2019年に永眠されたタレントの高島忠夫さん。明るい人柄の持ち主としてお茶の間で愛された高島さんには、長男の高嶋道夫さんを殺害されたという衝撃的な過去がありました。高島忠夫長男殺人事件の動機や犯人の家政婦のその後や現在について紹介します。
この記事の目次
高島忠夫さんのプロフィール
『アメリカ横断ウルトラクイズ』や『ゴールデン洋画劇場』の名司会で知られる高島忠夫さんは、舞台から映画まで幅広い作品に出演する俳優でもありました。
高島さんといえば、1976年からフジテレビ系列で放送された『クイズ・ドレミファドン!』で誕生した、「イエーイ!」というフレーズの印象が強いという方も多いのではないでしょうか。
奥様は女優の寿美花代さん、息子の髙嶋政宏さん、高嶋政伸さんともに俳優という芸能一家・高島家の家長としても知られました。
そんな高島忠夫さんのプロフィールは、以下のとおりです。
・生年月日…1930年7月27日
・没年…2019年6月26日(88歳没)
・出身地…兵庫県神戸市
・身長…181cm
・血液型…O型
・活動期間…1951年〜2013年
・所属事務所…東宝芸能
高島忠夫さんの経歴
高島忠夫さんは1930年7月27日に、兵庫県神戸市東灘区御影町で4人姉弟の長男として誕生しました。
父親は琵琶の師匠をしていましたが弟子はおらず、一家の生活費は大地主であった祖父から受け継がれた家賃収入などで賄われていました。ただ、この収入は相当なものであったそうで、高島家は働かなくても済むような「有閑階級」の家庭だったといいます。
学生時代の成績は優秀で、中学は神戸市灘区にある兵庫県立第一神戸中学校(神戸一中)に入学。同級生にはSF作家の小松左京氏や、同時通訳の草分け的存在として知られる翻訳家の國弘 正雄氏がいました。
神戸一中の5年に在学中に学制改革があり、六・三・三制が導入されたことからそのまま新制神戸高校3年に進学しますが、音楽活動に没頭しすぎて退学に。
その後は1949年に水泳の推薦入学で関西学院大学に進学しました。
芸能活動
1951年、高島さんは関西学院大学在学中に「新東宝スターレット」の第1期生として芸能界入りを果たしました。
芸名は本名の「高嶋忠夫」と同じ読みにしたといい、21歳で生まれ育った関西から上京。大学も2年生で中退して芝居の稽古やボイストレーニングに励んだそうです。
デビュー作は1952年に公開された映画『恋の応援団長』で、同年に主役を演じた『チョイト姐さん思い出柳』での歌と演技が好評を博し、その後も次々に『坊っちゃんシリーズ』などの映画に出演。1960年代までに約100本もの映画に出演しました。
プライベートでは1961年にゲスト出演したテレビ番組『季節のミュージカル』を通して知り合った、寿美花代さんと2年間の交際期間を経て1963年に結婚。
芸能界のおしどり夫婦と呼ばれるほどの仲の良さが話題となり、『ごちそうさま』では夫婦そろって司会を務めました。
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しかし、幸せな高島夫妻に悲劇が襲いかかります。後述しますが、1964年に生後5ヶ月の長男・道夫さんが殺害されるというショッキングな事件が起きてしまったのです。
事件後は憔悴しきった様子が報道された高島忠夫さんですが、その後、1965年には次男の髙嶋政宏さん、1966年には三男の高嶋政宏さんが誕生したこともあり、俳優業にも復帰。1970年代以降は司会業に力を入れるようになります。
そして1980年代に次男の高嶋政伸さん、三男の高嶋政宏さんが芸能界入りしてからは一家4人で「高嶋ファミリー」として活躍し、お茶の間で親しまれるようになりました。
高島忠夫さんの死因・晩年
2019年6月26日に享年88歳で永眠された高島忠夫さん。芸能生活は病気との戦いの日々でした。
高島さんは40代で糖尿病を患って一時は体重が120kgにまで増加し、3年かけて30kgの減量に成功していました。
しかし、体調が改善したことで減量中には断っていた飲酒を再開したところ、アルコール依存に陥ってしまいます。当時の高島さんは不眠に悩まされており、薬とアルコールに頼らないと眠れなかったために、依存症になってしまったのです。
さらに妻の寿美花代さんと出演していた『ごちそうさま』の降板や母親の入院などが重なったことから、1998年に重度の鬱病を発症。レギュラー出演していた番組を降板して治療にあたりました。
その後も一時は回復したものの無理がたたって病気が再発。再び療養生活に入ることとなり、2004年から芸能生活を少しずつ開始していきます。
そして2007年には完全復帰を果たし、自身の闘病生活を描いたドラマ『うつへの復讐~絶望からの復活~』が日本テレビ系列で放送されました。
しかし復帰間もなくパーキンソン病を発症し、2010年には不整脈の手術を受けることに。
2013年には妻の寿美花代さんに支えられながらの闘病生活が『独占密着!真実の高島ファミリー『忠夫さん、死ぬまで一緒やで』~・献身愛で闘う夫の病~』と題してフジテレビ系列で放送されました。
高島忠夫さん長男・高嶋道夫くん殺人事件
1964年8月24日、高島忠夫さんと寿美花代さんの間に生まれた長男・道夫くんが自宅内で遺体で発見されるという事件が起こりました。
道夫くんは当時まだ生後5ヶ月で1人で移動できるような月齢ではなかったにもかかわらず、遺体はお風呂場のバスタブに沈められており、浴槽にはきちんと蓋まで閉められていたといいます。
そのため事故死などではなく他殺であることは明らかであり、当初は強盗殺人などが疑われました。
事件発覚時
1964年8月24日の午前2時頃、高島忠夫さん方で住み込みで働いていた家政婦が「道夫ちゃんの姿が見えない」と急に大声を出して騒ぎ始めました。
この声を聞いて2階で就寝していた高島さん夫妻も慌てて起き出してきて1階に降り、世話係の看護師の女性とともに就寝中であるはずの道夫さんのもとに向かいます。
しかし、道夫さんの姿が見当たらなかったために家政婦とともに家中を探し回ることになりました。
事件発生時、高島家には夫妻と道夫くんのほかに17歳の家政婦、69歳の家政婦、29歳の看護師の3人がいました。
このうち道夫くんがいないことに最初に気づいたのは17歳の家政婦で、彼女は「変な物音を聞いた」「窓の外に不審な男がいるのを見た」「道夫ちゃんの鳴き声を聞いた」などと訴え、当初から強盗が道夫くんを殺害したのではないかと主張していたといいます。
なお、家には荒らされた形跡があり、この家政婦は高島さん夫妻に道夫くんの姿が見当たらないことを告げるとともに警察にも通報していました。
道夫くんの遺体が発見される
家の中を探しても道夫くんの姿が見つからなかったことから、高島さん夫妻は家の周辺も探し始めました。
しかし、やはり手がかりになるものさえ発見できなかったために家に戻ることに。そこで寿美花代さんが「あそこは探していなかった」と思いつき、風呂場に向かいます。
パッと見たところ風呂場にも変わったところはなかったのですが、寿美さんが「もしかして…」ときっちりと閉められたバスタブの蓋を開けてみたところ、水をはったバスタブの底に沈められた道夫くんの姿があったのです。
高島さん夫妻は道夫くんを抱き上げると、急いで東京都世田谷区上野毛の自宅から近い場所にある病院に連れていきました。
しかし、夜中の2時をまわっていたためにどこも診療ができず、やっと受け入れてくれる小倉医院での診察がはじまった時には、すでに道夫くんは心肺停止状態になっており、人工呼吸などの処置も効果がありませんでした。
高島忠夫さん長男殺人事件の犯人は17歳の家政婦だった
高島家からの通報を受けて警視庁の捜査1課と玉川警察署が、道夫くん殺害の捜査にあたりました。
そして事件翌日の8月25日には、道夫くんを殺した犯人が早くも逮捕されることになります。
なんと高島さん夫妻の長男を殺害したのは、一家で働いていた17歳の家政婦だったのです。
警察は彼女の証言や行動に不審な点が多かったことから、事情聴取の間に犯人の可能性が高いと目星をつけていたのでした。
17歳家政婦の証言や事件現場の不自然な点
・「道夫ちゃんがいなくなる前に窓の外を不審な男が歩いていた」と言うが、近所の人を含めて不審人物を見た人はいない。
・「道夫ちゃんの泣き声を聞いた」と言うが、家政婦のほかには誰も事件当日の深夜に道夫くんの泣き声を聞いていない。
・「強盗が道夫ちゃんを殺した」と言うが、高島家では犬を飼っていた。事件当夜に侵入者がいれば犬が吠えているはずだが、犬は反応していなかった。
・強盗目的で高島家に入ったのなら、狙われるのは高島夫妻ではないのか。まだ言葉も話せず、証言者にもなれない5ヶ月の乳児だけを殺害して立ち去るのはあまりにも不自然。
・普段は家の人が全員お風呂に入った後、この家政婦がバスタブの栓を抜いて水をすべて抜くことが高島家の習慣となっていた。しかし、事件当日はバスタブの水はそのままになっていた。
・道夫くんの遺体をバスタブに隠すのはまだしも、蓋までするというのは強盗の行動としては不自然。
こうした点を問い詰めたところ事件翌日の13時半頃には家政婦が犯行を認め、道夫くん殺人の犯人はスピード逮捕となったのでした。
高島忠夫さん長男を殺害した動機
道夫さんを殺害した家政婦は熱狂的な宝塚のファンで、寿美花代さんのことも応援していたといいます。
もともと、彼女の仕事は高島家の家事を手伝うことでした。しかし、寿美花代さんが妊娠したことにより、寿美さんに代わって高島さんの世話を引き受けるようになったことから、徐々に自分の立場を勘違いしていってしまったと指摘されています。
高島さん夫妻からの信頼を獲得していった家政婦は、やがて高島家の家事全体を取り仕切るようになり、女優業に復帰した寿美さんにかわって、生まれたばかりの道夫さんの世話もしていました。
そして事件が起きる年の6月には付き人として高島さんの芸術座での公演にもついていき、それから2ヶ月の公演の間は毎日、高島さんの付き人も務めたのです。
家政婦でありながら献身的に付き人の仕事をこなしてくれた彼女に対し、高島さんは非常に感謝をしていたそうです。公演が終了した後にはお礼として高級な食事をごちそうし、ブランド品をプレゼントするなどして労をねぎらっていたといいます。
高島さん夫妻に憧れていた彼女にとって、この2ヶ月間はまさに夢のような経験だったのでしょう。
しかし、この間に高島家には変化がありました。17歳の家政婦が家を空けることが多かったために、高島家では新たに遠縁の69歳の女性を家政婦として雇い入れていたのです。
さらに寿美花代さんは、自分が仕事で留守にする際などに道夫くんを任せるベビーシッターとして、29歳の看護師の女性を新たに迎え入れていました。
看護師の女性は大学病院での勤務経験もあり、子どもの世話だけではなく病気や怪我の際の対応も任せられるという頼もしい存在でした。
そのため高島さん夫妻からの信頼も厚く、給料も17歳の家政婦の3倍と破格の待遇だったといいます。
自分が付き人業をしている間に知らない人間が2人も高島家にいること、しかも1人は自分よりも夫妻から信頼されているように見えることに焦った家政婦は、とくに看護師に対して激しい嫉妬心を抱くようになったそうです。
芸術座での公演終了後、高島さん夫妻は仕事でアメリカに渡る予定だったといいます。
すっかり家族の一員のような気分になっていた家政婦は「自分も付き人として同行させてもらえるかもしれない」と期待していました。
しかし実際にはそのような誘いはなく、それどころか夫妻は看護師にだけ「お土産をたくさん買ってくるから、道夫ちゃんを頼むね」と声を掛けていました。これによって看護師への嫉妬心はいっそう強まったとされます。
また、事件の数日前に家政婦が風邪をひき、寿美花代さんから「伝染ると大変だから、道夫ちゃんには近づかないでね」と言われたことにも、「私だけ除け者にされている」「きっと看護師が奥様に私を近づけないようにと吹き込んだんだ」と憎しみを募らせる原因になってしまいました。
乳児は飲める薬も限られ、診察してくれる病院も限られるわけですから、寿美さんの「風邪が治るまで子どもに近づかないで」という言葉は至極当然のものです。
しかし、この一件で看護師への嫉妬心と憎しみはピークに達してし、彼女は道夫くんを殺害してしまいます。
「道夫ちゃんがいなくなれば、世話係の看護師も高島家にいる理由がなくなって解雇される。そうすれば夫妻は再び自分を頼って、前のように可愛がってくれるにちがいない」との思いから、犯行に及んだのです。
そういっても、彼女は最初から道夫さんを殺そうと狙っていたわけではありませんでした。
事件当日、高島さん夫妻の夕食の後片付けなどを終えて午前1時過ぎに入浴を終えて自室に戻った家政婦は、隣の部屋から道夫くんの泣き声が聞こえてきたために様子を見に行ったといいます。
するとぐずりながら道夫くんが自分の足を掴むなどしてきたために、「可愛いなあ」と思い、夕涼みがてら庭に出て、道夫くんをあやしたそうです。
しばらくして道夫くんの足が汚れてしまったために、軽く洗ってから寝かしつけようと思った彼女は、風呂場に道夫くんを連れて行きました。そこで足を洗っているうちに「この子がいなければ、あの看護師も…」という考えに、急に至ってしまったのです。
逮捕後の供述によると、気がついた時にはバスタブに道夫くんを沈めていたといい、一瞬我に返ったものの「ここでやめたら自分がやったことがバレてしまう」という恐怖心から、殺害してしまったとのことです。
家政婦は新潟県佐渡島出身で、集団就職で上京して工員として働いていたものの工場の移転で職を失い、ツテを頼って高島家で家政婦の仕事をするようになったといいます。
そのため故郷でも彼女は「異例の出世」「スターの世界で働いている憧れの女性」として噂になっており、本人も周囲に自分の仕事や高島夫妻のことを自慢気に語っていました。
姉には「夫妻にとってもかわいがられている」「毎日の生活が夢のようで楽しくて仕方ない」と熱く語り、友人に対しても、芸能界のうわさ話を織り交ぜながら、有名スターの家庭で信用され重要な役割を任せられていることなどを、自負と誇りを滲ませて手紙を書いた。
17歳だった家政婦が、無縁と思っていた華やかな世界に触れてしまったことで過剰な優越感を覚えてしまい、「どうしても今の地位にしがみつきたい」と固執しすぎた結果、このような惨事が起きてしまったのかもしれません。
高島忠夫さん長男殺人事件のその後
事件当時、犯人の家政婦は未成年でしたから名前や顔写真が公表されることはありませんでした。
しかし逮捕後は殺人罪で起訴されて、成人犯罪者同様の裁判を経て、1965年6月に東京地裁で懲役3年から5年の不定期刑を言い渡されました。
一方、我が子を失った高島家では事件翌日に通夜が行われ、大勢の芸能関係者らが弔問に訪れました。
通夜の後には記者会見も開かれましたが、遺体の第一発見者となったショックも重なり、寿美花代さんは欠席。会見には悲痛な面持ちの高島さんだけが出席しました。
事件から49年が経ち、2013年6月13日に放送された『独占密着!真実の高島ファミリー『忠夫さん、死ぬまで一緒やで』~寿美花代 献身愛で闘う夫の病~』に出演した寿美花代さんは、未だに事件について後悔していると苦しい胸のうちを明かしています。
道夫くんの事件が起きてから、寿美花代さんは「私が一緒に寝ていれば、あんな悲劇は起きなかったのに」と自分を責めるようになり、お風呂はシャワーしか浴びられないようになったのだそうです。
また追い打ちをかけるように、事件直後の高島家には赤ん坊の泣き真似などをするいたずら電話などの嫌がらせが続き、夫妻の精神が追い詰められていたことも番組内で明かしていました。
高島忠夫さん長男殺人事件の犯人の現在
道夫くんを殺害した犯人の家政婦は、模範囚であったそうで1968年には仮出所をして社会に出ていたそうです。
出所から2年が経った1970年には事件のことを知ったうえで結婚を申し込んでくれたという男性と籍を入れ、子どもももうけたといいます。
また、この元・家政婦は出所後にマスコミの取材に対応しており、以下のような発言をしていました。
「高島さんに詫びる気持ちは生涯変わりません」「(命日には)道夫ちゃんの写真の前にお花とかお菓子を添えて深くお詫びしているのです。これだけは一生欠かしません。道夫ちゃん、高島さん、奥さま、本当にごめんなさい」
その後は事件そのものがメディアに取り上げられることもなくなったため、彼女が現在どのように暮らしているのかは不明です。ただ年齢を考えれば、孫がいても不思議ではないでしょう。
なお、高島家の三男の政伸さんは、40歳を過ぎた頃に兄を殺した犯人に突然話しかけられたことがあると話していました。
普通の60代程度の女性に見えるその人物は、政伸さんに近づいてくると「私よ、私、犯人」と告げてきたそうです。
ただ、この人物が本当に道夫くん殺害の犯人本人だったのかは不明で、ただの嫌がらせをしてきた他人だった可能性も否定できません。
高島忠夫さん長男殺人事件と高島家
道夫くんの事件は、高島家の全員に影響を及ぼしたとされています。
霊感があるという寿美花代さんと次男の政宏さんは、道夫くんの魂とたびたび会話していたそうです。それを見ていた高島さんと政伸さんも感化されるようになり、一家はスピリチュアルな世界に傾倒し、いっそう絆を強めていったといいます。
政伸さんが前妻の美元さんと離婚する際には、高島家とスピリチュアルの関係が週刊誌などで取り上げられていましたが、その背景には道夫くんにもう一度会いたいという高島夫妻の想いがあったのです。
高島忠夫さんと長男殺人事件についてのまとめ
今回は2019年に亡くなった高島忠夫さんの華やかな経歴に隠された長男の道夫くんの殺害事件と、犯人と一家の関係や犯行動機について紹介しました。
自分たちが信用して家にあげていた人物が最愛のわが子を殺害した犯人だった、というこの事件は高島さん夫妻にとって大きすぎる後悔と心の傷を残しました。高島忠夫さんが不眠症や鬱病に苦しめられた背景にも、もしかしたら長男殺人事件があったのかもしれません。
幼い道夫くんはもちろん、夫妻のどちらにも何の落ち度もなかったのに起きてしまった悲劇。永眠された高島忠夫さんが現在は安らかであるよう、ご冥福をお祈りします。