アウシュヴィッツ強制収容所は第2次大戦中にナチス・ドイツによって設立された強制収容所で、人類の負の遺産とされる場所です。アウシュヴィッツ強制収容所で行われた人体実験、性実験や女性の生理事情、生き残りのその後や現在、映画について紹介します。
この記事の目次
- アウシュヴィッツ強制収容所の概要・設立目的
- アウシュヴィッツ強制収容所の場所
- アウシュヴィッツ強制収容所の歴史
- アウシュヴィッツ強制収容所の各施設の概要
- アウシュヴィッツ強制収容所内の生活
- アウシュヴィッツ強制収容所で行われた人体実験① 双子実験
- アウシュヴィッツ強制収容所で行われた人体実験② 低温実験
- アウシュヴィッツ強制収容所以外で行われたナチスの人体実験
- アウシュヴィッツ強制収容所では性実験も行われていた?
- アウシュヴィッツ強制収容所内での女性の扱い
- アウシュヴィッツ強制収容所内での生理事情
- アウシュヴィッツ強制収容所の解放とその後
- アウシュヴィッツ強制収容所内の生き残りの人々の現在
- アウシュヴィッツ強制収容所を扱った映画
- アウシュヴィッツ強制収容所についてのまとめ
アウシュヴィッツ強制収容所の概要・設立目的
アウシュヴィッツ強制収容所はアドルフ・ヒトラー率いるナチス・ドイツが第2次世界大戦中に建設した強制収容所で、主にユダヤ人が収容されていました。
アウシュヴィッツ強制収容所には2つの役割がありました。
1つ目の役割は、戦時下の労働力の確保です。ヨーロッパのほぼ中心地にあたるポーランドの広大な土地に建てられたアウシュヴィッツには、当時ドイツの占領下にあった国々や友好国から膨大な数の労働者が送り込まれ、戦争に必要な兵器や物資の生産が行われていました。
そして2つ目が、ナチスが「劣等民族」と目するユダヤ民族や、精神障害者、身体障害者、政治犯などを処刑する絶滅収容所としての役割です。
ドイツでは1935年にユダヤ人から市民権を奪う「帝国臣民法」や、ドイツ人とユダヤ人の婚姻や性交を禁じる「血統保護法」が制定されており、第二次大戦以前からすでに「ドイツ民族の血統を純化しよう」という差別的な働きがありました。
この働きを先導したのが、大恐慌後の困窮で積もりに積もった民衆の支持を受けて1933年に首相に就任した、アドルフ・ヒトラーです。
ヒトラーは「人種の最高位にあたるとされるアーリア人種の正当な末裔である『純粋なドイツ人』の血統を守る」という目標を掲げており、このことに異常な固執を見せていました。
そのため人種的に異なるユダヤ民族や、遺伝的疾患を持つ(とナチスが判断した)人々が子孫を残さないよう、処分しようとしたのです。
権力を得たヒトラーの周りには、彼の考えに賛同した「優生学」を研究する科学者たちが集まりました。
優生学とは簡単に言うと「遺伝によって病気や障害が広まる」という仮説に基づき、自国の民族の健康をどのように守るかを研究する学問で、1900年初頭には世界的なブームを起こしていたとされます。
この優生学を研究する科学者たちにとってナチスが設けた強制収容所は、自分の信じる学問の正しさを証明する便利な実験場だったのです。
そのため強制収容所内では、どうせ処刑される人間なのだから、と極めて非人道的かつ残酷な人体実験が行われるようになります。
ナチスという巨大なスポンサーを得た科学者たちは暴走し、おびただしい数の犠牲者が産まれました。また、労働者として強制収容所へ連れてこられた人々も使い捨てにされ、次々に命を落としていったとされます。
こうした強制収容所のなかでも、110万人を超すという最大規模の犠牲者を出したのが、アウシュヴィッツだったのです。
1945年1月にアウシュヴィッツ強制収容所が開放された時には、収容者の約9割がすでに死亡していたといいます。悲惨な歴史を踏まえ、1972年には「人類が2度と同じような過ちを起こさないように」という戒めの意味を込めて、アウシュヴィッツ強制収容所は世界遺産に登録されています。
アウシュヴィッツ強制収容所の場所
アウシュヴィッツ強制収容所のあった場所は、ポーランドの南部にある都市クラクフ(Krakau)の郊外、オシフィエンチム(Oświęcim)です。オシフィエンチムという地名をドイツ語でアウシュヴィッツと呼ぶことから、この名前がつきました。
当時、ナチスはユダヤ人や政治犯を自国の刑務所に収監していました。しかし、場所が足りなくなったため、占領下にあったポーランドに強制収容所が建設されたのです。
オシフィエンチムにはもともと、ドイツ軍の軍馬調教施設がありました。そのため広大な土地があったこと、鉄道の接続がよく利便性が高かったこと、周辺に炭鉱や石灰の産地があったことなどの理由から、アウシュヴィッツ強制収容所はこの場所に建設されたといいます。
アウシュヴィッツ強制収容所は現在では、第2収容所であるビルケナウ収容所と併せて「アウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館」として一般公開されています。
アウシュヴィッツ強制収容所の歴史
アウシュヴィッツ強制収容所は第1強制収容所と第2強制収容所のビルケナウ、第3強制収容所のモノビツェ(ブナとも呼ばれる)の3つからなります。
第1強制収容所が開所したのは1940年5月20日で、初代の所長はナチス親衛隊(SS)の将校、ルドルフ・フランツ・フェルディナント・ヘスでした。
開所日にはドイツ人の犯罪者30人が収監され、翌月にはポーランドの政治犯728人が送り込まれるなど、当初は刑務所として機能していました。
しかし、翌年の月1日に親衛隊のトップであるハインリヒ・ヒムラーが視察に訪れてから変化が生じます。
ヒムラーは収容人数を3万人まで増やすようヘスに伝え、次いで8月にはアウシュヴィッツを「ユダヤ人を虐殺するための施設」に改築するように命じたのです。
そして1941年10月からは、アウシュヴィッツ強制収容所内でユダヤ人のガス虐殺が行われるようになります。
同時期の10月8日には収容人数10万人という最大規模の第2強制収容所・ビルケナウが開所。
ビルケナウには脱衣所、ガス室、焼却炉を併設した火葬所が4棟も設けられ、ナチスによるユダヤ人虐殺の主な舞台となりました。
次いで1942年10月には第3強制収容所のモノヴィッツが開所し、ここに送られた人々は合成ゴム製造作業などの強制労働に従事したとされます。
そして1943年5月に親衛隊の医師であり、数々の非道な人体実験を行なったことで知られる「死の天使」ことヨーゼフ・メンゲレがアウシュヴィッツ強制収容所に配属。
以降は1945年1月27日にソ連軍が開放するまで、おびただしい数のユダヤ人やポーランド人が処刑にくわえてメンゲレの残酷な実験の犠牲となりました。
アウシュヴィッツ強制収容所の各施設の概要
アウシュヴィッツ強制収容所は第一から第三までの3つの収容所からなります。ここではそれぞれの収容所の特徴について見ていきましょう。
①第一強制収容所
最初に建設された第一強制収容所には、3つのアウシュヴィッツ強制収容所すべてを管理する機関も入っていました。
第一収容所の入り口には「ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になる)」という看板が掲げられていましたが、これはまったくの嘘であり、収容所での労働は死に繋がっていました。
ここには平均して13,000〜16,000人、最大で20,000人が収容されており、以下のような施設が入っていたといいます。
・人体実験の実験施設の入った10号棟
・銃殺刑を執行する「死の壁」があった11号棟
・裁判所
・病院
・ガス室(後に管理施設に変更される)
また、第一収容所にはソ連兵捕虜、ポーランド人の政治犯、ドイツ人の犯罪者、同性愛者などが収容されており、ユダヤ人はいなかったとされます。
②ビルケナウ
1941年10月、ブジェジンカ村に開所したアウシュヴィッツの第二収容所・ビルケナウは、主にユダヤ人が収容されており、戦後は絶滅収容所として問題視された場所です。
東京ドーム約37個分という広大な敷地のなかにはガス室が合計6棟もあったとされ、ピーク時には約90,000人ものユダヤ人が収容されていたといいます。
③モノヴィッツ
第三収容所モノヴィッツは、当時のドイツを代表する化学工業や重工業企業の製造プラントが密集していたモノビツェ村につくられました。
ここでは主に技能を持った囚人が労働に従事したとされます。なお、3つの強制収容所のうち、モノヴィッツだけは解放後にソ連軍に爆撃されたために現存していません。
アウシュヴィッツ強制収容所内の生活
アウシュヴィッツ強制収容所は高い壁に囲まれ、壁の上には高圧電流が流されて脱出不可能な環境でした。
また、看守と大型犬が敷地内を常に監視しており、関係者以外の人間が内部の様子を窺うことも当然できません。
しかし、強制収容所内の様子を知るために自ら志願して囚人としてアウシュヴィッツに潜入した人物がいました。それがポーランドの軍人であり、諜報員であったヴィトルト・ピレツキです。
開所した当時、敵対国からアウシュヴィッツ強制収容所は絶滅収容所ではなく単なる捕虜収容所だと思われていました。つまり、外部にまったく情報が漏れ出てこなかったのです。
ピレツキは1940年9月にわざとドイツ軍に捕えられ、1943年4月に脱獄するまで囚人として暮らし、内部の情報を集めたとされます。
ピレツキは戦後にアウシュヴィッツでの生活をまとめた手記『アウシュヴィッツ潜入記』を上梓し、その過酷で残酷な日々を公開しました。ここではその手記に綴られたアウシュヴィッツでの暮らしについて紹介していきます。
収容初日
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貨物などに乗せられてオシフィエンチムに連れてこられた人々は、まず広場に集められてドイツ人軍人から名前と職業を尋ねられました。
ここで弁護士や聖職者などの知識人、警察官や兵士などの反乱分子になるおそれのある者は選別され、激しい暴力を受けたり銃殺されるなどの処分を受けます。
さらに老人や女性、身長120cm以下の子ども、病気の者などは「働く能力のない者」として端からガス室送りにされました。
そして労働者としてふるい分けられた囚人、主に健康な男性は縦縞の囚人服に着替え、消毒や写真撮影を経て1人ずつ登録番号を腕に刻まれます。この登録番号は強制収容所内での名前となるのです。
また囚人たちは服に逆三角形のバッジをつけられ、ユダヤ人、ロマ族のジプシー、エホバの証人、同性愛者など、ひと目で識別できるようにされました。
労働
アウシュヴィッツ強制収容所では起床時間が定められており、夏は4時30分、冬は5時20分に起きることが義務付けられていました。
起床後は朝食を与えられて強制労働に従事。強制収容所内の労働は大きく分けて以下の4つがあったといいます。
・建築工事や舗装工事などの肉体労働
・戦争に使う兵器や資材の生産に関する仕事
・火葬所などで他の囚人の遺体を処分する仕事
・他の囚人の監視をする「カポ」という仕事
後述しますが与えられた仕事によって食事や住環境など与えられる待遇は異なったといい、最下層の扱いを受けたのが肉体労働者たちでした。
ピレツキはアウシュヴィッツに到着した時に偽名を名乗り、「職業は木工職人です」と嘘をついていました。
そのため特別な技能を持たないとみなされて、1日10時間以上にも及ぶ肉体労働に従事することになったといいます。
トイレも1日2回までと決められており、夜21には就寝。囚人は命を落とすまで、このルーティンを繰り返したのです。兵器や資材の生産に関わる仕事に従事した人々も、これと大差ないか、食事などは少しマシ程度の扱いでした。
火葬所などで働く人々は「ソンダーコマンド」と呼ばれ、高待遇であったといいますが、口封じのために定期的に労働者の入れ替えがあり、前職者は処刑されていました。
労働者の頂点とされたのが監視役の「カポ」ですが、この役職につけるのはドイツ人犯罪者の囚人や平気で身内のことも殺せるユダヤ人など限られており、戦後にナチスの親衛隊とともに裁かれた者もいたとされます。
囚人に対する支配
日常的に理不尽な暴力にさらされる人々を見て、また自らも看守の気まぐれに殴る蹴るの暴行を受ける日々が続くうち、囚人たちは徐々に感情を失っていきました。そのため、看守に歯向かおうという怒りの感情も起こりにくかったとされます。
ピレツキがアウシュヴィッツ強制収容所に潜入している間に、1人の囚人が脱獄を試みたことがあったそうです。
看守たちはすぐに脱獄した囚人を痛めつけたうえで収容所の敷地内に連れ戻し、他の囚人たちに「連帯責任として、お前らのうちの10人に餓死してもらう」と命じ、目についた囚人を牢獄に連れて行ったといいます。もちろん、彼らが生きて戻ってくることはありませんでした。
このようなことが強制収容所内では日常的に行われていたとされます。そのため囚人たちは、いつ訪れるとも知れない死の恐怖に怯えながら、ただただ看守たちの言うことを聞くロボットとして振る舞うほかなかったのです。
食事と住環境
初期の頃にアウシュヴィッツ強制収容所で出された食事は、朝食にコーヒーと呼ばれる茶色い液体(コーヒー豆は使っていない)を500cc、昼食に少しの野菜くずが浮いただけの濁ったお湯1000cc、夕食に300g程度のパンと3gのマーガリン、薬草の入ったお茶と決まっていました。
栄養失調になってすぐに死んでしまう労働者が多かったせいか、ポーランド・レジスタンス運動の発表によると1943年には食事の内容も改善されていたそうです。囚人にソーセージやチーズなどが提供されることもあったといいます。
ただ、食事は労働者の階級によってかなり差があったことから、全員がタンパク質を摂れていたわけではなく、最下層に位置づけられていた肉体労働者の食事は一貫して悲惨なものだったと考えられます。
また、住居も収容所内のヒエラルキーによって分けられていました。初期の頃に連れてこられた人々はコンクリートの上に無造作に置かれた藁の上で寝ていたといい、マットレスや3段ベッドが設置されたのはしばらくしてからでした。
しかも50人程度しか収容できない部屋に200人近い囚人を無理やり入れていたために、あっという間にチフスなどの感染症が蔓延し、命を落とす人も多く出ました。
一方で囚人の中で最上級の扱いを受けていたカポは個室を与えられていたといいます。
アウシュヴィッツ強制収容所で行われた人体実験① 双子実験
アウシュヴィッツ強制収容所で行われた人体実験のなかで、もっとも悪名高いものがヨーゼフ・メンゲレの双子実験です。
メンゲレはナチスのなかでも変わった人物で、ユダヤ人は劣等民族ではなくドイツ人に比肩するほど優れた民族と位置づけていました。これは実際にユダヤ人に優れた人材が多かったためであり、メンゲレはユダヤ人を殺害するとともにドイツ人を増やすことが、純粋なアーリア人を増やす道と考えたとされます。
そこで彼が目をつけたのが双子だったのです。ドイツ人が双子を出産する割合が上がれば、アーリア人の人口が増えると考えたメンゲレは、人為的に双子を妊娠する方法を探ろうとします。
メンゲレが実験に使ったのは、アウシュヴィッツに収容された約3000人1500組の双子でした。彼はアウシュヴィッツに送り込まれる人々が到着すると第一収容所の門の近くまで助手を派遣し、双子がいないかチェックしていたといいます。
そして目当ての双子を見つけると接触を図り、最初はお菓子を与えたり、映画を観せたり、ドライブに連れ出したりと他の人々とは天地の差があるほどのもてなしをして警戒心を解きました。
そのため多くの双子は彼のことを「メンゲレおじさん」と呼んで慕ったといいます。
しかし、腹の中では双子たちのことを人間としてさえ見ておらず「モルモット」と呼んでいました。
非道すぎる実験
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メンゲレが双子実験を始めたのは1944年からでした。最初の頃は双子を並べて立たせて比較するといった簡単な検査のみでしたが、次第に実験は残酷さを増していき、彼の実験施設のあった第一収容所の第10ブロックでは以下のようなことが行われていたとされます。
・腕を紐で縛り上げて何回も血液を抜く。あまりの痛さに失神する子どももいた。
・子どもの眼球に直接針を指して薬品を注入し、瞳の色が変わるか確かめた。
・正常な状態の臓器や性器を摘出し、どのような変化が起きるか観察した。
・双子の四肢を付け替えた。
無謀な実験によって命を落とした子どもや身体が正常に機能しなくなり、実験体として使えなくなった子どもたちは火葬所で処分されるか、身体をパーツごとに分けられてベルリンにあるメンゲレの研究所に郵送されました。
このような残忍な外科実験のなかでも極めて残虐であったのが、双子の身体を切り裂いて1つに縫合し、人為的に結合双生児(シャム双生児)をつくるというものです。
双子の臓器が同時に機能するかを調べる目的で行われた実験とされていますが、結果は当然失敗。
結合双生児にされた双子は苦しみ続け、最期は見かねた両親の手によって殺されたといいます。
メンゲレはクラシック音楽をかけてハミングしながら、実に楽しそうにメスを振るい、非人道的な外科実験を繰り返していたそうです。このことから彼は「死の天使」と渾名されました。
アウシュヴィッツ強制収容所で行われた人体実験② 低温実験
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大戦中、空中戦で爆撃されたドイツ軍パイロットはパラシュートで脱出した後に北海に落ちて命を落とすことが多々あったとされます。
そこで低体温症の治療方法や蘇生方法を確立するためにアウシュヴィッツやダッハウなどの強制収容所で行われたのが、囚人に対する凍結実験でした。
低温実験の被験者に選ばれたのは、主にソ連軍の捕虜だったといいます。これは寒冷地で暮らすソ連の人々は、ドイツ人やユダヤ人、ポーランド人よりも寒さに強い遺伝子を持っているとナチスの科学者らが考えていたためです。
実験では以下のようなことが行われたといい、約100人の囚人が命を落としたとされます。
・氷水の入ったタンクに被験者を入れて極限まで体温を下げ、復温方法を探る。
・マイナス6℃の気温のなか、裸で被験者を放置して生き残った者と命を落とした者を比較する。
・裸にした女性2人を極寒状態で抱き合わせ、皮膚の接触で復温できるか調べる。
これらの実験の結果はヒムラーに報告されるとともに、ダッハウ収容所の医師であったジクムント・ラッシャーによって「海と冬から生じる医学的問題 」という論文にまとめられました。
アウシュヴィッツ強制収容所以外で行われたナチスの人体実験
ナチスはアウシュヴィッツ以外の強制収容所でも数々の人体実験を行っていました。時にはその生存者がアウシュヴィッツに連れてこられて、ボロボロの身体で強制労働に従事させられて、最後の1秒まで搾取されて亡くなることもあったといいます。
ここではアウシュヴィッツ強制収容所以外の場所で行われていたとされる人体実験について、紹介していきます。
結核実験
結核実験はノイエンガンメ強制収容所で行われたとされる人体実験で、被験者はアウシュヴィッツに強制収容所から連れてこられた5〜12歳のユダヤ人の子ども20人でした。
彼らは結核の治療方法を探るためにリンパ腺を切除されるなどの外科手術を受けさせられ、衰弱の果てにナチスの悪行を隠すために終戦直前に殺害されたといいます。
この結核実験は長らく隠蔽されており、被害者の子どもたちの存在が明らかになったのは70年代に入ってからでした。
マラリア実験
マラリア実験はダッハウ収容所で行われた人体実験で、治療法を確立する目的で被験者たちは人為的にマラリアに感染させられました。
マラリアに罹患した被験者はさまざまな薬を投与され、1945年3月までの間に1,000人近い人が実験の対象となり、その過半数が命を落としたといいます。
マスタードガス実験
マスタードガス実験は、ザクセンハウゼン強制収容所やナッツヴァイラー強制収容所などで行われたとされる実験です。
皮膚をただれさせる毒ガスであるマスタードガスを被験者の身体に塗布し、兵器としての効果や治療方法を探る目的で行われていました。
毒ガスによって全身が焼け爛れた状態になった被験者の様子は写真に収められ、日を追うごとに酷くなっていく様も記録されました。
この実験で絶命しなかった被験者は重度の火傷や失明などの後遺症を負ったうえでアウシュヴィッツ強制収容所などに連れて行かれ、強制労働に従事させられたといいます。
海水実験
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海水実験は海に落ちたパイロットが生き残るために、海水を飲む方法を探る目的で行われたとされる実験です。
この実験はダッハウ強制収容所で行われ、被験者となったのはロマ族のジプシー約90人でした。
被験者らは味を変えただけで成分の変わらない海水だけを毎日飲まされ、他の食事は一切与えられずに様子を観察されました。
そのため脱水状態になり、バケツの中の汚水を飲む者やモップを掛けたばかりで湿っている床を舐める者まで現れたといいます。
骨移植実験
骨移植実験はドイツ軍兵士の骨や筋肉などの損傷を治癒する方法を探る目的で、ラーフェンスブリュック強制収容所で行われたとされる人体実験です。
被験者となったのは主に精神疾患を持つ女性の囚人で、彼女らは麻酔を使わずに骨や筋肉、神経の一部を除去されるという耐え難い痛みと苦しみに晒され、一生残る障害を負わされました。
精神障害は遺伝病と考えていたナチスにとって、精神疾患を持つ人々は子孫を残してはいけない存在、ユダヤ人同様に絶滅させなければいけない存在でした。そのために、このような残虐な実験を行えたのです。
飢餓実験
飢餓実験とは極限まで食事制限がされた状況が、人間の肉体や精神にどのような影響を及ぼすのかを観察する実験で、戦時下のアメリカでも行われていました。(ミネソタ飢餓実験)
とくにナチスは、ソ連の捕虜やユダヤ人などに最小限の栄養のみを与えて労働力として使い切るために飢餓実験を行なっていたとされ、彼らは芋などの少量の炭水化物だけを与えられて、餓死するまでこき使われました。
アウシュヴィッツ強制収容所では性実験も行われていた?
アウシュヴィッツ強制収容所では、効率の良い不妊手術の確立を目的とした実験も行われていました。ここではアウシュヴィッツで行われていた断種実験と、戦時下でナチスが行なっていた有名な性実験、レーベンスボルンについて紹介します。
断種実験
断種実験は、1941年3月頃から1945年1月頃までアウシュヴィッツ強制収容所を含む収容所で行われました。
この実験の目的はナチスが劣等民族とみなしていたユダヤ人、ポーランド人、ロシア人を当人たちに気づかれずに不妊にすることでした。子孫が残せない身体にすることで、ユダヤ人らの消滅を図ったのです。
断種実験の方法は以下の3つに分かれたとされます。
・薬物(サトイモ科の観葉植物の葉)を摂取させるなどして、生殖不能にする
・生殖器や子宮にX線を照射して被ばくさせ、卵子や精子をつくる機能を破壊する
・ホルマリン溶液を女性囚人の卵管に注入して、不妊状態にする
このうち、1番目の薬物を使った断種は手間とコストが掛かりすぎるという理由で、3番めの女性を不妊にする方法は子宮頸癌や不正出血などの副作用を伴うことから、実用性に乏しいと判断されました。
そのため2番目のX線照射がもっとも簡便な断種方法だと判断したナチスは、簡単なアンケートを取ると騙されて処置室に連れて行かれ、何をされたかもわからぬままに生殖器などにX線照射をされて不妊になったといいます。
しかもX線照射も不妊以外の副作用がなかったわけではなく、被験者たちは性器などに重い火傷を負いました。そしてその状態のまま、治療されることもなく強制労働に戻されたのです。
レーベンスボルン
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アウシュヴィッツなどの収容所やゲットーでユダヤ人女性を殺戮し、不妊にする研究を進める一方で、ナチスはドイツ人を増やすべく「レーベンスボルン」という交配実験を行なっていました。
第一次世界大戦で敗戦国となったドイツでは若年の男性の多くが戦死したため、出生率が著しく下がっていました。出生率の低下はすなわち国力の低下となるため、少子化対策はナチスにとっても急務だったのです。
当初のレーベンスボルン計画は、未婚女性の結婚、出産の支援や子育て支援といったようなごく普通の支援内容のみであり、国内には十数ケ所の専用施設が設けられたといいます。
しかし1940年代に入って優生思想とアーリア人至上主義が蔓延るようになると、計画は一変。
ヒトラーが純粋なアーリア人と定義した、金髪、高身長、碧眼の女性を集めて出産させ、彼が望むドイツ人を増産しようとし始めたのです。
そして1940年6月にドイツ軍がノルウェーを占拠すると、金髪で青い瞳、高身長の女性は連れて行かれてナチス親衛隊の将校と性交するよう強制されることとなります。
これを繰り返して、1944年までにナチスは約12,000人もの子どもを誕生させたといいます。当然ながらこれだけの人数の子どもが国の主導で強制的に産まれた例は、過去にも現在にもありません。
しかし、ヒトラーはこれだけでは満足しませんでした。人間の子どもが産まれるには10ヶ月以上の月日を要するうえ、一度の出産で誕生する子どもも1人か2人です。
これでは健康かつ完全なアーリア人の男児が生まれても、兵士になるには時間がかかりすぎると考えたヒトラーは、続いてヨーロッパ各地からアーリア人的な要素を持つ子どもたちを誘拐してきて、施設に拉致するよう親衛隊に命じたのです。
こうしてナチスはポーランドやチェコ、フランスなどの国々から金髪、碧眼の子どもが手当たりしだいに拉致します。その数は合計で20万人とも言われており、ポーランドからさらわれた子どもだけでも数万人いたといいます。
しかも誘拐してきた子どもは髪の色や目の色が成長過程で変わり、ヒトラーの定める「アーリア人の基準」から外れると、容赦なくガス室送りにされることもあったそうです。
ドイツの敗戦が決定的になり、ヒトラーが1945年6月に拳銃自殺を図ると、ドイツ内にあったレーベンスボルンの施設にも連合軍の捜査が入りました。
施設にいた子どもたちの一部はアメリカなど連合軍の国々に引き取られ、養子として家庭に迎え入れられたといいます。
しかし大半の子どもは孤児となり、「ヒトラーの落とし子」というレッテルを貼られ、差別に苦しみながら生きたとされています。
アウシュヴィッツ強制収容所内での女性の扱い
強制収容所内での女性の立場は極めて弱く、死にくわえて性的暴力の恐怖にもさらされていました。
彼女らは強姦によって妊娠することもあったといいます。しかし、妊娠していることが看守にバレると堕胎させられるために多くのユダヤ人女性は必死に妊娠を隠したそうです。
ポーランド人やハンガリー人、ロシア人の囚人女性も強姦され、妊娠することがありました。彼女らが身籠った子どもは、一応、ドイツ人兵士との間にできた「ドイツ人の子ども」の可能性もあるとして、即堕胎にはならなかったそうです。
しかし、出産した後に医師たちが「純粋なドイツ人ではない」と判断した子どもは、ナチスが用意した乳児院に連れて行かれ、そこで殺害されたといいます。
男性労働者とは違った恐怖にさらされるなか、女性たちは出身地や経歴などが似通った者同士で互助会のようなものをつくり、食料や情報を分け合いながら励ましあっていました。
アウシュヴィッツ強制収容所内での生理事情
アウシュヴィッツ強制収容所をふくむナチスの強制収容所に連れて行かれた女性は、まず頭髪を短く切られました。女性たちの髪の毛は戦時下で布を織る糸の代用品となっていたためです。
そして厨房係や散髪係、掃除係などの仕事を与えられてガス室送りを免れた一部の女性は、身体のラインの出ない囚人服を着ることとなります。下着も身につけていたものではなく、配給された粗末なものを使ったそうです。
強制収容所のストレスや栄養不足から、ほとんどの女性はすぐに生理が止まってしまいました。
このことは多くの女性を不安にさせ「戦争が終わってここを出られても、子どもを産むことはできないのかもしれない」と嘆く人も少なくなかったといいます。
一方で収容所内でも生理が続いていた女性たちにも、悩みはありました。生理用品はおろか、経血を拭う布きれ1枚さえ手に入らなかったのです。
現在でこそ「生理休暇を取得しやすくしてほしい」「生理痛の辛さを男性にも理解してほしい」といった声もあがり、生理への理解を求める活動も広がりを見せていますが、第2次世界大戦当時は国を問わず「生理は不浄、穢れ」という概念が根付いていたとされます。
そのため処置方法がないまま生理が来ることは、女性にとって恥であり恐怖だったのです。
しかし、不浄とみなされていた生理が女性囚人を守ることもありました。
前述のようにアウシュヴィッツ強制収容所などでは断種実験が続けられていたのですが、例外的に生理中の女性だけはこの被験者に選ばれなかったのです。
これは科学者たちが経血を嫌がったためであり、同様に生理中の女性はドイツ兵からの性的暴行も免れることができたといいます。
アウシュヴィッツ強制収容所の解放とその後
1944年に入り、ソ連軍や連合軍がドイツに向けて進行してくると、ナチスは非人道的な大量虐殺を隠すために強制収容所を取り壊そうとしはじめました。
しかしナチスの想像以上に連合軍の進軍は速く、遺体を燃やした現場である火葬所だけは破壊できたものの、ガス室などは残したままで撤退を余儀なくされます。
こうして44年の夏にはマイダネク強制収容所、はベルジェツ強制収容所、ソビボル強制収容所、トレブリンカ強制収容所が次々にソ連軍によって制圧、囚人も解放されました。
そして1945年1月27日、ついに最大の絶滅強制収容所であったアウシュヴィッツ強制収容所も解放されることとなるのです。
ソ連軍がアウシュヴィッツに到着する前、ナチスは「今すぐ処刑されるか、それともドイツ国内の強制収容所に移るか」を囚人たちに選ばせたといいます。
ここでドイツに移ることを選んだ囚人は、西へと向かう「死の行進」に連れて行かれました。
一方で処刑が間に合わなかったのか、移動が間に合わなかったのか、ソ連軍が到着した時点でアウシュヴィッツ強制収容所には約7,500人の囚人が取り残されていました。
残った囚人たちはひどく衰弱していたといい、すぐに保護されましたが回復までの道は長く、苦しいものだったと伝えられています。
アウシュヴィッツ強制収容所内の生き残りの人々の現在
アウシュヴィッツ強制収容所から生き残り、現在では普通の日常を送っている人々も大勢います。
しかし、開放されて治療を受け、仕事を見つけたり家庭を持ったりして新しい人生を歩き始めても、収容所でつけられた登録番号の刻印とともに、彼ら、彼女らのなかには地獄のような環境で過ごした記憶が残り続けました。
生き残ってしまったという後ろめたさから連れ添った配偶者にさえ、長らくアウシュヴィッツ強制収容所にいたことを明かせなかった人もいたそうです。
一方で、収容所内での出来事を二度と起こしてはいけない過ちとして、後世に残そうとする人も少なからずいます。
子どもたちに教えることで、自身の経験を前向きなものにしたいとダガンさんは考えていると話し、「ホロコーストの恐怖だけを物語るのではなく、お互いが助け合っていたこと、パンのかけらを分かち合えたこと、友情など素晴らしいことも話すようにしている。(中略)私たちは人間性を失わなかった」と続けた。
最近ではBBC制作のドキュメンタリー『アウシュビッツ ナチスとホロコースト』など、収容所を生き抜いた人々のインタビューが聞かれる番組も見られるようになりました。
現在、ご存命でインタビューに答えている人の多くは第2次世界大戦時にはほんの子どもであり、強制収容所の体験談のなかには「収容されてすぐに親が殺された」「兄弟がどこかに連れて行かれて、戻ってこなかった」というような胸が痛くなるものも多く含まれています。
また、このような生の声で歴史を伝承していくため、第2次世界大戦後にユダヤ人が多く移り住んだとされるロサンゼルスにあるホロコースト博物館では、AI技術などを駆使して生存者と会話できる展示もされています。
この展示の開発には『シンドラーのリスト』でホロコーストを扱ったこともある映画界の巨匠、スティーブン・スピルバーグ監督も協力しているとのことです。
アウシュヴィッツ強制収容所を扱った映画
悲劇を風化させないため、アウシュヴィッツ強制収容所を舞台にした映画は現在でも定期的に制作されています。ここでは近年に公開されたアウシュヴィッツ強制収容所を扱った映画、3作品を紹介していきます。
①アウシュヴィッツ・レポート
『アウシュヴィッツ・レポート』は、2021年7月に日本で公開されたスロバキア・チェコ・ドイツ・ポーランド合作の映画です。
監督・脚本は過去作『THE LINE』が、アカデミー賞国際長編映画賞のスロバキア代表作品に選ばれたという実績を持つペテル・ベブヤク監督。
ストーリーはアウシュヴィッツ強制収容所からの脱獄を果たした2人のユダヤ人青年が強制収容所内の実態をレポートにして連合軍に提出し、12万人ものハンガリー系ユダヤ人を救ったという実話をもとにしています。
強制収容所を脱出を図る彼らを命がけで庇う囚人の姿や当時の赤十字とナチスの関係なども描かれており、見ごたえのある作品です。
②アウシュヴィッツのチャンピオン
『アウシュヴィッツのチャンピオン』は、2022年7月に日本で公開されたポーランド映画です。
こちらの作品も実話をもとにして作られており、主人公は20歳のときにバンタム級のワルシャワチャンピオンに輝いたポーランド人のボクサー、タデウシュ・ピトロシュコスキ(通称テディ)です。
アウシュヴィッツ強制収容所に送られたテディは、同じ囚人であるウォルターという男(おそらくカポだと思われる)の勧めでドイツ軍兵士たちの娯楽としてボクシングの試合を披露することとなります。
これが好評を博し、テディは収容所内でもボクシングという特技で食事や安全を確保しつつ、周囲の人間も守るように。そして生きて強制収容所を出た彼は自由の身になってからもボクシングを愛し続けた、というストーリーです。
ちなみに映画では触れられていませんが、テディは前述のポーランド軍人、ピレツキの協力者として収容所内のレジスタンス組織にも属していました。
こちらの映画ではテディというボクサーの半生を描くことに重点を置いているため、アウシュヴィッツ強制収容所の過酷な実態はあまり詳細には描かれていません。
しかし、強制収容所の中にあっても希望を捨てずに助け合っていた人々がいることが窺える内容となっています。
③サウルの息子
『サウルの息子』は2016年1月に公開されたハンガリー映画で、カンヌ国際映画祭でグランプリを受賞した作品です。
ストーリーはアウシュヴィッツ強制収容所内でゾンダーコマンドとして働かされている主人公・サウルが、ある日、火葬される死体の山の中に自分の息子の遺体を見つけ、なんとか子どもを埋葬できないかラビ(ユダヤ教の聖職者)を探して奔走するというもの。
何が本当なのか観客にもわからない状態で話が進み、収容所内での過酷な環境で正気を保ち続け、正しい行いをすることは困難であったことを窺わせます。
また本作では、主人公の一人称視点のような独特なカメラワークも話題となりました。
アウシュヴィッツ強制収容所についてのまとめ
今回はナチスのホロコーストの舞台となり、人類史上に残る負の遺産として知られるアウシュヴィッツ強制収容所について、その歴史や収容所内で行われた人体実験、生き残った人々の現在をふくめて紹介しました。
個人的な恨みもない、初対面の相手に人間がここまで残酷になれるものだろうかと信じがたいほどの残虐行為が日常的に行われていたというアウシュヴィッツ強制収容所。
解放から75年以上が過ぎた現在では生き残りの人々も90歳を超えて、生の声を聞ける機会も少なくなっていくのではないかと危惧されています。
ヒトラーが、ナチスの科学者が異常だったから起きた悲劇だった、で済ませることなく、現在を生きる一人一人が人類最大の汚点として強制収容所の存在と、内部で起きたことを忘れずにいることが大切なのだと思います。