昭和初期、日本は軍国主義の流れができ、五・一五事件や二・二六事件、そして太平洋戦争に突入することになりましたが、そのきっかけを作った集団が「血盟団」です。
血盟団の概要やメンバー、思想・目的、血盟団事件の概要やなぜ起きたのか?その理由、「一人一殺」の提言や犯人の恩赦、血盟団のリーダーの井上日召についてと現在をまとめました。
この記事の目次
血盟団とは
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血盟団とは、1932年2月から3月にかけて起こった連続テロ事件(血盟団事件)を起こしたテログループです。
血盟団は井上日召をリーダーとした仏教系のカルト集団で、政財界の要人の暗殺を計画し実行しました。
また、血盟団のメンバーは血盟団事件後に逮捕された人もいましたが、残党たちが陸軍と結託して、事件から2ヶ月後に五・一五事件が起こったため、血盟団は五・一五事件のきっかけを作ったテログループと言えます。
「血盟団」という名前は、井上日召らメンバーが自ら名付けたわけではありません。
1930年末に日本国民党が開いた忘年会で、党委員長の寺田稲次郎が「君たちは南アにおけるダイヤモンドのようなものだ。(中略)血盟五人組だ」と言ったことから、血盟団と呼ばれるようになりました。
ただ、井上日召たちは自分たちが「血盟団」と呼ばれることを拒み続けていましたが、一連のテロ事件後に担当検事だった木内曾益によって「血盟団事件」と名付けられ、そこからこのテログループが「血盟団」と呼ばれるようになりました。
血盟団のメンバー
血盟団は20名程度の小さなグループでした。小さなグループでも一枚岩だったわけではなく、さらに3つのグループに分かれていました。
大洗グループ
大洗グループは次のようなメンバーがいました。
・古内栄司
・小沼正
・菱沼五郎
・黒澤大二
・照沼操
・堀川秀雄
・川崎長光
大洗グループは血盟団の基礎となった人たちです。リーダーの井上日召が農村地帯だった茨城県大洗に建設された護国堂で、井上日召が病気治療や加持祈祷などを行い、そこに集まってきた人たちです。
この大洗グループの中心人物は小尾学校の教員だった古内栄司でした。
帝大グループ
血盟団の帝大グループには次のようなメンバーがいます。
・四元義隆(東京帝大・法学部)
・池袋正釟郎(東京帝大・文学部)
・田中邦雄(東京帝大・法学部)
・久木田祐弘(東京帝大・文学部)
・田倉利之(京都帝大・文学部)
・森憲二(京都帝大・法学部)
・星子毅(京都帝大・法学部)
・須田太郎(國學院大學神学部生)
この帝大グループの中心メンバーは四元義隆です。四元義隆は東京に来た井上日召と知り合い、三月事件後に大洗グループに合流することになりました。
海軍将校グループ
血盟団には海軍将校グループもいます。海軍将校を血盟団とはしない説もありますが、海軍将校グループがいなければ、血盟団はテログループにはならなかった可能性が高いため、ここでは海軍将校グループも血盟団のメンバーとしてカウントします。
海軍将校グループのメンバーはこちらです。
・藤井斉
・古賀清志
・中村義雄
・山岸宏
・三上卓
・大庭春雄
・伊東亀城
ただ、海軍将校グループは1932年1月28日に第一次上海事変が勃発して、前線に送られることになったので、実際の暗殺・テロ事件には参加していません。
血盟団の思想・目的
血盟団の思想・目的は仏教思想ベースの昭和維新です。「天皇中心主義にもとづく国家革新」と言い換えることもできます。テロ活動からクーデターを起こして、日本国を変えることを目的にしていました。
ただ、血盟団の特徴は宗教的な思想が強いことです。血盟団のリーダーの井上日召は僧侶ではありませんが、日蓮宗の信者でした。
そして、血盟団の中心となった大洗グループもこの井上日召の日蓮宗の教えや病気治療や加持祈祷などから集まって、自然発生的に作られたグループで、血盟団の思想には日蓮宗が色濃く反映されていました。血盟団はカルト集団と評価する声もあります。
血盟団は井上日召が信奉した日蓮宗の教えである「現世そのものを浄土にしよう」という革命思想をもとに、天皇中心主義のままで国家を革新することが目的でした。
血盟団事件はなぜ起きた?
血盟団の思想・目的は仏教(日蓮宗)思想をベースにした昭和維新でしたが、血盟団事件はなぜ起きたのでしょうか?
血盟団が結成され、血盟団事件が起こるまでの経緯を見ていきましょう。
当時の時代背景
血盟団事件はなぜ起きたかを考えるためには、まずは当時の時代背景を知る必要があります。
1914年に第一次世界大戦が起こると、日本は軍需品などの輸出で好景気(大戦景気)になり、造船や海運、鉄鋼業などが発展し、成金と呼ばれる人たちが出現します。しかし、この好景気の恩恵に預かることができたのは一部の人だけでした。好景気に伴って物価が高騰し、庶民は生活苦に苦しむことになるのです。また、終戦後は不景気になりました。
そこに、1923年に関東大震災が起こり、日本経済はさらに打撃を受けました。そして、1929年にアメリカの株価が大暴落し、そこから世界恐慌が始まりました。
日本全体が不景気に陥っていた中、最も打撃を受けたのはやはり農村部です。農村部は貧困にあえぐ状況でした。
さらに政治も安定せず、内閣は次々に代わり、不景気への対策もない状態が続いたため、国民は政治不信に陥ります。
そして、第一次世界大戦後、世界は軍縮に向かいます。それに伴って日本も軍縮を宣言しますが、この軍縮は世論は歓迎しますが、当然陸軍・海軍は不満を持ちます。
また、この頃はロシア革命が起こり、マルクス主義・共産主義の考え方が日本にも入ってきました。そうすると、右翼思想を持った学生は危機感を持ち、「今のままでは良くない!」と革新熱が高まります。
これらのことで、血盟団の各グループが生まれることになったんです。
・不景気で農村貧窮→大洗の農村部で大洗グループ誕生
・政情不安定で軍縮で陸軍・海軍が不満→海軍将校グループ誕生
・共産思想が流入してきて右翼が危機感→帝大グループ誕生
このような感じで、血盟団が生まれる素地はできていきました。
井上日召の神秘体験
血盟団のリーダーである井上日召は医師の三男として生まれ、早稲田大学を中退後、満州に渡り、南満州鉄道に入社してスパイ活動などを行っていました。
1920年に帰国すると、座禅行を行うようになります。すると、1912年ごろから不思議な神秘体験をするようになり、病気平癒の加持祈祷ができるようになり、僧侶ではないものの、悟りを開いたとされています。
井上日召のカリスマ性を利用
血盟団のリーダーである井上日召は、元々強いカリスマ性を持つ人物でした。その人物が悟りを開いて病気治療や加持祈祷ができるというのですから、それを利用とする人が現れます。
まずは満州時代に知り合った高井徳次郎が、故郷の群馬で座禅をしていた井上日召の前に現れます。高井徳次郎は茨城県の大洗に立正護国堂を立てるから、そこで井上日召に病気治療や加持祈祷をしてほしいと依頼したのです。
この高井徳次郎は井上日召のカリスマ性に目をつけて、病気治療や加持祈祷を宣伝して、自分が関係している水浜鉄道の乗客を集客しようと考えていました。高井の依頼で、井上日召は大洗を拠点にして活動するようになりました。
井上日召のカリスマ性に人々が集まる
井上日召が大洗の護国寺で活動をするようになると、大洗の農村部の青年が集まるようになり、大洗グループが自然に形成されました。
そして、1929年に藤井斉が霞ヶ浦海軍航空隊に赴任し、「一洗会」という懇親会で井上日召と藤井斉が知り合いました。これで、井上日召と海軍将校がつながります。
その後、後述のように井上日召の思想がテロリズムに傾くようになると、1930年末には井上日召は東京を本拠地にするようになり、藤井の紹介で東京の金鶏学院に住むようになりました。金鶏学院には帝大グループの四元義隆や池袋正釟郎らがいて、ここで帝大グループと井上日召につながりができました。
強いカリスマ性を持つ井上日召を中心して、バックグラウンドが全く違う大洗グループ、海軍将校グループ、帝大グループが結びついた血盟団が結成されたと言えます。
いつの間にか暴力に訴えるようになる
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井上日召は日蓮宗の浄土思想をベースに「皇国思想・国家改造」を唱えていましたが、最初からテロなどの暴力に訴えようという思想は持っていませんでした。
井上日召は自分で教団を起こして、信者を数十万人に増やし、そこから信者と共に国会議事堂に行って、国家改造を迫るという計画を立てていました。
しかし、海軍将校の藤井斉に次のようなことを言われます。
和尚は寺に居ってお経ばかり読んで居るから最近の国状が判らんのでそんな呑気なことを言つて居るのだ、国家の現状が今日程に行詰まらず上層圧迫階級相互の連絡も今日程鞏固きょうこにならない以前なら兎も角今日となっては何時何処からどんな事件が突発するかも知れず又国民大衆の苦境を思ふ時には一刻も早く吾々殉国の志士が起つて改造を断行せねばならん
つまり、「悠長なことを言わずにさっさと武力行使で行け!」と焚きつけられた形になります。
この藤井斉の言葉で、井上日召はテロ思想に傾いていき、血盟団はテログループに変貌していくのです。
血盟団事件の概要
血盟団事件は、1931年2月に井上日召が拠点を大洗から東京に移してから計画・実行されました。
三月事件
1931年3月に日本陸軍の中堅幹部によって計画されていたクーデターには、血盟団のメンバーも関与していました。
中心的な役割ではなく、前衛隊として三月事件を引き起こすための機動部隊の役割を血盟団メンバーは担う予定でしたが、前衛隊が銀座でデモを行おうとしたら警察にデモの解散を命じられて、結局、三月事件は未遂に終わります。
この三月事件の失敗を機に、血盟団は武力による暴力革命の道を模索するようになります。
そして、十月事件が起こります。
十月事件
1931年8月26日、外苑の日本青年会で「郷詩会」という会合があり、この会合には血盟団メンバーと五・一五事件・二・二六事件の関係者がほぼ全員出席しています。そして、この場でクーデターを実行することが決められました。
十月事件とは1931年9月18日に満州事変のきっかけとなる柳条湖事件が起こりましたが、当時の政府は「不拡大・局地解決」の方針が決められたことに、陸軍急進派が不満を持ち、三月事件のメンバーたちが中心となってクーデターを起こそうとしたものです。
この十月事件では大洗グループや帝大グループの血盟団のメンバーが、日本の大物政治家である牧野伸顕・西園寺公望・一木喜徳郎・鈴木貫太郎を暗殺する計画になっていましたが、結局はクーデター計画が陸軍中枢部に漏れて、クーデターはまたも未遂に終わりました。
暗殺計画と準備
三月事件で血盟団は武力による革命・クーデターを志すようになり、十月事件では陸軍グループと距離を置くようになりました。
というのも、十月事件では暗殺実働部隊を血盟団メンバーが担ったものの、血盟団リーダーの井上日召はクーデターグループの中心に入り込むことができず、クーデター成功後に樹立する政府要人のメンバーにも選ばれなかったからです。
このことで、血盟団は陸軍グループを信用しなくなり、血盟団だけでテロ・クーデターを行うことになりました。
1932年1月に行われた会合では、井上日召は次の2つの選択肢を提案します。
・第1案:失敗を期し捨て石になる覚悟で行けるところまで行ってみる
・第2案:適当な時期まで待ち、軍部将校と共同戦線を張る
井上日召自身は、テロには消極的な考えであり慎重派(第2案)でしたが、大多数が第1案に賛成だったため、できるだけ早く「テロ」を行い、政界・財政界の中で自分たちの考えとは違う大物を暗殺することが決まったのです。
このテロの期日は紀元節の「2月11日」と決められました。
テロ実行に向けて盛り上がった血盟団でしたが、1月28日に第一次上海事変が勃発し、海軍将校メンバーは前線勤務を命じられたため、テロ計画に参加できなくなりました。
そして、政財界の暗殺対象人物をピックアップし、暗殺対象メンバーが振り分けられました。
・池田成彬(三井合名会社筆頭常務理事):古内栄司(大洗グループ)
・西園寺公望(元老):池袋正釟郎(帝大グループ)
・幣原喜重郎(前外務大臣):久木田祐弘(帝大グループ)
・若槻禮次郎(前内閣総理大臣):田中邦雄(帝大グループ)
・徳川家達(貴族院議長):須田太郎(帝大グループ)
・牧野伸顕(内大臣):四元義隆(帝大グループ)
・井上準之助(前大蔵大臣):小沼正(大洗グループ)
・伊東巳代治(枢密院議長):菱沼五郎(大洗グループ)
・団琢磨(三井合名会社理事長):黒沢大二(大洗グループ)
・犬養毅(内閣総理大臣):森憲二(帝大グループ)
この後メンバーの入れ替えがありましたが、血盟団12人で暗殺を実行することは決定されました。
井上準之助の暗殺
血盟団に最初に狙われたのは、元大蔵大臣の井上準之助です。井上準之助は濱口内閣で大蔵大臣を務め、金解禁とデフレ政策を断行して昭和恐慌を引き起こしたため、最初のターゲットにされたようです。
1932年2月6日、井上日召から暗殺用の拳銃を受け取った小沼正(大洗グループ)は実家がある大洗に戻り、拳銃の試射をした後、担当の井上準之助の演説会に行き、暗殺のチャンスをうかがいます。
2月9日に井上準之助が小学校で演説を行うことを知った小沼は、自動車から降りてきた井上準之助を狙って背後から近づき、井上の腰に拳銃を当てて3発発射しました。
小沼はその場でステッキで殴られて取り押さえられ、逮捕されています。小林準之助は病院に搬送されたものの、死亡しました。
團琢磨の暗殺
それからもほかのメンバーがそれぞれ担当の財政界の大物の暗殺の機会をうかがいますが、菱沼五郎(大洗グループ)はなかなか担当の伊東巳代治の暗殺チャンスはなく、三井財閥総帥の團琢磨にターゲットを変更しました。
菱沼五郎は3月5日、三井銀行本店に出社してくる團琢磨を待ち伏せし、車から降りてきた團琢磨のあとを追って、背後からピストルを1発撃ちました。團琢磨は死亡しましたが、菱沼はその場で取り押さえられ逮捕しています。
一斉逮捕
血盟団による2件の暗殺が行われましたが、どちらもその場で犯人である小沼と菱沼は逮捕されています。
小沼と菱沼はどちらも黙秘を続けていましたが、警察はこの2つの事件の犯人に次のような共通点を見つけます。
・どちらも同い年の22歳
・拳銃が同じ型
ここから捜査を進めていくと、井上日召をリーダーとした怪しいグループに行きつき、このグループは暗殺集団・テログループであることが判明しました。
残りの血盟団のメンバーはさらなる暗殺計画を立てていましたが、警察は井上日召の潜伏先もほぼ掴んでいる状態で、逮捕は時間の問題だったため、井上日召は3月11日に警察に出頭し逮捕され、他のメンバーも芋づる式に一斉逮捕となりました。
血盟団事件は井上日召により「一人一殺」が提言された
井上日召は血盟団事件の計画を立てている時に、「一人一殺」を提唱しています。「一人一殺」とは、その意味の通り、一人が一人を暗殺する」というものです。だから、血盟団事件では、血盟団のメンバーがそれぞれ誰を暗殺するかを決めたのです。
井上日召によると、一人一殺は暗殺の効率を考えた結果とのことです。
一人一殺を唱えた井上日召は、標的のみを殺害して、周辺には被害を広げないために拳銃を用いて暗殺しました。
井上日召は戦後の1953年に「一人一殺 – 井上日召自伝」という本を出版しています。
ちなみに、一人一殺を提唱した井上日召はリーダーという立場だったこともありますが、十月事件でも暗殺部隊に入っていませんし、血盟団事件でも暗殺担当にはなっていませんでした。
血盟団事件の犯人は恩赦で全員すぐに出所
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血盟団事件では次の14人が犯人として逮捕されました。そして、判決は想像以上に軽いものだったんです。
・井上日召:殺人罪で無期懲役
・小沼正:殺人罪で無期懲役
・菱沼五郎:殺人罪で無期懲役
・古内栄司:殺人罪で懲役15年
・四元義隆:殺人罪で懲役15年
・池袋正釟郎:殺人罪で懲役8年
・久木田祐弘:殺人罪で懲役6年
・須田太郎:殺人罪で懲役6年
・田中邦雄:殺人罪で懲役6年
・田倉利之:殺人罪で懲役6年
・森憲二:殺人罪で懲役4年
・黒澤大二:殺人罪で懲役4年
・星子毅:殺人罪で懲役4年
・伊藤広:殺人ほう助罪で懲役3年
テロを起こして2人殺害しておきながら、最高でも無期懲役の判決です。
求刑に対して、判決は非常に寛大なものでした。これは、この血盟団事件の後すぐに発生した五・一五事件でも同様の傾向が見られていますが、なぜ犯人たちに寛大な判決が出たのかはまだよくわかっていません。
ただ、裁判の中で、井上日召ら被告は裁判官の忌避申し立てを行っていて、裁判官が1人辞任しています。忌避申し立ての理由は「自分たちの思想に共感していない裁判官に裁かれるつもりはない」というものでした。このようなことがあったため、判決は寛大なものだったのかもしれません。
恩赦ですぐに釈放
血盟団のメンバーはリーダーの井上日召と他2名は無期懲役、そのほか有期刑が懲役3~15年でしたが、恩赦や大赦で減刑されました。そして、1940年に皇紀2600年の記念恩赦で全員が出所することになったんです。
判決が出たのは1934年11月のこと。ということは、無期懲役の判決が出たのにも関わらず、井上日召は6年足らずで出所したことになります。
時代の違いもあるかもしれませんが、テロ・殺人を犯して、6年で出所というのは、なんだか納得いかないですね。
血盟団の井上日召はカリスマ性はあるが家族にはクズ
血盟団はリーダーの井上日召にカリスマ性があったから人が集まってきて、大洗の農民・海軍将校・帝大学生というバックグラウンドが全く異なる人たちが1つのグループとして活動することができました。
つまり、血盟団は井上日召あってのものであり、井上日召のカリスマ性が支えていたと言っても良いでしょう。
ただ、井上日召自身は聖人だったわけではありません。
井上日召は結婚して娘がいましたが、脊椎カリエスを患う病弱な妻を働かせて、家にはあまり寄り付かなかったとのこと。もちろん、経済的な援助をしていたわけでもありません。
血盟団事件後に出所した時も家族のもとに帰るわけではなく、右翼団体「護国団」を作り、神楽坂の芸者を妾にして、鎌倉に家を建てて妾と共に暮らしたとのこと。
自分の理想に燃えるのは良いことですが、家族を顧みず、それどころか妾を作って家族をないがしろにするというのは、聖人とは真逆の生活をしていたと言えるでしょう。カリスマ性がある宗教家でも、成人というわけではないんですね。
血盟団事件後の現在
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血盟団事件後、1940年に出所した井上日召は戦後に右翼団体「護国団」を結成して活動を続けました。また、四元義隆は鈴木貫太郎の秘書になるなど出所後すぐに政権中枢に潜り込み、戦後は政界の黒幕・フィクサーとして暗躍し、細川政権では「陰の指南役」とも言われていました。
この血盟団の帝大グループの中心人物だった四元義隆は、2004年に亡くなっています。また、血盟団のメンバーで事件にも関わり、逮捕されなかったため、五・一五事件にも関与した川崎長光は2011年に亡くなっています。本当に、つい最近までご存命だったということですね。
血盟団の拠点だった大洗の立正護国堂は現存していて、井上日召の銅像や昭和維新烈士之墓が残っています。
血盟団のまとめ
血盟団の概要やメンバー、思想や目的、血盟団事件はなぜ起きたのか、事件の概要、犯人の判決や恩赦、井上日召のカリスマ性とクズっぷり、現在をまとめました。
時代の流れがあったとはいえ、井上日召のカリスマ性や情熱をもっと違う形で生かすことはできなかったのかと思ってしまいますね。