渋谷暴動事件は、1971年に発生した中核派による暴動事件です。この記事では渋谷暴動事件が起きた原因をわかりやすく説明するとともに、事件の写真や指名手配されていた犯人・ 大坂正明逮捕時や判決、現在、殉職した中村巡査の慰霊碑の場所を紹介します。
この記事の目次
渋谷暴動事件の概要
1971年11月14日に、東京の渋谷駅周辺で新左翼系の団体・中核派(革命的共産主義者同盟全国委員会)による暴動が発生しました。
当時、中核派をふくむ新左翼は沖縄返還協定の批准阻止のために各地で抗議と称した暴動を起こしており、渋谷での暴動もその一つでした。
とくに中核派は東京の中心部で行う渋谷での暴動計画に力を入れており、火炎ビンや鉄パイプ、鉈、爆弾など多くの武器を導入した武装蜂起を企てていました。
そのため暴動を鎮圧するために当日は渋谷周辺に機動隊が配置され、他県にも応援を要請して1万2000人もの警察を投入していたといいます。
さらに民間人に危害が及ばないように、公安は駅周辺の商業施設に休業を要請。これを受けて大手百貨店が急遽休業し、渋谷は厳戒態勢に入ったとされます。
警察の警戒をかいくぐって集まった中核派のメンバーは、午後15時頃に渋谷駅前派出所を襲撃。これを皮切りに渋谷のいたるところで機動隊との衝突が繰り広げられました。
そして暴動の最中に、新潟県警から応援に駆けつけていた中村恒雄巡査(当時21歳)が中核派に囲まれて鉄パイプで袋叩きにされ、ガソリンを浴びせられて火炎瓶で火をつけられるという事件が発生したのです。
最終的に21時頃になって暴動は制圧されたのですが、周辺建物などへの被害は大きく、暴動翌日には中村巡査が死亡。
警察は中村巡査を殺害した犯人4名を特定し、次々に逮捕していきましたが、ただ1人、大坂正明だけは行方がわからないまま年月が過ぎていきました。
しかし警察は諦めずに指名手配をかけ、懸賞金を提示して足取りを追い続けた結果、渋谷暴動事件から46年が経った2017年に大坂正明を逮捕します。
逮捕後は殺人罪で裁判にかけられ、大坂正明には有罪判決が下りましたが、大阪側は冤罪を訴えており2024年時点現在も控訴中です。
渋谷暴動事件の詳細をわかりやすく解説① 中核派とは
渋谷暴動事件について理解を深めるために、まずは中核派とはどのような組織なのかを簡単に見ていきましょう。
そもそも日本の新左翼とはなに?
中核派は共産主義を掲げながら、既存の共産党とはかけ離れた革命理論を支持する新左翼系の組織です。
共産主義と聞いて多くの人が想像するのが国政政党である日本共産党かと思いますが、日本共産党が設立したのは1922年のことで、第二次世界大戦前に治安維持法で一斉検挙され、一度解体を迎えています。
そして戦後、GHQによって治安維持法が撤廃されると共産党員たちは再び集まり党を再結成。
共産党員たちは弾圧されても一貫して反戦を訴えていたことから、戦争によって疲弊していた国民から多くの指示を得ることになります。
しかし、国民の理解を得ながら共産主義を推進していこうと日本共産党が盛り上がった矢先に、ソ連が各国の共産党連携のために結成した国際組織・コミンフォルムから「平和な革命活動などない。民主主義はアメリカ的資本主義に通ずる」と横やりが入ってきました。
一方、朝鮮戦争でソ連・中国と対立を深めていたアメリカでは共産主義は危険思想とみなされるようになっており、日本でもGHQ指導のもとレッドパージ、いわゆる赤狩りが行われるように。
さらに1956年にはソ連の最高指導者であるフルシチョフが、これまで絶対視されていたスターリンを批判したことから、日本の共産主義支持者のなかにも脱スターリン、旧共産党からの脱却を訴える者が目立つようになりました。
こうしたことを経て国内の共産主義支持者たちが分裂を起こし、「革命のためには暴力が必要」という組織と、穏健派に大きく分かれていったのです。
この前者が新左翼の源流であり、既存の日本共産党の流れをくむ穏健派とは対立関係といえます。
新左翼が完全に既存の日本共産党(オールド共産党)とたもとを分かち、別個の団体として独立したとされるのは1957年のことです。
中核派の概要
新左翼の団体は大小さまざまなものがあり、掲げている思想もソ連より、中国より、学生を主体に新しい価値を築こうとする「ブント」など多岐にわたります。たとえば学生運動などを行っていたのが、ブントです。
中核派は、スターリンを批判していたソ連の思想家・トロツキーの理論を支持する日本トロッキスト聯盟(にほんトロツキストれんめい)が分裂してできた、革命的共産主義者同盟を前身としています。
そのため「反帝国主義・反スターリン主義」を掲げており、同じく革命的共産主義者同盟から分裂して出て行った「革マル派」とは激しい対立状態にあります。
中核党の最高指導者は本多延嘉、革マル派の中心人物は黒田寛一と後にJR総連副委員長となる松崎明であり、本多延嘉は1975年に革マル派の襲撃で殺害れました。
このように意見が対立する相手は殺してもいい、という過激な思想が新左翼の団体に蔓延るようになったきっかけは、1963年に発生した清水谷乱闘事件と、1964年に発生した早大殴り込み事件だと考えられています。
この事件はいずれも中核派や革マル派の間に起きた乱闘事件で、投石や角材を武器にした死傷者が出るのも辞さない本格的な内ゲバでした。
2つの事件を経て、他の団体(セクト)に舐められず、メンバーを獲得するためにも過激な活動をした方がよい、という流れができあがってしまったのです。
とくに中核派は「平和的なストライキだけでは何も変わらない、警察の武力に勝ち、思想を通すにはこちらも武装する以外ない」という武装蜂起論をとり、街頭で機動隊との武力衝突を盛んに繰り返すようになります。
渋谷暴動事件の詳細をわかりやすく解説② 事件の時系列
中核派が渋谷暴動事件を起こした理由は、1971年6月17日に調印された沖縄返還協定の批准を阻止するためとされています。
沖縄返還協定には在日米軍の配置についての項目が盛り込まれており、これに対して中核派をふくむ新左翼団体は異を訴えていました。
ここでは大暴動発表から同じく沖縄返還協定がらみの暴動・沖縄ゼネストを経て、渋谷暴動事件に至るまでの流れを見ていきます。
11月1日に東京大暴動を発表
11月1日、中核派は「11・1東京大暴動」と銘打って、本多延嘉ら中核派の幹部は首都での暴動計画を発表します。その時の決起宣言は、以下のような内容でした。
ついにわれわれは、日本階級がこの71年秋に自ら引き寄せた最高にして最大の決戦の時を、喜びをもって宣告することができる。
それは11月14日である。騒乱ではもはや足りない。首都に大暴動を!これがスローガンだ。
潮は満潮だ。堰を切れ!
決起宣言の後に大暴動を起こす場所は渋谷と決められ、中核派の機関紙である「前進」には渋谷周辺の詳細な地図とともに、火炎瓶の作り方や逮捕された時の心得などが掲載されたといいます。
11月10日・沖縄ゼネスト
出典:http://www.rekishi-archive.city.naha.okinawa.jp/
渋谷暴動事件が起きる4日前の11月10日、沖縄全土で返還協定批准阻止を訴えるゼネストが行われました。
もともと、このゼネストは沖縄の労働者が決起してデモ活動をするものだったのですが、これに乗じて中核派が沖縄で暴動を展開。
「ゼネストを暴動へ」のスローガンを掲げた中核派は、浦添市勢理客交番前で機動隊二個小隊70名を数百名の部隊で襲いました。
そして、衝突の最中に機動隊員の山川松三巡査部長を取り囲んで棍棒でめった打ちにし後、 火炎瓶を投げつけて火だるまにしたのです。
その結果、山川巡査部長は死亡。中核派にも1名の死者を出し、暴動は制圧されました。
11月14日・渋谷暴動当日
11月14日午後2時5分頃、まず中核派は世田谷区上北沢の京王線上北沢駅前にある上北沢駅前交番、京王線仙川駅、井の頭線神泉駅の3ヶ所に火炎瓶を投げ込みました。これによって民間人などに負傷者が出ます。
一方、暴動のターゲットになっていた渋谷は朝から厳戒態勢が敷かれており、ほとんどの店が閉店、歩行者もまばらでゴーストタウンのように静まり返っていました。
警察は事前に「11月14日に中核派が渋谷で暴動を計画している」という情報を掴んでいたのです。
渋谷周辺には検問所が設けられ、検問所の内側では機動隊の車しかみられない状態だったといいます。
もちろん警察も一般人に対して「渋谷に行かないで」と言うことはできても、「絶対に渋谷に行くな」と強制することはできません。
そのため警察関係者でも、マスコミ関係者でもない民間人も少数ながら見受けられましたが、とても一般人に紛れて中核派が渋谷に入ってこれるような状況ではなく、武装して渋谷に押し寄せるのは不可能ではないか?と思われたそうです。
しかし、中核派は武器を巧みに隠し、背広姿で渋谷に侵入して駅周辺の喫茶店などに部隊ごとに集結。
15時頃に渋谷公会堂の裏手の方面から一斉に白いヘルメットを被った姿で出現し、機動隊や交番に向けて火炎瓶を投げだしたのです。
中村巡査が襲われる
こうして渋谷駅周辺、NHK裏手、東急本店周辺、神泉駅近くなどで中核派と機動隊の衝突が起こりました。
そしてそのなかで、神山町の神山派出所周辺で暴動の制圧にあたっていた中村恒雄巡査が、中核派に鉄パイプでめった打ちにされたうえ、火炎瓶を投げつけられて火だるまになるという凄惨な事件が起きたのです。
これは4日前の沖縄ゼネストで山川巡査部長を虐殺した方法とまったく同じで、当時、現場となった神山派出所周辺では関東管区機動隊新潟中央小隊(新潟警察)から来た機動隊27名が警備にあたっていました。
ここを中核派の部隊総勢約150人が火炎瓶や投石で襲撃。身体に火が燃え移り、転げまわる機動隊員が出るなどしてあたりは騒然としたといいます。
負傷した者、同僚を助けようと消火器を手に走り回る者、中核派の制圧にあたる者と警察側の動きがバラバラにわかれたところで、狙われてしまったのが中村巡査でした。
多勢に無勢、しかも機動隊側は相手を殺しかねないような反撃は禁止されていますから、後退もやむをえないという判断が下ります。
中村巡査は同僚とともにガス銃を構え、後退していく部隊の最後尾につき、中核派への威嚇を続けて後退の支援をしていました。
しかし、最後尾という狙われやすい場所にいたことが原因となって中核派の暴徒に取り囲まれて鉄パイプやモンキースパナで殴られ、失神したところにガソリンを浴びせられて、四方から火炎瓶を投げ込まれてしまったのです。
現場では「殺せ、殺せ!」という怒号が響き、火炎瓶を投げつけられた中村巡査の身体からは5mもの火柱があがったとされます。
火だるまになるなか、途中で意識を取り戻した中村巡査はなんとか火を消そうとしてあたりを転がりまわったといいます。
しかし、燃え盛る火は消えることなく、しばらくして中村巡査は力尽き、そのまま動かなくなってしまいました。
渋谷暴動事件の詳細をわかりやすく解説③ 中村巡査の死と被害状況
出典:https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/
中村巡査が襲撃された5分後、後退した関東管区機動隊新潟中央小隊が巡査が襲われたことに気づき、神山派出所に戻ってきました。
しかし、同僚が駆け付けた時には中村巡査の顔はもちろん前進が焼けただれており、表面が黒く炭化したような状態でした。
同僚たちは人の姿をとどめていない、変わり果てた中村巡査の姿に絶句しましたが、一縷の望みをかけて警察病院へ搬送。
運び込まれた中村巡査は全身の火傷のほかに熱傷から呼吸困難に陥っており、気管切開手術を受けたものの回復せず、翌日の15日、21時25分に息を引き取りました。
民間人・周辺施設への被害
百貨店などの大きな商業施設は完全休業していましたが、渋谷で営業している商店のなかには「自分の店は自分で守る」という意志のもと、暴動当日も出勤して店の前にバリケードを築く人々もいました。
しかし、そのような自分の大切なものを守ろうとする労働者の人々をも、中核派は襲撃したのです。
午後16時45分頃、中核派の活動家が渋谷区道玄坂にあった喫茶店・ブラジルの外壁にはられたベニヤ板を無理やり剥がし、ガラス窓を叩き割りました。
店員がこれに気づいて止めようとしたところ、中核派側がゲバ棒で店員を殴打。これが原因で店員は首を4針も縫う怪我を負い、助けようとした別の店員2名も軽傷を負わされたといいます。
ほかにも民家15件、公共施設2件に火炎瓶が投げ込まれ、十数名の民間人が負傷したとのこと。
また、バリケード用に中核派にドラム缶や木材を盗まれた工事現場もあり、休業を余儀なくされた商店や結婚式場でも損害が発生。東急本社は渋谷暴動事件による損失金額を、30億円と発表しました。
同日にあった池袋駅の事件で民間人が犠牲に
また14日の14時20分頃、渋谷に向かおうとする中核派の学生約100名が、JR池袋駅の山手線ホームで機動隊の検問から逃れようとして、火炎瓶が暴発。
付近にいた乗客5名と中核派4名の計9名に火が燃え移り、重軽傷を負いました。
また、暴動に参加する予定であった中核派の活動家の女性(27歳)も火炎瓶の火を浴びて重傷を負い、11月27日に死亡が確認されました。
この事態を受けて国鉄(現在のJR東日本)は、中核派活動家以外の負傷者に対して、見舞い金が支払われたといいます。
渋谷暴動事件のその後① 中村巡査殺害犯人たちの逮捕
渋谷暴動事件は、最終的に14日の21時頃には警察側の制圧が完了して幕を閉じました。
最終的な警察の発表では、中核派が組織したとしていた12の部隊のうち、14日に動いたのは池袋軍団、吉祥寺軍団、仙川軍団、群馬軍団と呼ばれる部隊など合計約650名だったといいます。
そのなかで暴動当日に逮捕された活動家は309人。しかし、中村巡査を殺害したと自供する人物はこのなかにおらず、捜査員は「同僚の命を奪った犯人を何が何でも検挙する」として、特別捜査本部を開設。
そうして12月24日、保健所職員の男ら5名(21から24歳)を公務執行妨害、放火、傷害などの疑いで逮捕します。
次いで翌年1月19日には放火や傷害などの疑いで男女活動家3名(18から23歳)を逮捕。
さらに2月2日には群馬軍団と呼ばれる部隊のキャップとされる、高崎経済大学4年の奥深山幸男ら7名(18から23歳)が、凶器準備集合、傷害、放火などの疑いで逮捕されます。
そして2月21日には奥深山幸男、同大学1年の少年、群馬工業高等専門学校3年の少年ら3名が中務巡査の件に関与したと自供したため、殺人容疑で奥深山らを再逮捕します。
公安が3名を取り調べたところ、3人の証言から吉祥寺軍団の軍団長とされる高崎経済大学4年の星野文昭が神山派出所での暴動の指揮をとり、千葉工業大学4年の大坂正明が実行犯として中村巡査を暴行したと判明しました。
また、4月4日には星野文昭とともに群馬軍団を扇動していたとされる荒川碩哉が逮捕されます。
星野文昭の逮捕
奥深山らの証言を受けて、警察は星野文昭と大坂正明を指名手配にかけました。
1975年8月6日午後0時30分、大分県杵築市奈多で巡回中の杵築署の警察官が不審な男を見つけて職務質問をします。
男は奈多海水浴場付近で停車中の車を覗き込んでいたといい、警察が所持品を検査したところ鞄の中から新品の女性下着2点が見つかり、これらを万引きしたことを自白しました。
氏名などの個人情報を黙秘したことから、警察が指紋を調べたところ、男が指名手配中の星野文昭であると発覚。こうして星野の逮捕に至りました。
渋谷暴動事件のその後② 大坂正明の指名手配と写真
出典:https://tokopan.seesaa.net/
警察は中村巡査殺害に関与した中核派メンバーのうち、大坂正明をのぞく6人を1975年8月までに逮捕し、起訴しました。
大坂正明の足取りは1973年11月に中核派メンバーのもとを訪れて以降、不明となっており、時効成立かと思われました。
しかし、すでに逮捕・起訴されていた奥深山が精神疾患により公判停止となったため、刑事訴訟法第254条第2項により、大坂正明の時効も停止。
さらに2010年4月27日に殺人罪の公訴時効が撤廃されたため、中村巡査殺害に時効は適用されなくなり、大阪は引き続き指名手配されます。
渋谷暴動事件のその後③ 大坂正明の逮捕
2012年3月、公安は立川市内にある中核派の非公然アジトを発見し、家宅捜索に入り、パソコンや書類などを押収しました。
押収した暗号文を解読するなどした結果、大坂正明が病院を受診するための計画書などが出てきたといいます。
ここから大坂正明が現在も中核派として活動していると見た公安は、アジトと連絡が取りやすい東京近郊に潜伏している可能性が高いとして捜査を開始。
そして2016年1月、2007年から2008年夏頃に大坂正明が中核派のアジトとされる東京都北区にある賃貸マンションに潜伏していた可能性が高いことを突き止め、2016年には300万円の懸賞金をかけ、大阪逮捕に繋がる情報の提供を呼びかけました。
その1年後の2017年1月末、大阪府警がかねてからマークしていた中核派活動家の女が、同じく中核派の活動家・鈴木哲也(53歳)と大阪府内で接触しているのを目撃します。
鈴木哲也は北区のアジトを家宅捜査した際、警察が大坂正明の逃亡を助けている可能性が高いと見た人物の1人であったため、大阪府警は尾行を継続しました。
鈴木哲也は上述の女と別れた後、兵庫県相生市のホテルに偽名で宿泊し、広島市安佐南区にあるマンションの3階の角部屋に姿を消します。
「この部屋は怪しい」と確信した警察は、その後も隠れてマンションの部屋を監視。
2月の初旬には部屋から白髪交じりの初老の男が出てきたといいます。後にこれが大坂正明だったとわかるのですが、当時は大坂の若い頃の写真しか警察も所持していなかったため怪しみながらも見張りを続けたそうです。
事態が急転したのは、5月のことでした。鈴木哲也と接触していた女が別件で兵庫県警に逮捕されたという情報を聞いた大阪府警は「鈴木哲也らがアジトを移動する可能性が高い。このまま見ていると逃げられる」として、急遽マンションへの突入を決意したのです。
初老の男と対峙した警察は「口から下がどことなく手配書の大阪の写真に似ている」と感じ、書類を処分して証拠隠滅を図ろうとしたのを見とがめて逮捕。
これまで指紋が採取されていなかったため、男に対してDNA鑑定が行われました。
そして6月7日に協力を呼び掛けていた大坂の親族から提供されたDNAと、男のDNAが一致。
マンションに潜伏していた初老の男が大坂正明と判明し、殺人罪で逮捕に至ったのです。
こうして渋谷暴動事件から46年が経過して、警察が悲願の大坂正明逮捕を成し遂げたのでした。
渋谷暴動事件の裁判と判決
渋谷暴動事件に関与した中核派活動家たちの裁判と判決は以下のとおりです。
奥深山幸男
奥深山幸男の第一審は1979年に開かれ、懲役15年の判決が言い渡されました。
奥深山側はこれを不服として控訴したのですが、「裁判に耐えきれなくなった」として、精神疾患を理由に1981年に公判停止。
その後、共犯である大坂正明が逃亡中であったことから公訴棄却にはならず、公判再開が待たれていたのですが、2017年2月7日に群馬県内の病院で病死しています。
星野文昭・荒川碩哉
吉祥寺軍団の軍団長とされた星野文昭と荒川碩哉に対しては、1987年7月に最高裁判所によってそれぞれ無期懲役と懲役13年が言い渡されました。
逮捕後も星野は冤罪を訴え、中核派の活動家も「星野君を取り戻せ」というスローガンを掲げて解放を訴えてきましたが、2019年5月30日に収容先の東日本成人矯正医療センターで病死。
関係者からは肺がんを患い、手術を受けていたとの話が出ているため、死因も肺がんに起因するのではないかと思われます。
大坂正明
大坂正明の第一審は、2022年10月25日に東京地裁で開かれました。
起訴内容は殺人、現住建造物放火で、逮捕後も大坂は黙秘を貫いていましたが、共犯者や目撃者の証言から大阪が中村巡査殺害に関与しているのは確実として、東京地裁は起訴に踏み切ったといいます。
裁判で大坂正明は「すべての容疑について、事実ではありません」と無罪を主張。
一方、検察は「被告が中村巡査を取り囲み暴行をくわえる集団に参加したうえで『殺せ、殺せ!』と叫んで、火炎瓶を投げつけた」と訴えました。
これに対して弁護側は「検察の主張は、取調官に強要されたデモ参加者の供述をもとにしたもので、著しく信憑性に欠ける」「物的証拠もなく、客観的な証拠も乏しい」と主張したとされます。
2023年12月22日に東京地裁は、「中村巡査殺害の手法が残虐かつ非道な行い。そのうえで中核派の支援を受け、45年以上もの間逃走したことを考えれば厳罰を持ってのぞむべき」として、大坂正明に懲役20年を言い渡しました。
大坂正明はこの判決に対して即日控訴しています。
渋谷暴動事件の原因・なぜ警察官殺傷が革命になるのか
中核派が渋谷暴動事件を起こした目的は、沖縄返還協定の批准の阻止とされています。自分たちの訴えに注目を集めるため、目立つ東京で暴動を起こすというのが目的でした。
そう聞いても、「どうして警察に暴力行為をすることが、抗議活動になると思うのか。野蛮すぎる」と疑問に感じる方も多いのではないでしょうか。
立花隆氏の著作『中核vs革マル』では、新左翼の武闘派派閥のなかで「警察殲滅、機動隊殲滅」が掲げられるようになったきっかけは、1969年10月21日に起きた新左翼暴動事件「10.21国際反戦デー闘争」だと指摘されています。
この暴動時、中核派の活動家は追い詰められた警察官に銃を向けられ「撃つぞ!」と威嚇されたといい、「警察は自分たちを殺すつもりだ、それならこっちも殺すつもりで行こう」と意識が変わったとのこと。
また、同書には三里塚闘争で農民たちが殺害もやむなしという勢いで機動隊に襲い掛かるのを目の当たりにして、学生たちが感化されてしまったとも書かれていました。
もとより新左翼活動家のなかでは「帝国日本の犬である警察機関は、自分たちの敵。警察機関と戦うことこそ革命」という理論はあったとされますが、それでも警察や機動隊は強力で、自分たちは勇気をもって挑み、華々しくやられる側としていう考え方だったそうです。
さらに当時は赤軍派が台頭していたこともあり、新左翼全体が暴力集団の色合いをより強めていた頃でした。過激なことをすればするほど、他団体にも存在感を示せたのです。
そのため中核派も「大暴動を起こすことで学生ら若者の気を惹き、活動家を獲得したい」という思惑もあって、渋谷暴動事件を起こしたと考えられています。
渋谷暴動事件の現在
[youtube https://www.youtube.com/watch?v=AXSOS8BZ99s?si=L-5rL-YlGkvWAs3u]
前述のように大坂正明の裁判は、2024年以降も続くものと見られています。
しかし、第一審の時点でも出廷した証人の多くが高齢になっており、半世紀も前に起きた事件を裁くことの難しさが問題となりました。
そのため控訴審についても、証言が事件の証拠となる以上、早急に判決まで向かうことが必要ではないかと指摘されています。
また、渋谷暴動事件を起こした中核派は、現在も活動を続けており、高齢化が進んでいるものの若い活動家も参入しているとのことです。
渋谷暴動事件で犠牲になった中村巡査の慰霊碑の場所
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渋谷暴動事件で殉職した中村巡査の慰霊碑は、東京都渋谷区神山町11-9にあります。
死亡が確認された後、中村巡査の遺体は慶應義塾大学病院法医学教室にて解剖が行われ、18日に大塚の護国寺にて葬儀が行われたといいます。
慰霊碑が建てられた場所は、白洋舎前神山町交差点の近く、飲食店やミニシアターなどが並ぶ一角です。
黒い御影石の慰霊碑には中村巡査と同じく新潟県警柏崎警察署の佐藤としさんが詠んだ句「星一つ 落ちて都の 寒椿」が刻まれています。
これは「事件の犠牲となってしまった中村巡査の尊い命が消えたことを悼むように、東京の都に寒椿が咲いている」という意味の句だといいます。
渋谷暴動事件についてのまとめ
今回は1971年11月14日に発生した新左翼系の組織・中核による暴動および警察官殺傷事件、渋谷暴動事件について紹介しました。
1960年代から1970年代初めにかけて、中核派以外の新左翼も数々の暴動やテロ事件を起こし、無関係の人々が命や普通の暮らしを奪われたとされます。
渋谷暴動事件についてはとくに、政治的な主張よりも暴力という手段が目的となって起きた事件のように感じられ、非常に腹立たしく、亡くなった中村巡査とご遺族、同僚の方々の無念を思うと遣り切れない思いにさせられます。