帝銀事件の真相と真犯人!平沢貞通は冤罪?死刑囚の家族と養子の悲劇・酒井政利が息子の噂と映画を総まとめ

戦後の混乱期に起こった帝銀事件は、犯人は逮捕されましたが、冤罪の可能性があり、現在でもいろいろな考察が行われている事件です。

 

帝銀事件の概要や平沢貞通の経歴や家族、死刑囚になってからの養子や息子が酒井政利の噂、冤罪の可能性と事件の真犯人と真相、映画についてまとめました。

帝銀事件の概要…テンペラ画家の平沢貞通が逮捕されて死刑判決が言い渡さる

帝銀事件とは、1948年1月26日に東京都豊島区長崎にあった帝国銀行椎名町支店に男が現れて、行員たち12名を毒殺して、現金と小切手を奪って逃走した事件です。

 

その後、テンペラ画家の平沢貞通が逮捕され、死刑判決が言い渡されています。

 

 

赤痢発生を理由に毒物を飲ませる

出典:ja.wikipedia.org

 

1948年1月26日午後3時過ぎ、閉店したばかりの帝国銀行椎名町支店に男が現れました。

 

その男は東京都防疫班の白腕章をつけていて、厚生省技官の名刺を差し出しながら、「近くの家で集団赤痢が発生した。GHQが行内を消毒する前に予防薬を飲んでもらいたい」と言い、行員と用務員一家の16名(8歳から49歳)に青酸化合物を飲ませました。

 

・全員に確実に飲ませるために、第1薬と第2薬の2種類を用意していた
・犯人はまずは自分が見本として飲んで見せて信用させてから飲ませた
・「歯を痛めないために下を出して飲むように」と確実に飲み込ませる方法を指示

 

犯人はこれらのことをしたため、周到に用意された犯行であることが分かります。

 

第1薬を飲んだ時には、ウイスキーをストレートで飲んだ時のような胸が焼け付くような感覚があり、全員が第2薬を競うようにして飲んでいます。

 

その後、みんなが次々と気分が悪くなり、意識不明になって倒れる中、女性行員が時々意識を失いながらも、なんとか外に助けを求めたことで事件が発覚しました。

 

犯人の男は午後3時半には現金16万4410円と小切手1万7450円(現在の物価は当時の100倍=約1800万円相当)を盗み、さらに支店長代理に差し出した名刺や自分が見本を見せる時に使った茶碗など証拠になるものはすべて持ち去っていました。

 

女性行員が外に助けを求めたことで、集団中毒事件だと思った群衆が行内になだれ込み、大混乱となって、現場保存はできませんでした。また、交番の警官が駆け付けた時には、すでに16名中10名が死亡していて、残り6人はわずかに息がある状態でした。

 

6人のうち1人はその場で死亡し、5人はすぐに病院に運ばれましたが、1名の男子が死亡し、生存者は4名だけでした。

 

帝銀事件は12名死亡、4名が重傷という大事件になったのです。

 

 

名刺を頼りに捜査

出典:tokyo-np.co.jp

 

事件が発覚した当初は事件ではなく、集団中毒だと思われたこと、さらに現場保存ができなかったことなどの理由で初動捜査が遅れました。犯人が持ち去った小切手は事件の翌日には換金されていましたが、それを警察が確認したのは、その翌日のことだったんです。

 

警察が捜査をを進める中で、青酸化合物を慣れたように使ったことから、捜査本部は旧軍関係者の犯行とみて捜査を進めていました。しかし、名刺という大きな手掛かりで、捜査の方針が変わったのです。

 

次の2つの未遂事件が帝銀事件前に発生していて、同一犯人の犯行であることが分かりました。

 
・1947年10月14日:安田銀行荏原支店
・1948年1月19日:三菱銀行中井支店

そして、安田銀行荏原支店の未遂事件では、犯人は「厚生技官 医学博士 松井蔚 厚生省予防局」という名刺を差し出しています。

 

この名刺の人物は実在していて、その名刺は100枚ありました。本人の手元には8枚残っていて、残り92枚の中で行方が分からなかったのは8枚だけでした。行方不明の8枚の名刺を持つ人物の中の1人が犯人であり、犯行の際にその名刺を利用したのでしょう。

 

そして、捜査の中でテンペラ画家の平沢貞通が容疑者として浮上します。

 

 

平沢貞通を逮捕

出典:blog.goo.ne.jp

 

テンペラ画家の平沢貞通は、事件から約7ヶ月経った1948年8月21日に、北海道小樽市の親類にいたところを逮捕されました。逮捕の根拠には次のようなものがあります。

 

・人相書(似顔絵)に平沢貞通が似ていた
・貰った名刺は財布ごと盗まれたと主張したが、怪しい点がいくつかあった
・事件直後に偽名で大金を銀行口座に入金し、妻にもお金を渡していた
・事件当日のアリバイを証明できなかった
・過去に銀行で詐欺事件を複数回起こしていた
・小切手を換金した人物に似ていた
・小切手を換金した人物と筆跡が似ていた
・帝銀事件で犯人発した言葉と平沢貞通の口癖が同じだった

 

一番怪しいのは、平沢貞通は事件前は借金をするくらいにお金に困っていたのに、事件後は大金を銀行口座に入金して、妻にお金を渡して、自分は東京を離れたのです。

 

また、犯人は椎名支店で行員や用務員を集める時に、「オール・メンバー・カム・ヒア」と言っていたのですが、この言葉は平沢貞通が自宅の朝食の時に家族を集める時に使う口癖のような言葉だったんです。

 

平沢貞通は北海道の小樽で逮捕され、汽車で東京に移送されたのですが、その時はマスコミや野次馬が殺到して大混乱になり、平沢貞通の人権が蹂躙されているとして、警視総監が国会で釈明することになりました。

 

 

平沢貞通に死刑判決

出典:twitter.com

 

逮捕された平沢貞通は容疑を否認し、無罪を主張していました。しかし、逮捕から1ヶ月後の9月23日から犯行を認める供述をしています。

 

ただ、逮捕後に平沢貞通は自殺未遂をしています。

 

・8月25日:ガラスペンで左手首を切る
・9月22日:取り調べ中に部屋の柱に頭を打ち付けて失神
・9月25日:座薬を5つ飲む

 

一度は自供したものの、裁判では自供を翻し、一転して無罪を主張しました。しかし、平沢貞通の主張は認められることはなく、死刑判決が出されました。

 

・1950年7月24日:死刑判決(第1審)
・1951年9月29日:控訴棄却(第2審)
・1955年4月6日:上告棄却(最高裁)

 

平沢貞通は、無罪を主張し続けましたが、1955年4月6日に死刑が確定しています。

 

 

帝銀事件で逮捕された平沢貞通の経歴

出典:gasho.net

 

平沢貞通は1892年に東京都で生まれました。父親は憲兵で、父親の転勤で北海道に移住することになりました。

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1914年に二科展に入選し、それが縁で横山大観に弟子入りし、「大暲」と雅号を貰います。その後も作品を生み出し続け、二科展に3回、文展に16回、光風会は毎年入選し、さらに「帝展無鑑査」という一流画家でした。

 

売れっ子画家として収入もあり、大卒の初任給が50~60円だった時代に、月収300円程度稼いでいたようです。

 

しかし、1925年5月に愛犬が狂犬病にかかり、平沢貞通も予防接種を受けましたが、それが原因で意識不明になって入院し、コルサコフ症候群と診断されます。この病気になったことで一時的に創作をやめていましたが、少し調子が良くなった後は、また大作を完成させるようになりました。

 

 

帝銀事件で逮捕された平沢貞通の家族

出典:bunshun.jp

 

平沢貞通は1916年に結婚していて、二男三女に恵まれています。

 

しかし、帝銀事件で平沢貞通が逮捕されて以降、家族はマスコミや野次馬の恰好の餌食となり、戸籍を抜けて、平沢姓ではなくなることを余儀なくされました。

 

・妻:1962年に離婚
・長女:1936年に結婚で除籍
・長男:1948年12月に除籍、妻子を捨てて失踪
・次女:1944年に結婚で除籍
・次男:1948年11月除籍
・三女:1949年に除籍、アメリカ人と結婚してアメリカ移住
 

長女と次女は結婚したことで、平沢貞通の戸籍を抜けていますが、長男・次男・三女は逮捕後に戸籍を抜け、平沢姓を捨てています。

 

そして、そもそも事件前にはすでに夫婦関係は破綻していました。平沢貞通は弟子の女性と長年不倫していて、終戦前には別居状態にあったんです。

 

事件前の1947年には、妻子と同居を再開させましたが、妻は子供達に平沢貞通を「となりのおじさん」と呼ぶように命じるなど、夫婦関係は良好とは言えない状態でした。

 

そのような中で帝銀事件と平沢貞通の逮捕が起こり、家族はマスコミから追い回されることになったのです。除籍するのは仕方がないことです。妻は離婚していますが、「むしろ、1962年までよく離婚しなかったな」とも思えます。

 

しかも、離婚したあとも平沢貞通のことを気にかけていて、子供たちから1万円の仕送りを受けていましたが、その中から3,000円は刑務所にいる平沢貞通に送っていたそうです。

 

平沢貞通の妻は1979年12月11日に86歳で亡くなっています。

 

 

帝銀事件で逮捕された平沢貞通死刑囚の息子は酒井政利?

出典:mainichi.jp

 

平沢貞通は死刑囚となりましたが、平沢貞通死刑囚の息子が酒井政利さんではないかと話題になったことがありました。

 

酒井政利さんとは、山口百恵さんなどを発掘した有名芸能プロデューサーです。1972年に「女性自身」に次のような記事が掲載されました。

 

事件から四半世紀が経過した1972年、女性週刊誌『女性自身』(光文社)に次のようなタイトルの記事が掲載された(1972年8月26日号)。

<死刑囚・平沢貞通の“愛人の子”の疑惑に耐えた25年間!>

 

引用:(2ページ目)“山口百恵の育ての親”酒井政利プロデューサーが苦しんだ「出生の秘密」 あの“帝銀事件”犯人との数奇な縁とは? | 文春オンライン

 

酒井政利さんは3歳の時に和歌山県の酒井家の養子となりました。そして、中学生の時に初めて自分が死刑囚の平沢貞通の子供ではないかと疑念を持つようになるのです。

 

酒井さんはここで、近所の人から突然「お前は平沢の愛人の子だ」と言われたことや、高校生時代にも伯母から「マサちゃんは、帝銀事件の平沢貞通の坊ちゃんなんやてねえ」と言われ、実の母とされる女性の名や住所を知らされたことなどを認め、自殺をも考えるほど悩んだことを告白している。

 

引用:(3ページ目)“山口百恵の育ての親”酒井政利プロデューサーが苦しんだ「出生の秘密」 あの“帝銀事件”犯人との数奇な縁とは? | 文春オンライン

 

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自分が養子というだけでなく、死刑囚の子供かもしれないと思ったら、自殺を考えるのも無理はありません。

 

「女性自身」の報道後、酒井さんは平沢貞通に面会しようとしましたが、結局は面会することができず、自分が本当に死刑囚の平沢貞通の子供なのかどうかわからないままだったとのことです。

 

ただ、ご本人も認めていますが、酒井政利さんと平沢貞通はどことなく似ています。また、女性自身の記事が出た後に、平沢貞通が支援者に酒井政利さんが自分の息子であると認める手紙を送ったこともあるそうです。

 

 

帝銀事件で逮捕された平沢貞通は冤罪だった?

平沢貞通は死刑判決が1955年に言い渡されていますが、帝銀事件は冤罪の可能性が高い事件であると言われています。

 

逮捕理由・根拠を見ると、平沢貞通が犯人であると思えますが、実はそんなことはなく、冤罪の可能性も十分にあるのです。

 

 

お金の出どころは春画の可能性大

出典:bunshun.jp

 

平沢貞通が逮捕されて、有罪の可能性が高いとされた理由の1つにお金の出どころがありました。

 

平沢貞通は事件前はお金に困っていたのに、事件後は大金を自分の口座に入金し、妻にもお金を渡していました。そして、平沢貞通はそのお金の出どころをきちんと説明できなかったのです。

 

実は、この大金は平沢貞通が春画(いわゆるエロ絵)を描いて稼いだお金の可能性が高いことが分かったのです。

 

死刑確定から8年後になって、ようやく平沢貞通は春画で得たお金であると支援者に告白したようです。それまで春画であると言えなかった理由は、恥ずかしかったからかもしれません。

 

一流画家であった平沢貞通が、いくらお金に困っていたからと言って、春画でお金を稼いだなんて、プライドが邪魔してなかなか言い出せなかったというのは理解できます。死刑になってまで守るプライドなのかどうかは疑問ですが、実際に横浜や小樽で平沢貞通が描いたと思われる春画が発見されています。

 

平沢貞通が春画を描いてお金をもらっていたなら、事件後の大金も説明がついてしまいます。

 

 

自白以外に決定的な証拠なし

出典:ww5.tiki.ne.jp

 

この帝銀事件で、平沢貞通の自供以外に、きちんとした証拠はありません。当時は旧刑事訴訟法のもとで捜査が行われましたが、当時は『容疑者の自白が「証拠の女王」』と言われていました。つまり、自白重視の捜査だったんです。

 

そのようなこともあり、自白以外に証拠がなくても、起訴することができました。

 

しかも、平沢貞通は裁判では自供を翻していますし、その自供は拷問で引き出されたものとも言われています。

 

なんとなく「平沢貞通が犯人っぽい」という証拠はあったものの、決定的なものはなく、自供自体も怪しいため、帝銀事件で平沢貞通が犯人と決めつける材料がなくなっているのです。

 

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毒物の知識がない

出典:bunshun.jp

 

この帝銀事件は、毒物・青酸化合物に関する知識を持つ者の犯行と見られています。ただの青酸カリではなく、遅効性があり、第1薬の後に第2薬を飲んで死ぬように計算していなくてはいけません。

 

青酸カリは即効性があるので、それを飲ませたら、16人全員が薬を飲み終わる前に誰かが倒れて、怪しまれてしまいますから。だから、青酸化合物・毒物に詳しい者の犯行である可能性が高いのです。

 

また帝銀事件で使われた毒物は、秘密裏に旧日本軍が開発した「アセトンシアノヒドリン」という薬物であるという説もあります。

 

青酸カリは誰でも手に入れることができる時代だったもの、平沢貞通には毒物の知識はなく、青酸カリの致死量を調節することはできません。また、旧日本軍が開発したアセトンシアノヒドリンなんて手に入れることは平沢貞通には不可能です。

 

このことから、平沢貞通は冤罪の可能性が出てくるのです。

 

 

病気で虚言癖があった

出典:asahi.com

 

平沢貞通が犯人と言われるようになった理由の1つに、銀行で詐欺事件を起こした過去があったからというものがあります。

 

しかし、この詐欺事件は重大事件ではなく、いたずら程度のものでした。しかも、その詐欺事件は平沢貞通の病気が原因のものだったんです。

 

1925年に愛犬が狂犬病になり、自分自身も狂犬病のワクチンを打ったことで、コルサコフ症候群になりました。このコルサコフ症候群は虚言癖や記憶障害や判断力低下を引き起こすもので、詐欺事件はこの病気の症状の虚言癖によるものだったと言われています。

 

また、帝銀事件の自白も、この虚言癖によるものではないかと見る意見もあります。

 

 

死刑が執行されなかった

出典:otaru.gr.jp

 

平沢貞通は1955年に死刑が確定していますが、死刑が執行されることはありませんでした。平沢貞通は1987年5月10日に八王子医療刑務所で肺炎で死亡しています。つまり、死刑確定から32年間も死刑が執行されることはなく、病死しているのです。

 

死刑の時効は30年です。その時効を超えても、平沢貞通の時効が執行されることはありませんでした。

 

なぜ、こんなに長く、死刑が執行されなかったのか?それは、平沢貞通が冤罪の可能性があるからではないでしょうか?冤罪の可能性がある人の死刑を執行することはできない。だから、そのまま獄中死させて、冤罪をうやむやにしてしまおうとしたのかもしれません。

 

実際に、元東京高検検事局の藤永幸治氏は、「死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム ’90」で、「法務省刑事局で平沢の死刑に関する局議が何回か開かれ、判決の事実認定に問題があるとされたため、死刑執行が見送られた」と話していました。

 

30年以上も死刑が執行されなかったことが、平沢貞通が冤罪の可能性があることの最大の証拠と言えるかもしれません。

 

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帝銀事件で逮捕された平沢貞通死刑囚は弁護人の息子を養子にした

出典:jaa2100.org

 

平沢貞通は死刑確定後も無罪を訴え続け、再審請求を行い続けました。平沢貞通が死刑囚になってから肺炎で亡くなるまで、合計で17回も再審請求をしています。

 

死刑確定後に平沢貞通を支え続けていたのは、「救う会」事務局長・森川哲郎です。森川氏はどうしても、平沢貞通の冤罪を晴らしたかったのですが、平沢貞通は高齢になっていて、人生の終わりが近づいていました。

 

死刑囚が亡くなった後も遺族なら再審請求ができます。逆に言えば、遺族でないと再審請求はできません。そして、平沢貞通の家族(遺族になる人)に再審請求をしようとする人はいませんでした。そこで、1981年に森川氏は22歳の自分の息子である森川武彦さんを平沢貞通の養子にしたのです。

 

自分の息子を養子にすれば、遺族としてずっと再審請求をすることができます。

 

ただ、平沢貞通の死後、森川武彦(平沢武彦)さんは辛い道を歩むことになります。そもそもが、父親の思いのために、死刑囚の養子にさせられることだけで辛いですよね。しかも、平沢貞通の遺族からは望んでもいない再審請求をすることで疎んじられ、糖尿や躁うつ病を患うことになります。

 

そして、5回も自殺未遂を起こし、2013年には孤独死してしまいました。1981年で22歳ですから、2013年時点ではまだ54歳です。心労・ストレスがたたって、亡くなった可能性が高いですね。

 

実の父親と義理の父親・平沢貞通という2人の父親に振り回され続けた息子の森川武彦(平沢武彦)さんが不憫に思えてしまいます。

 

 

帝銀事件の真犯人・真相

陸軍関係者

出典:hanada-plus.jp

 

帝銀事件の真犯人は旧日本軍の陸軍関係者だったという説があります。そもそも、最初から捜査本部は真犯人は旧日本軍関係者ではないかと見ていました。

 

毒物の扱いに慣れた人物が犯人であるとすると、最も考えられるのが、旧日本軍の陸軍関係者なのです。捜査本部は元特務機関員に的を絞っていましたが、ある日GHQから旧陸軍関係者への捜査中止が命じられたという噂もあります。

 

特務機関員の犯行、元731部隊の隊員の犯行などいろいろな説がありますが、どれも証拠には欠けています。ただ、読売新聞の報道によると、GHQが731部隊の捜査報道を差し止めたという事実があったそうです。

 

このことから、帝銀事件の真犯人は元731部隊の隊員で、GHQが捜査中止を求めて、平沢貞通は冤罪だったというのが真相なのかもしれません。

 

 

医師のH

出典:asahi.com

 

帝銀事件の真犯人は千葉県在住の医師という説もあります。

 

・犯人の指紋もこの医師の指紋も流れ指紋
・小切手の筆跡が似ている
・逃走用の自家用車を持っていた
 
このような理由から、平沢貞通と弁護団は、この千葉県在住の医師が犯人だと主張し、再審請求をしたこともありましたが、認められませんでした。
 
ただ、この医師は動機がはっきりせず、なぜこのような帝銀事件を起こしたのか定かではないのです。

 

 

帝銀事件の映画

出典:ameblo.jp

 

帝銀事件はセンセーショナルで謎が多い事件でした。そのような事情もあり、小説・テレビドラマ、ノンフィクション番組・映画の題材にされることも多かったんです。ここでは、帝銀事件を題材にした映画をご紹介します。

 

・タイトル:帝銀事件 死刑囚
・公開:1964年
・配給:日活
・監督:熊井啓
・主役:信欣三

 

この映画は、主役の信欣三さんが平沢貞通に似ていました。また、事件の真相は731部隊とGHQの関与としています。

 

 

帝銀事件と平沢貞通のまとめ

帝銀事件の概要や死刑囚の平沢貞通の経歴と家族、酒井政利さんが隠し子の息子という報道、冤罪の可能性と養子の男性の末路、真相や真犯人、帝銀事件を題材にした映画をまとめました。

 

帝銀事件は戦後の混乱期に起こった謎が多い事件です。真相がわかることはないと思いますが、なぜあのような事件を起こしたのか?その動機だけでも知りたいですね。

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