星野道夫の死因と最後の写真!ヒグマ襲撃事件・嫁と息子・映像作品もまとめ

数多くの写真や名言を残して、1996年に急逝した写真家で冒険家の星野道夫さん。

 

今回は星野道夫さんとはどんな人だったのか、その人生や結婚、子供、死因となったヒグマ襲撃事件や最後の写真、映像作品、嫁や息子のその後を含めてまとめます。

星野道夫とはどんな人だったのか

 

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星野道夫さんは1981年から1996年まで写真家、随筆家、そして冒険家として活動した人物です。雄大な自然とそこに暮らす人々や動物に魅せられ、アラスカに拠点を置いて活動をしていました。

 

写真集以外にも随筆や絵本など多様な著作を発表し、小学校や中学校の国語の教科書にも「森へ」などの作品が掲載されています。また作品のなかには英語や中国語で翻訳され、海外で出版されたものもあります。

 

見る人の心を揺さぶる作品を生み出した星野道夫さんですが、アラスカの地に長く暮らし、また野生動物の生態も熟知していたにもかかわらず、1996年8月8日にヒグマに襲われて急逝しました。享年43歳でした。

 

しかし、死後も彼の人生を題材にした映像作品などが発表されており、時を越えて愛されています。

 

 

星野道夫の来歴・人生

 

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星野道夫さんは、1952年9月27日に千葉県市川市で生まれました。子供の頃は「シートン動物記」など動物を題材にした本が大好きな少年で、海洋冒険家の堀江謙一さんの手記「太平洋ひとりぼっち」に憧れて「いつか、ヨットで冒険に出たい」と夢想していたといいます。

 

そのため、1968年に慶應義塾高等学校に入学するとさっそくヨット部に入り、アルバイトで北米大陸への旅行費用を貯め始めました。

 

この頃のアメリカはべトナム反戦運動や公民権運動で混沌とした状況にあり、高校生が1人で渡航するだけでも大冒険でした。しかし、父親の理解と援助を得て1969年の7月に移民船に乗ってアメリカを訪れた星野道夫さんは、途中でメキシコにも立ち寄りつつ、40日に及ぶ一人旅を成し遂げて帰国。

 

1971年に慶応大学の経済学部するやいなや今度は冒険部に入り、気球での冒険に挑戦しています。

 

 

アラスカとの出会い

 

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1972年に星野道夫さんは神田の古書店で一冊の本と出会います。その本のタイトルは「Alaska」。ナショナル・ジオグラフィック社出版の写真集で、北限の地で暮らす人々の様子が収められていました。

 

この本に掲載されていた写真にどうしようもなく惹かれた星野道夫さんは、被写体となった村「シシュマレフ」に、滞在させてもらいたい旨を綴った手紙を出します。村長の名前などはわからなかったので、宛名には村の名前のみを書いて送ったそうです。

 

そのため、宛所不明として何度出しても手紙は戻ってきました。しかし、それでも根気強く送り続けたところ、ついに1973年になってシシュマレフの村長であるクリフォード・ウェイオワナさんから、「自分の家でよければ滞在してもらって構いませんよ」と書かれた返信を受け取ったのです。

 

そしてアラスカに渡った星野道夫さんは、現地の人に従ってクジラ漁やアザラシ漁に着いていき、自然の様子を撮影するなどして、3ヶ月間シシュマレフに滞在しました。

 

 

写真家としての出発まで

 

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アラスカから戻った星野道夫さんは大学卒業後の進路に迷った後、やはり好きな道に進もうと決意して動物写真家の田中光常氏のもとに通い、弟子入りすることになりました。

 

しかし助手として働くことになったものの、任されることは事務所の電話番やカメラの掃除であったため、2年で退職。その後はアラスカ大学フェアバンクス校の野生動物管理学部で学ぼうと入試を受けます。1978年のことです。

 

英語の点数が足りなかったものの、学長に直談判してなんとか入学に漕ぎつけた星野道夫さんは、アラスカの地で生きる動物について学び、1981年にはサーモンが川を遡上する写真を平凡社が刊行している自然誌「アニマ」の2月号で発表します。

 

翌月には同じく「アニマ」に星野道夫さんが追い続けたカリブーの写真が掲載され、以降は動物写真家として本格的に活動を開始していきました。

 

そして1986年には写真集「GRIZZLY アラスカの王者」で第3回アニマ賞を受賞、1990年には「Alaska 風のような物語」で第15回木村伊兵衛写真賞を受賞を受賞しました。

 

 

 

星野道夫の死因となったヒグマ襲撃事件とは

 

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星野道夫さんの死因となったヒグマ襲撃事件は、1996年8月に起こりました。事件が起きた時、星野さんはTBS系列の動物バラエティ番組「どうぶつ奇想天外」の撮影でカムチャッカ半島を訪れていました。

 

この回での放送テーマは「鮭とヒグマ」で、星野道夫さんの持ち込み企画でした。しかし7月25日にTBSのクルー3名とロシア人ガイド2名とともに現地入りした時点で、不穏な兆候が見られます。

 

クルーとガイドが宿泊する予定だった小屋のなかの食料が、ヒグマに食い荒らされていたのです。

 

しかし星野道夫さんは動じずに、小屋から数メートル離れた場所にテントを張り、そこに1人で寝泊まりを開始します。

 

 

ヒグマ襲来

 

7月27日、星野道夫さんのテントの近くにアメリカ人の写真家がテントを設営します。そして、その日の夜中、テントの外から金属音のようなものが聞こえてアメリカ人写真家は目を覚まし、小屋の食料庫によじ登って飛び跳ねているヒグマを目撃したのです。

 

ヒグマの体長はおよそ2m、額にある赤い傷が特徴的な雄でした。追い払おうとアメリカ人写真家が手を叩くと、ヒグマは食料庫から降りて星野道夫さんのテントの裏に回り込みました。

 

物音に気づいた星野道夫さんがテントから顔を出すと、アメリカ人写真家は慌てて「あなたのテントの後ろにヒグマがいる」と警告。「どこ?」と星野さんが返すと、彼は「3mほど後ろ。ガイドを呼んでこようか?」と提案します。

 

そして星野道夫さんの依頼を受けてアメリカ人写真家はガイドを呼びに行きました。急いでやって来たガイドは鍋を打ち鳴らしてヒグマを威嚇しながら、熊よけのスプレーを噴射します。

 

この時、星野さんと撮影クルーが訪れていた場所は自然保護区であったため、ライフル銃の使用が禁止されていました。ですから、熊よけのスプレーがヒグマへの唯一の武器だったのです。

 

しかしスプレーはヒグマになかなか届かず、悪戦苦闘しているうちに熊はどこかへ消えていったといいます。

 

ヒグマが去った後、ガイドは星野道夫さんに「テントでの宿泊は危険過ぎる。小屋で寝泊まりしたほうがいい」と勧めますが、星野さんは「鮭が川を遡上してくる時期だから、ヒグマの餌は豊富なはずだ。そんな時期に人間を好き好んで襲う熊はいない」として、テントでの待機を続行。

 

なお、同じくテントを張っていたアメリカ人写真家は、ヒグマの襲撃を恐れて鮭観察タワーに移動しました。

 

 

ヒグマの襲撃と悲劇

 

この晩を境に、付近でヒグマの目撃情報があがるようになります。

 

・7月29日…ロシアの地方局の取材用ヘリが額に赤い傷があるヒグマに襲われ、窓を破られる

 

・8月1日…ロシアの環境保護団体のグループが撮影クルーたちがいる小屋の近くにテントを張るが、額に赤い傷があるヒグマに靴を持ち去られる

 

・8月1日…鮭観察タワーにも額に赤い傷があるヒグマが現れる。一晩中、タワーをよじ登ろうとしていた

 

・8月6日…再び星野道夫さんのテントの近くに額に赤い傷があるヒグマが現れ、ガイドがスプレーで撃退する

 

6日にも星野道夫さんのテントが襲われかけたため、ガイドは「小屋に移動するべきだ」と再び星野さんの説得を試みました。しかし、彼は「大丈夫」の一点張りで、テントから立ち退こうとしませんでした。

 

そして8月8日、ついに悲劇が起きてしまうのです。

 

この日の深夜4時頃、自然保護地区に星野道夫さんの悲鳴とヒグマの唸り声が響き渡りました。

 

そして小屋を飛び出したTBSのクルーは、ヒグマに咥えられて森の方に引きずられていく星野道夫さんを目撃。「テント!ベアー!ベアー!!」と叫び、ガイドに助けを求めます。

 

しかし、ガイドが使えるのは熊よけのスプレーのみです。ヒグマを脅そうとシャベルや鍋などさまざまなものを打ち鳴らしますが、ヒグマは一度顔をあげただけで、星野道夫さんを咥えたまま去っていきました。

 

ガイドは急いで無線を使って救護要請をおこない、程なくしてハンターが到着。森のなかに入っていったハンターによって加害熊は射殺されました。

 

しかし、この時すでに星野道夫さんはヒグマに食べられたあとで、森にあった遺体は無惨なまでに食い散らかされていたといいます。

 

 

 

星野道夫・ヒグマ襲撃事件のその後

 

出典:http://blog.livedoor.jp/

 

前述した8月8日までの経緯は、TBSが作成した「遭難報告書」によるものです。

 

この報告書が発表された当初は「良い写真を撮るためとは言え、星野さんも命知らず過ぎやしないか」「どうして頑なにテントにいたんだろう」と、星野道夫さんの判断を疑問視する声があがりました。

 

しかし、撮影に同行していたロシア人ガイドや最初の襲撃時に一緒にいたアメリカ人写真家からはTBSの「遭難報告書」とは食い違う証言も出てきており、本当に星野道夫さんが自分の判断でテントに残り続けたのかは不明です。

 

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また、後の調査でたびたび小屋の付近に姿を見せていた額に赤い傷がヒグマは、TBSの社長が撮影のために餌付けしていたことが発覚しています。人間の食べ物の味を覚えてしまったために、食料庫を襲おうとしていたのです。

 

このことが明らかになってからTBSへ真相の解明、発表を求める声もあがり、星野道夫さんの友人らからは公開質問状も提出されました。

 

しかし、TBS側は「報告書には事実と異なる記載があるのは確かだが、事故を予見、予防することは困難だった」として、追加の報告書作成を拒みました。

 

そのため、現在も星野道夫さんの死因となったヒグマ襲撃事件の真相は明らかにされていません。

 

 

星野道夫が最後に撮ったとされる写真

 

出典:https://web.archive.org/

 

上の画像は、星野道夫さんが亡くなる前に最後に撮った写真として出回ったものです。テントのなかにヒグマが侵入してくる鬼気迫る一枚ですが、これはフェイク画像であったことが判明しています。

 

テントが襲われた時、星野道夫さんは悲鳴をあげておりカメラを構える余裕はありませんでした。そのため、星野さんが加害グマを撮影した写真は存在しません。

 

 

 

星野道夫の名言一覧

 

星野道夫さんは写真家としてだけではなく、文筆家としても活躍しました。そして、波乱と挑戦に満ちた人生を反映するような名言を数多く残しています。ここでは、数多ある星野道夫さんの名言のなかから、その一部を紹介していきます。

 

 

 

浅き川も深く渡れ

 

これは、星野道夫さんが小学生時代に卒業文集に書いた言葉です。どんな時にも注意を怠るなという「浅い川も深く渡れ」ということわざに似た言葉ですが、星野少年はこのことわざを間違えて覚えていた、というわけではないような気がします。

 

というのも、少年期から星野道夫さんは読書家で、野生動物と人間の暮らしの関わり方について考えを巡らせるような子供でした。学校で授業を受けている間も、「今、この瞬間に地球上のどこかに熊がいるんだ」と想像していたそうです。

 

「浅き川も深く渡れ」という言葉には、「今、見えているものだけが世界ではない」という、星野道夫さんが生涯をかけて貫いた信条があらわれているように思えます。

 

大切なことは、出発することだった

 

これは随筆「大いなる旅路」のなかで綴られた言葉です。高校時代から1人で海外に飛び出し、野生動物の近くにあり続けた星野道夫さんの生き方そのものといえるでしょう。

 

人生の岐路でこの言葉に出会い、励まされた人も多いという名言です。

 

怖くて逃げるか、怖くて襲うか、どちらかです

 

この言葉は星野道夫さんが恩師の依頼を受けて、大田区立田園調布中学校で卒業記念講演をおこなった際に語られたものです。

 

人を殺して食べる猛獣として恐れられているヒグマが、本当に自分の生活圏に人間が入ってきた時にどう行動するのかを端的に表現しています。野生動物のことを理解したい、尊重したいという星野道夫さんの考えが見て取れる言葉だと思います。

 

やはり世界は無限の広がりを内包していると思いたいものです

 

随筆「旅をする木」のなかの言葉です。人との出会いで世界は無限に広がっていくという、星野道夫さんの考え方をあらわしています。

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動物写真家としての功績が大きすぎるため、人里離れたところでカメラを構え続ける無頼漢という印象もある星野道夫さんですが、人間に対しても慈愛の心を持った方でした。そのことは被写体が人間である時の彼の作品からも窺えます。

 

 

 

星野道夫の結婚相手・嫁はどんな人?

 

出典:https://www.youtube.com/

 

星野道夫さんは1993年に生涯連れ添った妻・直子さんとお見合い結婚しています。直子さんは1969年生まれで、夫婦の年の差は17歳。書店勤務を経て星野道夫さんと結婚してからはアラスカに移住して、1994年には息子の翔馬さんを出産しています。

 

直子さんは埼玉県で生まれ、大学も東京都にある女子聖学短期大学卒業、結婚までは都会で過ごしていました。

 

そのため結婚当初、星野道夫さんはそんな妻をアラスカに連れて行って良いものか悩んでいたそうです。

 

しかし、とあるパーティで星野さんの友人から「ナオコ、寒いことが、人の気持ちを暖めるんだ。 離れていることが、人と人とを近づけるんだ」と言われた時、返答の代わりににっこりと微笑んでいた直子さんを見て、彼女とならアラスカでもやっていかれると確信したといいます。

 

 

嫁・直子さんの現在の活動

 

ヒグマ襲撃事件で夫をなくした後、直子さんは星野道夫さんの作品を管理するために星野道夫事務所を設立しました。

 

そして2005年には著書「星野道夫と見た風景」を出版し、現在も展覧会や朗読イベントなどを定期的に開催しています。

 

アラスカで子どもを生んですぐに夫に先立たれてしまった直子さんですが、「不思議と夫が遠くにいってしまったという気はしない」と語っています。

 

日本でもアラスカでも、生前の星野道夫さんのことを知る共通の知人や友人と話していると、話のなかに亡き夫の気配を感じるのだそうです。

 

 

 

星野道夫さんの子ども(息子)はどんな人?

 

 

星野道夫さんと直子さんには翔馬さんというひとり息子がいます。ただ翔馬さんが誕生したのが1994年、星野さんが亡くなったのが1996年であったため、翔馬さんには父親の記憶はほとんどありません。

 

ヒグマ襲撃事件が起きたあと、翔馬さんは母親の直子さんと千葉県の市川市で暮らすようになり、大学は父親と同じ慶應義塾大学の法学部に進学。その後は亡き父の血がそうさせるのか、海外での暮らしに思いを馳せるようになり、ミシシッピ大学に留学しました。

 

そんな翔馬さんは大学卒業を控えた23歳の時、NHKBSで2018年1月11日に放送された「父と子のアラスカ ~星野道夫 生命(いのち)の旅」に出演し、アラスカに渡って父の足跡を追っていました。

 

 

 

星野道夫の写真集おすすめ3選

 

星野道夫さんが写真家として活動したのは15年にも満たない短い期間でしたが、その間には多数の写真集が出版されています。

 

ここでは星野道夫の写真集のなかから、とくにおすすめのものを3冊紹介していきます。

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「アラスカ―極北・生命の地図」

 

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1990年に出版された写真集「アラスカ―極北・生命の地図」は、第15回木村伊兵衛賞を受賞した星野道夫さんの代表作です。

 

カリブーやムースの群れを追い続けて撮影した写真が収められており、動物たちの親子が過ごす時間をとらえた微笑ましい一コマも見られます。

 

 

 

「星の物語 Alaskan Dream 1」

 

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「星の物語 Alaskan Dream 1」は、星野道夫さんが亡くなった後、2002年に出版されました。

 

愛らしいアザラシの親子や美しいオーロラなど、心が洗われる美しい写真が収められた一冊です。

 

 

 

「アークティック・オデッセイ―遥かなる極北の記憶」

 

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1994年に出版された「アークティック・オデッセイ―遥かなる極北の記憶」は、アラスカの地での季節の移り変わりと、美しくも過酷な環境のなかで一年を生き抜いていく動物たちの様子を収めた写真集です。

 

月ごとに、現地の人から聞いたというエスキモーの小さな話も添えられており、この小話が作品の奥行きをぐっと深めます。厳しい自然のなかで逞しく生きる人間と動物の暮らしが、見る者を圧倒する一冊です。

 

なお、この写真集は星野道夫さんの生前に出版された最後の作品となります。最後であり、最高傑作と呼び声高い写真集です。

 

 

 

星野道夫の映像作品

 

星野道夫さんは生前、映像作品を制作していません。しかし彼が亡くなった後、その作品をより身近に感じてもらうためにさまざまな映像作品が作られてきました。

 

ここでは星野道夫さんと彼の作品を主題にした映像作品について紹介していきます。

 

 

 

地球交響曲第3番

 

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地球交響曲(ガイアシンフォニー)第3番は、1997年に公開されたドキュメンタリー映画です。

 

龍村仁監督のこちらのシリーズは、1992年の第1番公開時には上映してくれる映画館がなく、監督自らがチケットをさばくことを条件に公演に漕ぎ着けたという異色の作品です。

 

しかし実際に上映が始まると瞬く間に口コミで観客が増していき、1995年に公開された第2番では半年で20万人の観客を動員しました。

 

そんな地球交響曲の3作目にはもともと星野道夫さん本人が登場する予定でしたが、ヒグマ襲撃事件が起きてしまったため、「星野道夫追悼」を主題とした作品に変更されています。

 

美しい音楽とともに星野道夫さんの足跡を辿る映像が収められており、星野さんの写真がお好きな方にはぜひ鑑賞してほしい内容です。

 

 

アラスカ 星のような物語〜写真家・星野道夫 大地との対話〜

 

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「アラスカ 星のような物語〜写真家・星野道夫 大地との対話〜」は、田中哲司さん演じるサラリーマンが星野道夫さんの作品に思いを馳せる、というドラマが挟まれたドキュメンタリー映像です。

 

2006年にNHKで放送された同タイトルの番組をDVD化したもので、オダギリジョーさんが朗読を務めています。

 

 

星野道夫さんとその人生・作品についてのまとめ

 

この記事ではアラスカで自然と向き合い続けた写真家・星野道夫さんと彼の人生、写真作品や名言について紹介しました。

 

1996年に急逝してしまった星野道夫さんですが、彼の作品は現在も「日本の写真家でここまで素晴らしい作品を撮れる人はいない」と言われるほど、高く評価されています。

 

今後も星野道夫さんの作品や、彼が残した言葉は時代を越えて人を勇気づけていくのでしょう。

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