カスパー・ハウザーは19世紀のドイツで保護された実在の孤児で、出生が一切不明なまま死亡したことからドイツ最大の謎の一つとされています。この記事ではカスパーの数奇な生涯、王族の末裔説などの正体考察、最後の言葉、DNA鑑定について紹介します。
この記事の目次
カスパー・ハウザーの概要【実在したドイツ最大の謎】
カスパー・ハウザーは、1828年5月にドイツのニュルンベルクで発見された孤児です。
発見当時の彼は風貌から16歳程度と見なされたものの、自身の生い立ちや経歴はおろか年齢も答えられなかったことから不審がられ、まず市当局の保護下に入りました。
その後、野生児同然の孤児の話を聞きつけて興味を持った学者たちによって、カスパーはさまざまな検査を受けることになります。そして、彼には普通の環境で育ったとは思えないような奇異な特徴や、超能力とも言えるような特殊な能力があることがが発覚するのです。
学者たちの教育によって徐々に普通の生活が送れるようになっていたカスパーは、次第に街の人々の前にも姿を見せるようになり、自身の出自を思い出したかのような発言もするようになります。
彼の話を聞き、姿を見た人々は「どことなく高貴な顔立ちだ。貴族が王族の落とし子なのでは?」「いや、注目を集めるために野生児のふりをした詐欺師だ」と、カスパーの正体について噂をしはじめました。
しかし、謎に包まれていた出生が明らかになる前にカスパーは何者かによって暗殺されてしまいます。
そのためカスパー・ハウザーの生涯で歴史に認知されているのは、保護されてから死ぬまでの僅か5年半だけ。
2002年には正体を探るべく140年越しにDNA鑑定も行われましたが、それでも彼の生い立ちや保護されるまでの生活については不明なことが多いままです。そのためカスパー・ハウザーの正体は、未だにドイツ最大の謎の一つとされ、関心を集めています。
カスパー・ハウザーの生涯① ニュルンベルクで発見される
カスパー・ハウザーが初めてニュルンベルクに現れたのは、1828年5月26日の16時から16時半の間とされています。
突然ニュルンベルクのウンシュリット広場に姿を見せたカスパーは外見からは16歳程度に見えるものの言語能力は4歳程度で、近くにいた靴職人らに「お前ら、ノイトーア通り(neutorstraße)」と話しかけてきました。
片言での話し方を不思議に思った靴職人が、どこから来たのかと尋ねたところ、彼は強いバイエルン訛りで「レーゲンスブルク」と答えたといいます。
さらに奇妙なことに、この少年の手には「ニュルンベルク第6軽騎兵連隊第4騎兵隊騎兵大尉殿」と書かれた封書が握られており、本人の口からは「父のような騎兵になりたい」という旨の発言もありました。
薄汚い外見と片言の言葉、ぎこちない身振りの少年がこのような封書を持っていることを妙に思いつつ、靴職人は彼を騎兵大尉のフリードリヒ・フォン・ヴェッセニヒの邸宅に連れていきます。
カスパー・ハウザーの生涯② 手紙の内容
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一行がヴェッセニヒ宅を訪れた時、大尉はまだ帰宅していませんでした。そのためカスパーは食料を与えられて厩舎で休ませてもらうことになります。
その日の晩、帰宅したヴェッセニヒ大尉はカスパーの持っていた封書の中身を見て憤慨しました。封書には「推薦状」と「手紙」が入っており、それぞれ以下のようなことが書かれていたとされます。
推薦状
この少年を騎兵隊で預かって欲しい。ひきとるのが無理なら殺して構わない。
手紙
少年の父親は軽騎兵で、すでに亡くなっている。少年の名前はカスパー・ハウザーという。誕生日は1812年4月30日で、16歳になったらニュルンベルクに連れて行って欲しい。
前者の推薦状はカスパー・ハウザーをニュルンベルクまで連れてきた人物が書いたもので、後者は彼を預かっていた女中が書いたものでした。しかし、筆跡からは同一人物が書いたとしか思えなかったそうです。
手紙の内容や差出人にまったく心当たりがなかった大尉は、少年を起こして話を聞こうとしましたが、会話にならなかったことから市庁舎内の警察署にカスパーを連れて行くことにします。
警察署で名前を尋ねられたカスパー・ハウザーは、口頭では名乗れなかったものの紙に鉛筆で「Kaspar Hauser」と書いたといいます。
カスパー・ハウザーの生涯③ 謎の能力
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結局、警察を経て孤児として市当局の保護下に置かれることになったカスパーは、ニュルンベルクの北側にあった監獄塔で生活することとなります。
保護当時のカスパーには、とても普通の環境で暮らしてきたとは思えない以下のような奇異な行動が見られたといいます。
・歩き方は幼児のようなよちよち歩きで、まるで地面につけたことがないのかと思われるほど足の裏がツルツルで柔らかい。
・背筋を伸ばし、座ったまま眠る。
・ロウソクの炎をつまもうとする。
・鏡が理解できず、鏡像を掴もうとしたり、鏡の後ろにまわって人がいないか確認などする。
・口にするのはパンと水だけで、肉や牛乳を食べさせると吐いてしまう。
また、この頃から彼の出自についてニュルンベルクのビンダー市長は「あの少年は実は高貴な一族の出なのでは?」と噂していたそうです。
こういった噂もあってカスパー・ハウザーのことは街中で話題になり、興味を惹かれた進学者や哲学者、教育学者、法学者などが彼のもとに集まってきました。
そして検査の過程で、彼には下のような常人離れした特殊能力があることが判明します。
・暗闇のなかでも聖書が読める。また、色が判断できる。
・どこにいても北と南を指差すことができる。
・握っただけで金属の材質がわかる。(鉄、真鍮など)
・離れた場所にある蜘蛛の巣に獲物がかかっているか否かがわかる。
不思議な能力があることがわかると謎の少年をひと目見たいという人々が監獄塔にまで押しかけ、連日、カスパーが監禁されている塔の周りには黒山の人だかりができるように。
しかし監獄塔での生活が開始してから2ヶ月ほど経った頃、鋭すぎる感覚のせいか、群衆に囲まれた生活による刺激が原因でカスパーの精神状態は著しく不安定になってしまいます。
そこで彼に強い興味を持っていた宗教哲学者のゲオルク・フリードリヒ・ダウマーが養父となり、身元を引き受けることとなったのです。
ダウマーはカスパーに読み書きや計算を教えました。すると発見当時は4歳程度の学力しかないとされていたカスパーは、どんどん新しい知識を吸収し、短期間で読み書きや簡単な算数ができるまでに成長したといいます。
カスパー・ハウザーの生涯④ 幽閉疑惑
さらにダウマーはカスパーに馬術や音楽なども教えました。すると、あっという間に馬を乗りこなすようになり、ピアノで簡単な曲が弾けるようになったのです。
短い期間にさまざまなものを吸収したカスパーに対して、「やはり正体は王族など高貴な家の出であり、以前にも語学や馬術を学んだ経験があったのではないのか?」という疑惑が持ち上がります。
また一方では「本当は狡猾な嘘つきで、野生児のふりをして我々を欺いていただけでは?」という指摘も出ました。
しかし、話せるようになったカスパーの口から断片的に語られたニュルンベルク以前の生活は人々の想像を超えるものだったのです。ビンダー市長が公式に発表した「カスパー本人によって語られた彼の生い立ち」は以下のような内容でした。
ニュルンベルクに来るまでは「穴」という日も差さない部屋に閉じ込められていた。「穴」には白い木馬が2個あり、いつもそれで遊んでいた。
ある夜、突然男がやってきて「穴」から出され、自分の名前の書き方と歩き方を教えられた。
そして男に連れられてニュルンベルクに来て、そのまま置き去りにされた。
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さらにカスパー本人の証言によると「穴」にいた頃、朝に目が覚めると決まって目の前にパンと水が置かれていたそうです。
その水は苦味があり、飲むと意識が遠のく感覚に襲われ、気がつくと衣服や髪、爪に至るまで身体が綺麗になっていたといいます。
なお人との接触が一切なく、まったくの無知であった当時のカスパーは、食事は地面から勝手に出てくるものだと思っていたとのことです。
カスパー・ハウザーの生涯⑤ 最初の襲撃
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しかし、謎に包まれた生い立ちの手がかりが出始めた矢先に事件が起こります。1982年10月17日の正午、ダウマー宅の地下室で額から血を流して倒れているカスパーが発見されたのです。
これはニュルンベルクに来てから最初の襲撃であり、意識を取り戻したカスパーの証言によると「黒い覆面をした男に、剃刀状の刃物で襲われた」とのこと。
警察の捜査の結果、怪しい2人組の男が捜査線上に浮上しましたが、逮捕には至らず事件の真相はわからず仕舞いでした。
この襲撃事件に対する世間の声はさまざまで、「カスパーを監禁していた犯人が、何らかの秘密が漏れるのを恐れて暗殺しに来たのではないのか」との声から、「事件は注目を集めるために、カスパーが自作自演したのだろう」との疑いの声まであがったといいます。
カスパー・ハウザーの生涯⑥ アンスバッハへ
事件を受けて1982年12月12日に、市の裁判所はカスパーの法定後見人を陪審判事のトゥーハー男爵に任命しました。ところが、男爵家の家族がこれを拒否。
そのため、カスパーの身元は市会議員のヨハン・クリスティアン・ビーバッハの家で預かられうことになります。
1983年になると人々のカスパーへの興味はますます加熱し、「カスパー・ハウザーは詐欺師」という内容を綴った小冊子が発行されたり、ハンガリーの新聞では「カスパー・ハウザーはハンガリーで生まれたのでは?」といった記事が載せられるようになったそうです。
そして1983年4月30日、身を寄せていたビーバッハ宅でピストルの暴発が起こり、カスパーが重傷を負うという事故が発生します。
事故は狂言自殺と疑われ、これが原因で「やはり詐欺師なのではないか」と囁かれたカスパーはビーバッハ宅からも追い出されそうになってしまうのです。
そこで新たな養父として名乗りを上げたのが、英国の外交官で、諜報部員でもあったフィリップ・ヘンリー・ロード・スタンホープという男性でした。
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スタンホープ卿はかねてから「王族の末裔では?」との噂があったカスパーに関心を持っており、たびたび彼のもとを訪れては高価な時計や洋服などを与えていたそうです。また、いつかは英国の自分の城で暮らそうとの約束もしていたといいます。
そして1831年11月、スタンホープ卿はカスパーを連れてまずアンスバッハへ旅立ちます。
しかし、我儘な振る舞いが目立つようになっていたというカスパーに嫌気が差したのか、スタンホープ卿は彼を英国に連れていかずに、アンスバッハに住む友人のヨハン・ゲオルグ・マイヤー博士に彼の世話を押し付けて去ってしまったのです。
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この頃、すでに20歳になったと思われるカスパー。マイヤー博士によると彼の学力は9歳児程度で、学習への熱意と勤勉さはごく普通だったといいます。
また、養父代行となったアンスバッハ裁判所の所長のアンゼルム・フォイエルバッハは、当時のカスパーについて「善良な人間ではあるが、凡庸。生い立ち以外に変わったところはない」と評していました。
カスパー・ハウザーの生涯⑦ 最後の言葉・死因は暗殺
アンスバッハに来てからのカスパーは非常に落ち着いていたといい、保護時とは打って変わって豚肉以外のものは何でも食べられるようになっていました。
保護時にあった超能力的とも呼べる特殊な感覚は、普通の生活に馴染むにつれてすっかりなくなっていたそうです。
アンスバッハでのカスパーは、日替わりで町の名士の家に招待され、ダンスやチェスなどの娯楽に興じ、充実した日々を送っていたといいます。
また、手先が器用であったことから紙細工やビーズ細工にも精を出していたそうです。なお、カスパーは絵を描くのも好きだったようで、下のような絵画作品も残っています。
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ところが、幸せな時間はまたもや長く続きませんでした。1833年12月14日、アンスバッハ市内の王宮庭園でカスパーは何者かに刺されたのです。
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襲われた日、控訴院の写字生として働き始めたばかりのカスパーは、待ち伏せをしていた男に「庭園長が待っている」と呼び出されて王宮庭園を訪れていました。
そこで左胸を刺されたのです。犯人は現場近くに、鏡文字で書かれた以下のようなメモを残していました。このメモに意味は現在もわかっていません。
刺された後もカスパーは3日間、生き延びました。しかし1833年12月17日22時に、左胸の刺し傷が原因で息を引き取ることとなります。
最後の言葉は「自分でやったんじゃない…」だったそうです。保護されて以降、詐欺師呼ばわりされてきたことを悩んでいたであろうカスパーの、苦しい胸の内が窺えます。
カスパー・ハウザーの正体考察① 王族の末裔か
ニュルンベルク時代にカスパーの養育にあたった法学者のアンゼルム・フォイエルバッハは、カスパーの顔立ちや出生年から、彼はドイツ南西部のバーデン大公国の王族の末裔なのではないかという説にたどり着きます。
フォイエルバッハは1812年9月にバーデン大公と王妃の間に生まれた子どもが、誕生して間もなく遺体と取り替えられたのではないかとの考えるようになります。
当時、バーデン大公にはルイーゼ・カロリーネという愛人がおり、彼女との間にも4人の子どもがいました。正妻の王妃との間に男児が生まれなければ我が子が世継ぎになれると思っていたルイーゼにとって、大公と王妃の間に生まれた子は忌々しい存在でした。
そのため生まれたばかりの王子を別の乳児の遺体と取り替えて、死亡を偽装したのではないかと仮定したのです。
実際、バーデン大公と王妃の間に生まれた待望の王子は誕生から約2週間後に亡くなっており、聖ミヒャエル教会に埋葬されていました。
あまりにもスキャンダラスな内容であるため、フォイエルバッハはこの仮説を発表することなく世を去ります。そのため、この説が世に出回ったのは、彼の没後20年が経ってからのことでした。
カスパー・ハウザーの正体考察② 幽閉されていた場所
バーデン大公の跡取り説をとると、カスパーが幽閉されていた場所についても推理できました。
赤ん坊の取り替え疑惑のあるルイーゼが、大公から贈られていたボイゲン城の地下に幽閉していたのではないか、と指摘されるようになったのです。
また、カスパーは1929年の一時期、頻繁に幼少期の自分が出てくる夢を見ていたそうで、その夢には玄関に紋章が飾られた大きな門をくぐっていくシーンが出てきたのだといいます。
後にカスパー本人が描いた夢に出てきた紋章の絵が、ボイゲン城の紋章に似ていることが明らかになっています。
カスパーは16歳になるまでにライン川沿いに位置するボイゲン城から、ニュルンベルク近くのピルザッハ城という水城に移されたのではないか、とも言われています。
これは1924年にピルザッハ城から、カスパーの証言に近い特徴を持つ隠された中二階が発見され、1982年に行われた改修工事の際に中二階の床から白い木馬と古い衣服が出てきたことから注目を集めた説です。
カスパー・ハウザーのDNA鑑定の結果
1996年、ドイツの雑誌『シュピーゲル』が中心となり、カスパー・ハウザーとバーデン大公の間に血縁関係があるか否かのDNA鑑定は行われました。
鑑定の材料となったのは刺された当日にカスパーが身につけていたズボンで、血痕が付着していました。
この血痕から検出した遺伝子とバーデン大公の子孫の遺伝子を比較して、王族の末裔説の真相を探ろうとしたのです。
1996年11月25日に発表された結果は「カスパー・ハウザーとバーデン大公の間に血縁関係はない」というものでした。
これによって長らく有力視されていた「カスパー・ハウザーの正体は取り違えの王子説」は完全に否定されたと思われました。
ところがその後の調査で、そもそもズボンに付着していた血痕はカスパーのものではなかったことが発覚するのです。
世間からはDNA鑑定のやり直しが求められ、カスパーのDNAがないのなら取り違え疑惑のある乳児の遺体のDNAが大公一族と一致するのかを確かめてみてはどうか、との声が上がりました。
しかしバーデン家は「死者の眠りを妨げたくない」として、これを拒否。また、大公家に関する文書の後悔も拒みました。
埋葬されたカスパー・ハウザーの骨も第二次大戦中に行方不明になっていたため、DNA鑑定は不可能かと思われましたが、2002年に状況が一変します。
DNA検査の進歩によって、フォイエルバッハ家に保管されていたカスパーの帽子に付着していた彼の髪の毛からも、遺伝子解析が可能になったのです。
こうしてバーデン大公の子孫の遺伝子と、髪の毛から検出されたカスパーの遺伝子が再び照合されることとなります。
そしてその結果、2つの遺伝子情報はほぼ一致する、血縁関係にある確率が高いという衝撃的な結果が出たのです。
しかしながら、この結果がカスパーとバーデン大公の血縁関係を証明するものにはなりませんでした。ズボンに付着していた血痕同様、帽子についていた髪の毛もカスパーのものではない可能性があるからです。
カスパー・ハウザーをモデルにした映画『カスパー・ハウザーの謎』
カスパー・ハウザーの存在は文学作品にも多くの影響を与えたとされ、1974年には彼の生涯を描いたドイツ映画『カスパー・ハウザーの謎』も公開されました。
カスパーを演じたブルーノ・Sは当時41歳であり、一見すると保護時に16歳であったカスパーとは似ても似つかない印象を受けます。
しかし、幼少期から精神病院に収容されており、退院後には大道芸で生活費を稼いでいたという壮絶な過去を持つブルーノが演じるカスパーは胸に迫るものがあり、本作はドイツ内外で高い評価を獲得しました。
カスパー・ハウザーについてのまとめ
今回は19世紀のニュルンベルクに突然現れ、多くの謎を残したまま若くして殺害されたカスパー・ハウザーについて、その生涯や正体の考察、DNA鑑定の結果などをまとめて紹介しました。
世に出て、人間らしい生活が送れたことがたった5年半であったことや最期まで本人も自分が何者なのかわからなかったことを考えると、カスパーの生涯は短く、あまりにも悲しいものだったと思えます。
生前、カスパーはニュルンベルクで養父になってくれたダウマーに対して「あの『穴』から出てきたのは間違いだったのではないかと思っている。ずっとあそこにいればよかった」という趣旨の話をしていたといいます。
一体、どんな気持ちで町での日々を過ごしていたのでしょうか。今となっては知るすべもありません。