「西南戦争」は1877年に起きた士族による新政府に対する大規模反乱です。
この記事では西南戦争がなぜ起きたのか、背景や経緯などをわかりやすく解説し、西郷隆盛をはじめとする中心人物紹介、激戦地の田原坂や生き残りのその後、日本へのその後の影響などについてまとめました。
この記事の目次
西南戦争は西郷隆盛を盟主として起きた士族の武力反乱
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「西南戦争」とは、1877年に九州地方(鹿児島、宮崎、熊本、大分)で起きた、明治政府に不満を持つ士族が起こした武力反乱です。
旧薩摩藩士を中心とする九州地方の不平士族が、維新の英雄として高い求心力を持っていた西郷隆盛を総大将に擁立して大軍を起こしました。
挙兵の名目は西郷隆盛の暗殺を企てた政府を上京の上で尋問するというものでしたが、本質的な目的は新政府成立以降次々と奪われていた士族の特権を回復させる事と、新政府の有力者による専制的な政治体制を倒す事でした。
当初、西郷隆盛を中心とする反乱軍は、熊本鎮台(九州地方を管轄する新政府軍部隊)が立て篭もる熊本城へと猛攻を仕掛けますが陥落させる事ができず、各地から派遣された新政府軍の増援と激戦を繰り広げるも次第に押し返され、その後は敗退を重ねて8ヶ月ほどで鎮圧されました。
西南戦争は明治初期に立て続けに起こった士族の反乱の中でも最大のもので、日本国内で発生した歴史上最後の内戦となっています。
ここでは、この西南戦争がなぜ起きたのかの原因や背景、西郷隆盛ら薩軍側と政府軍側それぞれの中心人物、勃発から反乱鎮圧までの経緯などをわかりやすく紹介します。
西南戦争をわかりやすく解説① なぜ起きたのか原因や背景
まずは、西南戦争がなぜ起きたのかの経緯や背景をみていきます。
西南戦争はなぜ起きたのか① 武士階級の解体
1868年1月に、260年以上続いた江戸幕府が倒れて新政府(明治政府)が成立しました。新政府が目指したのは天皇を中心とした中央集権的な体制で、江戸時代の特権階級であった士族(旧武士)の持っていた既得権益を奪う政策を次々と行いました。
新政府は、武士階級の廃止を目的に四民平等を謳い、1873年に徴兵令を出しました。この時まで日本国内の軍事力はほぼ全て武士階級が担っていましたが、それに依存しない軍事力を担保する事がこの徴兵令の目的でした。これによって武士階級は実質的に解体される事が決定づけられました。
西南戦争はなぜ起きたのか② 西郷隆盛が明治政府から離れ鹿児島へと戻る
西南戦争の主役ともいうべき西郷隆盛は、「大政奉還」や「戊辰戦争」などで活躍し、新政府発足後は、参議、近衛都督、陸軍大将として政府の中枢の1人として政治に加わっていました。
当時、新政府は統治者が将軍から天皇に変わった事を受けて、朝鮮との国交回復を目指す方針をとりました。しかし、朝鮮側がこれを拒絶したため関係が悪化し、国内では武力で朝鮮を従わせようとする「征韓論」が強まりました。
西郷隆盛は征韓論には賛成だったものの、即時出兵には反対し、まずは自分が大使となって朝鮮に赴くと主張。西郷隆盛は、朝鮮側は使節に対して暴挙を働くであろうから、その上でそれを大義名分として出兵すべきという考えを示しました。
しかし、大久保利通や岩倉具視らがこれに反対し、一度は明治天皇に認められた朝鮮への使節派遣を中止にしてしまいます。
西郷隆盛はこれに反発し、1873年10月23日に政府に辞表を提出し、故郷の鹿児島県へと戻ってしまいます。翌10月24日には同じく征韓論を支持していた板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、福島種臣らも参議を辞して野に下りました。
また、西郷隆盛に心酔する薩摩出身の多数の近衛将兵が職を辞して、西郷とともに鹿児島へと戻ってしまいます。
この出来事は「明治六年政変」と呼ばれています。
西南戦争はなぜ起きたのか③ 西郷隆盛が鹿児島で私学校を設立
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鹿児島に戻った西郷隆盛は、1874年6月に、旧鹿児島城の厩跡に「私学校」を設立しました。
西郷隆盛が私学校を設立した意図は、新政府の政策に対して不満を鬱積させる旧薩摩藩士族の暴発を抑える事にあったとも言われています。
ところが、この私学校は次第に反新政府思想を抱く政治結社と化していき、西郷隆盛の私兵集団の様相を呈するようになり、西南戦争の直接的な原因となります。
新政府側もこの私学校の存在を警戒して監視を強めるようになりました。
西南戦争はなぜ起きたのか④ 武士階級の特権を奪う政策が次々と発令される
新政府は、1873年7月から全ての土地に税金をかける「地租改正」を推し進めました。この制度の中で、元々士族に知行されていた農民の耕作地が、士族の所有から外される事になりました。
1875年には「平民苗字必称義務令」を発布し、公家や武士階級のみに許されていた苗字を名乗る特権がなくなりました。
1876年には、廃刀令(帯刀の禁止)と秩禄処分(華族や士族に与えられていた家禄や賞典禄の廃止)が発令されました。
家禄とは藩から武士に支払われていた給料で、廃藩置県後は明治政府が支給していました。賞典禄とは維新での功績に応じて政府から与えられていた賞与で継続的に支払われていました。これが廃止される事になり、士族は主な収入源を失う事になりました。
西南戦争はなぜ起きたのか⑤ 新政府に不満を抱いた士族の反乱が各地で発生
既得権益のほぼ全てを奪われた士族(旧武士階級)は不満を募らせ、各地で反乱を起こしました。
皇国一新見聞誌 佐賀の事件(佐賀の乱)
1874年2月、旧佐賀藩士の江藤新平と島義勇らが中心となって「佐賀の乱」を起こしますが1ヶ月ほどで鎮圧されています。敗戦が濃厚となると江藤新平は逃亡して西郷隆盛の元へと赴き薩摩士族の決起を求めますが、西郷は応じませんでした。江藤新平ら首謀者はその後捕らえられて死罪となっています。
熊本暴動賊魁討死之図(神風連の乱)
1876年10月24日には、旧肥後藩士の太田黒伴雄、加屋霽堅、斎藤求三郎ら新政府に不満を抱いて結成された「敬神党(陣風連)」が170名で反乱を起こしました。
「敬神党」は熊本鎮台司令長官の種田政明、熊本県令の安岡良亮の自宅を襲撃して両名を殺害し、熊本城内にあった熊本鎮台も襲撃して砲兵営を占拠しました。
しかし、翌日には態勢を立て直した政府軍の反撃を受けて、首謀者の太田黒伴雄や加屋霽堅ら反乱軍のうち7割近くが戦死し、生き残りも捕縛されて鎮圧されました。
「神風連の乱」から3日後の1876年10月27日には、敬神党から呼応して決起するように依頼されていた旧秋月藩士族の宮崎車之助以下230名(約400名という説も)が福岡県の秋月(現在の朝倉市秋月)で蜂起しました。(秋月の乱)
しかしこれも新政府軍の攻撃を受けて10月31日までに鎮圧されています。
旧秋月藩士の蜂起の翌日の10月28日、山口県の萩で元参議の前原一誠以下約300名(諸説あり)が、「殉国軍」を名乗って挙兵しました。(萩の乱)
10月31日に政府軍と交戦するも敗れ、首謀者の前原は船を使って天皇に直訴を試みますが途中で捕縛され、12月3日に山口裁判所で斬首刑の判決が下されています。
このように、九州地方を中心に不平士族の反乱が相次いで発生していました。西郷隆盛はこの士族の反乱に共感を覚えていたようで、桂久武に宛てた手紙の中で「この3日愉快な報を得た。自分も1度起てば天下を驚かせるだけの事はしよう」といった内容を書いています。
西南戦争はなぜ起きたのか⑥ 火薬庫襲撃事件(弾薬掠奪事件)
各地で士族の反乱が勃発する中、新政府は鹿児島に銃器製造工場や火薬製造工場を置いておくのは危険だと考えるようになり、1977年1月29日、政府は鹿児島県に三菱会社の汽船「赤龍丸」を秘密裏に鹿児島へと派遣し武器弾薬を大阪へと運び出させています。
これに怒った私学校党の約1000名が、1月29日夜から2月2日にかけて草牟田の陸軍火薬庫、磯の海軍造船所などを襲撃して弾薬と小銃を大量に奪っています。この時に私学校党が略奪した弾薬は約84000発だと言われています。
西南戦争はなぜ起きたのか⑦ 政府が西郷隆盛の暗殺計画を企てた疑いが浮上
1876年の暮れ、私学校の視察と情報収集および、反乱思想を持たないように説得するように指示を受けた鹿児島県出身の警察官24名が「帰郷」の名目で鹿児島に派遣されました。
1877年1月から2月にかけて、派遣された警察官らは私学校党の情報収集と説得にあたっていますが、彼らが派遣された目的は西郷隆盛の暗殺であるという噂が流れ、警戒を強めた私学校党によって2月3日から7日の間に全員とその関係者が逮捕されました。
私学校党は警察官らに苛烈な拷問を加え、警視庁大警視川路利良から西郷隆盛を暗殺するように指示を受けたと自白させています。これは、私学校党が西郷隆盛を盟主に兵を起こす際に口実とにされますが、暗殺計画が実際にあった可能性は低く、口実を作るために私学校党が捏造したとする説が有力となっています。
西南戦争はなぜ起きたのか⑧ 政府を詰問する事を名目に薩軍が挙兵
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政府による火薬の引き上げや西郷隆盛暗殺計画は私学校党を挑発し、彼らはついに決起を決断。西郷隆盛も最早これを抑える事はできず、討議の結果、西郷隆盛を盟主として兵を起こし、その兵を率いて上京して政府に事の真意を問いただす事が決まりました。
すぐに軍の編成が進められ、1877年2月15日、西郷隆盛を盟主として薩軍約1万6000名(諸説あり)が薩摩から熊本へ向けて出陣しました。
これに呼応して、熊本県や宮崎県、大分県の士族も参集し、西郷軍は2万人から3万人という大兵力に膨れ上がっています。
政府もこれに対応して、全国から兵力を動員して征討軍の派遣を決定。これにより西南戦争が勃発する事となりました。
西南戦争をわかりやすく解説② 西郷隆盛ら反乱士族側の中心人物
西南戦争で政府に対して反乱を起こした、西郷隆盛ら士族側の中心人物を見ていきます。
西南戦争の反乱士族側の中心人物① 西郷隆盛
西郷隆盛(さいごう・たかもり)
生年月日:1828年1月23日
没年月日:1877年9月24日(享年49歳)
出身地 :薩摩国鹿児島郡加治屋町
新政府に対して反乱を起こした士族側の総大将として担ぎ上げられたのが西郷隆盛でした。
西郷隆盛は、薩摩藩の下級武士の家の生まれでしたが、若い頃に当時の薩摩藩主・島津斉彬に見出されて重用され、この時代に幕府の要人や大名、その側近らと関わって人脈を築きました。
その後、幼少期からの友であった大久保利通と共に薩摩藩の中心人物の1人となり、倒幕勢力の急先鋒として薩長同盟の締結や戊辰戦争で活躍。
新政府成立後、西郷隆盛は政権に加わる事を拒み続けていましたが、大久保利通らに説得されて参加を決め、政治改革に力を奮いました。
しかし、征韓論をめぐる政府内の対立によって要職を辞して野に下り、故郷鹿児島で隠遁生活を送っていたところを新政府に反発する不平士族に中心人物として担ぎ上げられ、西南戦争を引き起こす事になりました。
西南戦争では、旗頭として西郷の求心力の発揮のみを望む幹部らに強固に警護されて思うままに行動する事はできず、軍の指揮を取る事はほとんどありませんでした。
西南戦争での反乱士族側の敗戦が濃厚となる中、西郷隆盛は鹿児島に退いて城山での最後の戦いで陣頭指揮を取る最中に敵の銃弾を受けて死を悟り、側近の別府晋介の介錯により自害して果てました。
西南戦争の反乱士族側の中心人物② 篠原国幹
篠原国幹(しのはら・くにもと)
生年月日:1837年1月11日
没年月日:1877年3月4日(享年40歳)
出身地 :薩摩国鹿児島郡平之町
篠原国幹は、戊辰戦争の頃からの西郷隆盛の股肱の臣の1人で、維新での功績により、新政府では陸軍少将、近衛長官に任じられました。
西郷隆盛が征韓論をめぐって新政府を離れた際には、明治天皇の引き留めすらも拒んで西郷に続き職を投げ打って鹿児島へと戻っています。その後、西郷隆盛の私学校の設立にも関わり、同銃隊学校監督となります。西南戦争での薩軍決起の際には西郷隆盛の副将格とも言える一番大隊長を務めました。
西南戦争では兵力に勝る新政府軍を相手に奮戦しますが、激戦地となった吉次峠での戦闘で陣頭指揮を取っていたところを官軍兵に狙撃されて戦死しています。
篠原国幹の戦死を知った薩軍は復讐心から奮い立ち、一時は敵を押し返しています。
西南戦争の反乱士族側の中心人物③ 桐野利秋
桐野利秋(きりの・としあき)
生年月日:1839年1月16日
没年月日:1877年9月24日(享年38歳)
出身地 :薩摩国鹿児島郡鹿児島近在吉野村実方
桐野利秋は西郷隆盛の側近の1人で戊辰戦争でも活躍。新政府成立後は維新での功績により陸軍少将となり、鎮西鎮台(熊本鎮台の前身)の司令長官や陸軍裁判所所長に任じられています。
しかし、西郷隆盛が征韓論をめぐって下野した際にはそれに従って陸軍を辞して鹿児島へと戻り、私学校設立にも関わって幹部の1人となっています。
西南戦争では四番大隊長を任せられ総司令も兼任しました。熊本城攻囲戦、最大の激戦地となった田原坂の戦いでも奮戦しますが敗れ、城山での最後の戦いでは西郷隆盛の自刃を見届けた後、岩崎口へと突入し銃弾を受けて戦死しています。
西南戦争の反乱士族側の中心人物④ 村田新八
村田新八(むらた・しんぱち)
生年月日:1836年12月10日
没年月日:1877年9月24日(享年40歳)
出身地 :薩摩国鹿児島郡薬師町
村田新八は幼い頃から西郷隆盛を兄のように慕っていた薩摩藩士の1人で、戊辰戦争でも西郷隆盛の側近として小隊を率いて活躍しました。
新政府成立後は西郷隆盛の推挙で宮内大丞に任じられ、岩倉使節団の一員として欧米視察にも同行しています。欧米視察から帰国後、西郷隆盛が征韓論をめぐって鹿児島へと帰郷した事を知って衝撃を受け、自身も宮内大丞を辞職して鹿児島へと戻りました。
帰郷後は私学校の設立にも関わり、その砲隊学校、章典学校(幼年学校)の監督となりました。
西南戦争では薩軍の二番大隊長に任じられ、熊本城の包囲攻撃、最大の激戦地となった田原坂での戦い、人吉での攻防戦にも加わりますが敗れて鹿児島へと退き、城山で西郷隆盛の自刃を見届けたのちに、岩崎口へと進撃して一塁に篭って最後の抵抗を試みたのち、最後は自刃して果てました。
西南戦争の反乱士族側の中心人物⑤ 桂久武
桂久武(かつら・ひさたけ)
生年月日:1830年7月4日
没年月日:1877年9月24日(享年47歳)
桂久武は薩長同盟の締結で大きな功績を残した事で西郷隆盛からの信頼を受け、桂久武もまた西郷隆盛の人柄に心酔し親友同士のような関係となっています。
新政府成立後は都城県参事、豊岡県権参事などに任じられましたが、病を理由に鹿児島へと帰郷し、鉱山開発や開拓など地元の振興に力を注いでいました。
西南戦争では、西郷隆盛の挙兵を見送りに行った際に、その輜重隊(補給部隊)の粗末な様子を見て心配し、自らが支えんと急遽挙兵に加わる事を決意しています。桂久武は西南戦争を通じて薩軍の大小荷駄隊本部長を務めて後方から軍を支え続けました。
西南戦争では最後まで西郷隆盛の側に付き従い、城山の地で銃弾を受けて戦死しています。
西南戦争をわかりやすく解説③ 新政府軍側の中心人物
続いて、西南戦争での新政府軍側の中心人物を紹介していきます。
新政府軍側の中心人物① 山縣有朋
山縣有朋(やまがた・ありとも)
生年月日:1838年6月14日
没年月日:1922年2月1日(享年83歳)
出身地 :長門国阿武郡川島村
山縣有朋は元長州藩士で、戊辰戦争で活躍して新政府成立後は西郷隆盛とともに御親兵の設置や廃藩置県などに尽力しました。
陸軍省創設時に最高責任者である陸軍卿に任じられ、西南戦争では陸軍卿を兼任したまま現場の実質的な最高指揮官である参軍に任じられました。
西南戦争では物量戦を展開して薩軍(西郷軍)を圧倒しましたが、これにより国家財政が逼迫して将兵らに十分な恩賞を出す事ができず、山縣有朋への批判が高まりました。
新政府軍側の中心人物② 黒田清隆
黒田清隆(くろだ・きよたか)
生年月日:1840年11月9日
没年月日:1900年8月23日(享年59歳)
出身地 :薩摩国鹿児島郡新屋敷通町
黒田清隆は元薩摩藩士で、戊辰戦争でも活躍しました。新政府では開拓長官に任じられて、北海道の屯田兵の育成に力を注ぎました。
西南戦争では海路を使って熊本城を包囲する薩軍の背後に上陸して攻撃を仕掛け、包囲を打ち破って熊本城籠城軍と本隊の連絡を成功させ、政府軍側の勝利を決定づけました。
その後は自ら辞任を申し出て戦線を離れますが、黒田清隆の育てた屯田兵は各地の戦場で活躍し戦功を立てています。
新政府軍側の中心人物③ 大山巌
大山巌(おおやま・いわお)
生年月日:1842年11月12日
没年月日:1916年12月10日(享年74歳)
出身地 :薩摩国鹿児島郡加治屋町柿本寺通
大山巌は元薩摩藩士で、西郷隆盛とは従兄弟同士の関係にあります。戊辰戦争でも活躍し、新政府陸軍の創設にも力を注ぎました。
西南戦争でも新政府軍側の指揮官の1人として活躍し、城山の戦いでは攻城砲隊司令官として西郷隆盛と砲火を交えました。
大山巌は親戚にあたる西郷隆盛を討伐した事を生涯悔やみ、西南戦争以降、一度も故郷の鹿児島へ戻る事はありませんでした。
新政府軍側の中心人物④ 谷干城
谷干城(たに・たてき)
生年月日:1837年3月18日
没年月日:1911年5月13日(享年74歳)
出身地 :土佐国高岡郡窪川
谷干城は、元土佐藩士で戊辰戦争では最前線で戦って大きな戦功を立てました。
西南戦争では熊本鎮台司令長官として熊本城に籠城して守りを固め、52日間にわたって薩軍の包囲攻撃を耐え抜き、新政府軍の勝利に大きく貢献しました。
熊本城の包囲が解かれた後は、山縣有朋の指揮下に入って各地を転戦し戦功を立てています。この活躍によって政府や明治天皇の信頼を獲得し、西南戦争後には陸軍中将に任じられ、陸軍士官学校長、陸軍戸山学校長にも就任しています。
西南戦争をわかりやすく解説④ 勃発から反乱鎮圧までの経緯
続けて、西南戦争の勃発から終戦までの経緯も見ていきます。
西郷隆盛の挙兵と進軍開始
1877年2月、旧薩摩藩が整備した銃器工場、火薬工場(廃藩置県後は政府陸軍管轄)から、政府が無断で火薬を運び出した事や、政府による西郷隆盛暗殺計画の疑いが浮上した事により、かねてより不満を募らせていた鹿児島士族の決起は避けられたない情勢となりました。
2月4日の夜、西郷隆盛は私学校本校に入り、幹部ら200名と評議を行い、兵を率いて陸路で東進し東京を目指す方針が2月6日までに決まりました。
軍の編成が直ちに進められ、計7個大隊と荷駄隊(補給部隊)からなる約1万6000名ほどの軍が編成されたとされています。
薩軍の実戦部隊の編成は第1大隊から第5大隊までがそれぞれ200名の小隊10個からなる2000名、本拠である加治木外の4郷から募兵された独立大隊である6・7番大隊の合計1600名という内容でした。
そして、2月14日から17日にかけて、西郷隆盛を総大将とする薩軍は熊本方面へ向けて鹿児島を出陣しました。この時、鹿児島では歴史的な大雪に見舞われて進軍は難渋し熊本城外の川尻周辺に全軍が集結したのは2月21日になってからでした。
熊本城攻撃戦
薩軍と最初にぶつかる事となる熊本鎮台は、防御力の高い熊本城への籠城策をとりました。薩軍襲来の2日前の2月19日には熊本城内で火災が発生し天守閣までもが焼失しています。この火事により蓄えられていた糧食が焼失し、籠城軍は食糧不足に悩まされる事になりました。
この火災は薩軍側の計略とする説もありますが真相は現在も不明です。
2月21日の早朝、薩軍は熊本城下へと侵入し、21日深夜から22日黎明にかけて総攻撃が始まりました。攻める薩軍側の兵力が1万4000人、守る官軍側の兵力は約4000名ほどでした。
薩軍は猛攻を仕掛けましたが、熊本城の防御は固く鎮台兵も頑強に抵抗したため城郭内へと侵入する事すらできませんでした。
なお、この熊本城攻撃戦の間に、旧熊本士族、旧佐土原藩士らを中心とする九州地方の士族が続々と薩軍の加勢のために参陣しています。
一方で、新政府軍も全国の鎮台や警官隊、近衛兵や北海道の屯田兵などを続々と動員し征討軍として続々に戦場へと向かわせています。
高瀬の戦い
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薩軍による熊本城総攻撃が開始された2月22日、新政府軍の先鋒として第1旅団、第2旅団の合計5600名が博多に上陸し熊本城方面へ向けて南下を始めました。
薩軍はこれに対抗するため、熊本城の抑えとして3000の兵力を残して主力を北方の各要所へと進出させています。
2月25日には、薩軍と新政府軍が高瀬(現在の熊本県玉名市)で激突し、2時間の激戦の末に薩軍は退き、新政府軍のうち第14連隊(日露戦争で活躍する乃木希典指揮下)が要所である田原坂まで進出します。
しかし、糧食不足の問題から上層部から撤退を命じられ、第14連隊と新政府軍は折角確保した田原坂を放棄して高瀬よりさらに後方の石貫まで軍を下げています。
2月27日、増援を得て体制を整えた薩軍は高瀬奪取を目指して総攻撃を開始しました。薩軍は、乃木希典をはじめ新政府軍の複数の指揮官が負傷するほどの猛攻を仕掛けますが、諸将の足並みが揃わずに次第に劣勢となり、西郷隆盛の末弟である西郷小兵衛が戦死するなど損害を受けて撤退しています。
田原坂の戦い
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高瀬での敗戦以降の薩軍の戦略は、南下してくる新政府軍を各要所で抑えて、熊本城を落城させた後に反撃に転ずるというものでした。
その要所の中でも最も重要(博多から熊本へ向かうルートで大砲を引いて通れる唯一の道)かつ、防御に適した場所が「田原坂」(現在の熊本市北区植木町豊岡)でした。
田原坂は、標高100メートルほどの小さな丘陵ですが、ふもとから曲がりくねった険しい勾配から緩やかな坂道にいたり現在の「田原坂公園」に至る地形ですが、坂の側面は切り立った崖になっており、守りやすく攻めにくい難所でした。薩軍はこの田原坂に陣地を築き堅く守っていました。
3月3日、政府軍第14連隊と近衛歩兵第1連隊を主力とする部隊は安楽寺と木葉を攻略し、翌3月4日に田原坂への総攻撃を開始しました。坂の下に築かれた最初の塁は突破したものの、坂道に差し掛かると高所からの猛射撃を受けて死傷者が続出し突破する事ができませんでした。
政府軍第1旅団の「戦闘景況戦闘日誌」には、この田原坂の戦闘について「死傷甚だ多し、生還するもの甚稀なり」と書かれており、田原坂への突入隊が全滅に近い損害を受けていた事が読み取れます。
田原坂をどうしても抜けない政府軍は、3月13日に士族の警察官100名ほど(主力は元薩摩藩の郷土出身の下級武士で、城下に住む上級武士層から差別を受けて恨みを抱いていた)を選抜して抜刀隊を組織し、薩軍の籠る堡塁へと突入させました。
抜刀隊はたちどころに薩軍がわの3つの堡塁を奪取して見せ、これによって戦況は政府軍遊離へと傾きました。3月20日の早朝、政府軍は霧をついて砲兵の援護射撃を受けながら薩軍の陣地へと突撃を仕掛けました。奇襲を受けた薩軍の防衛戦は崩壊し、政府軍はついに田原坂の突破に成功しています。
3月4日の田原坂攻撃開始からこの日の突破成功までに、政府軍は戦死2000名、負傷者2000名以上という膨大な損害を出しました。
吉次峠の戦い
政府軍は、田原坂への攻撃と同時に田原坂から2kmほどの要所吉次峠への攻撃も行なっています。この吉次峠も激戦地となり、西郷隆盛の股肱の臣で薩軍の中心人物の1人であった篠原国幹はこの戦いで狙撃を受けて戦死しています。
篠原国幹を討ち取られた事により、薩軍はむしろ復讐心から奮い立ち、政府軍を一時は押し返しています。
その後も吉次峠の薩軍は頑強に抵抗をしてこの地を維持しますが、4月1日についに陥落しています。
政府軍が熊本城の包囲を突破
田原坂を突破された薩軍はその後も各地で踏みとどまり、政府軍の進撃を遅らせようとしますが、物量に押されて損害を増やし、次第に後退を余儀なくされています。
一方、3月19日から25日にかけて、八代方面に政府軍の別働隊約8000名が上陸しました。黒田清隆率いるこの軍は3月30日に薩軍との戦闘を開始し、艦砲射撃での援護を受けながら、小川、松橋、御船などでの薩軍の猛反撃を退けて川尻へと進出。4月15日には包囲軍も突破して熊本城への入城を成功させています。
包囲が突破された事を受けて、西郷隆盛の本営と包囲軍約4000名は木山方面へと撤退し、北方で政府軍と交戦していた約4000名の主力部隊も撤退を開始し薩軍の戦線は崩壊しました。
城東会戦
熊本城の包囲が崩壊した後、薩軍は集結した約8000名の兵力で熊本平野に20kmにもわたる防衛線を築き、政府軍を迎え撃って壊滅させる作戦を取りました。
この薩軍に対して、政府軍は約30000人の兵力で4月19日から20日にかけて攻撃を開始しました。薩軍は一時は政府軍を圧倒して右翼の一部の部隊が熊本城に再突入する勢いを見せますが、兵力に勝る政府軍はいくつかの戦線を押し返して、薩軍の本陣をつく構えを見せました。
この戦況を受けて、薩軍本陣は本隊の退却を決断し、優勢だった右翼の各隊も包囲を避けるために撤退を余儀なくされました。
この西南戦争における最大規模の野戦は「城東会戦」と呼ばれています。
人吉攻防戦
城東会戦で敗れた薩軍は、翌4月21日に軍を再編成し、熊本県南部に位置する人吉盆地へと退却しました。
薩軍は4月27日に人吉盆地に本営を置き、この地に病院や弾薬製作所を設置して長期戦の構えを取る方策をとります。
薩軍は人吉へと至る各口に部隊を配置して政府軍を迎え撃ち、5月いっぱいを持ち堪えますが、6月1日までに各地で破られ、4日までに人吉は政府軍に占領される事になりました。
大口方面の戦い
一方、鹿児島県北部の大口方面にも薩軍の1300名ほどが4月22日に展開して防御陣を敷き、これに熊本士族の部隊隊1500名や、人吉方面に展開していた600名の部隊も加わって果敢な反撃を展開しいくつかの地域で政府軍を撃退しています。
この戦いは2ヶ月にわたって続き、大口方面は「第二の田原坂」と呼ばれるほどの激戦地となりました。
しかし、6月20日、ついにこの大口方面の薩軍も政府軍の圧倒的な物量の前に大口の地を明け渡し、6月25日までに南の鹿児島方面へと退いています。
薩軍は鹿児島に追い詰められ西郷隆盛は自害
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城東会戦に続き人吉での攻防戦にも敗北した薩軍は後退を続け、追撃する政府軍との間で各地で戦闘を繰り広げますが、軍は分断され大きな損害を出しています。
西郷隆盛の本隊は日向の長井村で政府軍の包囲を受けましたが、精鋭数百名によって包囲を突破し、9月1日に鹿児島へと戻っています。
この時、鹿児島にも既に政府軍が布陣していましたが、薩軍はこれに奇襲をかけて打ち払い、防御に適した城山に布陣して守りを固めました。
鹿児島の人民は西郷隆盛に味方をするものが多く、住民らの協力もあって一時は薩軍は鹿児島市街の大半を勢力下に置く事に成功しています。
しかし、政府軍の主力が海から上陸すると薩軍の前衛部隊は撃破され、政府軍は9月6日には西郷隆盛と本隊が立て篭もる城山を包囲しました。西郷隆盛ら最後に残った薩軍は300名から400名ほどで、城山に洞窟を掘りそこに立て篭もりました。この洞窟は「西郷洞窟」として現在も史跡として残されています。
そして、9月24日、政府軍はついに城山への総攻撃を開始しました。薩軍は強固な抵抗を見せますが、大軍による猛攻を受けて戦死する者が相次ぎ、西郷隆盛も股と腹に銃弾を受けて負傷しました。
西郷隆盛はここで自害する事を決め、別府晋介の介錯により自害しています。西郷隆盛の自害を見届けた側近や生き残りの幹部らは、政府軍へと突入してその多くが戦死しています。これにより、西南戦争は終結しました。
約8ヶ月におよんだ西南戦争の戦死者は、薩軍側が6765人、政府軍側は6403人と記録されています。
西南戦争最大の激戦地の田原坂の場所や現在
西南戦争最大の激戦地として知られる「田原坂」は、現在は「田原坂公園」として整備されて残されています。
田原坂公園の住所は「熊本県熊本市北区植木町豊岡字舟底858-1外」です。
政府軍と薩軍との間で2週間以上にもわたって激しい攻防が繰り広げられた第1の坂、第2の坂、第3の坂や坂の両脇の崖も残されていて、当時の激戦地としての面影を感じさせます。
出典:https://kumamoto.tabimook.com/
周囲の地中からは現在でも当時の弾薬や薬莢が見つかる事があるそうで、この場所が激戦地であった事を物語っています。
田原坂公園には「熊本市田原坂西南戦争資料館」があり、無料で見学する事ができます。
西南戦争の激戦地「田原坂」の地図
西南戦争の激戦地として知られる田原坂の地図です。
西南戦争の生き残りとその後
西南戦争では西郷隆盛以下、ほとんどの中心人物が戦死、または自害して死亡していますが、生き残りもいました。西南戦争の生き残りとその後についても紹介していきます。
西南戦争の生き残りとその後① 河野主一郎
河野主一郎(こうの・しゅいちろう)は、薩軍の五番大隊一番小隊長を努めました。西郷隆盛の本隊が政府軍の包囲を突破した際には辺見十郎太と共に先鋒を務めています。
その後、城山に籠城する西郷隆盛の助命嘆願のために政府軍に出頭しそのまま捕虜となりました。
西南戦争後には懲役10年の判決を受けましたが、1881年に赦免されて出獄し、1884年末に政府官僚になっています。
その後は日本統治下の台湾での台北県宜蘭支庁長、青森県知事、霧島神宮宮司を務め、1922年に75歳で死去しています。
西南戦争の生き残りとその後② 野村忍介
野村忍介(のむら・おしすけ)は、薩軍の四番大隊の三番小隊長を務めました。緒戦では山鹿方面に配置され政府軍を何度も撃退する活躍を見せました。
城山籠城戦まで西郷隆盛と行動を共にしますが、城山陥落後に政府軍に投降しています。戦後は懲役10年の刑を受けましたが赦免され、鹿児島新聞社と鹿児島学校を設立。その後、共同運輸の役員を務めた後、1892年7月12日に肺結核で亡くなっています。享年は47歳でした。
西南戦争の生き残りとその後③ 別府九郎
別府九郎は、西郷隆盛を介錯した別府晋介の兄で、桐野利秋の従弟にあたります。新政府では陸軍に所属していましたが、病をえて辞職して鹿児島へと戻り私学校の幹部となりました。
西南戦争では薩軍の二番大隊十番小隊長を務め、城山の戦いまで西郷隆盛に付き従いましたが、陥落後に投降しています。
その後については詳しい事はわかっていません。
西南戦争のその後の影響
西南戦争がその後の日本に与えた影響についても見ていきます。
西南戦争のその後の影響① 武力ではなく言論で政府と戦うようになった
西南戦争で、当時最強の武力集団と見られていた薩摩士族が新政府の軍隊に完全に敗北した事により、武力による蜂起で政府を倒す事はできないという考えが主流となりました。
その影響により、政府に不満を持つ士族や知識人らは武力ではなく言論によって政府と戦うという考え方にシフトしていきました。
西南戦争前の1873年から、板垣退助らが中心となって「自由民権運動」が起こっていましたが、それまで武力を用いた戦いを考えていた士族らも、西南戦争以降は多くがこの運動に参加するようになり、言論による戦いが盛り上がりを見せていく事になりました。
西南戦争のその後の影響② 莫大な戦費を賄う紙幣乱発行でインフレが発生
西南戦争にかかった戦費は4100万円でした。当時の税収4800万円ほどだったのでいかに莫大な戦費が費やされたかがわかります。政府はこの戦費を賄うために不換貨幣(金や銀と交換できない紙幣、現在の紙幣もこれにあたる)を大量に発行しました。
しかし、紙幣の乱発を行うとお金そのものの価値が低下するため相対的に物価の上昇が起こります。西南戦争の影響で紙幣を大量に増刷した事により国内は急激なインフレとなりました。
政府はインフレを解消するために、1881年に大蔵卿の松方正義によるデフレ誘導政策(通称松方デフレ)が実施されました。
当時の日本では、全国各地に国立銀行があり、それぞれが不換紙幣を発行していましたが、通貨の価値安定を図るために一元的な管理によって紙幣の発行を行うべきだと再認識され、日本銀行が設立され、現在の紙幣である「日本銀行券」が発行される事になったのでした。
西南戦争のその後の影響③ 士族の戦闘のプロという地位が消滅
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西南戦争まで、士族は戦闘のプロ集団として、明治維新後も有事の際に頼りにされる存在と見られていました。
しかし、西南戦争で士族でも最強と見られていた薩摩士族が、平民から徴兵された兵士を主力とする政府軍に敗れた事により、士族の戦闘のプロ集団としての価値は失墜する事になりました。
最新の銃器を装備すれば、士族も平民も戦闘力は変わらない事が明確となり、その影響によって士族の武装解除と徴兵制による国民皆兵体制の定着化が進みました。
こうした点において、西南戦争は日本の近代化において大きな影響を与えたと言えます。
まとめ
今回は、1877年に旧薩摩藩の士族が中心となり、西郷隆盛を総大将に擁して起こした新政府に対する反乱「西南戦争」についてわかりやすくまとめてみました。
西南戦争は、新政府による士族階級の特権を奪う政策に不満を募らせた士族による反乱で、政府による西郷隆盛暗殺計画の疑いを、政府に詰問する事を名目として大軍が起こされました。
西郷隆盛とその側近らを中心人物とした薩軍は、熊本鎮台が立て篭もる熊本城へと進撃して包囲攻撃を仕掛けましたが、征討に派遣された政府軍の大軍に次第に押し返され、最後は鹿児島県に追い詰められ、西郷隆盛は自害、幹部の多くも戦死、または自害し、反乱は約8ヶ月ほどで鎮圧されました。
西南戦争の激戦地としては「田原坂」が知られており、現在は「田原坂公園」として観光名所として整備されています。
西南戦争では西郷隆盛をはじめとする中心人物のほとんどが死亡しましたが、河野主一郎、野村忍介といった生き残りもおり、戦後は懲役刑を受けたもののその後赦免され、政府官僚や経営者として活躍しました。
西南戦争のその後の影響としては主に、武力ではなく言論による権力との戦いの主流化(自由民権運動の盛り上がり)、インフレ抑制のための日本銀行の設立、士族の戦闘集団としての価値の消滅と徴兵制の定着化などが挙げられます。