1973年7月3日に当時5歳の猪原修くんが行方不明になった「熊本県大津町男児失踪事件」が話題です。
この記事では猪原修くんが行方不明になった経緯、ネット上での熊本県大津町男児失踪事件の真相の考察、現在の状況などについてまとめてみました。
この記事の目次
猪原修くんが行方不明になった熊本県大津町男児失踪事件の概要
「熊本県大津町男児失踪事件」は、1973年7月3日に熊本県菊池郡大津町のN医院で、当時5歳の男児・猪原修くんが行方不明になった事件です。
熊本県大津町男児失踪事件の経緯
猪原修くんは大津町の隣に位置する菊陽町に住む寿司店勤務従業員・猪原さん(事件当時42歳)の長男で、その日は母親(事件当時42歳)が出産をために入院していた大津町のN医院に、父親と共に見舞いに訪れていました。
同日15時頃、猪原修くんの母親が診察を受けている最中、父親が少し目を離した間に猪原修くんは行方不明になりました。
父親は周辺を探しましたが猪原修くんは見つからず、同日20時頃に父親は熊本県警察大津署に届け出ました。
幼い男児の行方不明事件という事で、熊本県警察大津署、高遊原消防署、大津町消防団から約40人がただちに出動し、同日23時頃まで周辺一帯の捜索が行われましたが、猪原修くんは見つかりませんでした。
翌7月4日には、午前7時からN医院付近の用水路内や町内の捜索が行われましたが、やはり猪原修くんは発見できませんでした。
猪原修くんの行方不明から2年後に犯人を名乗る人物から手紙が届く
出典:https://blog-imgs-133.fc2.com/
猪原修くんが行方不明になった「熊本県大津町男児失踪事件」からみて約2年後の1975年6月16日の午前10時頃、猪原修くんの両親の自宅に1通の手紙が届きました。
手紙は、大津町内の旧国道57号線で猪原修くんを車ではねて殺害し、遺体を現場から3km離れた山中に埋めた事を告白する内容でした。
この手紙によれば、差出人は当時19歳で免許を取得したばかりで、車も購入して3日目で運転が未熟だったため、雨でスリップして事故を起こしてしまった。親に叱られるのが怖くなったため、これまで申し出ることが出来なかった旨も書かれていました。
当時の新聞記事などに掲載されていた、猪原修くんの両親に届いた手紙の全文は以下の通りです。
二年前の雨のひどい日、大津町内の東(旧国道57号線)で、 雨のために車がスリップし、お宅の坊やをはねて殺した。 当時は19歳で免許を習得したばかり。 車も買って三日目で、運転も未熟だった。 親に叱られるのが怖くなり、死体は3キロ離れた山中に埋めた。 一度手紙を出そうと思ったが、出来なかった。 ご両親に対して、ただただ頭を下げるのみ。
この手紙の警視員は熊本県阿蘇郡阿蘇町の赤水郵便局でしたが、差出人は不明で、封書の差出人名には「TYCK」とのみ記されていました。
手紙は大学ノートを1ページ切り抜いた紙の片面に書かれており、宛先、宛名、文面ともに黒のボールペンを使用し、文字は筆跡を変えたと見られるカタカナと漢字で書かれていました。
さらに、手紙の紙と封筒はともに油に浸したような形跡があり、白の二重封筒は黄色く変色しツヤを持っていました。これは、犯人が指紋を消すために細工をしたものと見られました。
警察は、この手紙の差出人が事故当時の天候が酷い雨だった事を記憶している人物である事などから、内容に一定の信用性があると見ました。
警察はこの手紙を犯人が自責の念に駆られて投函したと見て、運転免許の取得時期や当時19歳という年齢、手紙の消印などを手がかりに捜査を開始しましたが、差出人を発見する事はできませんでした。
その後、事件に進展はなく、猪原修くんは現在も行方不明のままとなっています。
熊本県大津町男児失踪事件当時の猪原修くんの服装
行方不明当時の猪原修くんの服装については、白色の半ズボン、白色の半袖シャツ、靴ははかず素足だと思われる事などが公表されています。
猪原修くんが行方不明になった熊本県大津町男児失踪事件の真相の考察
猪原修くんが行方不明になった「熊本県大津町男児失踪事件」は発生から50年近く経過していますが、その不可解な内容から真相の考察は現在も行われています。
よく考察の対象となっているのは、猪原修くんの行方不明事件から2年後に届いた差出人不明の手紙ですが、これは単に報道によって事件を知った何者かによる悪質なイタズラという見方も出ています。
手紙がイタズラとする根拠としては、手紙には「死体は3キロ離れた山中に埋めた。」と書かれているにも関わらず、その一帯の山中から猪原修くんの遺体は発見されなかった事などが挙げられています。
また、この手紙の内容が嘘だと仮定した上で、犯人は別の目的で猪原修くんを誘拐しており、捜査を撹乱するために手紙を投函したのが真相ではないかという見方もあるようです。ただ、この手紙は事件から2年後に出されていますが、その時点で猪原修くんの捜索は何の進展も見せていなかった様子で、このタイミングで捜査の撹乱工作をする理由が見当たりません。むしろこのような事をすれば、警察が本腰を入れて捜査に動く可能性を高めてしまうだけでしょう。
むしろ、警察を動かすのを目的として、真相を知る何者かがヒントを散りばめた手紙を投函した可能性の方が考えられそうです。また、この線で考えれば、警察に事件として捜査をして欲しいと願った猪原修くんの両親による自作自演という可能性も考えられなくはありません。
いずれにしてもこの熊本県大津町男児失踪事件は、この手紙以外にはほとんど情報がなく、真相を考察するのは困難なようで、説得力のある考察内容はインターネット上でも見つかりません。
猪原修くんが行方不明になった熊本県大津町男児失踪事件のの現在
猪原修くんは現在も発見されておらず、「熊本県大津町男児失踪事件」は未解決のままです。
現在も猪原修くんが存命であれば、年齢は50代半ばに差し掛かっているはずですが、状況から見て生存している可能性は限りなく低いように思えます。
この事件は発生から50年近く経過しており、警察による捜査も現在は行われていません。猪原修くんの両親も存命であったとしても既にかなりの高齢になっており、事件の解決に向けては動かれていないと思われ、今後真相が解明される可能性は皆無でしょう。
まとめ
今回は、1973年7月3日に熊本県菊池郡大津町で当時5歳の猪原修くんが行方不明になった「熊本県大津町男児失踪事件」についてまとめてみました。
猪原修くんは、大津町の隣町に住む会社員の長男で、母親の出産のために父親とともに大津町のN医院を訪れており、母親の診察のために父親が目を離している間に行方不明になりました。
当日中に警察や消防署による捜索が開始されましたが、猪原修くんは発見されませんでした。
2年後の1975年6月、猪原修くんの両親の元に差出人不明の手紙が届き、そこには車で猪原修くんを轢き殺し、遺体を山中に埋めたと告白する内容が書かれていました。警察はこの手紙を犯人が自責の念に駆られて投函した手紙であると見て捜査を開始しましたが、差出人は見つかりませんでした。
この「熊本県大津町男児失踪事件」の真相の考察も行われていますが、2年後に届いたという手紙以外に情報がほとんどなく、真相の解明は難しいようです。
現在も猪原修くんは発見されておらず、未解決事件となっています。