金嬉老事件と現在!生い立ちと母親や家族・現場のふじみや旅館・裁判の判決やその後も総まとめ

ふじみや旅館で金嬉老事件を起こした金嬉老は裁判中の刑務所でやりたい放題をしていました。

 

金嬉老の生い立ちや家族・母親と結婚歴、ふじみや旅館での事件の詳細、裁判中の刑務所での生活や判決、韓国送還後の生活や現在をまとめました。

金嬉老は殺人・監禁籠城事件を起こした在日韓国人

出典:bunshun.jp

 

金嬉老は金嬉老事件(寸又峡事件)を起こした在日韓国人です。金嬉老事件は1968年2月20日~2月24日にかけて、静岡県で金嬉老が起こした殺人・監禁籠城事件です。この事件が起こした場所にちなんで寸又峡事件と呼ばれることもあります。

 

金嬉老は監禁籠城事件を起こしている時に在日韓国人への差別問題を提起し、警察に謝罪を求め、マスコミを呼んで記者会見を何度も開くなどをしたため、金嬉老事件は戦後初の劇場型犯罪と言われました。

 

金嬉老は逮捕後に刑務所内にいる時に、凶器となるものを持ち込んだり、出前を取ったりなどやりたい放題をしていることが判明して大きな問題となりました。

 

 

金嬉老の生い立ちや家族・母親

 

金嬉老は1928年11月20日に金嬉老は在日韓国人(朝鮮人)2世として、静岡県清水市(現在の静岡市清水区)に生まれました。父親の姓は権でしたので、本名は権禮老。日本名は近藤安広でしたが、金岡や清水という姓を使うこともありました。

 

父親は丹那トンネル工事にも従事していた建設労働者でしたが、1931年金嬉老が3歳の時に作業中に亡くなりました。その後、金嬉老が5歳の時に母親が「金」という姓の男性と再婚したため、権という姓から金に姓が変わります。

 

貧しい生活だったため、学校にまともに通うことができなかった金嬉老は小学校5年生で退学となり、丁稚奉公に出されることになりました。その後、1943年(15歳)の時に窃盗で逮捕され、朝鮮人が入る少年院である「相愛少年保護院」に入り終戦を迎えます。

 

終戦後に出所しますが、1946年には再び窃盗・横領罪で逮捕されて服役することになりました。この頃、金嬉老の家族は、朝鮮半島に帰国しようと考えていましたが、朝鮮半島の情勢があまりにも混沌としていたため、日本に定住する道を選んでいます。

 

金嬉老はその後も金嬉老事件を起こすまでの約20年間、窃盗・詐欺・強盗など事件をたびたび起こし、刑務所を出たり入ったりして過ごしていて、刑務所の外で過ごしたのは20年間でたった数年しかありませんでした。刑務所で服役中には自動車整備士の免許を取りましたが、出所後は前科や国籍などを理由にきちんとした仕事に就くことはできませんでした。

 

 

金嬉老の結婚(1回目):日本人女性

 

1959年、金嬉老は31歳で刑務所から出所します。その後、日本人女性と結婚しました。夫婦で飲み屋を始めましたが、経営はうまくいかず、失敗してしまいます。その後も複数の事業を始めますがどれもうまくいきませんでした。そして、1967年に結婚生活8年で離婚することになります。

 

結婚生活は事業に失敗するなどあまり順風満帆というわけではありませんでしたが、金嬉老にとってはもっとも落ち着いた生活を送れていた時期だったようです。

 

また、この離婚した1967年には義理の父親が自殺しています。

 

 

金嬉老事件の詳細①:暴力団員を殺害

出典:asagei.com

 

1968年2月20日、金嬉老は暴力団との手形トラブルで、暴力団員2人を殺害しました。

 

金嬉老は手形を担保に、知人から18万円の借金をしていましたが、金は中古車を売ったことで返済しています。しかし、金嬉老に手形が戻ることはなく、その手形はなぜか暴力団の稲川組の幹部であり、金融業をしていた曽我幸夫に渡ります。金嬉老は稲川組から借金返済を求められ、歓楽街にあるクラブ「みんくす」で曽我に会う約束をしました。

 

金嬉老はこの時、曽我を殺害する決意を固めていて、車にライフル銃や実弾、ダイナマイトなどを積み込んで、「みんくす」に向かいます。

 

実際に会うと、なかなか殺害を実行できませんでしたが、言い争いになる中で曽我から、「何をこの野郎、てめえら朝公がちようたれたことをこくな。」と言われたことをきっかけに、ライフルを取り出して、曽我に6発もの銃弾を撃ち込んで殺害しました。

 

その後、曽我についてきた未成年の暴力団員の大森靖司にも4発の銃弾を命中させて殺害しました。金嬉老はそのまま「みんくす」を飛び出して、車に乗り、逃亡します。

 

 

金嬉老事件の詳細②:ふじみや旅館に籠城

出典:nordot.app

ふじみや旅館に武器を持って押し入る

金嬉老は車で逃亡する途中で、自分の朝鮮人としての生い立ちを悔しく感じるようになり、この悔しさを吐き出して戦おうと決意しました。そして、静岡県の寸又峡温泉のふじみや旅館に籠城します。ふじみや旅館を選んだのは、目の前が広場になっていて、見晴らしが良かったためです。

 

金嬉老は2月20日21時過ぎにふじみや旅館に入り込み、旅館の主人家族6人と宿泊客10人の合計16人を人質にとって立てこもりました。この時、金嬉老はライフル1丁と実弾1,200発、ダイナマイト13本を持って武装していました。

 

このように金嬉老は実弾1,200発、ダイナマイト13本で武装していたため、警察は下手に突入することができなかったようです。金嬉老の近くにはいつでもダイナマイトに点火できるように七輪が用意されていました。

 

金が立て籠もっていたのは、ふじみや旅館2階の6畳の部屋。部屋に置かれたお盆の上には500~600発のライフルの弾丸が盛られ、数十把のダイナマイトが床に無造作に置かれていた。積み上げた畳や布団でバリケードが築かれ、導火線の垂れたダイナマイトのすぐそばには火をおこした七輪があった。

 

引用:【戦後70年 語り継ぐ】金嬉老事件(上) 日本初の劇場型犯罪 – 産経ニュース

 

これだけ武装されていたから、人質たちの安全を考えると、簡単に突入はできなかったんですね。

 

 

差別について訴える

金嬉老は籠城すると、まず清水署に電話をして、「みんくすの事件は自分がやった」と話します。その後、再び清水署に電話をして、自分はふじみや旅館いることを伝えます。

 

2月21日の午前2時には、静岡新聞に電話をして、みんくすで人を殺害したこと、さらに籠城していることを伝え、知り合いの警察官2人(大橋巡査と西尾刑事部長)となら交渉しても良いと言いました。

 

金嬉老は指名した2人の警察官と直接会い、清水署の小泉刑事が1967年に「てめいら朝鮮人は日本にきてロクなことをしない。」、「おめえらみたいな朝鮮人は早く国へ帰れ。」と朝鮮人への差別発言をしたことを指摘し、謝罪を求めました。

 

金嬉老の要求は2つだけでした。

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1つ目の要求は小泉刑事の謝罪です。小泉刑事が朝鮮人差別発言をしたことを謝罪するように要求しました。2つの要求は会見です。静岡新聞の記者・NHKの記者と会見をすることを要求しました。

 

金は時折ライフルを乱射したり、ダイナマイトを爆破させたりして威嚇を続ける一方、「事件の背景をテレビで公表し、自分が納得すれば人質を返す」と宣言。

 

引用:【戦後70年 語り継ぐ】金嬉老事件(上) 日本初の劇場型犯罪 – 産経ニュース

 

金嬉老はとにかく朝鮮人への差別問題を訴えたくなったようです。

 

 

会見を開く

この要求に従い、2月21日の午前9時50分には金嬉老は記者2人と会見を開きました。この会見の中で、自分が殺害した曽我幸夫の悪行を暴露し、さらに小泉刑事の朝鮮人差別発言を謝罪することを要求しています。

 

そして、同日23時52分には小泉刑事が「私の扱った事件で迷惑をかけて申し訳ない」とNHKで謝罪しています。

 

翌日の22日の朝にはふじみや旅館の経営者の妻・子供3人を解放し、23日には人質3人を解放しました。

 

 

金嬉老事件の詳細③:逮捕される

出典:tamutamu2015.web.fc2.com

 

金嬉老がマスコミを集めて会見を開くと、国民の注目が一気に集まりました。そして、テレビ各局のワイドショーはふじみや旅館にこぞって電話をかけ、金嬉老との電話を放送することで視聴率を稼ぎました。また、金嬉老を支持する文化人グループも結成され、一躍ヒーローのように祀り上げられました

 

そして、2月24日、籠城を始めて5日目、金嬉老は訪問者が差し入れた現金や自分の腕時計をふじみや旅館の主人に与えます。体調を崩した人質を解放すべく、金嬉老は玄関に出てきたところ、マスコミが取り囲みました。そのマスコミの中に刑事6人が変装して潜んでいて、そのタイミングで金嬉老は逮捕されています。

 

この時の金嬉老は籠城5日目で疲労があったことや県警本部長から暴力団の実体を発表するという約束を取り付けていたことなどから、ある程度逮捕されることを許容していたと思われます。

金嬉老は自殺のリスクがあったため、9人の刑事が一斉に飛びかかり、1人は喉を絞め、ほかの数人が足を引っ張って倒し、押さえつけました。この9人の刑事は柔道5段などの腕前の精鋭から選抜されました。

 

「わーっ」という声にならない怒号と無数の足音が入り乱れる中、つかんだ男の右腕を離すまいと必死で握り続けた。「とにかくダイナマイトを爆破させないように、金の腕を制することだけが頭にあった」

 

引用:【戦後70年 語り継ぐ】金嬉老事件(上) 日本初の劇場型犯罪 – 産経ニュース

 

金嬉老は舌を噛み切って自殺しようとしたため、メモ帳や手錠、指などを金の口の中に入れて、自殺を阻止しました。そして、大勢の警察官に取り押さえられながら、護送車の中に入れられました。この時、ふじみや旅館に人質として残っていたのはふじみや旅館の主人と宿泊客4人だけでした。

 

 

金嬉老は裁判でやりたい放題がバレる

出典:twitter.com

 

金嬉老は1968年2月24日に逮捕されました。その後、金嬉老は逮捕後に殺人・逮捕監禁・爆発物取締規則違反で起訴され、静岡刑務所未決監独房に身柄を移されました。

 

そして、1970年4月から裁判が始まったのですが、静岡地裁の公判で、金嬉老は「希望していた爆発物を入手した」と証言したんです。この証言で、弁護側は刑務所内の保護義務違反であるとして調査が入り、金嬉老の刑務所内での驚くべき実態が明らかになったのです。

 

 

刑務所内でやりたい放題

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金嬉老は刑務所でやりたい放題の生活を送っていました。刑務所内とは思えないような自由な生活だったんです。

 

・女囚用の独房に収監
・独房にはカギがかかっておらず、女囚と部屋と自由に行き来可能
・キッチンセットがある
・ラジオやテレビがある
・包丁やナイフを持ち込める
・カメラなどの貴重品もOK
・やすりやライターも持ち込んでいた
・散歩や面会も自由
・店屋物を出前させていた
・女囚と男女の営みも可能
・睡眠薬を入れた店屋物を女囚に食べさせてレイプした

 

こんな生活は刑務所ではないですよね。自由な生活どころか、レイプをしていたなんて、刑務所内で犯罪行為が行われていたんです。約50年前と言えども、そのようなことが日本の刑務所で行われていたなんて、ゾッとしてしまいます。

 

 

やりたい放題の原因

金嬉老は拘置所に移管された直後から、色々な要求をするようになりました。この時、金嬉老は受刑者ではなく、まだ裁判の判決が出ていない「被告人」です。そして、被告人は「推定無罪」が原則ですから、刑務所側は強い指示命令を出すことができませんでした。

 

そして、一度規則を無視して金嬉老の要求を飲んだことで、「この前お前がしたことは違法だ。訴えるぞ」と言い出し、看守たちが断ることができない状態にして、どんどん要求をエスカレートさせていきました。

 

しかし、一旦、規則を無視して要求を飲むと、それ自体が違法行為にあたるのです。だから、『前に自分が受けた差し入れは違法行為だろ。訴えるぞ!』と脅されると、断ることができず、次々にエスカレートして物品を要求されるままに買い与えました。

 

引用:(3ページ目)《差別を訴えた殺人犯の“特別待遇”》「これでは召使いだ」とぼやいた看守…英雄視された人質立てこもり犯の刑務所生活 | 文春オンライン

 

しかも、これは静岡刑務所の上層部も知っていました。上層部は自分はすぐに転勤になるからと、見て見ぬふりをしたそうです。

 

この金嬉老の特別待遇は静岡刑務所幹部の中で申し送り事項になっていて、その管理体制は衆議院法務委員会でも取り上げられ、責任追及が行われました。この金嬉老の特別待遇の問題で、法務省上級職員13人、専従職員13人が停職や減給などの処分を受けています。

 

金嬉老に包丁を差し入れた看守は、その後服毒自殺をしています。自殺をした看守に対して、金嬉老は何の感情も反省も持っておらず、他人事のような態度をとったそうです。自分の行動が1人の看守を自殺に追い込んだのに、何の感情も持たないということは金嬉老は、ただのサイコパスなのかもしれません。

 

 

金嬉老の裁判の判決

 

出典:img.zakzak.co.jp

 

金嬉老の裁判では、金嬉老の刑務所内での特別待遇が発覚し、大きな社会問題となりました。包丁を差し入れた看守は殺虫剤を飲んで自殺してしまいました。

 

そんな金嬉老の裁判は第一審で死刑が求刑されましたが、1972年6月に無期懲役の判決となりました。2年後の1974年6月には東京高裁が控訴棄却、1975年11月には上告棄却となり、無期懲役が確定しています。

 

無期懲役確定後は熊本刑務所に収監され、そこで24年間服役し、1999年には東京の府中刑務所に移送され、千葉刑務所に移りました。

 

 

金嬉老は韓国に送還された

出典:bunshun.jp

 

金嬉老はなぜ千葉刑務所に移送されたのか?それは仮釈放が決定したからです。

 

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金嬉老には暴力団幹部の関係者を名乗る人物から脅迫状が届いていたこともあり、1999年8月23日に法務省は金嬉老が韓国に帰国し、日本に二度と入国しないことを条件に、70歳で仮釈放することを決定しました。

 

この仮釈放と韓国送還の計画は水面下で進んでいたようで、そのために1999年6月29日に熊本刑務所から府中刑務所に極秘に移送され、さらに仮釈放・出国の2日前には千葉刑務所に移送されました。

 

1999年9月7日に仮釈放され、そのまま韓国に送還され、金嬉老は釜山で暮らすことになりました。

 

ただ、金嬉老は在日韓国人とは言えども、日本生まれの日本育ちです。そのため、韓国語は一切できず、刑務所内で母国語を勉強し始めたそうです。

 

釜山に帰国後、本名を権禧老に再変更しています。韓国では金嬉老は「日本で民族問題と戦った英雄」として迎えられました。

 

 

金嬉老の結婚(2回目):韓国人女性

出典:tamutamu2015.web.fc2.com

 

金嬉老は金嬉老事件の前に1度日本人女性と結婚しましたが、1967年に離婚しています。次は韓国人女性と結婚しました。結婚した時期は1979年です。1979年は金嬉老は熊本刑務所にいましたので、獄中結婚ということになります。

 

この韓国人女性の妻とは2000年初めのころから釜山で一緒に生活をし始めています。

 

 

妻に現金を持ち逃げされる

金嬉老は韓国に送還された後、釜山で韓国人女性の妻と一緒に生活を始めましたが、その数ヶ月後に妻に生活費を持ち逃げされます。

 

2000年4月25日、金嬉老の妻は生活定着金約4750万ウォン(約475万円、一説には6000万ウォン約600万円)の現金を自宅や銀行口座から引き出して逃走しました。妻は窃盗と私文書偽造の容疑で指名手配され、1年5ヶ月後の2001年9月25日に逮捕されています。

 

妻は、金胃ろうの暴行・暴言に耐えられなくなり、それに対する慰謝料として現金を持ち逃げしたと主張しましたが、その主張は認められずに逮捕されています。

 

金嬉老の妻は、一緒に生活し始めたタイミングと持ち逃げしたタイミングを考えると、最初から金嬉老の生活定着金を目当てにしていたのでしょう。

 

 

金嬉老は殺人未遂で逮捕

出典:blog.livedoor.jp

 

金嬉老は韓国送還後、70歳で妻と一緒に生活を始めるものの、すぐに妻にお金を持ち逃げされてしまいます。その後は、韓国国内で講演会などを行って生活をしていました。

 

そして、その講演会をきっかけに、とある女性(43歳)と知り合い恋愛関係になり、内縁関係に発展しました。しかし、その女性は既婚者だったんです。

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金嬉老と女性が知り合ったのは1999年11月ごろです。その2人が親しくなり、恋愛関係になったのは2000年6月のことでした。金嬉老は女性から「あなたとの関係を疑った夫が私を殺そうとしている」と相談を受け、金嬉老はその女性の夫を殺害しようと計画しました。

 

2000年8月30日にはその女性の夫が住むアパートを訪れて、刃物を使って夫を脅し、警察に連行されました。その4日後の9月3日、金嬉老は再びその夫のアパートに押し入り、手製の竹やりで脅して、1時間にわたり監禁します。その後、夫の男性に軽いケガを負わせ、室内の布団に火をつけました。通報によって警察が駆けつけ、金嬉老は殺人未遂と放火の容疑で逮捕されています。

 

この時、金嬉老は夫ともみ合ったことでアゴにけがを負い、血だらけの状態で逮捕されたのですが、服に血液がついた状態で逮捕された時のセンセーショナルな写真が報道されました。

 

この逮捕によって、金嬉老は韓国で再び懲役生活に入ることになりました。

 

帰国した1年後に愛人女性の夫に暴行を加え、その家を放火するという事件を起こし、現行犯逮捕される。韓国では差別と闘った英雄として迎えられた金であったが、再びの懲役生活を送り、2010年3月に釜山で病死する。

 

引用:《差別を訴えた殺人犯の“特別待遇”》「これでは召使いだ」とぼやいた看守…英雄視された人質立てこもり犯の刑務所生活 | 文春オンライン

 

日本での長い懲役生活を送り、1999年に仮釈放されて韓国に送還された金嬉老は、韓国では英雄として迎えられています。しかし、この結果を見ると、金嬉老は日本での在日韓国人への差別と闘った英雄ではなく、ただの暴力的で犯罪を犯すことを躊躇しない犯罪者だったということですね。

 

この事件によって、金嬉老の韓国での人気は一気に低下したそうです。

 

 

金嬉老の現在:母親の墓参りで日本入国を狙うが死亡

出典:blog.goo.ne.jp

 

金嬉老は2001年に内縁関係の女性の夫への殺人未遂・放火の罪で、2年6ヶ月の懲役刑を受けました。

 

出所後は、母親の墓参りを名目に、韓国政府を通じて日本入国を陳情する予定でした。無期懲役だった金嬉老が仮出所できたのは、韓国に送還し、二度と日本に入国しないという条件でした。それなのに、再び日本入国を希望したというのは一体どういうことなのでしょうか?

 

金嬉老は2010年3月に日本入国の陳情を行う予定でしたが、前立腺がんを発症し、2010年3月26日に亡くなりました。

金嬉老の遺骨は半分は釜山沖に散骨、もう半分は母親と同じ墓所に納めることを希望していましたが、親族が反対したため、実現することはありませんでした。

 

しかし、実は墓所に納めることができず、支援者らが事件現場の旅館があった寸又峡で散骨したという。一部の親族が強く反対したためとみられる。
匿名で取材に応じた親族の一人はこの事実を認め、金元受刑者を「人生の大半を刑務所で過ごし、人から金をせびっては豪遊する、見えっ張りでずるくて極端な男だった」と非難。

 

引用:事件現場で散骨=親族「見えっ張りで極端な男」-金嬉老事件|カイカイch – 日韓交流掲示板サイト

 

親族からこれほど拒否されるというのは、よほど生前無茶苦茶なことをしていたのでしょう。

 

 

金嬉老事件のふじみや旅館は現在廃業

出典:underzero.net

 

金嬉老事件のふじみや旅館は、現在廃業しています。

 

その後もずっと営業を続けていました。2010年には金嬉老事件の資料館を作りましたが、2012年1月で廃業しました。

 

1968年2月の「金嬉老事件」の舞台となった静岡県・寸又峡の「ふじみや旅館」が廃業していたことが19日、分かった。おかみの望月英子さん(73)は「観光や長期滞在の客が減り、私も高齢で営業継続は難しい」といい、近く廃業届を出す。

 

引用:金嬉老事件の旅館が廃業 静岡・寸又峡

 

金嬉老も亡くなり、事件の舞台となったふじみや旅館も廃業したので、時間の流れを感じずにはいられません。

 

 

金嬉老のまとめ

金嬉老の生い立ちや家族・母親、結婚歴。ふじみや旅館で起こした金嬉老事件の詳細や裁判中の刑務所での生活や裁判の判決、韓国に送還された後の生活や現在をまとめました。

 

金嬉老は差別を受けたことは真実だと思いますが、それを殺人と結び付けたのは自分を正当化したかったのでしょうか?それとも注目を集めたかったのでしょうか?

 

それにしても、刑務所で自由にな生活を送り、レイプまでしていたというのは、恐ろしい犯罪者であることは間違いないでしょう。

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