山崎美智代(銀座ホステス)バラバラ殺人事件の犯人は伊藤和義!事件の経緯・判決やその後現在も紹介

1968年に起きた猟奇事件「銀座ホステスバラバラ殺人事件」の被害者・山崎美智代が話題です。

 

この記事では山崎美智代の生い立ちや実家の親などの家族、若い頃の経歴や結婚など私生活、銀座ホステスバラバラ事件の経緯と犯人の伊藤和義の判決や現在などについてまとめました。

山崎美智代は「銀座ホステスバラバラ殺人事件」の被害者

 

出典:https://bunshun.jp/

 

山崎美智代とは、1968年(昭和43年)、高度経済成長の喧騒の中にあった日本で発生し、当時の社会を震撼させた猟奇事件「銀座ホステスバラバラ殺人事件」の被害者で、事件当時28歳でした。

 

山崎美智代は、東京・銀座のきらびやかなネオン街に、「銀座の女王」として君臨していた有名ホステスでしたが、1968年11月に忽然と姿を消します。彼女の失踪は、やがて凄惨なバラバラ殺人事件へと発展し、華やかな人気ホステスが猟奇的に殺害された事件として世の注目を浴びました。

 

その後、事件の犯人として自称芸能ブローカー兼金融業の伊藤和義(当時23歳)という男が逮捕され、その顛末を供述しています。

 

そうして明るみに出た山崎美智代が殺害された「銀座ホステスバラバラ殺人事件」は、華やかな世界の裏で交錯した金と欲望が悲劇的な結末を招いた事件でした。

 

ここでは、被害者である山崎美智代の生い立ちから、事件の真相、犯人・伊藤和義の人物像、そして裁判の判決と彼のその後と現在までを現存する資料に基づいてまとめていきます。

 

 

山崎美智代の生い立ちと実家の親などの家族

 

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「銀座ホステスバラバラ殺人事件」の被害者・山崎美智代の生い立ちや実家の親などの家族については断片的な情報しか伝わっていませんが、当時の新聞報道や事件に触れたノンフィクション作品に書かれた内容などから若干の情報が明らかにされています。

 

 

北海道江別市の裕福な家庭で育った生い立ち

 

事件の当時の朝日新聞の報道によれば、山崎美智代は北海道江別市で生まれています。

 

一方、同じ時代に銀座の高級クラブ「姫」でホステスをしていた、作詞家で作家の山口洋子さんは著書の中で山崎美智代について書いています。

 

それによれば、山崎美智代は1939年(昭和14年)年6月の生まれで、出生地は当時日本の領土だった「樺太(現在のサハリン)」だとしています。

 

いずれの出生地が事実かはわかりませんが、戦争の時代に生まれている事から終戦にかけての混乱の中を樺太から北海道江別市へと家族と移住したのかも知れません。(日本の敗戦により樺太はソ連軍の侵攻を受けた)

 

また、朝日新聞によれば、山崎美智代の実家の家族については、父親は事件当時58歳で、会社社長をしながら市議を務めるなど地元の名士であり、家庭はかなり裕福であったとの事です。

 

山崎美智代は札幌市内の女子高校に通っていた頃から美貌が評判になっており、頭も良く陽気で世話好きな性格であったとも報じられています。高校卒業後はしばらく家族の手伝いをしていたという事ですが、事件からみて7年前の1960年、20歳の時に「東京で自活したい」と言って家族の元を離れ1人で上京しています。

 

 

実家の家族との関係は良好だった

 

上京後、夜の銀座という華やかな世界で活躍する一方で、山崎美智代は家族、特に実家の両親を想う一面を持っていました。

 

事件が発覚した後、警察の捜査や関係者の証言から、彼女が頻繁に実家の家族と連絡を取っていたことが明らかになっています。ある証言によれば、彼女は週に2、3回も北海道の実家に電話をかけるほど、家族との絆を大切にしていたとされます。

 

さらに、事件が起こる直前の1968年11月には、知人と共に実家の両親の元へ帰省する計画を立てていたといいます。このことからも、山崎美智代が単に金銭的な成功を追い求めるだけでなく、家族の事を大切に考えていたことがうかがえます。

 

また、事件当時の毎日新聞の報道では、山崎美智代が行方不明になった際に、都内の女子大生だった妹が実家に連絡するなど行方を探していた事が明らかにされており、山崎美智代には仲の良い妹がいた事がわかっています。

 

 

山崎美智代の若い頃の経歴

 

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山崎美智代の若い頃の上京後の経歴についても見ていきます。

 

生い立ちでも触れたように山崎美智代は1960年、20歳の時に北海道の実家の家族の元を離れて単身で上京しています。

 

事件当時の朝日新聞などによれば、山崎美智代は上京後はずっと銀座や新橋、赤坂のバー、キャバレーなど、「水商売」の世界で働いて暮らしていたという事です。

 

生まれついての美貌に加えて明るく勝気な性格が向いていたのか、山崎美智代はすぐに水商売の世界で頭角を表し、どの店でもナンバー1を争うような売れっ子のホステスであったとされています。

 

そして、銀座や赤坂の一流クラブでホステスとして働き始めると、その評判は瞬く間に広がり、政財界の重鎮や芸能界の大物など、多くの著名人から指名を受ける人気ホステスへと駆け上がっています。

 

特に、当時赤坂にあった一流クラブ「ラテンクォーター」での人気は、山崎美智代のホステスとしての名声を不動のものにしたとされています。

 

そして、事件の前年にあたる1967年11月に銀座東8丁目にクラブ「ブラックタイ」がオープンする際には、スカウト料として150万円(現在の価値で600万円以上)という破格の待遇でマダムとして迎え入れられたとされています。

 

この当時、銀座のクラブのマダムのスカウト料の相場は売れっ子でも50万円〜60万円(現在の価値で200万円〜250万円)だったという事なので、ホステスとしての山崎美智代がかなり高く評価されていた事がわかります。

 

さらに、読売新聞の報道では、赤坂「ニューラテンクォーター」から引き抜かれて「ブラックタイ」に移籍した際の支度金は150万円どこではなく500万円(現在の価値にして2000万円以上)とされ、この件が週刊誌やテレビで騒がれたとされています。

 

そして、山崎美智代は「ブラックタイ」のマダムとして「銀座の女王」と持て囃されるようになり、週刊誌で紹介されたり、「1億円(現在の約4億1000万円)の貯金の持ち主」と評判になったりしたといいます。

 

その後、山崎美智代は事件が起こる直前の1968年10月に新たに開店したばかりの赤坂の深夜レストラン「ロイヤルパレス」でもマダムとして働き始めていた事も当時の報道では明かされています。

 

 

山崎美智代の結婚

 

山崎美智代は結婚はしておらず独身でした。

 

現在と違い、当時のマスコミは大手メディアである新聞ですら被害者のプライバシーにもほとんど考慮せずに明らかにされた内容は全て公開していくようなスタイルでしたが、山崎美智代が結婚していた、あるいは過去に結婚歴があるといった情報は1度も報じていません。

 

この事から山崎美智代は生涯を通じて結婚はしておらず独身であったと推測されます。

 

結婚という形は取らなかったものの、山崎美智代の周囲には常に多くの男性の影があったようです。彼女を知る人物の証言から、その恋愛傾向について「熱しやすく冷めやすいタイプ」であった事が明らかにされています。この言葉は、彼女が情熱的であると同時に、1つの関係に留まらない奔放な恋愛を繰り返していた可能性を示唆しているようにも見えます。

 

また、愛人やパトロンのような存在もあったとされ、結婚をしている男性に多額の金を貢いでいたとする情報も明らかにされています。

 

 

山崎美智代が殺害された銀座ホステスバラバラ殺人事件の犯人・伊藤和義

 

山崎美智代が殺害された「銀座ホステスバラバラ殺人事件」の犯人は伊藤和義という男でした。

 

犯人の伊藤和義は当時23歳で、芸能ブローカー兼金融業を自称。本籍地を韓国慶尚南道に置く在日韓国人であり本名は「韓和義」。事件当時は福島県に住みキャバレー、パチンコ、不動産業などを手広く経営していた韓国人の父親と日本人の母親の間に神奈川県横浜市で生まれています。

 

犯人・伊藤和義は、1962年に福島県の水産高校を卒業後、東京・浅草の食品問屋に住み込みで働いていましたが、事件の2年前にあたる1966年に退職し、父親から商売の元手として1000万円(現在の価値で4000万円以上)をもらい1度は水商売を始めるも時期が悪いとしてすぐにたたんでいます。

 

そしてその後、芸能ブローカーと金融業を始め、父親からもらった金のうち800万円(現在の価値で約3300万円)は銀行に預けたとされています。

 

犯人の伊藤和義は銀座や赤坂のクラブに出入りするようになり、山崎美智代が赤坂の「ニューラテンクォーター」でホステスをしている頃に知り合い、親密な仲になったとされています。山崎美智代が銀座と赤坂の店に移った後も顔を見せていたといます。

 

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山崎美智代が殺害された銀座ホステスバラバラ殺人事件の経緯

 

出典:https://bunshun.jp/

 

山崎美智代が殺害された「銀座ホステスバラバラ殺人事件」の経緯についても詳しくいていきます。

 

まず、事件の直接的な動機ですが、金銭をめぐるトラブルでした。

 

当時、山崎美智代は経営するクラブの資金繰りに窮しており、犯人となる伊藤和義から数回にわたり金を借り入れ、2人は債権者と債務者という関係になっていました。

 

そうした中で、伊藤和義は山崎美智代から受け取った約束手形(額面135万円)を「紛失した」と偽り、手形を再発行させ、二重に金銭を得ようと画策しました。

 

しかし、山崎美智代は、この伊藤和義の企みを見抜き激しく罵倒。これに伊藤和義が激昂し山崎美智代を殺害したとされています。

 

 

銀座ホステスバラバラ殺人事件の経緯① 1968年11月2日〜3日に事件発生



1968年11月2日の深夜、犯人・伊藤和義は「金策の相談がある」と山崎美智代を当時住んでいた東京都港区赤坂の高級マンション「ホーマット・カヤ」の一室に呼び出しました。

 

部屋に入った山崎美智代に対し、伊藤和義は再び金の返済を迫りますが、口論に発展。逆上した伊藤和義は、山崎美智代の首を絞めて殺害しました。



山崎美智代殺害後、翌3日にかけて伊藤和義は犯行を隠蔽するため、浴室で遺体をバラバラに切断。ノコギリや出刃包丁などを用いて、遺体を8つの部位に切断し、ビニール袋や風呂敷に包みました。

 

 

銀座ホステスバラバラ殺人事件の経緯② 11月4日に遺体を遺棄



バラバラにした山崎美智代の遺体の処理に困った犯人・伊藤和義は、知人で歌手志望の少年A(当時19歳)を呼び出しました。

 

11月4日の午前2時頃、伊藤和義は少年Aを「ドライブに行くから付き合え」と言って連れ出します。

 

車は千葉・銚子方面の海岸へと向かい、伊藤和義は車のトランクから山崎美智代の遺体の包みを取り出し埋めようとしますが、近くの漁師が海辺に出てきたため埋めるのをやめて包みをトランクへと戻しています。

 

その後、伊藤和義は千葉方面へ車を走らせ、その途中の茂原市内の川縁や川の中、杉林、市原市内の丘陵の雑木林などに遺体の包みを次々と捨てました。

 

その後、東京へと戻る途中で怪しんだ少年Aが伊藤和義に「何を捨てたのか」と尋ねると、伊藤は「おばさんが大事にしていた、何百万(円)もする犬を殺した。見つかると大変なので、バラバラにして埋めたのだ」と虚偽の説明をしています。

 

昼前に東京に戻り、伊藤和義と少年Aは伊藤の自宅マンションへ入りましたが、応接間の5〜6箇所に血痕があり、伊藤和義はそれを慌てて拭き「なんでもない」と誤魔化すようにしたとされます。

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その日の夜、伊藤和義は1人で映画を見に出かけ、そのタイミングで少年Aは胸騒ぎがし、勤務先のスナックバー経営者に相談しています。

 

 

銀座ホステスバラバラ殺人事件の経緯③ スナック経営者の通報で事件発覚

 

少年Aから相談を受けてスナックバーの経営者は、11月6日の朝に「うちで使っているボーイのAが知人に頼まれて死体を千葉県銚子市まで運ぶのを手伝ったらしい」と110番通報。これを受けて警視庁捜査一課は中野署に捜査本部を設置して捜査を開始しました。

 

警察は少年Aを事情聴取した後、次いで伊藤和義を呼んで事情を聞いたところ当初は「殺し屋がやった」などと虚偽の主張をしています。

 

しかし、6日の夜までに伊藤和義は「親しい関係のレストランとバーの山崎美智代を殺し、バラバラにして捨てた」と自供。捜査本部は伊藤和義を殺人と死体損壊、死体遺棄容疑で、少年Aを死体遺棄容疑で逮捕しました。



その後、11月10日までに山崎美智代のバラバラにされた遺体は全て見つかっています。

 

 

山崎美智代バラバラ殺人事件の犯人・伊藤和義の判決と現在

 

山崎美智代が殺害された「銀座ホステスバラバラ殺人事件」の犯人・伊藤和也の裁判は事件の翌年の1968(昭和43)年2月6日に東京地裁で始まりました。

 

検察側は「犯行は残忍極まりなく、社会的影響が大きい。被告には反省の色もない」として死刑を求刑。

 

しかし、5月29日に裁判所は「計画的ではない事」、「朝鮮人としての劣等感を持っていた事」、「斟酌すべき点がある」などとして無期懲役の判決を言い渡し、この判決が確定しています。

 

その後の伊藤和義については情報がなく、現在どうしているのかはわかりません。

 

現在、伊藤和也は80歳を超えているはずですが、まだ生存している可能性があります。判決から50年以上が経過していることもあり仮釈放となっている可能性もありますが、それも含めて何の情報もなく現在どうしているのかはわかっていません。

 

 

まとめ

 

今回は、1968年に発生した「銀座ホステスバラバラ殺人事件」の被害者である山崎美智代についてまとめてみました。

 

山崎美智代は北海道江別市で生まれ、会社経営者で市議も務める父親を持つ裕福な家族で育った生い立ちを持ちます。若い頃の経歴は、20歳の頃に実家を離れて1人で上京し銀座や赤坂のホステスとして働き始めるとすぐに才能を示し「銀座の女王」と称されるまでの成功を収めています。

 

私生活では生涯結婚はせず、男性関係は派手で愛人やパトロンが複数いたとの情報も報じられています。

 

しかし、1968年に伊藤和義という当時23歳の男に殺害され、遺体をバラバラにされて遺棄されました。犯人の伊藤和義は在日韓国人で、無期懲役の判決が言い渡されています。

 

現在、犯人の伊藤和義は80歳を超えているはずですがその後については情報がなく現在の状況は不明です。

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