、古川さんは自費で冤罪被害者の支援をおこなっていました。そのため協力を申し出てくれる人がいるのはありがたい状況で、すっかり西口のことを善良な弁護士だと信じてしまったそうです。
しかし両親が西口と談笑しているなか、「川村弁護士」を紹介された古川家の次女、るり子さんは血相を変えて家から飛び出していきました。
るり子さんは同級生の少年と名前が似ていたことが気になって、西口彰の指名手配のポスターをよく眺めていたそうです。そのため、川村弁護士を見た時に「ポスターの人に顔が似ている!」とすぐに気づき、人相を確認するために近所に貼られていた指名手配のポスターを見に行ったのです。
ポスターを見て「家にいる人は、この人だ」と確信したるり子さんは、こっそり両親にそのことを知らせますが、最初は「子どもの言うことだ」「まさか、そんなことが」と古川さんも取り合いませんでした。
しかしるり子さんの姉の愛子さんも指名手配犯の西口彰と川村弁護士は同一人物にしか見えないと訴え、ポスターに書かれていた「額の右と頬にある小さなアザ」という特徴まで一致したことから、古川さんの妻も川村弁護士を疑うようになります。
さらに弁護士のわりに法律の知識が乏しいなど、話していて不自然な箇所に気づいた古川さんも、家を抜け出して西口の人相を確認。
家にいるのは娘たちが言うとおり連続殺人鬼で間違いない、と知った古川さんは何事もなかったかのように家に戻り、どうしたら西口を刺激せず、家族を守りながら警察が来るまでの時間稼ぎができるか思案しました。
そして思い切って古川さんは、川村弁護士こと西口彰に家に泊まらないかと提案したのです。
西口彰事件の時系列⑧ 逃亡から78日目で逮捕される
西口を家に泊めることに決めた古川さんは、まず家族に危害が及ばないよう鍵付きの部屋を用意しました。
妻が西口の話し相手をしている間に音を立てないように釘を打ち、部屋に錠前を取り付けて、そこに子どもたちを避難させました。西口に気づかれないように最新の注意を払って作業したため、釘を1本打つのに20分もかかったといいます。
そして午後11時になって西口に提供した部屋の電気が消えたのを確認すると、古川さんの妻と長女の愛子さんが家を抜け出して交番に向かい、家に西口らしき男がいることを説明。
すぐに一緒に来て欲しいと頼みましたが、相手が連続殺人犯であることから「人員を集める時間が欲しい」と言われ、結局、古川家の周囲を警察が囲んだのは翌1月3日の午前4時でした。
1月3日の朝、目が覚めた西口は危険を感じ取ったのか「福岡に行かなければいけない」などと言って、古川家を後にしようとしました。
しかし、家を出たところで警察に取り押さえられて敢え無く逮捕。逃亡から78日目で、やっと身柄が確保されたのです。
西口彰の裁判と死刑判決
短期間に金銭目当てに5人の人を殺害し、12万人もの警官から逃げ回った西口彰は古川るり子さんという1人の少女に正体を見破られ、あっさり逮捕されました。
逮捕後、西口は古川家には冤罪被害者の支援金があると思って近づいたこと、金を奪った後は一家を殺害して逃亡を続ける予定であったことを自供しています。また取調べ中に「やっぱり詐欺は面倒だ。簡単なのは殺しだね」などと言っていたそうです。
西口は殺人5件、詐欺10件、窃盗2件の罪状で起訴され、1964年12月23日に福岡地裁小倉支部で死刑判決が下されました。論告求刑で検察は西口のことを「史上最高の黒い金メダルチャンピオン」と非難し、判決では裁判官が「悪魔の申し子」と形容しています。
その後、1965年1月4日に弁護側が「被告人は犯行時、心神耗弱状態にあった。精神鑑定が十分になされていない」などと訴えて減刑を求めて控訴しましたが、8月28日に福岡高裁は控訴を棄却。
続いて9月10日に弁護側は最高裁に上告しましたが、1966年8月15日に西口本人が訴えを取り下げており、これによって死刑が確定しました。
なお、8月15日は一般的に終戦記念日として知られていますが、西口がこの日に上告を取り下げたのは戦争と無関係で、西口が知人に宛てた手紙には以下のような理由が記されていました。
1549年8月15日は、聖フランシスコ・ザビエルが伝導のために渡米した日。聖母マリア様が亡くなられて天に還られた聖母の被昇天祭が8月15日で、被昇天祭はカトリック教徒にとってクリスマスに並ぶ祝日。
西口彰の死刑と最後の言葉
1970年12月11日 、福岡拘置所にて西口彰の死刑が執行されました。享年44歳、最後の言葉は「遺骨は別府湾に散骨してください、アーメン」だったといいます。
当時、福岡拘置所には免田事件で収監されたいた冤罪被害者、免田栄さんも収監されていました。
無罪が確定して出所したのちに免田さんは、死刑当日の西口の様子について「死刑当日の服を自分で用意して、覚悟をしていて、潔かったですよ。拘置所にいた34年の間、複数の死刑囚を見送ってきたけれど彼のような人はいなかった」とTVの取材に答えていました。
西口彰の異常な結婚生活
西口彰は1946年10月、20歳の時に福岡県内で知り合った1歳年下の女性と結婚していました。
結婚前の1945年に西口は大阪で進駐軍の軍政部通訳養成所に入り英語を学んでおり、結婚翌年の1947年6月には長男が誕生しています。
この頃は真面目に生きていたのかと思いきや、長男が誕生した翌年の1948年には進駐軍の軍人をよそおって恐喝事件を起こし、懲役2年6ヶ月の実刑判決を受けていました。
大阪刑務所を出てからは別府市内でアメリカ兵相手のバーを開業して一儲けしますが、1951年には米ドルの不法所持で逮捕されて罰金刑に処され、1950年には進駐軍日系二世になりすまして「外車を安く売ってやる」などと言って籠脱詐欺を図って再び逮捕。懲役5年の実刑判決を受けています。
この2つの事件を起こした間に西口には娘が誕生していますが、第一子の息子も第二子の娘も父親と過ごしたことはほとんど無く、顔もよく知らないという状況だったそうです。
その後、1957年に西口は福岡刑務所を出所しましたが、1959年には詐欺罪等でまたもや逮捕。懲役刑を受けて小倉刑務所に収監されている1960年の8月に、妻との協議離婚が成立します。
しかし、カトリックの教義では離婚が厳しく禁じられているため、周囲に説得された西口は子ども達の母親である女性と1960年の12月には再婚。
ところが1962年に小倉刑務所を仮出所した西口は、再婚までしたにもかかわらず家族のもとに帰らず、福岡県行橋市内で愛人関係にあった女性と同棲生活を開始します。
そして36歳になっていた西口は知り合いのツテを頼って運送業の仕事に就き、そこで専売公社の集金業務のルートやスケジュールなどを知り、現金集金車を襲って売上を奪う計画を立てたとされます。
なお、この強盗殺人事件も生活費のために企てたのではなく、意中の女性に貢ぐための資金調達が目的でした。事件当日、西口は村田さんを金槌で滅多打ちにして殺害、犯行を目撃した森さんも追いかけて千枚通して殺害したとされます。
その足で西口は意中の女性が働く理髪店に行き、現金を渡した後に彼女と福岡市新柳町の旅館へ行ったとのことです。
西口彰の家族・子供や子孫のその後
死刑が決まった時、前述のとおり西口には妻と息子、娘の2人の子どもがいました。しかし出所しては事件を起こしを繰り返していたうえ、よそに女性をつくっていた西口と家族の縁は薄く、子どもは一緒に暮らした記憶さえないような有様でした。
それでも「稀代の殺人犯の子ども」という汚名は子どもたちを苦しめ、とくに高校生という多感な時期にあった息子は、道を外しそうなほど危うい精神状態にあったそうです。
そんな息子に対して西口は獄中から「父は、人として許されないことをした」「自分のようにならないでくれ。人間らしい人間として、正しく生きてくれ」としたためた手紙を20通以上も送り続けていたといいます。
古川泰龍さんとるり子さんが子供たちを支援
事件当時、妻と子どもたちは西口の両親が経営する別府の温泉旅館にいたそうです。しかし、西口が逮捕されたことで旅館も廃業に追い込まれ、一家は経済的にも困窮した状況にありました。
そのようななか、一家の支援を申し出た人物がいました。古川泰龍さんです。古川さんは自分たち家族も西口の被害者になっていたかもしれないという立場にありながら、残された子どもの支援を続け、学費の援助まで申し出たのです。
また古川さんは獄中の西口に向けて宗教関係の本を差し入れており、これが逮捕後も反省の様子を見せず、頑なであった西口の心を開いたとされます。
古川さんは真言宗の僧侶で、西口はカトリック教徒でした。2人の信仰は異なるものでしたが、宗教家として自分を救おうとする古川さんと接することで西口は自分を見直し、はじめて自分の罪を悔いるようになったのです。
この古川さんとのやり取りがあったからこそ、西口は最高裁への上告を取り下げたものと見られています。
西口は死刑が執行される日の朝、隣の房に収監されている死刑囚に「古川さんが来たら、念仏をお願いしますと伝えて欲しい」と言い残していたそうです。それほどまでに、西口にとって宗教家・古川泰龍は大きな救いになっていたのでしょう。
さらに西口彰事件を解決に導いた古川さんの娘、るり子さんも西口の息子に手紙を送り、2人は文通をする仲にまでなりました。
西口の息子は古川家を訪ねてきたこともあり、るり子さんと2人で事件が残した苦しみを語り合うこともあったそうです。
「お手柄少女」として一躍時の人となったるり子さんですが、事件後、自分がしたことについて悩む様子も見せていました。
もちろん連続殺人犯を止めた彼女の行いは、誰がどう見ても正しいものでした。しかし、るり子さんは西口に子どもがいたことを知ると父親に「みんなが被害者。殺された人も、遺された人も」と話していたといいます。
西口彰には孫がいた
古川さんやるり子さんに支えられ、死刑を前に父親が改心したことを知った西口の息子は、1969年に福岡拘置所に赴き、西口と面会を果たしていました。
面会に訪れた息子の腕には、生まれたばかりの赤ん坊が抱きかかえられており、自分の孫だと知らされた西口は、静かに涙を流したそうです。
なお死刑執行後、西口の遺骨は家族が引き取り、埋葬したといいます。
西口彰はるり子さんにも手紙を出していた
出典:https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/
逮捕から5年後、西口彰は自分を逮捕に追いやった古川るり子さんにも手紙を出していました。
ネット上では「気味が悪い」「怖い」とも噂されているこの手紙ですが、時期的には古川泰龍さんと手紙のやり取りをして改心していた後に出されたものですから、るり子さんに謝りたくて手紙を出したのでしょう。
また息子の更生にるり子さんが力を貸してくれたことも知っていたでしょうから、息子や娘の現在の様子をるり子さんから教えてもらえれば、という気持ちもあったのかもしれません。
西口さんがるり子さんに送った手紙には「るり子さんからしたら、自分は怖い人なのでしょうが、よかったら文通をして欲しい」という主旨の文が見られます。
この手紙を受け取った後、るり子さんが西口と文通したという話はありません。しかし気味が悪かったから返事をしなかったというより、連続殺人犯である西口本人の支援はまだ高校生のるり子さんには手に負えないものだったため、父親の泰龍さんに任せたのではないかと思われます。
西口彰事件の影響で「広域重要事件特別捜査要綱」が策定される
戦後、交通網の整備と自動車の普及によって広範囲で複数の犯罪をおこなう凶悪犯が増えたとされます。しかし一方の警察は管轄地域による縄張り意識が強く、広域犯罪に対してうまく連携が取れませんでした。そしてそれによって解決が遅れたり、被害が拡大することも見られました。
そのため警察庁は西口彰事件のような犯罪に対応できるように、1964年に「広域重要事件特別捜査要綱」を策定し、全国の警察が協力をして捜査にあたる警察庁広域重要指定事件を指定できるようにしました。
警察庁広域重要指定事件に指定された有名な事件としては、1968年の永山則夫連続射殺事件、1984年のグリコ森永事件などがあります。
西口彰事件をモデルにした作品① 映画・小説『復讐するは我にあり』
出典:https://www.shochiku-home-enta.com/
西口彰事件は佐々木隆三氏によって『復讐するは我にあり』のタイトルで小説化されました。そして1979年に、この小説をもとにした同名の映画が公開されています。
映画『復讐するは我にあり』は今村昌平監督作品で、西口彰をモデルとした連続殺人犯・榎津巌(えのきづ いわお)の犯した殺人と逃走劇、死刑までを通して榎津の人物像を描いています。
本作は第3回日本アカデミー賞および第22回ブルーリボン賞を受賞しており、配給収入6億円を記録しました。また1984年と2007年にはTVドラマ化もされています。
なお、『復讐するは我にあり』というタイトルについて原作者の佐々木隆三氏は「罪を裁くのは神の役目である」という意味でつけたとのことです。
西口彰事件をモデルにした作品② 恐怖の24時間
『実録犯罪史 恐怖の24時間 連続殺人鬼 西口彰の最後』は、フジテレビ系列の金曜ドラマシアターで放送されたTVドラマです。放送は1991年9月6日。
本作は実録と謳っているだけあって登場人物は一部実名となっており、西口彰は役所広司さんが演じています。
西口彰事件は「奇跡体験!アンビリバボー」でも話題に
西口彰事件、アンビリバボーでやってるけど、すげえそっくりだなぁ。
完璧やん。 pic.twitter.com/UHa4HTiYWQ
— 淫ディ劉 (@gaityo777) May 30, 2019
2019年5月30日の『奇跡体験!アンビリバボー』でも西口彰事件が取り上げられ、再現ドラマが放送されています。
番組内では西口が古川家にやってきてから逮捕されるまでを中心にドラマ化しており、古川家の長い夜が臨場感たっぷりに描かれていると話題になりました。
また2000年に逝去した古川泰龍さんの意思を継ぎ、現在は息子の龍樹さんが活動を続けている様子も紹介されていました。
西口彰と西口彰事件についてのまとめ
この記事では1963年から64年にかけて起きた西口彰事件と犯人、西口彰の生い立ちや家族との関係、死刑に至るまでの変化などを紹介いたしました。
稀代の悪人、人を騙すことも殺すこともなんとも思っていない悪魔と思われた西口ですが、死刑が決まって古川泰龍さんと交流するようになってからは、人が変わったように自分を省みるようになり、点字翻訳のボランティアにも励んでいたといいます。
5人もの命を奪っておいて収監されてから反省しても何にもならない、とも思います。しかし、このような悲劇に至る前に西口が古川さんのような方に出会っていれば、あるいは事件も起きなかったのではないかと考えると、やるせない気持ちにさせられます。